紗枝は言い続けた。「美しさが好かない女の子はいない。「多分前の私は卑怯で、自分が好きな物を隠しただろう」啓司はこれを聞いて、行き苦しくなった。「つまり、前の貴方は全て僕の為だったのか?」紗枝は頭を上げて彼の視線に合わせた。「私が言ったじゃ、覚えてないの。でも、はっきり教える。私は化粧が好きで、美しく明るい服も好きで、アクセサリーも好きだ」前、紗枝はグレーの服を着て、化粧もしなかった。それは、啓司を怒らせないためだった。家族が啓司を騙したから、彼女は派手な服で彼を怒らせてはだめだと思った。彼女は一度、赤いドレスを着て外で歌を口ずさみ、花に水をやるだけで彼に嘲笑されたからだった。「夏目家はよくやるね。人をだまして、ゆったりと派手な服を着て、話したり笑ったりして、安心できるのかよ」その後、家では、彼女笑わないし、派手な服を着ないで、嬉しく見せなかった。これらを知らないくせに、好きではなかったと言って!ばかげたのか。紗枝は手を握りしめ、指先が手のひらに深く沈め、血が出てまで緩めなかった。彼女を押し寄せながら、彼女の体に良い匂いを嗅ぎつけ、少し戸惑った。「どうして教えてくれなかったの?」紗枝は唖然とした。 彼は片手を出して彼女の細い腰を抱きしめた。 身を乗り出し、顎が彼女の細い肩に乗せた。「どうして、僕が嫌われたような気がする」紗枝の喉が綿の塊に塞がったようになった。私が言うべき言葉だったのに!明らかに彼は自分のことを憎んだ!彼女の声は詰まっていた。「放してくれないか?」啓司は手放さなくて、却って彼女をしっかりと抱きしめた。 「紗枝、どれくらい探したか知っている?「まあいい。君は恩知らずものだ」紗枝は少し後悔した。記憶喪失のふりをしなかったら、きっと彼を問い詰めてやると思った。誰が恩知らずか!啓司の体が何でできているのかわからなかった。今でも眠りに落ちなかった。紗枝は彼に合わせて話を続けなきゃ。「黒木社長、こんな話をして、葵が怒ったらどうする?」この時、啓司の唇が彼女の耳に落ちた。 紗枝は震え、反応できなかった。気が付いたら、唇が啓司に塞がれた。キスしながらコートを脱ぎ始めた。紗枝の体の血液は止まった。コートを投げ捨て、大きな手で紗枝の後頭部
結局、紗枝は諦めた。色々あって彼女が非常に疲れて、それで眠りに落ちた。 翌日。 日光が顔に降りた。啓司はこんなによく眠れたことがなかった。目覚めると、腕の中で丸まっている紗枝を見て、もともと冷たかった目が一瞬優しくなった。冷房が効いたので、彼女は縮こまっているのを見て、啓司は手を挙げてコートを取ろうとした。その時、紗枝は目覚めた。啓司の優しい目を見て、「啓司」と不意に口走った。 啓司は唖然とした。 紗枝は正気を取り戻し、彼の腕から転がり出て、地面に落ちた。彼女は痛くて息を呑んだ。啓司は彼女の慌てた行動を見て、彼女を引き上げた。「さっき、僕を何と呼んだ?」「何だって?」紗枝は惚けた。啓司はこれを見て彼女を追い詰めなかった。彼は立ち上がって皮肉を込めて言い出した。「紗枝さん、物忘れが激しいね」朝目覚めたときの優しい目つきと異なり、今の目は無関心で、表情はさらに冷たくなっていた。紗枝は自分が見間違ったことに気づき、がっかりした。彼女が大学に行って以来、啓司は黒木グループで働くことになり、まるで別人のように、特に冷たかった。 過去の優しさはもうなく、冷たくて、夜でいじめられた彼女を見に行かなかった…最初、彼があまりにも一生懸命働き、プレッシャーがかかりすぎると思っていたので、彼の気性はますます大きく変わると思った。でも、後になってわかったのだが、彼の気性は昔からこんな感じだったん。ただ子供の頃はよくわからなかった。 「黒木社長、夕べ奢ったし、これでまたね」紗枝が言った。 これは出て行けっと言ったのだが。啓司は気性が荒くならなかった。 「本当に僕に出てほしいの?」紗枝は黙った。啓司は冷たい顔で怒鳴った。「答えて!」なぜかわからないが、彼は今紗枝に無視されると怒ってしまった。怒っている啓司を見て、紗枝が再び話し出した。「そんな意味じゃない。ただこの時間で貴方は仕事に行くべきだと思った。私は今日会社を休むの」彼女のこじつけの説明は、啓司をさらに怒らせた。 彼が出てから車に乗り、暫く気が済まなかった。今の紗枝は別人のようで、彼を怒らせるのが怖くて、慎重に扱ってくれる女の子じゃなくなった。車の引き出しを開けて、タバコを取り出そうとしたが、中は空だった。
「うーん」紗枝はしばらく考えてから、彼女に言い出した。「葵は時先生が私だと知らなかった。それに彼女に知られたくない」 「了解」葵にお母さんと弟の居場所が分かると言われてから、紗枝はできるだけ自分の身元を隠すようにした。 そうでなければ、彼らに見つけられたら、絡み合うことになるだろう。 底なしの欲張りの母、そして自分を裏切った弟を思い出すと、紗枝は心が寒く感じ始めた。唯と葵を訴える話を詳細話してから、離れると思った。唯に止められた。 「せっかくで、そして景之も幼稚園だし、久しぶりに近くのショッピングモールに行こうよ」 紗枝が断れなかった。 二人は一緒に桃洲市最大のモールに行った。 唯はため息をついた。「啓司はクズだが、でも本当に凄いだ。このような商業パーク、全国各地にあるの」 「一年でどれくらい稼ぐのか?また不動産、インターネット…ありすぎて想像もできないほど儲かってる」これを聞いて紗枝も感服した。「ここ数年、啓司は確かに黒木家と黒木グループを新たな段階に引き上げた」「まあ、もっと人徳があればいいのに」唯に腕を抱えられ、二人がモールに入った。高級ブランド品の店に来て、スタッフがすぐ出てきた。唯が服を試着した時に、紗枝が休憩エリアに座って待っていた。店の隅に彼女を覗く人がいるのが気づかなかった。 服を着替えて出てきた唯を指差して、「このドレスを買う」と言い出した。ここの服はすべて単品だった。唯は眉をひそめて言った。「どういう意味?この服、私が先に見つけた」 女は嘲笑いながら言った。「先に見つけたってどうなる?支払ったの?」唯も負けず劣らず、スタッフに「これをくれ」と言い出した。 そう言った後、彼女は受付係にカードを出したしかし、あの女もあきらめず、カードを取り出した。 受付は困った。争いの声が紗枝に伝わってきた。彼女は出てきて、一目でその女が河野悦子だと分かった。河野家の三女で葵の友達だった。「唯、どうしたの?」紗枝が前に出て尋ねた。「この女が技と喧嘩を売りに来たの。私が先に服を見つけたが、彼女は横取りしようとした」 悦子の事を唯が知らなかった。でも、大嫌いとなった。「どうして同じドレスに気に入ったかと思った。紗枝の友達か。それは納得だ。どうせ、紗枝は
店員はカードをみて、何も言わず、すぐに警備員に連絡し、悦子を引きずりだして追い出した。その後、店長が自ら唯を対応した。 お気に入りの服を手にして、唯が事情を理解できなかった。 「TIIブランド店にVIPがいないんじゃないか?」「エストニアにいたとき、TIIのデザイナーに会ったんだ。彼は私の曲に気に入り、このカードをくれた。彼の話では、このカードがあれば、店に行くとマネージャーレベルに相当すると言われた。一度も使ってなかった」紗枝が静かに言った。唯の顔には崇拝の気持ちで満ちた。早速彼女の腕を抱えた。「すごい、時先生、これからもよろしくね」 紗枝は微笑んで彼女の頭に触れた。「馬鹿女」 「そうよ、私は時先生のバカ女になる」 道中、二人は笑ったり話したりして楽しかった。戻ったとき、紗枝は景之と逸之に服を買ってきた。景之の服は唯に渡してもらった。逸之服は国際宅配便で送った。「さっき、綺麗なドレスをたくさん見た。景之が女の子だったらいいなぁ」唯がため息をついた。 彼女は、二人の子供にひとりが女の子ならきっと可愛いだと思った。 紗枝も娘が欲しかった。 午後に帰宅した。紗枝は逸之とテレビ電話をしながら服を見せた。向こうには次男の逸之が蒼白い顔で病床に横たわりして、眉毛を曲げて甘えていた。「お母さん有難う。チュー」 「チュー」紗枝の目は優しさに満ちていた。 逸之は疲れていたが、もっと彼女と話したかった。 「お母さん、僕を愛してるの?」 「もちろん、大好きだ」 真面目な兄とは異なり、逸之は特に甘えてもらえたい性格だった。 「戻ってきたとき、チューしてね。新しい服を着て見せる。写真を撮ってもらう」「いいよ、お母さんはできるだけ早く戻るから」逸之の状態が良くないのを見て、紗枝は出雲おばさんと少し話をしてから電話を切った。その後、彼女はスマホのアルバムを開き、景之と逸之の今迄の写真を見た。しばらく悲しい気持ちになった。この世で、最も気の毒に思ったのは逸之の事だった…病気で薬を沢山飲んで、逸之が生まれてから保育器に入れられることなかっただろう。その後、彼は家にいる時間よりも病院で過ごす時間の方が長かった。 でも、彼は非常に楽観的で、それが治療のためであろうと、薬や注射の服
「葵、これからどうする?啓司君にいつ結婚すると言われたの」悦子は歯を食いしばって、「本当にうまくいかなかったら、紗枝をネットにヒットにして、彼女を社会的に死なせたらどうだ」と言った。 葵は立ち上がり、隣の生け花を修正しようとした。 「やめて」彼女は一息ついて、「それは啓司君に影響を与える」と説明した。 悦子はあきらめた。 彼女を送り出した後、葵はハサミでバラの花を切り落とした。 それが過去であろうと現在であろうと、啓司は彼女と結婚することについて一度も言わなかった。 時には、愛は目に見えるものだと認めざるを得なかった。 啓司は自分のこと本当に好きになったことはないようだ。 自信満々で啓司を取り戻すと言って帰国してから、今まで啓司の彼女を名乗っただけで、彼女はただのアホだ。 ここまで考えると、彼女はテーブルにある花瓶を突き飛ばした。 花瓶は地面に砕け散り、中の花も地面に落ちた。 葵の手が花瓶のガラスで切られ、血が流れてきた。 彼女は滲み出る血を見て、突然何かを思い出した。地面に落ちた破片を拾い上げて手首に切りつけた。 その後、彼女は写真とメッセージを啓司に送った。 「啓司君、痛いよ。会いたい。会いに来てくれないか?」 30分後。啓司は天野マンション着いた。葵が薄い服を着て地面に座り、手首の血が地面に落ちて、梅の花のように広がっていた。 彼は眉をひそめた。「どうして自害したの?」啓司を見て、葵はよろめきながら立ち上がり、彼の腕に身を投げ込んだ。 「啓司君、私の体をもらって、お願い、結婚しなくてもいい。お願い!」 啓司の目は嫌悪感に満ちていて、彼女を引き離した。 「君に話したことを忘れたの?」 葵がこのように断られて、頬が熱くなっても諦めなかった。「忘れてないよ。おばさんを助けたことで、私が欲しい物なんでも満足してくれる!」 「啓司君、昔、デートした時、仲は良かったじゃ。二人は似合うと皆に言われたが。「どうして、今は私と関係を続けたくないの?「それは本当に紗枝のせいなの。彼女の事が嫌いと言ったじゃないか?」 紗枝の話に触れると、啓司のラインに触れたようだった。 彼は気が重くなってきた。 葵は自分のお母さんに輸血して命を助けただけだが、今は、彼女が益々多く求め
「スターの道を選び、周りからどのぐらい噂されるかを覚悟するべきだ」啓司の声は冷たかった。葵が聞いて、体が冷え込んだ。啓司はただの石だった。感情などがないと思った。「啓司君、残して付き合って、お願い」啓司が正直に彼女の嘘を破った。「お母さんが君に子供を作ってほしい。期待しないでね」葵は吃驚した。啓司は続けて言った。「己の本分を守るのは何よりだ」 そう言って、彼はその場を立ち去った。 彼の背中を見て、どうしてこんな人だったか彼女は分からなかった。彼の父親は浮気だったのに、彼は女に目もくれなかった。 綾子は孫を望んでいた。 しかし、自分は妊娠する機会を得られなかった。啓司が天野マンションを出て牧野に電話した。「状況はどう?」 「すでに人員を手配済み。非常識な手も取り、社長が行かなくても、子供を連れ戻せるかもしれない」 「かもしれないって?」啓司は怒った。牧野は慎重に答えた。「辰夫が警備を増強したみたい。最近、地元病院の近くに、人がいつもより多くなった。「これらの人を対応するのに、多少の時間が必要。この間、彼に気づかれないとは言えないと思う」 これを聞いて、啓司はしばらく考えた。「すぐにエストニアへの自家用飛行機を手配して、僕は迎えに行く」 「分かった」 電話を切って、啓司は空港に向かった。 葵の自害事件がなかったら、彼は今頃飛行機に座っていたはずだった。 子供を連れ戻せば、紗枝は離れる理由がなくなり、お母さんが孫を作らせることを催促しなかっただろう。 深夜。 エストニア。VIP病棟の外、4人のボディーガードが立っていた。彼らは、逸之の病室に近づく見知らぬ人を防ぐために、巡回していた。突然、病院全体の照明が消えた。 彼らが反応する前に、訓練されたボディーガードに口を覆われ、打ち倒れて引きずられた。一連の動きは1分もかからなかった。病院の監視システムもも破壊され、明かりが再び点いたとき、啓司がすでにベッドで寝ていた少年を抱えてもらって病院を出た。黒い高級車の中。 啓司は、ベッドに横たわって、よく眠れず、時々眉をひそめた子供を見つめた。彼は手を伸ばして、子供の額に当てた。この時、逸之はゆっくりと目を開けた。彼の黒曜石のような目が啓司のとまっ
逸之は小さな口を動いて啓司を刺激し続けた。「おじさん、お金のために私を誘拐したのですか?教えますよ、パパは一番多く持ってるのがお金です。「僕はパパの宝です。僕を捕まったのは一番正しかったです」啓司「…」「お父さんはそんなに裕福で権力があるのに、どうして君を守れなくて、僕に掴まれちゃったの?」逸之は黙った。クズ親父に上手くディスられるのは予想外だった。このクズ親父は取り柄がないとは言えなかった。彼は答えなかった。突然腹を抱いて、眉をひそめた。 啓司は彼のおかしいことに気づいた。「どうした?」 「お腹が痛いです」逸之の声は弱かった。 幸いなことに、啓司はお医者さんを連れていた。 直接医者に車に来て逸之を見てもらった。しかし、何の問題も見つけなかった。 「黒木社長、若旦那様のお腹を検査しましたが、何の問題もなかったようです」逸之はお腹を抱え込みながらベッドで転んだりし始めた。「痛いですよ、死にますよ…ウウ…」 お医者さん。「…」 顔が真っ白な逸之を見て、仮病とは見えなかった。「車内に医療機器がないから、検査できないのか?」 「その可能性もあります」お医者さんは慎重に答えた。 啓司の目は冷たかった。「最初に問題ないと言ったじゃないか?聞くとどうして問題の可能性があると言ったの?」 お医者さんは怖くて答えなくなった。車にエアコンがあり温度が低いだが、お医者さんは汗をかいていた。 逸之はお医者さんを助けて見た。「おじさん、お医者さんを責めないでください。僕はお腹がよく痛むのです。「パパは毎回僕のお腹に熱い顔で当ててくれると、すぐ痛みがやみます。「おじさん、顔を僕のお腹に当ててくれないですか?」啓司は答えなかった。これはどんな治療法なのか?お腹に熱い顔? 彼の目は嫌悪感に満ちていた。 逸之は涙を汲んで言った。「叔父さん、僕を痛みで死なせないでしょう?」啓司はお医者さんを見て言った。「お湯を取ってくれ」「わかりました」 お医者さんは急いでお湯をボトルに入れて持ってきて、逸之のお腹に当てようとした。逸之に断られた。「パパはいつも顔を使っていました。あれはなんですか?持っていけ、いらないです。「うわー、死んでしまうですよ。パパ、早く来てください
その時、啓司は逸之の隣に横たわっていた。 眠っていたように見えた。逸之は飛行機を降りたら辰夫おじさんに連絡すると思って、時計電話を取り出そうとした。でも、手首に触れたとき、何もなかった。 服を見ると、すでに着替えられた。 もともと、逸之の時計にGPSがついてた。今は全てがなくなった。 逸之がため息をついた。 隣の啓司が目を開けた。「まだ痛いか?」逸之は彼が軽い声で起こしてしまうのを思わなかった。「もう痛くないですよ、ありがとうおじさん」おじさん、おじさん!啓司は少し不愉快だった。 目前の子供を長く見つめた。「名前は?」逸之の考えもせずに答えた。「池田逸之」池田逸之…池田か…啓司の顔はさらに暗くなった。 クズ親父が自分を誘拐したのは、きっと自分とママについて調べたのだ。でも、確定できるのは、クズ親父はすべての情報を把握できなかった。そうでなければ、どうやって自分の名前を知らなかったのか。辰夫おじさんは、彼と兄そしてお母さんの身元情報を深く隠してきた。 無言の彼を見て、逸之は単純に聞いた。「叔父さん、僕の名前は響きがいいじゃないですか?パパがつけてくれたのです」 「池田って、水もあり、田圃あるので、いい姓じゃないですか?」 いいのか?啓司が分かった。このガキは体の具合がよくなると、すぐ自分を怒らせ始めた。 彼は立ち上がった。「なぜお腹が痛いのか知ってる?」逸之は疑問に思った。自分の病気を知ったのか?「君はおしゃべりだ。しゃべりすぎる子どもはお腹が痛くなるのだ」 啓司は一言言ってラウンジを出た。 外に出た後。 牧野が近づいて来た。「社長、起きたのですか?」 「うーん」啓司は座った。牧野は朝食を持ってきてもらった。啓司は箸を付けなかった。牧野に尋ねた。「調べた?彼は何歳だ?」 「3歳9ヶ月」 3歳9ヶ月…啓司の表情は暗くなった。もし自分の子供なら、少なくとも4歳過ぎていた。どうして4歳未満だったのか? 当時紗枝と初めて関係あった8月からすると、今では、子供は少なくとも4歳1、2ヶ月ぐらいだった。中を振り返ると、再び眠り込んだ逸之は確かに4歳未満に見えた。「戻ったら、彼に住む場所を手配して」 一言を残してここを出た。
綾子は夢美の母の前に立ちはだかった。「先日、私が外出している間に、逸ちゃんに明一への土下座を要求したそうですね?」夢美の母は綾子の威圧的な雰囲気に、思わず一歩後ずさりした。「ふん」綾子は冷ややかに笑った。「親戚だからと多少の面子は立ててきたつもり。それを良いことに、私の頭上で踊るおつもり?私の孫に土下座?あなたたち程度の身分で?」「仮に逸ちゃんが明一に何かしたとしても、それがどうだというの?」木村家の面々は、夢美も昂司も、一言も返せなかった。逸之は元々綾子が好きではなかったが、今の様子を見て驚きを隠せない。この祖母は、本当に自分のために声を上げてくれているのだ。綾子は更に続けた。「最近の経営不振で、拓司に融資や仕入れの支援を求めに来たのでしょう?」木村夫婦の目が泳いだ。「はっきり申し上げましょう。それは無理です」「この会社は私の二人の息子が一から築き上げたもの。なぜあなたたちの尻拭いをしなければならないの?息子か婿に頼りなさい」結局、木村夫婦は夕食も取らずに、綾子の痛烈な言葉に追い返される形となった。黒木おお爺さんは綾子に、あまり激しい物言いは控えるようにと軽く諭しただけで、それ以上は何も言わなかった。昂司と夢美も息子を連れて、しょんぼりと屋敷を後にした。夕食の席で、綾子は逸之の好物を次々と運ばせた。「逸之、これからお腹が空いたら、いつでも来なさい。おばあちゃんが手作りで作ってあげるわ」逸之の態度は少し和らいだものの、ほんの僅かだった。「いいです。ママが作ってくれますから」その言葉に、綾子の目に落胆の色が浮かんだ。紗枝も息子が綾子に対して、どことなく反感を持っているのを感じ取っていた。夕食後、綾子は紗枝を呼び止めて二人きりになった。「あなた、子供たちに私と親しくするなと言ってるんじゃないの?」「私は子供たちの祖母よ。それでいいと思ってるの?」紗枝は心当たりがなかった。これまで子供たちに祖母の話題を出したことすらない。「そんなことしていません。信じられないなら、啓司さんに聞いてください」「啓司は今やあなたなしでは生きていけないのよ。きっとあなたの味方をするわ」紗枝は言葉を失ったが、冷静に答えた。「綾子さんが逸ちゃんと景ちゃんを本当に可愛がってくれているのは分かります。ご
黒木おお爺さんは彼らの突然の来訪に少し驚いたものの、軽く頷いて啓司に尋ねた。「啓司、どうして景ちゃんを連れてこなかったんだ?」もう一人の曾孫にも会いたかったのだ。側近たちの報告によると、景之は並外れて賢く、前回の危機的状況でも冷静さを保ち続けた。まるで啓司そのものだという。「景ちゃんは今、澤村家にいる。数日中には戻る」啓司は淡々と答えた。「まだあそこにいるのか。あの澤村の爺め、自分に曾孫がいないからって、私の曾孫にべったりとは」黒木おお爺さんはそう言いながらも、目に明らかな誇らしさを滲ませていた。その時、遠く離れた別の区に住む澤村お爺さんがくしゃみをした。黒木おお爺さんは啓司たちに向かって言った。「座りなさい。これから一緒に食事だ」「はい」一家は応接間に腰を下ろした。この状況では、木村夫婦も金の無心も支援の要請もできなくなった。夢美は焦りを隠せず、昂司の袖を引っ張った。昂司は渋々話を続けた。「お爺様、夢美の両親のことですが……」黒木おお爺さんはようやく思い出したという顔をした。「拓司が来たら、彼に相談しなさい。私はもう年だから、経営には口出ししない」確かに明一を溺愛してはいた。幼い頃から側で育った曾孫だからだ。だが黒木おお爺さんは愚かではない。木村家は所詮よそ者だ。軽々しく援助を約束して、万が一黒木グループに悪影響が出たら取り返しがつかない。木村夫婦の顔が更に強ばる中、逸之が突然口を開いた。「ひいおじいちゃん、お金借りに来たの?」黒木おお爺さんが答える前に、逸之は大きな瞳を木村夫婦に向け、過去の確執など忘れたかのような無邪気な表情で言った。「おじいさん、おばあさん、僕の貯金箱にまだ数千円あるよ。必要だったら、貸してあげるけど」木村夫婦の顔が一瞬にして真っ赤に染まった。たかが数千円など、彼らの求めているものではなかった。夢美の母は意地の悪い口調で言い放った。「うちの明一の玩具一つの方が、その貯金箱より高価よ」啓司が静かに口を開いた。「ということは、お金を借りに来たわけではないと」夢美の母は言葉を詰まらせた。紗枝は、なぜ啓司が自分たちをここへ連れてきたのか、やっと理解した。啓司から連絡を受けていた綾子は、孫が来ると知って早めに屋敷を訪れていた。夢美の母が孫を皮
本家での夕食と聞いて、紗枝は首を傾げた。「急なのね」「食事ついでに、面白い芝居でも見られそうだ」啓司はそれ以上の説明はしなかった。紗枝もそれ以上は詮索せず、逸之の服を着替えさせると、三人で車に乗り込み黒木本家へと向かった。本家の黒木おお爺さんの居間では、おお爺さんが上座に座り、ただならぬ不機嫌な表情を浮かべていた。曾孫の明一が傍にいなければ、とっくに昂司を殴っていただろう。広間には、昂司の義父母が両脇に座り、昂司夫婦が立ったまま叱責を受けている。「お爺様、あのIMという会社が私の足を引っ張ってきたんです。あれさえなければ、とっくに桃洲市の市場の大半を掌握できていたはずです」昂司は相変わらず大言壮語を並べ立てる。黒木おお爺さんは抜け目のない人物だ。数百億円の損失と負債を知るや否や、すぐに調査を命じた。新しい共同購入事業だと?革新的なビジネスモデルと謳っているが、保証も何もない。ただ金を注ぎ込むだけの愚策だった。「啓司が黒木グループを率いていた時も、桃洲市の企業は総出で足を引っ張ろうとした。それでも破産申請なんてしなかっただろう。結局、お前に器量がないということだ」黒木おお爺さんは昂司に容赦ない言葉を浴びせた。昂司は顔を歪めた。啓司がどれほど優秀だったところで、今は目が見えない身だ。盲目の人間に何ができる?誰が目の見えない者に企業グループの運営を任せるというのか?「お爺様、損失を出したのは私だけじゃありません。拓司だって、グループを継いでからは表向き順調に見えても、IMに押され気味なはずです」昂司は道連れを作るつもりで言い放った。十年以上も経営から退いている黒木おお爺さんは、この言葉に眉を寄せた。「拓司は就任してまだ半年も経っていない。これまでの社員たちを纏められているだけでも十分だ。お前とは立場が違う。何年も現場で揉まれてきたんだろう?」昂司は再び言い返す言葉を失った。「今後はグループ内の一部長として働け。分社化などという無駄な真似は二度とするな。恥さらしだ」黒木おお爺さんの言葉は厳しかった。部長とは名ばかりの平社員同然。昂司夫婦がこれで納得するはずもない。夢美は明一に目配せした。明一は黒木おお爺さんの手を握りながら、「ひいおじいちゃん、怒らないで。明一が大きくなったら、き
牧野は、エイリーの人気がさらに上昇している状況を説明した。「最近の女は目が腐ってるのか」啓司は舌打ちした。彼にとって、芸能人なんて所詮は色気を売る連中と何ら変わりがなかった。牧野は思わず苦笑した。実は自分の婚約者もエイリーの大ファンだった。「ハーフだし、イケメンだし、歌も上手いし、性格も良くて、優しくて、可愛らしいの!」と目を輝かせて話す婚約者の言葉を思い出す。先日、思い切って婚約者に「もし僕とエイリーが溺れていたら、どっちを助ける?」なんて質問を投げかけてみたのだった。「社長、こういう人気者も、すぐに廃れますよ」牧野は慎重に言葉を選んだ。「もしお気に召さないなら、スキャンダルでも仕掛けましょうか」今となっては牧野自身も、このイケメン歌手が目障りになっていた。だが啓司は首を振った。紗枝にばれでもしたら、また謝罪させられる羽目になる。得策ではない。「焦るな。じっくりやれ」「はい」「それと、昂司さんが破産申請を出したそうです。今頃は、きっとお爺様に頭を下げているのではないでしょうか」啓司は牧野の報告を聞いても、表情一つ変えなかった。今回ばかりは、黒木おお爺さんどころか父親が戻って来ても、昂司を救うことはできまい。土下座して謝罪するのが嫌だったんじゃないのか?「木村氏の方は?」啓司の声が車内に響いた。「同じく財政難のようです」牧野は慎重に答えた。「内通者によると、今夜、木村家の者たちが本家に行き、援助を求めるそうです」啓司の唇が僅かに曲がった。「面白い芝居だ。見逃すわけにはいかないな」啓司は決意を固めた。夜には逸之が帰ってくる。逸之と紗枝を連れて実家に戻り、あの二人が受けた仕打ちを、きっちり返してやるつもりだった。......幼稚園に通い始めてから、逸之は心身ともに生き生きとしていた。今日も帰宅時は元気いっぱいだった。「ママ、見て見て!お友達の女の子たちがくれたの!」小さなリュックを開けると、普段は空っぽだったはずの中が、プレゼントでいっぱいになっていた。可愛いヘアピンやヘアゴム、チョコレートに棒付きキャンディーなど、次々と出てくる。紗枝は逸之と一緒にプレゼントの整理をしながら、息子がこんなにもクラスメートに人気者だったことに驚きを隠せなかった。逸之の生き生きとした
エイリーに電話をかけようとした紗枝のスマートフォンが、相手からの着信を告げた。「紗枝ちゃん!新曲聴いてくれた?」興奮した声が響く。紗枝は彼の高揚した気分を壊すまいと、CMの話は避けた。「まだよ。新曲が出たの?」「うん!今すぐ聴いてみて!どう?」エイリーは友達にお気に入りのお菓子を分けたがる子供のように、期待に満ちた声を弾ませていた。「うん、分かった」紗枝は電話を切り、音楽を聴いてみることにした。音楽アプリを開くと、検索するまでもなく、エイリーの新曲が目に飛び込んできた。ランキング第二位、しかもトップとの差を急速に縮めている。再生ボタンを押すと、透明感のある歌声が響き始めた。チャリティーソングとは思えないほど、感情が込められている。心に染み入るような優しさに満ちていた。MVも公開されているようだ。アフリカで撮影された映像が次々と流れる。家族の絆を描いた一つ一つのシーンが、心を揺さぶった。曲とMVを最後まで見終えた紗枝は、あのCMのことを気にする必要などないと悟った。そしてネット上では、貧困地域支援のためにイメージを気にせずCMに出演したエイリーの話題が、トレンド一位に躍り出ていた。ファンたちのコメントが次々と流れる。「やっぱり推しは間違ってなかった!小さな犠牲を払って大きな善行を成す、素敵すぎ♥」「歌も素晴らしいけど、人としても最高」「顔も歌も天使」「いやいや、イケメンでしょ!(笑)」ファンは減るどころか、むしろ増えていた。あの一風変わったCMを見て、貧困児童支援のために自分を投げ出す彼の姿に、共感が集まったのかもしれない。この慈善ソングも、親子の情を切々と歌い上げ、その旋律は涙を誘う。わが子を救うために命を捧げる母の愛を描いた歌詞が、心に響く。紗枝は再びエイリーに電話をかけた。「おめでとう。スーパースターまでもう一歩ね」「紗枝ちゃんの曲のおかげだよ。これほど話題になれるなんて」エイリーの声は弾んでいた。「アフリカから帰ったら、ディナーでも行かない?」「ええ、いいわよ」紗枝は快諾した。ネット上では楽曲の素晴らしさを称える声が溢れ、自然と「時先生」の名前も再び注目を集めていた。「あのバレエダンサーの鈴木昭子に楽曲を提供したのも時先生だよね?」「今更?時先生の曲
朝、スマホの画面に映る夢美のメッセージを見て、紗枝は舌打ちをせずにはいられなかった。よくもまあ、あんなに堂々と責任転嫁できるものだ。でも、間違ったことは言っていない。大人なのだから、誰かの後ろについて安易に儲けようなんて、そう甘くはないはずだ。グループは一瞬の静寂に包まれた後、誰も夢美に反論する者はいなかった。子どもたちは明一と同じクラス。桃洲市に住む以上、夢美を敵に回すわけにはいかない。でも、この損失を諦めきれるはずもない。この不甘の思いを、どこにぶつければいい?そして彼女たちは、ようやく紗枝のことを思い出した。謝罪と懇願のメッセージが、次々と紗枝のスマホに届き始めた。来年の会長選では必ず紗枝に投票すると。紗枝は次々と届く謝罪の言葉を無言で眺めていた。「景之くんのお母さん」幸平ママからもメッセージが届いた。「グループの様子、ご覧になりました?裏切った人たち、さぞかし後悔していることでしょう」紗枝は幸平ママの誠実さを信頼していた。どれだけの人が自分に助けを求めているのか、スクリーンショットを送ってみせた。「すごーい!」幸平ママは驚きの顔文字スタンプを返してきた。紗枝はスマートフォンを横に置いた。ママたちへの返信は、今はするつもりはなかった。階下に降りると、啓司がソファに座り、普段は決してつけない テレビを見ていた。画面にはCMが流れている。紗枝は目を凝らした。そこに映るのは、紛れもなくエイリーだった。アフリカの大地に立つエイリーの周りには、現地の美しい女性たちが並ぶ。なのに彼は妙に疲れた様子で、ナレーションが流れる。「元気がない……そんな時は……」紗枝は愕然とした。まさか、男性用の精力剤のCMだったとは……スター俳優にとってイメージがどれほど大切か、芸能界と無縁な紗枝でさえ分かっていた。若手のトップアイドルが、こんなCMに出演すれば、女性ファンは離れ、世間の笑い者になるに違いない。「どうしてこんなCMを……」紗枝は思わず呟いた。「所詮、役者だ」啓司は薄い唇を開いた。「金のためなら何でもする」そう言って、リモコンでチャンネルを変えた。このCMを何度も見返していたことを、紗枝に気付かれないように。「エイリーさんは違うわよ」紗枝は反論した。「稼いだお金のほとんどを慈善事業に使ってて、自
明一は相手の皮肉な態度に気付き、カッとなって手を上げかけた。だが景之の鋭い視線に遭うと、たちまち手を下ろし、悔しそうに立ち去った。殴っても勝てない、言い負かすこともできない。明一は深い挫折感を味わっていた。以前はそれなりに仲が良かったのに、こんなぎくしくしした関係になってしまって、少し後悔の念が湧いてきた。放課後、帰宅した明一はソファにぐったりと身を投げ出した。「どうしたの?」夢美は心配そうに息子を見つめた。「ママ……景之くんに謝りたいな」明一は逸之のことは嫌いだったが、その兄の景之は別だった。「何ですって!?」夢美の声が鋭く響いた。「なぜあんな私生児に謝る必要があるの!?あなたは私の息子でしょう!」明一は母の怒りに気圧され、謝罪の話題を即座に引っ込めた。「明一」夢美は諭すように続けた。「あの私生児たちと、友達になんてなれないのよ」「同じ黒木家の世代なのに、お父さんは啓司さんや拓司さんに頭が上がらないでしょう?大きくなった時、あなたまで同じように下に見られるの?」「いやだよ!」明一は強く首を振った。「僕が黒木グループのトップになるんだ!」「そうよ」夢美は満足げに微笑んだ。「私の息子なんだから、お父さんみたいに人の下で働くような真似はしちゃダメ」「うん!」明一は何度も頷いた。「頑張る!」「じゃあ、夕食が済んだら勉強よ」夢美は明一の成績を景之以上にしようと、家庭教師まで雇っていた。夜の十時まで勉強させるのが日課だった。どんな面でも、我が子を人より劣らせたくなかった。明一が食事に向かう頃、昂司が青ざめた顔で帰宅してきた。「あなた、今日は早いのね?」夢美は不審そうに尋ねた。昂司はソファに崩れ落ちるように座り、頭を抱えて呟いた。「夢美……終わった……」「何が終わったの?」「全部……投資した金が……全部パーになった」昂司は一語一語、重たく言葉を紡いだ。「えっ!」夢美の頭の中で轟音が鳴り響いた。「追加資金を入れれば大丈夫だって言ったじゃない!」「商売なんて、損なしなんてありえないだろう!」昂司は苛立たしげに言った。「IMが先回りして俺の取引先を買収するなんて……もう在庫の供給も止められ、借金の返済を迫られている」深いため息をつきながら、昂司は続けた。「新会社を破産させるしかない。そ
夢美の言葉に、ママたちは安堵の表情を浮かべ、紗枝の警告など耳を貸す様子もなかった。投票結果は予想通り、夢美の圧勝に終わった。だが意外なことに、紗枝にも全体の四分の一ほどの票が集まっていた。紗枝が不思議に思っていると、ママたちの中に、上品な装いの女性が目に留まった。その女性は紗枝に優しく微笑みかけていた。会議が終わると、その女性は紗枝の元へ歩み寄ってきた。「景之くんのお母さん、ありがとうございました」「お礼を?」紗枝は首を傾げた。「成彦くんの母親のことは覚えていらっしゃいますか?」成彦の名前を聞いた途端、紗枝の記憶が先日の出来事へと遡った。景之が暴力事件を起こし、呼び出しを受けた時のことだ。成彦はその時の被害者の一人で、その母親は抜群のスタイルで注目を集めていたものの、既婚者の家庭を破壊した女性だった。そんな事情を知ったのは、多田さんが提供してくれた情報のおかげだった。新聞でも報じられていたが、この女性モデルは横暴極まりなく、SNSで正妻を執拗に中傷し続け、ついには正妻を精神的に追い詰めて入院させたという。「ええ、覚えています」紗枝が答えると、「私が、その元妻です」女性は落ち着いた様子で告げた。紗枝は思わず息を呑んだ。目の前の女性は、成彦の母より体型は控えめだったが、その表情と品格は比べものにならなかった。「私は本村錦子と申します」紗枝が彼女を知らなかったのは、夢美の主催するパーティーに一度も姿を見せなかったからだ。多田さんからも特に情報は得ていなかった。「ご恩に感謝します」錦子は静かに告げた。「あなたのおかげで、やっと平穏な日々を取り戻し、こうして皆の前に姿を見せることもできました」「今は成彦の母として、投票に参加させていただいています」「そうだったんですね」紗枝は微笑んで返した。「こちらこそ感謝です。あまり惨めな負け方にならずに済みました」紗枝は数票程度を覚悟していたので、四分の一もの得票は予想以上の結果だった。「感謝なんて」錦子は首を振った。「私も夢美さんは好きになれません。あの方の自己中心的な振る舞いは、多くの子どもたちにとって不公平ですから」「皆、心の中では紗枝さんに会長になってほしいと願っているはずです」二人は校門まで様々な話に花を咲かせ、そこで別れを告げた
紗枝は壇上に立ち、ママたちの無礼な態度にも一切動じる様子を見せなかった。「皆様、景之の母の紗枝です。先ほど園長先生からご紹介いただきましたので、改めての自己紹介は省かせていただきます」客席のママたちは相変わらず、紗枝の言葉など耳に入れないかのように、好き勝手な態度を続けていた。幸平ママは不安げな眼差しで紗枝を見つめていた。あんなに止めようとしたのに——今となっては後悔の念しかなかった。このまま壇上で嘲笑の的になってしまうに違いない。しかし紗枝は相変わらず冷静そのもの。もはや遠回りな言い方はやめ、USBメモリを取り出した。「園長先生、スクリーンに映していただけますか?」園長は即座に協力し、プロジェクターの準備を始めた。ママたちの視線が半ば興味本位でスクリーンに集まる。「まあ、プレゼンまで用意してるのね。気合い入ってるじゃない」「どんなに立派な資料作っても、会長になれるわけないのに」「あんなにお金持ちなら、さっさと転校させれば?」周囲からの嘲笑に、夢美の唇が勝ち誇ったように持ち上がった。なんて馬鹿なことを——普通の学校なら、確かに会長には様々なスキルが求められる。でも、ここは違う。夢美が会長になれたのは、仕事の能力なんて関係なく、ただその権力を享受するためだけだった。皆が紗枝の失態を期待して見守る中、スクリーンに映し出されたのは、予想外の財務諸表だった。「これは……?」法人印の隣に記された署名に、誰かが気付いた。「これって……黒木昂司さんの会社の決算報告書では?」低い声が会場に響いた。夢美の顔から血の気が引いていった。紗枝は落ち着き払って画面を拡大し、赤字で強調された損失の数字を、誰の目にも分かるように示していった。昂司の会社の経営状態の悪さが、一目瞭然だった。「紗枝さん!それは何!」夢美が我に返ったように叫び、震える指を紗枝に向けた。紗枝は夢美の声など耳に入れないかのように、淡々と説明を続けた。「この財務諸表をお見せしたのは、投資には細心の注意が必要だということをお伝えするためです。もし資金面でお困りの方がいらっしゃいましたら、私にご相談ください」夢美の投資話に乗ったママたちの顔から、血の気が引いていくのが見て取れた。甘い言葉で誘われた「確実に儲かる」という話は、結