人の精力には限りがある。今の紗枝には、鈴に構ってやるだけの余裕はなかった。階下へ降りると、紗枝は逸之とともに朝食をとった。食事を終え、息子を車に乗せて学校へ送り出すと、彼女も仕事へ向かおうと玄関へ向かった。だが、その行く手を鈴が塞いだ。「お義姉さん、あの......啓司さん、承知してくれたんですか?」「承知って......何を?」紗枝はきょとんとして首をかしげた。「黒木グループで働く件ですよ。おばさんが、数日後に啓司さんと一緒に本社に行くようにって......そう言ってましたよね?」鈴は一瞬言葉を切り、目を伏せながら恥ずかしそうに続けた。「それに、お義姉さんと一緒に啓司さんの秘書をやらせてもらえるって、約束してくれたじゃないですか」そこでようやく、紗枝はその話を思い出した。「それはおばさんに確認して。私、啓司さんとは最近連絡を取っていないし、彼がどう思ってるのかもわからないから」鈴は心の中で舌打ちした。せっかく手に入れた黒木グループでの就職のチャンスを、こんなのんびり構えているなんて――本当に役立たず。一生主婦でもやってればいいのよ、と毒づいた。「他に用がないなら、私は作曲に戻るわ」「......はい」紗枝が部屋に戻るのを見届けるや否や、鈴は綾子に電話をかけた。啓司が黒木グループで働く件について、承知してくれたのかを確認するためだ。「啓司は今、体調を崩しているの。黒木グループで働くのは構わないけれど、もう少し時間が必要よ」綾子はそう答えた。本当のところ、彼女は昨日啓司に直接その話を持ちかけたが、きっぱりと断られていた。もう少し時間を置いて、再び説得を試みようと考えていたのだ。「......わかりました」鈴は渋々頷いた。「どうしてそんなことを聞くの?」綾子がいぶかしむように尋ねた。「あっ、お義姉さんに聞かれたんです。家で暇を持て余してるみたいで、早く会社へ行きたいのかもしれません」綾子は少し考え込んでから、こう言った。「じゃあ、彼女には今日から会社へ来るように伝えて」黒木グループのような大所帯を、啓司ひとりで支えていくのは無理がある。拓司も同じことを言っていた。他の黒木家の若者たちも執行官の座を狙っており、安穏とはしていられない。それに紗枝は自分の嫁であり、黒木家に二人の曾
「お母さん、どうしたんですか?」昭子は、胸の内に疑念を抱きながら、そっと問いかけた。「昭子、私が嘘をつくなと言ったこと、忘れたとは言わせないよ」青葉は静かに、けれども鋭い眼差しで彼女を見つめながら、落ち着いた口調でそう尋ねた。言わねばならない。これらの資料が現れるまでは、青葉はまだ昭子を信じようとしていた。だが今、子ども教育の失敗を突きつけられたかのような気持ちを拭えずにいた。母の厳しい眼差しに気圧され、昭子は慌てて目の前の資料に手を伸ばし、ページをめくりはじめた。そして読み終えたときには、膝から崩れ落ちそうになっていた。「お母さん、これらは全部......」「嘘」という言葉が口をついて出る前に、その声は青葉に遮られた。「本当のことを言いなさい。もう私を騙さないで。あなたは誰よりも、私の手段を知っているはず。これらのこと、少し調べればすぐに分かるのだから」青葉の声は冷え冷えとしていた。昭子は、飲み込んだ嘘を喉の奥にしまいこむようにして、「ドン」と音を立ててひざまずいた。「お母さん、ごめんなさい。私が悪かったです......」あまりにもあっさりと罪を認めるその様子に、青葉はかえって落胆の色を隠せなかった。「あなたは、美希が実の母親だと、前から知っていたの?」昭子は首を振り、慌てて否定した。「いえ、私も今年になってから知ったんです。ただ、お母さんが美希さんのことを嫌っていると知っていたから、真実を伝えたら怒られるんじゃないかと......それが怖くて、隠していました」また、嘘だった。本当はまだほんの幼い頃から、美希が自分の実母だということは知っていた。美希は何度も密かに会いに来ており、彼女が少し言葉を理解できるようになった頃には、すでに真実を告げていたのだった。青葉が美希を強く嫌っていることは、昭子も知っていた。そして今、自分がその嫌われた女の娘であり、しかも彼女と共謀して真実を隠していたと知った青葉が、快く思うはずもなかった。沈黙を貫く青葉の姿を見て、昭子の胸に不安がよぎった。「お母さん、ごめんなさい。怒らないでください......本当に、お母さんが怒るのが怖くて言えなかったんです。あの時に言ったことは、全部本心なんです。私にとって、お母さんはあなただけです。誰よりも大事な、たったひと
紗枝は少し離れた場所に立ち、美希の言葉に静かに耳を傾けていた。だがその心には一片の同情もなく、まさにその場を後にしようとしていた。そのとき、介護士が彼女を呼び止めた。「紗枝さん、今日は本当にありがとうございました」介護士は思った。もし紗枝が来ていなければ、自分が無理やり巻き込まれていたに違いない、と。礼を述べた後、介護士は美希の袖をそっと引き、この冷たい女性に紗枝へ何か一言でも優しい言葉をかけさせようとした。しかし、美希はただ紗枝を見上げ、冷ややかに問いかけた。「私のこと、笑いに来たんでしょう?もう満足した?」「ええ、でもまだ足りないわ」紗枝の目は驚くほど静かで、まるで水面一つ乱さぬ湖のようだった。美希は立ち上がろうとし、紗枝を殴りつけようともがいたが、二歩も進まぬうちに力尽きて倒れ込んだ。幸い、そばにいた介護士が支えて事なきを得た。そのまま美希は再び病院へと運ばれ、医師たちは懸命の処置で彼女を死の淵から引き戻した。治療の後、医師は深いため息をつきながら言った。「がん細胞の拡散があまりにも早すぎます。ご家族の方は、覚悟をしておいてください」廊下に立っていた紗枝はその言葉を耳にし、思わず一歩後ずさった。彼女の目には、複雑な感情が渦巻いていた。「......あと、どれくらい生きられるの?」医師は、紗枝が母親を心配して尋ねたのだと思った。まさか彼女が、美希があとどれほど苦しめるのかを計算しているとは、露ほども気づかなかった。「せいぜい三ヶ月でしょう」三ヶ月......短すぎる。美希がしてきたことに比べれば、あまりにも。医師が立ち去った後、美希は病室へと運ばれ、意識が戻らぬまま深い昏睡に沈んだ。その長い眠りの中で、美希は夢を見た。そこには紗枝の父親が現れ、彼女の犯した過ちを責め、もう二度と会いたくないと告げ、紗枝に謝るように言う夢だった。目を覚ましたのは、翌日の未明だった。美希が目を開けたとき、周囲には誰の姿もなかった。「誰か......」声を上げても、介護士はすでに眠りについており、返事はなかった。全身の力を振り絞り、ようやくベッドサイドのランプに手を伸ばした。ボタンを押すと、暖かな明かりが灯り、美希は自分が個室に移されていることに気づいた。その明かりに反応して、横になっていた
青葉が紗枝を目にしたとき、思い出さずにはいられなかった。かつて、彼女がただ一人で刃物を手にし、自分に向かって放ったあの言葉を。もし昭子という養女の存在がなければ、この女性を高く評価していたかもしれない。その思いを、否応なく認めざるを得なかった。「夏目さん、あなたも騒ぎを見に来たの?」そう言いながら青葉は周囲に目をやった。そこに集まっていたのは、通りがかりの野次馬たちで、鈴木グループの社員ではないようだった。「もちろん違います」紗枝は微笑みながらスマートフォンを取り出し、何かを探し始めた。そして続けた。「さっきのあなたたちの会話、全部聞いていました。昭子さん、美希さんのことを実の母親だと認めず、証拠を出せって言ってましたよね?」昭子の胸に、理由のない不安がさっと走った。「紗枝、これは私たち家族の問題よ」そう言った昭子の声を、紗枝はあえて無視し、スマートフォンの画面に目を落とすと、目的のファイルを見つけ、青葉に差し出した。「これが、親子鑑定の報告書です」青葉は一瞬ためらいながらも、それを受け取った。報告書には、美希と昭子が実の親子であることが、はっきりと記されていた。昭子も思わず身を乗り出して覗き込み、一瞥した瞬間、信じられないという表情を浮かべた。「お母さん、これ、きっと偽物よ。私、美希の娘なんかじゃない!」驚いたような素振りでそう言う昭子を見て、そばにいた介護士がついに我慢できず、声を上げた。「お嬢さん、前に美希さんに会いに来たとき、ご自分で言っていたじゃないですか。『実の母親こそ本当の母だ』って。養母のお金だけが目的なんでしょう?」介護士にとって、余計な口出しをするつもりはなかった。しかし、目の前で実母を突き放す娘の姿を、黙って見ていられなかった。その言葉に、昭子は反射的に激昂した。「あなたみたいな介護士に、何がわかるのよ!あなたたち、共謀して私を陥れようとしてるの?名誉毀損で訴えるわよ!」「訴える」――その一言に、介護士は確かに口を噤み、それ以上は何も言えなくなった。青葉は黙ってそのやりとりを見守っていた。怒りに震える娘の姿を、目の前でただ見つめていた。彼女は昭子を幼い頃から育て、その性格を誰よりも理解していた。幼い昭子がもし潔白であれば、どれほど疑いをかけられようと、動じること
昭子が青葉にこの件について問われたとき、一瞬、どう答えるべきか分からなくなった。美希もまた、彼女をじっと見つめながら、真実を語ってくれることを心の底から待ち望んでいた。だが、昭子の目は次第に赤く染まり、美希をまっすぐに見据えて、力強く言い放った。「夏目さん、どうしてそんな出鱈目を言うんですか?私の母は、私を育ててくれたあの人です。産んだ人が誰かなんて、私には関係ありません。私にとって母親は、彼女だけです」その言葉に、青葉は胸を打たれたようだった。一方で、美希の心には、冷たい氷の塊が落ちたかのような衝撃が走っていた。実のところ、昭子が幼い頃から、美希は彼女の生活にほとんど関与してこなかった。ただ、それでも毎年ひっそりと会いに行き、可能な限りの願いを叶えようとしていたのだ。美希は世隆との結婚の際、罪滅ぼしのつもりで、元夫・夏目家の全財産を嫁ぎ先に持参していた。幼い娘を置き去りにした、その重い咎を少しでも償うために。今、美希は堪えきれず、詰め寄った。「昭子......人はね、良心を失ってはいけないのよ。私は、あなたの実の母親なのよ」だが、昭子の言葉は、まるで自分自身の過去を真っ向から否定するようだった。かつて紗枝に浴びせた、あの冷酷な言葉が、今や自分自身に向けられているように感じられた。昭子の表情はぴくりとも動かず、静かに、しかし明確に反論した。「夏目さん、もう嘘はやめてください。お父さんに愛人ができたからって、それを受け入れられないあなたの気持ちは分かります。でも、その過ちを私のせいにしないでください」その声には、微かに悔しさがにじんでいた。まるで自分こそが傷つけられた側であるかのような、被害者意識すら感じられる口調だった。「あなた......あなたは......っ」美希は怒りに震え、次の瞬間、下腹部に激痛が走った。白い患者服に身を包んだ彼女のズボンが、じわじわと血に染まりはじめた。介護士が駆け寄り、慌てた様子で叫ぶ。「奥様、大丈夫ですか?すぐに病院に戻りましょう!」昭子も、美希の異変に気づき、一瞬だけ心配そうな表情を見せた。しかしその横で、青葉は冷ややかな瞳でつぶやいた。「自業自得よ」それでも美希は、介護士の服の裾をぎゅっと握り締め、帰ることを拒んだ。「帰らない!青葉、信じられないなら、自分で
「青葉、私はあなたに伝えに来たの。あなたがずっと育ててきた娘は、実は私の......」美希が口を開いたその瞬間、昭子が慌てて彼女の言葉を遮った。「夏目さん!そんなでたらめ、やめて!」夏目さん?美希は一瞬ぽかんとしたが、青葉の方はむしろ興味をそそられたようで、制止しようとする昭子に手を伸ばした。「話を続けさせて。大丈夫よ。たとえ昭子にとって不利なことを言われたとしても、お母さんはあなたを信じてるから」「......はい」しぶしぶながら、昭子はうなずいた。自分の実の娘が、他の女性とこれほど親密に接している姿を目の当たりにし、美希の胸には皮肉とも言える感情がこみ上げていた。そしてとうとう、堪えきれなくなって声を上げた。「青葉、教えてあげる。昭子は、私の実の娘よ!」その瞬間、青葉の瞳がわずかに揺らぎ、信じられないという色を宿して美希を見つめた。てっきり、昭子を貶めるようなことを言い出すのかと思っていたのに......まさか、こんな秘密を打ち明けるなんて!「ふざけないで。昭子は私と世隆が、孤児院から直接引き取った子よ。どうしてあなたの娘だなんて言えるの?」青葉はこれまでずっと、美希という女性を軽蔑してきた。けれど今だけは、この話が虚構であってほしいと、心の底から願っていた。昭子もまた、美希に目配せをしながら、今の発言を撤回するよう促した。しかし美希はその視線を意にも介さず、冷たく微笑んだ。「あの『鉄腕の女性経営者』と評されたあなたが、養女の身元すら知らなかったなんて......教えてあげる。昭子は、私と世隆の実の娘よ。私たちは、昔からの知り合いだったの」その言葉に、青葉の顔色が一瞬で凍りついた。まるで、部屋の空気が一気に冷え込んだかのようだった。まさか、世隆が私を騙していたの?美希は、その動揺をさらに突くように、淡々と真実を語り続けた。「私が昭子を産んだのは、二十歳のとき。世隆は、私のダンサーとしてのキャリアが終わることを心配して、結婚はせずに、人を雇ってこっそり昭子を育てさせたの。でも、世隆は浮気性だった。すぐに私たちは別れたわ。その後、彼はあなたと出会って......なんと結婚までしてしまった。そして、あなたが子ども、特に女の子が好きだと知って、私と相談して昭子を孤児院に入れ、あなたに引き取らせた