紗枝はそのまま彼に抱かれて、体が硬直になり、立たされた。暫くしてから、彼女は首を横に振った。「恨んでないよ」これは嘘じゃなかった。これを聞いた啓司は、彼女をさらに強く抱きしめ、大きな手で彼女の顔を丁寧に撫でた。今になって初めて、紗枝が相手にしてくれたことを実感していた。紗枝は今がタイミングだと分って、頭を上げて啓司を見た。つま先立ちにして、赤い唇が啓司の喉仏にキスして、続けて上に上がり、唇に落ちた。何度かキスされて、いくら理性が強くても、耐えられなくなってきた。彼は片手で紗枝の後頭部を支えて、積極的にキスをした。今、彼女の目的が何であれ、今夜、彼女を落としてやると思った。隙間を見て紗枝が言い出した。「ちょっと怖いが、酒を飲んでもいい?」「いいよ」 彼女の湿っぽい視線を見て、啓司は興奮した気持ちを抑えた。紗枝は酒蔵に行ってアルコール度数の一番高い酒を選んだ。啓司のグラスに唯からもらった精力剤を入れて、お酒を入れてから啓司に渡した。彼を安心させるために、紗枝はグラスを取った。 「乾杯」今日、啓司は紗枝を断らなかった。グラスを飲み干した。紗枝も一口飲んだが、喉に火が通ったような感じだった。「次はTequiaにして、今回のお酒は君に合わない」啓司が一目で分かった。紗枝が選んだのは度数の一番高い酒だった。Tequiaは度数の低いお酒で、体にあまり負担をかけない。「わかった」紗枝は啓司にお代わりを入れなかった。度を把握して、急いでると、彼に警戒されると思った。そして、先ほど入れた量は十分だろう…啓司のお酒は本当に強い、1杯強いお酒を飲んでも、顔が赤くなってなかった。彼は蝶ネクタイを引っ張り、シャツを緩めて、紗枝を抱えて寝室に向かった。紗枝が緊張して彼の服を握り締めて小さな声で言った。「ごめん」啓司は唖然とした。彼女に断られると思った。彼女が言い続けた。「ごめんな。何も言わずに、仮死して離れた」啓司を見つめる彼女の目は情深かった。今夜、成功できれば、何でも言うと思った。啓司が喉を詰まらせた。彼が答える前に、紗枝の手が少しずつ移動して、彼の細い腰に当てて、長い間口に出さなかった名前を叫び出した。「啓司」「はい」彼の声はかすれていた。 紗枝をベ
夜中になって、すべてが終わった。啓司はまだ目覚めてないが、紗枝をしっかりと抱きしめた。無菌カップの中に、やっと取れたものを見て、出て行くタイミングだと紗枝は分かっていた。彼女は啓司の腕から離れようとしたが、却って男にさらに強く抱きしめられた。 仕方がなく、彼女はカップをベッドの下にこっそりと隠して、啓司が仕事に出かけてからに取りに来ると思った。眠っている啓司を見て、紗枝は罪悪感を感じ、無言で自分に言い聞かせた。「謝ったのは本当だったよ。でも、仮死して離れたことじゃなかった。「今度の事のため…」逸之と景之を妊娠したのは、彼の暴行に拠るものだった。でも、恩に感じることはなかった。今回、啓司に事実を隠したのは悪いと思った。しかし、彼女はそうしなければならなかった。子供を傍に残すためにそうするしかなかった。翌日。空が微かに明るくなったところ。啓司は頭痛で目覚めると、腕の中にいる紗枝を目にした。彼女はまだいた。啓司は安心した。更に彼女を力を入れて抱きしめた。こんな時に、紗枝の滑らかな背中を見て、傷口を見かけた。ナイフの古い傷跡のようだった。紗枝も目覚めた。立ち上がろうとして、啓司の言葉を聞かされた。「背中の傷跡はどうしたの?」紗枝は唖然とした。啓司の見慣れた顔を見て、紗枝は悲しくて悔しい気持ちになった。「覚えてないのか?」この傷跡は、当時彼を守るためにやられた。彼は忘れたのか?啓司と和彦が親友で、全く同じ恩知らず者だった。啓司は本当に覚えてないようだった。「いつ起こったの?」 紗枝の喉は渋かった。「私が17歳の時」 それは啓司が初めて黒木グループを引継いだ時だった。 その時、黒木家の者か、それとも競争相手の者かよく分からなかったが、啓司を暗殺しようとしたとき、紗枝が彼の前に立って、代わりに刺されて、彼を助けた。この件、黒木家の人々がほとんど知っているが、彼は忘れたのか…啓司の手は彼女の背中に当てて、目も暗くなった。「誰に?」紗枝は首を横に振った。 「わからない、捕まえなかった」 啓司はしばらく沈黙し、頭を下げて紗枝に優しくキスをした。 彼は人を慰める方法を知らなかった。こんな方法でするしかなかった。 しかし、紗枝に避けられた。
紗枝は信じられない思いで彼を見上げた。 啓司は怒っていなかったが、彼女を見つめてゆっくりと言った。「今教えて、何が欲しいの?」 目と鼻の距離で、紗枝は彼の複雑な目つきを見て嘘をついた。「悔しかったので、一度だけ貴方をほしかった」 また嘘だった!啓司は彼女の頭を胸に押し寄せて、低い声で笑い、涙を零して言った。「もう願いを叶えたので、どうするの?「僕を離れたいのか?」彼の大きな手でしっかりと押さえられ、肩が砕けるようになった。 「私は…」 彼女の話しが啓司に中断された。「信じてくれなくてもいいが、僕の許可がないと、君は桃洲市を離れられないよ」紗枝の体はわずかに震えた。「約束したが、お金を返したら離れるが、しかも、逸之もここにいたじゃないか?」「そんなお金、どうやって入手するの?」啓司が聞いた。紗枝が海外で有名な作曲家だと知っていたが、彼が口出した金額は、今の彼女に、すぐ返すことは相当無理だと思った。「自分の手でゆっくり稼ぐ」紗枝が少し止まってから頭を上げて彼を見ながら続けて言った。「貴方に損させない」啓司はさらに怒って、力を込めた。紗枝は眉をひそめた。「痛い」男は一瞬で手を離した。 紗枝は布団で身を包み、後ろに下がった。「先に起きる」彼女は服を探したが、地面に落ちていた服が破られていたか、啓司の服と混ざり合っていたか、とても混乱だった。彼女は薄い布団に身を包み、ベッドから離れようとしたが、再び啓司に抱かれて懐に入れられた。「どうして急いでいるの?」喉仏を上下にさせて、啓司は言い出した。「昔、僕と本当の夫婦になりたいと言ったよね?手を繋いで、抱きしめて、キスして…」彼が突然これを言い出したのはなぜか紗枝はわからなかった。 その時、紗枝は世間知らずだった。 初恋も片思いの相手もすべて啓司で、そして結婚相手も啓司だった。彼と恋人同士がやったことを全部やりたいし、夫婦がやったことをしたかった。そして子供を作って一緒に老いていくことも…しかし、今、いろんなことを経験して、彼女はとっくに諦めた。 「そんなこと期待しないわ」彼女は答えた。 そんなこと期待できるか?彼女はもう期待しなくなった。啓司は彼女をはっきり見透かした。彼の喉が綿の塊に塞がれるように苦しくなっていた。
離婚の道を選んで以来、紗枝は啓司と本当の夫婦になることを考えたことが一度もなかった。啓司は彼女の耳元の乱れた髪の毛を撫でながら言い出した。「僕を呼んで」紗枝の赤い唇が軽く開いた。「啓司」 啓司はもともと彼女にキスしようと思ったが、ドアベルがこの瞬間に鳴り、彼の美しい夢を壊した。 食べ物が送ってきた。1時間後。 二人が片付けて、食事を終わった。「今日は会社に用事がないの?」紗枝が試しに聞いた。啓司は、彼女が彼を出てもらいたいのに気づいた。「うん、ほとんどの仕事をほかの人に任せた」 実は、ずっと前からこうすべきだった。グループのトップとして、仕事が多すぎて、ほかの人に任せるべきだった。紗枝は悩んだ。彼が出かけないと、部屋にあるカップの精子をどうやって取り出すの。彼女を深く見つめて啓司が言い出した。「僕に会社に行ってもらいたいの?」紗枝は首を振った。「いや、ただ聞いただけ」 「今月、僕は仕事をほっといて、二人でゆっくり付き合おう」啓司は再び言った。 仕事をほっとく…紗枝は信じられなかったが、それでも頷いた。「よかったじゃない」「桑鈴町に戻りたいって言ったじゃない?」啓司は気軽に聞いた。 グラスを持っている紗枝の手が一瞬震えた。 二人が結婚したとき、彼女はよく啓司に自分が育った小さな町のことを話した。 人が好きになると、自分のすべてをシェアしたくなるのだから。「うん、言ったけど」 「荷物を片付けて、午後車で行こう」 一ヶ月夫婦と約束したから。初めて紗枝の夫になろうと決めたので、どうすればいいか知らなかった。他の人が言ったハネムーンのことを思うと、こんなことだろうと思った。紗枝はしばらく唖然としてから、正気に戻った。「分かった。今から片付けてくる」 自分の部屋に戻った。 携帯を取り、ちょうど唯からの不在着信を見かけた。 彼女は折返し電話した。電話がすぐ繋がった。「どうだった?」唯は急いで結果を知りたかった。「うん、うまく行った」今回、妊娠する可能性が十分にあると紗枝は感じた。 「よっしゃー!それじゃ、私たちは逸之を連れてここを出られるか?」唯が聞いた。「必ず妊娠できるとは言えないので、妊娠を確認出来てから離れようと考えてる」紗枝は啓司
桑鈴町に向かう途中、大雨が降り出した。紗枝は助手席に座り、うっかりと啓司のハンサムな横顔を見て、息を止めて、視線を引っ込めて窓の外に向けた。 正直な話、啓司を落とせなかった時、近づき難い人だなと紗枝は思った。しかし今、彼の隅々まで触った。 どんなに冷たい男でも、親密な関係ができてから、二人の仲は変わって行く。自分を見ていることに気づき、サービスエリアに着いた時、啓司が彼女の手を繋いだ。「静かになった君に慣れない」 彼に目を向いて話を続けて聞いた。「前には話が終わらないほど口数が多かった」これを聞いて、紗枝は苦笑いした。「それなら、最初に私が口数多くて嫌いと貴方が言ったことを覚えていないだろう」啓司は唖然とした。車内の雰囲気が急に暗くなった。 自分がいけないことを言って彼を不快にさせたと思い、紗枝はわざと話題を作り出した。「このサービスエリアを通り過ぎると、前には紅葉の木が沢山あり、今時に紅葉が赤く染め始めたので、とてもきれい」初秋、天気が暗くなり、涼しくなってきた。 特に雨が降ったとき。 車が紅葉の林を通り抜けたとき、雨のため、空が非常に暗かったが、風に吹き飛ばされて、紅葉が飛んで落ちていた。こんな時、啓司が紗枝の笑顔を久しぶりに見えた。この瞬間、彼は初めて紗枝に会った時に戻ったように感じた。あのピュアで可愛らしい女の子だった。 紅葉の林を通って、外の景色はほとんど見えなくなった。 携帯を取り出して何か見ようと思ったが、電池が切れた。仕方なく、車内で充電するしかなかった。この時、啓司は自分の携帯を渡した。 「これを使って。「パスワードがない」紗枝はしばらく待ってから携帯を引き受けた。啓司の携帯は非常にシンプルで、仕事用のアプリと通信用のアプリ以外、ほかになかった。歌を聴くアプリもなかった。紗枝が見て、ついにブラウザを開き、最新のニュースを見てみた。開いて見ると、トレンド入りの6番目、酒井葵が盗作を公に謝罪した。彼女の目には信じない光が光らせた。2日前に唯に訴えを撤回するように啓司から言われたが、どうして今は葵が公然に謝罪したのか?啓司は彼女に悔しい気持ちをさせたことがなかったのに。紗枝が戸惑った時に、車はすでに桑鈴町に入った。啓司が事前
温かい光の中、紗枝は目の前にとても馴染みのある顔を見て何を言えばいいかわからなかった。啓司は頭を下げ、彼女の額にキスをした。 布団の上に垂れていた手が自然と引き締まった。「今日ちょっと疲れた。ごめん」啓司がちょっと動きを止まってから、彼女を抱きしめて、何も言わなかった。 彼の胸に寄り掛かって、彼の力強い鼓動が聞こえた。 「啓司…」 「うん」 「初めてのハグを覚えてる?」紗枝が突然聞き出した。これを聞いて、啓司は考えた。初めて抱かれたのは新婚の夜だと思い出した。彼女の父親が亡くなったばかりだったが、啓司は彼女を押しのけた。 紗枝がどうして突然これを聞いたか分からなくて、自分の事を責めると思った。「前の事、二度と起こらない」彼はめったに謝らないが、これで誤ったと伝えたのだ。 彼の言葉の意味を悟らず、紗枝が怪訝そうに彼を見上げた。 二人が初めてハグしたのは彼が小学の時だった。夜で雨の中、苛められた彼女を迎えに行った時だった…どうして二度と起こらないと言ったの?紗枝は続けて言った。「あの時、あなたの事が好きになったと思う。とても好きだった…」 明らかに自分のことが好きだと言われたが、何処かがおかしいと感じた。二人が結婚したとき、紗枝に愛されていたと彼が確信していた。 どうしてその時から好きになったと言ったのか?彼の疑問が解けてない時に、紗枝が再び言い出した。「あの時、あなたは非常に良くて、私は釣り合わないと思った。いつか結婚してくれると思ったこともなかった」啓司の喉仏が上下に動いた。彼もこの小娘と結婚するとは思わなかった。初めて会ったとき、彼女はまだ10歳で、痩せて小さかったが、あの笑顔は世界一美しかった。「これからやり直せる」不思議に啓司が言い出した。紗枝がじっと彼を見つめた。「本当にやり直せるの?」海外滞在中、彼女はしばしば夢を見ていた。啓司が後悔して、彼女に家に帰ってもらった。そして、彼女に優しくすると言ってくれた。でも、目覚めたら、全部夢だった。啓司が答える前に、ドアのベルが鳴り、夕食を運んできた。夕食中、二人は無意識に話題を逸らしてしまった。 夜、一緒に寝た。電気を消すと、啓司は自然に彼女を抱きしめ、軽く呟いた。「さえさん」紗枝は補聴器を外したの
これを聞いて、紗枝は手を挙げて啓司の手を取り、そして彼をハグして、唇に軽くキスをした。 これで済むと思ったが、啓司は朝飯をテーブルに置き、彼女の後頭部に手を当てて、彼女に強くキスした。 なぜか分からないが、二人は明らかに最も親密なことをしていたが、彼は紗枝の目から何の閃きを見えなかった。彼は悔しくて紗枝の唇を噛みついた。 痛みで紗枝が眉をひそめて、彼を押しのけようとしたが、手を掴まれた。 彼女は復讐のため、啓司の唇を噛みつけ、口に生臭い味が湧いてから噛むのを止めた。啓司は大きな手で彼女の顔を抱え上げて言った。「僕を見て、もう一度僕を呼んで」紗枝が見上げると、啓司の唇が噛まれて赤くなっていた。「啓司」彼女の目が落ち着いて何の波もなかった。彼のことをすべてと思った当時の小娘女ではなくなった。啓司の心が突然縮み、目尾が少し赤くなった。彼は直接紗枝を抱え上げた。彼女の抵抗を気にせず、ソファーに落とした。「僕を呼んで!!」 啓司が一体どうしたか紗枝は分からなかった。時には優しく、時には乱暴になり、喜怒無常だった。「啓司!」波風が立たない一言で、何の感情も感じられなかった。啓司は耳を傾け、彼の心が綿の塊で塞がったように詰まっていた。彼はそれ以上何も言わず、紗枝を抱き上げて部屋に戻った。すべてが終わったとき、朝食が冷めていた。啓司が新しく買ってもらおうとしたが、紗枝に止められた。部屋で暖められるのだが、温めてから、二人が食べると、味が全然変わった。紗枝は突然、啓司が前に言った「やり直す」の言葉の意味を分かった。この朝食みたいに、冷めたらまた温めると、本来の味ではなくなった。朝食後。啓司が道に慣れたように車を運転して、紗枝が子供の頃に住んでいた場所に連れて行った。老朽化したレンガ造りの家、きれいに掃除され、雑草と落ち葉がなく、まるで誰かが住んでいるように見えた。紗枝が驚いた時に、隣人がここの車に気づいた。 車から降りてきた彼女を見て、隣人がびっくりした。「紗枝さん、死んだじゃないか?」紗枝が反応する前に、啓司は反対側から車を降りて隣人に答えた。「すべては誤解だ」 そう言って、彼は先に家に向かって歩き出した。 紗枝は少し興味深くなった。彼はどうしてこ
寝室には紗枝のお父さんの遺品が並べられ、中にお父さんが画いた紗枝の絵が1枚あった。紗枝のお父さんが死んだ後、お母さんと弟が上手く会社経営できず、結局家にある貴重なものをすべて競売した。今回帰国して、紗枝ができるだけお父さんの遺品、特にこの絵を探していた。絵の中の紗枝は10代で、白いドレスを着てベランダに座り、大きな花束を持って微笑んでいた。 近づいて絵を見て、白髪のお父さんを思い浮かべてきた。 自分を絵に描いてくれたお父さんの優しい顔を思い出した。 手を伸ばして絵にそっと触れて、喉が少し詰まった。「この絵を二度と見つからないと思った」 お父さんが画いてくれたので、お金にはならないと思った。啓司が見つけてくれるとはどうしても思いつかなかった。いま現在の紗枝の表情を見て、今回、正しいものを送ったと分かった。彼は一歩一歩前へ歩いた。「これらの物を全部牡丹別荘に持ち帰ってもいいよ」牡丹別荘へ持ち帰ると、ほかの所へではなかった。彼はただ、できるだけ紗枝に離れるのを躊躇させたいだけだった。感情を抑えて啓司を振り向いて、彼女の目には感謝の意に満ちていた。「ありがとう」「今後喧嘩を売らないで、欲しい物、全部くれてやる」喧嘩を…紗枝の目が少し暗くなり、曖昧にうなずいた。 啓司はこの時、ブラックカードを取り出して彼女の前に出した。 「このカードを好きに使って」前、結婚した後、彼がいつも牧野に生活費を紗枝に渡してもらっていた。でも、紗枝が離れてから、牧野からのお金、彼女が一文も使わなかった。渡されたカードを見て、紗枝は喜ばず、首を横に振った。 「いらない、お金はあるよ」 啓司の手が空中で凍りつき、しばらく沈黙した後、彼はまた説明した。「僕たちは夫婦じゃないか?「これは僕の給料だ」 夫としてそうすべきかどうかわからなかった。 紗枝はそれを受け入れるしかなかった。どうせ一か月後に、お互いに何も関わることがなくなると思った。…1か月間夫婦を約束してから、啓司が全く別人のように変わった。毎日彼女にハグ、キスそして手繋ぎを求めてきた…仮夫婦じゃなく、まるで本当の結婚生活しているように感じた。 桑鈴町で3日間泊まって、2人は一緒に桃洲市に戻った。夜8時に、啓司が彼女を川辺に連れて行
明一は相手の皮肉な態度に気付き、カッとなって手を上げかけた。だが景之の鋭い視線に遭うと、たちまち手を下ろし、悔しそうに立ち去った。殴っても勝てない、言い負かすこともできない。明一は深い挫折感を味わっていた。以前はそれなりに仲が良かったのに、こんなぎくしくしした関係になってしまって、少し後悔の念が湧いてきた。放課後、帰宅した明一はソファにぐったりと身を投げ出した。「どうしたの?」夢美は心配そうに息子を見つめた。「ママ……景之くんに謝りたいな」明一は逸之のことは嫌いだったが、その兄の景之は別だった。「何ですって!?」夢美の声が鋭く響いた。「なぜあんな私生児に謝る必要があるの!?あなたは私の息子でしょう!」明一は母の怒りに気圧され、謝罪の話題を即座に引っ込めた。「明一」夢美は諭すように続けた。「あの私生児たちと、友達になんてなれないのよ」「同じ黒木家の世代なのに、お父さんは啓司さんや拓司さんに頭が上がらないでしょう?大きくなった時、あなたまで同じように下に見られるの?」「いやだよ!」明一は強く首を振った。「僕が黒木グループのトップになるんだ!」「そうよ」夢美は満足げに微笑んだ。「私の息子なんだから、お父さんみたいに人の下で働くような真似はしちゃダメ」「うん!」明一は何度も頷いた。「頑張る!」「じゃあ、夕食が済んだら勉強よ」夢美は明一の成績を景之以上にしようと、家庭教師まで雇っていた。夜の十時まで勉強させるのが日課だった。どんな面でも、我が子を人より劣らせたくなかった。明一が食事に向かう頃、昂司が青ざめた顔で帰宅してきた。「あなた、今日は早いのね?」夢美は不審そうに尋ねた。昂司はソファに崩れ落ちるように座り、頭を抱えて呟いた。「夢美……終わった……」「何が終わったの?」「全部……投資した金が……全部パーになった」昂司は一語一語、重たく言葉を紡いだ。「えっ!」夢美の頭の中で轟音が鳴り響いた。「追加資金を入れれば大丈夫だって言ったじゃない!」「商売なんて、損なしなんてありえないだろう!」昂司は苛立たしげに言った。「IMが先回りして俺の取引先を買収するなんて……もう在庫の供給も止められ、借金の返済を迫られている」深いため息をつきながら、昂司は続けた。「新会社を破産させるしかない。そ
夢美の言葉に、ママたちは安堵の表情を浮かべ、紗枝の警告など耳を貸す様子もなかった。投票結果は予想通り、夢美の圧勝に終わった。だが意外なことに、紗枝にも全体の四分の一ほどの票が集まっていた。紗枝が不思議に思っていると、ママたちの中に、上品な装いの女性が目に留まった。その女性は紗枝に優しく微笑みかけていた。会議が終わると、その女性は紗枝の元へ歩み寄ってきた。「景之くんのお母さん、ありがとうございました」「お礼を?」紗枝は首を傾げた。「成彦くんの母親のことは覚えていらっしゃいますか?」成彦の名前を聞いた途端、紗枝の記憶が先日の出来事へと遡った。景之が暴力事件を起こし、呼び出しを受けた時のことだ。成彦はその時の被害者の一人で、その母親は抜群のスタイルで注目を集めていたものの、既婚者の家庭を破壊した女性だった。そんな事情を知ったのは、多田さんが提供してくれた情報のおかげだった。新聞でも報じられていたが、この女性モデルは横暴極まりなく、SNSで正妻を執拗に中傷し続け、ついには正妻を精神的に追い詰めて入院させたという。「ええ、覚えています」紗枝が答えると、「私が、その元妻です」女性は落ち着いた様子で告げた。紗枝は思わず息を呑んだ。目の前の女性は、成彦の母より体型は控えめだったが、その表情と品格は比べものにならなかった。「私は本村錦子と申します」紗枝が彼女を知らなかったのは、夢美の主催するパーティーに一度も姿を見せなかったからだ。多田さんからも特に情報は得ていなかった。「ご恩に感謝します」錦子は静かに告げた。「あなたのおかげで、やっと平穏な日々を取り戻し、こうして皆の前に姿を見せることもできました」「今は成彦の母として、投票に参加させていただいています」「そうだったんですね」紗枝は微笑んで返した。「こちらこそ感謝です。あまり惨めな負け方にならずに済みました」紗枝は数票程度を覚悟していたので、四分の一もの得票は予想以上の結果だった。「感謝なんて」錦子は首を振った。「私も夢美さんは好きになれません。あの方の自己中心的な振る舞いは、多くの子どもたちにとって不公平ですから」「皆、心の中では紗枝さんに会長になってほしいと願っているはずです」二人は校門まで様々な話に花を咲かせ、そこで別れを告げた
紗枝は壇上に立ち、ママたちの無礼な態度にも一切動じる様子を見せなかった。「皆様、景之の母の紗枝です。先ほど園長先生からご紹介いただきましたので、改めての自己紹介は省かせていただきます」客席のママたちは相変わらず、紗枝の言葉など耳に入れないかのように、好き勝手な態度を続けていた。幸平ママは不安げな眼差しで紗枝を見つめていた。あんなに止めようとしたのに——今となっては後悔の念しかなかった。このまま壇上で嘲笑の的になってしまうに違いない。しかし紗枝は相変わらず冷静そのもの。もはや遠回りな言い方はやめ、USBメモリを取り出した。「園長先生、スクリーンに映していただけますか?」園長は即座に協力し、プロジェクターの準備を始めた。ママたちの視線が半ば興味本位でスクリーンに集まる。「まあ、プレゼンまで用意してるのね。気合い入ってるじゃない」「どんなに立派な資料作っても、会長になれるわけないのに」「あんなにお金持ちなら、さっさと転校させれば?」周囲からの嘲笑に、夢美の唇が勝ち誇ったように持ち上がった。なんて馬鹿なことを——普通の学校なら、確かに会長には様々なスキルが求められる。でも、ここは違う。夢美が会長になれたのは、仕事の能力なんて関係なく、ただその権力を享受するためだけだった。皆が紗枝の失態を期待して見守る中、スクリーンに映し出されたのは、予想外の財務諸表だった。「これは……?」法人印の隣に記された署名に、誰かが気付いた。「これって……黒木昂司さんの会社の決算報告書では?」低い声が会場に響いた。夢美の顔から血の気が引いていった。紗枝は落ち着き払って画面を拡大し、赤字で強調された損失の数字を、誰の目にも分かるように示していった。昂司の会社の経営状態の悪さが、一目瞭然だった。「紗枝さん!それは何!」夢美が我に返ったように叫び、震える指を紗枝に向けた。紗枝は夢美の声など耳に入れないかのように、淡々と説明を続けた。「この財務諸表をお見せしたのは、投資には細心の注意が必要だということをお伝えするためです。もし資金面でお困りの方がいらっしゃいましたら、私にご相談ください」夢美の投資話に乗ったママたちの顔から、血の気が引いていくのが見て取れた。甘い言葉で誘われた「確実に儲かる」という話は、結
この幼稚園の保護者会会長は、年少・年中・年長クラス全体を統括する立場だった。そのため、他クラスの保護者会メンバーも集まっていた。前回の集まりで紗枝も何人かとは面識があったが、全員というわけではなかった。しかし、これらの保護者たちの中で、ある程度の資産がある者は皆、夢美から個別に事業への参加を持ちかけられていた。幸平ママが他の保護者たちの寝返りを知らなかったのも、そのためだった。破産寸前の彼女の家庭に投資の余裕はなく、夢美も一票や二票の価値しかない貧困家庭には目もくれなかった。新会長選出が始まる直前、夢美は紗枝の前に立ちはだかった。皆の前で挑発するように言う。「紗枝さん、障害のある人が会長を務めるなんて、できると思う?」紗枝の補聴器に指を向けながら、さらに続けた。「もし誰かが発言してる時に、その補聴器が故障したら?まさか、新しいのに替えるまで、私たちに待てって言うつもり?」紗枝は挑発に動じる様子も見せず、静かな表情を保ったまま答えた。「私は思うんですが、体が不自由な人より、心に闇を抱えた人の方が会長には相応しくないんじゃないでしょうか。保護者会は子どものためにある。闇を抱えた人は、他人の子どもを傷つけることしか考えないでしょうから」「何を言い出すの!」夢美の声が裂けんばかりに響いた。「あなたの息子が先に私の子を——」「誰が誰を傷つけようとしたのか」紗枝は冷ややかな眼差しを向けた。「あなたが一番よくご存知でしょう」わずか数人の子分を引き連れて逸之に制裁を加えに来るなんて——明一のような子どもが考えそうもない行動を、夢美は止めるどころか、むしろ後押ししていた。常軌を逸した行為に、紗枝は心底呆れていた。夢美がさらに反論しようとした矢先、園長先生と担任が姿を見せた。周囲に制され、夢美は渋々口を閉ざした。園長は出席者に向かって、昨年度の園児たちの成長ぶりについて簡単な報告を述べた後、会長選挙の開始を宣言した。夢美が保護者会に加入して以来、黒木家の影響力の前に誰も会長職に名乗りを上げる者はいなかった。ところが今日、スクリーンには紗枝の名前が映し出されていた。「夏目さんは、昨年、景之くんを海外から本園に転入させた保護者様です」園長が説明を始めた。「お時間にも余裕があり、保護者会会長として皆様のお役に立ちたいとの
多田さんは一瞬たじろいだ。紗枝が近づいてくるのを見て、明らかに落ち着かない様子を見せる。「あら、景之くんのお母さん、早いのね」声が僅かに震えている。「ええ、今日は会長選でしょう?早めに来なきゃ。多田さんも私に一票入れてくださるって約束してくれましたものね」「ええ、もちろんよ」多田さんは作り笑いを浮かべた。無記名投票なのだから、心配することはない。幼稚園の会議室に入ると、既に多くのママたちが集まって、盛り上がった会話を交わしていた。紗枝が入室すると、皆が一斉に視線を逸らし、まるで彼女がいないかのように振る舞い始めた。紗枝はそんな様子も気にせず、これから始まる展開を静かに待った。意外にも、先日駐車許可証を譲った幸平くんのママが、自ら話しかけてきた。「景之くんのお母さん、いらっしゃい」「ええ」紗枝は礼儀正しく微笑み返した。多田さんと同類かもしれないと警戒し、それ以上の親しみは示さなかった。すると幸平ママは紗枝を隅に連れて行き、声を潜めた。「景之くんのお母さん、今日は立候補を取り下げた方がいいと思います」紗枝は首を傾げた。「どうしてですか?」「私、早めに来たんですけど……」幸平ママは勇気を振り絞るように続けた。「何人かのママが話してるのを聞いちゃって。みんな夢美さんに投票するって」「どうやら示し合わせたみたいで、寝返るつもりのようです。選挙に出られると……」後は言葉を濁した。「私への推薦者が少なくて、面目を失うってことですね?」紗枝が問いかけると、幸平ママは小さく頷いた。この人は本当に自分のことを考えてくれている。恩を忘れていない――紗枝はそう確信した。「ご心配なく」紗枝は微笑んで答えた。「面目なんてどうでもいいんです。むしろ、立候補を諦めた方が、私の面目が潰れる」「息子のためにも、最後まで戦わせていただきます」昨夜、紗枝は景之に聞いていた。先生やクラスメイトとの関係はどうかと。「先生は替わって、少しマシになったよ」と景之は答えた。でも、クラスメイトは相変わらず自分から話しかけてはこないという。「別に気にしてないよ」そう言う息子の言葉に、紗枝の胸が痛んだ。ママを心配させまいとする四歳の幼い心。こんな小さな子が、本当に気にしていないはずがない。紗枝の決意を受け止めた幸平
これでは、ママたちの協力は得られそうにない。紗枝が眉を寄せて対策を考えていると、牧野が付け加えた。「でも、投資したお金は無駄になるでしょう。数日も持たないはずです」「奥様、もしお知り合いの保護者がいらっしゃるなら、投資は止めた方がいいとお伝えください」紗枝の目が輝きを取り戻した。「本当?なぜそんなに確信が持てるの?」牧野が答える前に、啓司が口を開いた。「昂司が手を出した共同購入事業は、主に生鮮食品だ。保管が難しく、配送コストも馬鹿にならない。それに、今は多くの企業が参入している」啓司は一呼吸置いた。「今は競争と言いながら、実質的には資金力での消耗戦だ。最低価格で顧客を集め、他社を市場から追い出せば、独占状態が作れる」自社も同じ分野に参入していることには触れなかった。生鮮食品は人々の生活に直結する。桃洲市ほどの大市場で、一社独占になれば、消費者が困ることは目に見えていた。紗枝も最近、デリバリーアプリで生鮮食品の激安共同購入を目にしていた。「確かに今、共同購入は流行っているけど……でも、食卓に直結する商品だもの。長く続くはずないわ」啓司は紗枝の洞察力に驚いた。「ああ、そうだ」傍らで聞いていた牧野は驚きを隠せなかった。社長が奥様の意見に同意するなんて。それなのになぜ、昂司と赤字覚悟の競争を?この事業だけでも莫大な損失を出しているというのに。「ところで、明日は景ちゃんの幼稚園で保護者会の会長選なの。私も立候補するつもりなんだけど」紗枝は牧野に向き直った。「牧野さん、この業界の分析資料を一部いただけないかしら?」紗枝は牧野がそこまで言うからには、きっと詳細な分析資料があるはずだと踏んでいた。それを使って、ママたちに夢美の事業がいかに危険かを示せるかもしれない。牧野が承諾しようとした時、啓司が割って入った。「昂司の直近半月の損失報告を渡してやれ」「まさか、そんな資料まであるんですか?」紗枝の目が見開かれた。これを見れば、ママたちも後悔するに違いない。「奥様、すぐにお持ちします。これなら会長選は間違いありませんね」牧野は景ちゃんのためと聞いて、即座に会社に電話し、昂司の損失報告書を取り寄せるよう指示した。資料を受け取った紗枝は、ぱらぱらとページを繰った。巨額の売上が巨額の損失へと転じて
紗枝は保護者会の会長選について話し合って以来、ママたちの様子を注意深く観察していた。昨夜まではプライベートチャットで盛り上がっていたのに、今日は皆が急に沈黙し始めた。数人に至っては、SNSの投稿を非公開にしていた。この不自然な変化に、紗枝は違和感を覚えた。明日の月曜日は新会長の選出日。ママたちは寝返るつもりなのだろうか。試しに、一人のママにメッセージを送った。プレゼントしたバッグの感想を尋ねる。しばらくして返信が来た。「あら、ごめんなさい。あのバッグ、私には合わないみたいで……一度しか使ってないわ。もう押し入れ行きになりそう」他のママたちにも同様のメッセージを送ってみたが、品物が合わないとか、まだ使用していないとかの返事ばかり。これほど露骨な態度に、疑いの余地はなかった。明日、きっとママたちは寝返るに違いない。あれほどしっかりと約束したはずなのに。誰かが夢美に情報を漏らしたのだろう。紗枝は眉間を揉みながら、今回は焦りすぎたと反省した。そもそも、なぜママたちが新参者の自分のために、夢美を敵に回すことなどあり得ただろうか。啓司は夜更かしのせいで、いつもより遅い目覚めだった。「珍しく遅いのね」紗枝が声をかける。普段なら遅くとも七時には起きる啓司が、もう九時半を回っていた。「今朝は特に予定もないから」昨夜の冷水シャワーが祟ったのか、啓司は頭がズキズキしていた。風邪の気配を感じる。紗枝の隣に座りながら、「食事は済んだ?」と尋ねた。「ええ、もう食べたわ。あなたも早く何か食べたら?」「食欲がない。少し散歩でもしないか」啓司はゆっくりと提案した。紗枝も朝食を終えたばかりで、散歩は悪くない考えだと思った。昨夜、ずっと側にいてくれた啓司への恩返しにもなる。「ええ、いいわ」紗枝は保護者会のことを一時脇に置いて、啓司と共に外へ出た。冷たい風に花の香りが混ざり、春の訪れを感じさせた。紗枝は上着の襟を寄せながら、「今年は春が早いみたいね」と呟いた。啓司は曖昧な返事を返すと、「昨日、何かあったのか?」と切り出した。牧野の報告は受けていたが、紗枝の口から直接聞きたかった。紗枝は一瞬言葉を失った。美希の言葉と、岩崎弁護士の調査結果が胸に重くのしかかる。「拘置所で美希さんに会っただけよ。
紗枝は何かを悟ったように、頬が一気に朱に染まった。手を離そうとする紗枝の隙を見計らい、啓司は素早く手を引いた。「次からソファで寝るな。部屋まで歩けないほど遠くないだろう」啓司は感情を抑え、冷たすぎず、親しすぎない声音を心がけた。結局、二人はまだ喧嘩中で、紗枝からの謝罪もなかったのだから。「ごめんね、迷惑かけて。もう休んで」紗枝は啓司の気遣いを察し、布団に潜り込んだ。啓司は休まなかった。部屋を出ると、まず牧野に今日の紗枝の行動を調べるよう指示した。あの様子が気になった。それからようやくシャワーを浴びに向かった。牧野は思わずため息をついた。彼女とのいい雰囲気の時に、社長からの電話だ。給料アップの話を切り出さなければ。部下に監視カメラの確認を依頼し、紗枝の行動を追った。拘置所で美希と面会し、その後の経緯まで、すぐに把握できた。シャワーを済ませベッドに横たわった啓司の携帯に、牧野からの報告が入る。「社長、奥様は本日美希さんと面会されました。言い争いの末、美希さんが病院に搬送される事態になったようです」大きな欠伸を漏らしながら、牧野は続けた。「その後、担当弁護士と話し合いを持たれました。おそらく美希さんの件についてかと」啓司が何か言おうとした瞬間、牧野の向こうから女性の声が聞こえてきた。「ダーリン、あなたの社長って変よね〜こんな真夜中に仕事させるなんて。愛に飢えてるんじゃない?こんな時間、奥さんと愛を育むべきでしょ?」「シーッ!」という慌てた声が続く。啓司は即座に通話を切った。まさか部下からの恋愛アピールを食らうことになるとは。この夜、啓司は一睡もできなかった。今すぐにでも紗枝を強く抱きしめ、二度と離したくないという衝動に駆られていた。だが、さっきまで悪夢にうなされ、涙を流していた紗枝の姿が目に浮かぶと、その想いを押し殺さざるを得なかった。逸之を幼稚園に行かせなければ良かった。一人寝の練習なんて、まだ早すぎたのかもしれない。眠れない啓司は、仕事に戻ることにした。昂司の手がけた共同購入事業も、もう風前の灯火だった。一方、昂司は八方塞がりの状態に追い込まれていた。「なぜIMは俺の邪魔をするんだ?」「前は仲介プラットフォームで、今度は共同購入。どこまで俺の事業を潰すつもりだ」「この会
紗枝は岩崎弁護士に美希の動向を見張るよう依頼した。末期がんでもない限り、決して許すつもりはなかった。帰宅後、紗枝は雷七に父の事故について改めて調査を依頼した。岩崎弁護士は年月が経ち過ぎて証拠は残っていないと言ったが、紗枝は確かな真実が知りたかった。全ての用事を済ませ、ソファに身を沈める。疲れているはずなのに、眠れない。頭の中は混沌としていた。幼い頃の記憶が蘇る。父の優しい顔。「お母さんはとても良い人で、紗枝のことを心から愛しているんだよ」と語る父の声。紗枝の口の中に苦い味が広がった。クッションを強く抱きしめる。そのままソファで横になったまま、いつしか意識が遠のいていった。家政婦は眠り込んだ紗枝を見つけると、そっと毛布を掛けてやった。今日は逸之が不在だった。幼稚園での一泊体験保育の日だったのだ。深夜になってようやく帰宅した啓司に、家政婦が小声で報告した。「旦那様、奥様が午後からずっとソファでお休みになっています。起こすのも気が引けまして……」「このまま寝てらっしゃると、風邪を召されそうで」「分かった。もう休んでいいよ」啓司は静かに告げた。「はい、失礼いたします」家政婦は自室へと引き取った。啓司はソファへと歩み寄り、大きな手を伸ばすと、紗枝を毛布ごと優しく抱き上げた。温もりを感じる柔らかな重みが、腕の中に収まる。二階の寝室まで運び、そっとベッドに横たえる。シャワーを浴びようと身を翻そうとした瞬間、紗枝の細い指が啓司の手首を掴んだ。「行かないで……」啓司は動きを止めた。まさか目を覚ましたのか。声をかけようとした瞬間、紗枝の寝言が漏れ聞こえてきた。「お父さん……紗枝を……置いて……いかないで……」啓司の表情が和らいだ。紗枝は夢の中で父を呼んでいたのだ。すすり泣くような紗枝の声に、啓司は空いた手を伸ばし、その頬に触れた。涙の跡が冷たく残っていた。言葉を詰まらせたまま、啓司はベッドの端に腰を下ろした。紗枝の手を握ったまま、そっと寄り添う。時が流れ、紗枝が目を覚ました時、啓司がベッドヘッドに寄り掛かり、静かな寝息を立てていた。少し身動ぎした紗枝は、下を向いた瞬間、啓司と繋がれたままの手に気付いた。目覚めたばかりの紗枝の記憶に、夢の情景が鮮やかに残っていた。幼い頃、父と一緒に料理を作