紗枝は言い終わると、自分のデスクに置いてあったバッグを手に取り、啓司の驚いた視線を背に、部屋を出て行った。啓司は彼女が去っていく背中を見つめながら、彼女が言ったことを思い返し、しばらくの間、現実に戻ることができなかった。これが本当にあの夏目紗枝なのか?彼がいつも大目に見ていたあの妻なのか?なぜか、彼女に反論されたにもかかわらず、啓司は少しも怒りを感じなかった。むしろ、紗枝を少し見直した。以前は彼女を軽視していたのだ。裕一はこの様子に気づき、ノックして入ってきた。「黒木様」啓司は無愛想に、「何だ?」と尋ねた。「中代美メディアの株が最近、柳沢葵の件で下落しています。中代美自身に任せるべきでしょうか、それともこちらから広報を派遣すべきでしょうか?」啓司は柳沢葵の件に今後は関与しないように指示していたので、裕一は勝手に判断できなかった。啓司は眉間を押さえながら、「エストニアにいる時先生という作曲家を調べてくれ」と言った。裕一はそれが柳沢葵の問題を助けるためだと思い、頷いた。「了解しました」以前、特別な手段で紗枝の情報を入手したことがあったため、今回もその方向で調べることにし、裕一は国外に電話をかけた。二時間後、消息が入った。「この時先生は、海外で非常に有名で、多くの著名な歌手に楽曲を提供しているとのことです」裕一は少し間を置いて続けた。「さらに調べた結果、彼女が夏目さんだと分かりました」「紗枝?」啓司の目が鋭くなった。柳沢葵が掴めなかった情報を、裕一が特別な手段で入手したことを確認し、頷いた。啓司はその言葉に驚きを隠せなかった。だから、さっき紗枝があんなに怒っていたのか。あの曲が彼女のものだったんだ。その後、啓司は紗枝がこれまで国外でどのような経験を積んできたのか、ますます興味を持ち始めた。彼女にはまだ他に何か、彼が把握できていないことがあるのだろうか?「この件については、僕以外の誰にも知らせるな。分かったか?」啓司は裕一に指示した。「わかりました」裕一が去ろうとした時、「では、柳沢葵の件は?」と尋ねた。「広報はしない」啓司は答えた。たかが中代美メディアの損失は、彼にとって大したことではなかった。裕一は、なぜ啓司がそのような決定を下したのか理解でき
この保証の言葉があれば、昇は命も惜しまなかった。 彼はアクセルを踏み、道路に他の人や車がないのを確認して、紗枝が乗った車に向かった走った。紗枝と運転手も何かおかしいと気づいた。 ハンドルを急に回して、避けようと思った。でも、タクシーは最高速度でぶつかってきたので、避けることができなかった。「バン!」と大きな衝突音がして、車は大きい凹みが現れ、転がってひっくり返した。運転手はその場で気が失った。 紗枝も頭がぶつかれ、でもまだ意識があった。血が顔から流れて、体が血まみれになった。彼女は力を尽くして、ドアを開けて外に出ようとした。 こんな時、鳥打帽をして、髭剃りしてない男が前に立って、変わった表情を見せていた。「助けて…助けて…」紗枝は交通事故に遭ったと思って、助けを求めた。昇は少しも躊躇せず、車のドアをロックし、冷たい目つきで彼女を見つめた。 「君を助けに来たじゃないよ」紗枝はびっくりして、耳がごろごろ響いてきた。 昇るが言い続けた。「僕は君を殺しに来たのだ!」紗枝は信じられない気持ちで彼を見つめた。「君は誰?知らないけど」彼女の記憶には、この男を全く知らなかった、どうして殺されなければならないのか分からなかった。昇はドアに寄ってそのまま座って、彼女が出てくるのを止めようとした。 「どうして殺しに来たって知りたいだろう?」紗枝は困難そうにうなずいた。 昇は隠すつもりがなかった。「君は葵をいじめてはいけなかった」 葵…酒井葵…「君は誰だ?」紗枝はこのように死ぬとは悔しく思った。「僕は彼女が好きな人だ。彼氏だ」昇はゆっくりと返事をした。 これを聞いて、紗枝は前日、葵が啓司に話したことを思い出した。一人のファンが彼女の家に突入したと。彼女は試しに聞いた。「君は彼女のファンか?」ファンなら度を越えることをすると分かっていた。昇は急いで否定した。「ファンなんて?彼女が有名になる前に、僕たちは一緒にいたのだ。「僕は彼女の最初の男で、彼女のボーイフレンドだ。僕たちは海外にいたとき、仲がとてもよかったよ」紗枝は再び驚いた。葵が海外で自分が言うほど汚れてないとは言えなかったことを分かっていた。でも、葵の海外の彼氏に会うのは初めてだった。彼女は頭で脱出する
その言葉に、昇はすぐに目が覚めた。 彼は拳をガラスに向かった叩きつけた。 紗枝は脅されて後ろへ縮まり、落ち着くふりをして言った。「私を信じてくれなくてもいい。彼女に電話して、私が死んだと伝えて」 昇はあまり考えず、携帯を手に取り、葵に掛けた。 厄介なことに、電話がなかなか通じなかった。 彼の番号はすでに葵にロックされた…「彼女は君と関わると疑われるからと思っただろう。「今、私と運転手を救ってくれたら、君のことを訴えないと約束する。今の事、せいぜい誤って衝突事故を引き起こし、私達も無事で、刑事責任を問われることがない」昇の心はすでに混乱した。紗枝言葉を信じるかどうか迷ってしまった。紗枝の具合が悪くなり、声も弱くなってきた。周りから突然騒々しい音がして、昇が何かを見たようで、急いで逃げ出した。紗枝の視線はますますぼやけて、微かに背の高い人が彼女に向かって歩いてきたのを見た。 昏睡状態になる最後の瞬間、男が誰だか見えなかった。 男性の肩幅が広くて温もりがあると感じた。…病院。病室の中。啓司の高い姿がベランダに現れ、彼がタバコに火を点けた。微かに手の傷口に気づいた。タバコを吸おうとしたとき、病室の紗枝を見て再び火を消した。彼女が戻ってきて長くないが、5回以上も病院に来た。 携帯が鳴り、取り出して見ると、牧野だった。「社長、事故を起こした人が池田辰夫に掴まれた」啓司の目つきは少し冷たくなった。「わかった。「紗枝を守るボディーガードを解散して」 放し終わって彼が電話を切った。 紗枝が事故に遭う前に、彼は牡丹別荘に一度帰ったが、紗枝を見えなかった。ボディーガードに尋ねて、暫くして、彼女が交通事故に遭ったと報告された。啓司が着いた時、女性の血まみれの体をみて、一瞬心臓も止まるかと思った。幸いなことに、紗枝の傷は酷くなかった。失血で昏睡しただけだった。彼は破れた車の窓から紗枝を引き出して、離れようとしたとき、辰夫がどうやって紗枝の事故のことを知ったのか、啓司は分からなかった。病院について、紗枝を救急室に運べて、彼は紗枝の補聴器に緊急装置があるのを気づいた。彼女が事故に遭った時、最初に連絡したのは辰夫だった!病床に紗枝は非常に不安そうに眠り、全身の痛みが止まらなかった。
紗枝はしばらくして頭がすっきりした。額、手、足にガーゼがあったことに気づいた。早朝、外は珍しく暗かった。 紗枝の病室には明かりが付いていた。彼女は頭を向け、柔らかな光の中で、隣に伏せて座った人を見かけた「辰夫…」彼女は青白い唇をわずかに開いた。 辰夫は浅く眠ったので、彼女の小さな叫び声を聞いて、すぐ目覚めた。 「起きたのか?どこか不具合でもあるの?」 後部座席に座ったので、怪我はそれほどひどくなかったとお医者さんに言われた。紗枝は首を横に振った。「運転手は…」「彼も大丈夫。助けられた」辰夫が答えた。紗枝が安心して、自分が気を失った後に何が起こったのかを聞き出した。彼女が気を失った間もなく、辰夫がやってきて、逃げようとした昇を捕まった。「黒木啓司もやってきた。彼が君を病院に連れてきた」辰夫がそれを隠さなかった。 でも、啓司がどのように彼女を車から引き出して、一晩付き合って、30分前に離れたことを話さなかった。紗枝は啓司にボディーガードを付けてくれたことを承知していた。そして運転手も啓司の人だったので、彼女が事故に遭ったこと知られても当然だと分かっていた。幸いなことに、辰夫がやってきて、昇は怖くて逃げ出した。辰夫のお陰で紗枝は助かった。紗枝は本能的に、辰夫が啓司より先に助けに来た思った。また、最初に自分を助けた人も辰夫だと思った。恐らく、人が好きになると利己的になる。紗枝に啓司のことを教えなかったのはこれが原因かもしれなかった。「啓司に止められ、君に会えなかったが、君はここにいること、彼が知ってるの」紗枝が聞いた。辰夫は彼女が何を心配しているかを知っていた。 「安心して、彼は知っていた」辰夫と啓司は、相次いで病院にやってきた。 紗枝が救急室に居るので、二人は表向けで紳士的で、お互いに気まずくさせなかった。1時間前、啓司は用事があって離れた。離れる前に、ボディーガードを何人か病室の前に配置した。病室の中の様子、全てを彼が監視していた。辰夫と紗枝が何かをしてもすぐ彼に知られる。紗枝の唇が非常に乾いているのを見て、辰夫は立ち上がって水を取ってきて彼女に飲ませた。「すでに横山昇を監禁した。「今後、雷七がいない時、他の人に守ってもらう」 水を飲んだ後、紗枝はうなずいた。
辰夫は紗枝の意図を読み取った。「ゆっくり休んで、この件は私に任せて」そう言って、お医者さんに来てもらい、紗枝をもう一度検査してもらい、問題がないことを確認出来てから、別れを告げて離れた。啓司が仕事を終わって来たとき、辰夫はすでに離れた。彼と一緒に来たのは和彦だった。看護師が紗枝に薬を入れ替えたので、二人は中には入らず、病院の庭に向かった。和彦は困惑した。「どうして突然事故にあったのか?事故を起こした人を見つけたの?」啓司は紗枝を病院に送ったことと、辰夫が早めに事故を起こし人を見つけたことを和彦に伝えた。和彦は舌打ちながら言った。「この人はよくやったね、君の前に捕まったって」啓司がこれを聞いて、突然聞き返した。「僕と比べて彼をどう思う?」彼は思いついた。紗枝が事故に遭って、最初に連絡したのは辰夫だった。和彦は唖然とした。気が戻って、彼が笑った。「啓司君、彼は啓司君に及ばないよ。いくら有能でも、国内では啓司君に抑えられたじゃないか?」啓司は静かに聞いたが、嬉しくならなかった。冷たい風に当たり、霧雨が降ってきた。「知ってるだろう?紗枝が事故に遭って、最初に連絡を取ったのは彼だった」和彦は驚いた。しばらくして言った。「多分彼は人をなだめるのが得意だ。女性なら皆優しい言葉が好きで、そして、あの人はキツネのように見えた」啓司は非常にハンサムで、たとえと言えば、彼は高嶺の花のように遠くからしか見えない存在だった。しかし、辰夫はハンサムだけでなく、いくらか凶悪な魅力があり、全くオスのキツネだった。女性ならこのような若いイケメンに特に弱い。和彦は辰夫のような男を見下していた。外見がよすぎて、きっと中身は空っぽだと思った。「もう遅いし、君は戻ってくれ」啓司が言った。和彦が息を詰まらた。来たばかりなのに、追い払うのか?「分かった」気が済まなかったが、離れるしかなかった。離れる前に、彼は紗枝の病室の方向をちらりと見た。啓司は病室の外に戻った。紗枝はすでに薬を入れ変えたので、ちょうどドアへ向いたので、彼の視線と合わせた。今日、啓司は背広は少ししわが寄っており、あごには微かにひげが見えた。啓司は綺麗好きで、こんなだらしない啓司を紗枝が始めた見た。紗枝の疑わしい目つきを見て、彼
紗枝は吃驚して目が覚めると、頭に大量の汗をかき、全身が震えた。薄明かりの中、隣の部屋にいる啓司はすでに急いで駆けつけてきて、彼女が無事であるのを確認出来て、緊張した心が緩めた。「どうしたの?」彼は聞いた。紗枝の目は赤かった。「自分が死んだのを夢見た」とてもリアルに感じた。 死という言葉が、不思議に啓司の神経に刺激したように、彼は紗枝に近寄り、彼女を腕に抱き、背中を優しく撫でながら、できるだけ柔らかい声で言った。「君は死んでない、僕がいるよ」一息ついてから、「怖がらないで」と続けて言った。紗枝はしばらく経ってから悪夢から現実に戻った。彼女は啓司を見上げたが、光が暗くて、彼の顔をはっきり見えなかった。「ありがとう」それから彼女が啓司の手を軽く引き離して再びベッドに横たわった。彼女が遠慮する言葉と疎い態度が啓司を不快させた。今回、彼は隣の部屋に戻らず、直接紗枝の布団を開いて、紗枝の隣に横になり、彼女を腕に抱きしめた。紗枝の体が引き締まった。彼の低い声を聞こえた。「何かあったら、僕が相談に乗るよ」紗枝の喉が一瞬詰まった。外で急に大風が立ち、大雨が降り始めた。 もともと暑い日々が突然の大雨で涼しくなってきた。 紗枝はもともと怖かったが、彼に抱かれて、少し安心した。 啓司がきれい好きで、結婚して3年間彼女を抱いたことがなかった。そして今、すべてが変わった。 「啓司、まだ私のことが嫌いなの?」彼女を抱きしめていた男の手が固まった。 彼が返事をするのを待たずに、紗枝は再びつぶやいた。「よく分からない…」啓司の喉が詰まって、一言も言えなかった。人は変わらないのか?彼も自分がどうしたか分からなくなった…彼は紗枝に愛情があると思わないが、他の人と再び知り合うのが面倒だと思った。彼はただ彼女が死ぬのを恐れていた。暫く経って、啓司は彼女に聞き返した。「もし離婚したら、君は池田辰夫と結婚するの?」紗枝は首を横に振った。「わからない」でも、心の中では、彼女が自由に生きたいと思った。黒木家の嫁の身分に締められたくないと思った。今、愛する仕事があって、子供もいるし、彼女は啓司を一筋思うような恋愛至上主義の女じゃなかった。「今君たちを自由にさせていいか?」啓司は突然言った。
昇はまだ葵に希望を抱いていた。辰夫の手先に連れて、葵を騙しに教えた場所についてから分かった。芝生で待ち伏せた警察を見て、車に乗った昇は信じた。「ほら、この女は君を助けようもしなかった。返って君をずっと利用してきたんだ」見張っていたボディーガードが言った。 昇は首を横に振った。「ありえない、彼女の電話が監視されたはずだった!」今時にこの愚か者がまだ事実を受け入れようとしなかった。ボディーガードのミッションは、この男に葵の本性を知ってもらうことだった。彼はまだはっきり見えないので、しばらく続くことになった。車が離れ、昇を逮捕しに来た人々も何の獲物も取れなかった。葵は昇がきっと逮捕されると思ったが、再び逃げられたとは思わなかった。彼女は心配して、どうすればいいか分からなくなった。…牡丹別荘。紗枝が退院して戻ってから、唯から電話をもらった。 耳に最初に入ってきたのは、景之の心配そうな声だった「お母さん、最近はどうでした?」唯と景之に自分の交通事故について決して教えないよう辰夫に伝えた。だから、景之と唯は交通事故のことを知らなかった。 「うん、悪くはないよ」紗枝は優しく答えた。 それから、景之を聞き返した。「学校はどう?いたずらしてない?唯おばさんに迷惑かけたの?」景之は真剣に回答した。「お母さん、僕はもう3歳児じゃないですよ」 乱された部屋と法律文書を暗唱している唯を振り向いて景之は心に嘆いた。お母さんが知らないが、僕は唯おばさんの面倒を見ているよ。そして、唯おばさんは本当に馬鹿げているね。景之はそう思った時、唯の視線にぶつかり、法律の基礎知識を持っている唯がへへと彼に向って笑った。「…やっぱりだね」馬鹿げた。しばらく話をして唯に変わってもらった。唯の前に歩き、しぶしぶと彼女に電話を渡した。 「お母さんが話したいって」「わかった」唯は本を片手で持って、片手で電話を受け取った。 「紗枝、景之のことを心配しないで。彼はとても元気だ。君は知らないが、今、幼稚園の子供たち全員が彼の言いなりになったの…」唯いちいち景之が最近学校での出来事を話した。紗枝は静かに耳を傾けていた。 二人の子供のそばに居られなくて、彼らの成長を見届けなくて、彼女は少し罪悪感を感じていた。
啓司は、なぜ突然そのような命令を出したのかわからなかった。おそらく紗枝が交通事故に遭ったから、彼女に喜んで早く回復してほしかっただろう。 今迄の罪を償うためかもしれなかったし、一昨日に彼女に訴訟を取り下げてもらったことでもあった。 管理人も困惑した。「どうして急に?どんな花を植えたらいいですか?特別なお客さんを招待するのですか?」啓司は窓の前に立ち、外にいる小柄の人影を見て言った。「任せる、多ければ多いほどでいい」「分かりました」管理人は啓司が言った多ければ多いほどの意味を読み取れなかった。当初、管理人がこの別荘を建てる時の責任者だったので、庭の面積など知ったので、すぐ花の調達を手配し始めた。夜、水に植えられる水連やら、庚申原とか、桃洲市にこの季節にあるすべての種類の花を調達してきた。トラックが牡丹別荘に次々とやってきた。彼らが来たとき、紗枝はすでに眠った。外で仕事が行われていることを知らなかった。翌日、早朝。 紗枝が目が覚めて、ベランダに歩いて行くと、びっくりした。なぜなら、目の前には花で満ちていた。部屋が変わらなかったから、彼女は夜にどこか別の世界にタイムスリップしたと思った。彼女は急いで階段を降り、しかし、啓司がいなかった。リビングルームを出て庭に出ると、花が競い合ってるように咲いて、彼女は不思議でならなかった。昨夜一体何があった?一方。啓司は車に乗って会社に向かう途中、ずっとくしゃみが止まらなかった。彼は花が多ければ多いほどと言ったが、こんなにたくさんだと思わなかった。今朝、窓を開けてから、彼は不快を感じた。 彼は花粉に軽度のアレルギーがあった。少しの花なら大丈夫が、今日のような大量の花は、彼の限界を越えた。「社長、大丈夫ですか?病院に行きましょうか?」運転手が心配そうに聞いた。 今日、運転手が啓司を迎えてきた時に、別荘の景色にびっくりした。人が住む場所じゃなく、仙女が住むところだろうと思った。彼はこっそりと妻を連れて見にくると思った。「いらない」啓司が話し終えて、携帯電話を手に取り、管理人に電話した。 「昨日の花を替えてくれ」 「全部ですか?」管理人は啓司を小さい時から見てきたので、啓司の花粉症を知らないわけがなかった。今日、お客さん
明一は相手の皮肉な態度に気付き、カッとなって手を上げかけた。だが景之の鋭い視線に遭うと、たちまち手を下ろし、悔しそうに立ち去った。殴っても勝てない、言い負かすこともできない。明一は深い挫折感を味わっていた。以前はそれなりに仲が良かったのに、こんなぎくしくしした関係になってしまって、少し後悔の念が湧いてきた。放課後、帰宅した明一はソファにぐったりと身を投げ出した。「どうしたの?」夢美は心配そうに息子を見つめた。「ママ……景之くんに謝りたいな」明一は逸之のことは嫌いだったが、その兄の景之は別だった。「何ですって!?」夢美の声が鋭く響いた。「なぜあんな私生児に謝る必要があるの!?あなたは私の息子でしょう!」明一は母の怒りに気圧され、謝罪の話題を即座に引っ込めた。「明一」夢美は諭すように続けた。「あの私生児たちと、友達になんてなれないのよ」「同じ黒木家の世代なのに、お父さんは啓司さんや拓司さんに頭が上がらないでしょう?大きくなった時、あなたまで同じように下に見られるの?」「いやだよ!」明一は強く首を振った。「僕が黒木グループのトップになるんだ!」「そうよ」夢美は満足げに微笑んだ。「私の息子なんだから、お父さんみたいに人の下で働くような真似はしちゃダメ」「うん!」明一は何度も頷いた。「頑張る!」「じゃあ、夕食が済んだら勉強よ」夢美は明一の成績を景之以上にしようと、家庭教師まで雇っていた。夜の十時まで勉強させるのが日課だった。どんな面でも、我が子を人より劣らせたくなかった。明一が食事に向かう頃、昂司が青ざめた顔で帰宅してきた。「あなた、今日は早いのね?」夢美は不審そうに尋ねた。昂司はソファに崩れ落ちるように座り、頭を抱えて呟いた。「夢美……終わった……」「何が終わったの?」「全部……投資した金が……全部パーになった」昂司は一語一語、重たく言葉を紡いだ。「えっ!」夢美の頭の中で轟音が鳴り響いた。「追加資金を入れれば大丈夫だって言ったじゃない!」「商売なんて、損なしなんてありえないだろう!」昂司は苛立たしげに言った。「IMが先回りして俺の取引先を買収するなんて……もう在庫の供給も止められ、借金の返済を迫られている」深いため息をつきながら、昂司は続けた。「新会社を破産させるしかない。そ
夢美の言葉に、ママたちは安堵の表情を浮かべ、紗枝の警告など耳を貸す様子もなかった。投票結果は予想通り、夢美の圧勝に終わった。だが意外なことに、紗枝にも全体の四分の一ほどの票が集まっていた。紗枝が不思議に思っていると、ママたちの中に、上品な装いの女性が目に留まった。その女性は紗枝に優しく微笑みかけていた。会議が終わると、その女性は紗枝の元へ歩み寄ってきた。「景之くんのお母さん、ありがとうございました」「お礼を?」紗枝は首を傾げた。「成彦くんの母親のことは覚えていらっしゃいますか?」成彦の名前を聞いた途端、紗枝の記憶が先日の出来事へと遡った。景之が暴力事件を起こし、呼び出しを受けた時のことだ。成彦はその時の被害者の一人で、その母親は抜群のスタイルで注目を集めていたものの、既婚者の家庭を破壊した女性だった。そんな事情を知ったのは、多田さんが提供してくれた情報のおかげだった。新聞でも報じられていたが、この女性モデルは横暴極まりなく、SNSで正妻を執拗に中傷し続け、ついには正妻を精神的に追い詰めて入院させたという。「ええ、覚えています」紗枝が答えると、「私が、その元妻です」女性は落ち着いた様子で告げた。紗枝は思わず息を呑んだ。目の前の女性は、成彦の母より体型は控えめだったが、その表情と品格は比べものにならなかった。「私は本村錦子と申します」紗枝が彼女を知らなかったのは、夢美の主催するパーティーに一度も姿を見せなかったからだ。多田さんからも特に情報は得ていなかった。「ご恩に感謝します」錦子は静かに告げた。「あなたのおかげで、やっと平穏な日々を取り戻し、こうして皆の前に姿を見せることもできました」「今は成彦の母として、投票に参加させていただいています」「そうだったんですね」紗枝は微笑んで返した。「こちらこそ感謝です。あまり惨めな負け方にならずに済みました」紗枝は数票程度を覚悟していたので、四分の一もの得票は予想以上の結果だった。「感謝なんて」錦子は首を振った。「私も夢美さんは好きになれません。あの方の自己中心的な振る舞いは、多くの子どもたちにとって不公平ですから」「皆、心の中では紗枝さんに会長になってほしいと願っているはずです」二人は校門まで様々な話に花を咲かせ、そこで別れを告げた
紗枝は壇上に立ち、ママたちの無礼な態度にも一切動じる様子を見せなかった。「皆様、景之の母の紗枝です。先ほど園長先生からご紹介いただきましたので、改めての自己紹介は省かせていただきます」客席のママたちは相変わらず、紗枝の言葉など耳に入れないかのように、好き勝手な態度を続けていた。幸平ママは不安げな眼差しで紗枝を見つめていた。あんなに止めようとしたのに——今となっては後悔の念しかなかった。このまま壇上で嘲笑の的になってしまうに違いない。しかし紗枝は相変わらず冷静そのもの。もはや遠回りな言い方はやめ、USBメモリを取り出した。「園長先生、スクリーンに映していただけますか?」園長は即座に協力し、プロジェクターの準備を始めた。ママたちの視線が半ば興味本位でスクリーンに集まる。「まあ、プレゼンまで用意してるのね。気合い入ってるじゃない」「どんなに立派な資料作っても、会長になれるわけないのに」「あんなにお金持ちなら、さっさと転校させれば?」周囲からの嘲笑に、夢美の唇が勝ち誇ったように持ち上がった。なんて馬鹿なことを——普通の学校なら、確かに会長には様々なスキルが求められる。でも、ここは違う。夢美が会長になれたのは、仕事の能力なんて関係なく、ただその権力を享受するためだけだった。皆が紗枝の失態を期待して見守る中、スクリーンに映し出されたのは、予想外の財務諸表だった。「これは……?」法人印の隣に記された署名に、誰かが気付いた。「これって……黒木昂司さんの会社の決算報告書では?」低い声が会場に響いた。夢美の顔から血の気が引いていった。紗枝は落ち着き払って画面を拡大し、赤字で強調された損失の数字を、誰の目にも分かるように示していった。昂司の会社の経営状態の悪さが、一目瞭然だった。「紗枝さん!それは何!」夢美が我に返ったように叫び、震える指を紗枝に向けた。紗枝は夢美の声など耳に入れないかのように、淡々と説明を続けた。「この財務諸表をお見せしたのは、投資には細心の注意が必要だということをお伝えするためです。もし資金面でお困りの方がいらっしゃいましたら、私にご相談ください」夢美の投資話に乗ったママたちの顔から、血の気が引いていくのが見て取れた。甘い言葉で誘われた「確実に儲かる」という話は、結
この幼稚園の保護者会会長は、年少・年中・年長クラス全体を統括する立場だった。そのため、他クラスの保護者会メンバーも集まっていた。前回の集まりで紗枝も何人かとは面識があったが、全員というわけではなかった。しかし、これらの保護者たちの中で、ある程度の資産がある者は皆、夢美から個別に事業への参加を持ちかけられていた。幸平ママが他の保護者たちの寝返りを知らなかったのも、そのためだった。破産寸前の彼女の家庭に投資の余裕はなく、夢美も一票や二票の価値しかない貧困家庭には目もくれなかった。新会長選出が始まる直前、夢美は紗枝の前に立ちはだかった。皆の前で挑発するように言う。「紗枝さん、障害のある人が会長を務めるなんて、できると思う?」紗枝の補聴器に指を向けながら、さらに続けた。「もし誰かが発言してる時に、その補聴器が故障したら?まさか、新しいのに替えるまで、私たちに待てって言うつもり?」紗枝は挑発に動じる様子も見せず、静かな表情を保ったまま答えた。「私は思うんですが、体が不自由な人より、心に闇を抱えた人の方が会長には相応しくないんじゃないでしょうか。保護者会は子どものためにある。闇を抱えた人は、他人の子どもを傷つけることしか考えないでしょうから」「何を言い出すの!」夢美の声が裂けんばかりに響いた。「あなたの息子が先に私の子を——」「誰が誰を傷つけようとしたのか」紗枝は冷ややかな眼差しを向けた。「あなたが一番よくご存知でしょう」わずか数人の子分を引き連れて逸之に制裁を加えに来るなんて——明一のような子どもが考えそうもない行動を、夢美は止めるどころか、むしろ後押ししていた。常軌を逸した行為に、紗枝は心底呆れていた。夢美がさらに反論しようとした矢先、園長先生と担任が姿を見せた。周囲に制され、夢美は渋々口を閉ざした。園長は出席者に向かって、昨年度の園児たちの成長ぶりについて簡単な報告を述べた後、会長選挙の開始を宣言した。夢美が保護者会に加入して以来、黒木家の影響力の前に誰も会長職に名乗りを上げる者はいなかった。ところが今日、スクリーンには紗枝の名前が映し出されていた。「夏目さんは、昨年、景之くんを海外から本園に転入させた保護者様です」園長が説明を始めた。「お時間にも余裕があり、保護者会会長として皆様のお役に立ちたいとの
多田さんは一瞬たじろいだ。紗枝が近づいてくるのを見て、明らかに落ち着かない様子を見せる。「あら、景之くんのお母さん、早いのね」声が僅かに震えている。「ええ、今日は会長選でしょう?早めに来なきゃ。多田さんも私に一票入れてくださるって約束してくれましたものね」「ええ、もちろんよ」多田さんは作り笑いを浮かべた。無記名投票なのだから、心配することはない。幼稚園の会議室に入ると、既に多くのママたちが集まって、盛り上がった会話を交わしていた。紗枝が入室すると、皆が一斉に視線を逸らし、まるで彼女がいないかのように振る舞い始めた。紗枝はそんな様子も気にせず、これから始まる展開を静かに待った。意外にも、先日駐車許可証を譲った幸平くんのママが、自ら話しかけてきた。「景之くんのお母さん、いらっしゃい」「ええ」紗枝は礼儀正しく微笑み返した。多田さんと同類かもしれないと警戒し、それ以上の親しみは示さなかった。すると幸平ママは紗枝を隅に連れて行き、声を潜めた。「景之くんのお母さん、今日は立候補を取り下げた方がいいと思います」紗枝は首を傾げた。「どうしてですか?」「私、早めに来たんですけど……」幸平ママは勇気を振り絞るように続けた。「何人かのママが話してるのを聞いちゃって。みんな夢美さんに投票するって」「どうやら示し合わせたみたいで、寝返るつもりのようです。選挙に出られると……」後は言葉を濁した。「私への推薦者が少なくて、面目を失うってことですね?」紗枝が問いかけると、幸平ママは小さく頷いた。この人は本当に自分のことを考えてくれている。恩を忘れていない――紗枝はそう確信した。「ご心配なく」紗枝は微笑んで答えた。「面目なんてどうでもいいんです。むしろ、立候補を諦めた方が、私の面目が潰れる」「息子のためにも、最後まで戦わせていただきます」昨夜、紗枝は景之に聞いていた。先生やクラスメイトとの関係はどうかと。「先生は替わって、少しマシになったよ」と景之は答えた。でも、クラスメイトは相変わらず自分から話しかけてはこないという。「別に気にしてないよ」そう言う息子の言葉に、紗枝の胸が痛んだ。ママを心配させまいとする四歳の幼い心。こんな小さな子が、本当に気にしていないはずがない。紗枝の決意を受け止めた幸平
これでは、ママたちの協力は得られそうにない。紗枝が眉を寄せて対策を考えていると、牧野が付け加えた。「でも、投資したお金は無駄になるでしょう。数日も持たないはずです」「奥様、もしお知り合いの保護者がいらっしゃるなら、投資は止めた方がいいとお伝えください」紗枝の目が輝きを取り戻した。「本当?なぜそんなに確信が持てるの?」牧野が答える前に、啓司が口を開いた。「昂司が手を出した共同購入事業は、主に生鮮食品だ。保管が難しく、配送コストも馬鹿にならない。それに、今は多くの企業が参入している」啓司は一呼吸置いた。「今は競争と言いながら、実質的には資金力での消耗戦だ。最低価格で顧客を集め、他社を市場から追い出せば、独占状態が作れる」自社も同じ分野に参入していることには触れなかった。生鮮食品は人々の生活に直結する。桃洲市ほどの大市場で、一社独占になれば、消費者が困ることは目に見えていた。紗枝も最近、デリバリーアプリで生鮮食品の激安共同購入を目にしていた。「確かに今、共同購入は流行っているけど……でも、食卓に直結する商品だもの。長く続くはずないわ」啓司は紗枝の洞察力に驚いた。「ああ、そうだ」傍らで聞いていた牧野は驚きを隠せなかった。社長が奥様の意見に同意するなんて。それなのになぜ、昂司と赤字覚悟の競争を?この事業だけでも莫大な損失を出しているというのに。「ところで、明日は景ちゃんの幼稚園で保護者会の会長選なの。私も立候補するつもりなんだけど」紗枝は牧野に向き直った。「牧野さん、この業界の分析資料を一部いただけないかしら?」紗枝は牧野がそこまで言うからには、きっと詳細な分析資料があるはずだと踏んでいた。それを使って、ママたちに夢美の事業がいかに危険かを示せるかもしれない。牧野が承諾しようとした時、啓司が割って入った。「昂司の直近半月の損失報告を渡してやれ」「まさか、そんな資料まであるんですか?」紗枝の目が見開かれた。これを見れば、ママたちも後悔するに違いない。「奥様、すぐにお持ちします。これなら会長選は間違いありませんね」牧野は景ちゃんのためと聞いて、即座に会社に電話し、昂司の損失報告書を取り寄せるよう指示した。資料を受け取った紗枝は、ぱらぱらとページを繰った。巨額の売上が巨額の損失へと転じて
紗枝は保護者会の会長選について話し合って以来、ママたちの様子を注意深く観察していた。昨夜まではプライベートチャットで盛り上がっていたのに、今日は皆が急に沈黙し始めた。数人に至っては、SNSの投稿を非公開にしていた。この不自然な変化に、紗枝は違和感を覚えた。明日の月曜日は新会長の選出日。ママたちは寝返るつもりなのだろうか。試しに、一人のママにメッセージを送った。プレゼントしたバッグの感想を尋ねる。しばらくして返信が来た。「あら、ごめんなさい。あのバッグ、私には合わないみたいで……一度しか使ってないわ。もう押し入れ行きになりそう」他のママたちにも同様のメッセージを送ってみたが、品物が合わないとか、まだ使用していないとかの返事ばかり。これほど露骨な態度に、疑いの余地はなかった。明日、きっとママたちは寝返るに違いない。あれほどしっかりと約束したはずなのに。誰かが夢美に情報を漏らしたのだろう。紗枝は眉間を揉みながら、今回は焦りすぎたと反省した。そもそも、なぜママたちが新参者の自分のために、夢美を敵に回すことなどあり得ただろうか。啓司は夜更かしのせいで、いつもより遅い目覚めだった。「珍しく遅いのね」紗枝が声をかける。普段なら遅くとも七時には起きる啓司が、もう九時半を回っていた。「今朝は特に予定もないから」昨夜の冷水シャワーが祟ったのか、啓司は頭がズキズキしていた。風邪の気配を感じる。紗枝の隣に座りながら、「食事は済んだ?」と尋ねた。「ええ、もう食べたわ。あなたも早く何か食べたら?」「食欲がない。少し散歩でもしないか」啓司はゆっくりと提案した。紗枝も朝食を終えたばかりで、散歩は悪くない考えだと思った。昨夜、ずっと側にいてくれた啓司への恩返しにもなる。「ええ、いいわ」紗枝は保護者会のことを一時脇に置いて、啓司と共に外へ出た。冷たい風に花の香りが混ざり、春の訪れを感じさせた。紗枝は上着の襟を寄せながら、「今年は春が早いみたいね」と呟いた。啓司は曖昧な返事を返すと、「昨日、何かあったのか?」と切り出した。牧野の報告は受けていたが、紗枝の口から直接聞きたかった。紗枝は一瞬言葉を失った。美希の言葉と、岩崎弁護士の調査結果が胸に重くのしかかる。「拘置所で美希さんに会っただけよ。
紗枝は何かを悟ったように、頬が一気に朱に染まった。手を離そうとする紗枝の隙を見計らい、啓司は素早く手を引いた。「次からソファで寝るな。部屋まで歩けないほど遠くないだろう」啓司は感情を抑え、冷たすぎず、親しすぎない声音を心がけた。結局、二人はまだ喧嘩中で、紗枝からの謝罪もなかったのだから。「ごめんね、迷惑かけて。もう休んで」紗枝は啓司の気遣いを察し、布団に潜り込んだ。啓司は休まなかった。部屋を出ると、まず牧野に今日の紗枝の行動を調べるよう指示した。あの様子が気になった。それからようやくシャワーを浴びに向かった。牧野は思わずため息をついた。彼女とのいい雰囲気の時に、社長からの電話だ。給料アップの話を切り出さなければ。部下に監視カメラの確認を依頼し、紗枝の行動を追った。拘置所で美希と面会し、その後の経緯まで、すぐに把握できた。シャワーを済ませベッドに横たわった啓司の携帯に、牧野からの報告が入る。「社長、奥様は本日美希さんと面会されました。言い争いの末、美希さんが病院に搬送される事態になったようです」大きな欠伸を漏らしながら、牧野は続けた。「その後、担当弁護士と話し合いを持たれました。おそらく美希さんの件についてかと」啓司が何か言おうとした瞬間、牧野の向こうから女性の声が聞こえてきた。「ダーリン、あなたの社長って変よね〜こんな真夜中に仕事させるなんて。愛に飢えてるんじゃない?こんな時間、奥さんと愛を育むべきでしょ?」「シーッ!」という慌てた声が続く。啓司は即座に通話を切った。まさか部下からの恋愛アピールを食らうことになるとは。この夜、啓司は一睡もできなかった。今すぐにでも紗枝を強く抱きしめ、二度と離したくないという衝動に駆られていた。だが、さっきまで悪夢にうなされ、涙を流していた紗枝の姿が目に浮かぶと、その想いを押し殺さざるを得なかった。逸之を幼稚園に行かせなければ良かった。一人寝の練習なんて、まだ早すぎたのかもしれない。眠れない啓司は、仕事に戻ることにした。昂司の手がけた共同購入事業も、もう風前の灯火だった。一方、昂司は八方塞がりの状態に追い込まれていた。「なぜIMは俺の邪魔をするんだ?」「前は仲介プラットフォームで、今度は共同購入。どこまで俺の事業を潰すつもりだ」「この会
紗枝は岩崎弁護士に美希の動向を見張るよう依頼した。末期がんでもない限り、決して許すつもりはなかった。帰宅後、紗枝は雷七に父の事故について改めて調査を依頼した。岩崎弁護士は年月が経ち過ぎて証拠は残っていないと言ったが、紗枝は確かな真実が知りたかった。全ての用事を済ませ、ソファに身を沈める。疲れているはずなのに、眠れない。頭の中は混沌としていた。幼い頃の記憶が蘇る。父の優しい顔。「お母さんはとても良い人で、紗枝のことを心から愛しているんだよ」と語る父の声。紗枝の口の中に苦い味が広がった。クッションを強く抱きしめる。そのままソファで横になったまま、いつしか意識が遠のいていった。家政婦は眠り込んだ紗枝を見つけると、そっと毛布を掛けてやった。今日は逸之が不在だった。幼稚園での一泊体験保育の日だったのだ。深夜になってようやく帰宅した啓司に、家政婦が小声で報告した。「旦那様、奥様が午後からずっとソファでお休みになっています。起こすのも気が引けまして……」「このまま寝てらっしゃると、風邪を召されそうで」「分かった。もう休んでいいよ」啓司は静かに告げた。「はい、失礼いたします」家政婦は自室へと引き取った。啓司はソファへと歩み寄り、大きな手を伸ばすと、紗枝を毛布ごと優しく抱き上げた。温もりを感じる柔らかな重みが、腕の中に収まる。二階の寝室まで運び、そっとベッドに横たえる。シャワーを浴びようと身を翻そうとした瞬間、紗枝の細い指が啓司の手首を掴んだ。「行かないで……」啓司は動きを止めた。まさか目を覚ましたのか。声をかけようとした瞬間、紗枝の寝言が漏れ聞こえてきた。「お父さん……紗枝を……置いて……いかないで……」啓司の表情が和らいだ。紗枝は夢の中で父を呼んでいたのだ。すすり泣くような紗枝の声に、啓司は空いた手を伸ばし、その頬に触れた。涙の跡が冷たく残っていた。言葉を詰まらせたまま、啓司はベッドの端に腰を下ろした。紗枝の手を握ったまま、そっと寄り添う。時が流れ、紗枝が目を覚ました時、啓司がベッドヘッドに寄り掛かり、静かな寝息を立てていた。少し身動ぎした紗枝は、下を向いた瞬間、啓司と繋がれたままの手に気付いた。目覚めたばかりの紗枝の記憶に、夢の情景が鮮やかに残っていた。幼い頃、父と一緒に料理を作