帝都、サキュバスクラブ。その日は入江紀美子(いりえ きみこ)が名門大学を卒業する日だった。しかし、彼女はまだ家に帰って祝うこともできなかった。薬を飲まされ、実の父親に200万円の値段で、クラブの汚らしい中年男たちに売られたのだ。暗い個室から何とか逃げ出したものの、薬の効果が彼女の理性を次第に奪っていった。廊下では、赤みを帯びた彼女の小さな顔が、怯えた目で迫ってくる男たちを見据えていた。「来ないで、警察を呼ぶから……」先頭に立つ男が口を開き、黄ばんだ歯を見せながら、手に持っている鞭を揺らしながら近づいてきた。「いいぜ、好きなだけ呼んでみろ。警察が来るのが早いか、俺たちがてめぇをぶち壊すのが早いかだな!」「べっぴんさんよ、心配するな、兄さんたちがたっぷり楽しませてやるからな……」紀美子は耳鳴りがし始めた。彼女は父が救いようのないろくでなしだと知っていた。大学に通っていたこの数年、彼女はずっとアルバイトで稼いだお金で生活していて、父からは一銭も貰わなかった。それなのに、まさか父が今、ギャンブルの借金を返す為に娘を人に売ろうとしているとは!紀美子は逃げ出そうとしたが、足の感覚はなくなり、力が抜けていた。床に倒れ込んだ彼女の前で、その男たちはまるで獲物を物色するような目で彼女を見下ろしていた。ちょうどその時、彼女の左前の部屋のドアが開かれた。黒い手作りの革靴が、彼女の視界に映り込んだ。見上げると、そこには男が立っていた。その男の真っ黒な瞳は冴え切った湖の如く、まるで魂を吸い取るような冷たさをしていた。男を見て、彼女は少し安心した。彼女は男のズボンの裾を引っ張り、「お願い、助けて!この人たちに薬を飲まされたの!」と泣きながら助けを乞うた。男は眉を寄せ、冷たい視線で彼女を掠め、一瞬不快感を見せた。彼は身体を屈め、手を伸ばした。「ありがとう……」紀美子は安心して手を伸ばそうとした。てっきり彼が自分を支えてくれると思った。しかしその時、男は彼女の手を振り払い、自分のズボンを握っているもう一本の彼女の手を冷たく払った。MKグループの世界トップ企業の社長である森川晋太郎(もりかわ しんたろう)にとって、同情心という言葉は無縁だった。「晋様!」彼の後ろに立つアシスタントの杉本肇(
紀美子は当然、信じられなかった。学生時代、耳たぶのホクロが「特別だ」と友達から褒められたことはあるけど。たかがホクロのために、MKの社長が月200万円で雇ってくれるのか?自分がおかしいのか、それとも彼がおかしいのか。そんな考えを巡らせている間に、晋太郎はもう立ち上がっていた。彼がゆっくりとシャツのボタンを締める様子からは凛とした雰囲気を発していた。「俺は人に無理を強いるつもりはない。よく考えろ。」言い終わると、彼はその場を離れた。扉の前では、アシスタントの肇が待っていた。晋太郎の目の下の腫れを見て、彼は驚きで目を見開いた。まさか、これまで童貞をなによりも大事にしていた晋様が、初体験を奪われるとは。しかもかなり激しい戦況だったように見える。我に返った肇は、慌てて晋太郎に告げた。「晋様、手に入れた情報をあなたの携帯に送信しました。この入江さんは晋様がお探ししている人ではないようですが、追い払いましょうか?」「いいや、資料は読んだ。彼女の学校での履歴は完璧だ。何よりも俺は彼女に反感を持っていない、そして秘書室は今能力のある人間を必要としている。もし彼女が三日以内にMKに現れたら、すぐに入社手続きをしてやれ」「もし現れなかったら?」肇は恐る恐ると追って聞いた。「ならば彼女の好きにさせろ」晋太郎はあまり考えずに答えた。……三年後、MK社長室紀美子はタブレットを持ち、真面目に晋太郎にスケジュールを報告していた。「社長、午前十時にトップの会議がありまして、十二時にエンパイアズプライドの社長と会食、午後四時に政治界の方々との宴会があります…」彼女の声は落ち着いていたが、その唇が動くたび、無意識に誘惑的な雰囲気を醸し出していた。化粧をしていない小さな顔は、それでも艶やかで目を引く美しさだった。晋太郎は目の前の資料から視線を上げると、その細長い瞳に一瞬、炎のような情熱を宿した。彼の喉仏が上下に動き、その視線は紀美子に絡みつくようだった。やがて彼は書類を机に置き、長い指でネクタイを不機嫌そうに引っ張った。「こっちにこい」晋太郎は紀美子に命令した。紀美子は呆然と頭を上げ、晋太郎の幽邃な目線に触れた瞬間、自分が次に何をすべきかすぐに悟った。彼女はタブレッ
「中はどうしたの?」入江紀美子は入り口で眺めている女性同僚に尋ねた。声をかけられた女性同僚は振り返った。「入江さん。あの応募に来た女の人ね、人の作品をパクッて面接しに来たのがバレて、チーフがそのまま彼女の面接資格を取り消そうとしたんだけど、逆切れして、今事務所で暴れてるのよ」「なるほど」ことの経緯を聞いた紀美子は人事部の事務所に入った。チーフは一人の女性と激しく言い争っていた。女性の顔立ちはなかなかきれいなものだが、露出度の高いかっこうをしていた。「入江さん、ちょっと助けて、この狛村さん、人の作品を盗用して面接に来たのに、問い詰めたら逆切れしてきたのよ」チーフが紀美子を見て、助けを求めてきた。「話は聞きました。もう帰ってください。MKは不誠実な人は永遠に採用しません」紀美子は狛村をはっきりと断った。「関係ないでしょ、誰よ、あんた。私にそんな口の聞き方するなんて、あんたに不採用と判断する資格があるとでも?この会社はあんたのものじゃないでしょ?」「私が誰なのかは、あなたと関係ありません。覚えておいてください。私がこの会社にいる限り、あなたのような小賢しいまねをして入社しようとする人、永遠に採用しません」「大口を叩くじゃない」女はあざ笑いをした。「覚えておきなさい!将来私がMKに入社したら、絶対にあなたに跪いて謝ってもらうから!」「そんな日がくるといいわね!」「警備を呼んで。この狛村さんに出て行って貰うわ!」紀美子はチーフに指示した。……夜。MKで返り討ちを喰らった静恵は電話をしながらバーに入った。「安心して、絶対になんとかしてあの会社に入るから」静恵は低い声で電話の向こうに言った。そして、彼女は電話を切り、カウンターに座りバーテンダーに酒を一杯注文した。この時、ある人が彼女の隣に座り込んできた。「静恵ちゃん!」静恵は振り返って隣に来た男の顔を見た。彼は彼女がこの前酒場で知り合った飲み仲間、八瀬大樹だ。男はいわゆるブサイクの部類に入るものだった。しかし彼は裏表社会においてそれなりの背景を持っているらしく、静恵は彼と何回か夜を過ごしていた。彼女は少し驚きながら言った。「大樹さん?帰ってきたの??」「なんだ、俺を見てそんなに緊張するなんて、ま
翌日、ジャルダン・デ・ヴァグ。ここは森川晋太郎の個人別荘だ。朝六時半頃だが、入江紀美子は起きて晋太郎に朝食を用意していた。彼女は、晋太郎の愛人になった日からここに住んでいた。それからは晋太郎の生活は彼女一人で世話をするようになった。彼女は晋太郎の秘書、愛人、そして使用人でもあった。男が起床した頃、朝食は既にテーブルの上に並んでいた。晋太郎がネクタイを締めながら階段を降りてくるのをみて、紀美子はすぐ出迎えにいった。「私が締めます、社長」晋太郎は手の動きを止め、紀美子がネクタイを手に取り丁寧に結び始めた。紀美子は170センチと長身の方だ。しかし晋太郎の前ではせいぜい彼の胸の高さだった。晋太郎は目を逸らし、紀美子の体が発する香りを嗅いだ。理由もなく、彼には欲の火が灯された。「できました……」紀美子が頭を上げた途端、後頭部を男の大きな手に押えられた。彼の舌はミントの香りを帯びており、蛇のように彼女の口の中に侵入してきた。別荘の中には急に曖昧な雰囲気が漂った。2時間後。黒色のメルセデス・マイバッハがMK社のビルの前に停まった。運転手は恭順に車を降り、ドアを開けた。数秒後、晋太郎は長い脚を動かし車から降りた。オーダーメイドの黒いコートは彼の落ち着いた気質を限界まで引き出していた。その強烈なオーラはまるで神の如く、周りの人はそのプレッシャーで逃げ出したくなるほどだった。晋太郎は細長い指でネクタイを緩めながら、手に持っている資料を隣の紀美子に渡した。その瞬間、晋太郎の深い眼差しが紀美子の少し腫れた唇に少し留まった。そしていきなり手を上げ、厚みのある指腹で彼女の口元を軽く擦った。「口紅、少しはみ出ている」そう言いながら、彼は親指ではみ出た口紅を拭きとった。温もりを感じるその触感は、紀美子の瞳を強く震わせた。一瞬、彼女は、今朝彼にソファに押えられ求められたことを思い出した。晋太郎の眼底に映っている自分のとり乱れた姿を見て、紀美子は慌てて気持ちを整理した。「ありがとうございます」心臓の鼓動は乱れていたが、彼女の声は落ち着いていた。晋太郎は手を引き、口元を軽く上げ、すらっとした体を翻して会社の方へ歩き出した。紀美子は浮つく心を必死に抑えながら、タブレッ
ウィーン、ウィーン入江紀美子はテーブルの上に置いている携帯電話の振動で現実に引き戻された。母の主治医の塚本悟からの電話を見て、慌てて出た。「塚本先生!母に何かあったのですか?」紀美子は心配して尋ねた。「入江さん、今病院に来れますか?」電話の向こうの声は明らかに何かがあるように聞こえた。「はい!今すぐ行きます!」紀美子は急いで立ち上がった。20分後。シャツ一枚の姿の紀美子は病院の入り口の前で車を降りた。冷たい風に吹かれ、紀美子は思わずくしゃみをして急いで入院病棟に向かった。エレベーターを出てすぐ、母の病室の入り口にレザーのジャケットを着ている男が見えた。男は口元にタバコをくわえていて、挑発的な口調で悟に話しかけていた。その男を見て、紀美子は両手に拳を握り、急いで病室に向かって歩き出した。彼女の足音が聞こえたのだろう、悟と男は振り向いた。紀美子を見て、男はクスっと笑った。「これはこれは、入江秘書様のお出ましか!」紀美子は悟に申し訳ない顔をして、そして男に冷たい声で伝えた。「石原さん、この間も言ったでしょ、借金の取り立てであっても病室まではこないように、と」石原はくわえているタバコのフィルターを噛みしめた。「お前のオヤジさんがまた消えちゃったんで、ここまでくるしかなかったんだ」「今回はいくら?」紀美子は怒りを抑え、石原に聞き返した。「そんなに多くないさ、利息込みで150万!」「先月までは70万だったのに!」「お前のオヤジに聞け。借用書はこれだ。お前のオヤジの筆跡は分かるよな?俺はただ借金の取り立てに来てるだけだ」石原はあざ笑いをして紀美子を見つめ、紀美子に借用書を見せた。紀美子は怒ってはいるが、反論する理由が見つからなかった。父はギャンブルにハマったろくでなしだ。しょっちゅう借金を作って博打に使い、ここ数年は借金が積もる一方だった。借金の返済日になると、この借金取りたちが母の病院に訪ねてくる。紀美子は怒りを抑えながら考えた。「分かったわ!」「金は渡すから!けど今度また病院まで取り立てにきたら、もう一銭も渡さないからね!」そう言って、紀美子は携帯電話から石原の口座へ150万円を送金した。金を受取り、石原は携帯を揺らしながら颯爽と病室
「うん、聞くわ」入江幸子は目を開け、天井を見つめて深呼吸をした。「紀美子、実はあなたは…」「幸子!」声と共に、一人の男が入り口から焦った様子で駆け込んできた。二人が振り返ると、男は既に近くまで来ていた。その男の体はタバコと酒の臭い匂いを発しており、髭は無造作に生えている。男は紀美子の反対側に座った。「どうだった?石原に酷いことをされなかったか?」「何をしにきたのよ!」幸子は嫌悪感を露わにして言った。「また迷惑をかけにきたの?」入江茂は舌打ちをしながら紀美子を見た。「紀美子、ちょっと席を外してくれないか?幸子にちょっと話してすぐ帰るから」紀美子は心配そうに母の方を見たが、幸子は彼女に頷いた。紀美子はしぶしぶと立ち上がり、厳しい眼差しで茂を見た。「お母さんを怒らせないで」茂は何度も頷いて答えた。紀美子は何度も振り返りながら病室を出た。病室のドアが閉まった瞬間、茂の心配そうな表情は消えた。「あのな、あんまり余計なこと喋るなよ」「もう紀美子を利用させない!」幸子は目から火が出そうなほどの厳しい表情で、歯を食いしばりながら答えた。「俺が金をかけて育ててやったんだから、借金の返済くらい、手伝ってもらうのは当たり前だろ?お前が大人しく口を閉じていればそれでいいが、もし何か余計なことを漏らしたら、紀美子に今の仕事を続けられなくしてやるからな!」「あんた、それでも人間なの?!」幸子は体を震わせながら拳を握り締めた。「そうだ、俺は悪魔だ。お前はその口をしっかりと閉じておけ。でないと、何が起きても知らんからな!」茂はその言葉を残し、振り返らずに病室を出た。ドアを開け、そこに立っている紀美子を見ると、茂はすぐに顔色を変えた。「紀美子、お父さんは先に帰るからな!今日の金はお父さんがお前から借りたことにしよう」それを聞いた紀美子が顔を上げると、茂は返事を待たずに行ってしまっていた。紀美子がため息をつき病室に戻ろうとした時、ポケットに入れていた携帯がまた鳴り始めた。森川晋太郎からだ。紀美子は少し緊張して電話に出た。「今どこだ?」電話から冷たい声が聞こえてきた。「ちょっと急な用事が…」紀美子は病室の中を眺め、声を低くして答えた。「狛村静恵のことでデ
「社長」入江紀美子は疑惑を抱えながら森川晋太郎の前に来た。「昨夜は何故帰ってこなかった?」「体の具合が悪かったからです」「具合が悪かった?口まで開けない状態だったか?まずは俺に報告することを忘れたのか?」晋太郎は更に厳しい口調で問い詰めた。「違います。薬を飲んで眠ってしまいました。わざと報告を怠ったのではありません。」「本当に眠ってしまったのか?それとも、他の男と寝ていて報告をしなかったのか?」晋太郎は無理やり目の中の怒りを抑え、声がますます冷たくなった。「えっ?他の男って?」紀美子は頭を上げて聞き返した。「その質問、君ではなく俺がするものではないか?」晋太郎は冴え切った目で紀美子を見つめ、挑発まじりに聞き返した。「入江さん?」まだ戸惑っていた紀美子は、優しそうな声が聞こえてきた。その瞬間、紀美子は思い出した。昨日晋太郎に電話を切られる前、塚本悟と話していた。もしかして晋太郎が言っている男とは、悟のことか。紀美子はこちらに向かって歩いてくる悟を見てから晋太郎の顔を覗いた。そこから説明してもすでに遅かった。悟は紀美子の傍で足を止め、針を抜いて血が垂れ続けている彼女の手を見た。「血が出ている、この時間なら、まだ点滴は終わっていないはずじゃない」それに気づいた紀美子は慌てて針の穴を手で塞いだ。「ありがとう、あとで処理しておくから」悟は自分の手を紀美子の額に当て、心配そうにため息をついた。「熱はひいたようだけど、まだ静養が必要だ」紀美子は晋太郎に誤解されたくないので、慌てて視線を逸らした。「分かってる」悟は仕方なく手をポケットの中に突っ込んで、ようやく隣で息を潜めている晋太郎に気づいた。「患者さんは静養が必要です。話は後にしていただけますか」悟は謙遜かつ礼儀正しい言葉遣いで注意した。「医者が体温計ではなく、手を当てるだけで患者の体温を正しく測るなんて初めて見た」晋太郎は冷やかしを言いながら、悟と目を合わせた。「臨床の経験を活かせば、患者さんの時間を節約できることもありますので」その会話を聞いた紀美子は緊張した。彼女は、悟が自分の為に晋太郎に抵抗しているのは分かっていたが、晋太郎が決して大人しく人の話を聞く人間ではないとも分かっている。
入江紀美子は手元の仕事を片付け終えた頃、まだ時間があったので、彼女はカバンを持って出社した。エレベーターを出ると、森川晋太郎と狛村静恵の姿が見えた。「入江さん、もう体は大丈夫なの?」静恵は心配そうな口調で話しかけてきた。「大分よくなったわ。心配かけてごめん」紀美子は晋太郎の顔を見ずに静恵に答えた。「いいのよ、あなたが早く治れば、社長のお仕事を肩代わりできるんだから」そう言いながら、静恵は長い髪を耳の後ろにまとめ、わざと耳たぶのホクロを見せつけてきた。「社長、後でお食事に行くとき、入江さんも連れて行きましょうか?」「いい、彼女はやるべきことがある」晋太郎は冷たく返事した。そう言って、晋太郎は静恵の腕をとり、エレベーターに乗った。紀美子は空気を読んで一歩下がり、何事もなかったかのような顔で二人の横を通っていった。午後8時。紀美子はまとめ終わったスケジュールを晋太郎に送った。疲れで割れそうな頭を揉みながら会社を出ると、杉本肇が少し離れた所に立っていた。「晋様に、入江さんを家まで送れと言われました」「大丈夫よ、自分で帰るから」紀美子は断った。「入江さん、ちょっと話したいことがあります」「なに?」紀美子は無気力そうに尋ねた。「晋様が、入江さんの体調が良くないので使用人を雇いました。その人が今、ジャルダン・デ・ヴァグで待っています」晋太郎は一体何をしようとしているのだろう、と紀美子は眉を顰めた。自身の憧れの人と一緒にいながら、私を手放さない。紀美子は心の中であざ笑った。自分はあの女と共に晋太郎に仕えるほど下賤ではない。彼女は再び断ろうとしたが、肇は声を低くして言った。「入江さん、狛村さんの身分はまだ確定していませんので、ご自分の為にも、もう少し抗ってみませんか?」「杉本さん、この世の中、感情なんかより、お金のほうがずっと重要だわ」紀美子は嘲笑気味に肇に言い放った。話を終わらせ、紀美子は肇の傍を通って帰っていった。「晋様、入江さんはジャルダン・デ・ヴァグに帰らないと断ってきました」肇は軽くため息をつき、後ろの席に座っていた晋太郎に報告した。晋太郎は唇をきつく噛みしめ、その様子は威圧感があった。「ならばもう永遠に帰ってこなくていい!明日あいつの
とはいえ、晋太郎が帝都で築いた広大な人脈と影響力を、悟が一気に掌握するなんて到底無理な話だ。彼が自分の地位を安定させるためには、人を頼る以外他に選択肢などないだろう。紀美子は胃の中がムカムカとするのを感じた。佳世子がこれを知ったらどんな気持ちになるのか、想像し難かった。アパートの中。このニュースを目にした晴は、すぐさま佳世子に電話をかけた。電話はすぐにつながった。晴は低い声で話し始めた。「佳世子、悟が藍子と婚約した」佳世子はしばらく沈黙した後、「……やっぱり、クズ男と安い女はいつもペアね」と冷たく言い放った。その口調は冷静だったが、晴は彼女の声から燃え上がる怒りを感じた。「佳世子……」晴は心配そうに呼びかけた。「私は大丈夫」佳世子は落ち着いた声で言った。「晴、紀美子のもう一つの電話番号を教えて」晴はすぐに紀美子の別の番号を佳世子の携帯に送った。「送ったよ。他に何か手伝えることはある?」晴が尋ねた。佳世子は深くため息をついてから言った。「藍子を見張れる人を何とか探して。私は紀美子と話してくる」「……分かった」佳世子は電話を切ると、すぐに紀美子にメッセージを送った。ちょうどコメントを見ていた紀美子は振動に気づき、ポケットからもう一つの携帯を取り出した。番号を見た瞬間、紀美子は驚いた。佳世子だ。長年の付き合いで、紀美子は佳世子の番号をしっかり記憶していた。この数日間、佳世子に連絡を取ろうとか迷っていたが、どう切り出せばいいか分からなかった。まさか佳世子が先にメッセージを送ってきてくれるなんて。佳世子と晴は会ったのだろうか?でなければ、この番号をどうして知っているはずがない。そう考えながら紀美子はメッセージを開いた。「紀美子、私よ、佳世子」紀美子はすぐに返信した。「分かってるわ。佳世子。元気だった?」「元気よ。あなたはどう?体調は大丈夫?」紀美子は鼻の奥がツンとした。「体調には問題ないけど、心が空っぽになったみたい」画面越しでも、佳世子には紀美子の痛みが伝わってきた。彼女は慰めた。「紀美子、大変なのは分かってる。本当にごめんね、そばにいてあげられなくて。本当はもっと早く連絡するべきだったけど、最近は藍子をどうするか考
「社長!」女性社員が声をかけてきた。「やっと戻ってこられたんですね!」紀美子は社員に微笑みかけた。「ええ、戻ってきたわ」女性社員は興奮しながらカードを手に持ち、紀美子と一緒にエレベーターの方へ向かった。エレベーターを待ちながら、女性社員は紀美子に尋ねた。「社長、お体の具合は良くなりましたか?」「安心して」紀美子は穏やかに微笑んで答えた。「もうほとんど治ったから」「それは良かったです」「社長、どうぞ」エレベーターのドアが開くと、女性社員は言った。紀美子は頷き、エリーを連れてエレベーターに乗り階数ボタンを押した。上階。紀美子が戻ってきたと聞いた佳奈は、すぐにエレベーターの前に駆けつけた。彼女は緊張しながら服装を整え、上昇してくるエレベーターを見つめた。「ピン——」エレベーターが到着すると、佳奈は深く息を吸い込み、顔に笑顔を浮かべ、ドアが開くと、佳奈はすぐに声をかけた。「社長、お帰りなさ……い……」話の途中で、佳奈は驚いて言葉を止め、視線は紀美子の後ろに立つ女性に釘付けになった。紀美子はエレベーターから降りながら、佳奈に笑顔で言った。「昨日、迎えに来なくていいと言ったでしょう?」佳奈は視線を戻し、紀美子に付き従いながら答えた。「どうしても我慢できませんでした、社長。しばらく会えていなかったので」「もう社員に知らせてある?後で会議を開くよ」佳奈は深く頷いた。「はい、準備は万全です」オフィスの扉の前まで来ると、佳奈は率先して扉を開けた。紀美子が中に入ると、エリーも続いて入ろうとしたため、佳奈はすぐに彼女を呼び止めた。「ここは社長のオフィスです。許可なしでは入れません」その声を聞いて、紀美子が振り返り佳奈を見た。エリーは冷たい視線で佳奈を見つめた。「どいて」「いいえ。社長の許可がなければ、絶対に通しません」佳奈は言った。エリーは仕方なく紀美子の方に視線を向けた。紀美子は彼女に答えず、佳奈に向かって言った。「よくやったわ。関係ない人は入れないでね」紀美子の同意を得ると、佳奈は少し顎を上げ、エリーを見て言った。「関係ない人は入っちゃダメですからね!」エリーは不機嫌そうに紀美子を睨み返した。「影山さんから、あなたに
「会社のことはご心配なく。私達は計画通りに進めていて、社長がすべきは、前四半期の統計をチェックすることだけです」「露間社長のことは残念ですが、社長もあまり悲しみすぎませんように」竹内佳奈はついでに一枚の画像を送ってきていた。入江紀美子が開くと、社員達が露間朔也の事務所に白い菊の花を供えた写真だった。それを見ると、紀美子は思わず目元が潤んだ。涙がぽろぽろと携帯画面にこぼれ落ち、紀美子はそれを拭いてからすぐに佳奈に返信した。「待っていてくれてありがとう。明日会社に行くわ」彼女はその返信を会社のグループチャットにも転送した。メッセージを読んだ社員達は、一瞬で騒ぎ出した。「社長!お体はもう大丈夫ですか?ネットのトレンドトピックを読んで皆心配していましたよ!」「社長、無事に戻って来られて本当に嬉しいです!」「社長、今月の売上がまた記録を更新しました!社長が戻って来られたら皆でお祝いしましょう!」……皆のメッセージを読んで、紀美子は心が温まった。社員達は全員揃って悲しいことについて一言も触れてこず、まるで事前に口裏を合わせたようだった。グループチャットを閉じ、紀美子は携帯画面をスクロールしてメッセージをチェックした。杉浦佳世子からのメッセージも届いていた。何通も届いているが、殆どが数日前のものだった。佳世子は殆ど数時間置きに、紀美子の状況を尋ねてきていた。紀美子はすぐにでも佳世子に返事したかったが、携帯に何らかのウィルスを仕込まれているのは分かっていた。万が一のことを考え、まだ返信しない方がいいと考えた。続けてスクロールすると、あの名前が見えたーー森川晋太郎。彼女は息が止まりそうになりながら、晋太郎からのメッセージを開いた。メッセージの内容はそれほど多くなかったが、たった数通で彼の全ての気持ちが全て手に取るように伝わってきた。「紀美子、婚約式のことは悪かった。戻ってきたら必ず償うよ」「紀美子、君の怒りと失望はそう簡単に収まるものではないと分かっているが、少しでも気持ちの整理ができたら、返事をくれ」「翔太さんから君が体調が悪いと聞いたが、無理をするな。このメッセージを読んだらすぐ電話してくれ!」そう、3通のメッセージが届いていた。たったこれしかないが、紀美子はまた心が折
入江紀美子は思い出した。そうだ、露間朔也は華国の出身じゃないから、ここに埋葬されるわけがなかった。墓参りに行けないことを知り、彼女は寂しい気持ちになった。「なら、紙銭を用意して」エリーは眉をひそめた。彼女は、すぐには紙銭が何なのか理解できなかった。隣の沼木珠代が代わりに説明をした。「これは華国の風習で、亡くなった方が死後の世界に使うためのお金を送るんです」「そんな意味の無いことをやるのはくだらなすぎる!」エリーはドイツ語で貶した。紀美子はドイツ語が分からないが、彼女の口調から大体意味が分かった。「それと、もう一つ」紀美子は続けて言った。「要件を一回で全部話せないの?」エリーはイラついて尋ねた。「塚原に言って。私は会社に戻るから、携帯を返してって」エリーは暫く紀美子を見つめ、そしてまた塚原悟に報告しに行った。しかし、エリーが通話ボタンを押した途端に、庭から車のエンジンの音が聞こえてきた。悟の車を見て、エリーは通話を取り消し、迎えに出ていった。すぐ、2人が別荘に入ってきた。紀美子はソファに座って待っていた。悟は紀美子の横に座り、優しい声で口を開いた。「まだ体が完全に回復していないのに、もう会社に行くのか?」「うん」紀美子は悟と目も合わせず、ついてもいないテレビ画面を見つめて返事した。「もう何日か休んでから行ってもいいんじゃないか?」「会社の副社長が亡くなって、私も長い間顔を出していないし、もし何かあったら、あんたに責任が取れるの?」「私が、もっといいパートナーを見つけてやる」悟は紀美子の冷たい横顔を見ながら言った。「要らないわ!」紀美子は厳しく悟の話を打ち切った。「これ以上会社のどんなことにも関わらないで!」「もし君がどうしても会社に行きたいなら、私はこれ以上止めない」悟は言った。「でももう2日だけ休んでからだ。エリーの同行が必須条件だ」エリー!またエリー!紀美子は怒鳴った。「一体いつまで私を監視し続ける気なの?晋太郎はもういない!兄ももういない!今は全てがあんたの手の内だって言うのに、私にこれ以上何を求めるの?」「私は君の安全を案じている」悟は落ち着いた声で説明した。「私はこのポジションについたばかりだ。沢
「分かった、佳世子と相談してくる」田中晴は言った。マンションに戻って随分と躊躇ってから、杉浦佳世子にメッセージを送った。「今忙しい?」「ううん、何で?」暫く待つと、佳世子が返事してきた。「加藤藍子は、塚原悟の働きかけで釈放されるらしい」メッセージを読んだ佳世子は、思考が止まった。そして、怒りや憎しみ、悲しみが混ざった複雑な気持ちになった。佳世子は文字を打つのがめんどくなり、そのまま晴に電話をかけた。晴はすぐ電話にでた。「誰から聞いたの?」佳世子は厳しい声で尋ねた。「紀美子が教えてくれたんだ。このこと、君はどう思う?」「もし塚原がそんなことをしたら、私は絶対に彼らを許さない!!」佳世子は思わず携帯を握りしめた。晴は暫く黙り込み、先ほど鈴木隆一と相談した内容を彼女に伝えた。「佳世子、俺は君を守り抜くつもりだが、万が一のことがある。やはり君を完璧に守れるのは世論だ」「ならば、私自ら暴くわ!」佳世子は言った。「もうどうせ、ここまで来たからには、人にどう見られようと私は気にしない!加藤藍子にだけ、代価を払わせるわ!そして……塚原悟にも!」「俺を無能だと思ったりしない?」晴は目玉を動かして尋ねた。「しない。あんたは藍子を刑務所に送り込んでくれた。それでもう十分だわ」佳世子は言った。「しかも今回のことは、私自身のうっかりだったし」晴は深くため息をついた。「注意しなければならないのは、塚原が藍子と政略結婚をした後だ。君が藍子に手を出すと、塚原が君を許さないだろう」「私を殺すとでも?こんなタイミングで私に手を出したら、帝都での地位を固めることなどできないわ!」「君は、戻ってくると決めたのか?」「帰るけど、今じゃない。藍子への復讐について真剣に計画を立てなきゃ。チャンスを見つけないと」急がば回れだ。特に復讐は。「佳世子、違法なことだけはやめろよ」晴は眉をひそめた。「そんな奴の為に、命をかけるつもりはないわ!」佳世子の返事を聞くと、晴はほっとした。「分かった、待ってる」「晴、まだよりを戻すことを考えてるの?」佳世子は間をおいて尋ねた。晴は脳裏に父の話を思い浮かべた。「佳世子、俺は強引によりを戻そうだなんて思っていない。だが俺は
「もし加藤家が塚原のヤツを助けようとしたら、絶対に放ってはおけない!」田中晴は叫んだ。「本当にそうなったら、きっとお前は手を出せないよ」鈴木隆一はため息をついた。「どういう意味だ?」「放っておけないと言ったが、お前は一体どうするつもりだ?」隆一は聞き返した。「彼らが塚原と手を組むなら、俺は加藤家が100年かけて守ってきた加藤家の名を潰してやる!」晴は答えた。「覚えてるか?俺たちはまだ、藍子の汚い裏の顔をメディアにばらしていない!」「無駄だ。それくらいで加藤家が動揺するはずがない」「なぜそう言い切れるんだ?」晴は焦った。「藍子は加藤家の人間だぞ!」「お前、忘れてないか?藍子が警察に連れていかれる前、加藤家と縁を切ると言ってたじゃないか。そうなると、お前がその事実を公表しても加藤家には何の影響もないだろう」「でも塚原はどうやって加藤家を利用して地位を固めるんだ?」「メンツだよ」隆一はそう言うと表情を暗くした。「つまり、たとえ藍子が加藤家と関係を断っても、加藤家の顔に免じて塚原の面子を立てる人もいる、ということか?」「そういうことだ」隆一は頷いた。「なんと言っても、藍子は彼らが一番可愛がっていた子さ!血は水よりも濃い!彼らが塚原の肩を持てば、塚原も自然的に藍子を支援してくれるだろうからな」そこまで言うと、2人は目を合わせた。「まさか!悟は政略結婚を考えているのか?」2人は同時に言った。「最悪、藍子は塚原の力を借りてお前に手を出すかもしれない!」隆一は少し震えた。「俺が彼女に手を出す前に彼女が何か手を打ってくるとでも?」晴は怒りで目を大きくい開いた。「可能性はゼロではない」隆一は冷静に言った。「お前は藍子にあんなに薄情な態度をとったからな。彼女は仕返しをしてくるだろう」そこまで聞くと、晴はまるで喉に綿を詰められたかのように、息が苦しくなった。「佳世子にいうかどうかを決める前に、まずは藍子をどうするかを考えるべきだ」隆一は言った。「彼女が塚原と結託した後はきっと、塚原は自分の地位を固める為に、絶対真っ先に田中家を潰しにくる!」「それがうちとどんな関係があるんだ?」晴は怒ってきた。「うちの両親は、藍子に親切だったじゃないか」
「自分が何を言っているか分かってるのか?」晴の父の顔色は急に険しくなった。「俺は本気で言っている!」晴は真顔で答えた。「俺と一緒にならなかったら、佳世子はあんな風にならずに済んだ!誰がどう言おうと、彼女を手放すつもりはない!」「このまま意地を張ったら、どうなるか分かってるのか?」晴の父は厳しい声で尋ねた。「分かっていなかったら、今日こんな相談をしにくることはなかった!」晴は答えた。「女一人の為に、健康な体が薬漬けに成り下がってもいいのか?」「本当に愛し合っていたら、苦難派ともに乗り越えるものだ!」晴は真剣に言った。「たとえお前がそう考えているとしても、相手は分からないだろ?」そう言われると、晴は黙り込んだ。そして、彼はあざ笑いをした。「佳世子がどう思っているとしても、俺は彼女を裏切らない!」晴は言った。「彼女は俺の元に戻ってきたくないと言っているが、俺はこんなことで彼女を手放すつもりはない!」「だからお前は愛と言う名の鎖で彼女を束縛し、彼女を一生苦しめるつもりか?」その話を聞いて、隣の鈴木隆一は驚いた。晴の父の言い分に、反論の余地はなかった。とても理にかなっているように聞こえる!隆一は心配して晴を見た。もう終わりだ……「晴、彼女は家を出て随分経っているよな?」晴の父は持っている茶碗を置いて尋ねた。晴は何も言わなかった。「彼女の勇気と決心は認める。たとえお前のせいで彼女が加藤藍子に陥れたのだとしても、彼女にはお前を道連れにする考えがなかったと言うことだ。それならお前も彼女の意見を尊重すべきだ、違うか?」「俺は今日、藍子のことだけを相談しにきたんだ!」晴は両手に拳を握りしめ、話を逸らそうとした。「加藤家に刃向かうつもりか?」晴の父は尋ねた。「お前、加藤家の帝都での地位を知らないのか?」「知ってる!」晴は答えた。「地位が高いからって、犯人を野放しにするのを黙ってみろというのか?」「お前はその女の為に田中家を巻き込むつもりか?」晴の父の顔は真っ青になった。「どうやらあんたたちには、助けてくれる気がないんだな?」晴はがっかりして言った。「俺は、何を優先すべきかが分からないほど老いぼれてはいない!」「分かった」晴
入江紀美子が1階に降りると、塚原悟は別荘を出ようとしていた。「待って」彼女は悟を呼び止めた。悟は脚を止め、彼女の方に振り向いた。「どうした?」悟は俊美な眉を上げて尋ねた。紀美子は一瞬動揺した。まるで彼はまだあの悟で、何でも話せる親友のようだった。しかし今まで起きた一連の出来事も事実だった。「なぜ加藤藍子を助けるの?」「紀美子、私にはやりたいことがあるんだ」悟は彼女に面と向かって言った。「藍子は佳世子を陥れた犯人よ!これ以上佳世子を苦しめるつもり?」「紀美子」悟は落ち着いた顔で言った。「私は他の人の気持ちまで構っていられない。利用できる価値のある人は助けねばならない」「つまり、あんたが生かしてくれたのは、私にまだ利用する価値があるから?」悟の目つきがやや暗くなった。その質問に対して、彼自身もどう答えたらいいかよく分からなかった。紀美子に答えられなかった彼は、振り向いて別荘を出た。部屋に戻った紀美子は、先ほどのことを田中晴に教えた。紀美子の話を聞き、晴の怒りは爆発した。彼が無意識に彼女の電話番号をかけようとすると、隣にいる鈴木隆一に抑えられた。「お前、正気か?紀美子に電話をするなんて!」隆一は焦った声で彼を止めた。「俺は今すぐ彼女にどうなっているかを聞きたい!藍子を釈放させる訳にはいかない!絶対にだ!」「お前が反対するからって、あいつが聞いてくれるわけがない!」隆一は続けて言った。「そう簡単に藍子を助け出せるとは、ヤツは刑務所にもとんでもないコネを持ってるに違いない!もし本当に藍子を助け出させたくないなら、前晋太郎に言われた通りにしろ!」「うちの両親に助けを求める?」晴は驚いて隆一に確かめた。隆一は頷いた。「まだ藍子が釈放されていないうちに、今すぐお前の父に頼むのだ」「彼達がやってくれるとは限らない!」晴は歯を食いしばった。「試さないと分からないだろ?行こう、俺がついて行ってやる。応援してやるから!」晴は暫く黙ってから頷いた。午後2時。晴と隆一は田中家に着いた。家に入ると、外から帰ってきたばかりの晴の父に会った。晴の父は彼らを見て、ため息をついて尋ねた。「晋太郎の消息はまだ掴めないのか?」晴は頷いた。
入江紀美子は、視線をエリーのガーゼを包まれた左手に落とした。ガーゼには血がついていた。数秒経ってから、紀美子は視線を戻し、2階に上がろうとした。「紀美子」塚原悟は急に口を開いた。紀美子は足を止め、冷たい表情で悟の方へ振り返った。「これからエリーを別荘に駐在させ流。そしてもう一人の家政婦を雇って君の生活の世話をさせる」紀美子はあざ笑いをして、悟に言った。「私をいつまで監禁するつもり?」「監禁するつもりはない」悟は言った。「もし出かけたいなら、エリーに同行してもらえばいい」「監視じゃない?まさかあんたにこんな扱いされるとは」「違う、私はただ、君の安全を考えてそうしているのだ」「私を殺そうとした人に、そんなことを言う資格があるの?」紀美子はそう言うと、階段を上っていった。部屋に戻ると、懐かしい匂いがしてきた。それは森川晋太郎特有の雪松の香りだった。更衣室に入ると、晋太郎の服はまだずっしりとハンガーにかけられていた。紀美子は優しく晋太郎の服の上に手を置き、ゆっくりと掠めた。彼はいつか帰ってくる、そうよね?しばらくすると、紀美子は寝室を出た。真正面の寝室を眺めると、彼女の眼底には侘しさが浮かんだ。自分は露間朔也の最期を看取ってあげられなかった。明日に墓園に行って彼の墓参りをしよう。そう考えながら紀美子がドアを押し開けようとすると、階段の方から会話が聞こえた。「影山さん、既に手配済みです。明日加藤さんが警察署から釈放されます」ボディーガードの話は紀美子を驚かせた。自分の勘違いでなければ、ボディーガードが今言っていた「加藤さん」は、加藤藍子のことだ!悟が藍子を釈放させるつもり?一体なぜ?佳世子は彼を害するようなことをなど一切していないのに、彼女まで傷つけるつもり?紀美子は我慢できず、怒りを抑えながら1階に降りようとした。しかし階段を降り始めたところで、誰かが上ってくる音がした。2階に上がろうとしているエリーを見て、紀美子は冷たい声で言った。「ここはあなたが上がっていい場所じゃない!」エリーは冷たい目つきを浮かべ、紀美子に近づいてきた。「さっきボディーガードの話が聞こえたんでしょ?」「だったら何?」紀美子は直ちに聞き返した。