紀美子はソファに座り込み、顔を両手で覆った。「運命って、こんなに人を弄ぶものなの?貞則が私の父を殺したのに、私がその息子を救ったなんて!」翔太は紀美子の肩を軽く叩いた。「紀美子、世の中の多くのことは、俺たちでは制御できない。今は、父の仇を取ることを考えるべきだ。晋太郎とのことでいちいち腹を立てる必要はない」紀美子を落ち着かせた後、翔太は藤河別荘を後にした。車に乗り込み、翔太は晋太郎に監視カメラの映像と音声ファイルを送った。ジャルダン・デ・ヴァグ。晋太郎はシャワーを浴びて浴室から出てきたところ、スマホが二回鳴った。ベッドサイドテーブルに近づき、スマホを手に取りメッセージを確認した。映像を再生すると、画面に映し出された画像が鮮明に目に入ってきた。執事が映し出された瞬間、晋太郎の眉がピクリと動いた。映像を見終えた後、晋太郎はすぐに音声ファイルを開いた。音声が流れ出した……「おじさん。つまり、あなたは当時かなりの金額を受け取り、彼の行方を隠す手助けをしたのですね?」「そうです。今日はそれを告白するために来たのです。俺はこの罪を黙って墓場まで持ってき行けません」「おじさん、その夜に来たのが、現在帝都で有名な貞則であることを、確かめましたか?」「もちろんです!」おじさんが言った。「ニュースや新聞で何度も彼を見ています。忘れられるわけがありません」この言葉を聞いた瞬間、晋太郎の全身から冷たい空気が漂い始めた。これを知った今、どのように紀美子に向き合うべきなのか……その時、スマホが鳴った。晋太郎は画面に「紀美子」と表示されているのを見て、少し迷った末、電話を受けた。「私です」紀美子が静かに言った。晋太郎は引き出しを開け、タバコを取り出し、火をつけた。「分かってる」「明日、会おう」紀美子の言葉を聞いて晋太郎は一口タバコを吸い、煙を吐き出すと、低い声で言った。「明日の昼に迎えに行く」「晋太郎」紀美子が彼を呼び止めた。「私が会いたい理由を、あなたはよくわかっているでしょ」「ああ」紀美子は深呼吸をした。「それで、あなたは気にしないのか?」「紀美子」晋太郎が再び言った。「俺は、証拠があれば、法律に従って処罰されるべきだと言った」「たとえそ
次郎が何も答えないうちに、貞則が冷たく鼻を鳴らした。「執事!」その後ろにいた執事が前に出てきて言った。「はい、主人」「俺がなぜこのスープを認めないのか、お前が説明してやれ!」貞則が言った。執事はうなずき、静恵に向かって言った。「スープの上にある脂は取り除かなければなりません。そうでないと食欲が落ちてしまいます」「それは自分でできるじゃないですか?私がそこまでやる必要があるんでしょうか?!」「よく気をつけていないためにこれを忘れてしまうのですよ」静恵は胸に怒りが込み上げたが、何も言い返せなかった。彼女は次郎に助けを求めるように見つめたが、次郎は言った。「静恵、父に謝れ」静恵は両手を握り締めた。「私は何も間違っていないのに、なぜ謝らなければならないんですか?彼が私を何度も責めているのに、あなたは一言も助けてくれない」その言葉が終わった瞬間、次郎は急に立ち上がって静恵の前に大股で近づき、静恵の顔に平手打ちした。その一発で静恵は呆然とした。彼女の両目は大きく開き、顔を押さえて震えながら次郎を見つめた。「あなた、私を殴ったの?」次郎は冷たい表情で言った。「謝れ!」静恵は歯を食いしばった。「私が謝らないなら、どうするっていうの?!」「パシーン——」もう一発静恵の顔に平手打ちし、次郎は冷たく言い放った。「三度目はない。今すぐ謝れ!」静恵の目から涙がこぼれた。彼女は反発したい気持ちだったが、今の自分には抵抗する余地がないことを知っていた。何とかここまで来たのに、ここで諦めるわけにはいかない!いつか必ず、彼らにこの復讐をしてやる!静恵は悔しさを吞み込み、震える声で言った。「すみません!私がちゃんとできていませんでした!」貞則:「聞こえない」「すみません!!」静恵は再び大声で謝罪した。貞則は冷たく鼻を鳴らし、続けようとしたその時、執事が携帯を取り出した。彼は眉をひそめ、不快そうに執事を見た。「礼儀を知らないのか?」執事はメッセージを素早く見て、顔色を変えた。「主人、見つかりました!」貞則の目が鋭くなった。「誰が?」「渡辺様です!」執事が答えた。貞則は静恵を一瞥し、立ち上がって言った。「書斎で話そう」「はい、主人」
静恵は心臓が激しく脈打つのを感じながら次郎を見つめ、恐れを込めて叫んだ。「次郎、私を放して!」「なぜ俺の忍耐を試すようなことをするんだ?」次郎は再び尋ねた。静恵の目からは涙が溢れ、「次郎、手を離して話せばいいじゃない!」と叫んだ。「答えろ!!」次郎は手の力をより一層強めていった。「私が間違えていたわ!」静恵は全身が震えるほど次郎を恐れていた。次郎のこの姿を見るのは初めてだった。「次郎、先に私を放して。私が間違えていたわ。もうこんなことはしないから……」次郎は手を離さず、さらに静恵の髪を引っ張り、そのままベッドに叩きつけた。静恵は痛みに耐えられず、後頭部を抱きしめた。底知れない恐怖が心の奥から湧き上がり、それは全身に広がった。その背後では、次郎がベルトを解き、表情を崩すことなく静恵に近づいてきた。彼は腰を曲げ、静恵の手を抑え込んだ。静恵は反射的に手を引き抜こうとしたが、次郎は膝で彼女の背中を押さえ込んだ。「次郎!」静恵は慌てて叫んだ。「次郎、何をするつもり?私を放して!」「黙れ」次郎の声は冷たく、微塵も温かさを感じさせなかった。静恵は必死に抵抗したが、次郎の力にはかなわなかった。すぐに、彼女の手は背中に縛られてしまった。次郎が手を離した瞬間、静恵は素早く体を反転させて、彼を警戒した目で見つめながら遠ざかった。次郎は体を回し、クローゼットに向かった。間もなく、彼はいつから用意されていたのかわからない鞭を手にして出てきた。静恵は目を見開いた。「次郎……やめて、近づかないで!」「静恵……」次郎は一歩一歩近づきながら言った。「俺が一番嫌うものは何か、知ってるか?」静恵は首を激しく横に振った。「知らない、次郎、お願い、こんなことをしないで……」次郎は冷たく微笑んだ。「俺は何度も試されるのが一番嫌いだ。俺が一番好きなものが何か、当ててみるか?」静恵の顔は青ざめ、理性を失っていた。「次郎、お願い、私にこんなことをしないで、怖い、次郎、やめて……」次郎は静恵の前に立ち、腹の奥底から重い笑い声を漏らした。彼の表情に浮かぶ笑みは大きくなり、目には興奮と期待が満ちていた。「俺が一番好きなのは、お前たちが俺にひたすら懇願することだ!」次郎は陰気な声で笑った。「そ
「今や渡辺家は破滅の道だ。勝人ももう死にかかっている。誰が俺たち森川家と対等に渡り合えるというんだ?」執事が探るように尋ねた。「それはつまり……?」「翔太と紀美子だ」貞則は淡々と言った。「この二人を片付ければ、何も問題はない」「主人、お見事です」執事が笑顔で尋ねた。「ご命令をお願いします」貞則は不快そうに彼を見た。「俺が手を汚す必要はないと言ったはずだ」執事は一瞬戸惑った。「やはり、静恵に任せるつもりですか?彼女の頭では……」「まずは様子を見よう」貞則は言った。「彼女が役に立たなければ、俺が直接動いても構わない」執事:「分かりました。それでは、静恵をもっと刺激するようにいたします」「うん」深夜。涙と血で顔が汚れ、全身を震わせたまま静恵はベッドに横たわっていた。彼女の身体には、鞭の跡や次郎による痣が無数に刻まれていた。表情は暗く、浴室から漏れる光を見つめながら、心は憎しみと絶望でいっぱいだった。いったいなぜ自分はこんな男と結ばれたのか……その瞬間、静恵の頭の中にはある声が響いた。次郎を殺す!次郎だけでなく、貞則も絶対に殺す!日曜日。朝食の時間、舞桜は紀美子に言った。「紀美子さん、今日はお休みをいただきたいです」「休みたい?」紀美子は驚いて言った。今日は晋太郎に会いに行く予定だったのに、舞桜が休むとなると子供たちはどうしたらいいのだろうか?しかし、舞桜の顔は憂いに満ちていた。紀美子は心配して尋ねた。「あなた、最近ちゃんと休めていないの?」舞桜は率直に答えた。「はい。翔太の機嫌が悪そうなので、彼のところに行きたいんです」紀美子は飲んでいた豆乳を吹き出した。舞桜は驚いて、すぐにティッシュを取り出して紀美子に渡した。「大げさすぎよ。ただ、お兄さんを追いかけているだけなのに」紀美子はティッシュを受け取り、咳込みながら尋ねた。「あなた、本気で……兄を好きなの?」「私は翔太をあなたよりもずっと前に知っていたんです!」舞桜は鼻を鳴らした。「翔太はかっこよくて、性格もいい。好きにならない人がいるのでしょうか?」紀美子は笑って言った。「冗談だと思ったけど、本当だったんだね」「はい!」舞桜は真剣にうなずいた。「長い間好意
舞桜は言った。「それじゃ、私は荷物をまとめて出かけてきます!」「うん」舞桜がニ階に上がると、朔也は紀美子をにらみつけた。「正直に話しな、今日何をするつもりだ?」紀美子はパンを口に頬張りながら言った。「晋太郎に会いに行くの」朔也は驚いて目を見開いた。「仲直りしたのか?いつのことだ?病院に連れて行かれたことをもう責めないのか?お前はそんなに優しかったか?」紀美子は朔也の質問に圧倒され、目が回った。「話すと長くなるわ。ただ、心が優しいわけではないのよ」「じゃあ、なぜ会いに行くんだ?」朔也はさらに尋ねた。「後でわかるわ」朔也は椅子に座り、言った。「分かった。子供たちはまだ寝ているの?」紀美子:「うん、私が下りてきたときはまだ寝てた。後で彼らの食事はあなたが用意してくれる?」朔也は胸を叩いた。「任せろ!義父さんの登場だ!」紀美子が出ていくと、朔也はニ階に上がり、三人の子供たちを起こしにいった。ドアを開けると、彼らはまだぐっすりと眠っていた。朔也は近づいて布団を剥がした。「起きろ!!!」ゆみはびっくりして飛び起きた。「何?どうしたの?」祐樹と念江は目をこすりながら起き上がった。彼らは朔也を見つめ、祐樹は言った。「早朝から何してるんだよ……」「まだ早朝じゃないの?」朔也はゆみの服を探しながら言った。「もう九時だぞ」祐樹は不満そうに言った。「お前はいつも午後に起きるのに、今日は薬が効いてるのか?」朔也:「お前たちの母さんが今日、お前たちを俺に預けたんだ。遊園地に行かないか?」「行かない!」「行きたくない!」祐樹とゆみは同時に答えた。白芷の件以来、遊園地は彼らにとって大きなトラウマとなっていた。子供たちの拒否反応を見て、朔也もr選ぶ場所を間違えたことに気づいた。彼はすぐに別の提案をした。「じゃあ、ゲームセンターに行こう!」午前十時。紀美子と晋太郎はカフェで会った。晋太郎は紀美子にコーヒーを注文した。「子供たちは誰が面倒を見ているんだ?」紀美子:「舞桜が今日休みを取ったから、朔也が面倒を見てくれているわ」晋太郎はカップを持ち上げ、一口飲んだ。「昨晚、お兄さんが二つのファイルを送ってくれたんだ」「ファイル?」紀
紀美子は初めて晋太郎からこのような言葉を聞き、彼女の心の奥底にある柔らかな部分が大きく揺さぶられた。紀美子は尋ねた。「あなたが手伝ってくれたら、外部からの影響は計り知れないものになるでしょう」「紀美子、俺と今日初めて会ったんじゃないだろ?」晋太郎は淡々とした様子で尋ねた。「俺がそんな評判を気にすると思うか?」紀美子は長い間黙っていたが、やがて言った。「晋太郎、あなたは本当に、私のために自分の父親を諦める覚悟があるの?」「俺のこと、まだ理解していないのか?」晋太郎は重ねて尋ねた。紀美子は「分かってるわ。ただ、私にそれだけの価値があるのか聞きたかっただけよ」と言った。晋太郎の目は深海のように深く見えた。「お前には、その価値がある。それに、母親への復讐も果たさなければならない。要するに、俺たちは同じ船に乗っているんだよ、そうだろう?」紀美子の心臓が激しく二度脈打った。彼女は晋太郎を真っ直ぐ見据えていたが、目には驚きが浮かんでいた。「後悔は?」「俺は後悔することをしない」と言いかけて、晋太郎は言葉を切った。胸に一瞬、痛みが走り、彼は喉を鳴らした。「最も後悔しているのは、最初にお前が俺を助けたことに気づかなかったことだ。お前を悲しませるようなことをしたことも後悔している」紀美子の顔が一瞬赤くなった。考えてみれば、晋太郎がこれほどまでに彼女のために尽くしてくれているのに、なぜ自分はこんなにも些細なことにこだわっているのだろう?結局、自分の心が狭く、壁を越えようとしていないだけではないのか?紀美子は答えた。「過去のことは、忘れよう」「うん」晋太郎は淡々と言った。「この件については、またお前に報告するよ」紀美子は「分かった」と言った。商店にて。朔也は三本のロープを握っていた。しかし、ロープにつながれている小さな子供たちは無言で朔也を見つめていた。ゆみは暗い目で睨んだ。「露間、私たちにこんなことするなんて、恥ずかしいわ!」佑樹も表情を曇らせた。「俺たちは犬じゃないよ。こんな風に引き回すなんて」念江も不満げに言った。「俺たちは迷子にならないよ」これを聞いて朔也は笑顔で答えた。「絶対にお前たちを失いたくない。叱られるのは嫌なんだ。安全のた
朔也は首を振った。「まあ、いいや。お前たち三人と一緒にいるだけで幸せだよ。結婚なんて考えてもいない」「じゃあ、独身貴族にでもなるつもりか?」佑樹は尋ねた。朔也は口を尖らせて考えた。「そうだね。お前たちが大きくなるのを見るのが幸せだよ!」「うーん!露間、兄を叩いて!兄!叩いて!」突然、夢でも見ているのか、ゆみが興奮した声を出した。朔也は慌ててゆみを抱きしめてなだめた。碧い目には優しさが浮かんでいた。「分かった、分かった。露間が叩いてあげるよ」夜が深まった。紀美子は家に戻った。玄関を開けると、朔也が寝ているゆみを抱いてソファで携帯をいじっていた。紀美子は朔也の隣に座り、「ゆみをベットに寝かせないの?」と尋ねた。朔也は「全然平気だよ。ゆみちゃんが快適に眠れることの方が大切だ。夕飯は食べた?」と答えた。紀美子は「晋太郎と一緒に食べたわ。あなたたちは?」と尋ねた。朔也は紀美子に眉を上げて、悪戯っぽく笑いながら尋ねた。「今となっては、晩御飯も一緒に食べられる仲になったのか?」紀美子は目を逸らした。「考えすぎよ!写真はどういうこと?子供たちに何をつけたの?」「ベビー用品店で買ったんだ。六千円以上もするハーネスだよ」朔也は説明した。紀美子は苦笑いした。「子供たちの表情はあなたを恨んでいるようだったわ」朔也は「気にしないで、絶対に子供たちを失いたくないから。こうでもしないと、お前につぶされるよ」と言った。紀美子は携帯を取り出して言った。「今日はお疲れさま。何食べたい?私が注文するから」「ねぇ、一つ相談したいことがあるんだ」朔也は真剣に言った。紀美子は不思議そうに彼を見た。「何?」朔也は「他の人との結婚や子供を作ることを考えずに、ゆみちゃんを養女として引き取ることはできるかな?」と尋ねた。紀美子は驚いて固まった。「何を言ってるの?結婚なんて」「結婚はしたくない」朔也は表情を暗くして言った。「お前だって知ってるだろう。私は彼女を忘れられない。他の人と結婚なんてできるわけがない」紀美子は呆れた。「他の人は簡単にあなたを忘れて結婚したり子供を作ったりするのに、それができないの?」朔也は苦々しく笑った。「私は情熱的な男だからな」
「渡辺兄、私が負担?」舞桜は尋ねた。翔太はゆっくりと首を横に振った。「違う、ただ、お前が無駄に力を尽くしてるようで嫌だ」「私は自発的にやってるの!」舞桜は続けた。「あなたと一緒になることを期待してるわけじゃないよ!」翔太は困ったように彼女を見た。「俺に時間を費やすと、彼氏を探すのが遅れちゃうぞ」「私は他の人には興味ない!」舞桜は言い切った。「渡辺兄がどこにいようと、私はついていくよ。他の人なんて要らない!」翔太は一瞬驚いた表情を浮かべ、やがて目には薄い笑みが浮かんだ。「お前の祖父が知ったら、きっと怒りに来るだろうな」舞桜は手を止めて、「祖父のことを何で今言うの?……ほんと、困った人ね」と言った。翔太は「お前は軍三代の正統な血筋だ。俺についてると、お前が可哀想だ」と言った。「そんなこと言わないで!」舞桜は不満げに翔太を見た。「何度も言うけど、これはあなたの責任じゃないよ。もう言わないで!」翔太は黙り込んだ。舞桜はすべての容器を開け、箸を翔太に手渡しながら、「最近、何か悩みでもあるの?どうして話してくれないの?」と尋ねた。「別に大したことないよ」翔太は話を逸らした。「お前が関わるのはよくないよ」「渡辺兄……」「食事しよう!」翔太は舞桜の言葉を遮った。「空腹だ」舞桜は何も言えずただ黙った。どうやら渡辺兄は、まだ自分に心の内を打ち明けることができないようだ。一時的に言えないのかな?舞桜はそう心の中で考え、これから数日間、紀美子に休暇をもらって渡辺兄を支えようと決めたのだった。翌日紀美子がオフィスに到着すると、楠子が彼女を探していた。楠子は紀美子のデスクの前で立って言った。「入江社長、秘書チームは今日の午後に長崎で研修があります」紀美子は書類を読みながら、顔を上げずに答えた。「うん、知ってる。次の二週間は大変だと思うけど、頑張って。仕事が追いつかない場合は、他の秘書たちに協力してもらえばいいわ」「大丈夫です」「そういえば!」楠子の言葉が終わる前に、紀美子が割り込んだ。紀美子は引き出しを開き、美しい小さなギフトボックスを取り出して楠子に手渡した。「これ、あなたへのプレゼント」楠子はギフトボックスを眺め、眉をひ
紀美子は体を無理やりに起こそうとした。悟は手を差し伸べたが、触れる前に紀美子に冷たく払いのけられた。「触らないで!」紀美子は憎悪に満ちた目で悟を睨んだ。悟は手を引っ込め、紀美子が自力で体を起こしてベッドにもたれかかるのをただ見守った。「何度も言ったはずでしょう?馬鹿でもわかるくらいに!」「ああ、わかっている」悟は目を伏せた。「わかってるなら、なぜ何度も私を連れ去ろうとするの?」紀美子の声は次第に激しくなっていった。「あんたほど意地の悪い人間は見たことないわ!」悟は唇を噛み、深く息を吸ってから顔を上げた。「紀美子、私と一緒に来てくれないか?」「行く?」紀美子は冷笑した。「どこへ?あんたの頑固さと身勝手さで、どれだけの無実な命が奪われたか知ってる?自首して、あの世で彼らに悔い改めるべきよ!あんたが生きていると思うと、呼吸すら苦しくなってくるの!」「彼らが無実だというが、私はどうなんだ?」悟の目には苦痛が溢れていた。「私には少しの情さえないのか?他人ならともかく、私の全てを知っている君まで……少しも分かってくれないのか?」悟の言葉に、紀美子は心の底から嫌悪を感じた。「情?」紀美子は冷ややかに嘲った。「野良犬の方が同情できるわ。ましてやついてこいなんて!もし無理やり連れ去ろうとするなら、警察に通報される覚悟でいてね!」悟は体が鉛のように重くなり、突然ひどく疲弊感を感じた。「じゃあ、私にどうしてほしいんだ?」悟は力なく尋ねた。「死んでほしい!」紀美子の声は冷たく、なんの感情も見えなかった。「天国に行けないような死に方を!」「そうすれば、君は私を許してくれるのか?」悟は苦笑した。「それで許せると思う?」「君が許してくれるなら、私は何でもする!」「そう?」紀美子は嘲るように笑った。「じゃあ、私の母と初江さん、それに朔也の命を返してよ。できたら許してあげる。どうなの?」「……つまり、君の許しは得られないのか」悟の表情は完全に暗くなった。「わかってるでしょう?悟、みっともない死に方をしたくなければ、今すぐ私を帰らせなさい!」「できない」悟の声は次第に弱くなっていった。「君だけは、死ぬまで手放す気になれない」「往生際が悪
悟は唇を強く結んだ。「ほら、私が提案したって無駄でしょ?あんたの結末はもう決まってるわ」「それでも、紀美子を諦めない」悟は立ち上がった。「三日あれば、全てを整えて彼女を連れていける。たとえ手下はいなくとも、金さえあれば何とかなる!」その最後の言葉に、佳世子の背筋が凍った。悟は、三日もあれば莫大な資金で逃亡経路を確保できる!「目を覚ましてよ!あんたに紀美子を連れ出せるはずがない!」佳世子は叫んだ。「道は二つだけだろ?」悟は、そう言い残すとドアを開けて出て行った。佳世子は急いでベッドから飛び降り悟を追いかけようとしたが、屈強な男に阻まれた。力づくでは無理だと悟ると、彼女は不貞腐れてベッドに戻った。一方、別の部屋では——悟はまだ眠っている紀美子の寝室に入った。ベッドの縁に座り、悟は彼女の整った顔に見入った。彼は手を伸ばし、そっと頬に触れて髪をかきあげた。「紀美子」悟は嗄れた声で呼びかけ、目に優しい眼差しを浮かべた。「五年前と何も変わっていないな。もしもっと早くこの気持ちに気づいていたら、全てが違っていただろうか?一歩踏み出していれば、今頃君は私のものになっていただろうか?」悟は声が震え出した。「負けを認めたくないが、これが現実だ。私は全てを失ってもいい。ただ……側にいてくれないか?」涙が紀美子の手の甲に落ちたのを見て、悟は慌てて拭いた。彼女には、まだ目覚めてほしくなかった。ただ静かに傍にいてくれればいい。冷たい言葉を浴びせなければいい。そう考えると胸がさらに締め付けられ、悟は涙を堪えれなかった。彼は手を引くと、シーツを強く握りしめた。その時突然、ドアがノックされた。悟は急いで涙を拭い、深く息を吸って顔を上げた。「入れ」「社長、我々のIDが特定されました!ここは時期に探知されます!」大河が慌てた様子でタブレットを持って入ってきた。「静かに」悟は唇に指を立て、紀美子の方を見た。「起こすな」大河は眠っている紀美子、そして悟の赤い目に気づいた。「社長、なぜこんな女のために危険を冒すのですか?馬鹿げています!」「お前も愛する女ができたら、きっとこの気持ちがわかるだろう」悟は静かに言った。大河には、今逃げなければ終わりだという
「馬鹿な真似はよしてよ!」佳世子は再び激怒した。「晋太郎が逃がしてくれると思う?寝言は寝てから言って」「不可能だと分かっているからこそ、君に頼んでいるんだ」悟は静かに答えた。「何で私が親友を裏切り、あんたのような悪者を助けなきゃいけないの?私の両親の命でもかけて脅すつもりなの?バカバカしい。あんたに手を貸す人なんて、もう誰もいないわ!」佳世子の言葉に、悟は無力感を感じた。「ああ、今の私には、もう紀美子しか残っていない」声を落として彼は言った。「そんな情に訴えても無駄よ。あんたは紀美子を撃ったのよ。忘れたの?彼女は、あんたの卑劣な手口のせいで飛び降り自殺しそうにもなったよね?」「嫌だ、死んでも絶対に協力しないわ!」「こうなることは分かっていた」悟は前かがみになり、肘を膝につけてうつむいた。「私は完全に敗北した。しかしまだ生きたいんだ」「生き延びてどうすんの?あんたのような悪魔は早く地獄に落ちてくれればいいのに」佳世子は罵った。「今の私が生きる唯一の希望は、紀美子の人生を見届けることだ」悟は言った。「何それ?」佳世子は問い詰めた。「好きな人を利用して、自分の人生の心残りを埋めようとしてるの?」悟は黙り込んだ。複雑な感情が佳世子の胸をよぎった。悟は確かに悪だが、その境遇は憐れでもあった。だが、そんな感情で人を傷つける権利などない!「もしあんたにまだ良心が残ってるなら、私と紀美子を帰しなさい。あんたはもう昔の力を完全に失ったのよ。それに、紀美子の子供たちがどれほど優秀かも知ってるでしょ?ここもいつか必ず晋太郎に見つかるし、その時のあんたの末路は言うまでもないわ」「一度始めたことはもう引き返せない」悟は目を上げて断言した。「死ぬか、紀美子を連れて行くかだ」「どうしてそんな極端な考え方しかできないの?」佳世子は眉をひそめた。「私に他に道があると思うか?」悟は自嘲的に笑った。「捕まれば獄死、見つかれば殺される。そうだろう?」それを聞いて、佳世子の胸は苦しくなった。昔仲が良かった頃のことを思えば思うほど、言葉は重くのしかかった。「悟、本当のことを教えて」佳世子は真剣な眼差しで悟を見つめた。「後悔しているかどうか聞きたいんだろう」
「念江がファイアウォールを突破したIDを特定してからでないと追跡できない」佑樹は小さな眉をひそめて説明した。「30分くれ。長くても30分で特定できる!」念江は言った。30分は長くないが、今は一分一秒が耐えがたいほど長く感じた。十数分経った頃、念江は極度の緊張で鼻血を出してしまった。周りの者は皆、念江の様子に胸を締め付けられた。だが念江は気に留めずに手で鼻血を拭うと、再びハッキングに集中した。「心配しないで。お医者さんに、回復期に時々鼻血が出るのは正常だと言われてるんだ。お母さんが見つかったら少し休めばいい」念江の説明を聞いて、皆はやや安心した。ちょうど29分経った時、念江はエンターキーを叩いた。「よし、IDを特定した。佑樹、後は任せた」「君は休んでおいて。残りは僕がやる」念江は青白い顔でうなずき、椅子にもたれかかった。晋太郎は彼の小さな体を抱き上げた。「父さん、大丈夫…」念江は疲れた目を開いた。「暫く休め。何かあればすぐ知らせる」晋太郎は息子をベッドに運びながら言った。「うん…」わずか数時間で、晴の顔には疲労の色が濃く出ていた。「何だか最近、自分が子供たちにすら及ばないのではないかと不安になるんだ」晋太郎が寝室から出てくると、晴は自嘲気味に笑った。「お前が役に立ったことなどあったか?」晋太郎は冷たく見下ろした。「まあ……そうだな」晴は言葉に詰まった。「唯一の長所は一途なことだな」晋太郎は軽く一言を付け加えた。「確かにその通りだ。俺の心には佳世子しかいない」晴は頭をかいた。一方、別の場所では——悟は、意識を失っている紀美子を以前滞在していた民宿に連れ込んだ。そこのボディガードは既に全員が撤収しており、最も安全な場所だった。佳世子は紀美子とは別の部屋に閉じ込められていた。悟は紀美子の布団を整えてから、佳世子の部屋に向かった。佳世子のベッドの横に座ると、悟は彼女の手を掴み、特定のツボを強く押した。すると、佳世子はパッと目を開いて、そして反射的に手を引っ込めた。見慣れない景色を見て彼女は慌てて起き上がり、ようやく隣に人が座っていることに気付いた。悟と目が合うと、佳世子は眉をひそめた。「悟!やはりあんただったのね!」
その時、晋太郎もボディガードからの連絡を受け取った。隅々まで探したが、結局紀美子と佳世子の姿は見つからなかった。警察もすぐに到着し、ホテル全体を捜索し始めた。それでも、二人が見つかることはなかった。その報告を聞いた晋太郎は、怒りで窓ガラスに拳を叩きつけた!ガラスの割れる大きな音に、佑樹と念江は体を震わせた。二人はそのまま、手から血を流しながら震える父を驚いた表情で見つめた。父に何を言っても無駄だということも分かっていたため、ただ歯を食いしばった。「悟の仕業だ」晋太郎は険しい表情で窓際に立った。ここまで完璧に痕跡を消せるのは、奴しかいない!今、彼を悩ませているのは、悟が紀美子たちをどこに隠したかということだ。奴の勢力はもう完全に潰したはずだが、今最も恐れているのは、奴が紀美子を連れて完全に姿を消すことだった。そうなると、大海原で針を探すようなもので、手がかりすらつかめないだろう。晴が事情聴取を終え警察署から戻ってきても、子供たちはまだパソコンを操作していた。晴はソファに崩れ落ち、頭を抱えてうなだれた。「くそっ!!!絶対に悟だ!!あいつに違いない!!晋太郎、何とかして二人を助けてくれ!悟は紀美子を傷つけないかもしれないが、佳世子は殺されるかもしれない!」晴は晋太郎に助けを求めた。「分かってる!既にあの辺りに配置していたボディガードを引き上げさせた。これからは山と町内を徹底的に調べさせる!美月も動き出している!」晋太郎は歯を食いしばりながら言った。「お父さん、相手の車のナンバーは分かる?正確な情報があれば、もっと早く調べられる!」突然、佑樹が振り返って言った。晋太郎は直ちに美月に電話をかけた。通話が繋がると、美月が話す前に佑樹が切り出した。「美月さん、悟たちの車のナンバーって分かる?」「分かるわ」美月は答えた。「9000だけど、あっちの技術者が、通った場所の監視カメラの録画データを全て消してるわ」佑樹は念江を見た。「念江、ダメなら先生に頼ろう!できるだけ早く母さんと佳世子さんを見つけないと」「わかった、今電話する!」念江は言った。隆久はすぐ電話に出た。念江が状況を説明しようとした時、電話の向こう側からマウスボタンのクリック音が聞こえてきた。
晴の言葉には耳を貸さず、晋太郎はドアを勢いよく開け、再び佳世子の携帯に電話をかけた。晴が後を追うと、廊下のどこかから佳世子の着信音が聞こえてきた。晋太郎の張り詰めた雰囲気に飲み込まれていた晴だったが、この音を聞いた途端、緊張が一気に和らいだ。彼は晋太郎の腕を軽く小突きながら、冗談めかして言った。「ほら!着信音が聞こえるじゃないか!二人はここにいるに決まってる!まったく、悪戯に引っかかるところだったぜ!見つけたらこっぴどく叱ってやるからな!」しかし、晋太郎の表情は微動だにしなかった。むしろ、その冷たさが次第に険しさへと変わりつつあった。彼は着信音の方向を追い、エレベーターの前で静かに地面に落ちている携帯を見つけた。派手な黄色いケース、それは、佳世子がずっと使っていたものだった。晋太郎が大股でエレベーター前に進むと、まだ状況を把握していない晴もついてきた。着信音が近づくにつれ、晋太郎が身をかがめて携帯を拾い上げると、晴は雷に打たれたように固まった。「佳世子の……携帯!?」晴は慌ててそれを掴んだ。「なぜここに!?」晋太郎は危険な光を宿した目を細めた。「お前はフロントに行け、紀美子と佳世子を見た者がいないか確認しろ。俺は子供たちの元へ行く」晴は事態の深刻さを悟り、すぐにエレベーターのボタンを押して下に向かった。ロビー階に着くと、晴は真っ先にフロントに駆け込み、カウンターに立つ二人のスタッフに尋ねた。「さっき、ポニテールと黒髪カールの女二人が来なかった?二人とも一六八センチくらいで……20分以内のことだよ!それとも誰かが彼女達を連れ出しているの見なかったか!?」スタッフは顔を見合わせた。「お客様、落ち着いてください。何が起こったので……」「時間がないんだ!!」晴は叫んだ。「監視カメラを確認しろ!人が消えたんだ!何が起こったかわかるだろ!?」スタッフは急いで監視カメラの映像を調べ始めた。だが、画面が真っ黒になっているのを見た瞬間、スタッフは硬直し、ゆっくりと立ち上がった。「……監視カメラが、全部ブラックアウトしています……」「クソッ!」晴は怒りに任せてカウンターを拳で叩きつけた。「今すぐ早く通報しろ!」「お客様!」もう一人の男性スタッフが割って入った。
紀美子は思わず額に手を当てた。佳世子のこの仕草は、もうメールを送ったと認めるようなものだった……「送ってようが送ってまいが、今日は二人とも我々について来てもらう」二人は恐怖で目を見開いた。「あんたたち何者!?」紀美子は素早く佳世子を背後に引き寄せた。「ここは監視カメラがあるわ。賢いなら手出しはよしなさい!」「監視カメラって、これかい?」細身の男が不意に携帯を掲げた。その画面には、ちょうどエレベーター内にいる四人の姿が映し出されていた。すぐに、画面が一瞬フラッシュして、監視映像は真っ暗になった。佳世子の足は震えが止まらなかった。「お二人さん、誘拐なんて考えないで!お金ならいくらでも出すわ!倍でも!3倍でもいいから!」「金はいらん」細身の男が言った。「ただ命令に従っているだけだ」「命令……」紀美子の脳裏にある人物が浮かび、慌てた表情が徐々に冷静さを取り戻した。「悟なのね?」細身の男は薄笑いを浮かべた。「誰かは、入江さんが眠った後でゆっくり考えてくださいな」ちょうどその時、エレベーターが「チーン」と音を立てて到着した。ドアが開くやいなや、紀美子は佳世子の手首を強く握り、外へ飛び出そうとした。しかし、がっしりとした男は一瞬で腕を伸ばし、紀美子の襟首を掴んだ。紀美子は必死でもがき、廊下に向かって叫んだ。「晋太郎!助けてっ!んっ……」佳世子もすでに細身の男に掴まれ、口を塞がれて全く声を出せなかった。顔にかけられたハンカチが、二人の意識を徐々に曖昧にし、身体も次第に力を失っていった。その頃、客室の中で。晴が晋太郎の部屋のソファーにだらしなく寝転がり、あくびをしながらぼやいていた。「佳世子たち、まだ戻ってこないのかよ……女ってどうしてこんなに元気なんだ……」晋太郎は腕時計をちらりと見て、顔を引き締めた。「もう一度電話してみろ」「お前がかけろよ……」「俺がお前の妻に電話するのが妥当だと思うか?」晋太郎が眉をひそめた。晴は慌てて起き上がった。「俺はかけないぞ!佳世子が買い物中に電話すると、帰ってきてから延々説教されるんだ。特に紀美子と一緒の時は!」晋太郎が不満げに睨みつけた。「俺がどれだけメール送ったかわかってるのか?」「だから
紀美子は驚いた表情で彼女を見つめて尋ねた。「何を見たの?そんなに驚いて?」佳世子は携帯を紀美子に向けた。「森川社長、あなたが見つからないから私にメッセージを大量に送ってきていたわ。20通以上も送ってきて、私から返信が来ないから、最後に電話してきたのよ」紀美子は画面をじっと見つめ、やがて「ぷっ」と笑いだした。「我慢できなくなって電話してきたってこと?」佳世子は眉を跳ね上げた。「あら、二人仲良くやってるみたいね」「ええ!」紀美子は率直に認めた。「彼、記憶を取り戻したの」「彼が言ったの!?」佳世子は驚きの声を上げた。「いつのことよ?」紀美子は微笑みながら首を振った。「言わなかったけど、きっと気付かずに口を滑らせたのよ。昨日のことだったわ」「まさか……」佳世子は手で口を覆いながら驚いた。「もしかして私たちの昨日の会話を聞かれて、男の本性に火がついたとか?」紀美子は耳元がほんのりピンクになった。「多分……そうかもね……」「よかったわ、紀美子!」佳世子は本当に嬉しそうに言った。「でも彼は自分からはまだ言ってないから、あなたも黙ってて。どれだけ我慢できるか見てみましょう!」「わかってる」紀美子はふと、晋太郎が時々本当に子供っぽいと感じた。1時間後。紀美子と佳世子が再び山頂に到着すると、車が停まる前にまたもや紀美子のまぶたが痙攣し始めた。彼女はドアを開ける手を止め、左目を押さえた。佳世子が身を乗り出した。「どうしたの?どこか具合悪いの?」紀美子は指でまぶたを押さえながら言った。「大丈夫、またまぶたがピクピクしてるだけ」「左目……」佳世子は考え込み、舌打ちした。「それ、不吉よ!」紀美子は呆れたように彼女を見て言った。「佳世子、そんなこと言わないで、余計に怖くなるから」「きっと寝不足なのよ。早く部屋に上がって寝ましょう」「ええ」二人は車を降り、ロビーへ向かって歩き出した。車内から紀美子と佳世子の姿を目撃していた悟の視線は、紀美子の後ろ姿に釘付けになっていた。あの優しげな眼差しは、今や紀美子に対してだけに注がれていた。大河が振り向いて尋ねた。「悟様、あちらです。どういたしましょうか?」「周辺の地形は確認済みか?
車はくねくねとした山道を下っていた。佳世子は真っ暗な周囲を見回しながら言った。「紀美子、この山道街灯ひとつないわよ。怖くない?」紀美子は軽く笑った。「大丈夫よ。ボディーガードも同乗してるんだから、何か出てくるわけないでしょ?」佳世子は自分の腕をさすった。「こういう環境苦手なの。空気は確かに美味しいけど、わざわざこんな高い所まで来て休暇を過ごそうなんて思わないわ」紀美子はカバンから子供たちのために準備していたプリンを取り出し、佳世子に手渡した。「このホテル、評判が結構いいし、有名人もたくさん来る場所だよ。嫌だと思ってるのは多分あなただけ。甘いものでも食べて気分を落ち着けて。生理のせいで気分が悪いんじゃない?」佳世子がそれを受け取り、包装を開けて食べようとした瞬間、目の前に白いヘッドライトが飛び込んできた。次の瞬間、対向車が彼らの車の横を疾走し過ぎ去っていった。佳世子はその車を見送りながら呟いた。「こんな夜中の三時とかに、誰が山に上がるのよ……」紀美子は何気なく言った。「日の出を見に来たんでしょう。ここは撮影スポットとしても有名だし」「私なら睡眠時間削ってまで日の出なんて見ないわ。仕事でクタクタなのに」紀美子が笑いかけたその時、まぶたがぴくっと痙攣した。胸の奥を一瞬、不安がかすめた。儚く消え去ったが、それでもどこか気味の悪さを感じずにはいられなかった。紀美子は他のことを考えることなく、運転手に向かって言った。「少しスピードを落として、カーブが多いし、道も暗いから、安全第一で」「わかりました」速度が緩むと、紀美子はようやく少し落ち着いた。20分後、紀美子と佳世子は山のふもとに到着した。佳世子と一緒に生理用ナプキンを買い終わった後、紀美子は急いで山に戻るつもりはなかった。町の携帯電話店が開店するのを待って、そこで携帯を買ってから戻るつもりだった。そして、せっかくの機会なので、地元の朝食を試してみることにした。朝の6時半。紀美子と佳世子は小さな町をひと回りして、ようやく気に入った朝食店を見つけ、腰を下ろした。食事を終え、紀美子は店主に尋ねた。「すみません、この辺りに早く開く携帯電話店ってありますか?」「携帯を買うのか?」店主はお好み焼きを焼きながら言