「あ……あぁ、わ、わかりました」舞桜はどもりながら答えた。紀美子は違和感を覚え、「どうしたの?」と尋ねた。「な、なんでもないです!」舞桜は焦りながら、「ちょうど今、子供たちのおもちゃを片付けてるんです!切りますね!」と電話を切った。「わかった」紀美子は言った。電話を切った後、舞桜は慌てて階段を駆け上がった。ドアを開け、子供たちに向かって言った。「大変!お母さんが帰ってきちゃう!ゆみがまだ帰ってないけど、どうしよう?」子供たちの顔色が変わり、念江は急いで晋太郎にメッセージを送った。その頃、晋太郎はゆみを連れて自宅への帰路に着いていた。ゆみとおしゃべりしていたため、座席の上で点滅している携帯に気づくことはなかった。晋太郎が返事をくれなかったため、念江は電話をかけたが、電話にも出なかった。念江は眉をひそめて携帯を置き、「たぶんお父さん、気づかなかったんだろう」と言った。「多分、今帰ってきている途中だと思う。ゆみがうるさくしてて、着信の音が聞こえなかったんじゃない?」佑樹は言った。「帰ってくる途中で紀美子さんと鉢合わせしちゃわないかな……」舞桜は言った。佑樹は気にしていないようで、背もたれに体を預けてのんびりとした様子で言った。「どうせ叱られるのはゆみじゃなくて、晋太郎の方だろ?」念江は、佑樹を見て困ったように言った。「僕たちも叱られるんじゃない?」佑樹は後ろで頭を支えていた手を止め、「たぶん、大丈夫だろう……」と答えた。車内。ゆみは遊び疲れたようで、晋太郎の膝に頭をのせ、可愛い目をうつろにしていた。晋太郎はゆみの柔らかい髪に手を当て、「ゆみ、眠いのか?」と尋ねた。ゆみはぼんやりとうなずき、あくびをして、「少し寝たい……」とつぶやいた。晋太郎は腕時計をちらりと見て、「もうすぐ着くから、少し我慢して、帰ってから寝ようか?」と言った。ゆみは身をひるがえして、目を閉じたまま、「ちょっとだけ……」と小さい声で呟いた。晋太郎は微笑みを浮かべながら、「いいよ」と答えた。その言葉を聞くやいなや、ゆみはすぐに眠りについた。10分後。藤河別荘に到着し、晋太郎がゆみを抱きかかえて別荘に連れて行こうとした時、紀美子の車も敷地に入ってきた。晋太郎の車が庭に停まって
ゆみをソファーに寝かせると、晋太郎は振り返り、紀美子の手を引いて階段を上がっていった。紀美子は抵抗しながら、「晋太郎、話があるならここで言って!わざわざ二階に行く必要はないわ!」と叫んだ。しかし、晋太郎はまったく話を聞き入れず、彼女を部屋まで連れて行った。ドアが閉まると、晋太郎は紀美子を見つめて言った。「本当は、君の方こそ俺に言いたいことがあるんじゃないのか?なぜ子供にそんな迷信的な考えを植え付けるんだ?」「別にあなたにいちいち説明する必要はないわ!」紀美子は痛む手首を揉みながら答えた。晋太郎は眉をひそめ、「紀美子、俺に腹を立てていたとしても、子供の人生をもてあそぶ必要はないだろ!」と言った。「私が子供の人生をもてあそんでいるとでも思ってるの?」紀美子は嘲笑を浮かべながら言った。「ゆみが墓地から帰ってきたあの日ゆみに何があったのか、あなたは知らないでしょう!」「何があったっていうんだ?」晋太郎は続けて聞いた。紀美子はしぶしぶ、ゆみがあの時どんな状態だったのかを説明した。晋太郎は一瞬驚きつつも、その後真剣な表情で聞いた。「どうしてもっと早く教えてくれなかったんだ?」「言ったところで意味がある?今日のように疑い深い目で見るだけでしょう?それどころか、もしゆみの病気が悪化したらどうするの?」紀美子は冷ややかに笑った。晋太郎はしばらく黙った後、「たとえ説明のつかないことがあったとしても、ゆみをあの場所で修行させるのは間違っている」と言った。「私だって心が痛むわよ!」紀美子はため息をつきながら答えた。しかし、彼女は突然、何かがおかしいことに気づいた。「あなた、なぜ私の子供にそんなに関心があるの?」晋太郎は視線をそらして、「別に……」とだけ答えた。「そんなことなら、もう帰って!」紀美子は呆れた様子で言った。晋太郎は再び紀美子を見つめ、「まだ怒っているのか?」と尋ねた。紀美子は薄く笑い、「あなたが無理やり私を病院に連れて行ったこと、私が簡単に忘れるとでも思っているの?」と返した。「申し訳なかった。ごめん」晋太郎は低い声で謝った。「傷つけられた後に謝られても、意味はないわ」紀美子は冷たく言った。晋太郎は彼女を真剣に見つめ、「あの時、君の体調が心配で……。で
さすがに深夜に大雨の中、長江公園に入ろうとする人はいないだろう!翔太は携帯を強く握りしめた。その目には抑えきれない憎しみが宿っていた。この件は、森川爺を除いて他に誰も関わっていない!!証拠は揃った、あとは証人さえ見つかればいい!何としてでも、証人を見つけ出してやる!三日後、土曜日。佳世子は朝早く紀美子に電話をかけ、一緒に妊婦健診に行ってほしいと頼んだ。紀美子は子供たちを舞桜に預け、佳世子を迎えに行った。車に佳世子を乗せると、彼女は早速愚痴をこぼし始めた。「紀美子、もう我慢できないわ!晴ったら普段はちゃんと面倒を見てくれるのに、友達が帰国したからって、夜明け前に出かけて行ったのよ!」紀美子はやっと少し目が覚めて、「何の友達か、彼が言ってた?」と尋ねた。佳世子は唇を尖らせ、「確かに言ってたけど、私、寝ぼけててあまり覚えてないの。隆一って言ってたような……」紀美子の頭にある人物の姿が浮かんだ。「鈴木隆一」「そうそう!」佳世子が言った。「その名前!外国から帰ってきたって言ってたわ」紀美子は、晋太郎の友達には興味がなかった。「彼には出かけさせておけばいいわ。病院には私が付き添ってあげる」佳世子は紀美子の腕に抱きついた。「やっぱり紀美子は頼りになるわ!」紀美子は苦笑しながら言った。「離してよ、運転中なんだから」十分後。紀美子と佳世子は病院に到着した。しかし、運悪く受付で静恵に遭遇してしまった。佳世子は彼女を見るなり、呆れた顔で言った。「まったく、朝からこんな不吉なものを見るなんて!」「気にしないで、私たちは早く診察に行きましょ」紀美子は言った。佳世子は頷き、お腹を撫でながら「ベビー、見ちゃダメよ、あんな人は目に毒だからね」と言った。紀美子は思わず吹き出した。「ベビーはお腹の中にいるんだから、見えるわけないでしょ」「それでも、私の怒りと嫌悪感を感じ取ってるかもしれないわ!」佳世子は言った。二人が列の後ろに並ぶと、静恵がちょうど振り返った。紀美子と佳世子を見つけると、彼女は驚いたように一瞬立ち止まった。その目には疑惑がよぎった。紀美子の様子はよさそうに見える。まさか、あの二人の子供がエイズに感染していることをまだ知らないのか
隆一は髪をかき上げた。「それは当然だ。俺が外国で無理やりマナーを学ばされたのは無駄じゃなかったってことだな!」そう言うと、彼は晋太郎に目をやり、そして周りを見回した。「晋太郎、俺の名付け子はどこだ?!」「お前の名付け子って!」晴が抗議した。「彼は俺の名付け子だぞ!」「は?!」隆一は鼻で笑い、「念江の名前をつけたのは俺だぞ。お前みたいに後から割り込んできた奴がしゃしゃり出てくるなよ」と返した。晴は隆一の首を引っ掴んだ。「お前、ケンカ売ってんのか?!」「やれるもんならやってみろ!お前なんか怖くねぇ!」隆一は応戦した。困惑した顔の晋太郎はため息をついた。「……」空港には人がこれだけいるのに、この二人は何をやっているんだ?見てられなくなった晋太郎は、踵を返して一人で出口の方向へと歩き出した。隆一と晴はそれを見て、急いで叫んだ。「晋太郎、どこ行くんだよ!」しかし晋太郎は、さらに足を速めるばかりだった。昼時。レストランにて。晋太郎は隆一の歓迎会を開こうと、個室を予約した。皆少し酒を嗜みながら、話の口火が切られた。「晋太郎、紀美子が戻ってきたって聞いたぞ。しかも、お前が彼女を追いかけてるって。本当か?」隆一は尋ねた。晋太郎は晴を一瞥した。「それを教えたのはこいつだな?」隆一は頷いた。「お前はいつも返事をしてくれないから、晴から教えてもらったんだ」晴は隆一に目配せをして「それ以上言うな」と合図した。隆一はそんな晴をまじまじと見て、「晴、お前、目にゴミでも入ったのか?」と真顔で言った。「……」晴は言葉を失った。まったく、こいつは空気を読むということを知らないのか?数年海外にいただけで、頭が鈍くなったのか。晋太郎は晴を冷ややかな目で見つめた。「お前、毎日暇してるだろう」晴はヘラヘラと笑い、「いやぁ、晋太郎、ほんの一言二言言っただけだって。他には何も言ってないからさ」と弁解した。隆一はさらに言葉を続けた。「晋太郎、紀美子をもう落としたのか?今度会う時はみんなで集まろうぜ……」「プッ——」隆一が言い終わるや否や、晴は飲んでいた酒を吹き出した。晋太郎はこめかみに青筋を浮かべ、晴を睨みつけた。「その……なんだ……ゴホゴホ
晋太郎が戻ってくる前に、晴は早口で隆一に説明し始めた。隆一は驚いて今にも目が飛び出しそうだった。「晋太郎がそんなに辛い思いをしていたなんて、なんで俺に言わなかったんだ!」隆一は晴を非難した。「お前が携帯を使えたら言っていたさ。礼儀作法を叩き込まれて閉じ込められていただろ」晴は答えた。「くそっ、前に遊びすぎたんだ。俺たちで晋太郎を助けなきゃ!」隆一は頭をかきながら言った。「紀美子の二人の子供をどうにかするのはどうだ?」「彼女に子供がいるって?!」隆一は驚いた。晴は一度咳払いをして、「念江は紀美子の息子で、ゆみと佑樹も晋太郎の子供だよ……」と説明した。「なんてことだ!」隆一は舌を鳴らした。「そんなショッキングな話を俺は今まで知らなかったなんて!」ダメだ!兄弟のために一肌脱がなければ!絶対に兄弟の子供と奥さんを放っておくわけにはいかない!藤河別荘。佑樹はコンピュータの前で苛立っていた。「くそっ!」佑樹は小さな拳を机に叩きつけた。「こいつは誰だ?!なんでこんなずる賢いんだよ?!」念江は少し驚いた。「佑樹、汚い言葉は使わないでよ」佑樹は表情を暗くした。「たった数時間で、またたくさんの偽IDアドレスが増えてる!たった一人の人間がこんなことをできるわけないよ!」「焦るな。向こうも僕たちから逃れようと必死かもしれない」念江は彼を慰めた。「国内でこんなにレベルの高いハッカーは見たことがない!一番厄介なのは、彼が何を狙っているのか全然わからないってことだ!防火壁を何度も修正したけど、向こうは一気に突破しようとしてこない。わざと僕たちをからかっているみたいだ」佑樹は言った。「しばらく調査は中断しよう」念江は冷静に答えた。「どうして?」佑樹は納得できず、「奴を捕まえたくないのか?」と尋ねた。念江は分析しながら、「焦っても仕方がない。相手は十分な人数がいるはずだ。それに、まだ仕掛けるタイミングではない」と答えた。「つまり、向こうは僕たちの力を試しているというのか?」佑樹は少し落ち着いてから尋ねた。「いや、向こうはきっと今、僕たちの精神を削ろうとしているんだ」念江は答えた。佑樹は突然寒気を感じた。「つまり、奴らは僕たちの心身共に
悟は携帯を置いて紀美子の前に歩み寄った。佳世子は驚いて彼を見つめた。「悟?あなたもここに?」悟は微笑んで頷いた。「そう。佑樹、ゆみ、それに念江がもうすぐ新学期だから、彼らに新学期のプレゼントを買いに来たんだ」「ありがとう」紀美子は立ち上がった。「どうぞ座って」「ありがとう」紀美子は階段を降り、身を引いて悟を通そうとした。ちょうどその時、後ろからカフェのトレイを持った店員が近づいてきた。紀美子の動きに気づいた店員が慌てて叫んだ。「危ない!」悟はバランスを崩しそうな紀美子に気づくと、咄嗟に顔を上げ、彼女の腕を掴み、そのまま自分の胸に引き寄せた。その瞬間、耳元でトレイやカップが床に落ちる音が響いた。悟は紀美子を抱きかかえ、彼女の顔を覗き込みながら心配そうに「大丈夫?」と尋ねた。紀美子が我に返って悟を見上げると、その淡い茶色の瞳が視界に入った。彼女は一瞬驚いたが、すぐに悟の腕から飛び出して、「だ、大丈夫……」と慌てて答えた。そして、ウェイトレスの方を向いた。「ごめんなさい、ぶつかってしまって……このコーヒー、弁償します」マクドナルドにて。瑠美は偶然この場面を写真に収めた。悟が紀美子を抱きしめる写真をじっと見つめているうちに、その瞳には怒りの炎が灯っていった。紀美子と悟の間には絶対に何かあるに違いない!でなければ、紀美子が危険にさらされた時に悟があんなに緊張するはずがない!感情を抑えきれなくなった瑠美は、その写真に一言添えてすぐに晋太郎に送った。「こんな女、あなたが好きになる価値なんてないわ!」ジャルダン・デ・ヴァグ。晋太郎が家に戻ると、すぐに知らない番号からのメッセージが届いた。彼は写真を開き、そこに写っている紀美子と悟が抱き合っている姿を見て、黒い瞳には怒りの色が浮かんだ。ちょうどその時、靴を履き替えて後から入ってきた晴が尋ねた。「晋太郎、何をぼうっとしてるんだ?」そう言いながら、彼も晋太郎の携帯を覗き込んだ。写真を見て、晴は目を見開いた。「うわっ、これ紀美子か?彼女は佳世子と出かけたはずだろ?なんで悟と抱き合ってるんだ?」晋太郎の冷たく険しいオーラにリビングの空気は一気に凍りついた。晴は思わず腕を擦り、小さな声で尋ねた。「こ
佳世子は悟と紀美子を見比べた。二人は本当にお似合いに見える。だがしかし残念なことに、悟は晋太郎にはかなわないだろう。途中で紀美子がトイレに行った。佳世子は頬杖をつき、悟を見つめながら言った。「悟、紀美子のこと、どれくらい好きなの?」「どうして急にそんなことを聞くんだ?」悟は微笑んで答えた。「何か嫌な経験でもしたの?あなた、感情を管理するのがすごく上手ね」佳世子は試すように尋ねた。悟の笑顔が一瞬消えた。「君の言う意味がよくわからないな」「だって、あなたの目からは紀美子への愛情が見えないのよ」佳世子は真剣な顔で言った。「心の中に秘めればいいものを、なぜわざわざ表に出す必要があるんだ?」悟は佳世子をじっと見つめ、静かに反論した。佳世子は何も言わず、悟と視線を交わした。数秒後、佳世子はふっと笑い出した。「あら、ごめん、ただの冗談よ!まさか本気にするなんて!」悟の笑顔はすぐに消え、目の優しさが一瞬で冷たさに変わった。「その冗談、面白いか?」佳世子はまるで雷に打たれたかのように固まり、悟をじっと見つめた。彼は……どうして突然こんなに不気味な表情を見せるの?「悟……」佳世子は恐怖でつぶやいた。「あなた……」「ふっ」悟は軽く笑いながら言った。「驚いた?」佳世子は唖然とした。「えっ?」悟は自分の顔に手を触れ、冗談めかして言った。「俺、役者の才能あるんじゃないか?」佳世子はまだ鳥肌が立ったまま、ぎこちなく笑って返した。「え、ええ、そうね……」するとすぐに紀美子が戻ってきた。佳世子の落ち着かない様子に気づいた紀美子が心配して聞いた。「佳世子、大丈夫?」「えっ?」佳世子ははっとして顔を上げた。「何でもないわ……」「さっきの俺の冗談が怖かったのかな」悟が紀美子に説明した。紀美子は訳がわからない様子で悟を見た。そして悟はさっきの出来事を簡単に紀美子に説明した。紀美子は苦笑した。「佳世子、本当に怖がりね」佳世子はただぎこちなく笑って肩をすくめ、何も言わなかった。「紀美子、そろそろ時間だね。プレゼントは頼む。俺はもう行くよ」悟は立ち上がった。紀美子は特に引き止めず、プレゼントを受け取って「ありがと
佳世子が激しく反応するのを見て、紀美子はなだめるように言った。「分かった、分かったよ。きっと彼には俳優の才能があるんだね」佳世子はため息をついた。「紀美子、あなたには分かってもらえてないみたいね。もし信じてくれるなら、私の言うことを聞いて彼のことは少し警戒してほしい」その言葉が終わった瞬間、紀美子の携帯に晋太郎からメッセージが届いた。今回は佳世子が止めなかったので、紀美子はメッセージを開いて確認した。そこには、さっき悟が彼女を抱きしめた写真が表示された。紀美子は驚いた。どうして晋太郎がこの写真を持っているのか?続いて、晋太郎からのメッセージが届いた。「今どこにいる?」画面越しに晋太郎の怒りが伝わってくるのを感じた。「佳世子とショッピングモールにいる。この写真、どういう意味?」「なぜ悟が君を抱きしめているんだ?」晋太郎は返信した。「事情も知らずに、いきなり私を責め立てるのはやめてくれる?」そのメッセージを送った直後、晋太郎から電話がかかってきた。紀美子は深く息を吸い込み、電話を取って不機嫌そうに言った。「晋太郎、一体何がしたいの?」佳世子は驚いて紀美子を見つめた。「何があったの?」紀美子は首を横に振り、佳世子に黙るように合図を送った。晋太郎は電話越しに、「佳世子はまだ君と一緒か?」と尋ねた。「そうよ!」紀美子は答えた。「もし私が悟と何かあったと疑っているなら、佳世子に状況を聞けばいいじゃない!」「必要はない」晋太郎は冷たく拒否した。紀美子は誤解されることが嫌いだったので、説明した。「この件について、誰かがあなたに写真を送ったのか、あるいはあなたが私を監視しているのかは知らないけれど、はっきり言っておくわ。悟はただ私を引っ張ってくれただけよ。そうしないとウェイターの持ってたコーヒーが私にかかるところだったの!」「俺が君を尾行させたとでも思ってるのか?」晋太郎は低い声で返した。「そうじゃなかったら、どうしてそんな写真を持っているの?こんなやり方は本当に気分が悪いわ」紀美子は冷笑した。「俺がそんな人間だと思ってるのか?」「前にもこういうことをしたじゃない。覚えてない?」紀美子は言った。「……」晋太郎は言葉を失った。
紀美子は体を無理やりに起こそうとした。悟は手を差し伸べたが、触れる前に紀美子に冷たく払いのけられた。「触らないで!」紀美子は憎悪に満ちた目で悟を睨んだ。悟は手を引っ込め、紀美子が自力で体を起こしてベッドにもたれかかるのをただ見守った。「何度も言ったはずでしょう?馬鹿でもわかるくらいに!」「ああ、わかっている」悟は目を伏せた。「わかってるなら、なぜ何度も私を連れ去ろうとするの?」紀美子の声は次第に激しくなっていった。「あんたほど意地の悪い人間は見たことないわ!」悟は唇を噛み、深く息を吸ってから顔を上げた。「紀美子、私と一緒に来てくれないか?」「行く?」紀美子は冷笑した。「どこへ?あんたの頑固さと身勝手さで、どれだけの無実な命が奪われたか知ってる?自首して、あの世で彼らに悔い改めるべきよ!あんたが生きていると思うと、呼吸すら苦しくなってくるの!」「彼らが無実だというが、私はどうなんだ?」悟の目には苦痛が溢れていた。「私には少しの情さえないのか?他人ならともかく、私の全てを知っている君まで……少しも分かってくれないのか?」悟の言葉に、紀美子は心の底から嫌悪を感じた。「情?」紀美子は冷ややかに嘲った。「野良犬の方が同情できるわ。ましてやついてこいなんて!もし無理やり連れ去ろうとするなら、警察に通報される覚悟でいてね!」悟は体が鉛のように重くなり、突然ひどく疲弊感を感じた。「じゃあ、私にどうしてほしいんだ?」悟は力なく尋ねた。「死んでほしい!」紀美子の声は冷たく、なんの感情も見えなかった。「天国に行けないような死に方を!」「そうすれば、君は私を許してくれるのか?」悟は苦笑した。「それで許せると思う?」「君が許してくれるなら、私は何でもする!」「そう?」紀美子は嘲るように笑った。「じゃあ、私の母と初江さん、それに朔也の命を返してよ。できたら許してあげる。どうなの?」「……つまり、君の許しは得られないのか」悟の表情は完全に暗くなった。「わかってるでしょう?悟、みっともない死に方をしたくなければ、今すぐ私を帰らせなさい!」「できない」悟の声は次第に弱くなっていった。「君だけは、死ぬまで手放す気になれない」「往生際が悪
悟は唇を強く結んだ。「ほら、私が提案したって無駄でしょ?あんたの結末はもう決まってるわ」「それでも、紀美子を諦めない」悟は立ち上がった。「三日あれば、全てを整えて彼女を連れていける。たとえ手下はいなくとも、金さえあれば何とかなる!」その最後の言葉に、佳世子の背筋が凍った。悟は、三日もあれば莫大な資金で逃亡経路を確保できる!「目を覚ましてよ!あんたに紀美子を連れ出せるはずがない!」佳世子は叫んだ。「道は二つだけだろ?」悟は、そう言い残すとドアを開けて出て行った。佳世子は急いでベッドから飛び降り悟を追いかけようとしたが、屈強な男に阻まれた。力づくでは無理だと悟ると、彼女は不貞腐れてベッドに戻った。一方、別の部屋では——悟はまだ眠っている紀美子の寝室に入った。ベッドの縁に座り、悟は彼女の整った顔に見入った。彼は手を伸ばし、そっと頬に触れて髪をかきあげた。「紀美子」悟は嗄れた声で呼びかけ、目に優しい眼差しを浮かべた。「五年前と何も変わっていないな。もしもっと早くこの気持ちに気づいていたら、全てが違っていただろうか?一歩踏み出していれば、今頃君は私のものになっていただろうか?」悟は声が震え出した。「負けを認めたくないが、これが現実だ。私は全てを失ってもいい。ただ……側にいてくれないか?」涙が紀美子の手の甲に落ちたのを見て、悟は慌てて拭いた。彼女には、まだ目覚めてほしくなかった。ただ静かに傍にいてくれればいい。冷たい言葉を浴びせなければいい。そう考えると胸がさらに締め付けられ、悟は涙を堪えれなかった。彼は手を引くと、シーツを強く握りしめた。その時突然、ドアがノックされた。悟は急いで涙を拭い、深く息を吸って顔を上げた。「入れ」「社長、我々のIDが特定されました!ここは時期に探知されます!」大河が慌てた様子でタブレットを持って入ってきた。「静かに」悟は唇に指を立て、紀美子の方を見た。「起こすな」大河は眠っている紀美子、そして悟の赤い目に気づいた。「社長、なぜこんな女のために危険を冒すのですか?馬鹿げています!」「お前も愛する女ができたら、きっとこの気持ちがわかるだろう」悟は静かに言った。大河には、今逃げなければ終わりだという
「馬鹿な真似はよしてよ!」佳世子は再び激怒した。「晋太郎が逃がしてくれると思う?寝言は寝てから言って」「不可能だと分かっているからこそ、君に頼んでいるんだ」悟は静かに答えた。「何で私が親友を裏切り、あんたのような悪者を助けなきゃいけないの?私の両親の命でもかけて脅すつもりなの?バカバカしい。あんたに手を貸す人なんて、もう誰もいないわ!」佳世子の言葉に、悟は無力感を感じた。「ああ、今の私には、もう紀美子しか残っていない」声を落として彼は言った。「そんな情に訴えても無駄よ。あんたは紀美子を撃ったのよ。忘れたの?彼女は、あんたの卑劣な手口のせいで飛び降り自殺しそうにもなったよね?」「嫌だ、死んでも絶対に協力しないわ!」「こうなることは分かっていた」悟は前かがみになり、肘を膝につけてうつむいた。「私は完全に敗北した。しかしまだ生きたいんだ」「生き延びてどうすんの?あんたのような悪魔は早く地獄に落ちてくれればいいのに」佳世子は罵った。「今の私が生きる唯一の希望は、紀美子の人生を見届けることだ」悟は言った。「何それ?」佳世子は問い詰めた。「好きな人を利用して、自分の人生の心残りを埋めようとしてるの?」悟は黙り込んだ。複雑な感情が佳世子の胸をよぎった。悟は確かに悪だが、その境遇は憐れでもあった。だが、そんな感情で人を傷つける権利などない!「もしあんたにまだ良心が残ってるなら、私と紀美子を帰しなさい。あんたはもう昔の力を完全に失ったのよ。それに、紀美子の子供たちがどれほど優秀かも知ってるでしょ?ここもいつか必ず晋太郎に見つかるし、その時のあんたの末路は言うまでもないわ」「一度始めたことはもう引き返せない」悟は目を上げて断言した。「死ぬか、紀美子を連れて行くかだ」「どうしてそんな極端な考え方しかできないの?」佳世子は眉をひそめた。「私に他に道があると思うか?」悟は自嘲的に笑った。「捕まれば獄死、見つかれば殺される。そうだろう?」それを聞いて、佳世子の胸は苦しくなった。昔仲が良かった頃のことを思えば思うほど、言葉は重くのしかかった。「悟、本当のことを教えて」佳世子は真剣な眼差しで悟を見つめた。「後悔しているかどうか聞きたいんだろう」
「念江がファイアウォールを突破したIDを特定してからでないと追跡できない」佑樹は小さな眉をひそめて説明した。「30分くれ。長くても30分で特定できる!」念江は言った。30分は長くないが、今は一分一秒が耐えがたいほど長く感じた。十数分経った頃、念江は極度の緊張で鼻血を出してしまった。周りの者は皆、念江の様子に胸を締め付けられた。だが念江は気に留めずに手で鼻血を拭うと、再びハッキングに集中した。「心配しないで。お医者さんに、回復期に時々鼻血が出るのは正常だと言われてるんだ。お母さんが見つかったら少し休めばいい」念江の説明を聞いて、皆はやや安心した。ちょうど29分経った時、念江はエンターキーを叩いた。「よし、IDを特定した。佑樹、後は任せた」「君は休んでおいて。残りは僕がやる」念江は青白い顔でうなずき、椅子にもたれかかった。晋太郎は彼の小さな体を抱き上げた。「父さん、大丈夫…」念江は疲れた目を開いた。「暫く休め。何かあればすぐ知らせる」晋太郎は息子をベッドに運びながら言った。「うん…」わずか数時間で、晴の顔には疲労の色が濃く出ていた。「何だか最近、自分が子供たちにすら及ばないのではないかと不安になるんだ」晋太郎が寝室から出てくると、晴は自嘲気味に笑った。「お前が役に立ったことなどあったか?」晋太郎は冷たく見下ろした。「まあ……そうだな」晴は言葉に詰まった。「唯一の長所は一途なことだな」晋太郎は軽く一言を付け加えた。「確かにその通りだ。俺の心には佳世子しかいない」晴は頭をかいた。一方、別の場所では——悟は、意識を失っている紀美子を以前滞在していた民宿に連れ込んだ。そこのボディガードは既に全員が撤収しており、最も安全な場所だった。佳世子は紀美子とは別の部屋に閉じ込められていた。悟は紀美子の布団を整えてから、佳世子の部屋に向かった。佳世子のベッドの横に座ると、悟は彼女の手を掴み、特定のツボを強く押した。すると、佳世子はパッと目を開いて、そして反射的に手を引っ込めた。見慣れない景色を見て彼女は慌てて起き上がり、ようやく隣に人が座っていることに気付いた。悟と目が合うと、佳世子は眉をひそめた。「悟!やはりあんただったのね!」
その時、晋太郎もボディガードからの連絡を受け取った。隅々まで探したが、結局紀美子と佳世子の姿は見つからなかった。警察もすぐに到着し、ホテル全体を捜索し始めた。それでも、二人が見つかることはなかった。その報告を聞いた晋太郎は、怒りで窓ガラスに拳を叩きつけた!ガラスの割れる大きな音に、佑樹と念江は体を震わせた。二人はそのまま、手から血を流しながら震える父を驚いた表情で見つめた。父に何を言っても無駄だということも分かっていたため、ただ歯を食いしばった。「悟の仕業だ」晋太郎は険しい表情で窓際に立った。ここまで完璧に痕跡を消せるのは、奴しかいない!今、彼を悩ませているのは、悟が紀美子たちをどこに隠したかということだ。奴の勢力はもう完全に潰したはずだが、今最も恐れているのは、奴が紀美子を連れて完全に姿を消すことだった。そうなると、大海原で針を探すようなもので、手がかりすらつかめないだろう。晴が事情聴取を終え警察署から戻ってきても、子供たちはまだパソコンを操作していた。晴はソファに崩れ落ち、頭を抱えてうなだれた。「くそっ!!!絶対に悟だ!!あいつに違いない!!晋太郎、何とかして二人を助けてくれ!悟は紀美子を傷つけないかもしれないが、佳世子は殺されるかもしれない!」晴は晋太郎に助けを求めた。「分かってる!既にあの辺りに配置していたボディガードを引き上げさせた。これからは山と町内を徹底的に調べさせる!美月も動き出している!」晋太郎は歯を食いしばりながら言った。「お父さん、相手の車のナンバーは分かる?正確な情報があれば、もっと早く調べられる!」突然、佑樹が振り返って言った。晋太郎は直ちに美月に電話をかけた。通話が繋がると、美月が話す前に佑樹が切り出した。「美月さん、悟たちの車のナンバーって分かる?」「分かるわ」美月は答えた。「9000だけど、あっちの技術者が、通った場所の監視カメラの録画データを全て消してるわ」佑樹は念江を見た。「念江、ダメなら先生に頼ろう!できるだけ早く母さんと佳世子さんを見つけないと」「わかった、今電話する!」念江は言った。隆久はすぐ電話に出た。念江が状況を説明しようとした時、電話の向こう側からマウスボタンのクリック音が聞こえてきた。
晴の言葉には耳を貸さず、晋太郎はドアを勢いよく開け、再び佳世子の携帯に電話をかけた。晴が後を追うと、廊下のどこかから佳世子の着信音が聞こえてきた。晋太郎の張り詰めた雰囲気に飲み込まれていた晴だったが、この音を聞いた途端、緊張が一気に和らいだ。彼は晋太郎の腕を軽く小突きながら、冗談めかして言った。「ほら!着信音が聞こえるじゃないか!二人はここにいるに決まってる!まったく、悪戯に引っかかるところだったぜ!見つけたらこっぴどく叱ってやるからな!」しかし、晋太郎の表情は微動だにしなかった。むしろ、その冷たさが次第に険しさへと変わりつつあった。彼は着信音の方向を追い、エレベーターの前で静かに地面に落ちている携帯を見つけた。派手な黄色いケース、それは、佳世子がずっと使っていたものだった。晋太郎が大股でエレベーター前に進むと、まだ状況を把握していない晴もついてきた。着信音が近づくにつれ、晋太郎が身をかがめて携帯を拾い上げると、晴は雷に打たれたように固まった。「佳世子の……携帯!?」晴は慌ててそれを掴んだ。「なぜここに!?」晋太郎は危険な光を宿した目を細めた。「お前はフロントに行け、紀美子と佳世子を見た者がいないか確認しろ。俺は子供たちの元へ行く」晴は事態の深刻さを悟り、すぐにエレベーターのボタンを押して下に向かった。ロビー階に着くと、晴は真っ先にフロントに駆け込み、カウンターに立つ二人のスタッフに尋ねた。「さっき、ポニテールと黒髪カールの女二人が来なかった?二人とも一六八センチくらいで……20分以内のことだよ!それとも誰かが彼女達を連れ出しているの見なかったか!?」スタッフは顔を見合わせた。「お客様、落ち着いてください。何が起こったので……」「時間がないんだ!!」晴は叫んだ。「監視カメラを確認しろ!人が消えたんだ!何が起こったかわかるだろ!?」スタッフは急いで監視カメラの映像を調べ始めた。だが、画面が真っ黒になっているのを見た瞬間、スタッフは硬直し、ゆっくりと立ち上がった。「……監視カメラが、全部ブラックアウトしています……」「クソッ!」晴は怒りに任せてカウンターを拳で叩きつけた。「今すぐ早く通報しろ!」「お客様!」もう一人の男性スタッフが割って入った。
紀美子は思わず額に手を当てた。佳世子のこの仕草は、もうメールを送ったと認めるようなものだった……「送ってようが送ってまいが、今日は二人とも我々について来てもらう」二人は恐怖で目を見開いた。「あんたたち何者!?」紀美子は素早く佳世子を背後に引き寄せた。「ここは監視カメラがあるわ。賢いなら手出しはよしなさい!」「監視カメラって、これかい?」細身の男が不意に携帯を掲げた。その画面には、ちょうどエレベーター内にいる四人の姿が映し出されていた。すぐに、画面が一瞬フラッシュして、監視映像は真っ暗になった。佳世子の足は震えが止まらなかった。「お二人さん、誘拐なんて考えないで!お金ならいくらでも出すわ!倍でも!3倍でもいいから!」「金はいらん」細身の男が言った。「ただ命令に従っているだけだ」「命令……」紀美子の脳裏にある人物が浮かび、慌てた表情が徐々に冷静さを取り戻した。「悟なのね?」細身の男は薄笑いを浮かべた。「誰かは、入江さんが眠った後でゆっくり考えてくださいな」ちょうどその時、エレベーターが「チーン」と音を立てて到着した。ドアが開くやいなや、紀美子は佳世子の手首を強く握り、外へ飛び出そうとした。しかし、がっしりとした男は一瞬で腕を伸ばし、紀美子の襟首を掴んだ。紀美子は必死でもがき、廊下に向かって叫んだ。「晋太郎!助けてっ!んっ……」佳世子もすでに細身の男に掴まれ、口を塞がれて全く声を出せなかった。顔にかけられたハンカチが、二人の意識を徐々に曖昧にし、身体も次第に力を失っていった。その頃、客室の中で。晴が晋太郎の部屋のソファーにだらしなく寝転がり、あくびをしながらぼやいていた。「佳世子たち、まだ戻ってこないのかよ……女ってどうしてこんなに元気なんだ……」晋太郎は腕時計をちらりと見て、顔を引き締めた。「もう一度電話してみろ」「お前がかけろよ……」「俺がお前の妻に電話するのが妥当だと思うか?」晋太郎が眉をひそめた。晴は慌てて起き上がった。「俺はかけないぞ!佳世子が買い物中に電話すると、帰ってきてから延々説教されるんだ。特に紀美子と一緒の時は!」晋太郎が不満げに睨みつけた。「俺がどれだけメール送ったかわかってるのか?」「だから
紀美子は驚いた表情で彼女を見つめて尋ねた。「何を見たの?そんなに驚いて?」佳世子は携帯を紀美子に向けた。「森川社長、あなたが見つからないから私にメッセージを大量に送ってきていたわ。20通以上も送ってきて、私から返信が来ないから、最後に電話してきたのよ」紀美子は画面をじっと見つめ、やがて「ぷっ」と笑いだした。「我慢できなくなって電話してきたってこと?」佳世子は眉を跳ね上げた。「あら、二人仲良くやってるみたいね」「ええ!」紀美子は率直に認めた。「彼、記憶を取り戻したの」「彼が言ったの!?」佳世子は驚きの声を上げた。「いつのことよ?」紀美子は微笑みながら首を振った。「言わなかったけど、きっと気付かずに口を滑らせたのよ。昨日のことだったわ」「まさか……」佳世子は手で口を覆いながら驚いた。「もしかして私たちの昨日の会話を聞かれて、男の本性に火がついたとか?」紀美子は耳元がほんのりピンクになった。「多分……そうかもね……」「よかったわ、紀美子!」佳世子は本当に嬉しそうに言った。「でも彼は自分からはまだ言ってないから、あなたも黙ってて。どれだけ我慢できるか見てみましょう!」「わかってる」紀美子はふと、晋太郎が時々本当に子供っぽいと感じた。1時間後。紀美子と佳世子が再び山頂に到着すると、車が停まる前にまたもや紀美子のまぶたが痙攣し始めた。彼女はドアを開ける手を止め、左目を押さえた。佳世子が身を乗り出した。「どうしたの?どこか具合悪いの?」紀美子は指でまぶたを押さえながら言った。「大丈夫、またまぶたがピクピクしてるだけ」「左目……」佳世子は考え込み、舌打ちした。「それ、不吉よ!」紀美子は呆れたように彼女を見て言った。「佳世子、そんなこと言わないで、余計に怖くなるから」「きっと寝不足なのよ。早く部屋に上がって寝ましょう」「ええ」二人は車を降り、ロビーへ向かって歩き出した。車内から紀美子と佳世子の姿を目撃していた悟の視線は、紀美子の後ろ姿に釘付けになっていた。あの優しげな眼差しは、今や紀美子に対してだけに注がれていた。大河が振り向いて尋ねた。「悟様、あちらです。どういたしましょうか?」「周辺の地形は確認済みか?
車はくねくねとした山道を下っていた。佳世子は真っ暗な周囲を見回しながら言った。「紀美子、この山道街灯ひとつないわよ。怖くない?」紀美子は軽く笑った。「大丈夫よ。ボディーガードも同乗してるんだから、何か出てくるわけないでしょ?」佳世子は自分の腕をさすった。「こういう環境苦手なの。空気は確かに美味しいけど、わざわざこんな高い所まで来て休暇を過ごそうなんて思わないわ」紀美子はカバンから子供たちのために準備していたプリンを取り出し、佳世子に手渡した。「このホテル、評判が結構いいし、有名人もたくさん来る場所だよ。嫌だと思ってるのは多分あなただけ。甘いものでも食べて気分を落ち着けて。生理のせいで気分が悪いんじゃない?」佳世子がそれを受け取り、包装を開けて食べようとした瞬間、目の前に白いヘッドライトが飛び込んできた。次の瞬間、対向車が彼らの車の横を疾走し過ぎ去っていった。佳世子はその車を見送りながら呟いた。「こんな夜中の三時とかに、誰が山に上がるのよ……」紀美子は何気なく言った。「日の出を見に来たんでしょう。ここは撮影スポットとしても有名だし」「私なら睡眠時間削ってまで日の出なんて見ないわ。仕事でクタクタなのに」紀美子が笑いかけたその時、まぶたがぴくっと痙攣した。胸の奥を一瞬、不安がかすめた。儚く消え去ったが、それでもどこか気味の悪さを感じずにはいられなかった。紀美子は他のことを考えることなく、運転手に向かって言った。「少しスピードを落として、カーブが多いし、道も暗いから、安全第一で」「わかりました」速度が緩むと、紀美子はようやく少し落ち着いた。20分後、紀美子と佳世子は山のふもとに到着した。佳世子と一緒に生理用ナプキンを買い終わった後、紀美子は急いで山に戻るつもりはなかった。町の携帯電話店が開店するのを待って、そこで携帯を買ってから戻るつもりだった。そして、せっかくの機会なので、地元の朝食を試してみることにした。朝の6時半。紀美子と佳世子は小さな町をひと回りして、ようやく気に入った朝食店を見つけ、腰を下ろした。食事を終え、紀美子は店主に尋ねた。「すみません、この辺りに早く開く携帯電話店ってありますか?」「携帯を買うのか?」店主はお好み焼きを焼きながら言