「気に入ったか?」急に、後ろのスパイラル階段の方から、森川晋太郎の声が聞こえてきた。彼はゆっくりと階段を降りてきたが、ライトに照らされた黒いスーツが薄く金色を光っており、生まれつきの貴族の気質が威厳を漂っていた。入江ゆみは晋太郎をまっすぐに見つめ、思わず声を低くして言った。「お父さんはまるで、おとぎ話の中の黒馬の王子様みたい!!」隣ではっきりと聞こえた入江佑樹は、驚きながら彼女を見て言った。「黒、黒馬の王子様??」ゆみの目は光り、しっかりと頷いて言った。「うん!だってお父さんは黒いスーツを着てるんだもん!」佑樹は急に脳裏で一つの画面が浮かんだ。顔が晋太郎のもので、首以下が黒い馬の化け物……モンスターだ……!直視できない……!晋太郎は2人の前に来た。彼がまだ口を開いていないうちに田中晴が寄ってきて、恥ずかしがり屋の人妻のような甘えた声で言った。「ああ、疲れたわ、こんなに遠い道を私一人で運転させるなんて!」晋太郎は顔色が変わり、きつい目線で晴を睨みながら、「近づくな!」と命令した。晴は悔しそうに口をへの時に曲げ、文句を言った。「薄情だ!悪役!訴えてやる!」すると晋太郎は冷たい声で言った。「酒蔵にお前が好きなペトリュスを1本取って置いた」「マジで?!取って来る!」晴ははしゃぎながら走っていった。2人の子供達は絶句した……晋太郎は優しい声で子供達に、「君たちの母親の事件が解決されるまで、安心してここに泊まっていい」と言った。ゆみは唇を舐めて、興奮した声で晋太郎に向かって言った。「この酒蔵、まるでお城のようだわ!ゆみをここの主に……痛っ!」話の途中で、佑樹はゆみの額にげんこつを入れた。ゆみは額を抑えながら兄に不満をこぼした。「お兄ちゃんがいつもゆみをイジメる!!」晋太郎は微かに指を動かし、娘の額を揉もうとした。よくも娘に手を出したな!佑樹はからかった。「主人?使用人の間違いじゃない?」そう言って、佑樹は晋太郎に、「パソコンが1台欲しい」と要求した。「分かった」晋太郎は口元に笑みを浮かべ、「ゆみは?」と聞いた。ゆみは口をすぼめて暫く考えてから、「ゆみはきれいなワンピースが着たい!」と答えた。「10着で足りるか?」晋太郎は
「それはお母さんは気にしなくていい」入江佑樹は答えた。「でもお母さんは気をつけてね」入江紀美子は背を壁に預けながら言った。「分かってるわ、もし特に用がなければ、もう会社に行かないから」佑樹は暫く黙ってから、「お母さん、僕が言っているのは、あなたが帝都から離れる前のことだ」と言った。紀美子は驚いて、顔から微かに血の気が引くのを感じながら、「佑樹くん、何か知ってるの?」と聞いた。佑樹は唇を動かし、小さな両手でキーボードを暫く叩いてから、「お母さん、これを見て」と言った。紀美子はメッセージを受信した。彼女は佑樹が送ってきた動画を開いた。暫く見ていると、紀美子は急に目を見開いた。「佑樹くん、この動画はどこから手に入れたの?」「念江くんが僕に送ってくれたんだ。ネットユーザーの情報収集の能力は侮れないね。これを反撃の武器に使うといいよ」驚きながら紀美子は頷いた。「分かった、この動画を大事に取っておくわ。もしあの事がまだ暴かれていなければ、一番役に立つタイミングでこれを出すから」佑樹は笑って言った。「お母さん、今回は必ず乗り越えられると信じてるよ」息子に肯定され、紀美子は嬉しかった。「佑樹くん、ちゃんと晴おじさんの言うことを聞くのよ」佑樹はちょっと気まずく笑いながら、手で頭を掻いた。「実は、僕達は今森川晋太郎の所にいる……」紀美子は眉を寄せ、「記者に見られなかった?」と尋ねた。「うん」佑樹はカメラを動かして紀美子に周囲の環境を見せた。「ここのセキュリティはかなり厳しいし、外にも沢山のボディーガードがいる。今のところ誰にも見られていない。ここは市内から車で2時間もかかるところだからね」紀美子は一目でそこが何処かが分かった。この前晋太郎と一緒に酒を取りに行ったノアン ワイナリーだ。彼女はほっとした。「彼がついていれば、お母さんも安心できる。この事件を片付けたら、迎えにいくから」紀美子は言った。「ところで、ゆみちゃんは?」佑樹の顔が少し曇った。「ゆみは今、多分ワンピースの試着で忙しい」紀美子は苦笑いをした。佑樹は顔を引き締め、真面目な顔で口を開いた。「お母さん、必ず乗り切ろうね」紀美子は頷いた。「分かってるわ、安心して」ビ
携帯を置いて、入江紀美子は伸びをした。外のきれいな夜景を見て、彼女は思わず笑みを浮かべた。これから、ショーが始まる!2日後。Tycのキャンセルの勢いが段々と落ち着いてきた。一部の顧客はGの名声で商品を購入したので、キャンセルしなかった。顧客への弁償を終わらせた頃、社員達はほぼ全員疲れ果てていた。竹内佳奈が事務所に入って、キャンセルの統計を紀美子に渡した。「社長、やっと落ち着いてきました」「会社のキャッシュフローはどうなってる?」「あと2100万ほど残っています」紀美子は平静に頷き、「まだ予想範囲以内だ」と言った。「社長、本当に回答しなくていいのですか?」佳奈が心配して尋ねた。「記者達がまだ下にいます」「回答しなくていい」紀美子は椅子の背もたれに背を預け、「緊急時こそ、怠ってはいけない」と言った。佳奈は紀美子の話の意味が分からなかった。「社長、あともう一件あります」「何?」「MKもここ数日、これまでない数のキャンセルが発生していて、損失はうちの倍以上です」紀美子は沈黙した。今回の事件の起因は自分だった。知らないうちにまた森川晋太郎に借りができてしまったようだ。彼女は苦笑いをした。「分かった、下がっていいわ」佳奈は紀美子の事務所を出た。ドアが閉まってから、紀美子は携帯を出して渡辺翔太に電話をかけた。すぐ、翔太が電話を出た。そして、彼の焦った声が聞こえてきた。「紀美子?」「うん」「今どうなってる?」翔太は慌てて尋ねた。「君が忙しいだろうから、ずっと電話するか躊躇していたんだ」紀美子は笑みを浮かべながら言った。「私は大丈夫よ、心配しなくていい。ところで、お兄ちゃんの会社も影響を受けたの?」「多少な。でもそこまで大きくなくて、多分晋太郎が受けた影響の方が大きい、あと悟さんも」紀美子は驚いた。「悟さんが?」「彼は職務停止を受けたようだ」「そんな、たとえ私と親しかったとしても、停職なんて重すぎるわ!」と紀美子は眉を寄せながら言った。通りであの事件が起きて以来、塚原悟からの連絡が一切なかったわけだ。彼は自分に心配をかけたくなかったのだろうか?「病院の方にも、悟さんを取材しようとして沢山の記者達が集まってい
入江紀美子は言葉が詰った。弁償なんてできるものだろうか?今の彼女は、たとえMKの損失の一部だけを補おうとしても出来ないだろう。「今、その余裕はないわ」「彼に償うことを考えたことはあるのか?」塚原悟はさらに問い詰めた。「……」正直に言うと、そう考えたことはなかった。悟に言われなかったら、その点に気づくこともなかった。二人がお互いに知りすぎたからだろうか?紀美子は黙り込んだ。「こう比較してみると分かるよ。私と晋太郎の、君の心の中での地位」悟は軽く笑いながら言った。「ごめん」今の紀美子に残っているのは申し訳ない気持ちだけだった。「謝罪などいらないさ」悟は気楽な口調で言った。「言っただろ、私は自分がそうしたいからしているだけだと」「今回の事件が落ち着いたら、ご飯を奢るわ」「もうすぐ新年だ」「うん、今年は一緒に大晦日を過ごそう」紀美子は酷く落ち込んだ。「そうしよう」悟は笑って答えた。ノアン ワイナリーにて。晋太郎は子供達と、買ってきたばかりのレゴブロックで遊んでいた。頭脳で言えば、もちろん晋太郎の方が上だ。しかし、手の器用さは子供達に劣っていた。入江ゆみは、未だにまともに一パーツも組めていない晋太郎を見て呆れた。「もう無理しなくていいよ、そのスピード、お兄ちゃんと比べ物にならないわ」ゆみは嘆いた。娘にバカにされるなんて。晋太郎は言葉を失った。彼は持っていたブロックを置いて、「残りは俺がやっておく、お前達はそろそろ寝る時間だ」と言った。「手、切れてるよ」入江佑樹は手を止めて言った。「レゴブロックは軽いから、そんなに力を入れて組まなくても」「組むならしっかりと固めないと、だめだ」晋太郎は手の中のブロックを見つめて言った。たかが子供のおもちゃだと彼はおもっていたが、まさかここまで難しいとは思わなかった。佑樹は伸びをして、晋太郎の携帯画面が灯ったのに気づいた。「携帯が鳴ってるよ」佑樹は晋太郎に注意した。晋太郎が携帯見ると、顔色が曇った。森川貞則からの電話だった。彼は2人の子供に、「先にお風呂に入ってきて」と指示しながら携帯を取った。そして、晋太郎は休憩室を出た。「なんだ?」晋太郎は電話に出た。「
森川貞則の目じりは、怒りで痙攣した。森川次郎に副社長の職位を与えたが、MKに彼の言うことを聞く人は1人もいなかった。利益か愛息子の選択を迫られた貞則は、最終的に利益を選んだ。森川家は潰れてはならん!そのようなことは絶対に許さん!翌日の朝、Tyc社にて。竹内佳奈が慌てて事務所に駆け込み、まだ寝ていた入江紀美子に報告した。「社長、大変です!」呼び覚まされた紀美子は目を揉みながら、「どうしたの?」と尋ねた。「あの人達、社長に会えないからって会社のガラスドアに塗料をかけて……酷いことを…」紀美子は驚きながら聞いた。「何を書かれた?」佳奈は言い出せず、口をすぼめて黙った。「教えて」紀美子は腰を曲げて靴を履いた。「社、社長のことを、『誰とでも寝るビッチ』と」佳奈の声が段々と低くなっていった。しかし紀美子はそれをはっきりと聞き取った。紀美子は数秒沈黙してから立ち上がり、「無視していいよ」と告げた。「社長」佳奈は紀美子を見て言った。「これ以上黙っていたら、今度は何をされるか、分かりませんよ」「これくらいの騒ぎで取り乱れてどうするの?相手はうちが理性を失うのを待っているのよ」紀美子は落ち着いた様子で佳奈に言った。彼女の携帯が鳴り出した。杉浦佳世子からの電話だった。紀美子は佳奈に、一旦外に出て落ち着かせてくるようにと指示した。「かしこまりました、社長」佳奈が出ていってから、紀美子は佳世子の電話に出た。まだ口を開いていないうちに、佳世子の声が電話から聞こえてきた。「紀美子、ボディーガードがやつらに石を投げられて怪我したわ!」佳世子は泣きながら言った。「家の玄関も、汚物が混ざった水をかけられて、今家中が酷い匂いよ」紀美子は思わず拳を握りしめながら言った。「落ち着いて話を聞いて」「うん!聞くわ!」「長くてもあと5日間だけ持ち堪えて!この5日間の間、ボディーガードに彼らを調査させ、騒ぎを起こした人達のことを全部記録させて」「わ、分かったわ!名簿を作成するわ!」「ごめんね、ありがとう」「もうこんな時でも、親友として助けてあげるのは当たり前のことよ!」佳世子は涙を拭きながら言い放った。「地獄までもついていってあげるわ」「うん、共に戦
竹内佳奈は不満げにポッドを置いて反論した。「事実ではない!私は、社長がそのような人間ではないと信じている!」「君が信じるかどうかの問題ではない」男性社員は怒って反論した。「信じるから事実になるのか?君のような秘書は、俺達アフターサービス部の大変さが分からない!社長のせいで俺達も『悪徳商人の手先』とまで言われた!なのに俺達は、礼儀正しく答えなければならない。君には分かるわけがない!」佳奈は彼を見つめ、大きな声で指摘した。「それくらいの屈辱も耐えられないのか?社長が毎日どれほどの罵声を浴びているか分かるの?」「知ったこっちゃねえ!俺は耐えられん!」男性社員は適当に髪の毛を整理してから言った。「社長は絶対に何かを隠している、このままだと、会社が潰れるのも時間の問題だろう!」「気に入らないなら出てってよ!」佳奈は本気で怒った。「社長が可哀想だわ。ここ数日、毎日あんた達に良い食事を食わせているのに、本当に恩知らずだわ!」「誰が恩知らずだと?!」「あんたよ!この恩知らずが!」佳奈は怒りを抑えきれず、男性社員の顔に平手打ちをした。「クソ、よくも俺の顔を打ったな?!」男性社員は佳奈に打ち返そうとしたが、他の社員達が慌てて彼を止めた。通りすがりの入江紀美子と露間朔也は、会議室の騒ぎを聞いて、急いで向かった。朔也がドアを押し開くと、中は激しく騒いでいた。彼は社員達を見回し、「昼休みの時間に休まずに喧嘩してどうする?!」と怒鳴った。社員の1人が朔也を見て、慌てて先ほどの状況を説明した。朔也は聞けば聞くほど顔色が曇った。彼は紀美子に、「この人達をどうするか、あなたが決めて!」と言った。紀美子は頷き、会議室に入った。彼女はゆっくりと皆の顔を見回して口を開いた。「私は、皆さんの気持ちがよく分かっている。皆さんから見れば、私はただ逃げ回っているだけ。会社も潰れそうになっているのに。ここでいくら説明しても意味がないので、辞めたい人がいれば、止めはしないわ」「俺は辞める!」男性社員が社員証を地面に叩きつけながら言った。「未来が見えないような会社には、残っても意味がない!」「わ、私も辞めるわ……」「社長、申し訳ありません、私も……」「……」社員達が次々と辞めていくのを
露間朔也の表情は一瞬引き攣った。そして気まずそうに鼻先を揉み、「だってあなたが何も返事しないんだもん」と言った。入江紀美子は笑みを浮かべてジュースを置き、「朔也、服を3セット用意して」と指示した。朔也は少し驚いた。「スタイルは?」「カジュアルウェア2セット、正装1セットで。正装は赤にして、できるだけ鮮やかなものがいい。あとヘアメイク師を1人手配して」「何をするつもり?」紀美子は時間を見ながら答えた。「明日、渡辺グループの100年目セレモニーに出る」「正気か?!100年目セレモニーとかに出る場合じゃないだろ?!奴らに袋叩きにされたらどうする?!」朔也は紀美子を見つめながら問い詰めた。紀美子はただ朔也に笑顔を見せ、何も答えなかった。朔也は急に悟ったかのように、驚いた顔で言った。「あなた、まさか……」「そう」紀美子は朔也の話を中断して言った。「私達、そろそろどん底を抜け出すわよ!」……12月30日。渡辺グループの100年目セレモニー当日。殆どの上流階級の人々が、午後5時までに帝都において最も豪華なホテルに集まるように招待を受けた。ホテルの外、ボディーガード達が2列に並び、沢山の記者達が参加者の写真を撮っていた。しかし残念なことに、参加者は皆マスクを被っていた。ホテルの化粧室。ヘアメイク師は狛村静恵に精細な化粧をしていて、彼女が着ているイブニングドレスはその美しさを一層目立たせていた。渡辺野碩は、満面の笑で化粧室に入ってきた。静恵の美しい姿を見て、濁っていた両目は愛情に満ちた。「うちの静恵ちゃんが今日こんなに美しいとは」野碩の声が聞こえて、静恵は振り返った。「外祖父様、それは褒めすぎですわ」野碩は彼女の手を握り、「静恵ちゃんが美しいのに、褒めちゃいけないのか?」と言った。静恵は恥ずかし気に野碩の肩に寄り添い、「外祖父様、私を見つけ、更にこんなに素敵な生活をくれたことを感謝していますわ」と言った。野碩は気分が良くなり、静恵の手を握りながら言った。「静恵ちゃん、ワシは一番いい物を全部君にあげるから!」時を同じくして。Tyc社にて。紀美子はカジュアルウェアの姿でボディーガードに囲まれて会社を出た。外で待っていた記者達は、彼女が
車の中にて。「事前に大きめの帽子を用意していて良かった。でないと髪の毛までやられていたよ」露間朔也はティッシュで入江紀美子の顔を拭きながら言った。紀美子はティッシュを受け取った。「トレンドでトップになった?」「まだそんなことを気にする余裕があるのかよ?!」朔也は目を大きくして、言った。「そろそろ自分の心配をしたらどうだ?」紀美子は朔也の話を気にせず、携帯を出してトレンドの状況を確認した。自分の動画がトップに上がったのを見て、彼女は笑みを浮かべた。100年目セレモニー?そう順調に行わせるワケがないでしょ?携帯をしまい、紀美子は渡辺翔太にメッセージを送った。「モノは用意できたの?」「安心して、準備万全だ。あとは君が来るのを待つだけ」翔太がすぐに返信してきた。紀美子の目の奥の闇が深くなった。「お兄ちゃん、今回の件で、渡辺野碩がかなりのショックを受けるはずだわ」「彼にもそろそろ、自分がどれほど愚かなことをやらかしたかを分かってもらう時期さ」紀美子は唇をすぼめ、携帯を置いてから窓越しに外を眺めた。今回は必ず成功する!20分後。紀美子はホテルの隣にある、朔也が事前に買収しておいた洋服屋に着いた。僅か10数分後、彼女はイブニングドレスに着替え、化粧まで済ませた。彼女が化粧室から出てくると、朔也の表情は一瞬で引き攣った。元々紀美子は美しかったが、口紅を塗った今、一層凛として見えた。赤いイブニングドレスが、彼女の肌をもっと白く引き立たせた。「G!今後はずっと真っ赤な服にしたらどう?マジでオーラ―が強すぎる!まるで女王様のイメージだ!!」朔也が思わず称賛した。紀美子は朔也に、「マスクは?」と聞いた。朔也は持っていた黒色の半面マスクを手渡した。紀美子はマスクをつけ、朔也の腕を組んだ。「よし、行こう」朔也は頷き、自分もマスクを身につけ、紀美子と一緒に洋服屋を出た。彼女達はボディーガードに声をかけてから、ホテルへ向かった。翔太からもらった招待状があったので、2人は順調にホテルに入れた。マスクをつけていたので、記者達は紀美子のことが分からなかったようだ。しかし、紀美子達がホテルに入った途端、森川晋太郎もマスクをつけて車から降りてきた。その見慣
「そんなに簡単にできるなら、なぜ静恵の頼みを受け入れる必要がある?」晋太郎は冷笑した。「どういう意味だ?」翔太は理解できなかった。「あの書斎は、彼と執事しか入れない。他の人が入る時は、必ず彼がその場にいなければならない。さらに、書斎の扉には虹彩と顔認証が設置されていて、認証に失敗するとアラームが鳴る」翔太は数秒黙ってから言った。「言われた通りなら、彼は警戒心が強いな。証拠を手に入れるのは簡単じゃなさそうだ」晋太郎はその言葉を聞いて、目を細めた。「そうとも限らない」「え?」「後でまたかけなおす」晋太郎は言った。電話を切った後、晋太郎は階下に降りて、佑樹と念江を寝室に呼び入れた。佑樹と念江は疑わしそうに彼を見つめ、佑樹が尋ねた。「何か用事?」晋太郎は二人をじっと見つめながら言った。「顔認証と虹彩のデータを改ざんする方法はあるか?」佑樹と念江は顔を見合わせた。念江は少し考え込んで言った。「まずは、爺さんが入力したデータを取り込んで、それを持ち帰って改ざんする必要があるね」佑樹は頷いた。「でも、その間彼が書斎に入れなくなるんじゃない?」「確かに」念江が続けた。「彼がもう一度データを入力し直さないと、入れない」「もし、現場で追加のデータを一つ入れるとどうなる?」晋太郎が尋ねた。「それなら問題はない」念江が言った。「一つ追加して、すぐに削除すればいい。ただし…」晋太郎は眉をひそめた。「ただし、何だ?」念江は佑樹を見て言った。「僕がファイアウォールを突破する瞬間、佑樹がすぐにデータを入力してくれないとダメだ。僕一人では二つのコンピューターを操作できないから」要するに、この作業には佑樹の協力が必要だということだった。佑樹が協力しなければ、できない。今残った問題は佑樹がやりたくないかどうかだけだ。「行きたくない!」佑樹は不機嫌そうに眉をひそめて言った。念江はため息をついた。彼は佑樹がこう言うだろうと予想していた。晋太郎は佑樹に向かって言った。「君もわかっているだろう。これは俺のためにやるんじゃない」「なら、これをやらなきゃいけない理由を言って」佑樹はじっと彼を見つめて言った。「君のお母さんとおじさんのた
娘が再び笑顔を失ったのを見て、龍介は心の中で感慨を抱いた。突然、向かいに座っていたゆみが紀美子に言った。「ママ、私、紗子の隣に座ってもいい?あっちに空いてる席があるから」「行きたいなら行って。紗子とお話しなさい」紀美子は微笑んで言った。「ママ、やっぱりやめとく」佑樹は興味津々でゆみを見ていた。「ゆみが行かなかったら、紗子はまだ食べられるけど、ゆみが行ったら、彼女のよだれが皿に落ちちゃうからね」「うわぁ!!!」ゆみは佑樹に向かって叫んだ。「もう兄ちゃんには耐えられない!!」そう言って、ゆみはお皿と箸を抱えて紗子の隣へ行った。座った後、ゆみは口を押さえながら紗子に言った。「ゆみはよだれなんて出さないよ、紗子、私、ここに座ってもいい?」紗子はゆみをしばらく見てから、彼女が口を押さえている手をそっと引いて言った。「大丈夫、気にしないよ」ゆみは喜んで足をぶらぶらさせ、その後、佑樹に向かって「ふん!」と威嚇した。食事が終わった後。龍介は紗子を連れて帰ろうと車へ向かい、紀美子はそんな彼らを別荘の前まで見送ってから言った。「龍介君、紗子はうちの子たちと一緒に遊ぶのが結構楽しいようだわ」「そうだね」龍介は同意して言った。「今夜は本当にお邪魔したね。家族のディナーなのに」「気にしないで」紀美子はすぐに手を振った。そう言うと、彼女は紗子に向かって言った。「紗子、また遊びに来てくれない?」紗子は答えず、龍介の方を見つめた。「これからはちょっと忙しくて、もう彼女を連れて来る時間がないかもしれない」龍介は微笑んで言った。最初彼は、紀美子が自分にふさわしい相手かもしれないと思っていたが、今は違った。晋太郎がいる限り、二人の邪魔をしない方がいいと思った。紀美子は少し考えてから言った。「龍介君が気にしないのであれば、夏休みや冬休みの間、紗子をうちに少し滞在させてもいいかも」龍介は沈黙した。「龍介君、うちは子供が多いし、舞桜もずっと一緒にいれるわ。あなたが忙しい時、紗子は一人で家にいるのは寂しいでしょう?」紀美子は笑って言った。確かに、そうだな……龍介は心の中で思った。しばらく黙ってから、龍介は紗子に向かって言った。「紗子、どう思う?」紗子
「三日間という時間は確かに短いですが、一人の人間の品性も見抜けなくて、どのように会社を運営できますか?」「どうやら吉田社長は紀美子を高く評価しているようですね」晋太郎は冷笑を漏らした。龍介は微笑んで、晋太郎を直視して言った。「もし紀美子の人柄が悪ければ、森川社長も彼女と友達付き合いはしないでしょう?」「友達?」晋太郎は眉をひそめて言った。「誰が私たちがただの友達だって言ったんですか?」龍介はその笑みを少し引っ込めた。「森川社長、その言葉はどういう意味ですか?」「私たちは夫婦です」晋太郎ははっきりと答えた。「ぷっ——」突然、玄関からクスクスという笑い声が聞こえた。晋太郎はその笑い声に顔をしかめ、振り向くと、朔也が腹を抱えて笑いを堪えていた。「ちょっと……」朔也は息も絶え絶えに言った。「森川社長よ、ははは、うちのGはこの話を知らないだろうな、ははは……」龍介は朔也の方を見て、少し眉を寄せ、何かを理解したように見えた。「入江さんは本当に人気があるようですね」彼は淡く微笑んで言った。晋太郎は唇を引き締め、不快そうに朔也を睨みながら言った。「俺と紀美子は共に子供がいる、それが事実ではないか?」「事実には違いないよ!」朔也は笑いながら涙を拭い、ソファの近くに歩み寄った。「でも、結婚してないじゃないか!」そう言うと、朔也はニヤリと笑いながら龍介を見て言った。「吉田社長、かなりチャンスありますよ」「……」晋太郎と龍介は言葉を失った。こいつ、死にたいのか?晋太郎の暗い顔を見て、朔也は心の中でスッキリしていた。「朔也?」紀美子がキッチンから歩いて来て言った。「何を笑っているの?」朔也はわざと驚いたふりをして言った。「G、結婚したのか?なんで俺、知らなかったんだ?!俺たちは友達だろう?」「私がいつ結婚したの?」紀美子はうんざりして言った。「してないの?!」朔也はわざとらしく驚いた声を上げた。「じゃあ、なんで森川社長は君たちがもう夫婦だって言ったんだよ!?」「???」紀美子は言葉に詰まった。彼女は眉をひそめながら、表情が暗い晋太郎に視線を向けた。この人はいったい何をしているの??彼らの会話を聞きながら、龍介は
「……」紀美子は言葉を失った。相手は普通に挨拶をしているだけなのに、彼はもう皮肉を言い始めた。紀美子は無視して、キッチンへ向かい、舞桜と一緒に料理を手伝うことにした。その一方で。ゆみは紗子をじっと見つめていた。「あなたはこのおじさんの娘さん?」紗子は淡々と微笑みながら答えた。「はい、私は吉田紗子です。あなたは?」「入江ゆみ!」ゆみはにっこり笑って言った。「私の名前、素敵だと思わない?」佑樹は水を飲んでから言った。「自分の名前が世界で一番素敵だと思ってるのか?ゆみ」それを聞くとゆみは突然、佑樹を睨んだ。「他の人の前で、私をバカにしないでくれない?」佑樹は足を組み、ソファにゆったりと身を預けながら言った。「無理だね」ゆみは歯をむき出しにして、すぐに念江を頼った。「念江兄ちゃん!弟をちゃんとしつけてよ!」無実で巻き込まれた念江は、静かに佑樹を見て言った。「佑樹、ゆみに優しくしてあげて」「ずっと優しくしてるよ」佑樹は唇をわずかに引き上げて、笑顔を見せながら言った。「どうした、ゆみ?言い負かされると助けを呼ぶ癖、直らないのか?」ゆみは小さな拳を握りしめた。「もう我慢できない!!!」そう言うと、ゆみは佑樹に向かって飛びかかり、彼の上に乗って拳を振り回し始めた。紗子は二人の様子に驚いた。この二人は……こんなに元気なのか?紗子が見入っていると、念江が前に出て言った。「すみません、僕の弟と妹は性格が明るすぎますよね」紗子は急いで顔を逸らし、白い顔に優しい微笑みを浮かべて答えた。「大丈夫です、二人ともすごく賑やかですね」念江は紗子の笑顔を見て少し驚き、すぐに視線を逸らして顔を赤く染めた。「そうですか……」「はい」紗子は優しく言った。「私も兄弟や姉妹が欲しいんです。そうすれば家がもっと賑やかで楽しくなると思うんです」「ここに遊びに来てもいいですよ」念江が言った。紗子の目には少し寂しさが漂った。「でも、州城からだとちょっと不便で……」念江は道中、父と肇がこのことを話しているのを聞いたが、どう返事をすべきか分からず、軽く「そう」と答えるしかなかった。佑樹はゆみを押しのけ、わざと怒ったような目で彼女を見つめた。「おと
しかし、紀美子の子どもたちがなぜ晋太郎と一緒にいるのだろうか?もしかして、晋太郎の息子が紀美子の子どもたちと仲がいいから?紀美子は玄関に向かって歩き、紗子が龍介を見て言った。「お父さん、気分が悪いの?」龍介は笑いながら紗子の頭を撫でた。「そんなことないよ、父さんはちょっと考え事をしていただけだ。心配しなくていいよ」「分かった」玄関外。紀美子は子どもたちを連れて家に入ってくる晋太郎を見つめた。「ママ!」ゆみは速足で紀美子の元へ駆け寄り、その足にしっかりと抱きついた。「ママにべったりしないでよ」佑樹は前に出て言った。「佑樹、ゆみは女の子だから、そうやって怒っちゃだめ」念江が言った。ゆみは佑樹に向かってふん、と一声をあげた。「あなたはママに甘えられないから、嫉妬してるんでしょ!」「……」佑樹は言葉を失った。紀美子は子どもたちに微笑みかけてから、晋太郎を見て言った。「どうして急に彼らを連れてきたの?私は自分で迎えに行こうと思っていたのに」晋太郎は顔色が悪く、語気も鋭かった。「どうしてって、俺が来ちゃいけないのか?」「そんなつもりじゃないわよ、言い方がきつすぎるでしょ……」紀美子は呆れながら言った。「外は寒いから、先に中に入って!」晋太郎は三人の子どもたちに向かって言った。そして三人の子どもたちは紀美子を心配そうに見つめながら、家の中に入った。紀美子は疑問に思った。なぜ子どもたちは自分をそんなに不思議そうな目で見ているのだろう?「吉田龍介は中にいるのか?」晋太郎は紀美子を見て言った。「いるわ。どうしたの?」紀美子はうなずいた。「そんなに簡単にまだ知り合ったばかりの男を家に呼ぶのか?」晋太郎は眉をひそめた。「彼がどんな人物か知っているのか?」紀美子は晋太郎が顔色を悪くした理由がようやく分かった。「何を心配しているの?龍介が私に対して悪いことを考えているんじゃないかって心配してるの?」彼女は言った。「三日しか経ってないのに、家に招待するなんて」晋太郎の言葉には、やきもちが含まれていた。「龍介とすごく仲良いのか?」「違うわ、あなたは、私と彼に何かあるって疑っているの?晋太郎、私と彼はただのビジネスパートナーよ!」
「入江社長って本当に幸せ者だよね!羨ましい~!私はただの一般人だけど、この二人推したい!!」「吉田社長って絶対入江社長のために来たんでしょ。あんなに忙しいのに時間を作ってまで来るなんて、これって本物の愛じゃない!?」そんな無駄話で盛り上がるコメントの数々を見た晋太郎の顔色は、みるみるうちに暗くなった。「何バカなこと言ってるんだ!」晋太郎は怒りを露わにしてタブレットを放り出した。「この話題をすぐに消せ!誰かがまた報道しようとしたら、徹底的に潰す!」「晋様、入江さんの方は……」肇は焦りながら言った。晋太郎は目を細めて言った。「二人を見張らせろ!龍介が突然帝都に来たのは絶対に怪しい。会社のためじゃないなら、紀美子を狙って来たに決まってる!しかも、彼は離婚してるだろう。きっと子どものために後妻を探してるんだ!」「後妻を!?」肇は驚きの声を上げた。「入江さんの魅力ってそんなにすごいんですか……だって吉田社長ってあの地位の……」それ以上言う勇気がなくなり、肇は言葉を飲み込んだ。というのも、晋太郎の顔にはすでに冷たく怒りがはっきりと現れていたからだ。肇だけではない。晋太郎自身も、これ以上考えるのが怖くなっていた。龍介は有名な良い男で、礼儀正しくて、しかも温かみがある。こんな男が最も心を掴むのだ!彼は龍介の猛烈なアプローチを恐れているわけではない。ただ、紀美子がその優しさに押し負けてしまうのではないかと心配していた。しばらく考えた後、晋太郎は携帯を取り出し、朔也に電話をかけた。彼は龍介がなぜ帝都に来たのかを確かめたかったのだ。しばらくして、朔也が電話に出た。「また何か大事でもあるのか、森川社長?俺、今すごく忙しいんだけど」「龍介は帝都に何しに来たんだ?」晋太郎はストレートに言った。「何しに来たって、彼が帝都に来ちゃいけないっていうのか?」朔也は不満そうに言った。「もし何か理由があるとしたら、当然、Gに会いに来たんだよ!昼に俺たちと食事したんだ、いやあ、さすがに地位が高いだけあって、お前と同じくらい立派な人だったよ。性格に関してはお前よりずっといいけどな!そうそう、今夜はうちに来てくれることになったんだ!」朔也はこれを言うことで晋太郎を苛立たせ、紀美
「そんなに聞かなくていい!」紀美子は彼を遮って言った。「後でレストランのアドレスを送るから、直接きて」「分かった、分かった!」電話を切った後、紀美子は楠子のオフィスに行って、少し用事を頼んだ。その後、龍介と紗子をレストランへ誘った。帝都ホテル。最初に到着した朔也は、レストランで一番良い料理を全て注文した。紀美子と龍介はレストランに到着すると、すぐに個室に向かった。個室の中では、朔也がサービス員に酒を頼もうとしていたところ、紀美子と娘を連れた龍介が入ってきた。龍介を見た朔也は急いで立ち上がり、熱心に迎えた。「吉田社長、はじめまして!帝都へようこそ!」龍介は穏やかな笑顔を浮かべて言った。「こんにちは、朔也さん」「えっ、俺のこと知ってるんですか?」朔也は驚いて言った。「もちろん、Tycの副社長ですよね」「あんまり興奮しないでよ」紀美子は笑いながら朔也を見て言った。「興奮しないでいられるかよ!」朔也は顔に出てしまった表情を抑えきれず、「吉田社長はアジア石油界の大物だぞ!」と言った。「そんな大したことはないよ」龍介は言った。「そんな謙遜しないでくださいよ、吉田社長!お酒は飲まれますか?何を飲みます?」朔也は尋ねた。「申し訳ないけど、あまり強くないので普段からほとんど飲みません。今日は軽く食事だけでお願いします」「それならそれで!」朔也は納得し、そばでおとなしく立っている紗子に目を向けた。「こちらは吉田社長のお嬢さんですよね?本当に可愛いですね!」紗子は礼儀正しく頷き、「おじさん、こんにちは。私は吉田紗子です。紗子って呼んでください」と自己紹介した。「紗子ちゃん!」朔也は嬉しそうに笑顔で答えた。「俺は朔也だよ!よろしくね!」「立ち話はここまでにして、座って話しましょう」紀美子は言った。四人が席についた後、料理が運ばれてきた。食事中、誰も仕事の話は一切口にせず、和やかな雰囲気で過ごしていた。「吉田社長、午後はGに帝都の景色を案内してもらってください。退屈だなんて思わないでくださいね」朔也が言った。龍介は紀美子に目を向け、丁寧に「お手数をおかけします」と答えた。「そうだ、G。さっき舞桜から電話があって、今夜には帰るって。吉田
車の中で、晴は晋太郎に尋ねた。「一体、親父に何を言ったんだ?どうしてあんなにすぐに同意したんだ?」目を閉じて椅子の背に寄りかかり休んでいた晋太郎は一言だけ言い放った。「静かにしてろ」晴はそれ以上は深く追及せず、事がうまくいったことに感謝していた。家に帰ると、晴はこの朗報を佳世子に伝えた。佳世子はあまり感情を動かすことなく、だるそうに返事をした。「まあ、心配事が一つ解決したってことだね」晴は疑問を抱きながら眉をひそめた。「なんだか、あんまり嬉しそうじゃないね?」「歓声を上げろっていうの?」佳世子はため息をついた。「忘れないで、私の両親にはまだ説明してないよ」佳世子はしばらく沈んだ表情をしていた。両親がこのことを知ったらどう反応するのか、全く予測がつかないのだ。彼女の両親は性格は悪くないが、考え方は保守的だ。もし彼らが今、自分が未婚で妊娠していることを知ったら……佳世子はそのことを考えると、少し寒気がし、喜べなかった。「それは簡単だよ。時間を決めて、ちょっとギフトを買って、両親のところに行こう。俺が一緒にいるから、心配しなくていい」佳世子は適当に笑うと、ソファに縮こまり、何も言わなかった。午後。紀美子はオフィスで書類を見ていると、楠子がドアをノックして入ってきた。「社長、受付から電話があって、面会の申し出がありました」楠子が言った。「誰?」紀美子は顔を上げた。「吉田龍介様です」紀美子は一瞬驚いた。龍介?どうして、連絡もなしに来たの?紀美子は急いで立ち上がり、「すぐに上にお連れして!」と楠子に頼んだ。楠子はうなずき、振り向こうとしたが、紀美子に呼び止められた。「ちょっと待って!私が下に行く!」言うが早いか、紀美子はオフィスを出て、階下へ龍介を迎えに行った。階下では。龍介は紗子と一緒にロビーで待っていた。紀美子が出てくるのを見て、龍介と紗子は立ち上がり、紀美子に挨拶をした。「紀美子」龍介は笑顔で呼びかけた。紀美子は手を差し出しながら言った。「龍介君、紗子。事前に知らせてくれれば、迎えに行ったのに」「おばさん、お忙しいところお邪魔して申し訳ありません」紗子は微笑みながら言った。「気にしないで、忙しくないから
晋太郎は晴の父親の近くに歩み寄り、真剣な眼差しで花瓶を見つめた。「以前あなたが収集した骨董品より質は少し劣りますが、全体的には悪くないですね」「そうだね……」晴の父親はため息をついた。「どれだけ質が良くても、目に入らなければ人を喜ばせることはないものだ」晋太郎は晴の父親を見つめ、「田中さん、それは何か含みのある言い方ですが?」と尋ねた。晴の父親は手に持っていたブラシを置き、晋太郎にソファに座るように促した。そして壺を手に取って、晋太郎にお茶を注ぎながら言った。「晋太郎、今日わざわざ訪ねてきたのは、あの女の子のことだろう?」「そうです」晋太郎は率直に答えた。「晴は彼女のことが本当に好きなんです」「好きだという感情だけで、一生を共にできると思うのか?今はただの一時的な熱に過ぎない」晴の父親は冷静に言った。「田中さんは相手の家柄が気に入らないのか、それとも佳世子という人間自体が気に入らないのか、どちらでしょうか?」晋太郎は直球で聞いた。「晋太郎、君も知っている通り、俺は息子が一人しかいない。いずれ会社を継ぐのは彼だ。今、帝都のどの家族も俺たち三大家族を狙っている。この立場を少しでも失えば、元の地位に戻るのは容易ではない。だからこそ、晴には釣り合いの取れた相手を望んでいるんだ。すべては家族のためだ」「田中さんは晴の力を信じていないのですか?それに、二人が一緒にいられるかどうか信じていないのなら、むしろ自由にさせて、どれだけ続くのか見守ってみたらどうでしょう?もしかすると、あなたの言う通り、新鮮味が薄れれば自然と別れるかもしれません。おそらく、今反対すればするほど、彼らは反抗するでしょう。この世に反発心のない人なんていませんからね……」階下。晴と母親が少し離れたところに座っていた。彼女はずっと晴をにらんでいた。「何か私に言いたいことはないの?」晴は無視して、答える気はなかった。だが晴の母親はしつこく言い続けた。「どうしたの?昨日、あの女狐を叩いたことで、私を責めるつもり?」その言葉に晴は反応し、突然振り向いて母親を見て言った。「佳世子は女狐じゃない。最後にもう一度言っておく!」「じゃあどんな女だって言うの?!」彼女は声を高くした。「見てご