十月の東京は残暑でまだ汗ばむほど暑く、朝夕だけ秋の気配があり涼しさを感じられた。 内海唯花は朝早く起きると姉家族三人に朝食を作り、戸籍謄本を持ってこっそりと家を出た。 「今日から俺たちは生活費にしろ、家や車のローンにしろ、全部半々で負担することにしよう。出費の全部だからな!お前の妹は俺たちの家に住んでるんだから、彼女にも半分出させろよ。一ヵ月四万なんて雀の涙程度の金じゃ、タダで住んで飲み食いしてるのと同じじゃないか」 これは昨夜姉と義兄が喧嘩している時に、内海唯花が聞こえた義兄の放った言葉だった。 彼女は、姉の家から出ていかなければならなかった。 しかし、姉を安心させるためには結婚するのがただ一つの方法だった。 短期間で結婚しようとしても、男友達すらいない彼女は結城おばあさんの申し出に応えることにした。彼女がなんとなく助けたおばあさんが、なかなか結婚できない自分の孫の結城理仁と結婚してほしいと言ってきたのだった。 二十分後、内海唯花は役所の前で車を降りた。 「内海唯花さん」 車から降りるとすぐ、内海唯花は聞きなれた声が自分を呼ぶのが聞こえた。結城おばあさんだ。 「結城おばあさん」 内海唯花は速足で近づいていき、結城おばあさんのすぐ横に立っている背の高い冷たい雰囲気の男の姿が目に入った。おそらく彼が結婚相手である結城理仁なのだろう。 もっと近づき、内海唯花が結城理仁をよく見てみると、思わず驚いてしまった。 結城おばあさんが言うには孫の結城理仁は、もう三十歳なのに、彼女すら作らないから心配しているらしかった。 だから内海唯花は彼がとても不細工な人なのだと勝手に思い込んでいたのだ。 しかも、聞いたところによると、彼はある大企業の幹部役員で、高給取りらしいのだ。 この時初めて彼に会って、自分が誤解していたことに気づいた。 結城理仁は少し冷たい印象を人に与えたが、とてもハンサムだった。結城おばあさんのそばに立ち、浮かない顔をしていたが、それがかえってクールに見えて、人を近づけない雰囲気を醸し出していた。 目線を少しずらしてみると、近くに駐車してある黒い車はホンダの車で、決して何百万もするような高級車ではなかった。それが内海唯花に結城理仁との距離を近づけされてくれた。 彼女は同級生の友人と一緒に公立星城
「もう決めたことですから、後悔なんてしませんよ」 内海唯花も何日も悩んだうえで決断した。一度決めたからには決して後悔などしないのだ。 結城理仁は彼女のその言葉を聞くと、もう何も言わずに自分が用意してきた書類を出して役所の職員の前に置いた。 内海唯花も同じようにした。 こうして二人は迅速に結婚の手続きを終えた。それは十分にも満たない短い時間だった。 内海唯花が結婚の証明書類を受け取った後、結城理仁はズボンのポケットから準備していた鍵を取り出し唯花に手渡して言った。「俺の家はトキワ・フラワーガーデンにある。祖母から君は星城高校の前に書店を開いていると聞いた。俺の家は君の店からそんなに遠くない。バスで十分ほどで着くだろう」 「車の免許を持っているか?持っているなら車を買おう。頭金は俺が出すから、君は毎月ローンを返せばいい。車があれば通勤に便利だろうからな」 「俺は仕事が忙しい。毎日朝早く夜は遅い。出張に行くこともある。君は自分の事は自分でやってくれ、俺のことは気にしなくていい。必要な金は毎月十日の給料日に君に送金するよ」 「それから、面倒事を避けるために、今は結婚したことは誰にも言わないでくれ」 結城理仁は会社で下に命令するのが習慣になっているのだろう。内海唯花の返事を待たず一連の言葉を吐き捨てていった。 内海唯花は姉が自分のために義兄と喧嘩するのをこれ以上見たくないため喜んでスピード結婚を受け入れた。姉を安心させるために彼女は結婚して姉の家から引っ越す必要があったのだ。これからはルームメイトのような関係でこの男と一緒に過ごすだけでいいのだ。 結城理仁が自分から家の鍵を差し出したので、彼女も遠慮なくそれを受け取った。 「車の免許は持ってますけど、今は車を買う必要はないです。毎日電動バイクで通勤していますし、最近新しいバッテリーに交換したばかりです。乗らないともったいないでしょう」 「あの、結城さん、私たち出費の半分を私も負担する必要がありますか?」 姉夫婦とは情がある関係といえども、義兄は出費の半分を出すように要求してきた。いつも姉のほうが苦労していないのに得をしていると思っているのだろう。 子供の世話をし、買い物に行ってご飯を作り、掃除をするのにどれほど時間がかかるか知りもしないだろう。自分でやったことのない男
「おばあちゃん、頼りにしてるよ」 内海唯花は適当に答えた。 結城理仁は血の繋がった孫で、彼女はただの義理の孫娘だ。結城おばあさんがいくら良い人だといっても、夫婦間で喧嘩した時に結城家が彼女の味方になるだろうか。 内海唯花は絶対に信じなかった。 例えば彼女の姉の義父母を例に挙げればわかりやすい。 結婚前、姉の義父母は姉にとても親切で、彼らの娘も嫉妬してしまうほどだった。 しかし、結婚したとたん豹変したのだ。毎回姉夫婦間でいざこざがあった時、姉の義母は決まって姉を妻としての役目を果たしていないと責めていた。 つまり、自分の息子は永遠に内の者で、嫁は永遠に外の者なのだ。 「仕事に行くのでしょうから、おばあちゃんは邪魔しないことにするわね。今夜理仁くんにあなたを迎えに行かせるわ。一緒に晩ご飯を食べましょう」 「おばあちゃん、うちの店は夜遅くに閉店するの。たぶん夜ご飯を食べに行くのはちょっと都合が悪いわ。週末はどうかな?」 週末は学校が休みだ。本屋というのは学校があるからこそやっていけるもので、休みになると全く商売にならなくなる。店を開ける必要がなくなって彼女はようやく時間がとれるのだ。 「それもいいわね」 結城おばあさんは優しく言った。「じゃあ、週末にまたね。いってらっしゃい」 おばあさんは自分から電話を終わらせた。 内海唯花は今すぐ店に行くのではなく、先に親友の牧野明凛にメッセージを送った。彼女は高校生たちが下校する前に店に戻るつもりだった。 人生の一大イベントを終え、彼女は姉に一言伝えてから引越しなければならなかった。 十数分が経った。 内海唯花は姉の家に戻ってきた。 義兄はすでに仕事に行って家にはおらず、姉がベランダで服を干していた。妹が帰ってきたのを見て、心配して尋ねた。「唯花ちゃん、なんでもう帰ってきたの?今日お店開けないの?」 「ちょっと用事があるから後で行くの、陽ちゃんは起きてないの?」 佐々木陽は内海唯花の二歳になったばかりの甥っ子で、まさにやんちゃな年頃だった。 「まだよ、陽が起きてたらこんなに静かなわけないでしょう」 内海唯花は姉が洗濯物を干すのを一緒に手伝い、昨晩の話になった。 「唯花ちゃん、あの人はあなたを追い出したいわけじゃないのよ。彼ストレスが大きいみたい
「お姉ちゃんもさっき言ったでしょ、あれは彼の結婚前の財産であって、私は一円も出していないのよ。不動産権利書に私の名前を加えるなんて無理な話よ。もう言わないでね」 手続きをして、結城理仁が家の鍵を渡してくれたおかげで、彼女はすぐにでも引越しできるのだ。住む場所の問題が解決しただけでも有難い話だ。 彼女は絶対に結城理仁に自分の名前を権利書に加えてほしいなんて言うつもりはなかった。彼がもし自分からそうすると言ってきたら、彼女はそれを断るつもりもなかった。夫婦である以上、一生覚悟を決めて過ごすのだから。 佐々木唯月もああ言ったものの、妹が自分で努力するタイプでお金に貪欲な人ではないことをわかっていた。それでこの問題に関してはもう悩まなかった。一通り姉の尋問が終わった後、内海唯花はやっと姉の家から引っ越すことに成功した。 姉は彼女をトキワ・ガーデンまで送ろうとしたが、ちょうど甥っ子の佐々木陽が目を覚まし泣いて母親を探した。 「お姉ちゃん、早く陽ちゃんの面倒を見てやって。私の荷物はそんなに多くないから、一人でも大丈夫よ」 佐々木唯月は子供にご飯を食べさせたら、昼ご飯の用意もしなくてはいけなかった。夫が昼休みに帰ってきて食事の用意ができていなかったら、彼女に家で何もしていない、食事の用意すらまともにできないと怒るのだ。 だからこう言うしかなかった。「じゃあ、気をつけて行ってね。昼ご飯あなたの旦那さんも一緒に食べに来る?」 「お姉ちゃん、昼は店に戻らなくちゃいけないから遠慮しとくね。夫は仕事が忙しいの、午後は出張に行くって言ってたし、もうちょっと経ってからまたお姉ちゃんに紹介するわね」 内海唯花はそう嘘をついた。 彼女は結城理仁のことを全く知らなかったが、結城おばあさんは彼が忙しいと言っていた。毎日朝早く出て夜遅くに帰ってくる。時には出張に行かなければならず、半月近く帰ってこないそうだ。彼女は彼がいつ時間があるかわからなかった。だから姉に約束したくてもできないのだ。適当に言って信用を裏切るようなことはしたくなかった。 「今日結婚手続きをしたばかりなのに、出張に行くの?」 佐々木唯月は妹の旦那が妹に優しくないのではと思った。 「ただ手続きしただけ、結婚式もあげてないのよ。彼が出張に行くのは仕方ないことよ。なるだけお金を稼いだほうがい
結城理仁は何事もなかったかのように言った。「会議を続けよう」 彼に一番近いところに座っているのは従弟で、結城家の二番目の坊ちゃんである結城辰巳だった。 結城辰巳は近寄ってきて小声で尋ねた。「兄さん、ばあちゃんが話してる内容が聞こえちゃったんだけどさ、兄さん本当に唯花とかいう人と結婚したのか?」 結城理仁は鋭い視線を彼に向けた。 結城辰巳は鼻をこすり、姿勢を正して座り直した。これ以上は聞けないと判断したようだった。 しかし、兄に対してこの上なく同情した。 彼ら結城家は政略結婚で地位を固める必要は全くないのだが、それにしても兄とその嫁は身分が違いすぎるのだ。ただおばあさんが気に入っているので、内海唯花という女性と結婚させられたのだから、兄が甚だ可哀想だ。 結城辰巳は再び強い同情心を兄に送ってやった。 彼自身は長男でなくてよかった。もし長男に生まれていたらそのおばあさんの命の恩人と結婚させられていただろう。 内海唯花はこの事について何も知らなかった。彼女は新居がどこにあるのかはっきりした後、荷物を持って家に到着した。 玄関のドアを開けて家に入ると、部屋が非常に広いことに気づいた。彼女の姉の家よりも大きく、内装もとても豪華なものだった。 荷物を下ろして内海唯花は家の中を見て回った。これはこれからは彼女のものでもあるのだ。 リビングが二つに部屋が四つ、キッチンと浴室トイレが二つ、ベランダも二箇所あった。そのどれもがとても広々とした空間で、内海唯花はこの家は少なくとも200平方メートル以上あるだろうと見積もった。 ただ家具は少なかった。リビングに大きなソファとテーブル、それからワインセラー。四つある部屋のうち二つだけにベッドとクローゼットが置いてあり、残り二つの部屋には何もなかった。 マスタールームはベッドルームとウォーキングクローゼットルーム、書斎、ユニットバスがそれぞれあるのだが、非常に広かった。リビングと張るくらいの広さだ。 この部屋は結城理仁の部屋だろう。 内海唯花はもう一つのベッドが置いてある部屋を選んだ。ベランダがあり、日当たり良好でマスタールームのすぐ隣にある。部屋が別々であれば、お互いにプライベートな空間を保つことができるだろう。 結婚したとはいえ、内海唯花は結城理仁に対して本物の夫婦関係を求め
内海唯花は笑って言った。「あなたの従兄は彼女がいるじゃない。彼を紹介してどうするのよ?結婚手続きはもう終わったんだから、後悔しても遅いでしょ。ただこのことは秘密にしてちょうだい、お姉ちゃんが本当のことを知ったら悲しむから」 牧野明凛「......」 彼女の親友は、とても勇ましい人だ。 「小説の中の女主人公はいつも大金持ちとスピード婚するけど、唯花、あなたの結婚相手もそうなの?」 そう言い終わると、内海唯花は親友をつつき、笑って言った。「うちの店にある小説、あなた何回読んだのよ?夢なんか見ないでよね。そんな簡単に玉の輿に乗れるわけないでしょ。お金持ちがそこらへんに転がってると思ってる?」 牧野明凛は親友につつかれた場所をさすり、彼女が言っていることはその通りだと思った。彼女はかすかにため息をついた後、また尋ねた。「あなたの旦那さんが買った家はどこにあるの?」 「トキワ・フラワーガーデンよ」 「あら、良い場所じゃないの。あそこの環境は良いし、交通も便利だしさ。この店からもそんなに遠くないし。旦那さんはどの会社で働いてるの?東京で家を買えるくらいだし、トキワ・フラワーガーデンはお金持ちが買えるのよ、旦那さんの収入はきっと高いに決まってるわ。毎月のローンはいくら?あなたもローンのお金を出す必要があるの?」 「唯花、もしあなたもローンを払う必要があるなら、不動産権利書にあなたの名前も付け加えなきゃ。じゃないと損しちゃうでしょ。こう言うのはあまり聞こえがよくないけど、もしあなたたちが喧嘩でもして離婚することになったら、その家は彼のものだし、あなたには家の権利がなくなるのよ」 内海唯花は親友の瞳を見つめ言った。「あなたの考えって私の姉とほぼ一緒よね。家は彼が一括で購入したから、ローンを返済する必要ないのよ。私は一円も出してないわ、不動産権利書に私の名前を加えるなんてできないわよ」 牧野明凛は「夫婦間の仲が良いなら、まあ問題はないんだけど」と言った。 内海唯花はふと思い出した。彼女の姉が住んでいる家は義兄が結婚する前に購入したもので、今も毎月ローンの返済をしていた。内装の費用は姉がお金を出したのだが、不動産権利書には姉の名前は書いていなかった。唯花は義兄がいつも姉に金を使うだけで、能力がないと責めていることを思い、心配になった。 日を
結城理仁はロールスロイスに乗ると、低い声で指示を出した。「俺が新しく買ったあのホンダの車を運転して来てくれ」 あれは妻を騙すために買った車だ。その妻の名前は何と言ったっけ? 「そうだ、あの嫁の名前は何といったか?」 結城理仁は結婚証明書類を取り出して確認するのも面倒くさかったのだ。いや、あれはおばあさんに見せた時に手渡したままだった。どのみち彼は、あの書類を持っていなかった。 ボディーガード「......若奥様のお名前は内海唯花様です。今年二十五歳だそうです。若旦那様覚えていてくださいね」 彼らの坊ちゃんの記憶力は特に優れていたのだが、覚えたくない人の名前はどうやっても覚えられないようだった。 特に女性は毎日会っていて坊ちゃんは誰が誰なのか覚えられないだろう。 「ああ、わかった」 結城理仁は一声言った。 ボディーガードは彼のその話しぶりから、次も新しく来た嫁の名前を覚えていないだろうことが読み取れた。 結城理仁は内海唯花のことを考えるのはここまでにして、椅子にもたれかかり、目を閉じてリラックスして体と心を休めることにした。 スカイロイヤルホテル東京からトキワ・フラワーガーデンまでは十分ほどだった。 高級車はトキワ・フラワーガーデンの入口で止め、結城理仁は自らあのホンダ車を運転して自分の家まで運転していった。 新妻の名前は覚えられないくせに、自分が買った家は覚えられるのだ。 すぐに自分の家の玄関に着いた。ドアの外に見慣れた自分のスリッパを見つけた。これは彼のスリッパじゃないか? どうして外に出されている? 当然内海唯花の仕業に決まっている! 結城理仁の目つきは冷たくなり、整った顔がこわばった。本来はあの祖母を助けてくれた女性にとても感謝していたのだが、祖母が彼女をベタ褒めし、彼と結婚するように仕向けられて彼は内海唯花に対して好感はなくしてしまっていた。 内海唯花の腹の内は分からないと思っていた。 最終的にはおばあさんの言うとおりに内海唯花と結婚したわけだが、おばあさんにはこう伝えてある。結婚した後は彼の正体は隠したまま、内海唯花の人柄を観察し、内海唯花が結婚するに値する人物であるなら、本当の夫婦として一生を共にすると。 もし彼が内海唯花が何かを企んでいるような腹黒女であると判断したなら、彼
結城理仁は自分のスタイルに気をつけていたから、暴飲暴食して太るのは許せないのだ。 ダイエットして体重を落とすのは大変だ。 内海唯花は微笑んで言った。「結城さんはスタイルが良いですよね」 「じゃあ、私は部屋に戻って寝ますね」 結城理仁はそれにひと言返事をした。 「おやすみなさい」 内海唯花は彼におやすみの挨拶をすると、後ろを向いて部屋へと戻ろうとした。 「待て、内海、内海唯花」 結城理仁は彼女を呼び止めた。 内海唯花は振り向いて尋ねた。「何か用ですか?」 結城理仁は彼女を見てこう言った。「今後はパジャマのまま出てこないでくれ」 彼女はパジャマの下に下着をつけていなかった。彼は目が良いので見ていいもの悪いもの全てが見えてしまうのだ。 彼らは夫婦だから彼が見るのはいいとして、万が一誰か他の人だったら? 彼はなんといっても自分の妻の体が他の男に見られるのは嫌なのだ。 内海唯花は顔を赤くし、急いで自分の部屋に戻ると、バンッと音をたててドアを閉めた。 結城理仁「......」 彼は気まずいとは思っていなかったが、彼女のほうは恥ずかしかったらしい。 少し座ってから、結城理仁は自分の部屋に戻った。この家は臨時で購入したもので、高級な内装がしてある家だ。ただすぐに住める部屋ならどこでも良かったのだ。 しかし、あまりに忙しくて彼の部屋も片付けられていなかった。 彼は内海唯花が物分りが良いことにはとても満足した。ずうずうしくも彼と同じ部屋で寝ようとはしなかったからだ。 さらに彼に夫としての責任も要求してこなかった。 それからの残りの夜は、夫婦二人何のいざこざもなく過ごせた。 次の日、内海唯花はいつもどおりに朝六時に起床した。 これまで、彼女は朝起きるとまず朝食を用意して、家の片付けをしていた。時間に余裕がある時は、姉を手伝って洗濯物を干していた。彼女が姉の家に住んでいた数年は家政婦のようなことをしていたと言ってもいい。ただ姉の負担を減らしたいがためにしていたことだったのだが、義兄の目にはやって当然のことだと映っていたのだろう。彼女を家政婦同然と見て使っていたのだ。 この日起きて、まだ見慣れない部屋を見回し、頭の中の記憶部屋で整理して内海唯花は一言つぶやいた。「私ったら、寝ぼけちゃってるわ、まだ
佐々木唯月はもう家の前で妹を待っていた。彼女は息子を抱きながら、両手の片方にはバッグを、もう片方にはリュックをぶら下げていた。遠くを見ていたせいか、車が走ってくることには気づかなかった。というより、走ってきた四輪車には注意を向けていなかった。妹の内海唯花はいつも電動バイクに乗っているからだ。内海唯花は車を姉の横に止め、車の窓を開けて彼女を呼んだ。「お姉ちゃん」内海唯月はきょとんとしていたが、すぐに笑顔を見せた。「電動バイクで来ると思っていたの」義弟が無理やり妹に新しい車を買ってくれたことは知っていたが、内海唯花は滅多にそれを使わなかった。この車でここへ来るのは初めてだった。内海唯花は車を降り、姉の手からバッグを取ると、後部座席のドアを開け、それを車の中に置いた。「お姉ちゃん、必要なもの全部準備したの。粉ミルクと哺乳瓶がないと大変だから」「全部入れたよ」佐々木唯月は息子を妹に渡した。妹が息子をしっかり抱いた後、名残惜しそうに息子の頬にキスをして、念を押した。「陽ちゃん、ちゃんとおばちゃんの言うことを聞くのよ。お母さんはすぐに帰ってくるからね」佐々木陽は元々内海唯花と仲がいいから、叔母に抱かれても泣いたり騒いだりしなかった。大人しく小さな手を振って母親にバイバイをした。唯月は少し悲しくなった。息子はまだ2歳で、幼すぎる。息子が幼稚園に入ってから職場復帰しようと唯月は思っていたが、現実は残酷なもので、今は一刻も早く仕事を探さなければならない状態に追い詰められているのだ。「お姉ちゃん、義兄さんはまだ帰ってこないの?」夫婦喧嘩してからもう数日が経っていた。佐々木唯月は少し暗い顔で答えた。「帰ってないよ、しかも、生活費を返せというメールなら送ってきたのよ。最近家で食事をしていないから、前に送った生活費を返すようにって」佐々木俊介が今やっている一つ一つのことが鋭いナイフのように、佐々木唯月の心をズタズタにしている。彼女をとても苦しめていた。彼女はどれだけ見る目がなくて、あんな男を愛し、妻となり、子供まで産んであげたのだろうか。3年もしないうちに、彼に愛想を尽かされ、暴力も振るわれた。「お姉ちゃん、それを返したの?」佐々木唯月はしばらく黙っていたが、頷いた。「返したわ。しっかり割り勘を通したつもりで、彼から
内海唯花はそのお金を突き返した。「結婚してから、あなたがこういうお肉を食べないことを知らなかったの。今度作る時には入れないわよ。でもお金はしまってちょうだい。そのよくお金で解決しようとする癖は本当によくないよ。ビルでも建築できるほどの大金持ちだとでも思ってるの?」もし出来るなら、数えきれないほどの何千万円の現金をパッと出してみてくださいよ。「さっき作ってる途中で言ってくれればよかったのに。鼻の下にちゃんと口があるんだから、言いたいことを言ってくれないと……」そう言っている途中で、お金の束が持っていた空のどんぶりに入れられた。内海唯花のこぼす愚痴は、そこでピタリと止まった。結城理仁はお金を押し付けると、これ以上返す機会も与えず、すっと去っていった。中に入れられたお金をみてから、逃げるように去って行った男の姿を確認してみると、もう玄関のドアを開けて、外に出てしまっていた。「結城さん、私は町で放浪してる物乞いじゃないのよ」返事してくれたのはバタンッとドアが閉まる音だった。ドアを閉めると、結城理仁自身も思わず笑ってしまった。内海唯花はどんぶりの中のお金を取り上げて、ぶつぶつと言った。「お金があるから偉いとでも思ってるの。あなた自ら私にくれたよ、私がゆすったんじゃないからね。お金で口止めするなんて、何回も成功できると思わないでよ」そのお金を少し確認してみると、四万円くらいだった。「なんだ。たったの四万円。できればお金を詰めた袋を丸ごと私へ投げてちょうだいよ」内海唯花はまた小言をこぼした。結城理仁がお金を押し付けてくるその態度が、かなり侮辱的だと感じていた。しかし、もし彼がこの方法で彼女の口を止めるのが気に入ったのなら、内海唯花は喜んでそうさせようと思っていた。お金をポケットに入れ、キッチンで食器を洗い、少し片づけた後、作っておいた料理を分けて昼ご飯として店で食べることにした。準備を終えて、内海唯花も仕事に行った。家を出たとたん、佐々木唯月から電話がかかってきた。「もしもし、お姉ちゃん」唯月からの電話なら、彼女はいつもすぐに出る。姉に何かあったのではないかと心配しているからだ。「唯花、もう仕事に行ったの?」「家を出たばかりだよ、どうかした?」「さっき陽に、もうご飯を食べさせてあげたから、今か
これはこれは、ますます面白くなってきた。今の内海唯花はまだ知らない。このわずかな数分の間に、彼女の夫がまた一つの面倒事を解決してくれたことを。できたての肉うどんを、用意した二つのどんぶりに入れて、それから自分のうどんに少々七味を入れた。もちろん、注意して入れすぎないようにした。あまり辛くすると、食べられなくなるのだ。彼女自身は辛さに少々弱いからだ。「結城さん、うどんが出来たよ」内海唯花は自分の分を持ちながらキッチンを出て、ベランダにいた結城理仁を呼んだ。返事はしないが、彼はそれを聞いてちゃんと部屋へ入ってきた。テーブルに自分のうどんがまだ出てきていないのを見て、自らキッチンに行って、自分の分を取ってきた。「七味か柚子胡椒がいるなら自分で入れてね。お姉ちゃんがくれたのよ、辛いのが好きだから」同じ母がお腹を痛めて産んだ子供なのに、姉妹二人の食べ物の好みはあまり似ていない。内海唯花は麺類を食べる時だけ少し七味を入れるが、それ以外は辛い物を食べないのだ。一方、唯月のほうは、辛くないと物足りなく感じる。お粥を食べても自家製の唐辛子ソースを入れるほどだ。家のベランダには大きな植木鉢がいくつも置かれていたが、そこには花ではなく、何種類かの唐辛子やハーブが植えられている。「七味も柚子胡椒もあまり好きじゃない」内海唯花は結城理仁を見つめながら笑った。「辛いのが苦手なの?じゃあ、今度作る料理に全部唐辛子を入れてみようかな、食べる勇気ある?」結城理仁「……」うっかりして、彼は自分の小さな弱点を口にしてしまった。顔を強張らせて黙々とうどんを食べていた結城理仁を見ると、内海唯花はつまらなくなった。この人と一緒にご飯を食べるとお喋りもできず、よく時間を無駄にするのだ。彼女は携帯を取り出し、朝ごはんを食べながらニュースを見た。こうすると朝食を食べるスピードが速くなる。あっという間にスープまで胃袋の中におさまった。携帯をしまい、自分の食器を持ってキッチンへ行こうとした時、向かいに座っていた結城理仁のどんぶりにはうどんとスープはなくなったが、肉、ネギ、白菜など全部残っていた。普段仕事が忙しい彼のことを考え、すぐお腹が空いてしまうのではないかと心配して、肉を多めに入れてあげたのに。まさか、全然食べないなんて!ネギと白菜も!
それから夫婦一緒に下へおりていき、結城理仁はジョギングに、内海唯花は電動バイクで市場へ買い物に行った。内海唯花がバイクに乗った時、結城理仁は彼女に注意した。「食材を多めに買っといて、店に持って行くといい。昼は自分で料理作ってよ、デリバリーなんか注文しないでさ」「わかったわ」「またデリバリーでも頼むとわかれば、毎日スカイロイヤルホテルに頼んでそっちに送るぞ」内海唯花は彼のほうを向き睨みつけた。「分からず屋!」結城理仁は思わず暗い顔をした。近くで通りすがったふりをしていたボディーガードがその言葉を聞いて、思わず笑い出した。その分からず屋にこれ以上話したくなくて、内海唯花は電動バイクに乗って走り出した。「聞き分けのない小娘!」彼女が遠ざかるのを見て、結城理仁は呆れたようにそう言った。内海唯花は市場で新鮮な野菜と日持ちのいい果物をたくさん買ってきて、冷蔵庫にぎっしりと詰めた。ジャガイモやかぼちゃ、苦瓜、玉ねぎなどが袋に入れ、袋を開けたままに床に置いていた。ジョギングしてから着替えをすませた結城理仁はその成果を見て、絶句した。しかし、彼は何も言わなかった。一方、内海唯花はうどんを作る準備をしていた。買ってきた牛肉を取り出し、それから二本のネギと白菜も洗った。食材の準備が出来てから鍋も取り出して洗い始めた。結城理仁はキッチンの入り口からチラッと覗き、ベランダに出て、そこのハンモックチェアに座った。ベランダに植えた元気いっぱいの植物たちを見ながら、ブランコをぶらぶらすると、確かに居心地がいいものだ。どうりで彼女は毎日暫くここに座っているわけだ。「プルルル……」結城理仁の携帯が鳴り出した。それは九条悟からの電話だった。キッチンにいる妻に聞こえないように、声を小さくして電話に出た。「理仁、奥さんのクズ親戚たちがどっかのテレビ局に頼んで、奥さんとの仲を取り持ちに行くと聞いたぞ」社長夫人に関する問題は大体九条悟が直接対処しているので、何か動きがあったら、彼が真っ先に知らせてくる。結城理仁は冷たい目で声を低くした。「まだそいつらを奈落の底まで叩き落してないのか」「まだだよ。一気にやっつけるのは簡単だが、それじゃあ生温いだろ。ゆっくり泳がせておいて、今持っているものを少しずつ失わせて、絶望させたほうが復讐
彼がもし男が好きだったら、九条悟は絶対真っ先に辞職し、彼から遠く離れるだろう。彼のアソコに障害がある?今のところはそのことにあまり興味がないから、彼女をそういう目で見ていないだけだ。もし本当に興味を持って本当の夫婦になった時、覚えていろよ!やがて、結城理仁は腰を上げて、自分の部屋に戻って行き、勢いよく扉を閉めた。ドンと大きい音がしたのは、彼が今どれほどイライラしているかを示していた。内海唯花は彼がドアを閉めてからようやく体を起こした。その紙を手に取って丸め、ゴミ箱に捨てて、小声で呟いた。「よく考えてよかった。そうじゃなきゃ、彼に負けるに決まってる」今回のことで、相手の情報を完全に把握していない時には気安く賭けなんかしない方がいい、絶対負けるからと思うようになった。自分が先に賭けを申し出て、また後悔し、前言撤回したことについて、内海唯花は全く気にしていなかった。まだ契約書にサインしていないので、後悔しても問題はない。内海唯花は鼻歌を歌いながらリビングの電気を消し、機嫌よさそうに自分の部屋に戻った。大きいベッドで携帯を暫くいじってから、シャワーを浴びて寝た。翌日、起きてからいつもの癖で厚いカーテンを開け、窓を開けると、冷たい空気が一気に入ってきた。内海唯花は体を縮めて、急いでまた窓を閉めた。空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降りそうだ。先ほどの冷たい空気が、彼女にこれから気温が下がり始めることを教えてくれた。東京とA市は大体同じ地域にあり、気候は似たようなものだ。秋が深り初冬の頃、朝と晩は常に肌寒さを感じるが、お日様が顔を少しだけ出したら温度がだんだん高くなっていき、寒さは全く感じられなくなる。気温が下がって雨も降ってくると、薄手のコートが必要だとようやく気づくのだ。一伸びしてから、内海唯花は顔を洗い、歯を磨いて着替えて部屋を出た。それからキッチンに入って結城理仁にうどんを作ってあげようとした。今日うどんが食べたいと彼が言っていたから。冷蔵庫を開けると、食材がほどんどなく、卵がいくつしか残っていないことに気付いた。彼女がよくうどんに入れるネギは、昨晩全部食べてしまった。そこで、市場へ野菜を買いに行くことにした。内海唯花がキッチンを出ると、ちょうど結城理仁が部屋から出て来た。彼は青い運動着を着て、スニー
「アドバイスならあるけど、私は神崎さん側につくと決めたから、教えられないよ」言い終わって、内海唯花は食器を片付け、キッチンへ行った。結城理仁は黙って、その姿がキッチンへ消えるのを見ていた。やがて、彼は椅子から立ち上がり彼女について行った。キッチンの入り口にもたれかかり、低い声で聞いた。「神崎さんと知り合ったばかりだろう、どうしてあっち側についたんだ」「神崎さんとは確かに知り合って間もないけど、社長さんとは知り合いですらないもの。どっちの味方になるなんて、もうわかりきったことでしょ。それに神崎さんの性格が好きだから、彼女が結城社長を口説くのを応援してるわ。当たり前のことじゃない?あなたのとこの社長は絶対プライドが高い人間なのよ。神崎さんに落とされたら、とんでもない愛妻家になるかもしれないよ。プライドの高い人がそうなったら絶対面白いと思わない?まあ、小説によくある話みたいね。店にいる時大体暇だし、もしネット通販がうまくいかなかったら、時間を作って小説を書いてみるのも一つの道かもだね。神崎さんが結城社長を口説くことを小説にしたら、バカ売れかもよ!」結城理仁:……どんだけ稼ぎたいのだ!彼女へ渡している生活費はまだ足りないのか。本当に毎日お金のことばかり考えやがって。「うちの社長は絶対神崎さんに落とされないと思うから、俺は社長の側につくよ」結城理仁は最近自分がますます嘘も上手になった自覚があった。こういう事を言っても顔色一つ変えず、息づかいも穏やかだ。「じゃ、神崎さんが社長さんをゲットできるかどうか、賭けをしようよ。結城さんが勝ったら、何でもいい、私に三つお願い事をしてよ。もちろん、私ができる範囲でよ。逆に私が勝ったら、洗濯や料理、それと掃除、とにかく家事を全般的にお願いするわ。少なくとも二か月以上してもらわないと」結城理仁はあっさりと頷いた。「じゃ、後でしらばっくれないように、その賭けを書面にしようか、それにサインするんだ。」すると、彼はその契約書を書いていった。彼がこれほど自信があって、契約書まで用意しようとすると、内海唯花は少し自信が持てなくなった。結城理仁は結城グループに勤めていて、社長と間近に接したことがなくても、性格について彼女よりよく知っているのは当たり前なのだ。神崎さんのような女性に口説かれた
それに、彼はまだ30歳だぞ。いい歳した男とはどういうことだ?もう何度も彼女に年を食った男だと言われたぞ!我慢強い人間じゃなければ、その言葉に刺激されて今はもうぼろが出ていたことだろう。「うちの社長はまだまだ若い、年食った男じゃないぞ!」しっかり怒りを抑え、結城理仁は自分のために一言弁解することにした。彼を見つめて、内海唯花は言った。「社長に会ったことがないって言ってたじゃない?どうして彼はそうじゃないと断言できるの?あれほど立派な結城グループを仕切る人がとても若いわけないわよ。ビジネスの世界にはあまり関心を持ったことがないけど、結城グループはどれだけすごい会社か、これぐらいは知ってるわ。ほぼA市の何とかっていう会社と同じレベルでしょ」結城理仁は「……アバンダントグループ」と相槌した。A市のアバンダントグループは結城グループと同じく、それぞれ所属する都市のマンモス企業だ。裏にいる伊集院涼という人物がまさに億万長者で、今の社長の座に君臨する桐生蒼真は結城理仁よりも一つ年下だ。アバンダントグループは理仁たちの町にも支社があるが、ビジネスは被っていないので、衝突もせず、平和に共存している。「具体的になんの会社かは知らないけど、とにかくすごい大企業でしょ。お宅の社長がもし若かったら、長年会社にいる年配の部下たちをちゃんと指導できるの?社員が彼の言うことにちゃんと従ってこそ、社長の座にしっかり座れるじゃない?」結城理仁が頷いたのを見て、彼女は結論を出した。「だから、彼は絶対結構年を取った人なのよ。経験も浅く、能力もない人には誰もついて行かないもん」結城理仁「……」その解釈はもっともだったが、彼がそんなに年を取ってないのも事実だ。もちろん、もし30歳という若さで、年を取った男だと言われるなら、もう認めるしかない。「私は神崎さんと本当に気が合うはずよ。彼女には自分の愛する人を大胆に追いかける勇敢さがあって、結城社長も独身でしょう。結城社長が突然結婚したり正式に彼女がいると明言したりしない限り、私は彼女を応援したいの。もし結城社長が結婚したり彼女がいたりするなら、神崎さんも自分の矜持があって、他人の恋路を邪魔するような真似は絶対しないから、その時はちゃんと諦めるって言ってたよ。私も神崎さんは倫理観がしっかりしてる人だから、ただ自
結城理仁は内海唯花のお椀に残っているうどんを見ながら、虫の居所が悪そうにしていた。反対に、彼女は満足そうにうどんを食べていて、彼の気持ちなどちっとも気にしていないようだった。こいつ……どういう神経なのだ。結局のところ、他の夫婦と違って彼らには愛情がなく、ただ一緒に生活している関係に過ぎない。結城理仁は一旦不満を抑え、低い声で聞いた。「神崎姫華さんって神崎グループのお嬢様じゃないのか?どうして君のところへ行った?いつ知り合いになったんだ」そのわけを知っていても、彼はわざとそれを聞いた。なぜなら、彼女たちが知り合った経緯は神崎姫華から聞いていて知っているが、内海唯花の認識の中では彼はまだ何も知らないことになっているからだ。内海唯花は彼に神崎姫華と知り合った経緯を一から説明した。確かに神崎姫華の言った通りだった。「神崎さんが私を訪ねてきたのは、その結城社長への思いを吐露したかったからよ。結城社長を口説いても家族からの支持が得られないで、鬱々としていたらしいの。それに、どうやったら彼を落とせるかアドバイスしてほしいって」すると、結城理仁は少し眉をつり上げた。神崎姫華は内海唯花に自分を口説く方法を教えてもらいに来たのか。彼は顔色を変えず、また口を開けた。「方法があるのか。それとも以前にも男を口説いたことがあるのか」「あるわけないでしょ。私の初恋すらも、始まってすぐ散っていったのよ。恋愛経験なんか、白紙同然ね」内海唯花は言いながら、結城理仁へ視線を向けた。「でも、うちの結城さんよりマシかな。あなたの方こそ白紙そのものでしょ。ちょっとだけ顔を触れられても、飛び上がるほどびっくりして、痴漢を防ぐかのように私に警戒していたしね」結城理仁は暗い顔をして、彼女を睨みつけた。内海唯花はへらへら笑って、残ったうどんをスープまで全部平らげた。「さすが私、おいしかったわ」「じゃ、明日もうどんを食べよう」はい?結城理仁は思わず彼女の額を突いた。「おいしいおいしいって何回も言ったから、俺に食べさせようとしているんじゃないかと。だから明日もうどんにしよう」ぺしっとその手を叩き、内海唯花は言った。「もともと料理が上手なの。結城さんの家族も私の料理がとてもおいしいって言ったじゃない。いいよ、食べたいなら、明日また作ってあげる」「そ
「できてたんだけど、神崎さんが突然店にやって来て、気に入ったって言うから彼女にプレゼントしたの。私たち一緒に暮らしているし、いつでもあなたに作ってあげられるから」結城理仁はそれを聞き、顔を曇らせ、真っ黒な瞳で彼女を凝視した。内海唯花「……結城さん、もしかして怒った?」結城理仁は怒った様子で声には冷たさが含まれていた。「君は俺にくれる予定だったものを、俺に聞くこともなく他の人にあげたのか。それを怒ったらだめだって?」しかも神崎姫華にやるとは!神崎姫華は彼女の夫を追いかけ回している女性だぞ、わかっているのか?彼にあげる予定だった鶴を自分の恋敵にあげるなんて。本当に全く心が広いことで!内海唯花は携帯を見るのをやめ、お椀を持って食べながら歩いて来ると、結城理仁の横に座って彼の機嫌を取るために言った。「結城さん、ごめんなさい。私が悪かったわ。明日作ってあげるから、怒らないでね」結城理仁は暗い顔のまま彼女を見つめていた。そして、薄い唇をきつく結んでいる。彼の気が晴れていないのを知り、内海唯花はあのうどんを彼のほうに差し出して言った。「じゃあ、私の夜食ちょっとおすそ分けするから」結城理仁は相変わらず暗い顔をして「君の食べかけを、俺に食べさせる気か?」と言った。彼は少し潔癖なところがある。誰かが食べたものは絶対に口にしない。「さっき数口食べただけなのに。嫌ならいいわ。私お腹すいてるし」内海唯花はそう言うとすぐに手を引っ込め、引き続きうどんを食べ始めた。「私の料理の腕は最高なのよ。普通のうどんが私の手にかかれば、すっごく美味しくなるんだから。要らないって言うなら、本当に損してるわ」「内海さん、話をそらさないでもらえないかな。俺たちはあの鶴の話をしているんだよ」「もうあげちゃったんだもの。まさか神崎さんのところに返してくれなんて言いに行けないでしょ?彼女はお母様と一緒に海にバカンスに行くって言ってたから、たぶんもうこの町にはいないと思うわ。それに、私は神崎さんがどこに住んでるかなんて知らないし」ああいう富豪たちが住んでいる屋敷はとても高級で、安全対策もバッチリだ。たとえ彼女が神崎お嬢様の住んでいるところを知っていても、彼女の家の玄関にもたどり着くことはできないだろう。「ごめんってば。あなたの同意を得ずに、あげるはず