不本意な戦いではあったが、こうして勝利を収めるとじわじわと達成感が沸き上がってくる。
今日は何一つ思い通りに事が運ばなかったが、それでもイレギュラーな出会いもあり、全くのダメダメな日というわけではなかっただろう。
蛇男の方も、炎霊をたったの一人ですでに撃破している。
嫌な奴だし、絶対に許せないが、それでも等級に見合った実力はやはり有しているのであった。
ボス部屋の床は今や形を失ったボスの液体で水浸しである。
ところどころから顔を出していた結晶の光も徐々に弱まっていく。
だんだんと暗くなっていく部屋の中で、蛇男は短剣を持ってボスの亡骸……形の残った上半身の部分へ駆け寄っていた。
「本当にあいつは……」
ミミズクはその様を忌々しそうに見つめる。
ミミズクたちは攻略ということでダンジョンに潜っていたので、当然報酬は山分けするつもりだったのだろうが……蛇男にそのつもりはかけらもなさそうだ。
彼らからしたら大損以外の何物でもない。
蛇男は周りの目など気にせずに、当然の権利のように死体に刃を突きこむ。
ところが……。
「ん? 妙だな? 死ねばあらゆる抵抗が消失して簡単に刃が入るはずなんだが……」
何かがうまくいかないようで、角度を変えては短剣を差し込もうとする。
しかし、その刃が死体を切り開くことはないようだった。
このボスの上半身はまるで彫像のような質感で、パッと見では剣が通用しそうもない。
もしかしたらそういう奴なのかもしれない。
はなからこのダンジョン自体例外的なものだったわけだし、そのせいで報酬無しだってことならいい気味だ。
「チッ……クソ! なんだよ! 期待させやがってよ! 碌なもんねぇじゃねぇか!!」
蛇男が八つ当たりでボスの死体を蹴り飛ばす。
けれども自分のつま先を痛めただけのようだった。
もうほとんど何も見えないくらいにダンジョンが暗くなっていく。
もう少しでこの空間が消失するのだろう。
そしたら姉さんのいる家に帰って、チャットで食事会の日程決めて、そっからはどうしよう。
クリーナーにはなれなかったのに、気持ちは前向きだった。
「……」
目を閉じて、無言で元の世界に戻されるのを待つ。
途中ボクッという鈍い音が響くが、蛇男が学習しないでまたボスの死体に八つ当たりしたのだろう。
そう、思っていた。
しかし、続く声が現実はそうではないと告げる。
「おい……! ヒー、ラァ……!! 何してる! 俺を回復、しやがれ……!!」
呻くような蛇男の声。
ミミズク隊のハチドリが、とっさに魔法で手のひらに火を灯した。
あたりに照明としてはやや心もとない明かりが滲む。
その炎の光が照らしだしたのは、出血した頭部を抑えて地に這いつくばる蛇男だった。
「……!!」
みんな突然のことに驚いて蛇男から距離をとる。
ハチドリは魔力供給を増やして、より強く炎を燃え上がらせた。
「ヒーラー!! クソジジイ!! 回復だよ……うぅ……はや、く……!!」
蛇男はぎろぎろした目で堀越さんをにらむ。
堀越さんは一応はその要望に応えようとするが、それをキツツキに止められた。
「まって、むやみに動かないで。たぶんまだ……終わってないんすよ」
ハチドリはいよいよやけくそ火力で、炎に魔力を込める。
最初の何倍にも膨れ上がった炎は、やっと部屋の端まで見渡すことを可能にした。
「な……」
目の前に広がる光景に息が詰まる。
「なん、で……」
頭から血を流す蛇男は、それだけでなく片足も握りつぶされていた。
そして、その闇討ちの犯人もすぐそこにいる。
両手を地について体を起こす、二体の上半身。
倒したはずのボスモンスターが再び活動を始めていた。
事態の急変にみんな警戒態勢をとる。
ボスモンスターはそんな俺たちのことも、今や身動きが取れなくなった蛇男も気にかけずにお互いに歩み寄る。
やがてその指先同士が触れ合い、その感触を確かめるようにして互いの体に指を這わせ、そして抱き合った。
ボス同士がそうして抱擁を交わすと、水たまりとなっていた液体に再び色が滲みだす。
そしてそのころには、もう取り返しのつかないことになってしまっていた。
ボスを中心に熱風が地面を駆け抜け、同時にボス部屋の内壁が凍り付く。
出口すら塞いで。
広がった液体は輝きを増し、ハチドリの炎の明るさを一瞬で凌駕した。
流体は互いにひきつけ合うようにして、再び形を成していく。
二体の上半身は抱き合ったまま、その下にマーブル上に色が混ざった魚の体を形成した。
上半身が口づけをするように頭部を触れさせると、一度溶けてからねじれるようにして混ざり合い頭部を統合した。
形成の過程で螺旋状に絡み合うようにしているので、ちょうど巻貝のような形になる。
抱き合った胴体も癒着するようにして離れなくなった。
一度倒れたはずのボスは融合し再び一体のモンスターとしてよみがえる。
再び形を、その輝きを、その力のすべてを取り戻した。
合体したボスは、優雅に踊るように宙に舞い上がる。
そして手のひらの中に氷の槍を生み出し、それを身動きの取れない蛇男に投擲した。
「ガッッッ……!!」
鋭い氷の槍は男の胸を背中から貫く。
蛇男の口からは吐しゃ物かと思うほどの大量の血液が噴き出した。
「は゛や゛く゛!! ひぃらぁぁぁぁぁ!! 俺がしぬ゛わけ!! こんな……ありえないぃ゛……!! だって、こんな……人生なんて……ゲーム、だ、のに……!!」
苦痛に呻く蛇男は、もがきながら堀越さんに這い寄ろうとするが氷の槍によって地面に固定されているため永遠に前に進むことはない。
やがて突き刺さった氷の槍に亀裂が走り、内側からオレンジ色の光があふれだす。
それは槍を砕いて一気に爆発すると、炎となって蛇男の全身を飲み込んだ。
「アアアアアアアアアアアアァ゛……!!」
蛇男の断末魔が響き渡り、燃え盛る炎の中で徐々にそのシルエットが崩れていくのを見届ける。
目の前で、人の死が起こっていた。
夏山さんが口元を押さえて表情をゆがめる。
しかしその目が何かを捉えると、それは大きく見開かれ微動だにしなくなった。
「うそ、でしょ……? こんなの、だって……なんの冗談……」
夏山さんの震える声が告げる。
どうしようもなく絶望的な現実を……。
「霜炎の霊王……レベル……52……」
「レベル、52……!? そんなの、何かの間違いだよな……? 夏山さん……。だって、10レべと19レべの奴が合体して……それで50なんて……計算合わないじゃんか!! そんな……」 そんな無茶苦茶なことがあっていいのか?俺たちは勝って、乗り越えて、そうやって自分の生活に戻っていく。それでよかったじゃないか。なのに、それを許さないのか?俺たちは神に見放されたとでもいうのか? 何から何までひっくり返る。全部が台無しになる。台無しにされる。この運命から逃れられるすべなどないというのか。「ちく、しょう……」 ミミズクが手のひらを力強く握りしめる。そして俯きながら小さな声でそう吐き捨てた。「ちくしょう、ちくしょう……。やっと軌道に乗って来たのに、みんなであがいてあがいて、強くなって、やっとみんな笑うようになったのに……」「りぃだぁ……」 ミミズクはきつく唇を結んで、肩を震わせる。そして静かに涙を流した。「いいさ、どうせ死ぬつもりだった身だ。なんだっていい」「え、死ぬつもりだったって……どういう?」 ミミズクの口から飛び出した言葉に思わず驚く。その疑問に答えるのはキツツキだった。「もともとこのパーティ、最初は一緒に死のうっていうので集まったんだよね」 キツツキの言葉に、さらにヤマガラが続いた。「でもさ、なんか一緒に居たら楽しくなっちゃって……死にたくないなって、思ったんだ。みんなね」 ミミズクが、袖で涙をぬぐう。そして、覚悟を決めた目でこう言った。「だから、みんなは死なせない。……お前たちに会えて、ほんとに楽しくって……ありがとうな」「ちょっとりぃだぁ、何言って……」 ミミズクの言い回しに不穏なものを感じたのか、キツツキが眉を顰める。キツツキの不安そうな言葉を背に受けて、ミミズクは前に踏み出した。「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……!!」 せっかくぬぐった涙がまたあふれ出す。そして……。「ちくしょぉぉぉぉぉぉ……っっっ!!!!」 あろうことかモンスターの方へ走り出した。「ちょっとりぃだぁ……!!」 ミミズクの方に走り出しそうになるキツツキの首根っこを、スズメとハチドリが押さえる。ヤマガラは黙って顔を伏せた。 ミミズクはモンスターの前で盾を地面にたたきつけて立ちふさがる。そして決して振り返らずに、仲間
キーンと、耳鳴りが響く。貧血になったみたいに、すっと意識が遠のく。そして一瞬で足先まで冷えていった。 あふれた“俺の”血液が、床を打つ。跳ねる。その音が、いやになるほど鮮明に聞こえる。「あれ、なんで……」 心がしびれたようで、体もしびれたようで、世界の輪郭があやふやになる。しかし、誰かの声が俺を現実まで引き戻した。「なんで……なんでこんなことしたんですか!! 堀越さんもそう……今どき自己犠牲なんて流行らないですよ!!」 夏山さんの声だ。すごく、安心する。それと同時に涙があふれてくる。「よか、った……」「なんにも、何にもよくないですよ! 水瀬くん……どうして……」「どうして、って……夏山さんが最終防衛ラインだから……。夏山さんがやられたら、みんなやられちゃう……。俺、間違ってないと思うな」「そんなこと……!! そんなこと言ってるんじゃ……!!」 体に力が入らなくなって、ひざから崩れ落ちる。ダメだ、ミミズクとかみたいにしぶとくない。それもそのはず、俺はスキル無しの……一般人だ。でも、ちゃんと人間だ。クズじゃない、これは人間の死に方だ。「ああ、でも姉さん……怒るな……。姉さんには……」 悲しい顔をしてほしくない。やっぱり、やだな。 死にたくない。痛てぇし、しんどいし、こんな風に終わってくのか。俺、みんなを助けられたのかな……。 どこかで、やっぱり何かを間違えちゃったのかな……。それとも初めからこういう運命だったのか……。もしそうだとしても、諦めたくないし……諦められないよ。 ああ……。俺がこんなに弱くなければ……。もっと強ければ……。 あんな蛇男より、皐月よりずっと強い力……。こんな理不尽も一撃で退けられるような力……。そんなものが俺にあったらよかったのに。 死の、足音が近づいてくる。終わりの瞬間を知覚する。もう五感の絶えた世界で、俺を燃やし尽くそうとする漆黒の炎が燃え上がっていた。逃れられない、生命の終わり。死の理。◇◇◇ オレンジ色の明かりが、にぎわう店内を照らす。大衆酒場で俺を含めた10人がやかましく騒いでいた。 食べ物の味もよく分からなくなるくらい酔っぱらって、それを隣に座る女の人にあきれられて……。頭がふわふわするけれど、そういうのがたまらなく嬉しかった。 けれども
病室の扉を開けて、こちら側を覗き込むのは俺の予想通り鹿間さんだった。体を起こしている俺を見るや否や、ものすごい形相でどこかへ走って行ってしまった。「あ、あれ……」 鹿間さんの手によって開かれていた扉が、支えを失ってゆっくり閉じる。せっかく人が来たと思ったのに、なんだか少し残念な気持ちだった。 意気消沈しているのもつかの間、すぐに騒がしい足音がやってくる。病院……ではないのか、にもかかわらず絶対に走っている足音だった。 そのパワフルさで、すぐに誰だか悟る。そして、その人物は扉が勢いよく開け放たれるのとほぼ同時にこちらに飛び込んできた。「ゆ・う・くーーーーーーーん!!!!!!!!!!!!!」「痛たたたた……! 痛いよ、姉さん……」「あ、ごめんね……傷、痛むよね……」「いや、傷は無いけど……傷云々の前に普通に痛いってば……」 俺がそういうのを聞かずに、姉さんは俺の体に腕を回しきつく抱き着いてくる。この様子を見るに、かなり心配をかけてしまったみたいだ。「だって! お姉ちゃん、ずっと心配してたんだよ!? 鹿間さんが傷も無いはずなのになぜか目覚めないって……」「傷が無いこと自体は知ってたんじゃん……」 しかし、それだとどうも引っかかる。鹿間さんが傷が治った、ではなく傷が無いと言っていたわけだ。姉さんはこんなだけれど、そういう言葉の微妙な違いを取りこぼす人ではないし、となるとほんとに鹿間さんが俺の姿を見たときには傷が無かったということになってくる。まさか町中に辻ヒーラーがいるわけでもあるまい。そもそもダンジョン外では基本的にスキルは使用禁止なわけだし……。 すこし疑問は残る形になりながらも、とにかく俺が助かったということだけは確からしいことが分かった。その後もしばらく姉さんと話していたが、真剣な表情をした鹿間さんが再び訪れたため姉さんは席を外してもらうことになった。 姉さんを見送ると、鹿間さんは自分でパイプ椅子を用意してそれに腰を落とす。そして俺の方を見つめて、ポツリと語り始めた。「あー、はは……久しぶり、だな……。調子はどうだ?」「はい、おかげさまで……すっかりぴんぴんしてますよ」「ん、ああ……そうか……」「……? なんか……どうしたんですか?」 多少会うのが久しぶりとはいえ、流石に少し様子がおかしい。ひどく話し
体はもうどこも悪くないのに、俺の入院状態はもう少し続くことになった。鹿間さんはいつまでいてもかまわないと言ったが、流石にそういつまでも居座るべきじゃないと思った。「優くん......」 今日も今日とて様子を見に来てくれている姉さんだったが、俺はそれに構ってやることができなかった。姉さんも今回ばかりはかける言葉が見つからないようで、静かにパイプ椅子に座っている。 ここで流れる規則正しい時間は、体の調子にはだいぶ役立っているようだが俺をもとに戻れるようにはしてくれなかった。俺の中に、いったい何が残っただろう?あの7日間は何だったのだろう。 何かが始まると思って動き出したのに、経験したのは大きな喪失だった。俺に何が残ったのだろうと言ったが、自分自身の命がこうしてきれいな形で残ってしまっていることが恨めしくすらあった。 何をするでもなく、クリーナーを志す以前のように日々を無為に過ごす。あの時は確かにあった前途に対する希望が、俺が歩いていくであろう道に満ちる光が、今では幻のようだった。 意識は散逸し、俺の中で時間が連続しなくなる。気づいたら夜になり、また気づいたら日が上っており......そんな日々がどれほど続いただろうか。 すっかり表情の消えた俺の顔を鏡で見る。誰だこいつ、と思った。◇◇◇ ある日の晩、俺は眠っていた。まるで胎児みたいに、身じろぎ一つせず。大気のにおいや温度は、すっかり夏のものに変わっていた。「なんだ......?」 外がやや騒がしいので、目を覚ます。元より車通りの多い場所ではあるが、それにしたって異様に騒がしかった。 ベッドから降り、窓に駆け寄る。すると、科学的なものとは異なる......都市の中では異質な光が見えた。「近くで......侵食が発生したのか......」 侵食。ダンジョンが一定の水準に成長した時に起きる、実体化現象。もともとダンジョンに実体がないというわけではないが、どことも結びつかない不安定な空間にダンジョンは存在している。それが、俺らの日常に唐突に現れるのだ。 町明かりの中に紛れ込む、青白い炎。どこからやってきたのかは分からないが、ちょうどここから見る位置に魔物が現れているのが見えた。中型の......研修中には出会うことのなかった、おそらく中級のモンスター。D級あた
ビルの隙間を生暖かい風が吹き抜ける。相対するのは真っ黒な体表をしたトカゲのような魔物。唾液まみれの白い牙は、鋭く凶悪な形に湾曲している。肉を切り裂く形の牙だ。 その顔つきも残忍そのもので、黄色く濁った小さな瞳にはその攻撃性がありありと浮かんでいる。やや骨ばったやせた体格に、細長い尾。喉元には吐く炎と同じ青白い光が宿っていた。 剣を構えて、モンスターの出方を窺う。A級ダンジョンではありふれた敵なのかもしれないが、俺からすれば見たこともない未知の敵だ。ただ最初の噛みつきを何とかしのいでしまっているせいか、七日目のボスモンスターほどの絶望感もない。あれより格上の敵とまみえているはずなのに、不思議な感覚だ。 魔物自身もさっきの一撃が対処されたことで見方を変えたのか、むやみやたらに突撃してくるのでなく、俺から視線を外さないままゆっくりと歩いていた。「……」「……」 先ほどまで俺の身を案じて騒がしかったクリーナーたちも、今では事態を静観している。ただあの一撃を耐え抜けるタフさと俺の慣れてなさに乖離を感じているのか、いまいち疑心暗鬼なまなざしだ。 勝てないつもりで顔を出した戦いなのに、勝機が顔をのぞかせてきて心が混乱する。俺はここまで来て何をやってるんだ。何がしたいんだ。いったいここからどうしろというのか。けれども、もうどこか遠くに行ってしまったように感じていたあの七日間が。夏山さんたちと過ごした特別な日々が、俺の中で小さな芽をのぞかせていた。 この期に及んで、やっと心が追いついたのかもしれない。あれ以来ずっと口にするのを忌避していた名をつぶやく。「夏山さん……」 それは驚くほどするりと俺の口から出てきた。胸中に浮かび上がる、夏山さんの顔、声……。全部奪われてしまったかのように思っていたけれど、ちゃんとあの日々は俺の中に残っていた。 剣を握る手に力を籠める。本当はただの偶然なのかもしれない。けど、人間は偶然にだって意味を見出す。 正体の分からない剣。お前がどうしてか俺のインベントリに入っていて、そして今日偶然それに気づいた俺がいた。 膠着状態のにらみ合いを、こちらの手で終わらせる。相手の出方を窺ってなんて、そんなに俺は賢くない。ずっとそう、俺は生涯を通して賢く戦えてきたことなどない。ただ愚直に、ストレート
ある日、世界各地に「ゲート」が現れた。ゲートといっても扉のような姿をしているわけではない。言うなれば、空間に空いた穴。ある種の空間の歪み。そういった現象だ。ゲートの向こう側にはまるでアニメやゲームのような、いわゆるファンタジーという言葉でくくられるような空間が生成されていた。その空間はリアルタイムで成長し、変容し、やがて実体化する。ゲートが出現した場所の周囲がそのままゲート内の空間に置き換わってしまうのだ。そうなれば当然、魑魅魍魎とでもいうべき魔物たちが解き放たれてしまう。後にその異空間は「ダンジョン」と呼称されるようになった。 初めにゲートが現れたのは東京という大都市のど真ん中。突如現れた謎のゲートは人々の注目を集めたが、ダンジョンの実体化が起きてしまってからそれどころではなくなった。瞬く間に都市中に魔物があふれ、何人も死んだ。そしてその後……何者かの手によって実体化したダンジョンは東京ごと消滅させられた。 その事件から数十年と時は進み、ダンジョンに立ち入った者が特別な力に目覚めることがあると明らかになる。そこからは、ある種の新時代の到来である。ダンジョンがあるのが当たり前の時代、そしてそれを攻略する者たちの時代。 そんな特別な力に目覚めた攻略者たちを人々はこう呼ぶ。「ダンジョンクリーナー」と。そしてまた、今ここに新たなダンジョンクリーナーが生まれようとしていた。◇◇◇ いつからこうだっただろう?もしかしたら初めからこういう運命だったのかもしれない。 俺の名前は水瀬 優。どこにでもいる普通の学生……少し前まではそうだった。しかし、その身分も失った。今の俺は何者でもない。 漠然と、どうにかなると思ってきた。なるようになると、そういう風に考えていた。現に今までどうにかなって来たし、最終的には大団円のオチが待っていると思っていた。そしてその結果、無残にも社会から振り落とされた。 職もなければ愛想もない。社会に居場所がないと、まるで自分が人間でないみたいだった。今の俺には何も無い。かといってそんな空虚な人生に自ら別れを告げる度胸もない。「もう……」 カーテンを閉め切った部屋で一人頭を抱える。「もう、おしまいだぁ……」 俺の心境を知ってか知らずか、窓の外からは電線の上を跳ねるスズメの鳴き声が聞こ
思い立ったが吉日という言葉がある。そんなわけでダンジョンクリーナー協会に訪れた。クリーナー協会はいつでも新たな可能性の芽を待ってるぞ!みんなも要チェックだ! まぁそんな冗談はおいておくとして、実際クリーナー協会は来るもの拒まずの姿勢だ。武術の有段者である必要もなければ、小難しい資格なども必要ない。すべてはスキル覚醒するか否かということにかかっているわけだ。 一応俺の居住都市はそこそこ規模が大きいので、協会の規模もそれに比例して大きい。道は姉さんが教えてくれた。あと事前にある程度電話で話を通しておいてくれたらしい。何から何まで姉さんに頼りきりである。「しかし……ここがクリーナー協会の建物だったとは……」 見たことはあるが得体のしれない建物。そういうのは誰しもあるものだろうが、ダンジョンクリーナーを志してその正体をはじめて知った。 姉さんに知らされた約束の時間はもう迫っている。もちろん遅れるわけにはいかないので多少恐る恐るといった感じでビルの中に入っていった。 二重の自動ドアを抜けると、蛍光灯の無機的な光が俺を出迎える。その白色の明かりと同じように、建物の内装もまた清潔感のある白色だった。忙しそうに駆け回る人や、受付前の長椅子に腰かけて何かを待っている人。やっていることは様々だがとにかくそこにはたくさんの人がいた。雰囲気としてはなんだか病院のようですらある。ダンジョンで出た怪我人の救護や応急処置なども協会で行われていると聞くし、あながちその印象は間違いでもないのかもしれない。 時間に余裕があるわけでもないのでさっさと受付に向かう。窓口がいくつかあるが対応中のところが多く、とりあえず空いているところに向かった。「あの、すみません」「はい。どういったご用件でしょうか?」 俺が向かった窓口に居たのは若い男性の職員。真っ白なスーツを一切の違和感なく着こなす真面目そうな人だ。俺がスーツを着るとなぜだかどうしてもコスプレ感が否めない。ここに来るのがある種の就職活動とはいえ、今この瞬間も俺は私服のままだ。まあもともとスーツでするような仕事ではないし。「あの、ダンジョンクリーナーの……研修?の方に申し込んだ者なんですけど……」「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」「あ、はい。水瀬、です。水瀬 優……」 しっかりし
「さて、そしてここからが……もう少し面白い話だ」 鹿間さんが表情を変えて言う。そうしてこの部屋に入った時からあったソファーの上のバッグから銀色の腕輪を取り出した。鹿間さんの腕に装着されているものと同じものだ。「これ、なんだか分かるか?」「インベントリ……」 鹿間さんは俺の返答にニヤリと笑う。「ハハ、そうだな。ま通称だけど。正式名称は……あー、ボクも覚えてないや。まあそれはいいとして……こいつは明日からの七日間、今日を含めるなら八日間君のものだ。あぁもちろん、正式にクリーナーになればずっと君のものになるよ」「こ、これが……本物の……」 絶対高価なものだろうに、鹿間さんは無造作に俺に手渡す。見た目よりだいぶ軽量で、そのせいで逆に取り落としそうになってしまった。「そう、それが本物のインベントリ。ダンジョンの空間歪曲・拡張現象を応用してのいわば四次元バッグだ。まだ謎の多い技術が使われてるから一般には出回ってない。クリーナーにだけ支給されるものだ」「こういう場面で持ち帰って売っちゃう人とかいないんですか?」「ハハハ、面白いこと聞くな。実はな……ウチじゃないんだが一回そんな感じのことが起きたみたいでな、それ以来この場で装着してもらうことになってる。一回装着したらこっちでしか外せないからな。あ、だから……どこに着けるかはよく考えろよ? どのくらいの直径まで対応してるか気になるとか言って頭にはめたらそのまま外せなくなったやつとかいるからな」「えぇ……」「……ちなみにそいつはウチで起きた話だ。しかも現役。流石にいったん外そうかって話になったんだが、案外気に入ったみたいでそのままだ」「えぇ…………」 とりあえずここで装着するようになっているみたいだから、無難に利き腕の右腕にはめる。接続部をロックしてからしばらくすると自動で輪が収縮し、ぴったりのサイズになった。その仕組みも含めて、謎の多い装置だ。「っていうか、やっぱり鹿間さんもクリーナーだったんですね」「ん? ああ……そうだな。ダンジョンについての説明をせにゃならんのだから、よく知ってる当事者に任せるのが適任だろう? 因みに、ボクもこう見えてC級ね」「こう見えてって……鹿間さん見た目からしてだいぶ強そうですよ……」「ハハハハ、まぁな。けど結局は筋肉つけてもダンジョンでの強さはスキルやステー
ビルの隙間を生暖かい風が吹き抜ける。相対するのは真っ黒な体表をしたトカゲのような魔物。唾液まみれの白い牙は、鋭く凶悪な形に湾曲している。肉を切り裂く形の牙だ。 その顔つきも残忍そのもので、黄色く濁った小さな瞳にはその攻撃性がありありと浮かんでいる。やや骨ばったやせた体格に、細長い尾。喉元には吐く炎と同じ青白い光が宿っていた。 剣を構えて、モンスターの出方を窺う。A級ダンジョンではありふれた敵なのかもしれないが、俺からすれば見たこともない未知の敵だ。ただ最初の噛みつきを何とかしのいでしまっているせいか、七日目のボスモンスターほどの絶望感もない。あれより格上の敵とまみえているはずなのに、不思議な感覚だ。 魔物自身もさっきの一撃が対処されたことで見方を変えたのか、むやみやたらに突撃してくるのでなく、俺から視線を外さないままゆっくりと歩いていた。「……」「……」 先ほどまで俺の身を案じて騒がしかったクリーナーたちも、今では事態を静観している。ただあの一撃を耐え抜けるタフさと俺の慣れてなさに乖離を感じているのか、いまいち疑心暗鬼なまなざしだ。 勝てないつもりで顔を出した戦いなのに、勝機が顔をのぞかせてきて心が混乱する。俺はここまで来て何をやってるんだ。何がしたいんだ。いったいここからどうしろというのか。けれども、もうどこか遠くに行ってしまったように感じていたあの七日間が。夏山さんたちと過ごした特別な日々が、俺の中で小さな芽をのぞかせていた。 この期に及んで、やっと心が追いついたのかもしれない。あれ以来ずっと口にするのを忌避していた名をつぶやく。「夏山さん……」 それは驚くほどするりと俺の口から出てきた。胸中に浮かび上がる、夏山さんの顔、声……。全部奪われてしまったかのように思っていたけれど、ちゃんとあの日々は俺の中に残っていた。 剣を握る手に力を籠める。本当はただの偶然なのかもしれない。けど、人間は偶然にだって意味を見出す。 正体の分からない剣。お前がどうしてか俺のインベントリに入っていて、そして今日偶然それに気づいた俺がいた。 膠着状態のにらみ合いを、こちらの手で終わらせる。相手の出方を窺ってなんて、そんなに俺は賢くない。ずっとそう、俺は生涯を通して賢く戦えてきたことなどない。ただ愚直に、ストレート
体はもうどこも悪くないのに、俺の入院状態はもう少し続くことになった。鹿間さんはいつまでいてもかまわないと言ったが、流石にそういつまでも居座るべきじゃないと思った。「優くん......」 今日も今日とて様子を見に来てくれている姉さんだったが、俺はそれに構ってやることができなかった。姉さんも今回ばかりはかける言葉が見つからないようで、静かにパイプ椅子に座っている。 ここで流れる規則正しい時間は、体の調子にはだいぶ役立っているようだが俺をもとに戻れるようにはしてくれなかった。俺の中に、いったい何が残っただろう?あの7日間は何だったのだろう。 何かが始まると思って動き出したのに、経験したのは大きな喪失だった。俺に何が残ったのだろうと言ったが、自分自身の命がこうしてきれいな形で残ってしまっていることが恨めしくすらあった。 何をするでもなく、クリーナーを志す以前のように日々を無為に過ごす。あの時は確かにあった前途に対する希望が、俺が歩いていくであろう道に満ちる光が、今では幻のようだった。 意識は散逸し、俺の中で時間が連続しなくなる。気づいたら夜になり、また気づいたら日が上っており......そんな日々がどれほど続いただろうか。 すっかり表情の消えた俺の顔を鏡で見る。誰だこいつ、と思った。◇◇◇ ある日の晩、俺は眠っていた。まるで胎児みたいに、身じろぎ一つせず。大気のにおいや温度は、すっかり夏のものに変わっていた。「なんだ......?」 外がやや騒がしいので、目を覚ます。元より車通りの多い場所ではあるが、それにしたって異様に騒がしかった。 ベッドから降り、窓に駆け寄る。すると、科学的なものとは異なる......都市の中では異質な光が見えた。「近くで......侵食が発生したのか......」 侵食。ダンジョンが一定の水準に成長した時に起きる、実体化現象。もともとダンジョンに実体がないというわけではないが、どことも結びつかない不安定な空間にダンジョンは存在している。それが、俺らの日常に唐突に現れるのだ。 町明かりの中に紛れ込む、青白い炎。どこからやってきたのかは分からないが、ちょうどここから見る位置に魔物が現れているのが見えた。中型の......研修中には出会うことのなかった、おそらく中級のモンスター。D級あた
病室の扉を開けて、こちら側を覗き込むのは俺の予想通り鹿間さんだった。体を起こしている俺を見るや否や、ものすごい形相でどこかへ走って行ってしまった。「あ、あれ……」 鹿間さんの手によって開かれていた扉が、支えを失ってゆっくり閉じる。せっかく人が来たと思ったのに、なんだか少し残念な気持ちだった。 意気消沈しているのもつかの間、すぐに騒がしい足音がやってくる。病院……ではないのか、にもかかわらず絶対に走っている足音だった。 そのパワフルさで、すぐに誰だか悟る。そして、その人物は扉が勢いよく開け放たれるのとほぼ同時にこちらに飛び込んできた。「ゆ・う・くーーーーーーーん!!!!!!!!!!!!!」「痛たたたた……! 痛いよ、姉さん……」「あ、ごめんね……傷、痛むよね……」「いや、傷は無いけど……傷云々の前に普通に痛いってば……」 俺がそういうのを聞かずに、姉さんは俺の体に腕を回しきつく抱き着いてくる。この様子を見るに、かなり心配をかけてしまったみたいだ。「だって! お姉ちゃん、ずっと心配してたんだよ!? 鹿間さんが傷も無いはずなのになぜか目覚めないって……」「傷が無いこと自体は知ってたんじゃん……」 しかし、それだとどうも引っかかる。鹿間さんが傷が治った、ではなく傷が無いと言っていたわけだ。姉さんはこんなだけれど、そういう言葉の微妙な違いを取りこぼす人ではないし、となるとほんとに鹿間さんが俺の姿を見たときには傷が無かったということになってくる。まさか町中に辻ヒーラーがいるわけでもあるまい。そもそもダンジョン外では基本的にスキルは使用禁止なわけだし……。 すこし疑問は残る形になりながらも、とにかく俺が助かったということだけは確からしいことが分かった。その後もしばらく姉さんと話していたが、真剣な表情をした鹿間さんが再び訪れたため姉さんは席を外してもらうことになった。 姉さんを見送ると、鹿間さんは自分でパイプ椅子を用意してそれに腰を落とす。そして俺の方を見つめて、ポツリと語り始めた。「あー、はは……久しぶり、だな……。調子はどうだ?」「はい、おかげさまで……すっかりぴんぴんしてますよ」「ん、ああ……そうか……」「……? なんか……どうしたんですか?」 多少会うのが久しぶりとはいえ、流石に少し様子がおかしい。ひどく話し
キーンと、耳鳴りが響く。貧血になったみたいに、すっと意識が遠のく。そして一瞬で足先まで冷えていった。 あふれた“俺の”血液が、床を打つ。跳ねる。その音が、いやになるほど鮮明に聞こえる。「あれ、なんで……」 心がしびれたようで、体もしびれたようで、世界の輪郭があやふやになる。しかし、誰かの声が俺を現実まで引き戻した。「なんで……なんでこんなことしたんですか!! 堀越さんもそう……今どき自己犠牲なんて流行らないですよ!!」 夏山さんの声だ。すごく、安心する。それと同時に涙があふれてくる。「よか、った……」「なんにも、何にもよくないですよ! 水瀬くん……どうして……」「どうして、って……夏山さんが最終防衛ラインだから……。夏山さんがやられたら、みんなやられちゃう……。俺、間違ってないと思うな」「そんなこと……!! そんなこと言ってるんじゃ……!!」 体に力が入らなくなって、ひざから崩れ落ちる。ダメだ、ミミズクとかみたいにしぶとくない。それもそのはず、俺はスキル無しの……一般人だ。でも、ちゃんと人間だ。クズじゃない、これは人間の死に方だ。「ああ、でも姉さん……怒るな……。姉さんには……」 悲しい顔をしてほしくない。やっぱり、やだな。 死にたくない。痛てぇし、しんどいし、こんな風に終わってくのか。俺、みんなを助けられたのかな……。 どこかで、やっぱり何かを間違えちゃったのかな……。それとも初めからこういう運命だったのか……。もしそうだとしても、諦めたくないし……諦められないよ。 ああ……。俺がこんなに弱くなければ……。もっと強ければ……。 あんな蛇男より、皐月よりずっと強い力……。こんな理不尽も一撃で退けられるような力……。そんなものが俺にあったらよかったのに。 死の、足音が近づいてくる。終わりの瞬間を知覚する。もう五感の絶えた世界で、俺を燃やし尽くそうとする漆黒の炎が燃え上がっていた。逃れられない、生命の終わり。死の理。◇◇◇ オレンジ色の明かりが、にぎわう店内を照らす。大衆酒場で俺を含めた10人がやかましく騒いでいた。 食べ物の味もよく分からなくなるくらい酔っぱらって、それを隣に座る女の人にあきれられて……。頭がふわふわするけれど、そういうのがたまらなく嬉しかった。 けれども
「レベル、52……!? そんなの、何かの間違いだよな……? 夏山さん……。だって、10レべと19レべの奴が合体して……それで50なんて……計算合わないじゃんか!! そんな……」 そんな無茶苦茶なことがあっていいのか?俺たちは勝って、乗り越えて、そうやって自分の生活に戻っていく。それでよかったじゃないか。なのに、それを許さないのか?俺たちは神に見放されたとでもいうのか? 何から何までひっくり返る。全部が台無しになる。台無しにされる。この運命から逃れられるすべなどないというのか。「ちく、しょう……」 ミミズクが手のひらを力強く握りしめる。そして俯きながら小さな声でそう吐き捨てた。「ちくしょう、ちくしょう……。やっと軌道に乗って来たのに、みんなであがいてあがいて、強くなって、やっとみんな笑うようになったのに……」「りぃだぁ……」 ミミズクはきつく唇を結んで、肩を震わせる。そして静かに涙を流した。「いいさ、どうせ死ぬつもりだった身だ。なんだっていい」「え、死ぬつもりだったって……どういう?」 ミミズクの口から飛び出した言葉に思わず驚く。その疑問に答えるのはキツツキだった。「もともとこのパーティ、最初は一緒に死のうっていうので集まったんだよね」 キツツキの言葉に、さらにヤマガラが続いた。「でもさ、なんか一緒に居たら楽しくなっちゃって……死にたくないなって、思ったんだ。みんなね」 ミミズクが、袖で涙をぬぐう。そして、覚悟を決めた目でこう言った。「だから、みんなは死なせない。……お前たちに会えて、ほんとに楽しくって……ありがとうな」「ちょっとりぃだぁ、何言って……」 ミミズクの言い回しに不穏なものを感じたのか、キツツキが眉を顰める。キツツキの不安そうな言葉を背に受けて、ミミズクは前に踏み出した。「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……!!」 せっかくぬぐった涙がまたあふれ出す。そして……。「ちくしょぉぉぉぉぉぉ……っっっ!!!!」 あろうことかモンスターの方へ走り出した。「ちょっとりぃだぁ……!!」 ミミズクの方に走り出しそうになるキツツキの首根っこを、スズメとハチドリが押さえる。ヤマガラは黙って顔を伏せた。 ミミズクはモンスターの前で盾を地面にたたきつけて立ちふさがる。そして決して振り返らずに、仲間
不本意な戦いではあったが、こうして勝利を収めるとじわじわと達成感が沸き上がってくる。今日は何一つ思い通りに事が運ばなかったが、それでもイレギュラーな出会いもあり、全くのダメダメな日というわけではなかっただろう。 蛇男の方も、炎霊をたったの一人ですでに撃破している。嫌な奴だし、絶対に許せないが、それでも等級に見合った実力はやはり有しているのであった。 ボス部屋の床は今や形を失ったボスの液体で水浸しである。ところどころから顔を出していた結晶の光も徐々に弱まっていく。だんだんと暗くなっていく部屋の中で、蛇男は短剣を持ってボスの亡骸……形の残った上半身の部分へ駆け寄っていた。「本当にあいつは……」 ミミズクはその様を忌々しそうに見つめる。ミミズクたちは攻略ということでダンジョンに潜っていたので、当然報酬は山分けするつもりだったのだろうが……蛇男にそのつもりはかけらもなさそうだ。彼らからしたら大損以外の何物でもない。 蛇男は周りの目など気にせずに、当然の権利のように死体に刃を突きこむ。ところが……。「ん? 妙だな? 死ねばあらゆる抵抗が消失して簡単に刃が入るはずなんだが……」 何かがうまくいかないようで、角度を変えては短剣を差し込もうとする。しかし、その刃が死体を切り開くことはないようだった。 このボスの上半身はまるで彫像のような質感で、パッと見では剣が通用しそうもない。もしかしたらそういう奴なのかもしれない。はなからこのダンジョン自体例外的なものだったわけだし、そのせいで報酬無しだってことならいい気味だ。「チッ……クソ! なんだよ! 期待させやがってよ! 碌なもんねぇじゃねぇか!!」 蛇男が八つ当たりでボスの死体を蹴り飛ばす。けれども自分のつま先を痛めただけのようだった。 もうほとんど何も見えないくらいにダンジョンが暗くなっていく。もう少しでこの空間が消失するのだろう。そしたら姉さんのいる家に帰って、チャットで食事会の日程決めて、そっからはどうしよう。クリーナーにはなれなかったのに、気持ちは前向きだった。「……」 目を閉じて、無言で元の世界に戻されるのを待つ。途中ボクッという鈍い音が響くが、蛇男が学習しないでまたボスの死体に八つ当たりしたのだろう。そう、思っていた。しかし、続く声が現実はそうではないと告げる。
出口のゲートがあった場所から数分歩いたところ……そこにボス部屋の扉があった。ただダンジョンの状態が異常なのもあって、その扉もとても正常とはいいがたい状況だ。 燃え盛る炎のようなオレンジの扉、澄み切った氷塊のような青白い扉……それらが同じ場所に重なって存在していた。「どうだ? おもしれーだろ」 通常の物理法則では決してあり得ない状態。互いの扉が互いにめり込み、それこそゲームでいうバグのようなあからさまに不自然な状態だった。当然、面白くもなんともない。これからこの扉の先へ踏み込まなければならないのだから。 ボス部屋の前にやってきて、ミミズクはやっと解放される。ずっと蛇男に腕を絡められていた首は、やや赤くなっていた。「だいじょーぶ? りぃだぁ……」「すまない……」「もう、そればっかじゃん」 ミミズクは喉をさすりながら自分のパーティメンバーのところへと戻っていく。しかしここまで来てしまえば、もう逃げだすことなどできやしないのだった。 合図もなしに蛇男の手でボス部屋の扉が開かれていく。不自然な状態の扉はしかし、干渉するようなこともなくスムーズに開く。その扉の開かれた先には濃密な闇が広がっていた。 来訪者を受け入れてか、ボス部屋に二色の光が灯りだす。その光は徐々に増え、輝きを増し、ついにはボス部屋の中央にいる二体のモンスターを照らし出した。 その姿を捉えた夏山さんがつぶやく。「烈火の炎霊……レベル19……。晶氷の霜霊……レベル10……」 そこに居たのは、まるで泳ぐように宙を舞う二対のモンスターだった。上半身は人の女性に似た姿をしているが、腰から下は魚のもの。いわば人魚、全体的なシルエットでいえばクリオネのようにも見えた。 細い首からつながる頭部はまるで巨大な貝のようで、その二枚の殻の中心には真珠のようなものが挟まれていた。魚の部分は半透明の流体で構成されており、それぞれオレンジ色と水色をしている。 二体はお互いの後を追うようにくるくる泳ぎ、そして体を絡ませるようにして俺たちのいる高さまで下りてきた。「へっ、レベル19と10か……まぁ楽勝だな……。俺は高レベルの方を倒す。お前らは全員でもう片方を抑え込んでな」 作戦……というより、あくまで自分が動きやすいようにするためにそれだけ言い残して蛇男は炎霊の方へ向かっていく。
その後もいくつかのことを話し合って、結局まずは出口を見つけようという結論に落ち着いた。ミミズク曰く「なんとしても今日来てるC級クリーナーより先に出口を見つけなければならない」ということだった。「もし彼が先に出口を発見していた場合、最悪の事態に陥る可能性がある」とも言っていた。その最悪の事態が何を指すのかは現状分からない。 即席のブランクカードとE級D級混成パーティで、奇妙なダンジョンを探索する。異常事態が重なった結果、本当になんだかとんでもないことになってしまった。 洞窟内の環境は相変わらずめちゃくちゃで、でたらめな気温変化は体にもよくない。じわじわと体力が奪われていくのを感じた。モンスターも、D級ダンジョンに居た方の魔物はまだまばらながら残っており、未だE級未満である俺たちにはそこそこ厳しい戦いになった。ただ、こうして戦うことができたのはまぁ心残りとか、そういう意味ではよかったと思う。 それからどれほど経ったか、今までで一番長いダンジョン滞在の終わりが見えてくる。俺にとっては、最後の瞬間になるわけだ。曲がりくねった道の先に、出口のゲートの青白い光が……。「よぉ、お前ら。遅かったじゃねーかよ」「……!!」 神経を逆なでするような、あいつの声が俺たちを出迎える。やっとの思いでたどり着いたゲートの手前、蛇男が俺たちの来訪を待っていた。「ん? てかあれ? 誰だよそいつら」 蛇男の視線がぎろりとミミズクたちに向く。そして何かを言おうとするミミズクたちを遮った。「まぁいい。俺だって馬鹿じゃねぇからな。別の攻略隊がいるんなら……ま、さっきのはそういうこったな」 ただの勘か、それともやはりダンジョンに慣れているのか、すぐに事態の本質に目星を付ける。そうしてニッと口端を吊り上げた。「ていうことは、だ。このダンジョンには、ボスが二体いる……。おい、お前ら……等級は?」 ミミズクの想定していた最悪の事態。やっとその意味を理解する。俺たちは、この男のわがままに付き合わされるかもしれないということだ。「僕らは……E級とD級の混成パーティだ。だが……お前が何を考えているのかは大体わかる。僕たちは、協力しないよ。帰って、協会に報告する」 蛇男がミミズクをにらみつける。そして頭を横に振って、あきれ顔でため息を吐いた。「かー、わかって
それから数秒、程なくして揺れは収まった。まだ砂嵐の中にいるかのように視界は晴れないが、地鳴りも収まったようだしとりあえずは異変の終息とみていいだろう。本当に、最終日だというのに不幸が重なってばかりだ。いや、最終日だからなのか? 肩の塵を払い、ゆっくりと立ち上がる。「みんな、大丈夫か?」 そして今度こそ、今度こそ答えてもらうつんりでみんなに尋ねた。「なんとか……大丈夫です……」「……口のなかがじゃりじゃりする……」「結局、なんだったんでしょうね?」「ていうか……あっつ」 直接口で大丈夫と言ってくれたのは夏山さんだけだったが、みんな無事という認識で間違いなさそうだ。 やがて視界もクリアになっていき、みんな互いの汚れまみれの顔を認識できるようになった。誰一人欠けていないので、ひとまずそこは安心だ。だがしかし、それとは別に事態は混迷を極める。「で、なんなんだよこれ……。どうなってんだよ……」 洞窟の崩落……だと思っていたのだが、どうもそれとはわけが違そうだ。「道が……増えてる……?」「それにオレンジ色の鉱石が……。こんなのさっきまでなかったよな?」 崩れたという表現ではやや不適切。明らかにダンジョンの構造が変化していた。そしてその性質も。 氷のような結晶、炎のような結晶、その二つが入り交じる。かといって熱いと寒いでちょうどいいかと言えばそれはまた別の話で、ダンジョン内部の気温は無茶苦茶だ。暑いところは暑いし、寒いところは寒い。 ただでさえ複雑な構造に悩まされていたというのに、道が増えたとあってはいよいよどうしたものか分からない。正直、これからあの蛇男に追いつくのは絶望的な気がした。 ただ、蛇男は蛇男でこの状況にどう対処しているのだろう?あいつにとってもこれは想定外だったろうし、やたらむやみに行動しているとも思えない。「これから、どう……します?」「うーん……」 夏山さんの言葉に剛史くんが頭を悩ませる。そして剛史くんが出した結論は、皐月の教えを守った基本的なものだった。「とりあえず、出口を探そう。状況が状況だから、いったん脱出することも考えといた方がいいと思う。ただ、その……その場合、この研修の七日目がどういう風に処理されるのかは分からないけど……」「……」 未覚醒者が大半を占めるこのチーム。もしこれ