52 「関係者に謝罪したって言ってたけども本丸のその花さんって人にも ちゃんと謝罪したの?」 「それが、会えなかったんです。 会わせてもらえなかったというほうが正しいかも。 ちらっと精神を病んだと聞いてるので今更私のことなんて 耳に入れたくなかったのかも。 私ってほんとに最低なことをしてるんです。 でも周囲から幾ら非難されても以前は分からなかったの、 分かってなかった。 花さんが実際夢の中で私が感じたような苦しみと悲しみを 体験していたとしたら、私は花さんの心を殺したも同然なんですよね。 夢を見た日は本当に死にたくなる。 私、夢を見るようになってよく分かったんです。 私はもう幸せなんて求めてはいけないって。 何かが私のことをずっと追いかけてきてどんな小さな幸せの芽も 開きそうになると摘み取っていくの」 「君さぁ、これから毎日心の中でもいいし声に出してもいいけど、 その酷いことをして苦しめた花さん、そしてある意味無実なのに 君のせいで有罪にされた匠吾さんだったか、そのふたりに謝ったほうがいいよ。『意地悪と嫉妬であなたたちに酷いことをした私を、充分反省しているので お許し下さい』ってね。 もうそんなことになってるのなら、そういうのしか方法はないと思うね。 夢を見なくなるまで心から謝るんだよ。 そして神仏にも祈り、助けてもらうほかないだろ。 そして時間が過ぎていくのをじっと待つしかないな。 できればこの先もこの島を出ない方がいい。 あの日あの海浜公園でぷっつりと君の痕跡は途絶えたことになってる。 だけどほとぼりが冷めて自宅に帰ったりすればすぐに見つかってしまうだろう。 結婚もしない方がいいだろうな。 そうすれば今あるささやかな暮らしは続けられるかもしれん」 「そうですね。 私、これから毎日心の中でふたりに謝罪しながら生きていきます」
53 俺のアドバイスを守り、朝な夕なに謝るべき人たちに謝罪をし、神仏にも すがっている玲子の様子が伺えた。 仕事も真面目に続いてる。 俺は玲子から悪夢の話を聞いた日にいろいろアドバイスしたのだが その時にこんなことも彼女に提案してあった。 石の上にも3年という諺があるように修行と思い3年間は我慢をして、 この先3年は独りで慎ましく暮らすこと。 元々今回のことは色恋を拗《こじ》らせた結果だからね、と。一度彼女が悪夢でうなされて起きた時、ちょうどまだ俺が仕事で起きていたのだ が何気に『怖い』と言って俺の側近くにすり寄って来たことがあった。 つくづく彼女は魔性の女だと思ったね。 出会いがこんな形でなければ俺もあの場面で据え膳を食わずにいられたかどうか、はっきり言って自信がない。 もうアラサーの域にかかっている女だがまだまだ十二分に美しさを 保っているからね。 彼女は残りの2年と数か月を果たして大人しく地味に 淡々とやり過ごしていけるのだろうか。 杞憂に終わればと思っていたのだが……。 ◇ ◇ ◇ ◇ 平日の昼下がりに初めて見る顔の来客があった。「井出ですが何か……」 「初めまして、内野と申します。 井出さんは島本さんの身元引受人ということになってらっしゃるので 彼女のことでご相談に上がりました。 どこかでお話を聞いていただけましたらと思います。 あの……突然のことで申し訳ありません」 彼女は玲子が通っている特別養護老人ホームに勤める看護職員であると 自己紹介してきた。 心を落ち着かせ、宥め、私に話をしようとしている姿が痛々しかった。 彼女の様子から俺は何やら胸騒ぎを覚えた。
54「持って回った言い方で丁寧に言葉を選んでいるとなかなか言いたい本音に辿り着かないので失礼を承知ではっきりと申し上げたいと思います」と始まり、動揺を隠して何とか平静を保ち話をしてくれた内容は次のようなことだった。 特別養護老人ホーム(鶴林園)という同じ職場で働く医師の宅麻士稀《たくましき》は婚約こそしていないが結婚の約束もしていた自分の恋人である。 その彼が自分に内緒で島本玲子と2度ほど飲みに行っていた。 彼は自分には内緒にしてるから、おそらく『恋人には秘密でね』と暗黙の了解の元、玲子と会っていたのではないかと推測される。 だが職場の手洗い場で一緒になった折に、玲子から宅麻と飲みデートに行ったと仄めかされ、内野はその事実を知ることになったという。 玲子と恋人の宅麻がいつの間にそんな仲になっていたのか、それだけでも驚きなのに玲子はその後追い打ちをかけるような発言をしたのだという。 内野さんから宅麻氏を奪ってみせると自信満々に告げたらしい。 そのようなことを聞かされた内野さんは、ものすごく不安で胸が押し潰されそうだと私に吐露した。「こんなに不安になるのは、私、たぶん島本さんに勝てる自信がないからなんだと思います。 恋愛は自由ですし宅麻くんが私より島本さんの方がいいと言うのなら諦めないといけないことも分かってるんですけど、誰かに話を聞いてほしくて……。 その一心で島本さんの身上書を見てこちらに伺いました」「辛かったですね。 私はお話を伺うことだけしかできませんが、その恋人宅麻さんでしたっけ? 彼とは話し合いましたか?」「はい。 飲みのデートに行ったことは認めましたし、誘われればまた次も行くかもしれないと言われてしまいました」「今は年上のきれいな女性に言い寄られて舞い上がっているのでしょう。 内野さん、あなたはまだ若い。 看護師さんなら働ける職場はたくさんあるでしょ。 そんな冷たい恋人はあなたの方から振っておやりなさい。 あなたのようにやさしくて素敵な女性にはこの先もっと良い縁がありますよ。 私が保証します」
55「そうですよね。 私、そうします。 あんな薄情な人とはお付き合い止めます。 私、今日、井出さんに会いに来て良かったです。 きっとこんなふうに背中を押してくれる人を探していたんだと思います。 ありがとうございました」「前向きに考えられるようになってほんとに良かった。 玲子さんにはお灸をすえておきますからね」 若くて可愛らしい内野さんは少しの笑顔を取り戻して帰って行った。『島本玲子……やっぱりやりやがった』 これでお前の地獄行きが決定だ。 井出耕造48才、島暮らし。 ただし、ほんの1年前からの。 作られた島での俺の設定。 総帥からの依頼だった。 玲子がこの島で改心して暮らせば放流してやろうとのお考えだった。 反省もなく、異性トラブルを犯せば今度こそ直接総帥から厳しいお沙汰がくだされるだろう。 馬鹿な女だ。 あれほど真面目に暮らすよう忠告してやったというのに。 三つ子の魂百までとは昔の人はよく言ったものだな。 見た目と中身の釣り合いが取れていない残念な女だ。 どんな男をも虜にできるほど美しいのだから何もわざわざ人のモノに手を出さずとも言い寄って来る男はたくさんいるだろうに。 つくづく厄介な性《さが》を持って生まれ落ちたものだ。 一応この話が本当か井出は証拠取りをすることにした。 内野さんが有給を取って俺のところに来た日、その日の内に人を使っての裏取調査を依頼した。 内野さん自身がすでに恋人である宅麻から言質《げんち》を取っているようだし十中八九虚言ではないと思うが、間違いを犯さないための裏取は必須だ。 2日後、内野さんの話に虚偽はなかったことを立証する報告書が届いた。 これでこの先俺がどう動けばいいのかが決まった。 彼女《玲子》は最後のチャンスを失った。
56 調査報告書が届いた日の夕食時に俺は玲子をドライブに誘った。「仕事も3ヶ月過ぎて4ヶ月目に入るけど、どう? 慣れてきた? 続けられそう?」「はい、お陰様で。 これも井出さんのお蔭です。ありがとうございます」「夢の方はどう? あれから」「神仏に手を合わせるようになってからは見なくなりました。 良くないんでしょうけど、手を合わせるのを忘れることもあるくらいなんです」「へぇ~そりゃぁ良かった。 じゃあ体調も気分も良さそうなところで本州までドライブしますか、次の土曜日あたりにでも」「土曜はちょっと、約束があって……」「じゃあ日曜にしようか」「はい、喜んで。楽しみです。 あちらでないと買えない物もあるし、あちらで買い物してもいいでしょうか?」「いいよ、勿論」『そんな時間があれば、だがな』 玲子は余りに順調な日々に浮かれていた。 自分の魅力に嵌り恋人になりそうな相手は年下のイケメン医師。 宅麻には看護師のガールフレンドがいるようだが、見たところ若いだけが取り柄の色気も何もない平凡な子だった。 そして自分の色気に唯一靡《なび》かなかった井出までもがドライブを誘ってきた。 またまたのモテ期を喜ぶ玲子だった。 土曜は宅麻医師とのデート、そして日曜は48才と若干おじさんではあるが、そこそこ色気もあって理知的で物腰の柔らかな井出にも一緒に暮らし始めてから好意を抱いていた玲子は一緒に長時間密室で過ごせるドライブを楽しみにしていた。 ◇ ◇ ◇ ◇「玲子ちゃん、今日は走行中後部座席でゆっくり休めばいいよ。 そうしたら体力温存できて現地着いてから楽だよ」「ありがとうございます。 じゃあお言葉に甘えてそうさせていただきます」 少し前、多少の身の危険を感じて本州から島へ渡った時は井出さんの隣助手席に座りフェリーで海を渡った。 まだ3ヶ月ほど前のことなのに何だか随分昔のことのように思える。 それにしても……今日の井出さんはいつもと空気感が違うなって思ってたら、ヘアースタイルも何気にモデルのようにバッチリ整えられてるし、スーツにネクタイ、腕時計と、どれも一流品に見える。 ただのドライブなのに。 ドライブがてら仕事も挟んでたりするのだろうか。 それともどこかに花束なんか隠してて高級レス
57「それと走行中、業務関係の人と遣り取りするかもしれないけど気にしないで寝てていいよ」 そう言う井出さんは見るとハンズフリーのイヤホンを耳に装着していた。 なんかめちゃくちゃデキるボディガードみたい。 そんなことを考えながらスムーズな走行に私はうつらうつらしていた。 井出さんが誰かと遣り取りしているみたいで会話している彼の声が子守歌のように心地良かった。「玲子ちゃん……玲子ちゃん、着いたよ」「あぁ、ごめんなさい。つい寝てしまってたみたい」 私たちがいるのは広いけれど周囲は壁で囲まれていて地下の駐車場のようだった。 エレベーターに乗ると階数のボタンがたくさんあって、かなりの高層ビルだということが分かった。 どんな素敵なレストランなのだろうと私は井出さんが20階のボタンを押すのをドキドキしながら見ていた。 エレベーターを降りて左方へ歩いて行くと一面シースルーで外から中が見通せる会議室のような部屋が現れてびっくりした。私は先を歩く井出さんに声を掛けた。「あの、ここってどういう……」「今説明しなくても直ぐにここへ来た理由が分かるので取り敢えず部屋に入ったら私が案内する席に座って下さい。 そのあと会長から説明があると思うので」「会長って誰? どこの?」 もう説明はしてくれなさそうな井出さんの背中に向けて呟いた。 部屋の入口をくぐる前に、長楕円形の卓の向かって左右壁に沿って男の人が1人ずつ立っている中の様子が見えた。 そして入り口をくぐる時に、右手1mくらいのところに男性が1人立っているのに気がついた。 井出さんは私が座るべき席を案内してくれるとそのまま、入り口から左手1mくらいのところに立った。 他の人に気を取られて気付かなかったけれど座った私の正面向こう側には初老の男性が座っていた。 そしてその人が口を開いた。
58「ほう、あなたが島本玲子さんか、ようこそ、このオフィスへ。 ここへ来なくて済めばよかったのだが……まぁ、しようがないね」 何を言われているのか全く分からない私は、反射的に入り口付近に 立っているはずの井出さんの姿を探した。 私が振り向いても一度も見てくれず、今まであんなに親切にしてくれて 一緒に暮らしていた人なのに、何がどうなっているのか? 自分の見知っていた面影を彼のどこにも見つけられず、 私はますます混乱した。 心細くなって彼の名前を呼んだ。「井出さん、井出さん、どうしてこんなところに私を連れて来たの」 井出さんは前を見たまま私の方を見ることはなかった。 彼の代わりに目の前の初老の男性が口を開いた。 「彼は私のボディガードでね、今は勤務中だからあなたとの私語は 許されてないんですよ、島本さん」 「でも離島まで連れて行ってくれて一緒に暮らしてたんですよ、私たち」 「それも私が頼んだ仕事だからですよ。 だからここへもあなたを連れて来た。 井出はやさしい奴ですよ。 筋書きにはなかったのに3年大人しく島で暮らしていれば、どうにかなる……というようにあなたにそれとなくアドバイスしてましたからね」「どうしてそれを」「知ってるかって? あの家は盗聴されてたからね」「あなたの指示で?」「そうですよ」「じゃあ井出さんは……」 「知ってたか、知らなかったか、私には分かりません。 ただ私からは盗聴器をしかけるとは一言も話してませんがね」 「私を逃がしてくれたのにどうしてまた私はここに 連れて来られたのでしょう?」
59 「あれほど偶然とは思えない不運が次々と自分の身に起こり反省するのかと思いきや、よほどオツムが緩いようで同じことを繰り返すからですよ。 島本さん、私は花の祖父の向阪茂という者だ。 あなた、いや、お前のせいで孫がふたり不幸になった。 まだ覚えてるかな。 いろいろ調べているうちにすごいことが分かった。 お前は実の姉の恋人も10年ほど前に寝取ってるじゃないか。 次が花と匠吾の仲を引き裂き、島へは渡って3ヶ月しか経っていないというのに、看護師から恋人を奪っただろ。 人の大切なモノを奪っても法に触れなければいいのか? 法がお前を許しても私がお前を許しはしないよ。 本州から島へ逃亡した時、お前には真面目に暮らしていればこの先の制裁は許そうと思ってたがそうもいかなくなった。 そうそう、島の家では何気に井出にまですり寄ってたの聞いたよ」「プライバシーの侵害よ」「よく聞きなさい。ふたつにひとつだ。 山奥の温泉街でその自慢の身体を使って働くか、山奥の寺に入って剃髪して仏門に帰依するか、選びなさい」「どちらもお断り」 玲子は急いで入り口に向かって逃げようとした。 だがすぐ入り口の近くにいた井出ともう一人の男に捕まり椅子へと戻された。「じゃあ神戸湾の奥深く沈んでみるかい。 これ以上お前のせいで不幸な人間が出ないようにしないといかん」 玲子はこれ以上逆らうと本当に海に沈められるかと恐怖に震えるのだった。 ◇ ◇ ◇ ◇ その日を境に数年後、山奥できれいなお坊さんを見たという人あり、また山奥にある温泉街に行くとめっぽうきれいで男好きする女がいると聞いたりするそうな。 その後両親の暮らす家には玲子直筆の手紙が届いた。 そこには『離島で暮らすことにしたので探さないでください。 警察にも届けを出さないように』と書かれてあったそうな。
93 花が新しく入社した三居建設(株)には、日中、未就学の子供の預け先がなくて困る社員たちのための企業内保育所というものがある。 **** 入社して少し落ち着いた頃、上司の指示で派遣社員の遠野さんに案内されることになった。 彼女の説明によると12名の乳幼児が預けられていて保育士が2名、補助のパートが1名……併せて3名で保育しているという。 私たちが部屋を覗いた時、1才~4才児がそれぞれ思い思いに遊んでいるところだった。 遠野さんから説明を受けていると私たちに気付いた40代とおぼしき保育士の芦田佳菜《あしだかな》女子ともう少し年下に見える綾川結衣《あやかわゆい》さんとが、私たちの方へと挨拶にきてくれた。 2人ともざっくばらんで話しやすく初対面だというのにぜんぜん気を張らなくて済み、私は自分のその時思ったことを構えることなく口にした。「時々、子供たちに会いにきてもいいでしょうか?」 今まで身近に小さな子はいなかったし、匠吾との結婚を考えていた頃も子供のことなんて何にも考えたことなどなかったというのに。ただ身近で小さな子たちを見ていて、心が癒されそんな気になったのだと思う。「ふふっ、掛居さんも、なんなら遠野さんも遊びにきてね。 子供たちも喜ぶと思うわ」 そう芦田さんから声が掛かると、側にいた綾川さんもそれから少し離れたところから私たちの会話に入ってきたパートの松下サクラさんも「いつでもきてくださいね」と言ってくれた。 自分たちのフロアーへの戻り道、遠野さんがこそっと教えてくれた。「えっと、松下さんは既婚者で正社員のおふたりは独身なのよ」「独身でも、ずっと可愛い子たちといられるなんて素敵なお仕事よね~」「あらっあらっ、もしかして掛居さん、保育所に異動したかったりして……」「うん、次の異動先の候補に入れるわ」「掛居さん、その頃私がまだ独身で、無名の小説家で時間に余裕があればご一緒させてください」「いいわよぉー。 遠野さんと一緒かぁ~、何だか楽しそう。ふふっ」
92 この時魚谷はちゃっかりと派遣会社の担当者にその男性社員の プロフィールみたいなものを聞き出していた。 聞けたのは氏名と正社員ということ、そして独身だということくらい だったのだが。 知りたいことのふたつが入っていたのでその場で 『行きます、お受けします』 と答えたという経緯があった。 そう、当時結婚を焦っていた魚谷は相馬付きになった当初から 彼をターゲットに絞っていたのだ。 過去の不運のこともあり、余裕のない魚谷は相馬の 『自分にはトラウマがあって一生誰とも結婚しない生き方に決めている』 と言う言葉も馬耳東風、異性の気持ちを虜にするのは今まで簡単なこと だった魚谷にしてみれば、自分のほうから積極的にいけば、そんな普通では 信じられないような考えを変えることなど、いとも簡単なことだと 気にも留めていなかった。 思った通り、自分がデートに誘えば相手にしてくれた。 好きだとは一度も言われていなかったが、当初あんなふうな言葉を 語った手前、そうそう自分に好きだなんて言えるわけもないだろうと、 そんなふうに自分勝手な解釈でいた。そのため、結婚の話も少しの勇気を 出すだけで話題に持ち出せた。 それなのに彼は 『魚谷さんの中でどうして僕たちが付き合ってるっていうことになってる のか分からないけど最初宣言していた通り僕は誰とも結婚しないから、その 提案は無理です』 とはっきりと自分に告げたのだ。 一瞬何を相馬が言っているのか分からなかった。 過去の男たちは皆、私の気を引くために必死だったのよ。 ふたりの男性《ひと》たちから切望されたことも1度だけじゃないのよ。 そんな私が結婚を考えてあげるって言ってるのに何、それ。 信じられない。 私は気がつくと彼を詰り倒し店を出ていた。 家に帰り冷静になると、自分のしてきたことが如何に恥ずかしいこと だったのかということに思い至り、病欠で一週間休み続け、そのまま病気を 理由に辞職した。
91 新卒で入行した銀行を恋愛のいざこざで辞め、次に就職した派遣先の大手ハウスメーカーにも迷惑を掛けた形(社員との自分有責での婚約破棄)で受付嬢を辞職していた魚谷が、たった3ヶ月で槇原に辞められて落ち込んでいた相馬と、三居建設(株)で同じ部署で働けるようになるなんて、当初の魚谷には考えられない僥倖だった。……というのも、流石に派遣先の社員を裏切ってからの婚約破棄という事情での辞職は4年余り真面目に勤めていたとはいえ、派遣先と派遣元からの態度には冷たいものがあった。 派遣会社から登録を抹消されることはなかったが、前職のような条件の良い大手の企業への紹介はないだろうと魚谷は覚悟を決めていた。 雨宮や柳井との一件でかなり落ち込んでしまい、働きに出る気力というモノが沸かなかったことと、案の定派遣先からの仕事の紹介もなかったことから家事手伝いの態で家に閉じこもるような生活を続けていた。 そんな生活を1年ほど続けていた時に、もう仕事の斡旋などしてくれることはないだろうと思っていた派遣会社から『中途半端な時期になるが即日にでも』とそこそこ大手の建設会社への仕事依頼が入ったのだった。 おそらく急なことで他に行ける人員がなく、自分にこの良い話が回ってきたのだろうと魚谷は考えた。 決め手は、仕事の内容だった。 内容といっても実質の仕事内容のほうではなく、部署的なものといったほうがいいのか。 男性社員の補佐をする仕事と聞いたからだ。
90 「それで?」 と相馬さんに続きを促しながら頭の片隅で相馬さんが醸し出す 不思議な雰囲気の理由が分かり私は少し興奮してしまった。 『結婚するつもりがない』という、これだったのかー、と。 謎が解けたスッキリ感。 続きはどうなったのか、野次馬根性が顔を出す。 ◇ ◇ ◇ ◇ 「『私たちのことですけど……』『……?』『お付き合いして正確にはまだ1年じゃあないですけど、毎日 職場で会ってるしどうですか? そろそろ婚約とか、結婚に向けて話を進めてもいいと思うんですけど』 って言われて僕は腰が抜けるほど吃驚してね。 付き合ってることになっているなんて、どこをどう考えれば僕たちが 付き合ってるーっ? てね」 「わぉ~、それは大変なことになったんですね」「店の中で泣いたり怒ったり、彼女の独壇場だった。 とにかくこれ以上何か言われても僕は結婚は無理なのではっきり言った。『魚谷さんの中でどうして僕たちが付き合ってるっていうことに なってるのか分からないけど最初宣言していた通り僕は誰とも結婚 しないから、その提案は無理です』 『相馬さんがそんな不誠実な人だったなんて、最低~』 そう言い残して彼女店から出て行って、翌々日人事から彼女が 辞めることを聞いたんだよね。 なんかね、今考えても狐につままれたような気分なんだよね」 「彼女に対して思わせ振りな態度、全くなかったのでしょうか」「ないよ、信じて掛居さん。 そうそう今言っとく。……ということで僕には結婚願望は微塵もないのでフレンドリーになれれば それはそれでうれしいけれど、それ以上でもそれ以下でも気持ちはないとい うか、上手くいえないけど今度こそ長くパートナーとして一緒に仕事を続け ていってもらいたいので話しとく」 「分かりました。 金輪際、掛居花はどんなことがあっても相馬綺世さんに結婚を迫ったり しないことをここに誓います。ご安心めされよ」「良かったよぉ~、掛居さん」 そういうふうに泣くほど喜ばれた私の心中はちょい微妙な風が 吹いたのだが、今までの相馬さんが遭遇した不可抗力な恋愛系事件簿のこと を思うと仕方ないなぁ~と思った。 「今度一緒に働けるのが掛居さんでほんと良かったわ」「相馬さん、私に惚れられたりしたらどうし
89「次に派遣されて来た|女性《ひと》は、|魚谷理生《うおたにりお》さんっていう人で約1年続いたけど、何て言えばいいのか……。 仕帰りにたまにお茶して帰るくらい打ち解けてきて、仕事もお願いすれば説明しなくてもあらかたスムースに作成してもらえるくらいになって上手くいってると思ってたんだけど、残念なことになってしまってね。 彼女が辞めてから何度も自分の中で何がいけなかったのだろうかと自問自答したけども『どうしようもなかった』としか……ね、思えなくて」「相馬さん、それって具体的には言いにくいことなんですか?」「これから一緒に働くことになった掛居さんにはちょっとね」「意味深に聞こえましたが……」「魚谷さんに、恋愛感情を持たれていたみたいなんだ。 最初に気付いた時に『自分にはトラウマがあって一生誰とも結婚しない生き方に決めている』って彼女にカミングアウトしてたんだけどねー。『結婚を押し付けたりしないのでたまにはデートしましょ』と言われ、まぁそれでうまく仕事が回っていくならいいかなと思い、たまに……と言っても魚谷さんが辞めるまでに3度出掛けたくらいかな。 あとはこうやってブースで息抜きに雑談したり彼女の相談に乗ったり、仕事帰りにお茶して帰ったり。 とにかく彼女が気持ちよく仕事ができればと付き合ったんだけど……」「上手くいってたのに、最後上手くいかなかったのはどんな理由だったのでしょうか」「あれは、仕事が落ち着いてきて定時上がりになった日のことだった。 帰りにお茶でもと誘われてカフェに入った時のこと。『私こちらに入社して1年経ちました』と彼女から言われ『ああ、もうそんなになるんだね。これからもよろしくお願いします』と返したんだ」
88「サイン? う~ンっとっと、そう言えば朝から熱でもあるのか顔を赤くしてた日が あった、かな。 ちょっとその日は変で僕とあまり視線を合わせてくれなくて。 それで僕の方もなんとなく槇原さんに声をかけづらくなってしまって、 そういうのもいけなかったかもしれないなぁ。 まぁ辞めたくらいだから、僕との仕事は息が詰まってしんどかったのかも しれないね」 「彼女、ちゃんと辞める理由があったみたいなので相馬さんとの仕事が 嫌だったわけではないんじゃないかと」 「そうだよね、変に勘ぐってもどちらにとってもよくないと思うから そういうことで、とは思うけどもね」 私は槇原さんがどういう女性《ひと》か知らないから断定はできない けれど、もしかしたら相馬さんと毎日近い距離での仕事だったから しんどくなったのかも、と思わなくもなかった。 片思いってしんどいものだから。 私も匠吾と両思いになって付き合うようになるまでは、ドキドキしたり 心配だったりでずっと不安だったもの。 相馬さんみたいな素敵な男性《ひと》からアプローチがあれば 私も彼におちるかもね、なぁ~んて。 だけど相馬さんからはまず異性に対する溢れだす特別な感情? みたいなものがぜんぜん出てない。 だから私もぜんぜんっ意識しないで仕事だけに集中できるんだけどね。 周囲の噂だけを鵜呑みにする限り、相馬さんが次々に派遣の女性と 何かあって彼女たちが辞めたのでは? みたいにとられている節があるけれども普段の仕事振りと今話してる 彼の様子から、そういうのじゃないっていうか、相馬さんは誰彼なしに 女性に手を出す人じゃないっていうことが分かる。
87「……といいますと」「……といいますとですね、私の前にいた2人の派遣社員の人たちはどちらも短期で辞めてしまったと聞いています。 相馬さんは私のこともいつ辞めるか分からないって思ってません?」「実は、疑心暗鬼……少し思ってた、思ってる?」「簡単に言いますと『頑張りまぁ~す』ということを言いたかったのです。 それでその疑心暗鬼になっている理由を知りたいということです。 よければどうして派遣の人たちが続けて短期間で辞めることになったのか。理由が分かれば、私はそうならないように気をつければいいと思いますし」「じゃあ、僕の分かりにくいかもしれない話を聞いて何か気付いたこととかあったら意見ください」「OKです」 これまであったことを話しますと言った相馬さんは顎を少し上げ、窓の外、視線を虚空《こくう》に向け口をへの字にして思案しはじめた。 彼の視線が私のほうへと戻り私の視線と絡まった時、被りを振り「思い当たることがないんだよねー」と言った。「入社した時の様子はどんなでしたか? その時からあわなさそうな雰囲気ありました? あわないっていうか馴染めないっていうか」「最初の印象はすごく良かったんだ。 頑張りますっていう勢いみたいなものを感じたね」「へぇ~、じゃあ仕事を任せていてずっとスムーズでしたか? それとも何か……」「掛居さんに訊かれて思い出したけど、そう言えばミスが続いたことがあったね」「相馬さん、相馬さんに限って叱責なんてされてませんよね~?」「気にしないようにって。 次から気をつけるようにとフォローしたけど、まぁ僕のフォローの仕方がまずかったのかもしれないなー。 真面目な人だからものすごく謝罪されて困ったよ」「その辺りから何かしら彼女がサイン出してなかったでしょうか?」
86◇花と相馬コンビ 花が相馬の仕事を補佐するという業務に付いてから3週間が経とうとしていた。 当面の仕事として書類整理、電話対応、PCでのデータ入力、資料作成など少しずつ係わらせてもらっている。 相馬さんの指導は丁寧で性格のやさしい人らしく説明はいつも穏やかで感じの良いもの言いだ。 今取り掛かっている仕事が一息付いたのか、珍しくすぐ側にあるブースへ誘われた。「掛居さん、ちょっといいかな、ブースまで」 指でブースを指す相馬さんから声を掛けられた。「はい、大丈夫です」「掛居さん、どうですか僕との仕事、やっていけそうですか? 何か改善してほしい点とかあったら忌憚なく言ってほしいんだけど」「相馬さん、お気遣いありがとうございます。 今のところ大丈夫です。 相馬さんのご指導が丁寧なので助かっております」「ほんとに? 本心?」「相馬さん、これまでいろいろご苦労があったみたいですがそれで私にもものすごく気を遣われてるのでしょうか? こんなこと、まだ知り合って間もない私が言うのもおこがましいのですが」「ええー、掛居さん、何言おうとしてんのかなぁ。怖いんだけど」「ふふっ、前振りの仕方がよくなかったでしょうか?」「いやまぁ、それで言いたいことは何かな? 聞くけど」「折角ブースでお話できる機会に恵まれましたので雑談などをと思いまして。駄目?」 すごいなぁ~掛居さんは。 チャーミングに雑談を誘うなんて、いけない女性《ひと》だよ、まったく。「こっ怖いんだけどぉ~」「少しだけ、お願いします。 いろいろと派遣の人たちから聞いていて、噂だけじゃあ何が真実か分からなくて、相馬さんの口から分かることだけでも聞けたら今後の私の仕事の仕方なども方向性が見えるかなと思うので。 何故こんな野次馬とも取れることを聞こうって思ったかというとですね、私は相馬さんの仕事を実力をつけてもっともっとフォローしたいと考えてるからなんです。 私も人の子、明日何があるかなんて分からないので100%の確約はできませんが正社員でもありますし、できれば腰掛的にではなく長期に亘りこちらの仕事を続けられればと思ってます」
85 そして迎えた週末、指定されたホテルへと向かった。 私たちが案内されたのはミーティングルームだった。 6人でということだったがあちらは4人だった。 話は婚約中にも係わらず、私が別の男性と交際していることが分かったので婚約破棄するという内容だった。 両親にも何も話してなかったため、母親は泣いて怒り、父親からは勘当すると言われた。 知らない顔の男性は弁護士で私は慰謝料を支払うことになると告げられた。 ほとんど雨宮さんもご両親も私に顔を合わせてはくれなかった。 謝罪する両親の横で私も一緒に謝罪するしか術がなく居たたまれなかった。 あちらの家族が退出したあと、母が私に訊いてきた。「それで柳井って人とはこのまま付き合うの?」 私は頭《かぶり》を振り答えた。「振られた。彼、雨宮さんの親友だったの」「悪いことはできないものね。世間は狭いってことね。 だけど心変わりしたのならお付き合いする前に雨宮さんに断りを入れて謝罪すればよかったものを、こういうことはいつかバレるものでしょ? 今更だけど、いつまでも隠しておけるものでもないんだから。 理生、あなたは私と違って器量よしで今まで男に不自由したことがないかもしれないけど、こういうことって先の縁談に不利になるのよ。 慰謝料払ったっていう前例を作るわけだし」「お母さん、お父さん、迷惑かけてごめんなさい」 ◇ ◇ ◇ ◇ 社内公認で付き合っていた雨宮と魚谷たちがよそよそしくなると、どうしても誰かから理由を聞かれるのは止められず、雨宮が進んで言い触らしたとかではなかったが魚谷の仕出かしたことは社内で知れるところとなり、数年勤めた会社を逃げるようにして魚谷は辞めたのだった。