All Chapters of 策士な御曹司は真摯に愛を乞う: Chapter 11 - Chapter 20

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煽られる胸の鼓動 2

その夜、私はなかなか寝つけなかった。明日は事故以来一週間ぶりの出社だから、意識して少し早めにベッドに入ったのに、日付が変わっても眠りは訪れてくれない。緊張して気が昂っていたのかもしれない。夜中、意識を持続し続け、何度も寝返りを打ちながら、枕元に置いたスマホで時間を確認していた。五時五十分と示されるのを見て、私はむくっと身体を起こした。熟睡できなかったせいで、嫌な頭重感が残っている。私は緩慢に身体を動かし、ベッドから下りた。窓辺にかかったロールカーテンの隙間から挿す光は弱い。やや覚束ない足取りで仄暗い部屋を横切り、窓辺に立ってカーテンを巻き上げる。東の空が、やっと白みかけたところだった。窓から離れてクローゼットの前に立ち、部屋着に着替えて部屋を出た。視界いっぱいに広がるリビングに、人気はない。しんと静まり返っていて、空気もひんやりしていた。なんとなく、螺旋階段の方に顔を向ける。鏑木さん、いつも何時頃起きるんだろう――。鏑木ホールディングスの副社長として、何万という社員の模範になる、規則正しい生活をしていそうだけど、なにせ超多忙な人だ。帰宅時間は遅いだろうし、もしかしたら朝はわりとゆっくりで、まだ寝ているかもしれない。それで、朝食は?いつも、どうしてるんだろう?昨日は私も、ほとんど客間から出ずに過ごした。鏑木さんの方も、せっかくの休暇なのに、書斎で仕事をしていたらしい。結局一日中、顔を突き合わせてゆっくり話すこともなかったから、一晩明けても、私は彼の生活習慣をなに一つ知らない。と、その時。グウウウウ……。「!」お腹が低く唸る音を耳で拾って、反射的に両手で押さえた。そう言えば、昨日退院前に、病院で朝食を取ったのが最後だ。ここに来てからずっと、いろんな展開についていけず、頭の中は飽和状態。空腹を感じる余裕もなかったけど、丸一日なにも食べていない計算になる。さすがに、お腹が空いて当たり前……。私はリビングに立ったまま、ダイニングキッチンの方に顔を向けた。重厚でシックなダイニングテーブルの向こうに、広い調理台が機能的なアイランドキッチンが見える。最近、特にセレブ層の新婚カップルに、人気のスタイルだ。ファミリー物件と言えば、対面式のカウンターキッチンが主流だったけど、今はうちの会社でも、それを上回る受注数を誇る。この家のなにもかもが、男性の一人暮らしとしては立派すぎる。やっぱり
last updateLast Updated : 2025-04-04
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煽られる胸の鼓動 3

早朝ジョギングで健康的な汗を流し、シャワーを終えてこざっぱりした鏑木さんと、私はダイニングテーブルで向かい合っている。普段のパリッとしたスーツ姿しか知らなかったから、さっきのトレーニングウェアも、今のラフでルーズ感漂う部屋着姿も新鮮すぎた。知らない人みたい、というか……知ることになると思いもしなかった一面を見ている今、どうしても落ち着かない。むしろ気になって、さっきからチラチラと窺ってしまう自分がいる。その上、私が作った朝食を一緒に食べている、この状況……。――いつか結婚したら、新婚生活ってこんな感じなんだろうか。嫌でも想像してしまう自分を、抑え切れない。そんな思考を働かせている自分が、鏑木さんに対して後ろめたい。それもあって、私はずっと目線を下げ、まるで教本のように美しい箸遣いをする彼の筋張った手ばかり見ていた。それが、かえって不審を招いたようで、「黒沢さん、どうかした?」と、直球で問いかけられてしまう。「っ、はいっ?」ギクッとして顔を上げると、鏑木さんがきょとんとした顔をして、首を傾げていた。私は慌てて背筋を伸ばし、「いえ」とぎこちなく笑ってみせる。「ええと……鏑木さんが食べてくれて、朝食作ってよかったなあって」取ってつけたように答えると、彼もクスッと笑った。「どれも美味しいよ。本当に君は、料理が上手だね」「ありがとうございます。お口に合うか、心配でした」それには本当にホッとして、私は思わず頬の筋肉を緩めた。「君の卵焼き、甘くて好きなんだ」鏑木さんはそう言って、最後の一つに箸を通す。「え?」彼の言葉がなにか引っかかり、私は食事の手を止めて聞き返した。「俺は、卵焼きと言ったら、出汁巻き卵がスタンダードで。出汁を使わず甘く焼いた卵って、結構衝撃で……」どこか懐かし気に目元を綻ばせて言われ、嬉しいのに、ストンと胸に落ちてこない。「あ、あのっ」私は、彼が話す途中で声を挟んだ。鏑木さんが口を閉じ、私に視線を流してくる。「それは、『今』思ったことじゃないですよね?」少し緊張しながら訊ねると、「え?」と聞き返された。「今の言い方……。もっと前からそう思っていた、というように聞こえたんです」「……!」鏑木さんはハッとしたように口元に手を遣った。わかりやすく、つっと目線を横に流し、黙り込む。私は膝の上に両手を置き、改まって背筋を伸ばした。「やっぱり私、鏑木さんとお話したことがあ
last updateLast Updated : 2025-04-04
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煽られる胸の鼓動 4

鏑木さんの家から彼の車で送り届けられ、仕事復帰第一日目のスタートを切った。いつもより十分ほど早い時間に出勤してオフィスに入ると、まず男性秘書室長のところへ挨拶に行った。彼はどうやら、鏑木さんから事故の報告を受けているようだ。外傷はないけど、この一年ほどの記憶が欠落していることも、秘書室長には伝わっているらしい。この状態で私が仕事に復帰して困ることのないよう、配慮すると言ってくれた。「黒沢さんが秘書室に異動してきた時から、役員陣の顔触れは変わっていません。今回の件については耳に入れてありますが、当面の間、役員秘書業務から外れた方がいいと考えています」ちょっと残念だけど、それが当然だと納得できる。会社の業績、社長や副社長の『今』を知らない私が秘書についても、ご迷惑になるだけだし、失礼なことをしでかしてしまう危険性もある。だから、「はい」と返事をすると、室長も強く頷いてくれた。「始業時間になったら、臨時朝礼をします。その時、黒沢さんの当面の業務についても、皆さんに説明しますので、それまで自席で待機してください」それにも同じ返事を繰り返し、私は室長に一礼して、デスクから離れた。私が室長と話している間に、先輩や後輩たちが続々と出勤してきていた。突然一週間欠勤して、仕事に穴を開けて迷惑をかけたお詫びに回ると、みんな口々に私を心配して気遣ってくれた。「昨日退院したばかりなんでしょう? 無理しないでね」「困ったことがあったら、なんでも言って」温かい言葉には、頭を下げてお礼を言う。私が事故に遭って入院していたのは、みんなも知っている。でも、記憶障害という情報については、今のところ室長止まり。秘書室主任にも伏せられている。そんな中で、当面の間とは言え、私が役員秘書業務から外れることを、室長はどう伝えるんだろう?それ以前に、どんな仕事を与えられるのか……と、ほんの少し不安が過ぎった。やがて午前九時の始業時間を迎えると、室長がみんなに声をかけ、臨時朝礼が始まった。そこで、前もって言われた通り、私の業務について説明された。「社内他部署には口外禁止、この役員フロアと秘書室限りの極秘事項となりますが、鏑木ホールディングスの鏑木副社長が、当面の間当社で執務されることになりました。このため、黒沢さんには、鏑木副社長の専属補佐に就いてもらいます」「!?」私は、ギョッと目を剥いて絶句した。他のみんなは
last updateLast Updated : 2025-04-04
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新たに刻まれる恋心 1

それから十分後――。「この度、鏑木副社長補佐の任を拝命いたしました。黒沢美雨と申します。若輩ですが、精いっぱい務めさせていただきますので、どうぞよろしくお願い申し上げます」今日から鏑木さんの執務室として使用される役員応接室で、私は執務机を挟んで彼の前に立ち、無駄に丁寧な口上を述べた。深々と腰を折って頭を下げた私が、再び背を起こして姿勢を正すまで、鏑木さんは無言で見上げていて、「『よろしく』ってわりに、顔が不機嫌だね」やや苦笑混じりに、口角を上げてからかってきた。私はムッと唇を尖らせ、意味もなく胸を反らす。「鏑木さんが、あまりに横暴なので」周りに誰かいたら、とてもこんな刺々しいことを言えないけど、今、私は彼と二人。しかも、役員フロアの執務室や応接室は、どこも完璧な防音室だ。たとえ声を荒らげても、ドアの向こうに漏れる心配は、まったくもってない。私の返しに、鏑木さんは愉快気に肩を揺らした。「記憶を失う前と後。参ったな、君は別人みたいだ」「なにを仰りたいんですか」「俺に対する不満や憤りといった負の感情を併せ持ち、憚らずにぶつけてくる。今の君は前よりエモーショナルで、魅力的だってこと」「!」何故か嬉しそうに目を細めるから、意表を衝かれ、口ごもってしまった。鏑木さんが、執務机に両肘をのせ、顔の前で両手を組み合わせる。その向こうから、私を上目遣いに見据えているのがわかる。私は視線の遣り場に困り、目を泳がせた。「黒沢さん。君を専属補佐に就けるよう、強引に命令した俺が、不満なのはよくわかってる」「じ、自覚があるなら、控えていただけませんか」虚勢を張って、つっけんどんな言い方をする私に、彼はまったく動じない。「それは無理。当面の間はこの任に就くのがベストだと、君自身、理解していると思うけど?」探る瞳の前で、私は返事に窮した。「俺への不満を、腹に溜め込まなくていいよ。言ってくれて構わない。そのための『専属』なんだから」「同居を強いられ、仕事への行き帰りも鏑木さんと一緒。その上オフィスでも専属補佐の任を命じられ、執務室で二人きり……。これじゃ、ほとんど軟禁ですっ」もうすでに腹に溜め込んでいたからこそ、私は彼が言い終わるのを待たず、執務机に両手をついて言い募った。鏑木さんは腕組みをして、長い足を組み上げながら……。「ほとんど、というか。まさにその通りだね」私を見つめて、平然と言って退ける。
last updateLast Updated : 2025-04-04
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新たに刻まれる恋心 2

「い、いきなりなに……」「これが、からかってるように見える?」弾む呼吸で声が掠れる。それでもなんとか発した抗議は、淡々とした低い声に遮られた。「っ、え?」私は虚を衝かれ、抗議をのみ込んで聞き返していた。「業務時間中にからかってキスするほど、俺は暇じゃない」鏑木さんは不機嫌に目を細め、斜に構えて続ける。「君に、うがった見方をされたくない。からかってるわけないだろ。弁解しようと、衝動に突き動かされた」どこか悔しげに顔を歪めて、わずかに瞳を揺らした。「ついでだから、白状しようか。俺は今、業務中だろうが執務室だろうが構わず、君を押し倒して、キス以上のこともしたい欲情を抑えている」「っ……!」いつも紳士的で物腰柔らかい鏑木さんが、見たことがないくらい獰猛な『男』の顔をしている。私を鋭く射貫く黒い瞳に、激しく狂おしいほどの劣情が滲んでいる気がして、私は両肘を抱えてゾクッと身を震わせた。「なにを……鏑木さん、なにを言って……」ドッドッと、怖いくらい強く拍動する心臓。喉に妙な渇きを覚え、私は声をつっかからせてしまう。鏑木さんは、目力を緩めない。私を射竦めたまま、一度きゅっと唇を結び――。「本気を証明するために、これだけは伝えておくよ。……俺は、ずっと君が好きだった」男らしい薄い唇がそう動くのを、私はちゃんと見ていたのに、耳に届いた言葉を即座にのみ込めない。「え……?」ボーッとして、無意識に聞き返してしまった。鏑木さんが、静かに目を伏せる。「二年ほど前から、時々見かけるようになった新米秘書。最初は、好みの顔立ちだと思っただけ。でも俺は、そうやって一年以上も、君を目で追っていた」芯が通った低い声が、しっかりと鼓膜に刻まれていくのに、私の思考は追いつかない。「ここに来ても、君の姿を見ることができるのは、運がいい時だけ。それでも、君の真面目で真摯な仕事ぶりは伝わってきたし、清楚で女らしい仕草に魅せられていた」そうやって、遠くから眺めるだけの人に憧れるのは、私や他の秘書だけだと思っていたのに……。彼が私を同じように見ていたと言われても、にわかには信じられない。「社長や副社長から、名前を聞き出した。トップを任せる彼らも、君を高く評価するのを聞いて、嬉しくて胸が躍った。……バカだよな。俺は、一言も言葉を交わしたことのない君に、そんなウブな片想いしてたんだよ」そう言って言葉を引き取ると、彼は小さ
last updateLast Updated : 2025-04-04
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新たに刻まれる恋心 3

一日中、鏑木さんと二人きり。これは、その始まりの一日。意識しすぎて、一週間ぶりの仕事に集中できなかった。子会社の役員応接室に場所を移して、リモートワーク……と簡単に言うけど、それで仕事が回るんだろうか、と思っていた。鏑木さんは、鏑木ホールディングスの副社長だ。副社長というのは、トップである社長と、それ以外の取締役のパイプライン的役職。自分の会社を見ていても、多分一番仕事量が多く多忙な職位だと、私は常々思っている。きっと、親会社でも役割は同じ。本社にある多数の部署や、専務、常務から挙がる企画書、起案書、決裁書類は、恐らく、ほぼ全部副社長に集中するはず。そのすべてに厳しく丁寧に目を通し、社長に通すか棄却して差し戻すか……判断するのは鏑木さんだ。副社長は、社内の全事案を掌握する。企業の業績も収益も、副社長の腕にかかっていると言っていい。その副社長が、会社を不在にして大大夫なんだろうか……?私がそう訊ねると、鏑木さんは特段表情も変えず、説明してくれた。「社内では、決裁書類はすべて電子申請を採用している。目を通すべき書類の八割は、パソコン一台あれば対応できる。外部との契約書や申請書はそういかないけど、毎日午前中、秘書にデリバリーさせることにした」なんでもないようにさらりと言われると、そういうものかと思える。地味に納得していた時、まさに件のデリバリーが到着した。私は、上品な濃紺のスーツ姿の男性秘書を執務室に通し、自分のデスクに戻った。起立したまま、鏑木さんの執務机の前に、彼が両足を揃えて立ち止まるのを見守る。すっきりと短い、清潔なスタイルの黒髪。前髪はやや右寄りで分けてセットしている。黒い細身なフレームの眼鏡の向こうに覗く目元は、鏑木さんと違って、つり上がり気味。鼻筋が通っていて、凛とした涼やかな顔立ち。真面目でクール、ちょっと近寄りがたいというのが、見た目からの第一印象だった。そんな男性秘書が、鏑木さんの前できびきびと一礼する。「おはようございます。こちら、本日朝締め切り分の決裁書類です」そう言いながら、右手に持っていた黒いブリーフケースを、執務机にデンとのせた。チェアに背を預けて座っていた鏑木さんの視線が、わずかにそちらに動く。「至急案件が十五部。他二十五部は、二、三日中にお目通しください」「ご苦労様」鏑木さんも男性秘書も、眉一つ動かさずに淡々とやり取りするけど、もっと少
last updateLast Updated : 2025-04-04
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新たに刻まれる恋心 4

私の終業時間は、午後六時。退院後初日、私は思った以上に疲れていた。一週間の入院で体力が落ち、通常の生活に戻れるまでに、回復していないのもある。でも、疲労の大半は、予想を超える出来事が重なったところにあった。だから、今日は定時で上がって、まっすぐ帰りたいと思っていた。でも、行き帰りは送迎すると、夏芽さんに宣言されている。今日一日だけで、尋常じゃない業量をこなす姿を目にしてしまったら、『疲れたから帰りたい』なんて、とても言えない。もう少し片付くまで。私も一緒に残って手伝おう……と、残業を覚悟した。ところが。夏芽さんは、時計が午後六時を指すと、率先してパソコンをシャットダウンした。その気配に目線を上げた私を、「さあ、帰ろう」と促す。「も、もうですか?」「もう、って。終業時間だよ」私がひっくり返った声で聞き返すと、むしろ不思議そうに首を傾げる。「でも……」私は自分のパソコンモニターを見遣った。午前中、湊さんが届けてくれた至急の決裁書は処理済みだけど、電子申請された書類の三分の一は、まだ手付かずだ。明日に持ち越したところで、また今日と同じペースで積み増しされたら、大変なことになる。だから、「あの」と改まって背筋を伸ばした。「私も残って、もう少しやります」「却下。昨日まで入院してた人に、残業なんてさせられない」夏芽さんは聞く耳持たず、デスクを片付け始める。それはつまり、仕事を切り上げるのは、私を帰すのが目的……?「だったら、私は一人で先に帰りますから……」「それは、もっとダメ」一応、夏芽さんを心配して重ねた提案も、にっこりと微笑んで遮られてしまう。言い淀んだ私に、彼はふっと眉尻を下げた。「なにも、これ全部明日に回そうなんて思ってない。リモート場所を、自宅に替えるだけだよ」「家で、仕事の続きですか?」ここに残ってやるか、持ち帰るか。パソコン一台あれば可能だから、確かに、夏芽さんにとっては場所を替えるだけ。だから、ここでも、私を気遣ってるんだろうと思った。でも。「心配いらない。俺は普段から、定時を過ぎて書類仕事で残ることはない」「え?」「もちろん、ちゃんといつもと同じ時間に寝るから、大丈夫」そう言われたら、のみ込むしかない。こうして、私は反論の芽を摘み取られ、それからものの五分で、彼と一緒にオフィスを出た。行きと同じく、夏芽さんが運転するベンツの助手席に乗り込む。赤坂のタワーマン
last updateLast Updated : 2025-04-04
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記憶の断片を繋いで 1

夏芽さんのマンションに帰ってすぐ、私はリクエストを受けた三色丼の調理を始めた。その間に、彼には先にシャワーを浴びてもらう。お麩の清汁の味見をしていた時、リビングのドアが開く音が耳に届いた。なんてグッドタイミング。ちょうど夏芽さんが入浴を終えて出てきたようだ。「ん。いい匂いがする」鼻を利かせていそうな声が聞こえてきて、「夏芽さん! お疲れ様です。タイミング、ばっちりです。今ちょうど夕食の支度が終わって……」広い調理台越しに、弾んだ声をかける。ところが――。「っ!」リビングに入ってきた彼を一目見て、勢いよく目を逸らしてしまった。そうだ、お風呂上がり……。腰穿きのルーズパンツと、ゆったりした長袖Tシャツというかなりラフな格好は今朝も見たけど、濡れ髪をタオルで拭う彼は見慣れない。なんだか妙な色気が漂っていて、とても正視できない。昨夜は私もほとんど部屋で過ごしていたから、こういう事態を想定できなかったけど……。同居するからには、こういうリラックスモードの夏芽さんを、日常的に見ることになるのだ。二日目でこんなに心拍数と血圧が上がりそうなのに、やっていけるのか一気に不安に陥る。「黒沢さん。どうかした?」なのに、夏芽さんはそんな私にお構いなしに、遠慮なく近付いてくる。「あ、あの。すぐ、テーブルに運びますから、そっちで待ってて……」とにかく、一拍置いて深呼吸して、この速い鼓動を落ち着かせたい。なのに。「やっぱり、美味しそう。三色丼」夏芽さんは私のすぐ隣まで来て、盛りつけの済んだ丼を覗き込んだ。彼の濡れ髪から香るシャンプーの匂いに、私の胸は落ち着くどころか、逆にドキンと跳ね上がってしまう。今度は目じゃなく顔を背けた。ついでに一歩飛び退いて、意識して間隔を広げる。逃げられた格好の夏芽さんが、首を傾げるのが視界の端っこに映り込んだ。「?」不思議そうに、私の横顔に目を凝らしていたようだけど。「もしかして……また朝みたいに迫られるって、警戒してる?」私が作った距離を物ともせず、わざわざ身を屈めて耳打ちしてくる。「っ……!」吐息混じりの囁きに耳を直接くすぐられた上、その言葉でまだ新しい記憶に導かれてしまう。今朝もここで、意味深にからかわれたことを思い出し、カッと頬が火照るのをバッチリ見られてしまった。夏芽さんが、ぶぶっと豪快に吹き出す。「学習しないな、君は」愉快げに肩を揺らして笑われ、私はムキ
last updateLast Updated : 2025-04-04
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記憶の断片を繋いで 2

一日の疲れもあり、その夜私は普段より一時間早くベッドに入った。ベッドや寝具に慣れず眠れなかった昨夜とは違い、ほどよいスプリングのマットレスに、身体はすぐに沈み込んでいく。なのに、どうしてだか、頭が冴えていた。今日一日だけでも、『どうして』と思うことがありすぎて、潜在意識として残っていたせいかもしれない。頭の片隅で、ずっと『寝なきゃ、寝なきゃ』と思っていた。かえって強迫観念になってしまい、いつまでも意識を手放せない。ぼんやりと曖昧に持続する意識下で、私は夢を見た。夢の中で、私は誰か男性と一緒にいた。白い靄が目に膜を張っているみたいで、その人が誰か、顔も身体の輪郭もぼやけてしまい不明瞭だ。でも、耳に届く私の声が驚くほど弾んでいたから、普段から親しく話す間柄の人だろう。いったい、どこだろう?私と男性は、仄暗く光の薄い空間にいる。もしかしたら、バーかなにかかもしれない。周りに人の気配はない。二人で会話を楽しみ、お酒を飲み交わして――。突如耳障りなノイズが走り、一瞬暗転したかと思うと、場面が展開していた。それまでとは違う、煌々と電気が点いた明るい部屋。私は、広いベッドの真ん中に横たわり、目を眩ませていた。ぼんやりと見上げた天井に、馴染みはない。そこから降ってくる光を背に受けるのは、誰なのか……。私は、焦点が定まらない目で見つめている。耳元で、ギシッと軋む音がした。衣擦れのような音も、耳をくすぐる。私に落ちる影が色濃くなるのに気付くと同時に、唇になにか温かいものが重ねられた。初めは、押し当てられたままだったそれが、私の反応を試すように、少しずつ動き出す。抗わず、されるままになっていると、生温かい弾力に満ちたなにかが、唇を割って入ってきた。誘うように蠢くそれに追い縋ろうとして、易々と搦め取られる。『ん、あふっ……』やけに艶めかしい、濡れた声が漏れた。それで煽ってしまったのか、私を翻弄する『誰か』は、ますます大胆になっていく。『……、……!』私の神経は唇の触覚ばかりに集中して、それ以外の五感が麻痺しているんだろうか。『誰か』が、なんて口走ったのか、聞き取れない。けれど。『……っ!』私の神経に、別の場所からの鋭い刺激が割り込んだ。大きな手に左胸を鷲掴まれているのが、はっきりとわかる。反射的にビクンと身体を痙攣させる私に構わず、『誰か』が躊躇なく豪快に、服の裾から手を滑らせてきた。『
last updateLast Updated : 2025-04-04
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記憶の断片を繋いで 3

「っ……!!」無理矢理『夢』から醒めようとして、私は勢いよく飛び起きた。自分の、荒い呼吸音が聞こえる。そうでなくても、胸が上下するほど息が乱れているのは明白だ。私は大きく肩を動かして、呼吸を整えようとした。「はああっ……」声に出して、深い息を吐く。それでも、身体の奥底がきゅんと疼く感覚から逃れられない。私は、力いっぱい膝を抱え込んだ。小さく身体を丸めて、不快な火照りを鎮めようとする。「なんなの。私、なんて夢を……」心臓は、ドッドッと、まるで早鐘のように打っている。鼓動も昂っている。まるで、夢の中の淫らな自分と感覚を共有しているようで居た堪れない。私……なんであんな、いやらしい夢を。いったい誰を相手に、あんな夢を見たの――。鎮まらない火照りに煽られ、頬がカアッと熱くなった。『こうして君に触れられるなんて、夢でも見てる気分だ』なんて、誰に言われてきゅんとしたんだか……。自分に疑問を寄せて胸に過ぎるのは、昨日、夏芽さんに『君をずっと好きだった』と言われた記憶だ。もしかして、そのせいでこんな夢を見てしまった?それじゃあ、夢に出てきた男性は夏芽さん?「っ……!」ますます激しい罪悪感に駆られ、私はブルッと頭を振った。もう一度お腹の底から息を吐き出してから、辺りを見渡す。カーテンの向こうは、まだ濃い闇に覆われている。まだまだもう一眠りできる時間だけど、これだけ身体が火照っていては眠れそうにない。それに、淫らな夢の続きを見そうな気がして、再びベッドに横たわる気にはなれなかった。
last updateLast Updated : 2025-04-04
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