All Chapters of 策士な御曹司は真摯に愛を乞う: Chapter 31 - Chapter 40

46 Chapters

甘い溺愛の中で迷走 5

鏑木ホールディングスの本社ビルは、高層ビルが立ち並ぶ、日本有数のオフィス街にある。その中でも、群を抜いて立派なインテリジェントビルだ。真下から見上げると、天に突き抜けそうなほど高い。子会社のうちは、鏑木の他のグループ会社と同じビルに、テナント入居。この本社とは格が違う。こんな立派な本社ビルを構える、鏑木ホールディングスの副社長――。今さらながら、夏芽さんとの色々な格差を突きつけられた気分で、私はちょっと怯んでしまった。でも、こうやって怖気づくのも今さらだと、自分に言い聞かせる。家柄の違いも身分差も承知の上で、私は『鏑木夏芽』という一人の男性との恋に飛び込んだ。夏芽さんが好きだから、『心配ない』と言ってくれる彼を信じて、そばにいればいい。私は、一度深呼吸してから、エントランスに入った。土曜日で会社は休みだけど、わりと多くのスーツ姿のサラリーマンが、広いエントランスを行き交っている。自動のセキュリティゲートがあり、その両脇を制服姿の警備員が固めている。休日出勤の社員なのか、男性が一人IDを翳して、ゲートの奥に進んでいくのが見えた。もちろん、私は入れない。総合受付は、平日なら受付嬢が数人座っているんだろうけど、今は無人だ。でも、中に入れてもらう必要はない。きっと夏芽さんもここを通るだろうし、私はエントランスで待つことにした。往来の邪魔にならないように、隅に寄っていようとして、エントランスの片隅にミーティングスポットを見つけた。位置的にも、セキュリティゲートを眺めることができる。夏芽さんが出てきたらすぐにわかるし、ソファに座って待っていよう。そう決めて、そちらに向かって足を踏み出した。その時。「多香子!」背後から鋭い声が耳に届き、私はビクッと肩を震わせた。「……え?」私が呼ばれたわけじゃない。でも、それが夏芽さんの声だったし、彼が呼びかけた名前にもギクッとして、そっと振り返ってしまう。行き交う人たちの向こうに、私は彼を見つけた。彼が向かう方向を目で追うと、多香子さんがヒールを鳴らして歩いていくのも見える。夏芽さんは、大きな歩幅でツカツカと歩いて追いつき、彼女の肩を掴んだ。足を止められる格好になった多香子さんが、彼を振り向いている。その様を見て、私の心臓が何故かドクッと音を立てて沸き立った。病院のサンルームや、この間のうちのビルの時と同じ、やっぱり不穏な空気を感じるから、二
last updateLast Updated : 2025-04-04
Read more

甘い溺愛の中で迷走 6

夏芽さんはそれから三十分くらいして、再びエントランスに降りてきた。セキュリティゲートにIDを翳して出てくると、やや俯いてネクタイを緩め、「ふうっ」と息をつく。この三時間ほどで疲労を滲ませる彼に、私は一瞬、声をかけるのを躊躇した。それでも、「夏芽さん!」意識して明るく呼びかける。私がいるとは思っていない夏芽さんが、びくんと肩を震わせた。「え?」戸惑った顔でグルッと辺りを見渡し、私を見留めると、大きく目を瞠った。「なっ……美雨!? 君、どうして」まるで、弾むようにして駆けてくる。目の前まで来て足を止める彼に、私はにっこり笑ってみせた。「お疲れ様です。お仕事、捗りましたか?」「ああ、まあ……。って、君、いつからここに?」彼は口元に手を遣って、サッと視線を走らせる。もちろん、先ほど多香子さんと一緒にいたところを、私が見ていないか気にしての質問だろう。「少し早く診察終わったので、のんびり散歩してきました。つい今、着いたところなんです。間に合ってよかった」さっきから用意していた返事を、笑顔で口にした。平静を装うあまり、かえってわざとらしくなってしまったかもしれない。私は、彼の反応を気にして、そっと上目遣いに窺った。夏芽さんは、不審がらずに信じてくれたようだ。口から手を離し、ホッと吐息を漏らしている。そして、やや不機嫌に、ムッと唇を曲げた。「早く終わったら連絡しろと言っただろ」やっぱり、怒られた。もちろん想定内だから、私はひょいと肩を動かした。「せっかくいい天気だったので、歩きたくなったんです。それに、退院してからというもの、会社の行き帰りもずっと夏芽さんの車なので、運動不足が気になって」「……まったく」夏芽さんはほんのわずかに眉間に皺を寄せて、溜め息をついた。けれどすぐに、困ったように顔を歪めて、私の額をこつんと叩く。私は、彼に叩かれた額にとっさに手を遣った。「ここに来るまで、なにもなかったか?」その質問には、ギクッとする。多香子さんとばったり会ったりしていないか、探っているのだろう。「はい。なにも」私は、笑顔がぎこちなくなる前に、頷いて答えた。「そうか。なら、いい」夏芽さんはそう言って、やっと目元を綻ばせてくれた。「帰ろう。久しぶりに歩いて、疲れたんじゃないか?」私に手を差し伸べ、ちょっとからかい口調で訊ねてくる。「久しぶりにって……散歩くらいで疲れてたら、それこそ大変です
last updateLast Updated : 2025-04-04
Read more

乗り越えるべき試練 1

その夜、彼は執拗なほど強引に、私を求めた。何度果てても、解放してもらえない。絶え間ない快感で理性は吹っ飛び、身体にはまったく力が入らない。夢と現の狭間を行ったり来たりする意識下で、私はシーツに手を這わせ、彼の腕から逃げようとした。だけど、許されない。私の背中に覆い被さった夏芽さんが、後ろから強く胸を揉みしだく。「あああっ……」私はガクッとベッドに突っ伏した。それでも、逃がしはしないというように、身体に絡みつく腕の力は揺るがない。「美雨、美雨っ……」何故だろう。強く激しく抱かれているのに、まるで縋られているような感覚に陥る。縋られている……ああ、そうか。断続的に、辛うじて繋がる意識の中で、私はそう納得していた。昼間、多香子さんから言われた辛辣な言葉が、夏芽さんの心に深く巣食っていたんだろう。『彼女が覚えてないのをいいことに、だらしなく縋るなんて。最低な男』そう言えば、病院でも彼女は似たような罵声を彼に浴びせていた――。多分、夏芽さんにそうさせているのは私だ。わかっているから、今は彼から逃げたくない。「あっ……夏芽さ、ま、って」狂おしいほどの恋情に応えたいから、途切れ途切れの声で懇願する。「逃げな、から……私、もう、逃げたり、しな……」私の耳元で、夏芽さんがハッと息をのむ音を聞いた気がした。「美雨……?」「もう、逃げな……」自分でも、もうなにを言っているのかわからない。ただ、譫言のように繰り返し、最後は意識を手放した。
last updateLast Updated : 2025-04-04
Read more

乗り越えるべき試練 2

そんな風に眠りに落ちたせいか、私は夢を見た。どこか、薄暗いバーカウンターのような席に、私は一人で座っている。私の手には、可愛らしいピンクとオレンジの層を成したカクテルがある。きっと相当甘いカクテルだろう。この、夜の濃い雰囲気を、私は知っているような気がする。いったいどこ?と考えていると、ブランデーグラスを揺らしながら、男性が声をかけてきた。『こんばんは。黒沢美雨さん……だよね?』突然名前を呼ばれた私は、ほんのちょっと酔った目を、ぼんやりと上げる。そして、隣の椅子に腰を下ろした男性を見て、バチッと大きく目を見開いた。『えっ……!? えっ、鏑木副社長……!?』自分の素っ頓狂な声が、耳に響く。『あれ。俺のこと、知っててくれた?』クスクス笑う声も、優しく目尻を下げる笑顔も、確かに夏芽さんだ。雲の上の人。どんなに憧れても、絶対手が届くわけがない。いや、それ以前に接点なんかどこにもあるわけがない――。そう思っていた人が、すぐ隣でブランデーグラスを口元に運んでいる。そんな状況に、私は完全に舞い上がっていた。『も、もちろん、私の方は存じ上げてます! 知らないわけがありませんっ。で、でもあの。鏑木副社長も、私のこと、知っててくださったんですか!?』すっかりパニックになっていて、普段のテンションじゃない。そんな私に、夏芽さんもやや苦笑気味だ。『君の会社にはよく出向くし、何度も見かけてるよ。名前は、社長から聞いた』『え、ええっ!? そんな、畏れ多いことをっ……』緊張のあまり真っ赤に顔を染めて、しどろもどろになる私を、彼はクスッと笑う。『このバー、たまに来るんだ。今まで黒沢さんを見たことないけど……君も、よく来るの?』グラスをカウンターテーブルに置いて、なんとも優美な仕草で頬杖をつく。『いえ……私は初めてです。今日はちょっと、仕事でミスをして落ち込んでて。それで、なんとなく気分を変えたくなって……』――ああ、そうか。これは、夢じゃない。私の記憶だ。去年の八月。私は確かに、こうして夏芽さんと『出会った』。彼は、ずっと前から私を知ってくれていた。それを聞いて、私は嬉しさのあまり浮かれてしまった。それほどお酒に強くもないのに、飲むピッチを上げて、激しい緊張を抑えた。カウンターに二人で並び、お酒を傾けながら、少しずつ会話を弾ませていった。だけど、私は酔い潰れてしまい――。
last updateLast Updated : 2025-04-04
Read more

乗り越えるべき試練 3

ハッとして、目を開けた。視界に飛び込んでくるのは、もうだいぶ見慣れた白い天井。部屋の中はまだ薄暗く、カーテンの隙間から射す光も弱い。夜が明けた、ばかり……だろうか。思考は働いてくれるけど、どうにも気怠くて身体に力が入らない。ベッドに沈んだまま、私はそっと首を横に向けた。夏芽さんが、眠っている。何度見ても、神秘的なほど綺麗な顔。でも、寝顔はちょっとあどけなくて、私はついつい顔を綻ばせてしまう。「………」ベッドに寝転がったまま、目だけを動かし、室内を見渡す。私の記憶の中で、『初めて』この寝室に入った時に走った既視感。本当の初めては、去年の八月、バーで彼と出会ったその日の夜だ。酔ってしまった私を、夏芽さんは自分の家に運んでくれた。酔いの回った身体はふにゃふにゃで、力が入らない。『迷惑をおかけして、すみません。すみません』彼に抱きかかえられながら、何度も謝罪を繰り返した。『迷惑なもんか。俺はね、君が秘書室に異動してきた頃から、君に片想いしていたんだ』どこか弾んで聞こえた、低い声。『え……?』ぼんやりと見つめる私に、彼はほんの少しはにかんだ笑みを向けた。『黒沢さん。俺は君が好きだったんだ、ずっとね』そう言われて、ドキンと胸が跳ね上がったのを、思い出す。遠くから眺めるだけだった憧れの人に、『好きだった』と言われた。ただただ、夢見心地になって、私は――。そう。夏芽さんと『出会った』その夜、この部屋で、このベッドで、彼に抱かれたんだ。
last updateLast Updated : 2025-04-04
Read more

乗り越えるべき試練 4

朝食の席で向かい合った夏芽さんは、ちょっと気まずそうに私から目を逸らした。「昨夜……ごめん」私に無理をさせたという自覚があるせいか、どこか歯切れ悪い謝罪をする。それを受けて、私は改まって背筋を伸ばした。「夏芽さん。私、夢を見るんです」「え?」返しが突拍子なかったからか、彼は顎に手を遣りながら私と目を合わせてくれた。「夢なので、とっても不鮮明で。でも、どうしてだか感覚だけはリアルで」昨夜見た、夏芽さんと出会った夜の『夢』。そこにいた、舞い上がった自分を気恥ずかしく思いながら、ぎこちなく笑う。「私は、初めて一人で入ったバーのカウンターで、ある男性に声をかけられるんです」こんがり焼けたトーストを手に、バターを塗ろうとしていた彼の手がピクッと震えて止まった。「彼に名前を呼ばれて、私は驚きました。だってそれは、いつも遠くから眺めていた憧れの人だったから」目線を横に流し、自分の記憶を辿りながら、首を傾げる。「あれは夢じゃない。私の潜在意識が見せる記憶。……私と夏芽さんの、出会いですよね?」まっすぐ彼を見つめて、直球で質問を繰り出す。夏芽さんは、ふっと目を伏せた。無言で手を動かし、バターを塗り終えると、「そう」溜め息混じりに、頷いてくれる。「その夜、俺は君を」上目遣いの視線をこちらに向けて、意味深に言葉を切る。私は、思わずカッと頬を火照らせてから、無言で一度首を縦に振った。それを見て、夏芽さんはふっと目尻を下げる。「それも、夢で見た?」「そ、それは、昨夜じゃなくてもっと前に」ボソボソと口に出して言い淀むと、彼が「え?」と聞き返してきた。「まだ、夏芽さんの恋人になる前のことです。その……どうしてあんなエッチな夢見たのかって、自分では居た堪れなくて……!」「へえ、そう。そんなエッチな潜在意識、持ってたんだ?」片手にトーストを持ち、反対側の肘をテーブルに置いて、頬杖をつく。ニヤニヤして探ってくるから、体温が二度くらい上昇したような気がした。「~~!」頭のてっぺんから湯気が出そうなほど、顔を真っ赤に染める私を、彼はクスッと笑う。意地悪な頬杖を解き、トーストを口に運びながら、「君は確かに酔ってたけど、好きだと言った俺に応えてくれた。だから俺は、これで君と恋人になれるんだと思っていた」ひそめた眉に憂いを滲ませ、ポツリと呟く。「っ」私は、思わず口ごもる。そう、そうはならなかったことを、私は彼
last updateLast Updated : 2025-04-04
Read more

乗り越えるべき試練 5

週が明けて月曜日。いつも通り夏芽さんと出勤して、私は始業準備を始めた。パソコンの電源を入れ、スケジュール管理ソフトを起動させて、今週の夏芽さんの予定を確認する。鏑木ホールディングスの副社長として、多くの子会社、関連会社の視察も、彼の大事な仕事だ。ここでリモートワークを始める前は、連日のように外出して、オフィスを不在にすることも多かったはず。でも、このビルには他のグループ会社も入居しているから、いっぺんに纏めて視察や経営指導ができる。彼は毎週水曜日の午後の時間に、ビル内の四つの会社に出向いていた。その時間、私は夏芽さんと離れて一人。短時間であれば、この執務室から離れることも可能だ。その間に、どうにかして多香子さんと会うことはできないだろうか――。その後、私は、湊さんがデリバリーに来る時間を待って、お手洗いに立った。彼は書類を受け渡し、ほんの少し夏芽さんと会話を交わすだけで、いつも、ものの五分で退室していく。今日も例に違わず、入室してから三分ほどで廊下に出てきた。室内に一礼して、丁寧にドアを閉める。軽く「ふう」と息をついて歩き出す彼を、私は急いで追いかけた。「湊さん!」エレベーターホールで追いついて呼びかけると、湊さんはピクッと反応した。「おはようございます、黒沢さん。執務室で見かけなかったので、今日はお休みかと思いました」周りに人はいないけど、執務室と違い、一応パブリックスペースだからか、彼は私に丁寧な口を利く。「おはようございます。お戻りになるところをすみません。ちょっとだけお時間いただけませんか」「え?」気を逸らせてお願いする私に、怪訝そうに眉根を寄せた。けれど、すぐに好戦的に口角を上げて、「ふん」と鼻を鳴らす。「わざわざ俺を『待ち伏せて』、夏芽には聞かれたくない話ですか」鼻根で眼鏡をクッと上げ、私の真意を呆気なく見透かしてくれる。透視能力でもありそうな視線がやや居心地悪いけど、彼には聞いてもらわなきゃいけないことだ。私は唇を噛んで表情を引き締め、「はい」と肯定の返事をする。湊さんが、ピクリと眉尻を上げた。無言で左手首の腕時計に目を落とし、「五分程度なら」と応じてくれる。「黒沢さんも、どんな理由で席を外していたか知りませんが、あまり不在が長くなると、夏芽が血相変えて捜し回りますよ」軽い調子で揶揄されて、私はほんの少し苦笑する。サッと辺りに視線を走らせ、人目を憚っ
last updateLast Updated : 2025-04-04
Read more

乗り越えるべき試練 6

そして迎えた水曜日――。私が作ったお弁当を、執務室で二人で食べながら休憩時間を過ごした後、シャツの左袖を摘まんで腕時計で時間を確認した夏芽さんが、ソファから立ち上がった。「さて、と。じゃあ、そろそろ行ってくるよ」頭の後ろで両肘を組み、軽く胸を仰け反らせる。私は、ソファの前のローテーブルでランチボックスを片付けながら、「はい」と返事をした。「行ってらっしゃい。お戻りは、三時頃……ですよね?」私も自分の腕時計に目を落とし、念を押すように確認する。現在、午後一時。一社当たりの滞在時間は、だいたい三十分ほどのはずだ。「ああ」と短い返事が来た。「俺が留守の間は、いつも通り、電子申請書類の承認手続きを頼むよ」夏芽さんが目を通した書類は、『決裁』と『差し戻し』の二つのステータスに分けて、システムに一時保存されている。膨大な書類を審議しなきゃいけない彼に代わって、申請部署への差し戻しや、社長決裁に回付という電子手続きは、私が行っている。彼は私に業務指示を出しながら執務机に回り、椅子にかけていた上着を取り上げ、サッと袖を通す。「はい」「じゃ、留守を頼む」大きなサイズの手帳とスマホを手に、颯爽と執務室を出ていった。ゆっくりとドアが閉まり、その背が見えなくなるまで見送って、私は胸に手を当て、グッと拳を握りしめた。二日前、夏芽さんに内緒で湊さんに依頼した、多香子さんとの面会の約束。彼女はこの後間もなく、ここに来てくれる。会うのは私一人だけど、表向きは夏芽さんを訪問という体になっている。ビルのグランドエントランスの総合受付からは、秘書室を通さず直接ここに連絡が入るはずだ。強い緊張で、胸の拍動がやや速い。落ち着かない気分で自分のデスクに戻り、午後の業務を始めたものの、何度も時間を確認した。
last updateLast Updated : 2025-04-04
Read more

乗り越えるべき試練 7

夏芽さんが出ていって十分ほど過ぎた時、総合受付から電話が入った。多香子さんの来訪の連絡だ。私は、エレベーターで直接このフロアまで上がってもらうようお願いして、デスクを立った。もちろん、エレベーターホールまで、彼女を迎えに出るためだ。ホールには、六基のエレベーターがある。その内、どのドアが開くのか――。私はさらに緊張感を強めながら、視線を走らせた。やがて、一番奥のドアが開いた。相変わらずシックなスーツ姿の多香子さんが、姿を現す。私の胸が、ドクッと沸くような音を立てた。彼女は、ドアを一歩出たところで、一瞬方向を確かめるように逆側を向いてから、ゆっくりこちらに顔を向ける。その目が、私の上で留まった。私は、胸いっぱいに広がった緊張を必死に抑えて、一度深々と頭を下げた。ゆっくり背を起こしてから、「突然お呼び立てして、申し訳ございません」と謝罪をした。「いいえ。お招きありがとう」多香子さんは余裕たっぷりにそう言って、長い髪を掻き上げた。そのまま、高いヒールをややカーペットに沈ませて、私の方に歩いてくる。距離が狭まるにつれて、一歩後ずさりたくなる衝動と闘う。なんとかその場に踏み止まる私の前まで来て、彼女はピタリと足を止めた。「改めまして。島内(しまうち)多香子と申します」「島内……さんですか。鏑木、ではなく?」わりと丁寧に自己紹介してくれた彼女に、私は反射的にそう訊ねていた。「ええ。私は鏑木の分家筋なの。……って、私の名字に反応するってことは、本当なのね。記憶喪失って」「……っ」真っ向から確認されて、私はほんの一瞬怯んだ。だけど、それを気取られないように、思い切って胸を反らす。「なつ……鏑木さんは、現在不在です。ここではなんですから、執務室にどうぞ」そう言って、多香子さんの前に立って、執務室に誘導すべく廊下を歩き出した。
last updateLast Updated : 2025-04-04
Read more

乗り越えるべき試練 8

お昼の休憩中、夏芽さんが座っていたソファを多香子さんに勧めて、私はコーヒーを淹れた。ローテーブルにソーサーとカップ、ティースプーンを置いて、彼女と向かい側のソファに回って腰を下ろす。「ありがとう。いただきます」多香子さんはそう言って、ブラックのままコーヒーを一口飲んだ。綺麗なネイルが施された指を優雅に動かし、カップをソーサーに戻す。そして、ふと目線を上げて私を見据えた。「夏芽から聞いたけど、この一年ほどの記憶を失ってるんだとか……。私と会ったことも覚えていないということね?」細い足を妖艶に組み上げ、早速切り出してくる彼女の前で、私はゴクッと喉を鳴らした。「私がこのビルのエントランスで、エスカレーターから落ちた時……多香子さんと一緒にいたことは知ってます」「え?」「入院中……病院に来てくれましたよね。その時、鏑木さんと話していたのを……聞いてしまいました」私がほんのちょっと言い淀むと、彼女は「あら」と言葉を挟んだ。そして、なにか思い当たった様子で、軽く口角を上げる。「それじゃあ、私と夏芽がキスしたのも、見られた……ってことね」「っ」まさに、あの時の光景が、脳裏を過ぎっていたところだ。私はグッと詰まってから、なんとか虚勢を張って胸を反らした。「鏑木さんは、からかってるだけだと仰いました。多香子さんとは許嫁だったけど、婚約は解消しているし、もともとお互いに恋愛感情もないって」「夏芽の記憶も忘れてるわりに、ムキになるのね。……ああ、それとも、その部分だけは彼から吹き込まれて、また手籠めにされた?」彼女は皮肉気にクスクス笑いながら、そう突っ込んでくる。その言葉に、私は頬にカッと朱を走らせた。「手籠めなんて……! 変な言い方しないでください。そ、それに、夏芽さんは私に、なにも吹き込んだりしてませんっ」そう、彼はむしろ、『嘘しかつけない』と言って、私が自分で思い出すのを待ってくれている。思わず身を乗り出し、唇を戦慄かせながら、多香子さんを睨む。「そう。それじゃ、記憶を失っても、また惹かれ合った……とでも? ロマンティックね」彼女は興醒めといった表情を浮かべて、足を解いた。深くソファに背を預け、胸の前で腕組みをする。私の方は、一瞬にして煽られた興奮を、抑えられない。中途半端に浮かしかけていた腰をソファに戻し、膝の上でスカートを握った。「婚約解消……ね。いったい誰のせいだと思ってる
last updateLast Updated : 2025-04-04
Read more
PREV
12345
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status