All Chapters of あなたの子です。結婚してください: Chapter 21 - Chapter 30

36 Chapters

巻き込むつもりじゃなかった 2

慧斗の誕生月、三月に入ってから、ロンドンの厳しい冬の寒さも、ほんのちょっと和らいだように感じる。まだまだ春爛漫にはほど遠い。だけど、慧斗を連れて散歩に出かけた公園の木々に息吹く新芽を見つけ、ほっこりする――心穏やかな日々だ。「慧斗、気持ちいいねえー」私は目線を下げて、声をかけた。塔也さんが買ってくれたベビーカーに、慧斗がちょこんと座っている。「パパが買ってくれたベビーカー、乗り心地どう?」足を止め、少し身を屈めて訊ねると、慧斗が「ぱーぶー」と応じる。多分、『パパがくれたブーブー』とわかっている。私は無意識に顔を綻ばせ、背筋を伸ばした。素敵なプレゼントが届いてから三日。ベビーカーもベッドも、大活躍だ。今まではなにをするにも、慧斗から目が離せず付きっきりだったけど、ずっと抱っこして歩かなくて済むし、家でも家事に集中できる。「お願いしてよかったー」私はクスッと笑ってから、微笑んでいる自分に虚を衝かれた。慧斗の可愛さ以外に、こんな笑みが零れるの、生まれて初めてな気がする。自分でもあまり馴染みのない笑い方をしたことに、ほんのちょっと怯む。これも、塔也さんが妻にしてくれたからだ。なんとなく、くすぐったい――。「そ、そうだ慧斗。大使館の近くまで行ってみようか」頬が火照るのに慌てて、私は取ってつけたような提案をした。慧斗は、バタバタと足を動かしている。そもそも、『大使館』がわかるわけがない。「ええと……パパがお仕事してるところ!」半分自分を鼓舞するように説明して、力いっぱいベビーカーを押した。塔也さんが勤務する在英日本国大使館は、ウェストエンド地区のピカデリーにある。ジョージアン建築という様式の白亜の建物で、これぞヨーロッパ!と思わせる魅力的な外観。ちょうどお昼時だ。お昼休憩で、塔也さんが出てくるかもしれない。お仕事中のパパを、慧斗に見せてあげられるかも――。私は胸を弾ませてベビーカーを押して歩き、二十分ほどで大使館前に到着した。大使館には、多くの人が出入りしている。出てくる人は、塔也さんの同僚だろうか。私は無駄にドキドキしながら、ほとんど導かれるように一歩踏み出した。と、その時。「!」大使館のエントランスから、キリッとスーツ姿の塔也さんが出てくるのを見つけて、ドキンと心臓が飛び跳ねた。もしかしたら……と期待はあったけれど、まさか本当に見られるなんて。塔也さんは一人だ。コートを羽
last updateLast Updated : 2025-03-31
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巻き込むつもりじゃなかった 3

その夜、私は慧斗を寝かしつけてからお風呂に入った。バスタブに熱いお湯を張って、身体がふやけるまでのんびり浸かること四十分。入浴を終えて、毛先が鎖骨にかかる長さの髪をタオルドライしながらラウンジに戻り、ドア口でギクッとして足を止めた。ソファに、塔也さんが座っている。「と、塔也さん。お帰りなさい」こちらに向けられた背中に声をかけた私を、ネクタイを緩めただけでワイシャツ姿の塔也さんが、ソファの背越しに振り返った。「……ああ」それだけ言って、ふいと正面に向き直る。私は一瞬所在ない気分に駆られ、遠慮がちに歩を進めた。ローテーブルの上に、ウィスキーのボトルとグラスが置かれている。「もしかして、結構早く帰ってきてましたか?」そう訊ねながら、壁時計を見上げた。私がお風呂に入っている間に、時計の針は午後十時を過ぎていた。「三十分くらい前に」塔也さんは返事をしてから、指先で摘まむように持ち上げたグラスをグッと呷る。それを聞いて、私は肩を縮めた。「ごめんなさい。今日はゆっくりお風呂入りたくて。塔也さんのこと、待たせちゃい……」「別に。俺が入りたければ、お前が先に入っていようと遠慮なく入っていくし」「は……?」あまりに太々しくて、言われた意味が瞬時にわからなかった。傍らに突っ立ち、パチパチと瞬きをする私に、彼が上目遣いの視線を向ける。「そんなことはどうでもいい。長閑、ちょっとここ座れ」自分の隣をポンポンと叩いて示されても、私の忙しない瞬きは続く。「……なんだよ。またメイドプレイ続行?」塔也さんの眉間に、皺が刻まれる。「ご主人様の命令だ。長閑、俺の隣に来い」やけにねっとりと単語で区切って言われて、私は重力に負けたように首を傾けた。「あの……酔ってます?」彼に訊ねながら、目線はウィスキーのボトルに向く。ボトルには、ウィスキーが半分ほど残っている。これ……この三十分で飲んだんじゃないよね……?「酔ってねえよ。まだこのグラス一杯だ」塔也さんが、顔の高さにグラスを持ち上げ、軽く揺らした。大きな氷がカランと音を立てる。「そ、そうですか」私はおどおどと視線を彷徨わせたものの、観念して彼と間隔を空けて腰を下ろした。塔也さんは私の方に顔を向け、穴が開きそうなほどジーッと見つめている。本人が『酔ってねえ』と言うなら、そうなんだろうけど……。それなりにアルコール度数が高いウィスキーのせいか、私を捉える瞳はしっ
last updateLast Updated : 2025-03-31
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巻き込むつもりじゃなかった 4

一晩中、脳神経が麻痺したみたいに、ボーッとしていた。そんな中、聴覚ばかりが敏感に働く。私の耳がその日最初の小鳥の囀りを拾ったのは、塔也さんがフラットを出ていってから七時間ほど後。窓にかかったカーテンの隙間から射し込む朝日は、まだ弱い。私のベッドの側に寄せたベビーベッドで寝ている慧斗の呼吸も、穏やかで静かで――非日常かと思うほどの静寂。ドアの向こうからも、なにも聞こえない。塔也さんは、帰ってこない――。私は、モゾッと起き上がった。ベッドから降り、パジャマの上にストールを羽織って、部屋を出る。スリッパの足音を抑えて廊下を歩き、塔也さんの寝室の前に立った。「……塔也さん」思い切って、ドアを開けてみる。部屋には、大きなベッドとサイドテーブル、造りつけのクローゼットしかない。ベッドクロスは昨日私が整えたまま、乱れもない。私と慧斗が寝ている部屋と比べものにならないくらい、室内の空気はひんやりと冷たく――もちろん、塔也さんはいない。私は、ふうと小さな息を漏らし、ドアを閉めた。くるりと方向転換して、ラウンジに向かう。固く閉ざされたペイウィンドウに、外からの明かりは入らない。ラウンジは音も光もなく静まり返っていて、塔也さんの姿はない。キッチンにも、彼のワーキングルームにも足を運んだ。フラット中、どこを捜しても塔也さんは見つからず、私は肩を落とした。きっと……昨夜、塔也さんは――。私は、ギュッと握った拳を胸元に押さえつけた。塔也さんは、十割の内九割は人でなしだ。でも私は、残りのたった一割を、いい人だと思ったことがある。圧倒的劣勢な『いい人』だけを信じ、覚悟を決めて塔也さんのもとに飛び込んだ私を、彼自身が『身投げ』なんて言い方をした。あながち間違っていない。私の我儘に塔也さんを巻き込むんだもの、自分のことなんかどうでもよかった。だと言うのに、私の中で彼の九割がいい人に変わりつつある今、堂々と『お望み通り、女のところに行ってくる』と言って、『酷い男』になる彼に、切なく胸が締めつけられる。『お望み通り』なんて。違う。そんなこと望んでなんかいない。だけど――止められなかった。『お前以外、他に誰を抱けるって言うんだよ』彼の言葉から迸ったなにかを、私は上手く捉えられない。真摯な言い回しに隠されただけで、結局ただの性欲?私は、形だけの妻でいい。生理現象でしかない欲求なんて向けられたくなかったから、
last updateLast Updated : 2025-03-31
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巻き込むつもりじゃなかった 5

どれくらいかして、私は慧斗が泣く声で目を覚ました。「ん……慧斗……」ベッドに突いた肘を支えに、上体を起こす。眠りにつく前まで、非日常かと思うほど静かだったせいか、今、慧斗の泣き声が部屋中に反響して聞こえる。それにしても、なんだかいつもより泣き方が激しいような……?「……?」ベビーベッドを覗き込む。弱い明かりの下でも、火が点いたように泣いているのを見て、慌てて抱き上げた。「どうしたの、慧斗」軽く揺すってやりながら、部屋の電気を点ける。サイドテーブルの上に置いてあるデジタル時計は、午前九時を示していた。「九時……もうこんな時間」無意識に独り言ち、顎を引いて胸元の慧斗を見下ろす。――微かに臭ってくる、これは……。「ごめんね、気持ち悪かったね。すぐオムツ替えよう」小さい身体をベビーベッドに戻し、テキパキとオムツを替えて綺麗にしてあげると、慧斗も泣きやんだ。「よかった、泣きやんでくれて。……ふう」ホッと、息を吐く。「慧斗、お誕生日おめでとう。一歳の今年は、きっと去年より幸せだよ」本当は慧斗が目を覚ましたら、一番に言ってあげたかったお祝いの言葉。瞳いっぱいに浮かんだ涙を拭いてやりながら言っても、慧斗はきょとんとしている。いつもの愛らしい笑みを、見せてくれない。薄い眉毛をハの字に下げ、ご機嫌は直らない様子。まるで、私の浮かない気分がうつったみたい。慧斗は敏感だから――。「ごめんね。……朝ご飯にしようか」気を取り直して慧斗を抱き上げ、部屋から出る。ラウンジの床に座らせて、早速キッチンで朝食作りに取りかかった。時折ラウンジを覗き、慧斗の様子を確認しながら調理すること二十分。自分のと慧斗の離乳食をラウンジに運び、慧斗を抱っこしてソファに腰を下ろした。いつも通り、BGM代わりにテレビを点け、慧斗に食べさせながら自分も食事を進める。しばらくして、慧斗が『いやいや』して、スプーンを止めた。器の離乳食は、半分以上残っている。ロンドンに来てすぐ食欲が失くなって心配したけど、最近回復傾向にあると思っていた。なのにまた、落ち込んでる?「慧斗?」こちらを向くように抱え直し、コツンと額をぶつけてみる。普段は、顔を近付けるときゃっきゃっとはしゃぐのに、今日は反応が薄い。そう言えば、さっき替えたオムツ。いつもより、便が緩かった気がする。額もちょっと熱いような……。「ぐしゅっ」突然慧斗がくしゃみをして、私は
last updateLast Updated : 2025-03-31
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肩の荷下ろせよ 1

夜のとばりが降りる頃、ロンドンの中心地、シティにあるコンベンションホールの前に、俺は一人で佇んでいた。先ほどから、たくさんの紳士淑女が連れ立って、俺の横を通り過ぎていく。あと十分ほどで、このホールでイギリス海運業界主催のレセプションパーティーが行われる。大手海運会社のトップが勢揃いと、規模が規模なだけあって、あちらこちらに財政界の著名人の姿がある。あちらの白髪紳士は、イギリス投資銀行の頭取。彼と話しているワインレッドのネクタイの男は、Her Majesty's Treasury……大蔵省の次官クラス。向こうの禿げ頭はDepartment for International Trade、国際貿易省の大臣だ。各界でトップクラスの重鎮たちは、男女同伴というマナーを遵守し、皆夫人をエスコートしている。俺は賑やかな人々を横目に、仏頂面で腕組みをした。このパーティーへの出席は任務だ。楽しみに来たわけじゃないし、むしろこれからの段取りを考えるとまったく気が抜けない。――それだけじゃない。昨夜からの苛立ちが二十時間近く経っても治まらず、表情筋は固まったまま緩まない。思わず天を仰ぎ、声に出して息を吐いた時。「お……お待たせしました、綾瀬さん」日本語で声をかけられ、そちらに目線を動かし……。「……はあああ……」腹の底から、さらに深い息を吐き出した。「ちょっ。なんですか、その溜め息。挨拶も返さず、一目見た途端にそれって、失礼じゃないですかっ」俺の反応に憤慨して、ドスドスとこちらに歩いてくるのは、大使館の研修員、水島だ。「それに、そんな反応されるほど酷くないつもりです」鼻の穴を広げて食ってかかってくる彼女を、俺は軽く手で制した。「ああ、うん。悪くない。ちゃんとTPOはわきまえたようだし」口元を手で覆い、評価を濁してみせる。そう、別に悪くはない。普段、リクルートスーツかと思うほど色気も素っ気もない黒いパンツスーツに、長い髪をひっ詰めて結んでいる彼女にしては、結構な努力が窺える。春という季節を意識したのか、薄いピンクのロングドレスは、デコルテラインを強調している。夜会巻きにした髪も華やかだ。しかし。「こうも、そそられないとは……」色気がないという点では長閑に通じるが、控えめとは言え肌を出した女に対して、ほんの少しもグラッとこなくて、むしろ申し訳なくなる。手でくぐもらせた独り言に「なんですか」
last updateLast Updated : 2025-03-31
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肩の荷下ろせよ 2

定刻通りに始まったパーティーは、主催者である海運業連盟の理事長の挨拶の後、歓談に移った。ホールを練り歩くウェイターのトレーからワイングラスを二つ取り、水島に一つ差し出す。「あ。私は任務中なので……」「パーティー潜入が任務だろ。生真面目に客に目光らせるだけじゃ、怪しまれる」俺は眉根を寄せて、グラスを突きつけた。「……すみません」首を縮めて恐縮する彼女から目を逸らし、そのままホール内に視線を走らせる。中央からやや右寄りに、ターゲットを見つけた。「いたぞ。JONAS OCEAN TRADINGの会長」俺が声を潜めて耳打ちすると、ちびちびとワイングラスに口をつけていた水島が、ハッとしたように顔を上げる。「おい。パーティー出席者らしくする方に気を取られて、情報収集って任務を忘れるな」「は、はい」取り繕うように背筋を伸ばし、俺が顎先で示した方向に目を遣った。「一緒にいる中年、誰だかわかるか」俺がコソッと挟んだ質問に、彼らに目を凝らした後、かぶりを振る。「すみません。今まで集めた資料には……」「だろうな。俺も初めてだ。……JONAS OCEAN TRADINGの関係者か?」水島というより自分に問いかけながら、俺は眉間に皺を刻んで顎を摩った。年の頃は五十代前半。やや白いものが混じる薄い茶色の髪をオールバックに固めた、背の高い痩身の男だ。このパーティーに出席するくらいなら、経営陣に近い関係だろう。取引上の関係者か? それとも側近か。JONAS OCEAN TRADINGの人間ではないのだろうか。これまでに調べ上げた資料には存在しない人物――。「水島、行くぞ」「え? あ、はいっ」条件反射的な返事をする彼女の腕を、グッと引いたその時。「Good Evening, Toya」名を呼ばれ、俺は踏み出しかけた足を止めた。俺の横で、水島が「げ」と小さな声を漏らすのが聞こえる。「Olivia」俺とは別に客として潜入していたオリヴィアが、胸元が開いたセクシーなマーメイドドレスの裾を揺らして近付いてきた。俺と握手を交わしながら、「How's the survey going?」と、こちらの守備を美しいブリティッシュイングリッシュで訊ねてくる。それには、「From now on」と答え……。「Olivia, Do you know that man?」俺は彼女に一歩踏み出し、目線を動かして示した。オリヴ
last updateLast Updated : 2025-03-31
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肩の荷下ろせよ 3

俺は電話を切ると、後のことは水島とオリヴイアに託し、水島の詰る声を背に受けながらホールを飛び出した。イギリスでも有数のビジネス街・シティを、フォーマルなブラックスーツで全力疾走して、途中、流しのタクシーを捕まえることができた。向かった先は、ロンドンでも腕がいいと評判の救急指定病院だ。そこの小児科は、俺の上司である駐英大使の子供のかかりつけで、外交官の身分を明かせば時間外でも融通してくれる。夜のロンドンを疾走するタクシーから、車窓を流れる街並みを眺める。濃い闇に吸い込まれそうな錯覚を覚えながら、鼓膜に焼きついている悲壮な泣き声を脳裏によぎらせた。『どうしよう。慧斗がぐったりしてる。塔也さん、助けて……』涙で詰まる長閑の声に、俺は足の上で無意識に拳を握りしめた。動転してパニック状態の彼女を必死に宥め、なんとか説明させたところによると、泣き方が激しかったり朝食を戻したり、朝から様子がおかしかったそうだ。しかし、泣きっぱなしではなくすぐに落ち着いたのと、土曜日の救急診療と自身の英語力に不安があったため、昼間は様子を見ていたと言う。夜になってオムツを交換したところ、便に血が混じっているのに気付いた。ギリギリの状態だった不安と心配が恐怖に変わり、泣きながら俺に電話をしてきた――。ポツポツとした街灯の灯りが軌跡を描き、視界を横断する。「…………」俺は窓枠に肘をのせ、苦く歪んだ口元を手で覆った。不覚にも、心臓がドクドクと沸いた音を立てている。子供の急病に動揺する、長閑の怯えが移ったせいか。それとも、昨夜の今日で、彼女と会うのが気まずいからか。……落ち込んでいる彼女に、俺が抱えている思いを、容赦なく迸らせてしまいそうな予感からか――。十五分ほどで病院に到着すると、俺は救急外来の出入口に駆け込んだ。受付窓口で慧斗の名を出し、教えられた処置室に急ぐ。そして、「……長閑!」処置室前の廊下に置かれた長椅子に、両手で顔を覆ってうなだれる長閑を見つけ、声を張った。彼女が、ハッとしたように顔を上げる。虚ろな視線を動かし、俺の上で留めた途端、「塔也さん……」子供みたいに顔を歪ませた。俺はネクタイを緩めながら、大股でツカツカと彼女に近付いていった。腰を浮かそうとした彼女を制し、その隣に座る。「容態は?」短く訊ねると、長閑は涙でぐしょぐしょの目を、前方の処置室に向けた。「まだ、そこで……」彼女が俺に答
last updateLast Updated : 2025-03-31
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肩の荷下ろせよ 3

フラットに帰り着いた時、時計の針は午後九時を回っていた。タクシーでの帰路の途中、水島から電話の着信があったので、俺はスマホを操作しながらワーキングルームに向かった。「……そうか。サンキュ。悪かったな、ほっぽって行って」報告を聞いて申し訳程度に謝ると、『ほんとですよ!』と憤慨された。耳にキンキンする声に、思わずスマホを耳から遠ざけた。『そ、それにっ! 子供が急病って。いったいどういう言い訳なんですか』「そのままだけど」『だから、子供って。どこの誰の子供……』「俺の」短く返すと、『は?』と惚けた声が聞こえる。俺はガシガシと頭を掻き……。「月曜、大使館で説明するよ。じゃ、悪かったな。気をつけて帰れよ」俺は、水島がまだなにか言ってくる途中でブチッと電話を切り、一度肩を動かして息を吐いた。電話を終えてラウンジに向かう。ドア口から、呆けたようにソファに座っている長閑の背中を見つけた。「…………」俺は無言でネクタイを解きながら、彼女の隣にドスッと腰を下ろした。その振動のせいか、長閑が我に返って顔を上げる。「あの、ごめ……」「何度も謝らなくていい」ほとんど反射的に言いかけた謝罪を、俺は途中で制した。長閑は俺の横顔をジッと見つめて、恐縮したように首を縮める。そして。「私……ママ失格です」聞いたことがないくらい弱々しい声を耳にして、俺は彼女を横目で見遣った。「せっかくの誕生日に、慧斗に辛い思いさせて……」グスッと鼻を鳴らす様を、視界の端に映す。「……子供にはよく見られる病気だと言われただろ。なにもお前が悪いわけじゃ」俺がかける言葉を探して口にする途中で、長閑は目を伏せてかぶりを振った。「私が、無責任なんです」やけに強く断言する彼女を、俺は怪訝な思いで見つめた。「母と同じ事情でママになっても。パパがいなくても、私は慧斗を可哀想になんかしない。塔也さんには偉そうに言ったけど……ほんとは、私」長閑は泣きそうに顔を歪めて、一度言葉を切り……。「生まれてしばらくの間……泣き出すと耳を塞いで逃げて、泣き疲れるのを待った。おっぱいもあげられないくらい、慧斗を受け入れられなくて」「え……?」「慧斗が機嫌のいい時だけ近寄る……。育児放棄とかネグレストとか……虐待スレスレの状態だったんです」ズッと洟を啜って、自分を落ち着かせようとしてか、ハッと浅い息を吐く。「ママになる自信、完全に失くしてました。やっぱ
last updateLast Updated : 2025-03-31
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私の旦那様になって 1

なにか、とても温かい音が聞こえる。とくんとくんとくん――。ゆったりと規則正しい、肌にも馴染む強いリズム。包み込まれるみたいで、心地いい。ああ、これは心音だ。この世に生を受ける前から、ずっとどこかで耳にしていた、優しくて穏やかで懐かしい――命の音。「ん……」全身を包む温もりをさらに求めて、モゾッと身体を動かした。頬に当たるなにかに、『もっともっと』というように自ら擦りつけた、その時。「……起きたか?」額の先から、低い声がした。「ん……え?」問われたことに素直に頷いた次の瞬間、寝起きで声をかけられるという状況が、あり得ないことに気付いた。一気に思考回路が働き始め、バチッと勢いよく目を開けて……。「おはよ」欠伸混じりのくぐもった挨拶に返す余裕もなく、私は身体をビキッと硬直させた。「? なんだよ、長閑」「なっ……なんで? なんでなんで!?」私は絶叫しながら上体を起こし、勢いよく飛び退いた。そして、「あ」という声を聞きながら、ドスンとベッドから落ちる。「痛っ!!」「バカか……なにやってんだよ」ベッドの下で尻もちをつき、顔をしかめる私に、塔也さんが呆れ顔で身を乗り出す。「!」バチッと目が合う前に、私はとっさに胸元を抱きしめた。それから、恐る恐る自分の身体を見下ろすと、頭上から「はあ」と溜め息が落ちてくる。「ヤってねえよ。少しは信じろ」チッと舌打ち混じりの言葉の通り、私はちゃんと服を着ていた。無意識にホッとしたものの――。「だ、だったら、なんで」顔を火照らせて言い返すと、塔也さんは忌々し気に顔を歪めて、寝乱れた髪をザッと掻き上げた。「昨夜、お前があのまま寝たから」「あのまま?」「抱きしめてる間に寝落ちとか。お前、慧斗よりよっぽど赤ん坊なんじゃないか?」「え? ……っ!!」意地悪な言葉に導かれ、昨夜の記憶が鮮明に蘇ってきた。火が噴く勢いでカアッと熱くなる頬を両手で押さえて、弾かれたように彼に背を向ける。「す、すみません。でも、だからって、どうして塔也さんのベッドに……」羞恥のあまり、まだブツブツと言い募る私に、塔也さんが深い溜め息をつく。「……別にいいだろ。面倒臭いから俺のベッドに運んだだけで、本当になにもしてないんだから」ムッと唇を曲げて、ベッドを軋ませて床に降り立つ。いきなり目の前に聳え立った彼に怯み、私はお尻を浮かせて後ろに逃げた。塔也さんは、私に肩越しの視線を落とし……。
last updateLast Updated : 2025-03-31
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私の旦那様になって 2

その夜、塔也さんは午後八時に帰ってきた。私はちょうど、一人で夕食を終えた後だった。洗い物の手を止め、布巾で手を拭いてラウンジに戻る。「お帰りなさい」塔也さんは、ソファにスーツの上着を放り、ネクタイを緩めながら「ん」と応じた。いつもと変わらない様子の彼を前に、私は緊張を強めた。一夜明けて冷静になってみると、とんでもなく情けない最低なことを口走ってしまったと痛感していた。いろんな感情が飽和状態で、いっぱいいっぱいになっていたとは言え、私にとって一生ものの悔恨、贖罪。あれを聞いて、塔也さんがどう思ったか――知るのが怖いからこそ、もう一度ちゃんと謝らなければ。「あの、塔……」「どうだった?」「っ、え?」口を開いた途端質問を挟まれ、出鼻を挫かれてしまった。言葉に詰まった私を、塔也さんがちらりと見遣る。「子供」今朝は『慧斗』って呼んでくれたのに、また戻っちゃった……。私の錯覚だったのかとか、ただの気まぐれだったのかと、がっかりする。「あ、はい。……慧斗、元気でした」それでも私は、気を取り直して報告した。今朝、休日出勤する彼が、大使館に行くついでに、私を病院まで送ってくれた。小さなベッドが並ぶ病室に入ると、昨夜はあんなにぐったりしていた慧斗が、ぱっちり目を開けていた。私を見ると甘えて、『まー』と手を伸ばす、いつもと同じ反応。小さな手の温かさも変わらず、心の底からホッとしたことを思い出して、鼻の奥の方がツンとする。「そ」自分で聞いておいて、塔也さんの反応は薄い。「ドクターの話では、週明け火曜日には退院できるそうです。それで」私は思い切って一歩踏み出し、報告を続けた。「退院してすぐなので、慧斗の誕生日のお祝いは、また日を改めてってことに……」塔也さんじゃなく、自分自身が残念な提案に俯いた私を、「火曜……。……かな」彼は顎を撫でながら遮った。思案顔をして低めた声で、なにを言ったか聞き取れない。しかも、慧斗の誕生日は軽くスルーされた。でも真剣な表情だから、憤慨して食ってかかることも憚られる。私は、彼からわずかに視線を外し――。「あの、塔也さ……」無意味に服の裾を両手で引っ張り下げながら、昨夜のことを改めて謝ろうと、遠慮がちに呼びかけた。なのに。「午前中に、退院可能か?」塔也さんが私を斜めの角度から見上げ、話題を続ける。おかげで、またしても謝罪のタイミングを失った。「え? あ、大丈夫だと
last updateLast Updated : 2025-03-31
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