All Chapters of あなたの子です。結婚してください: Chapter 11 - Chapter 20

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いらない子だなんて言わないで 2

お仕事が忙しいのか、それとも、彼女と会っているのか。綾瀬さんは、その日もその次の日も、私が寝る前に帰ってくることはなかった。何時に帰ってきているかもわからないけど、睡眠時間が片手ほどもないのは明らか。可能な限り睡眠時間に充てたいのか、家を出るのが午前七時に対し、起き出してくるのはほんの三十分前。身支度にかかる時間を逆算して六時半がギリギリのようで、起床後、一分一秒たりとも無駄な時間はない。もちろん、朝食のために、食卓につく余裕はない。最初の日のソーセージロールと同様、パンだけ咥えて玄関へと歩いていってしまう。そこから学習して、翌日はスープをマグカップに入れて出してみたら、申し訳程度に口をつけてくれた。仕事に行く前の彼に、手の込んだ朝食は必要ない。私も、早々に結論づけた。ロンドンに来て、四日目の朝。サンドウィッチを一切れ口に咥えて、慌ただしく出ていく綾瀬さんの背中に、私は小さな溜め息をついた。これじゃあ、『家族』団欒どころか、向かい合って食事をすることもままならない。週末は、お休みだろうか。慧斗の誕生日を祝う約束、守ってくれるだろうか……。私はキッチンを片付け、簡単な掃除を済ませてから、慧斗の離乳食を用意した。ラウンジのソファに座り、慧斗を膝の上にのせる。綾瀬さんに出したのと同じサンドウィッチを摘まみ、じゃがいもとベーコンのスープを潰して作った離乳食を慧斗に食べさせ、ぼんやりとテレビを眺めた。映っているのは、ニュース番組だ。日本で育児の傍ら、英会話の習得に励んだけれど、まだまだ旅行会話がやっとのレベル。こうしてテレビを観るのもいい勉強だけど、キャスターの英語は難しいし、スーパーを目で追ってみても、なんのニュースかわからない。毎日午前中に放送している一昔前の日本のアニメも、セリフがわからず、内容はちんぷんかんぷんだ。キャラクターが可愛いくて、慧斗は大喜びで観ているけど……。一日中慧斗と二人の生活は、日本でも同じ。でも、家にいても街に出ても、耳に入るのは早すぎて聞き取れない英語だ。誰かと自然に『会話』できないストレス……ここに来てまた味わうとは思わなかった。「はあ……」重い溜め息を吐いた時、ニュースが終わったのか、アニメ番組が始まった。午前十時になったと気付くと同時に、「ぐふっ」小さなゲップが聞こえて目を落とすと、慧斗が、私が口元に差し出すスプーンから顔を背けている。「
last updateLast Updated : 2025-03-31
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いらない子だなんて言わないで 3

私は、慧斗がアニメ放送に夢中でいる間に、簡単に身支度を整えた。それから、ともすれば、テレビに飛びつかん勢いの慧斗を、苦労して着替えさせる。アニメ番組が終わると、慧斗を抱っこしてアパートメントを出た。お昼時が近いロンドンの空は、薄い雲がかかっていた。ロンドンは、『霧の街』とよく言われる。かなり昔、大気汚染問題が深刻だった頃のことが、今もなお、人々の印象に色濃いようだ。実際、海流の影響や放射冷却現象で、特に冬場は濃霧に見舞われることが多いそうで、確かに早朝の街はいつも真っ白。でも、たいていは朝のうちだけで、霧が晴れると気持ちのいい青空が広がる。今も、薄い雲間から柔らかい陽が射し込み、しっとり濡れた石畳を照らしている。「気持ちいいね、慧斗。……よっこらしょ」私は慧斗に笑いかけてから、軽く揺さぶるようにして抱え直した。「ベビーカー欲しいなあ……」思わず、本音が漏れる。月齢のわりに小さいとはいえ、八キロの子供を抱っこして長時間歩き回るのは、なかなか骨が折れる。日本で使っていたベビーカーは、地域のリサイクルサイトで格安で譲ってもらった古い物だったから、飛行機に持ち込むことも考えて処分してきた。ロンドンで新しいものを購入しようと思っていたけど、まだ探しに行けていない。でも、意外と出歩くことも多いし、そろそろ真剣に必要かも……。時折、よいしょと位置を直しながら、街を歩くこと三十分。綾瀬さんのアパートメントから二駅離れた繁華街に着き、ネットカフェを探し当てた。平日午前中というのもあり、すぐに個室に入ることができた。狭いけど、床にはカーペットが敷かれている。私は慧斗を床に座らせて、バッグから赤いミニカーを出した。「ほら、慧斗。慧斗の好きなブーブー」目の前に翳してから、床の上を手で行き来させて見せると、「ぶーぶ。ぶー」と、喜んで自分で動かし始める。それを見て、私はパソコンデスクの前の椅子に座った。すぐにパソコンを起動させて、二年前にも使った検索サイトを開いた。ネット掲示板に書き込むために、ID登録する必要があったことを思い出す。今でも使えるだろうか。今知りたい情報なら、掲示板の書き込みこそ有益かもしれないし……。試しに、IDを入力してみた。当然ながら、パスワードは失効していたけど、新しいものを再設定することで、今でもログインできた。一度慧斗に目を向けると、家にいる時と同じく、赤いミニカ
last updateLast Updated : 2025-03-31
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いらない子だなんて言わないで 4

今夜も、綾瀬さんが帰ってこないまま、午後十時を過ぎた。私と慧斗、二人だけでは、このフラットは広すぎる。しんと静まり返っていて、うっすらと寒い。私は、ラグマットの上ですやすや眠る慧斗の頭を撫でながら、肩を落として溜め息をついた。今日も、たくさん慧斗と遊んだ。いっぱい笑ってはしゃぎ疲れただろうから、夜泣きすることなく、ぐっすり眠ってくれるはず。「慧斗は、パパに迷惑かけないように、いい子にしてるのにね」ポツリと口を突いて出たのは、私自身の愚痴だった。綾瀬さん……今夜も、彼女と一緒かな。慧斗の『パパ』が、毎日のように女性との逢瀬に精を出しているかと思うと、心穏やかではない。「…………」私は目を伏せ、黙ってかぶりを振った。慧斗を遊び疲れさせる作戦は、私にも効果的面だった。私も、ヘトヘトだ。今日は、ネットカフェを出て、日本食材を扱っているスーパーまで足を伸ばした。いつもより長いお散歩で、身体も疲れ切っている。彼女と過ごす綾瀬さんを、メイドの私が待つ義理もない。やや捨て鉢な気分で自分に刻むと、慧斗を起こさないように抱き上げた。ベッドに運び、規則正しい寝息を確認してから、足音を忍ばせて客室を出る。私はラウンジを通り抜け、キッチンに入った。キッチンと間続きのダイニングルームに、綾瀬さんのために夜食を用意してある。スーパーで、少しだけお米を調達できたから、彼もきっと久しぶりだろうなと思って、小ぶりなおにぎりを二つ作っておいた。テーブルに置いたお皿の横に、『よかったら食べてください』とメモを添えて、ダイニングルームを後にした。戸締りを確認しながら、フラット内を一周する。こうしている間にも、綾瀬さんが帰ってこないかと、何度も玄関を振り返った。後ろ髪を引かれる思いで客室に戻り、静かに閉じたドアに背を預ける。一度天井を仰いで肩を落としてから、気を取り直してドアから離れた。部屋の電気を一番弱い明かりに調整して、ベッドに入った。私は、寝る時は真っ暗な方がいいのだけど、少し電気を点けておかないと、慧斗が目を覚ました時に怖がる。ベッドが揺れないよう慎重に横たわり、掛布団をしっかり肩まで上げると、無意識に大きな息が零れた。そう言えば……初日の夜、私は、いつベッドに移動したんだろう。ロンドンに到着したばかりで、長い飛行機移動で疲れていたのもあり、慧斗と遊ぶうちに眠ってしまっていた。翌朝、ベッドの中で目覚
last updateLast Updated : 2025-03-31
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してません。ドキドキなんて 1

二十分ほどして慧斗が泣きやんでから、私は綾瀬さんのワーキングルームを訪ねた。ノックをすると、彼が自ら戸口に立ち、ドアを開けてくれた。私の腕の中で大人しくしている慧斗に一度目を落としてから、私を中に誘う。自分はデスク前の椅子に腰かけ、私にはスツールに座るよう促した。私は静かに腰を下ろし、彼を上目遣いで窺いながら、「あの……慧斗を床に下ろしてもいいですか」遠慮がちに訊ねた。「母親から離されたら、また泣くんじゃないか」「おもちゃを渡してあげれば、一人でも遊んでくれますから」私の手に、彼の視線が降ってきた。私が握っているのは、慧斗がお気に入りの赤いミニカーだ。綾瀬さんが半信半疑といった様子で頷くのを見て、慧斗を床に下ろした。「慧斗、ブーブーで遊ぼうね」胡座を掻くようにして座る前に、ミニカーを動かして見せる。「ぶーぶ。ぶー」いつもと同じように喜び、早速自分で動かし始めるまで見守ってから、私は改まって綾瀬さんに向き直った。慧斗をあやすうちに、私も落ち着きを取り戻した。冷静になってみると、随分と取り乱してしまった自覚がある。「あの……さっきは」「お前、自分はどうでもいいのか?」「っ、え?」さすがにきまり悪くて、開口一番で謝ろうとしたのを質問で遮られ、虚を衝かれた。「お前は二年前も今も、自分を犠牲にする」私が質問の意味を理解していないのを見て、綾瀬さんがそう付け加える。それでも戸惑う私の前で、苛立つように前髪を掻き上げた。「男の情報のためなら、処女のくせに身体と引き換えにしようとした。子供のためなら、俺に身投げ結婚を要求するのも厭わない」「み……身投げ?」「自殺みたいなもんだろ。メイド扱いでいい、妻と思われなくてもいい、そんな結婚に人生を棒に振るおうとしたんだ」早口で素っ気なく言われて、私は思わず口ごもった。綾瀬さんは組み上げた足の上で頬杖をつき、その手で口元を覆ってそっぽを向く。私から外れた視線が、ミニカー遊びに興じる慧斗に流される。苦く歪んだその表情は、慧斗を疎んじているようにも見えて――。「お……お願いします、慧斗のこと」「産む前ならもちろん阻止したが、生まれてしまった子を『いらない』では済ませられないだろ。俺は、お前のそういうところが解せないんだよ」謝罪から一転、弾かれたように口走ったのを、鋭く阻まれた。綾瀬さんは、反射的に腰を浮かしかけていた私を、ちらりと見遣る。「自分
last updateLast Updated : 2025-03-31
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してません。ドキドキなんて 2

宣言通り、綾瀬さん……塔也さんは、午前中いっぱい寝室から出てこなかった。陽が高くなって起きてきたけど、明け方におにぎりを食べたからか、昼食はいらないと言われた。私が慧斗に離乳食を食べさせる様を、ほんの一瞬視界の端に映しただけで、くるっと足の向きを変え、それからずっとワーキングルームにこもっている。土曜日。大使館には行かないけど、お仕事だろうか。せっかく家にいるなら、少しでも慧斗と触れ合って、慣れてほしい……。「げふっ」地味に思案していると、小さなゲップが聞こえて、私はスプーンを持つ手を止めた。離乳食の残量を確認して、テーブルに器を戻す。まだ三割ほど残っていて、食欲が戻った、とは言えない。でも、日本食材効果か、先週に比べて進みはいいように感じる。「もうちょっと、様子見でいいかな……」誰にともなく独り言ち、慧斗をラウンジの床に座らせて、後片付けをしにキッチンに入った。十分もせずにラウンジに戻ると、慧斗はテレビの前でうとうとして、首をガクガク前後に振っている。ついつい、笑みが零れた。今朝の起き出しは相当早かったし、眠気も当然。食後すぐで横にしてやれないから、慧斗の隣に座って、よいしょと膝に乗せた。「眠っていいわよ、慧斗」抱っこして軽く揺すってあげると、ものの数分で規則正しい寝息を立て始めた。穏やかな寝顔に、無意識にホッと息が漏れる。私は温かい背中をポンポン叩きながら、ロングスカートのポケットから小さく畳んだA4用紙を取り出した。昨日、ネットカフェでスーパーの住所とは別にプリントした、フリーアドレス宛のメールだ。本文はそれほど長くはない。私の英語力でも、なんとかその場で解読できた。『お探しの会社は、もうだいぶ前に吸収合併してますよ。現社名は『JONAS OCEAN TRADING』のはずです』このアドレスに届いたメールに誘き出されて、怖い思いをしたことを忘れるわけがない。だけど、これはただの情報。危険なメールではないはず。この会社についてもっと調べたかったけど、昨日はそこでタイムアップ。塔也さんなら、なにか知ってるかもしれない。聞いてみたいけど、あの時、ネットでの情報収集はやめると約束した。婚姻届を渡してもらえたところだし、二年前のこととは言え、約束を破ったと思われるのは避けたい。でも――。思考を巡らせるうちに三十分ほど経ち、慧斗はすっかり寝入ってしまった。私は慧斗をラグ
last updateLast Updated : 2025-03-31
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してません。ドキドキなんて 3

慧斗が目を覚ましたのは、それから一時間と十分後。半ば無理矢理の約束だったけど、塔也さんも観念したのか、私が声をかけると渋々ながらラウンジに出てきてくれた。だけど、慧斗と遊んでくれるでもなく、ソファに腰かけて長い足を組み上げ、仏頂面で本を読んでいる。眉間に刻まれた深い皺は、本の内容が難しいから……ではない。私たちを寄せつけないオーラをたっぷり漂わせ、自分のテリトリーを主張しているよう。本当の意味で私と慧斗を受け入れてもらうには、長い時間が必要なことくらい、私だって理解している。だからこそ、せっかくラウンジに出てきてくれたこの機会を無駄にしたくない。でも私は、さっきの『事故』の後で軽々しく近付けない。ここは、穢れなき心を持つ無垢な慧斗に託すしかない――。私はダイニングルームの戸口から、読書する彼を窺い、「慧斗、レディゴー!」床に四つん這いになった慧斗のお尻を、ポンと叩いて焚きつけた。慧斗はきっと、なにをさせられているかわかっていない。それでも私の掛け声に呼応して、猛スピードでハイハイする。ハッハッと興奮気味の犬みたいな息をして、突進する先には――。「……?」塔也さんが、顔をしかめた。勢いよく足にぶつかったものがなにか確認するように、本から離した目を落とす。「はっ、ぶっ、ぶぶっ」――多分慧斗は、自分がミニカーになったつもりでいる。だけど残念ながら、塔也さんにはまったく理解不能のよう。自分の足に掴まって立とうとする慧斗を一瞥しただけで、「おい。これ、放っておいていいのか」慧斗の軌道の起点、ダイニングルームの戸口に身を潜める私に涼しい顔を向けた。私の差し金と見抜いた上に、慧斗を指差して『これ』扱い……。私は、ひくっと頬を引き攣らせた。「塔也さんっ。いくらなんでも、『これ』って……」頬を膨らませてノシノシと突き進む途中で、慧斗がこてんと尻もちを突いた。驚いてきょとんとした顔をしている慧斗に、塔也さんが『あ』と口を丸く開ける。「おい、長閑っ。泣くぞ、どうにかし……」「大丈夫ですよ。慧斗は強い子ですから、このくらいじゃ泣きません」私は狼狽える彼にそう言うと、慧斗の後ろに回って、両脇に手を挿して抱き上げた。「ほら」彼の方に向けて、掲げて見せる。塔也さんは気圧された様子で、シートに寄りかかって仰け反った。今日までで一番といっていい至近距離で慧斗と目を合わせ、小さくこくりと喉仏を上下さ
last updateLast Updated : 2025-03-31
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俺のこと好きでもなんでもない女 1

週が明けて午前七時半。俺はいつも通り出勤した。大使館内に入ると、清掃員の女性が、「Good Morning」と声をかけてくれる。同じ挨拶を返し、カツカツと靴の踵を鳴らして通路を進み、階段で二階に上がった。一番奥が、執務室だ。すでに何人かの同僚がデスクに着いている。「おはようございます」コートを脱ぎながら自席に進み、挨拶をする。執務室のあちこちから、疎らな返事が戻ってきた。「……ふう」荷物をデスクにドスッと置き、意味もなく息をつきながら、軽くネクタイを緩める。俺が椅子に腰かける前に、「綾瀬さん」と女性研修員の水島(みずしま)が近寄ってきた。「ん?」「これ、先週頼まれていたJONAS OCEAN TRADINGの過去五年間の財務資料です」「ご苦労様」胸元に差し出されたクリアファイルを受け取り、礼を言った。彼女の用件はそれで終わらず、「それから」と上着のポケットから白い封筒を取り出す。「これ。来週土曜日に行われる、イギリス海運業界主催のレセプションパーティーの招待状、入手しました」軽く身を寄せ、辺りを憚るようにコソッと声を潜めるのを聞いて、俺はピクッと眉尻を動かした。来週土曜日。やっぱり、ダブルブッキングか……。俺は白い封筒に一度目を落とし、「……サンキュ。この礼は、そのうち」彼女の手から抜き取るようにして受け取った。「そう言って、綾瀬さんがちゃんとお礼をしてくれたこと、一度もありませんけど」水島はやけに胸を反らして腕組みをする。俺は、ハッと浅い息を吐いて返した。「これは仕事だろ」「そうですけど。……まだ研修員なのに、どうして諜報活動のアシスタントなんて、危険な橋を渡らなきゃいけないんだか」「経済外交、国家安全保障、日本人保護を目的とした、外交官の立派な任務だ。研修員のうちに携われるなんて、運がいいと思っておけよ」彼女の愚痴は軽く受け流し、勢いよく椅子に腰を下ろした。それでも水島はまだ頬を膨らませて、俺の横に佇んでいたけれど。「綾瀬さん……そのパーティー、誰と潜入するんですか」視線を彷徨わせ、遠慮がちに訊ねてくる。「…………」俺は二本指で封筒を挟んで、目の高さに掲げた。足を組み上げ、床についた方を軸に、ゆらゆらと椅子を揺らす。今俺は、イギリスの大手海運会社、JONAS OCEAN TRADINGの組織的脱税疑惑に関する情報収集を担当している。本来、任国の犯罪調査は、俺た
last updateLast Updated : 2025-03-31
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俺のこと好きでもなんでもない女 2

その夜、午後十時前にフラットに帰宅すると、長閑がギョッとした顔で俺を出迎えた。「塔也……さんっ!? どうしたんですか、こんなに早く」子供を寝かしつけようとしていたのか。彼女の腕の中で、子供……慧斗が、半目でうつらうつらとしている。「俺が日付が変わる前に帰ってきちゃ、悪いか」彼女の驚きようにムッとして、刺々しく返す。長閑は慌てた様子で、勢いよくブンブン首を横に振った。「い、いえ。先週はずっと遅かったから……」バツが悪そうな言い訳には、納得して同意するしかない。先週は、自分なりにゆっくり考える時間が欲しかった。考えが纏まらないまま、家に子供と押しかけ妻が待ち構えていると思うと帰る気が失せ、無理矢理仕事を詰め込んでいた。外務職員の仕事は、昼夜の境のない激務に追われる本省と違って、外交官として海外駐在の間は比較的楽だ。深夜まで大使館に残って、日付が変わってから帰宅……久々にこんな生活をして、さすがに疲れが溜まった。それと、来週土曜日のパーティーのことを長閑に話し、同伴に合意を得るという目的もある。そのためには、子供の誕生日の方を先に謝らなければならない。「お前に話したいことがある」きまり悪さを誤魔化して、そう言葉を挟んだ。長閑が、「私に?」ときょとんとした顔をする。それには相槌で返し……。「その前に、それ。惚けた妖怪みたいなツラしてるけど」顎先で慧斗を示すと、「ようっ……!? 酷っ!」彼女は、大きく目を剥いて憤慨した。「塔也さんっ! よーく見てくださいっ。こんなに可愛い慧斗の、どこが妖怪ですかっ!」慧斗の顔をこちらに向け、グッと距離を詰めてくる。俺は思わず背を仰け反らせ、顎を引いて彼女を見下ろした。「……親バカ」「なんとでも言ってください。今は半落ち状態だからこんな顔だけど。明日、塔也さんがもっと早く帰ってきてくれたら、それはもうキラッキラの目をした慧斗を……」「だから、早く寝かしつけてこい、それ」シッシッと手を振って追い払う仕草を見せると、長閑は「また、それって」とプリプリしながら自室に戻っていく。俺は小さく溜め息をついて、ラウンジのソファにドスッと腰を下ろした。パタンとドアが閉まった音がした方向に横目を流し、天井を仰ぐ。……親バカ。まさにそれだ、アイツは。母親って、自分の産んだ子に対しては、もれなくああなるのか?自分に問いかけてみるが、答えは見つからない。――たとえ、
last updateLast Updated : 2025-03-31
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俺のこと好きでもなんでもない女 3

翌日の昼、俺は友人と会う約束をして、大使館を出てケンジントン方面に車を走らせた。待ち合わせたレストランに着いたのは、約束の時間ぴったり。店内に入ると、約束の相手はすでに席に通されていて、悠長に本を読んでいた。店員の案内を断り、奥まった四人掛けのテーブルに歩いていく。「お待たせ、成瀬(なるせ)。悪かったな、帰国前に呼び出して」テーブルのそばまで行って声をかけると、彼はその時になって俺に気付いた様子で顔を上げた。「ああ、綾瀬。こっちは休暇だから、別に構わない」特段表情を動かさず、読んでいた本をテーブルの隅に退ける。その様を横目に、俺はコートを脱いで彼の向かいの席に着いた。精悍な顔立ちで、同性の俺から見ても魅惑的でやけに雰囲気のあるこの男は、成瀬柊(しゅう)甫(すけ)。同じ外交官で、数少ないキャリア組同期だ。去年の九月まではローマの日本大使館に駐在していた。同時期に共に欧州駐在だったのもあり、業務で関わることも多かった。プライベートでは、根っからの非婚主義者として知られていた。『特定の恋人を作らずに、恋愛もワンナイト。一見知的だから、女はコロッと騙される。あ。でも、騙される女が悪いんじゃないのよ? だってあれは女の敵。悪い男だから』パリに出張に行った時、女性同僚が彼を話題に鼻息荒く詰っていた。いろんな意味で有名な男……そんな彼も、今は日本に帰任している。今回は一週間の出張でミラノの領事館に来ていたが、そのついでにロンドンに立ち寄っていた。先日、在英大使館内で見かけて声をかけ、結婚したと聞いて驚愕した。それもあって俺の事情も話しやすく、婚姻届の代理提出を頼むことにしたのだ。俺が着席するとすぐに、店員がオーダーを取りに来た。成瀬から「ロンドンだから、君に任せる」と丸投げされ、この店の名物料理、スコッチエッグとキドニーパイを二人分と、ミネラルウォーターをオーダーした。店員がテーブルから離れていくと、俺は彼の左手に目を遣った。薬指に、結婚指輪が嵌められているのを確認して、「……本当に結婚したんだな、お前」「え? ……ああ」成瀬は俺の視線を追って自分の左手薬指に目を落とし、ふんと鼻で笑った。「清楚なくせに、熱烈に求めてくれる女と出会ったんでね」「帰任してすぐだろ? 結婚したの。つまり、出会いはローマか」「まあな」悪びれずに、しれっと肯定する。皆まで聞かなくてもわかる。多分……十中
last updateLast Updated : 2025-03-31
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巻き込むつもりじゃなかった 1

先週は毎晩彼女と過ごしていたはずの塔也さんが、今週は何故か帰宅が早い。早いと言っても、午後九時より前になることはないし、慧斗と遊ぶことも夕食の食卓を一緒に囲むこともできないけれど、私と話してくれる時間はある。週初めに、慧斗の誕生日パーティーを延期してほしいと言われた。彼には、『仕事なら仕方ない』と物分かりがいいフリをしたけれど、本心ではものすごくがっかりした。もしかしたら、それを見抜いて、フォローのつもりだろうか。水曜日の夜、なにか欲しいものはあるかと聞かれた。慧斗の散歩に使えるベビーカーと、家事をしている間に寝かせられるベビーベッドが欲しいと言ったら、なんだかすごくがっくりしていた。でも、その二つとも叶えてくれた。週が明けて火曜日、塔也さんが仕事で不在の間に、新品ピカピカのベビーカーとベビーベッドがフラットに届いた。すごく嬉しくて、早くお礼を言いたくて、私は彼の帰りをソワソワして待ち――。午後十時半。玄関のドアが開く音がして、私は弾かれたようにラウンジを飛び出した。「お帰りなさい、塔也さんっ!」玄関先までダッシュして、お出迎えする。「……? なんだよ、今夜はやけに機嫌いいな」靴を脱いで廊下に上がった塔也さんが、若干引き気味に私を見下ろす。私は彼のコートと鞄を預かり、「ベビーカーとベッド! 今日届いたんです。二つもありがとうございます!」廊下を先に進む広い背中に、声を弾ませてお礼を言った。塔也さんが、ピクッと肩を動かす。「……ドウイタシマシテ」私のハイテンションに呆れているのか、何故か片言で返されたけど気にしない。「慧斗も大喜びで! ベビーカーから降りたがらないかと思ったら、ベッドにも興奮してなかなか寝ついてくれなくて」「ああ、そ……で、もう寝た?」慧斗のはしゃぎ様を思い出して苦笑する私に、塔也さんが肩越しにチラリと視線を投げる。「最後は疲れたみたいで、今はぐっすりです」私の返事には軽い相槌を打って、ラウンジに入っていった。「あの。本当に、慧斗のためにありがとうございました」ソファの前に立ってネクタイを緩める彼に、私はドア口で改まって深く頭を下げた。だけど、塔也さんは黙ったまま。「……?」彼のことだから、皮肉ったりからかったりしてくると思っていたから、拍子抜けして顔を上げた。探るように窺うと、塔也さんは無言で目を伏せ、カフスボタンを外している。そんな彼にちょっぴり
last updateLast Updated : 2025-03-31
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