その夜、午後十時前にフラットに帰宅すると、長閑がギョッとした顔で俺を出迎えた。「塔也……さんっ!? どうしたんですか、こんなに早く」子供を寝かしつけようとしていたのか。彼女の腕の中で、子供……慧斗が、半目でうつらうつらとしている。「俺が日付が変わる前に帰ってきちゃ、悪いか」彼女の驚きようにムッとして、刺々しく返す。長閑は慌てた様子で、勢いよくブンブン首を横に振った。「い、いえ。先週はずっと遅かったから……」バツが悪そうな言い訳には、納得して同意するしかない。先週は、自分なりにゆっくり考える時間が欲しかった。考えが纏まらないまま、家に子供と押しかけ妻が待ち構えていると思うと帰る気が失せ、無理矢理仕事を詰め込んでいた。外務職員の仕事は、昼夜の境のない激務に追われる本省と違って、外交官として海外駐在の間は比較的楽だ。深夜まで大使館に残って、日付が変わってから帰宅……久々にこんな生活をして、さすがに疲れが溜まった。それと、来週土曜日のパーティーのことを長閑に話し、同伴に合意を得るという目的もある。そのためには、子供の誕生日の方を先に謝らなければならない。「お前に話したいことがある」きまり悪さを誤魔化して、そう言葉を挟んだ。長閑が、「私に?」ときょとんとした顔をする。それには相槌で返し……。「その前に、それ。惚けた妖怪みたいなツラしてるけど」顎先で慧斗を示すと、「ようっ……!? 酷っ!」彼女は、大きく目を剥いて憤慨した。「塔也さんっ! よーく見てくださいっ。こんなに可愛い慧斗の、どこが妖怪ですかっ!」慧斗の顔をこちらに向け、グッと距離を詰めてくる。俺は思わず背を仰け反らせ、顎を引いて彼女を見下ろした。「……親バカ」「なんとでも言ってください。今は半落ち状態だからこんな顔だけど。明日、塔也さんがもっと早く帰ってきてくれたら、それはもうキラッキラの目をした慧斗を……」「だから、早く寝かしつけてこい、それ」シッシッと手を振って追い払う仕草を見せると、長閑は「また、それって」とプリプリしながら自室に戻っていく。俺は小さく溜め息をついて、ラウンジのソファにドスッと腰を下ろした。パタンとドアが閉まった音がした方向に横目を流し、天井を仰ぐ。……親バカ。まさにそれだ、アイツは。母親って、自分の産んだ子に対しては、もれなくああなるのか?自分に問いかけてみるが、答えは見つからない。――たとえ、
翌日の昼、俺は友人と会う約束をして、大使館を出てケンジントン方面に車を走らせた。待ち合わせたレストランに着いたのは、約束の時間ぴったり。店内に入ると、約束の相手はすでに席に通されていて、悠長に本を読んでいた。店員の案内を断り、奥まった四人掛けのテーブルに歩いていく。「お待たせ、成瀬(なるせ)。悪かったな、帰国前に呼び出して」テーブルのそばまで行って声をかけると、彼はその時になって俺に気付いた様子で顔を上げた。「ああ、綾瀬。こっちは休暇だから、別に構わない」特段表情を動かさず、読んでいた本をテーブルの隅に退ける。その様を横目に、俺はコートを脱いで彼の向かいの席に着いた。精悍な顔立ちで、同性の俺から見ても魅惑的でやけに雰囲気のあるこの男は、成瀬柊(しゅう)甫(すけ)。同じ外交官で、数少ないキャリア組同期だ。去年の九月まではローマの日本大使館に駐在していた。同時期に共に欧州駐在だったのもあり、業務で関わることも多かった。プライベートでは、根っからの非婚主義者として知られていた。『特定の恋人を作らずに、恋愛もワンナイト。一見知的だから、女はコロッと騙される。あ。でも、騙される女が悪いんじゃないのよ? だってあれは女の敵。悪い男だから』パリに出張に行った時、女性同僚が彼を話題に鼻息荒く詰っていた。いろんな意味で有名な男……そんな彼も、今は日本に帰任している。今回は一週間の出張でミラノの領事館に来ていたが、そのついでにロンドンに立ち寄っていた。先日、在英大使館内で見かけて声をかけ、結婚したと聞いて驚愕した。それもあって俺の事情も話しやすく、婚姻届の代理提出を頼むことにしたのだ。俺が着席するとすぐに、店員がオーダーを取りに来た。成瀬から「ロンドンだから、君に任せる」と丸投げされ、この店の名物料理、スコッチエッグとキドニーパイを二人分と、ミネラルウォーターをオーダーした。店員がテーブルから離れていくと、俺は彼の左手に目を遣った。薬指に、結婚指輪が嵌められているのを確認して、「……本当に結婚したんだな、お前」「え? ……ああ」成瀬は俺の視線を追って自分の左手薬指に目を落とし、ふんと鼻で笑った。「清楚なくせに、熱烈に求めてくれる女と出会ったんでね」「帰任してすぐだろ? 結婚したの。つまり、出会いはローマか」「まあな」悪びれずに、しれっと肯定する。皆まで聞かなくてもわかる。多分……十中
先週は毎晩彼女と過ごしていたはずの塔也さんが、今週は何故か帰宅が早い。早いと言っても、午後九時より前になることはないし、慧斗と遊ぶことも夕食の食卓を一緒に囲むこともできないけれど、私と話してくれる時間はある。週初めに、慧斗の誕生日パーティーを延期してほしいと言われた。彼には、『仕事なら仕方ない』と物分かりがいいフリをしたけれど、本心ではものすごくがっかりした。もしかしたら、それを見抜いて、フォローのつもりだろうか。水曜日の夜、なにか欲しいものはあるかと聞かれた。慧斗の散歩に使えるベビーカーと、家事をしている間に寝かせられるベビーベッドが欲しいと言ったら、なんだかすごくがっくりしていた。でも、その二つとも叶えてくれた。週が明けて火曜日、塔也さんが仕事で不在の間に、新品ピカピカのベビーカーとベビーベッドがフラットに届いた。すごく嬉しくて、早くお礼を言いたくて、私は彼の帰りをソワソワして待ち――。午後十時半。玄関のドアが開く音がして、私は弾かれたようにラウンジを飛び出した。「お帰りなさい、塔也さんっ!」玄関先までダッシュして、お出迎えする。「……? なんだよ、今夜はやけに機嫌いいな」靴を脱いで廊下に上がった塔也さんが、若干引き気味に私を見下ろす。私は彼のコートと鞄を預かり、「ベビーカーとベッド! 今日届いたんです。二つもありがとうございます!」廊下を先に進む広い背中に、声を弾ませてお礼を言った。塔也さんが、ピクッと肩を動かす。「……ドウイタシマシテ」私のハイテンションに呆れているのか、何故か片言で返されたけど気にしない。「慧斗も大喜びで! ベビーカーから降りたがらないかと思ったら、ベッドにも興奮してなかなか寝ついてくれなくて」「ああ、そ……で、もう寝た?」慧斗のはしゃぎ様を思い出して苦笑する私に、塔也さんが肩越しにチラリと視線を投げる。「最後は疲れたみたいで、今はぐっすりです」私の返事には軽い相槌を打って、ラウンジに入っていった。「あの。本当に、慧斗のためにありがとうございました」ソファの前に立ってネクタイを緩める彼に、私はドア口で改まって深く頭を下げた。だけど、塔也さんは黙ったまま。「……?」彼のことだから、皮肉ったりからかったりしてくると思っていたから、拍子抜けして顔を上げた。探るように窺うと、塔也さんは無言で目を伏せ、カフスボタンを外している。そんな彼にちょっぴり
慧斗の誕生月、三月に入ってから、ロンドンの厳しい冬の寒さも、ほんのちょっと和らいだように感じる。まだまだ春爛漫にはほど遠い。だけど、慧斗を連れて散歩に出かけた公園の木々に息吹く新芽を見つけ、ほっこりする――心穏やかな日々だ。「慧斗、気持ちいいねえー」私は目線を下げて、声をかけた。塔也さんが買ってくれたベビーカーに、慧斗がちょこんと座っている。「パパが買ってくれたベビーカー、乗り心地どう?」足を止め、少し身を屈めて訊ねると、慧斗が「ぱーぶー」と応じる。多分、『パパがくれたブーブー』とわかっている。私は無意識に顔を綻ばせ、背筋を伸ばした。素敵なプレゼントが届いてから三日。ベビーカーもベッドも、大活躍だ。今まではなにをするにも、慧斗から目が離せず付きっきりだったけど、ずっと抱っこして歩かなくて済むし、家でも家事に集中できる。「お願いしてよかったー」私はクスッと笑ってから、微笑んでいる自分に虚を衝かれた。慧斗の可愛さ以外に、こんな笑みが零れるの、生まれて初めてな気がする。自分でもあまり馴染みのない笑い方をしたことに、ほんのちょっと怯む。これも、塔也さんが妻にしてくれたからだ。なんとなく、くすぐったい――。「そ、そうだ慧斗。大使館の近くまで行ってみようか」頬が火照るのに慌てて、私は取ってつけたような提案をした。慧斗は、バタバタと足を動かしている。そもそも、『大使館』がわかるわけがない。「ええと……パパがお仕事してるところ!」半分自分を鼓舞するように説明して、力いっぱいベビーカーを押した。塔也さんが勤務する在英日本国大使館は、ウェストエンド地区のピカデリーにある。ジョージアン建築という様式の白亜の建物で、これぞヨーロッパ!と思わせる魅力的な外観。ちょうどお昼時だ。お昼休憩で、塔也さんが出てくるかもしれない。お仕事中のパパを、慧斗に見せてあげられるかも――。私は胸を弾ませてベビーカーを押して歩き、二十分ほどで大使館前に到着した。大使館には、多くの人が出入りしている。出てくる人は、塔也さんの同僚だろうか。私は無駄にドキドキしながら、ほとんど導かれるように一歩踏み出した。と、その時。「!」大使館のエントランスから、キリッとスーツ姿の塔也さんが出てくるのを見つけて、ドキンと心臓が飛び跳ねた。もしかしたら……と期待はあったけれど、まさか本当に見られるなんて。塔也さんは一人だ。コートを羽
その夜、私は慧斗を寝かしつけてからお風呂に入った。バスタブに熱いお湯を張って、身体がふやけるまでのんびり浸かること四十分。入浴を終えて、毛先が鎖骨にかかる長さの髪をタオルドライしながらラウンジに戻り、ドア口でギクッとして足を止めた。ソファに、塔也さんが座っている。「と、塔也さん。お帰りなさい」こちらに向けられた背中に声をかけた私を、ネクタイを緩めただけでワイシャツ姿の塔也さんが、ソファの背越しに振り返った。「……ああ」それだけ言って、ふいと正面に向き直る。私は一瞬所在ない気分に駆られ、遠慮がちに歩を進めた。ローテーブルの上に、ウィスキーのボトルとグラスが置かれている。「もしかして、結構早く帰ってきてましたか?」そう訊ねながら、壁時計を見上げた。私がお風呂に入っている間に、時計の針は午後十時を過ぎていた。「三十分くらい前に」塔也さんは返事をしてから、指先で摘まむように持ち上げたグラスをグッと呷る。それを聞いて、私は肩を縮めた。「ごめんなさい。今日はゆっくりお風呂入りたくて。塔也さんのこと、待たせちゃい……」「別に。俺が入りたければ、お前が先に入っていようと遠慮なく入っていくし」「は……?」あまりに太々しくて、言われた意味が瞬時にわからなかった。傍らに突っ立ち、パチパチと瞬きをする私に、彼が上目遣いの視線を向ける。「そんなことはどうでもいい。長閑、ちょっとここ座れ」自分の隣をポンポンと叩いて示されても、私の忙しない瞬きは続く。「……なんだよ。またメイドプレイ続行?」塔也さんの眉間に、皺が刻まれる。「ご主人様の命令だ。長閑、俺の隣に来い」やけにねっとりと単語で区切って言われて、私は重力に負けたように首を傾けた。「あの……酔ってます?」彼に訊ねながら、目線はウィスキーのボトルに向く。ボトルには、ウィスキーが半分ほど残っている。これ……この三十分で飲んだんじゃないよね……?「酔ってねえよ。まだこのグラス一杯だ」塔也さんが、顔の高さにグラスを持ち上げ、軽く揺らした。大きな氷がカランと音を立てる。「そ、そうですか」私はおどおどと視線を彷徨わせたものの、観念して彼と間隔を空けて腰を下ろした。塔也さんは私の方に顔を向け、穴が開きそうなほどジーッと見つめている。本人が『酔ってねえ』と言うなら、そうなんだろうけど……。それなりにアルコール度数が高いウィスキーのせいか、私を捉える瞳はしっ
一晩中、脳神経が麻痺したみたいに、ボーッとしていた。そんな中、聴覚ばかりが敏感に働く。私の耳がその日最初の小鳥の囀りを拾ったのは、塔也さんがフラットを出ていってから七時間ほど後。窓にかかったカーテンの隙間から射し込む朝日は、まだ弱い。私のベッドの側に寄せたベビーベッドで寝ている慧斗の呼吸も、穏やかで静かで――非日常かと思うほどの静寂。ドアの向こうからも、なにも聞こえない。塔也さんは、帰ってこない――。私は、モゾッと起き上がった。ベッドから降り、パジャマの上にストールを羽織って、部屋を出る。スリッパの足音を抑えて廊下を歩き、塔也さんの寝室の前に立った。「……塔也さん」思い切って、ドアを開けてみる。部屋には、大きなベッドとサイドテーブル、造りつけのクローゼットしかない。ベッドクロスは昨日私が整えたまま、乱れもない。私と慧斗が寝ている部屋と比べものにならないくらい、室内の空気はひんやりと冷たく――もちろん、塔也さんはいない。私は、ふうと小さな息を漏らし、ドアを閉めた。くるりと方向転換して、ラウンジに向かう。固く閉ざされたペイウィンドウに、外からの明かりは入らない。ラウンジは音も光もなく静まり返っていて、塔也さんの姿はない。キッチンにも、彼のワーキングルームにも足を運んだ。フラット中、どこを捜しても塔也さんは見つからず、私は肩を落とした。きっと……昨夜、塔也さんは――。私は、ギュッと握った拳を胸元に押さえつけた。塔也さんは、十割の内九割は人でなしだ。でも私は、残りのたった一割を、いい人だと思ったことがある。圧倒的劣勢な『いい人』だけを信じ、覚悟を決めて塔也さんのもとに飛び込んだ私を、彼自身が『身投げ』なんて言い方をした。あながち間違っていない。私の我儘に塔也さんを巻き込むんだもの、自分のことなんかどうでもよかった。だと言うのに、私の中で彼の九割がいい人に変わりつつある今、堂々と『お望み通り、女のところに行ってくる』と言って、『酷い男』になる彼に、切なく胸が締めつけられる。『お望み通り』なんて。違う。そんなこと望んでなんかいない。だけど――止められなかった。『お前以外、他に誰を抱けるって言うんだよ』彼の言葉から迸ったなにかを、私は上手く捉えられない。真摯な言い回しに隠されただけで、結局ただの性欲?私は、形だけの妻でいい。生理現象でしかない欲求なんて向けられたくなかったから、
どれくらいかして、私は慧斗が泣く声で目を覚ました。「ん……慧斗……」ベッドに突いた肘を支えに、上体を起こす。眠りにつく前まで、非日常かと思うほど静かだったせいか、今、慧斗の泣き声が部屋中に反響して聞こえる。それにしても、なんだかいつもより泣き方が激しいような……?「……?」ベビーベッドを覗き込む。弱い明かりの下でも、火が点いたように泣いているのを見て、慌てて抱き上げた。「どうしたの、慧斗」軽く揺すってやりながら、部屋の電気を点ける。サイドテーブルの上に置いてあるデジタル時計は、午前九時を示していた。「九時……もうこんな時間」無意識に独り言ち、顎を引いて胸元の慧斗を見下ろす。――微かに臭ってくる、これは……。「ごめんね、気持ち悪かったね。すぐオムツ替えよう」小さい身体をベビーベッドに戻し、テキパキとオムツを替えて綺麗にしてあげると、慧斗も泣きやんだ。「よかった、泣きやんでくれて。……ふう」ホッと、息を吐く。「慧斗、お誕生日おめでとう。一歳の今年は、きっと去年より幸せだよ」本当は慧斗が目を覚ましたら、一番に言ってあげたかったお祝いの言葉。瞳いっぱいに浮かんだ涙を拭いてやりながら言っても、慧斗はきょとんとしている。いつもの愛らしい笑みを、見せてくれない。薄い眉毛をハの字に下げ、ご機嫌は直らない様子。まるで、私の浮かない気分がうつったみたい。慧斗は敏感だから――。「ごめんね。……朝ご飯にしようか」気を取り直して慧斗を抱き上げ、部屋から出る。ラウンジの床に座らせて、早速キッチンで朝食作りに取りかかった。時折ラウンジを覗き、慧斗の様子を確認しながら調理すること二十分。自分のと慧斗の離乳食をラウンジに運び、慧斗を抱っこしてソファに腰を下ろした。いつも通り、BGM代わりにテレビを点け、慧斗に食べさせながら自分も食事を進める。しばらくして、慧斗が『いやいや』して、スプーンを止めた。器の離乳食は、半分以上残っている。ロンドンに来てすぐ食欲が失くなって心配したけど、最近回復傾向にあると思っていた。なのにまた、落ち込んでる?「慧斗?」こちらを向くように抱え直し、コツンと額をぶつけてみる。普段は、顔を近付けるときゃっきゃっとはしゃぐのに、今日は反応が薄い。そう言えば、さっき替えたオムツ。いつもより、便が緩かった気がする。額もちょっと熱いような……。「ぐしゅっ」突然慧斗がくしゃみをして、私は
夜のとばりが降りる頃、ロンドンの中心地、シティにあるコンベンションホールの前に、俺は一人で佇んでいた。先ほどから、たくさんの紳士淑女が連れ立って、俺の横を通り過ぎていく。あと十分ほどで、このホールでイギリス海運業界主催のレセプションパーティーが行われる。大手海運会社のトップが勢揃いと、規模が規模なだけあって、あちらこちらに財政界の著名人の姿がある。あちらの白髪紳士は、イギリス投資銀行の頭取。彼と話しているワインレッドのネクタイの男は、Her Majesty's Treasury……大蔵省の次官クラス。向こうの禿げ頭はDepartment for International Trade、国際貿易省の大臣だ。各界でトップクラスの重鎮たちは、男女同伴というマナーを遵守し、皆夫人をエスコートしている。俺は賑やかな人々を横目に、仏頂面で腕組みをした。このパーティーへの出席は任務だ。楽しみに来たわけじゃないし、むしろこれからの段取りを考えるとまったく気が抜けない。――それだけじゃない。昨夜からの苛立ちが二十時間近く経っても治まらず、表情筋は固まったまま緩まない。思わず天を仰ぎ、声に出して息を吐いた時。「お……お待たせしました、綾瀬さん」日本語で声をかけられ、そちらに目線を動かし……。「……はあああ……」腹の底から、さらに深い息を吐き出した。「ちょっ。なんですか、その溜め息。挨拶も返さず、一目見た途端にそれって、失礼じゃないですかっ」俺の反応に憤慨して、ドスドスとこちらに歩いてくるのは、大使館の研修員、水島だ。「それに、そんな反応されるほど酷くないつもりです」鼻の穴を広げて食ってかかってくる彼女を、俺は軽く手で制した。「ああ、うん。悪くない。ちゃんとTPOはわきまえたようだし」口元を手で覆い、評価を濁してみせる。そう、別に悪くはない。普段、リクルートスーツかと思うほど色気も素っ気もない黒いパンツスーツに、長い髪をひっ詰めて結んでいる彼女にしては、結構な努力が窺える。春という季節を意識したのか、薄いピンクのロングドレスは、デコルテラインを強調している。夜会巻きにした髪も華やかだ。しかし。「こうも、そそられないとは……」色気がないという点では長閑に通じるが、控えめとは言え肌を出した女に対して、ほんの少しもグラッとこなくて、むしろ申し訳なくなる。手でくぐもらせた独り言に「なんですか」
大使館を出て、十分ほど車を走らせてフラットに帰り着いた。玄関からまっすぐラウンジに向かうと、慧斗がきゃっきゃっとはしゃぐ声が、ホールにも聞こえてくる。「い~ち、に……わっ」弾む声でなにかをカウントしていた長閑が、パチパチと拍手をしている。そして、ラウンジに入った俺に気付き、「あ」と顔を綻ばせた。「塔也さん! お帰りなさい」随分と高揚した様子だ。俺は相槌で応えたものの……。「で? 今はなにをしてたんだ? お前」床にペタンと座った彼女の前には、これまた興奮気味の慧斗がいる。「慧斗が何秒立てるか、計測です」「は?」「あー、また写真撮り損ねた……」俺はパチパチと瞬きをして、尻を浮かせてドスドスと跳ねる慧斗に目を落とした。「初たっちって……前から立ってたろ」「それは掴まり立ちです! 伝い歩きもするけど、なにか支えがないとダメで。でも今、なにも掴まらなくても、たっちできたんですよ、一秒も!」「……ふ~ん?」子供の成長スピードはよくわからない。曖昧に流す俺に、長閑が憤慨した。「すごいことなのに! 塔也さんは感動が足りない!」頬を膨らませてプリプリする彼女の隣に、俺もドスンと胡坐を掻いた。「感動もなにも……こんなブレブレの写真でどう感動しろって」上着のポケットからスマホを出し、彼女の前に突きつける。「慧斗が初めて立った瞬間に、未確認飛行物体でも着陸したか? むしろその方が奇跡だ」「う……だって驚いて、スマホ落っことしちゃって」長閑が、しゅんと肩を落とす。まあ……確かに、その瞬間の彼女の動転だけは、よく伝わってくる画像ではあるけれど。「……どれ。慧斗、立て」慧斗の脇に両手を挿し込んで持ち上げ、床に両足をつかせる。「むー。ぱー」なにか不服そうな声を漏らすのに構わず、両手を抜いてみる。慧斗は一秒ももたずに、へにゃっと座り込んだ。「……立たねえじゃん」「もーっ!! 塔也さんのバカ」長閑は勢いよく慧斗を抱き寄せ、二人揃って俺をじっとりと睨んでくる。「あー、はいはい」俺はつーっと視線を逸らし、指先でポリッとこめかみを掻いた。長閑にぎゅうっと抱きしめられた慧斗は、機嫌を直してコロコロと笑っている。感動の瞬間も、大ブレの画像で共有されただけだ。一人だけ疎外され、無意味に面白くない気分に駆られ――。「っ、え? ひゃっ!」俺は慧斗を抱く長閑を、後ろから抱え込んだ。「な? なに?」「なにって。ショッピ
長閑と慧斗を連れてJONAS OCEAN TRADING本社に乗り込んだあの日――事前の打ち合わせ通りの時間に、オリヴィアとその上司である国税局幹部の男が、応接室に入ってきた。JONAS OCEAN TRADINGの脱税疑惑を捜査している当局の男に、真相解明に向けての協力を求められ、エヴァンズ氏は当惑した。しかし、やや硬い表情ながら、素直に応じた。最初から、俺が国税局側と行動を共にしなかった理由は、エヴァンズ氏が抵抗に出る可能性があったからだ。結婚を約束した愛する女性とお腹の子を捨て、自身をも犠牲にして救った会社だ。愛着がないはずがない。脱税は重大犯罪だと正論を翳し、良心に訴え出ても、拒否される可能性を否めなかった。会長秘書という、願ってもいない強力な協力者を逃すわけにはいかない。俺とオリヴィアは、上司も交えて綿密に作戦を立て……彼らが来る前に、エヴァンズ氏に長閑と慧斗を会わせることにしたのだ。どんなに社に忠実で鉄壁な男だったとしても、捨てたはずの恋人が娘を産んでいて、その上孫を連れて目の前に現れたら、動揺しないわけがない。彼の人情に訴えるという、素朴で泥臭い、一か八かの賭けでもあった。結果的に、俺たちの目論見通り、彼を協力者に取り込むことに成功したが――。それからしばらくして、改めて思考を巡らせても、俺は長閑と慧斗の力を借りずとも、エヴァンズ氏の協力を仰ぐことは可能だったと考えている。『私は父の会社の何千という従業員とその家族を守ったかもしれないが、自分の大事なものは守れなかった。そんな男が、一企業の経営者になってはいけない』たとえ救済合併とはいえ、一企業の社長子息だった男が、今、会長秘書という身分に甘んじている理由をそう語った彼には、無理矢理引き摺り出すまでもない真摯な人情を感じた。『エミとノドカを犠牲にして守った会社を、これ以上汚すわけにはいかない』沈痛に顔を歪めながらも、しっかりした口調で言い切り、協力を約束した彼だから――長閑の母親が死ぬ間際まで忘れず愛していたのも、納得できる。会長秘書という協力者を得たことで、JONAS OCEAN TRADINGの組織的脱税疑惑は、国税局の手によって全貌解明に向かっていた。そして、三月が終わり四月。第二土曜日、オリヴィアから、『来週初めに、国税局が強制捜査に入るわ』という報告の電話をもらった。午前の休日出勤中に電話を
私は、塔也さんの寝室に、お姫様抱っこで運ばれた。彼の大きなダブルベッドの真ん中に組み敷かれ、何度も何度も角度を変えてキスをする間に、服を全部脱がされていた。「っ……」目元を情欲でけぶらせた彼が、遠慮なく視線を注ぐから、激しい羞恥で身を捩る。「こら、隠すな」胸を隠した腕に、塔也さんが手をかけて解こうとする。「嫌。恥ずかしい……」「この期に及んで、なにを言う」「だって。塔也さん……貧相って言った」私が、じっとりと詰るような目を上げると、まったく悪びれることなく、ふんと鼻を鳴らした。「事実だろ」「ひっ、酷っ……!」「あの時も今も肉付き足りないし、煮干しみてえ」「にっ……!?」あまりに酷い喩えように涙目で絶句する私に、ふっと目尻を下げて笑う。口にするのはデリカシーのない最低な言葉なのに、反則なくらい優しい微笑み。ズルすぎるギャップに、私の胸がドキッと弾む。塔也さんは私に覆い被さり、唇を奪った。「んっ、ふ」今までで一番の、執着めいたキス。呼吸を乱し、胸を上下させる私に、塔也さんがベッドについた腕を支えに上体を持ち上げ、ねっとりとした視線を絡ませる。「なのに……俺はこの身体に狂わされたんだよな……あの日」「え……? あ、んっ!」なにか耳慣れない言葉を向けられ、虚を衝かれた隙に、胸を覆っていた両腕を観音扉みたいに開かれた。躊躇なく顔を埋められ、彼のサラサラの前髪や吐息が肌を掠めて、ビクンと身体が撓る。敏感な胸の先を、チロチロと動かす舌先に容赦なく攻め立てられ、いやがおうでも腰が跳ねた。「あ、あ……」二年近く前、他でもない彼自身から植えつけられた、生まれて初めての官能の痺れ。今もなお変わらず、ゾクゾクと背筋を昇る。「とう、塔也、さ……」堪らず、彼の頭を掻き抱いた。「好き。塔也さんが、好き……」喉に引っかからせながら、掠れる声で必死に想いを紡ぐ。荒い呼吸で途切れ途切れになってしまい、聞き取りづらかったかもしれないけど……。「っ、く……」塔也さんはブルッと頭を振って、小さな声を漏らした。そして、指で、舌で、私に施す愛撫を強めていく。「俺も……好きだ、長閑。愛してる」耳元に湿った声で囁かれ、体幹から湧き上がるゾクゾクとした痺れに戦慄いた瞬間。「あっ……!」ズシッと存在感のある質量のなにかに、容赦なく身体の中心を貫かれ――ビクンビクンと痙攣して、目の前に星が飛んだ。「大丈夫か? 落ち着け
午後十時。私は慧斗を寝かしつけた後、お風呂に入った。髪をタオルドライしながら出てくると、塔也さんがラウンジのソファに座っているのを見つけた。条件反射で、胸がドキンと跳ねる。夕方フラットに帰ってきてから、私は慧斗と二人で客室に閉じこもっていた。いろんなことがありすぎて、少し落ち着いて自分自身を見つめ直したかったけど、夜になっても頭がふわふわしている。でも――私は思い切って、ソファに歩いていった。私が声をかけなくても、気配で気付いた彼が顔を上げる。「お前も、飲むか?」「え……」なにを問われたかと答えを探して、ローテーブルに目が向いた。いつかと同じように、ウィスキーボトルとグラスが置かれていた。塔也さんは自分のグラスを軽く揺らして、私の返事を待っている。「……はい」私は一度頷いて、彼の隣に腰を下ろした。「待ってろ」塔也さんは私と入れ違いで立ち上がり、キッチンに入っていった。氷を入れたグラスを一つ手に、戻ってくる。ドスッと勢いよく私の隣に座り、持ってきたグラスに琥珀色の液体を注いだ。「ん」と、私に差し出してくれる。「……ありがとうございます」私は両手で受け取って、グラスに口をつけた。一口、ゴクンと飲んで……。「ごほっ」喉が焼けるように熱くて思わず噎せ返った私に、塔也さんがブッと吹き出す。「お前、ウィスキー飲んだことないのか? 水みたいに飲むな。原液だぞ、これ」面白そうに肩を揺らす彼の隣で、私は何度か咳き込み――。「はああっ」一度大きく息を吐いて落ち着いてから、膝の上で両手で支えるように持ったグラスに目を落とした。「あの……ありがとうございました」ボソッとお礼を言った私に、塔也さんは無言で横目を流してくる。「あの人に会いたがったのは母だから。亡くなってるなら、どこの誰かも知らなくていいって思ってたけど……会えて、よかったです」あの人が……父が私をずっと欲しかった子だと言ってくれたことを思い出し、胸が締めつけられる。それと同時に、塔也さんの言葉も導かれてくる。『俺はお前を産んだ母親に感謝してるよ!!』――。「っ……」胸がきゅんと疼いて、鼓動を猛烈に昂らせるのに慌てて、勢いよく下を向く。塔也さんは、私があたふたするのを気にする様子はなく、短い相槌で返してきた。「悪かったな。二年前……亡くなった可能性が高いなんて嘘ついて」私がそっと視線を戻すと、グラスを持って口元に運んだ。一口含
愕然として言葉を失う男性と私に、塔也さんは一人冷静に、この事態について説明し始めた。先ほども言っていた通り、JONAS OCEAN TRADINGは、二十七年前に二つの会社が合併して生まれた会社だ。その内の一社、貿易会社は男性の父親が社長を務めていた。当時、業績が低迷していて、この合併により倒産を免れたそうだ。貿易会社を救済する形の合併は、男性の政略結婚が条件だったと言う。塔也さんは、「政略結婚の事情については、私が知るところではありませんが」と前置いた上で、男性の日本への出入国記録を調べたと語った。男性は二十八年前に貿易会社の日本支社で働くために入国し、その一年後に出国、イギリスに帰国していた。「在英日本国大使館に申請されたビザはビジネス目的、期間は五年という記録が残っていました。ところが、たった一年で帰国……なにかよほどの事情があったと考えます。僭越ながら私の想像で言わせていただくと、その政略結婚が理由では?」ちらりと視線を向けて問われ、それまで凍りついたように固まっていた男性が目を伏せた。「……ええ、その通りです。私は、父の会社を救うために、五年間の日本勤務予定を短縮して、帰国しました」たどたどしく、言い回しを考えるように答える。「ですがあなたには、日本で結婚を約束した女性がいた」「…………」男性が、口を噤んだ。さっき塔也さんが、『お前の母親が最期まで会いたがっていた人』と言ったから。私と慧斗の正体を気にしてか、目線は揺れ、定まらない。塔也さんは両足に腕をのせて、身体を前に傾け――。「あなたの子供を身籠っていた女性を残し、帰国した。……そうですよね?」含めるように問われた男性が、わずかな逡巡の後、私の方にまっすぐ顔を向けた。俯いていた私も、視線を感じて身体を強張らせる。この人が、塔也さんの質問を肯定したら……。そこから芋づる式に引き摺り出される真実を予想して、私の心臓が早鐘のように打ち鳴る。男性の方も、激しく戸惑っている。だけど。「君は……エミの子なのか……?」半信半疑といった感じで口にしたのは、確かに私の母の名前だった。私は、意志とは関係なくカタカタと身体が震えるのを、慧斗をギュッと抱きしめて堪えようとした。「まー……?」慧斗も、穏やかとは言えない空気の中、不安そうに私を見上げている。私は返事をしていないのに、男性は沈黙を答えと受け取ったようだ。額に手を遣
迎えた火曜日。私はどこに行くのか、なにをするのかも知らされないまま、退院したばかりの慧斗を抱いて、塔也さんの車の後部座席に座っている。「あの……本当に、どこに」車窓から見える街並みが、だんだんとオフィス街に変わっていくから、怯んで訊ねた。フラットを出る前、服装は普段着でいいと言われたし、なにより慧斗が一緒だ。普段着に子連れで来るには、一番そぐわない場所な気がするから、落ち着かない。塔也さんはまっすぐ前を向き、悠々とハンドルを操作しながら、「シティ」バックミラー越しに視線を投げ、答えてくれた。「シティ?」「お前、知らない? ロンドンで言う、日本の東京丸の内」私は日本の東京丸の内に行ったことはないけど、ビッグ都市東京でも有数のオフィス街だということは知っている。もちろん、二年前にも訪れた。「そこに、JONAS OCEAN TRADINGの本社ビルがある」目線をフロントガラスに戻して続けるのを聞いて、私の手がピクッと動いた。「……JONAS OCEAN TRADING?」彼の言葉を反芻すると、よくわからない警戒心がよぎる。一瞬、身体が強張ったのが伝わったのか、慧斗が膝の上から顔を上げた。「まーん、むむ」「あ、ごめんね。慧斗」よいしょと、こちらを向かせて抱え直して、ポンポンと背中を叩いてやる。「塔也さん。その会社に行くんですか? どうして慧斗も……」「見えてきた。あれ」改めて質問を重ねる私を、塔也さんはそんな言葉で阻んだ。ハンドルから離した右手で、前方に聳える巨大なオフィスビルを指さす。その仕草につられて、私は少しだけ身を乗り出した。「JONAS OCEAN TRADINGは、二十七年前に二つの会社が合併して生まれた、イギリス 最大の海運会社だ。……計算は合う」塔也さんは、私の気配を気にすることなく、淡々と説明してくれる。「計算……?」斜め後ろから彼の横顔に問いかけたけど、きゅっと唇を結んでしまい、それ以上は答えてくれなかった。それからほどなくして、JONAS OCEAN TRADINGの本社ビルに到着した。塔也さんはビルの駐車場に車を停めると、慧斗を抱えた私の背を押すようにしてビル内に進み、グランドエントランスの総合受付に立った。赤毛のふんわりロングウェーブヘアの受付嬢に、外交官の身分証を示す。「Take the lift on the right to the t
その夜、塔也さんは午後八時に帰ってきた。私はちょうど、一人で夕食を終えた後だった。洗い物の手を止め、布巾で手を拭いてラウンジに戻る。「お帰りなさい」塔也さんは、ソファにスーツの上着を放り、ネクタイを緩めながら「ん」と応じた。いつもと変わらない様子の彼を前に、私は緊張を強めた。一夜明けて冷静になってみると、とんでもなく情けない最低なことを口走ってしまったと痛感していた。いろんな感情が飽和状態で、いっぱいいっぱいになっていたとは言え、私にとって一生ものの悔恨、贖罪。あれを聞いて、塔也さんがどう思ったか――知るのが怖いからこそ、もう一度ちゃんと謝らなければ。「あの、塔……」「どうだった?」「っ、え?」口を開いた途端質問を挟まれ、出鼻を挫かれてしまった。言葉に詰まった私を、塔也さんがちらりと見遣る。「子供」今朝は『慧斗』って呼んでくれたのに、また戻っちゃった……。私の錯覚だったのかとか、ただの気まぐれだったのかと、がっかりする。「あ、はい。……慧斗、元気でした」それでも私は、気を取り直して報告した。今朝、休日出勤する彼が、大使館に行くついでに、私を病院まで送ってくれた。小さなベッドが並ぶ病室に入ると、昨夜はあんなにぐったりしていた慧斗が、ぱっちり目を開けていた。私を見ると甘えて、『まー』と手を伸ばす、いつもと同じ反応。小さな手の温かさも変わらず、心の底からホッとしたことを思い出して、鼻の奥の方がツンとする。「そ」自分で聞いておいて、塔也さんの反応は薄い。「ドクターの話では、週明け火曜日には退院できるそうです。それで」私は思い切って一歩踏み出し、報告を続けた。「退院してすぐなので、慧斗の誕生日のお祝いは、また日を改めてってことに……」塔也さんじゃなく、自分自身が残念な提案に俯いた私を、「火曜……。……かな」彼は顎を撫でながら遮った。思案顔をして低めた声で、なにを言ったか聞き取れない。しかも、慧斗の誕生日は軽くスルーされた。でも真剣な表情だから、憤慨して食ってかかることも憚られる。私は、彼からわずかに視線を外し――。「あの、塔也さ……」無意味に服の裾を両手で引っ張り下げながら、昨夜のことを改めて謝ろうと、遠慮がちに呼びかけた。なのに。「午前中に、退院可能か?」塔也さんが私を斜めの角度から見上げ、話題を続ける。おかげで、またしても謝罪のタイミングを失った。「え? あ、大丈夫だと
なにか、とても温かい音が聞こえる。とくんとくんとくん――。ゆったりと規則正しい、肌にも馴染む強いリズム。包み込まれるみたいで、心地いい。ああ、これは心音だ。この世に生を受ける前から、ずっとどこかで耳にしていた、優しくて穏やかで懐かしい――命の音。「ん……」全身を包む温もりをさらに求めて、モゾッと身体を動かした。頬に当たるなにかに、『もっともっと』というように自ら擦りつけた、その時。「……起きたか?」額の先から、低い声がした。「ん……え?」問われたことに素直に頷いた次の瞬間、寝起きで声をかけられるという状況が、あり得ないことに気付いた。一気に思考回路が働き始め、バチッと勢いよく目を開けて……。「おはよ」欠伸混じりのくぐもった挨拶に返す余裕もなく、私は身体をビキッと硬直させた。「? なんだよ、長閑」「なっ……なんで? なんでなんで!?」私は絶叫しながら上体を起こし、勢いよく飛び退いた。そして、「あ」という声を聞きながら、ドスンとベッドから落ちる。「痛っ!!」「バカか……なにやってんだよ」ベッドの下で尻もちをつき、顔をしかめる私に、塔也さんが呆れ顔で身を乗り出す。「!」バチッと目が合う前に、私はとっさに胸元を抱きしめた。それから、恐る恐る自分の身体を見下ろすと、頭上から「はあ」と溜め息が落ちてくる。「ヤってねえよ。少しは信じろ」チッと舌打ち混じりの言葉の通り、私はちゃんと服を着ていた。無意識にホッとしたものの――。「だ、だったら、なんで」顔を火照らせて言い返すと、塔也さんは忌々し気に顔を歪めて、寝乱れた髪をザッと掻き上げた。「昨夜、お前があのまま寝たから」「あのまま?」「抱きしめてる間に寝落ちとか。お前、慧斗よりよっぽど赤ん坊なんじゃないか?」「え? ……っ!!」意地悪な言葉に導かれ、昨夜の記憶が鮮明に蘇ってきた。火が噴く勢いでカアッと熱くなる頬を両手で押さえて、弾かれたように彼に背を向ける。「す、すみません。でも、だからって、どうして塔也さんのベッドに……」羞恥のあまり、まだブツブツと言い募る私に、塔也さんが深い溜め息をつく。「……別にいいだろ。面倒臭いから俺のベッドに運んだだけで、本当になにもしてないんだから」ムッと唇を曲げて、ベッドを軋ませて床に降り立つ。いきなり目の前に聳え立った彼に怯み、私はお尻を浮かせて後ろに逃げた。塔也さんは、私に肩越しの視線を落とし……。
フラットに帰り着いた時、時計の針は午後九時を回っていた。タクシーでの帰路の途中、水島から電話の着信があったので、俺はスマホを操作しながらワーキングルームに向かった。「……そうか。サンキュ。悪かったな、ほっぽって行って」報告を聞いて申し訳程度に謝ると、『ほんとですよ!』と憤慨された。耳にキンキンする声に、思わずスマホを耳から遠ざけた。『そ、それにっ! 子供が急病って。いったいどういう言い訳なんですか』「そのままだけど」『だから、子供って。どこの誰の子供……』「俺の」短く返すと、『は?』と惚けた声が聞こえる。俺はガシガシと頭を掻き……。「月曜、大使館で説明するよ。じゃ、悪かったな。気をつけて帰れよ」俺は、水島がまだなにか言ってくる途中でブチッと電話を切り、一度肩を動かして息を吐いた。電話を終えてラウンジに向かう。ドア口から、呆けたようにソファに座っている長閑の背中を見つけた。「…………」俺は無言でネクタイを解きながら、彼女の隣にドスッと腰を下ろした。その振動のせいか、長閑が我に返って顔を上げる。「あの、ごめ……」「何度も謝らなくていい」ほとんど反射的に言いかけた謝罪を、俺は途中で制した。長閑は俺の横顔をジッと見つめて、恐縮したように首を縮める。そして。「私……ママ失格です」聞いたことがないくらい弱々しい声を耳にして、俺は彼女を横目で見遣った。「せっかくの誕生日に、慧斗に辛い思いさせて……」グスッと鼻を鳴らす様を、視界の端に映す。「……子供にはよく見られる病気だと言われただろ。なにもお前が悪いわけじゃ」俺がかける言葉を探して口にする途中で、長閑は目を伏せてかぶりを振った。「私が、無責任なんです」やけに強く断言する彼女を、俺は怪訝な思いで見つめた。「母と同じ事情でママになっても。パパがいなくても、私は慧斗を可哀想になんかしない。塔也さんには偉そうに言ったけど……ほんとは、私」長閑は泣きそうに顔を歪めて、一度言葉を切り……。「生まれてしばらくの間……泣き出すと耳を塞いで逃げて、泣き疲れるのを待った。おっぱいもあげられないくらい、慧斗を受け入れられなくて」「え……?」「慧斗が機嫌のいい時だけ近寄る……。育児放棄とかネグレストとか……虐待スレスレの状態だったんです」ズッと洟を啜って、自分を落ち着かせようとしてか、ハッと浅い息を吐く。「ママになる自信、完全に失くしてました。やっぱ