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川沿いに降り注ぐ霜如く のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

25 チャプター

第11話

私は和真を見つめた。そして、その瞬間、はっきりと感じた。かつて彼に抱いていた、かすかな恋心や執着が。音を立てるように、急速に冷めていくのを。それなのに、不思議と胸は痛まなかった。何かを惜しむ気持ちすら湧いてこなかった。「桃歌、聞いてる?」和真は眉をひそめた。だが、視線はずっと私から離れなかった。「だから?」「部屋に戻って、着替えてこい」和真はそっと私の腕を握り、人気の少ない隅へと引き寄せると、声を落として言った。「桃歌、君は理子より二つ年上だろ。譲ってやれよ」私は彼の手を振り払い、笑った。「もし嫌だって言ったら?」和真は一瞬驚いた様子だったが、すぐに鼻で笑った。「君にそんなことを言う資格があるのか?」「それでも、嫌なの」「嫌なら、別れるだけだ」和真の端正な顔には、徐々に怒りと軽蔑が滲んできた。まるで、私が怖気づいて別れを拒むとでも思っているようだった。「ならそうしよう」私は彼の手を振り払い、淡々と言った。「望みどおりにするわ」和真は突然、冷たい笑みを浮かべた。その笑みには、嘲りが混じっていた。「いい気になってるんじゃねえよ。消えろ」私は何も言わず、そのままドアを開け、大股で部屋を出ていった。
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第12話

私は自室には戻らず、ワインを一本持って庭へ向かった。心地よい夜風に吹かれながら、ワインを二杯目まで飲んだ頃。私は景にメッセージを送った。「清川先生」彼の返信は驚くほど早かった。まるで、私からの連絡を待っていたかのように。「どうした?」「乳腺がまだ痛い」景はすぐには返信しなかった。数分後、代わりに電話がかかってきた。私は椅子に身を預け、山間の夜風に吹かれながら、遠くで咲き誇る海棠の花を眺めた。ワインのせいか、少し酔った気がする。視界も感覚も、ぼんやりと鈍くなる。だけど、景の声だけは、驚くほどはっきりと耳に届いた。「霜鳥さん、今どこだ?」「人のことを抱くときは『桃歌』って呼ぶのに、終わったら『霜鳥さん』か。清川先生って、本当に冷たい」電話の向こうで、彼の息が一瞬止まる。そしてかすかに笑った気がした。次に私の名前を呼ぶ時、彼の声はどこか甘く絡みつくような響きを帯びていた。「桃歌、今どこにいる?」「庭にいるよ」「清川先生は、迎えに来てくれる?」
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第13話

景は、私を彼の部屋へ連れて行った。彼は私たちと同じ建物には泊まっておらず、竹林の奥にある独立した一軒家に滞在していた。向かう道すがら、私は彼に尋ねた。「誰かに見られるの、怖くないの?」景は私の手をしっかりと握り、足元の敷石に気をつけるよう促した。ふと目を下ろすと、私たちの影が月の光に長く伸びているのが見えた。「ここは清川家の所有地だ。気にする必要はない」「誰が気にしてるって?」私の言葉に、景はふと私を見た。私は立ち止まり、まっすぐ彼を見つめる。「私、和真とは別れたよ」「だから、怖がる理由なんてない」「いつのことだ」「30分前。あなたもその場にいたでしょ?」景は何も言わなかった。月は澄み、星はまばらに輝く。竹林の影が揺れるたび、光と影が彼の端正な顔を照らす。月の下に佇む彼の姿は、まるで一本の細くしなやかな竹のようだった。「霜鳥さん」彼は私の手を強く握り、ぐっと引き寄せる。気づけば、私の体は彼の腕の中に収まっていた。「ちゃんと、きれいに別れたんだろうな」「元カレに未練があったら、今のうち捨てろ」景が泊まっている建物には、広い庭がついていた。そして、門をくぐった途端、彼は私を背後の扉に押しつけた。両手で私の顔を包み込むと、深く、強く、焦るように唇を重ねてくる。息継ぎの合間に、彼の顔が私の首筋へと寄せられ、熱い吐息が肌を撫でた。私は彼の首に腕を回し、指を彼の柔らかい髪に絡ませる。「清川先生……」「ああ」「他の女とキスしたことあるの?」彼はまた顔を傾けて私の唇に口づける。息が乱れ、低く囁いた。「ない」「じゃあ……女と寝たこともないの?」景は私の顔を両手で包み込み、親指の腹で唇の端についた水気をそっと拭った。「ああ」彼は背が高い。私はハイヒールを履いていても、彼の顎ほどの高さしかない。彼の髪に絡ませていた両手をゆっくりと首の後ろからシャツの襟元へと滑らせる。指先が喉仏に触れた瞬間。彼はまるで反射的に大きく喉を鳴らし、私の頬を包む手のひらが炎のように熱を帯びた。胸の奥に絡まるさまざまな感情が、ひとつの出口を求めて暴れ出す。狂おしいほどに、私は自分を解き放ちたかった。目を閉じて、彼の喉仏にそっと口づける。
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第14話

景の掌は、驚くほど熱かった。胸元の肌は、まるで焼かれるように彼の温度を吸い込んでいく。喉仏が大きく動き、彼の瞳の奥には抑えきれない欲が渦を巻いていた。それは、獲物を逃さないとする執着にも似た、底知れぬ狂気すら孕んでいる。私たちはあまりにも近すぎた。彼の身体のどこがどう変化しているのか、それが手に取るようにわかる。まるで噴火寸前の火山のように、彼の熱が私を焼き尽くしていく。理性も何もかも、奪い去られてしまいそうなほどに。でも、私は彼の忍耐と自制心を甘く見ていた。彼はこの状況でなお、自らの手を私の肌から引き剥がしたのだ。一瞬、頭が真っ白になった。呆然と彼を見上げる。「ここは駄目だ」彼は私の腰を抱き寄せ、そっと口づけた。「先にシャワーを浴びよう」「ここだと、衛生上よくないし。君にも良くない」胸の奥が、かすかに震えた。山の涼やかな風も、今はなぜか穏やかに感じる。この一瞬。誰もが、彼に魅せられてしまうだろう。玄関で靴を脱ぐとき、私がかがもうとする前に、彼は新しいスリッパを手に取り、膝をついた。外科医の指先は、本来ならばどんな複雑な手術もこなせるほど器用なはずなのに、私の足首に巻きついたリボンを、彼は二度もぎこちなく引っ張った。私の足首をそっと包み込み、慎重にスリッパへと滑らせる。見下ろせば、彼の白いシャツが肩幅に沿ってぴったりと馴染み、裾はズボンの中へと綺麗に収まっていた。その細く引き締まった腰に、なんだか、喉が渇く。彼が立ち上がった瞬間、私は衝動的に彼の首に腕を回し、そのまま唇を重ねた。玄関から、バスルームまで。私たちはただ、夢中でキスを交わし続けた。シャワーの水音が降り注ぐ頃には、彼のシャツの裾はぐしゃぐしゃに乱れ、私のドレスの肩紐はとうに滑り落ちていた。背中が冷たいタイルに押し付けられる。唇が、激しく、深く重なり合う。浴室いっぱいに立ち込める湯気の中、彼は私さえも、まるごと飲み込んでしまいそうだった。「霜鳥さん」けれどその刹那、彼は私の手首を掴み、力任せに引き離した。彼は私のこめかみに張り付いた濡れた髪を払い、指を絡めて握りしめた。乱れた熱い息遣いの中、掠れた声で囁く。「部屋に戻ろう」「ここじゃ……君が辛いだろうから」
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第15話

服を着ているときの景は、どこか華奢に見える。だが、脱いだらまさかここまで鍛え上げられているとは思わなかった。彼には腹筋が八つもある。あんな激務をこなしながら、一体どこにそんな鍛える時間と体力があるのか。まあ、何にせよ、私が得をしたということだ。だから、ずっと飽きもせず触っていた。「気に入った?」絡み合う夜の中、彼はそんなことを聞いてくる。当たり前でしょう。腹筋のある男が嫌いな女なんているの?「うん。好き」そう言いながら、またしっかり触れてみる。「なら、これからずっと君のものだ」私は返事をしなかった。ただ、意識が浮き沈みするのを感じながら、ぼんやりと考える。学園時代の景――あの雲の上のような学長だった彼に、私は恋すら恐れ多かった。ほんの少しでも淡い憧れを抱いたことはある。けれど、それも密かに心の奥にしまっていただけだった。それが今、この手の中にある。それなのに、私はまだ信じられないでいる。こんな幸運が自分に訪れるはずがないと。まるで、あの歌の歌詞のように。誰でも愛する気持ちで富士山を独り占めにはできない、と。ましてや、和真がいる。私たちの間には、あまりにも多くのしがらみがある。それに、彼は景を「景兄」と呼ばなければならない立場だ。だが、それを考える暇もなかった。景の唇が私の唇に落ち、指を絡めて押し倒される。この瞬間の私は、どんな顔をしているのだろう。きっと、乱れた情欲に支配されているに違いない。
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第16話

広々とした寝室には、隅に置かれたフロアランプがひとつだけ灯っていた。カーテンは半分開かれ、月光が差し込み、影が交錯している。私はその月光に包まれ、溶け込むように横たわっていた。窓の外では、花の蕾が夜の帳にそっと閉じられていく。黒と白の世界に、わずかに揺らめく紅が点在している。そして、窓の内側もまた、同じような風景だった。だが、よく見れば、私の腰のあたりに残された不規則な指の痕がわかる。やはり外科医の手は想像以上に力強い。彼が両手で私の腰を包み込んだ瞬間を思い出し、また頬が熱を持つ。これは私にとって、彼との初めての夜だった。正直、少し急ぎすぎた感はある。景は私の湿った髪に唇を落とし、優しく囁く。「水、飲む?」私は小さく喉を鳴らし、枕に顔を埋めたまま、力なく頷いた。彼が水を持ってきてくれたけれど、私は動く気になれない。ただ、甘えて彼に飲ませてもらう。彼はそんな私を抱き寄せ、コップの水をすべて飲ませてくれた。「もっと……」彼がコップを置き、低く笑う。「いいよ、全部あげる」彼が再び私を押し倒したとき、ようやく私は気づいた。この男はもう、あの六根清浄な正統派エリート医師には見えない。二度目の夜は、ずっと長かった。そして私ははっきりと悟る。高い知能を持つ人間は、何を学ぶのも恐ろしく早い。彼はたちまち全てを理解し、私のすべての弱点と敏感な箇所を掌握してしまった。私はあっという間に彼に弄ばれ、抗えずに乱れていく。頬を濡らす涙が鬢髪へと染み込み、彼に囁かれ、促され、何度も「景」と呼ばされた。やがて、霜が降り、川が流れ、雨が降る――今が何日であるかすら、わからなくなっていた。
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第17話

翌朝、私が目を覚ましたときには、すでに陽が高く昇っていた。だが、景の姿は、どこにもなかった。喉の渇きに耐えかね、水を飲もうとした瞬間、身体がまるで轢かれたかのように痛むことに気づいた。しばらくベッドの上でじっとしてから、ようやく身を起こし、枕元に置かれたコップの下に、小さなメモが挟まれているのを見つける。そこには、彼の筆跡でこう書かれていた。「桃歌、ごめん。重篤な事故が発生して、病院が緊急対応に追われている。どうしても戻らなきゃならない」「こっちが落ち着いたら、また連絡する。いい子にしてて」そのメモを見つめたまま、しばらくぼうっとしていた。頭に浮かんだ最初の考えは——もしかして、これは男がよく使う口実なんじゃないかということ。景にとって、昨夜のことは一夜限りの関係に過ぎなかったのかもしれない。それでも、どうしても気になってスマホを開き、検索してみる。トップニュースには、あの連鎖追突事故の報道が出ていた。負傷者たちはちょうど彼の病院の近くで搬送され、多くがすぐに運び込まれたらしい。彼は嘘をついていなかった。ただ、「また連絡する」と言っていたけど……彼が連絡してきたら、何を話すのか。私は何をどうすればいいのか。頭の中はぐちゃぐちゃで、何も考えがまとまらない。でも、一つだけはっきりしているのは。これ以上、ここにいたくない。だから私はすぐにベッドから起き上がり、簡単に身支度を整えたあと、部屋に戻って荷物をまとめることにした。ちょうど庭を出て湖のそばまで来たところで、和真と理子たちの一行とばったり鉢合わせた。関わりたくなかった私は、くるりと背を向けて別の道を行こうとする。だが、理子がすぐに私を呼び止めた。「桃歌姉、そのシャツ……男物よね?」私は思わず、襟元をぎゅっと握りしめた。部屋を出る前、首筋から胸元にかけての無数の痕を鏡で確認し、慌ててクローゼットから新品のメンズシャツを取り出した。おそらく、景が泊まる時のために用意されていたものだろう。理子の一言で、自分の服装に気を取られた私は、少し焦る。だがその前に、和真の顔色が、明らかに変わっていた。「桃歌、その服、どこで手に入れた?」私は平静を装いながら、まず最初に考えたのは、これは私が望んで仕掛
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第18話

私は彼の手を払い、後ずさる。「確か私たち、昨日の時点で別れたはずよ」「だから、私が何をしようと、もう関係ないでしょ?」理子が驚いたように声を上げた。「えっ?桃歌姉、和真兄と別れたの?」私は無表情のまま、彼女を見つめる。「ええ、そうよ。市川さんにとって嬉しいニュースでしょ?」「ちょっと!何それ?」彼女はすぐにムッとした顔になる。「私、喜ぶなんてしてない!私が悪者みたいな言い方はやめてよ!」「和真兄、何とか言ってよ。変な噂を流されて、私が浮気相手だなんて言われたら困るよ!」和真は彼女の手を軽く叩いて宥め、後ろへ下がらせると、私に向かって不機嫌そうに言った。「たったこれだけのことで、まだ文句を言うのか?」「何度も言っただろう?俺と理子は、兄妹みたいなものだって。何もないって」理子も、嫌味ったらしく口を挟んでくる。「桃歌姉、あまり人を疑わない方がいいよ。男女間だって、純粋な友情も成立するから」「桃歌、そんなことで騒ぎ立てると、後で後悔することになるぞ」「別に騒いでなんかいない。ただ、もう付き合いたくないだけ」「それに、昨夜もちゃんと話したはず。私たちはもう終わったの」本当は、彼と長々と話をする気もなかった。正直、体もまだ痛いし。景の馬鹿野郎。三回目に至らなかったのは、さすがに助かった。もしそうなってたら、私は今頃、ベッドから一歩も動けなかっただろう。「じゃあ言ってみろよ」和真が一歩前へ進み、私を見据える。「昨夜、部屋に戻らなかったのは、どこにいたんだ?」私は小さく笑い、軽く眉を上げた。「たまたま会った友達と、ちょっと飲んで話してただけ。悪い?」「本当にそれだけ?」「あんたには関係ないわ」私は適当に髪をかき上げながら、彼を挑発するように微笑んだ。和真の瞳が一瞬鋭く光り、指を突きつけながら声を荒げた。「首のそれは、何だ」彼の視線を追い、指先で首元を軽く触れる。「虫に噛まれたかも」「桃歌!ふざけんなよ!」「じゃあ何だと思ったの?」「それに百歩譲って、本当にあんたが考えてるようなことだったとして、それがどうしたっていうの?」「男女の間にも純粋な友情ってあるんでしょ?ちょっとキスしたくらいで騒ぐこと?」そう言いながら、隣にいる理子
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第19話

部屋に戻ると、もう一度シャワーを浴び、楽な部屋着に着替えた。そして、さっさと荷物をまとめ、温泉リゾートをあとにした。帰りの道中、父から何度も電話がかかってきた。全部無視した。すると、今度は兄からメッセージが届く。「お前、和真と喧嘩したのか?」「さっさと謝れ。もういい加減にしろ」「俺は今、佐伯家との取引を進めてるんだ。邪魔するなよ」胸が詰まるような息苦しさを覚える。「私は彼と付き合ってただけで、売られた覚えはない」「もう別れたし、よりを戻すつもりもない」「お前、調子に乗ってんじゃねえぞ?」「はっきり言っとくぞ。あんな玉の輿を逃したら、お前なんかすぐに霜鳥家から追い出してやるからな」大学を卒業してから、私は完全に自立していた。両親からも、霜鳥家の財産は兄たちのものであり、私には何の関係もないと言われていた。家には何軒も不動産があるのに、私に与えられたのはたった38畳の普通のマンション一つだけ。他の資産はすべて兄夫婦名義になっている。霜鳥家の商売も、霜鳥家の未来も、私には何の関係もない。私は微笑みながら、短く返信した。「お好きにどうぞ」家に戻ると、三日間ひきこもった。どんな家庭に生まれたとしても、簡単に割り切れるものじゃない。感情を消し去るなんて、できるはずもない。夜になると気分が沈み、不眠に苦しんだ。頭が割れそうなほど痛む。仕方なく、キッチンへ行き、酒を少し飲む。アルコールのせいなのか、それとも気分のせいなのか。乳腺のあたりに、鈍い痛みが広がる。薬を飲んでも治らず、むしろどんどん痛みが増していく。我慢できずに病院へ行くことにした。専門医の診察を受けようと、できるだけ景に会わなくて済むように別の医師を選んだ。今の私は、心も体もボロボロで、彼と顔を合わせる自信がない。廊下で順番を待っていると、突然、看護師が声をかけてきた。案内された先は、景のオフィスだった。思わず踵を返し、その場を離れようとする。だが、彼の声が背後から響いた。「待て」振り返ると、彼は二、三日寝ていないのか、目の下にうっすらとクマができていた。疲れが滲んだ顔。「そこに座れ。手を洗ってくる」白衣を脱ぎ、真剣な表情で手を洗い始める。水が指の間を流れてい
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第20話

「また、しこりの部分が痛むのか?」景は手を洗い、消毒して拭き終えると、私の前に向き直った。「ごめん、桃歌。ここ数日、本当に忙しくて、すぐに連絡できなかった」私は彼をじっと見つめた。たった三日しか経っていないのに、彼はまた少し痩せた気がする。顎には青く無精髭が伸び、手入れする時間もなかったようだ。思わず手を伸ばし、そっと触れた。「清川さん、髭が伸びてるよ。なんか、ダサい」彼は私の手を握り、そのまま掌に顎を擦りつけながら、くすっと笑った。「すぐ剃るよ」でも、私は彼を引き止めて、立ち上がらせなかった。「冗談だよ。こういうのもカッコいい」「男らしいし、本に書いてあるみたいな『男性ホルモンたっぷり』って感じ」「じゃあ、このまま伸ばそうか?」私は鼻をひくつかせる。「やっぱりやめよう。キスするとき、痛そうだから」彼の口元の笑みが、さらに深まった。「試してみる?」「ここ、オフィスなんだけど……」「大丈夫。今日は半日休みを取ってる。誰も邪魔しない」「ちょうど君に電話しようと思ってたところだったんだ」「そしたら、偶然君が病院に来てるのを見かけて」彼は私の手を包み込み、その表情が次第に真剣なものへと変わる。「ごめん。あの日、君が初めてだって知らなかった」私たちはすぐ近くにいた。すぐ横には窓があり、その向こうには樟の木が見えた。遠くには庭園が広がり、風が淡い香りを運んでくる。光と影が、彼の端正な顔立ちの上をゆらゆらと揺れる。一本一本のまつ毛まで、はっきりと見えた。徹夜続きの疲労で、目の下にはうっすらと青い影が落ちている。目尻には、小さな茶色のほくろ。彼は、私の少女時代にとって、手の届かない憧れだった。鼻の奥がツンとする。言葉にしづらい思いが、胸の奥で膨らんでいた。人は、ずっと仰ぎ見てきた相手の前では、無意識に卑屈になってしまうのかもしれない。だけど、それでも私は彼を手放したくなかった。私はよく分かっている。自分がどれほど自分勝手で、虚栄心の強い人間か。だからこそ、私を食い物にしようとする貪欲で卑しい家族に、私も、私の大切な人も搾取されるのは絶対に嫌だった。彼らとは、早く縁を切りたくてたまらない。そして今この瞬間、私は世界中に向か
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