共有

第2話

私は笑いながら涙を流した。あの頃、私たち本当に幸せだった。

この幸せがずっと続くと思っていた。

でも、最近病状が良くなってきたのと同時に、伊藤健一の態度も少しずつ変わってきた。

彼は研究室に籠りきりで、私と過ごす時間も段々減っていった。

研究が大切な時期なのだと思い、私は彼の負担を減らしてあげたかったのだ。

何時に帰ってきても、文句一つ言わずに待っていた。

帰宅したら温かい牛乳を用意して、ベッドメイキングもしていた。

彼の襟のキスマークも、私のものではない香水の匂いも、必死に無視しようとした。

でも現実は、そんな自己欺瞞を許さなかった。

あの夜、彼がシャワーを浴びている時だった。

電話が鳴って、私の携帯だと思って出てしまった。

「先輩、今夜は私と一緒に寝てくれないから、寂しくて眠れないよ。

家に帰ってどうするの?優子さんはか弱いから、触れないでしょう?私なら色々できるのに。今度試してみない?

先輩?どうして黙ってるの?」

気づいた時には、私は既に電話を切っていた。

全身の震えが止まらなかった。

あの話し方は、ただの同僚のものではない。

仕事の話ではなく、まるで恋人同士の会話だった。

私が一人で家で待っている間、彼は別の女性と親密な関係を持っていたのかもしれない。

何度も佐藤健一の母に電話して悩みを打ち明けたが、彼女の言葉に絶望的な現実を突きつけられた。

「優子ちゃん、男の人っていうのはね、少しは理解してあげないと。

もし別れたら、優子ちゃんはどこに行くの?」

そうだ。別れたら、私はどこへ行けばいいのだろう。

住む場所も、働く能力も、頼れる親族も友人もいない。

まるで誰かの丁寧な手入れと世話が必要な、壊れやすい「ガラスの人形」のようだ。

彼が私を愛していないことは分かっていた。でも、離れることはできなかった。

一ヶ月前、掃除をしていた時に腕をぶつけてしまった。

すぐに彼に連絡したが、「自分で病院に行けば」と言われた。

整形外科には何度も来ていた。

今までは彼が付き添って、受付から会計、薬の受け取りまで、全部してくれていた。いつも安心感をくれていたのに。

でも今回は、心配の電話一本もなかった。

ギプスをして帰宅すると、彼はスマホで誰かと楽しそうにチャットしていた。

私が玄関で立ち尽くしているのを見て、適当に言った。

「同僚と仕事の話してるから、先に休んでていいよ」

黙って寝室に行き、怪我していない方の手でスマホを開いて、彼のSNSを見た。

「仕事は大変だけど、君がいてくれるから頑張れる」

写真には寄り添って笑う二人が写っていた。

お互いの目には相手しか映っていない。

本当に愛し合っているんだな。

私は伊藤健一とこんな写真を撮ったことがなかった。

しばらくして、伊藤健一もベッドに入り、後ろから静かに私を抱きしめた。

私がその投稿を見ているのに気づいて、何でもないように説明した。

「誤解しないでよ。ただの友達だよ。そうじゃなかったら、お前に見られるようなところに投稿しないだろ」

私は頷いた。「誤解なんてしてないわ。信じてるから」

冷静だった。いいえ、心が冷め切っていたのだ。

それでも習慣的に彼を気遣う言葉を掛けた。

「そんなに無理して働かなくていいのに。早く帰ってきてほしいな。

夜遅くまで残業しないで......」

言い終わる前に、彼は私を抱く手を離し、言葉を遮った。

「もういいよ。仕事で疲れてるのに、家でもこんなくだらない話を聞かされるなんて。お前には説教以外に何ができるんだ?

他の人の奥さんは良き理解者で、家事も完璧にこなして、外で稼ぎもある。お前は?掃除一つで怪我して、金ばかりかかる」

私は言葉を失い、唇を強く噛みしめた。胸が痛んだ。

彼の言う通りだった。

きっと後悔しているんだろう。最初から私を家に連れて帰るべきじゃなかったと。

私の心を傷つけたことに気づいたのか、彼は口調を変えて慰めた。

「こんなに頑張ってるのも、お前のためだろ。実験が早く終われば、骨形成不全症の新薬も早く完成するんだから」

痛い......体の痛みが私を現実に引き戻した。

救急隊から再び電話がかかってきた。

「落ち着いて動かないでください。すぐに到着しますから、必ず持ちこたえてください」

20分経っても、救急車のサイレンすら聞こえない。

心臓の鼓動が段々遅くなっているのを感じる。

意識を保つため、唇を噛み切るほど噛みしめたが、あとどれだけ持つかわからない。

最後の理性を振り絞って、伊藤健一に最後のメッセージを送った。

「私を治してくれてありがとう。この命、もう返すときが来たよ」

関連チャプター

最新チャプター

DMCA.com Protection Status