【藍side】仕事で沖縄に来て2日目。抜けるようなコバルトブルーの空の下。俺は今、エメラルドグリーンの美しい海で、清涼飲料水のテレビCMの撮影をしている。「久住くん、ここは爽やかな笑顔で頼むよ」「はい」細かな動作を監督たちと確認し、リハーサルのあと、CM撮影が本格的に始まった。学ランの衣装に身を包んだ俺は、白い砂浜を全速力で駆け抜ける。そして海をバックに髪をかきあげ、青空の下で笑顔で清涼飲料水をゴクゴクと飲んだ。「はい、オーケー!」監督からのカットがかかり、撮影はストップする。「久住くん。君、演技もいけるねぇ。一発オーケーだったよ」「ありがとうございます」監督に褒められると、素直に嬉しい。その後、スチール撮影や雑誌のインタビューに答えたあと、CM関連の仕事は無事に終了。マネジャーと共に、宿泊するホテルに戻る準備をしていると。「おっ、お疲れ様です!あの……藍さんに、お話があるんですけど」先ほどのCM撮影で少しだけ共演したモデルの女の子が、緊張した面持ちで俺に声をかけてきた。「……話って何ですか?」そして俺は今、共演したモデルの女の子と向かい合って立っている。CMで共演したと言っても、清涼飲料水のペットボトルを彼女に渡してもらうだけだったが。「あ、あの……」俺の目の前で、顔を真っ赤に染めた女の子の名前は、AINA(アイナ)。最近、可愛いと人気急上昇中の同世代のファッションモデルだ。「あっ、あの、わたし……藍さんのことが好きなんです!」「……無理」迷わず、即答する俺。芸能界デビューしてから、学校や仕事でほぼ毎日のように誰かに告白されるけど。誰からの告白も、俺がOKすることは絶対にない。「悪いけど俺、AINAさんとは付き合えないです」「どうして!?」「……事務所から、恋愛は禁止だと言われているので」キッパリと言い切ると、俺はスタスタと歩いていく。恋愛禁止だなんて、もちろん口から出まかせ。仕事関係の人からの告白を断ってもなるべく角が立たないようにするための、断り文句みたいなものだ。本当の理由は、俺にはずっと好きな人がいるから。──梶間萌果。俺が長い間、ずっと想い続けている女の子の名前。いつから萌果が好きなのかと聞かれたら、それは分からない。俺は、物心ついたときからすでに萌果のことが好きだったから。4月生まれ
そして小学5年生の3月。『あのね、実は僕……萌果ちゃんのことが、ずっと好きだったんだ』震える声で何とか萌果に告白するも、彼女の答えはNO。俺は、見事に振られてしまった。『藍は家族っていうか、弟みたいに思ってたから。藍のことを、そんなふうに見たことがなかったの。だから、ごめんね』と。ショックだった。萌果とは同い年なのに、弟にしか見られていなかったなんて。萌果は『藍のことを、そんなふうに見たことがなかった』と言っていたから。萌果に弟としてではなく、一人の男として見てもらえるようになったら、もしかしたら俺にもまだチャンスがあるのでは?そう思った俺は、それ以来勉強も運動も人一倍頑張った。少しでも強くなろうと、母さんに頼んで家の近所の空手教室にも通わせてもらった。筋トレだって毎日やって、身だしなみも整えようとオシャレの研究もした。もし次に萌果と再会できたときは、弟ではなくちゃんと異性として見てもらえるように。そして、俺のことを好きになってもらって、告白のリベンジをするために。その日をひたすら夢見て、自分にできることは何だってやった。それから数年が経ち、中学2年生の頃に街中で俺は今の芸能事務所の人にスカウトされた。元々芸能界なんて全く興味がなかったけど、もし売れて知名度が上がれば、九州にいる萌果の目に入ることがあるかもしれない。そう思った俺は、ファッション誌のモデルとしてデビューしたのだった。◇そして高校2年生になった今。萌果がようやく福岡から東京に戻ってきて、ウチで同居している。ずっと離れて暮らしていた萌果が、毎日俺の家にいるなんて夢みたいだ。高校生になった萌果は、小学生の頃よりも大人っぽくなっていて。何よりすごく綺麗になっていて、びっくりした。萌果に少しでもドキドキして欲しくて、距離を縮めるとすぐに顔が真っ赤になる。男慣れしていない、そんなところも可愛い。あまりガツガツし過ぎると良くないってのは、分かってるんだけど。5年間会えなかった反動なのだろうか。萌果を前にすると、好きって気持ちが溢れてしまって。すぐに触れたくなって、ときどき歯止めがきかなくなる。この同居生活で、萌果が少しでも俺のことを意識してくれると良いんだけど。実際は、どうなんだろう……?**夜。仕事を終えてホテルの部屋に戻ってきた俺は、ベッドに思いきりダイブす
『えっと、実は……陣内くんに、放課後遊びに行こうって誘われて……』「は!?」陣内……その名前を聞いた途端、一瞬で頭に血が上る。「もしかして萌果ちゃん、陣内と遊びに行ったの?」『まさか!行ってないよ。誘われたけど、どう断ろうかと私が困ってたら、柚子ちゃんが横から助け舟を出してくれて……』「そう」行かなかったと聞いて、ホッとする。“柚子ちゃん”って確か、俺たちと小学校から一緒だった円山さんだっけ?「円山さんって、いい人だね」「そうなの!柚子ちゃんは、いつも優しくて。ほんとーに、可愛くていい子なんだよね」円山さんのことを嬉しそうに話す、萌果が可愛い。つーか、可愛くていい子なのは萌果もじゃん。「そっか。沖縄のお土産、いっぱい買って帰るね」円山さんにもお礼として、何か買って帰ろう。『ありがとう。電話してから、1時間近くなるし。そろそろ寝よっか?』萌果に言われて腕時計を見ると、時刻はもうすぐ深夜2時になろうとしていた。萌果と話してると、時間なんてあっという間に過ぎてしまう。「ごめんね。長い間、電話に付き合わせてしまって」『ううん。寝る前に、藍の声が聞けて良かったよ。それじゃあ、おやすみ』「おやすみ」萌果との通話を終えると、俺はごろんとベッドに横になった。そして、真っ暗になったスマホの画面をしばし見つめる。ああ……萌果の声を聞いたら、余計に会いたくなってしまった。しかも『寝る前に、藍の声が聞けて良かった』って、めちゃくちゃ嬉しいこと言ってくれてたし……やっばい。俺は、口元を手で覆う。一刻も早く東京に帰って、萌果に会いたい。会って、真っ先に萌果をハグしたい。萌果を俺の腕のなかに閉じ込めて、誰にも渡したくない。もちろん、陣内ってヤツにも……。俺は、拳をギュッと握りしめる。陣内……最近、学校でやたらと萌果に付きまとってるのを見かけるけど。明らか、萌果に気があるよな。俺が芸能科のせいで、今年も来年も萌果と同じクラスになれないのが辛い。萌果は可愛いから、陣内が口説きたくなるのも分からなくはないけど。昔から萌果の魅力を知っていて、彼女のことがずっと好きな俺だからこそ、他の男の動向には特に敏感になる。陣内、要注意人物だな。俺も幼なじみだからって、萌果と同居してるからって、のんびりしていられない。萌果に好きになってもらえるよう、
日曜日のお昼。今日は藍が、沖縄から帰ってくる日。──ピンポーン。燈子さんは今出かけていていないので、私がリビングでお留守番していると、家のチャイムが鳴った。もしかして、藍かな?「はーい」私が玄関のドアを開けると、案の定そこには藍の姿が。「ただいま、萌果ちゃん」「おかえり、藍」私を見てニコッと微笑むと、藍が家の中に入ってくる。「家に帰ってきて、大好きな萌果ちゃんが『おかえり』って出迎えてくれるなんて。すごく幸せだなあ」帰ってきて早々、藍の甘い言葉に胸が小さく跳ねる。「藍、疲れたでしょう?お昼ご飯は?もしまだなら、先に食べ……」玄関からリビングに移動した途端、私は藍にいきなり抱きしめられてしまった。「お昼ご飯よりも先に、萌果ちゃんがいい」「え?」藍に抱きしめられながら耳を食まれ、思わずぴくんと身体が跳ねる。「ど、どうしたの?急に……」「充電が切れたから。まずは、萌果ちゃんをしっかりと充電しなきゃ」充電って……。そういえば、藍が沖縄に行く前にも『萌果を充電させてくれない?』って言われて。学校の空き教室で、藍にキスやハグを沢山されたんだったっけ。そのことを思い出した私は、顔が熱くなる。「萌果ちゃん、会いたかったよ」私を抱きしめる藍の手に、力がこもる。「わ、私も……会いたかった」って。何を言ってるんだろう私。でも、この家で燈子さんと初めて二人だけで夕飯を食べたとき、藍がいなくてなぜか無性に寂しくて。藍に会いたいって、思ったから。「ふーん。そっかそっか」藍のほうを見ると、ニヤリと意味ありげな笑みを浮かべていた。「萌果は、俺がいなくて寂しかったんだね」「そっ、それは……」私は藍から視線を外して、目を泳がせる。「なに?俺は、萌果と2日離れてただけでもめちゃくちゃ寂しかったけど。萌果ちゃんは、違ったの?」藍の顔がこちらに近づき、吐息がかかる距離で見つめられる。「……しかったよ」「え?」「藍と会えなくて、私も寂しかった」恥ずかしさを堪えて、正直に言ってみた。「萌果ちゃん!」すると、さっき以上に藍に力いっぱい抱きしめられる。藍……く、苦しいよ。「俺と会えなくて寂しかったって。それってもう、萌果ちゃんが俺のことを好きって言ってるようなものじゃない?」「はい!?どうして、そうなるの?違うから!」「ふふ。素直じゃな
「円山さん、いいなあ。ねえ、梶間さん。俺にはくれないの?俺も甘いもの、めっちゃ好きなんだけど!」俺には?って。陣内くんとはクラスメイトだけど、特に仲が良いって訳でもないんだし。何だかちょっと厚かましいな。私が買ったものならまだしも、これは藍からもらったお土産だし。だけど……「……はい」悩んだ結果、私はあとで食べようとブレザーのポケットに入れていたちんすこうを、陣内くんに一つあげた。陣内くんのことだから。渡すまで、しつこく付きまとわれそうだったから、仕方なく。「やった。梶間さん、サンキュー」私からちんすこうを受け取ると、陣内くんは満足そうに微笑み、歩いていった。**数日後。「ただいま帰りましたー!」夕方。学校から帰宅すると、橙子さんがリビングで大きめのバッグに荷物を詰め込んでいた。どうしたんだろう。何だか、急いでるみたいだけど……。「あっ。萌果ちゃん、おかえりなさい」「ただいまです。あの、どうかされたんですか?」「それがね……」バッグから顔を上げた橙子さんが、困ったように眉根を下げた。「夫が、過労で倒れちゃったみたいで……」「ええ!?それは、大変ですね」橙子さんによると、関西に単身赴任中の藍のお父さんが、働きすぎによる過労で倒れてしまったらしい。「あの人は大丈夫だって言うけど、さすがに心配だから。一度、様子を見に行こうと思って」「はい」家族が倒れたって聞いたら、誰だって心配だよ。藍のお父さん、何ともないと良いな。「そういう訳で、今夜は家に帰れないから。萌果ちゃん、悪いけど……藍とふたりで仲良くやってくれる?」「はい……って、ええ!?」うそ。私が藍と、この家でふたりきり!?「ほんとにごめんね。明日の夜には、帰れると思うから……」「ただいまー」私と橙子さんが話していると、藍が帰ってきた。「どうしたんだよ、母さん。荷物なんか詰めて」「おかえり、藍。実はね……」橙子さんが、さっき私に言ったのと同じことを藍にも伝えた。「倒れたって、まじで!?父さんは大丈夫なの!?」「お母さん、様子を見てくるから。今夜は、萌果ちゃんとふたりだけになるけど……」「分かった。俺に任せといて。この家も萌果のことも、俺がしっかりと守るから」藍が、ポンと胸を叩いてみせる。「昔は泣き虫だったのに。藍も言うようになったわね〜。というわけ
「やばい。これ、めっちゃ美味いよ!」藍の言葉に、ホッとする。「お店の味にも負けないくらい、美味しい」「お店の味って!藍ったら、ほんとお世辞が上手なんだから」「俺、お世辞とか言わないし。全部、本当に思ってることだよ」え?「自分の好きな子が、一生懸命作ってくれた。それだけで、俺にとっては最高のご馳走になるんだから」藍のニカッと明るい笑顔がまぶしくて、頬が熱くなる。︎︎︎︎ていうか藍、さらっと『好きな子』って言ってくれた……。私の胸が、キュッとなる。「俺、萌果の手料理が食べられて、ほんと幸せだよ」「藍……ありがとう。チャーハン、まだおかわりあるからね」「まじ!?それじゃあ、お願いしようかな」それから藍は、おかわりのチャーハンも美味しいと言いながら、きれいに完食してくれた。藍、まさかあんなに喜んでくれるなんて。ご飯、頑張って作って良かったな。**夕食後。私が洗い物をしようと、キッチンのシンクの前でスポンジを手にしたとき、藍がやって来た。「萌果ちゃん。夕飯を作ってくれたお礼に、あと片づけは俺がやるよ」スポンジを持った手を藍に掴まれ、肩がぴくっと跳ねる。「えっ、いいよ。居候させてもらってるんだし、洗い物は私がやるから」「そんな遠慮しないで。たまには、俺に任せてよ」腕まくりした藍が、笑いかけてくれる。「萌果ちゃんは、先にお風呂入ってきて」「ありがとう。それじゃあ、お願いしようかな」「うん。ごゆっくり〜!」藍にニコニコと手を振られ、私は洗面所へと向かった。* *お風呂から上がった私は今、リビングのソファに座ってテレビを観ている。「あっ。藍だ……!」バラエティ番組の途中でCMが入り、テレビ画面に藍の顔がアップで映った。太陽の下、ゴクゴクと美味しそうに清涼飲料水を飲んだ藍が、爽やかな笑顔を見せている。「は〜、かっこいいなぁ」藍は、去年からこの清涼飲料水のCMキャラクターを務めている。去年新発売したこの清涼飲料水は、藍が出演するCMが放送されるやいなや、“あの爽やかイケメンは誰だ”とSNSを中心にたちまち話題になり、一時は商品が売り切れ続出したらしい。藍が沖縄で撮影したCMって、もしかしてこれの新しいやつなのかな?「ああ、ほんとかっこいい……」口から無意識にこぼれる言葉。藍は小さい頃も可愛かったけど、今はほんとイケ
「えっと、藍……だよ」「え?」「私は……さっきテレビで藍を見て、かっこいいって言ってたの」勇気を振り絞って言ったものの、藍を直視できず、私はふいっと彼から顔をそらしてしまう。「うそ、まさかの俺!?えー、やばい。めっちゃ嬉しいんだけど」たちまち笑顔になった藍が、くしゃくしゃと私の頭を撫でてくる。「萌果ちゃんが、俺のことをかっこいいって言ってくれるの、初めてじゃない?」「そうだっけ?ていうか藍、かっこいいなんて言葉、他の人にもたくさん言われてるでしょ?」「そんなの、萌果から言われるのが一番嬉しいに決まってる」「へー。そうなんだ?」私がかっこいいって言ったくらいで、大袈裟なくらいに喜んでいる藍。そんな藍のことが、なぜだかとても愛おしく思えてしまった。なんだろう。調子狂うなぁ。「さっ、さあ。23時過ぎたし、明日も学校だからそろそろ寝ないと」私は、ソファから勢いよく立ち上がった。そのとき。ザーッと、窓の外から音がすることに気づいた。そっと、カーテンを開けて見てみると。「うそ。雨……」いつの間にか空からは、滝のような雨が降り注いでいた。──ゴロゴロゴロ!!「ひっ!」遠くのほうで雷が鳴って、肩がビクッと跳ねる。「萌果ちゃん、もしかして雷が怖いの?」「まっ、まさか〜!子どもじゃあるまいし、雷なんて全然怖くないよ」ほんとは子どもの頃から今もずっと、雷は苦手だけど。高校生にもなって雷が怖いだなんて、さすがに恥ずかしくて。つい、強がってしまった。ましてや、昔からずっと弟のような存在に思っていた藍の前で、本当のことなんて言えるわけない。「それじゃあ、おやすみ藍!藍も早く寝るんだよ?!」早口で言うと、私は逃げるようにリビングを出て行った。まあ、雨も雷もそのうち止むでしょう。そう思いながら和室に戻ると、私は部屋の電気を消して、急いで布団に潜り込む。──ザーッ!だけど、外の雨音がうるさくてなかなか寝つけない。しかも……。──ゴロゴロゴロッ!!「ひゃあ」雷は止むどころか立て続けに鳴っていて、その度に私の体は震え上がる。布団の中で丸まり、両耳を手で塞いでいても雷の音が聞こえてくる。うう。この歳になっても、雷はやっぱり怖い。雷、早くおさまって……!だけど、私の気持ちとは裏腹に雷の音はどんどん大きくなっていく。窓の外で、ピカ
ゴロゴロゴロッ……!!「きゃあっ!」地割れのような音が響き、私は思わず藍の背中に腕をまわしてしがみついた。「怖い。怖いよ、藍……っ」今度は強がったりすることなく、ちゃんと本音のまま話す。「大丈夫だよ、萌果ちゃん。俺がいるから」藍が、より一層私を強い力で抱きしめる。藍と真正面から隙間なくぴったりとくっついて、ドキドキするけれど。藍と、触れ合っている部分が温かくて。こうして藍に抱きしめられていると、すごく落ち着く。「大丈夫、大丈夫」私を抱きしめながら、もう一方の手で私の背中をポンポンと優しく叩いてくれる藍。心地よいリズムで繰り返されるそれが、私により一層の安心感を与えてくれた。昔は、藍も私と同じように雷を怖がって泣いていたのに……いつの間に、こんなにも強くなったの?藍がこうしてそばにいてくれるだけで、心強いって思う日が来るなんて……。「ねぇ、藍。今夜は、ずっとそばにいて?」気づいたら私は、そんなことを口にしていた。私が離れないとばかりに藍を抱きしめる手に力を込めると、藍も私を逞しい腕でぎゅっと抱きしめ返してくれる。「うん。俺は、萌果ちゃんから離れないよ。今夜はずっと、一緒にいるから」それから私たちは布団の上で抱き合ったまま、夜を過ごすのだった。︎︎︎︎︎︎**翌朝。──ピピピッ、ピピピッ。「ん〜っ」いつものスマホのアラームの音に、目が覚めた。少し開いた窓からは、うっすらと日差しが差し込んでいる。「もう朝かぁ……」重たい瞼をなんとか持ち上げ、少し見慣れてきた天井を見つめて伸びをすると、腕が何かに当たった感触がする。「……え?」そちらに目をやった瞬間、私は硬直してしまう。まだおぼろげな視界に飛び込んできたのは、なんと裸で隣に眠る藍だったから。「き、きゃーーー!!」私が叫びながら後ずさると、藍が目をこすりながら体を起こした。え、え!?ど、どうして藍が、私と同じ布団に!?「おはよう、萌果ちゃん」眠たげな顔でこちらを見て、ふにゃりと笑う藍。「お、おはよう……」状況をまだ理解できないながらも、とりあえず挨拶だけは返す。「ふふ。萌果ちゃん、朝から可愛い」甘く微笑んだ藍が距離を詰めて、滑らかな指先で私の頬をつうっと撫でる。不意打ちのスキンシップに、鼓動が大きな音を立てた。「ねえ。おはようのキスして?」「キ
「反省してるのなら、盗撮した私たちの写真……消してくれる?スマホのゴミ箱にあるのも全部」 「ああ」 私が言うと、陣内くんは素直に私と藍の写真を全て消してくれた。 「梶間さんと久住は……小学生の頃からもずっと、仲が良かったもんな。俺なんかが、全く立ち入られないくらいに」 「そんなの当たり前だろ?俺と萌果は、幼なじみという特別な関係なんだから」 藍が、私を陣内くんから隠すように私の前に立つ。︎︎︎︎︎︎ 「梶間さんが引っ越して、久住が芸能人になってからも、まさか二人の関係は今も変わらず続いていたなんて……羨ましいな」 陣内くんの顔は笑っているけど、なんだか少し泣きそうにも見える。 「陣内、分かってると思うけど……萌果に、もう二度とこんなことするなよ?」 藍が、陣内くんに釘を刺す。 「もちろんしないよ。ふたりとも……秘密の関係頑張って?お幸せにね」 陣内くんは立ち上がると、ひらひらと私たちに手を振って、屋上から出ていった。︎︎︎︎︎︎ 「陣内のヤツ、本当に分かったのか?」 陣内くんが歩いて行ったほうを、藍が軽く睨む。 「たぶん、陣内くんはもう大丈夫だと思うよ」 陣内くんが『お幸せに』と言ったとき、今まで見たなかで一番優しい顔をしていたから。 それに藍が屋上に来る直前、陣内くんは涙を流す私を見て『ごめん』と先に一度謝ってくれていた。 私が陣内くんの想いに応えられなかったからといって、彼が私たちを盗撮して脅すという行動に出たのは、簡単に許せることではないけれど。 いつか陣内くんと、クラスメイトとして普通に接することができたら良いなって思う。 「陣内のことを、信じてあげられるなんて。ほんとすごいなぁ、萌果ちゃんは」 藍が両腕を広げて抱きしめてこようとしたので、私は慌てて藍から逃げた。 「えっ、萌果ちゃん?」 藍が、目を大きく見開く。 「ご、ごめん……ほら、あんなことがあったあとだから。外では、周りにもっと警戒しないと」 もちろん、それもあるけれど。逃げた一番の理由は、藍のことが好きだと自覚して、多少の照れくささもあったから。 「そうだよね。俺、軽率だったよね。ごめん」 しゅんとした様子の藍が私から少し距離をとって、コンクリートの上に腰をおろす。 「元はと言えば、こんなことになったのも俺のせいだし。数学の補習のとき、俺が萌果
「萌果っ!!」えっ……。藍の声が聞こえて、私は目を見開く。まさか、ここに藍が来るわけが……そう思った次の瞬間──。「痛ててててっ!」「陣内、萌果に何してくれてんだよ!?」藍が、陣内くんの腕を捻り上げていた。「萌果のこと、泣かせて……ふざけんなよ!」「はっ、はなしてくれ!」藍は、無言で陣内くんを投げ飛ばす。そして、藍が鋭い目つきで陣内くんを睨みつけた。「やっぱり、あの掲示板に貼られた写真の犯人は、陣内……お前だったのかよ!?」「ああ、そうだよ。君たちがムカつくから、やったんだ」「はあ!?」素直に認めた陣内くんに、藍が殴りかかる勢いで向かっていく。「藍、やめて!」私の声が届いていないのか、藍は倒れたままの陣内くんの胸ぐらを掴んだ。血眼になって……こんなにも怒った藍を見たのは、生まれて初めてかもしれない。「なあ。どうせあの写真を餌に、萌果のことを脅しでもしてたんだろ?いいよ。あの写真、みんなにバラしたきゃバラせよ!」「だっ、ダメだよ、藍!そんなことをしたら、藍の仕事にもきっと影響が……!」私は、藍に向かって叫ぶ。「確かに、萌果の言うとおり。もしあの写真が流出したら、ファンの子たちは俺から離れていくかもしれない。萌果にだって、嫌な思いをさせてしまうかもしれない。だけど……」藍が、鋭い目つきで陣内くんを見据えながら続ける。「たとえそれで俺の人気が落ちたとしても、努力して這い上がってみせる。萌果のことだって、必ず守ってみせる。だって、俺は……頑張るって萌果に宣言したから。萌果もモデルの仕事も、どっちも絶対に諦めない……!」藍の言葉に目を瞬かせたあと、陣内くんはため息をつく。「……そうか。まさか久住に、そんなふうに言われるなんて……ああ、完全に俺の負けだよ」その言葉に、陣内くんの胸ぐらを掴んでいた藍がようやく手を離した。「俺、梶間さんをあんなふうに泣かせたい訳じゃなかったんだ。ちょっと困らせてやろうって思って……でも、それは間違ってたよな。梶間さんの涙を見て、目が覚めたよ」力なく笑う陣内くん。「これでも俺、梶間さんのことが本当に好きだったんだよ。俺、小学5年生のときにアメリカから梶間さんたちが通う小学校に転校してきて。クラスは違ったけど、初めて梶間さんを見たとき、すごく可愛い子だなって思って。一目惚れだったんだ」「えっ?
「はぁ、はぁ……っ」私は、無我夢中で廊下を走り続ける。悲しさと苛立ちが最高潮に達して、つい感情のままに叫んでしまったけど。もしかしたら私、とんでもないことをしちゃったかもしれない。この前の数学の補習のときに、藍はこれからもモデルの仕事を頑張りたいって話していたところなのに。もしも陣内くんに、あの写真を流出されたりしたら……藍のモデルとしての生活にも影響があるかもしれない。「ああ、どうしよう……」走ってやって来た屋上の隅っこで、私は一人うずくまる。補習のあのとき、教室には私と藍以外誰もいなかったとはいえ、学校だからもっと危機感を持つべきだった。今になって後悔したって、もう遅いけど。もし、陣内くんにあの写真をばら撒かれたら……芸能人の藍に迷惑をかけちゃう。私自身はどうなっても構わないけど、藍のことだけは守りたい。さっきは、つい勢い余って拒否してしまったけど。あの写真を拡散させないためには、陣内くんの言うことを聞いて、彼と付き合うしかないのかな?冷静になって、もう一度じっくりと考えてみる。だけど、頭の中に繰り返し浮かぶのは藍の顔。やっぱり、好きでもない陣内くんと付き合うなんてできない。そんなのは、絶対に嫌だ。私が付き合いたい人は……陣内くんじゃなくて、藍なんだから──。「……って、やだ。私ったら、今何を思った?!」屋上の隅でうずくまり、ずっと俯いていた顔をガバッと勢いよく上げる。そして、パチパチと瞬きを何度も繰り返す。藍と付き合いたい……だなんて。ああ……私ったら、いつからそんなことを思うようになっていたんだろう。藍は、昔から可愛い弟のような存在で。藍のことが大切で大好きなのは、ずっと家族愛みたいなものなんだって思っていたけど。知らず知らずのうちに、藍に家族や幼なじみ以上の感情を抱くようになっていたなんて……!「私……藍のことが好きなんだ」だから、藍がこの前屋上でレイラちゃんと一緒にいたのを見たときも、あんなにショックだったんだ。ああ……まさかこんな形で、自分の気持ちに気づくなんて。恋を自覚した瞬間、ぶわっと顔が急激に熱くなった。小学生の頃、一度振ってしまった藍のことを好きになってしまったなんて、自分でもびっくりだよ……。──バンッ!!私が自分の想いを自覚したそのとき、勢いよく屋上の扉が開き、飛び出すように誰かが
「ねえ。ここに写ってる女の子って……梶間さんでしょ?」 確信したように尋ねる陣内くんに、私は戸惑ってしまう。 「ええっと……」 そもそも、掲示板に貼られていた写真と全く同じものを、どうして陣内くんが持ってるの!? 「ち、違うよ」 私は、どうにか平静を装って答える。 藍との関係は、学校では秘密だから。『はい、そうです』だなんて、さすがに言えない。 「久住くんと私は、知り合いじゃないし。人違いなんじゃ……?」 「またまた〜。嘘ついたってダメだよ。俺、見てたんだから」 見てた? 「ほら。これ、よく撮れてるでしょ?」 恐る恐る、私は陣内くんが見せてきたスマホを覗き込む。直後、心臓が凍りついた。 そこには、ハグをしながら見つめ合う私と藍の横顔が、はっきりと写っていたから。 う、うそ。信じたくはなかったけど、あの掲示板の写真の犯人は……陣内くんだったの?! 「ど、どうしてこんなことを……?」 陣内くんに尋ねる声が震える。 「どうしてって、ムカつくからだよ」 「え?」 「俺が梶間さんを抱き寄せたときは、あんなに嫌がったくせに。久住とは、こんな嬉しそうに抱き合って……っ!」 陣内くんがスマホを思いきり机に叩きつけ、肩がビクッと跳ねた。こ、怖いよ陣内くん……。 「親睦会のカラオケのとき、俺の前で梶間さんのことを連れ去ったのも、久住なんでしょう?女嫌いで有名な久住と、こんなに仲良くしちゃって。君たち、やっぱり付き合ってんの?」 「ち、違う。藍は、私の幼なじみで……」 陣内くんの顔が、こちらにグイッと近づく。 「なあ、梶間さん……この写真、学校のみんなに拡散されたら困るよな?」 どこから出してるんだって思うくらい、普段よりも低い声にゾクリとする。 「じ、陣内くん。もしかして私のこと、脅してる?」 「はははっ。脅しだなんて、そんな人聞きの悪いこと言わないでよ〜」 何がおかしいのか、陣内くんは思いきり手を叩いて大声で笑い出す。 そのせいで、教室にいる複数のクラスメイトが、一斉にこちらを振り向いてしまった。 「ちょっと。陣内くん、声が大きいっ!」 「俺は別に、この話がみんなに聞こえても問題ないけどー?」 ギリッと、奥歯を噛む。 「陣内くん……こんなことをして、一体何が目的なの?」 「やだなぁ。そんな怖い顔で、睨まないでよ。せっ
数日後の朝。 「あっ!萌果ちゃん、おはよう」 「おはよう、柚子ちゃん」 登校すると、昇降口のところで柚子ちゃんとバッタリ会った。 「教室まで、一緒に行こ〜」 「うん」 柚子ちゃんと一緒に廊下を歩いていると、途中にある掲示板の前には人だかりができていた。 みんな集まって、どうしたんだろう? 何となく気になって、掲示板の近くまで行ってみると。 ……え? そこにあるものを見た瞬間、私の背筋が凍った。 う、うそでしょ……。 掲示板には、私が藍と抱きしめ合っている写真が数枚、無造作に貼られていたのだった。 だっ、誰がこんなことを!? 掲示板の写真の私はどれも後ろ姿ばかりだから、かろうじて顔は写っていないけど……藍の顔は、どれもハッキリと写ってしまっている。 「ちょっと、誰よこの女。久住くんに抱きついて」 「芸能科のモデルの子とかならまだしも、もし普通科の一般人だったら許せない!」 「ていうか、この子を見つけてとっ捕まえてやるわ!」 藍のファンの子なのだろうか。掲示板を見ている女の子たちの口から、恐ろしい言葉が飛びかっていて、私は震えあがる。 「あっ、萌果ちゃん!?」 「ごめん、柚子ちゃん。私、ちょっと急ぐから」 怖くなった私は、慌ててその場から走りだす。 まさか、この間の数学の補習のときに教室で藍を抱きしめていたところを、誰かに見られたうえに、盗撮されてたなんて。 どうしよう。あのとき私が、藍を抱きしめたせいで……! 「はぁ、はぁ……っ」 私は廊下の途中で立ち止まり、呼吸を整える。 そして、スクールバッグの内ポケットに入っていたヘアゴムを取り出し、慌てて髪をひとつに束ねた。 別に、悪いことをしたわけじゃないけど。 ファンの子たちのあんな言葉を聞いたら、急に怖くなってしまって。あの写真に写っているのが、自分だとバレたくないと思ってしまった。 「かーじまさん!」 教室に着き、私が自分の席に座っていると、いつものように陣内くんが話しかけてきた。 「おっはよーう」 「お、おはよう……」 陣内くん、今日も朝からテンション高いなぁ。 「……あれ?梶間さん、今日は何か元気なくない?」 「そ、そう?」 「それに、今日は髪ひとつに結んでるんだ?可愛い〜。でも、なんで?」 さっそく陣内くんに尋ねられ、ドキリとする。 「
「芸能人じゃなかったら……とか、そんなこと言わないで」藍の話を聞いていたら、なぜか無性に抱きしめたくなってしまった。︎︎︎︎︎︎「私は福岡に住んでた頃、藍がモデルとして頑張っているのを見て、自分も頑張ろうって思ってた。離れてても藍が活躍してると思うと嬉しかったし、雑誌の藍の笑顔を見てると元気をもらえた」月並みなことしか言えないけど、本当にそうだったから。「福岡の学校でも藍のファンの子は、沢山いたんだよ?友達で、“今日は藍くんの雑誌の発売日だから、学校頑張ろう”って言ってる子もいたし」こんなこと、藍には初めて話したけど。話しだしたら、言葉が次から次へと溢れて止まらない。「藍には多くのファンの子たちがいて、藍の存在がその子たちのことを笑顔にしてる。それって、すごいことだよ。きっと、誰にでもできることじゃない」「萌果ちゃん……」「私も中学生の頃からずっと、モデル・久住藍のファンのひとりだから。もちろん、幼なじみの藍のことも好きだけどね」「……ありがとう」藍が私の背中に腕をまわし、抱きしめ返してくれる。「最初は、モデルとして売れて、九州にいる萌果の目にも入ることがあったら良いなって思って始めた仕事だったけど……今は、この仕事が楽しいって思ってる自分もいるんだ」「うん」「最初のハグの話から、少しそれちゃったけど。俺、萌果にファンだって言ってもらえて嬉しかった。あと、俺のことを好きだって言ってくれたしね?」ニヤニヤ顔の藍に言われ、カッと頬が熱くなった。「あっ、あれは……あくまでも、幼なじみとしてって意味で……っ!」「いいよ。どんな意味でも、萌果に好いてもらえていたら、俺はそれで良い」藍が、こつんと額を当てる。「ありがとう、萌果ちゃん。おかげで元気出た。やっぱり俺の元気の源は、今も昔も変わらず萌果ちゃんだよ」おでこをつけたまま、藍がニコッと笑う。そして、彼に再び力強く抱きしめられた。「俺、これからもモデルの仕事頑張るよ。萌果や、俺のことを応援してくれているファンの子たちのためにも」「……うん。応援してる」ここが学校であることも忘れ、私も藍をめいっぱい抱きしめ返す。「ねぇ、萌果ちゃん。近いうちに、仕事で1日休みがもらえそうなんだけど……良かったら、ふたりでどこか出かけない?」「ふたりで?」「うん。俺、萌果ちゃんとデートがしたい」
「……ていうか、萌果ちゃんって補習になるくらいバカだったっけ?」ふたりきりになった途端、藍が話しかけてきた。開口一番に人のことをバカって!「す、数学は特別苦手で……って。いま補習になってるんだから、藍も一緒じゃない!」「俺は仕事で学校を早退して、テストを受けられなかったから。その代わりに、補習になっただけ。萌果と一緒にしないでよ」ムッ。まるで、バカな萌果と自分は違うって言われたみたいでカチンと来た。「萌果ちゃん、昔は俺によく勉強も教えてくれてたのになぁ」「そ、そんなことより!プリント、早く解こうよ」私はシャーペンを手に、藍より先に問題を解き始めたものの……。「……できた」「えっ、もう!?」私が応用問題を解くのに苦労しているうちに、藍はプリントを早々と終えてしまった。「す、すごいね」藍とは、今は同じ学校でも学科が違うから。再会してからは、一緒に授業を受けることがなくて知らなかったけど。藍ったら、会わない間に勉強もできるようになっていたなんて。普通の高校生と違って、藍はモデルの仕事もあるから。たぶん、見えないところで相当努力してるんだろうなって思った。よし。私も、負けていられない。それから気合いを入れ直して、シャーペンを走らせる私だけど。ダメだ。全然集中できない……。なぜならプリントに取り組む私を、藍が飽きもせずにじっと見てくるから。「ちょっと。藍ってば、見すぎ!おかげで集中できないよ。プリントが終わったら帰っていいって、先生が言ってたから。藍、早く家に帰ったら?」「……帰らないよ」「え、なんで??」「なんでって……そんなの、好きな子と少しでも長く一緒にいたいからに決まってるでしょ?」す、好きな子って!ここは学校なのに、藍ったら恥ずかしげもなくまたそんなことを言って……。「ほら、俺が教えてあげるから。さっさと続きやるよ」それから藍は、すごく丁寧に教えてくれた。教え方まで上手だなんて……。「あ、できたかも」藍に教えてもらったとおりにやったら、できなかった問題がすらすら解けた。「正解。やっぱり萌果ちゃんは、やればできる子だね」藍が、私の頭をぽんぽんと撫でてくる。「ありがとう。藍のおかげだよ」「萌果ちゃん、俺に感謝してる?」「もちろん」「だったら……お礼に何かちょうだい?」え!?「何かちょうだいって
「……っ、お願い。陣内くん、はなしてっ!」 私は藍がこちらに来る前に自分の肩に置かれた陣内くんの手を取ると、その手を力ずくでどうにかおろした。 「何だよ。そんな、あからさまに嫌そうな顔しなくてもいいじゃんか〜」 「ご、ごめん。いきなりで、びっくりしちゃって……」 「ちょっとちょっと!陣内もいい加減、萌果ちゃんをからかうのはよしなさいよ!」 見かねたのか、柚子ちゃんが私たちの間に割って入ってくれた。 「別に俺は、梶間さんのことをからかってるつもりは……」 「嫌がってたでしょう!?萌果ちゃん、陣内のことは放っておいて、早く行こう」 「う、うん」 私は柚子ちゃんに手を引かれ、その場から歩き出す。 はぁ。柚子ちゃんのお陰で助かった……。 ** 「それでは、先週の小テストを返すから。名前を呼ばれたら、取りに来るように」 昼休み後。5限目の数学の授業では、先週実施された小テストの答案が返却された。 「うわ、39点……」 数学が苦手な私は、お世辞にも良いとは言えない点数だった。 「40点以下の人は放課後、補習をするからなー」 「えっ、補習!?」 わずかにあと1点足りなかったことが、悔やまれる。 「萌果ちゃん、頑張って!」 私の声が聞こえたのか、隣の席の柚子ちゃんが声をかけてくれる。 うう。柚子ちゃんに、私の点数が40点以下だとバレてしまった。 頬に熱が集まるのを感じながら、私は柚子ちゃんに頷くのだった。 ** そして放課後。帰りのホームルームが終わると、私は数学の先生に言われていた補習を受けるため、指定された教室に向かった。 ──コンコン。 「失礼します」 ノックをして教室に入ると、そこにはなんと数学の先生の他に藍もいた。 「えっと。あの、先生……どうして藍……久住くんがここに?」 「決まってるだろう。久住も梶間と同じ、補習だよ」 いや、それはもちろん分かっているのですが。 普段、普通科の生徒と芸能科の生徒が、こうして授業や補習が一緒になることはほぼないって柚子ちゃんから聞いていたから……ちょっとびっくり。 「まあ、今回は補習になった者が学年で君たち二人だけだったから。特別に一緒というわけだ」 「特別に……ですか」 「ああ。梶間も早く座りなさい
数日後の昼休み。今日は柚子ちゃんがお弁当を忘れたというので、私は柚子ちゃんと一緒に学食へと向かって歩いていた。「ごめんね、萌果ちゃん。付き合わせちゃって」「ううん。気にしないで」私はいつも通り、橙子さんの手作り弁当。だけど、転校してきてから学食は一度も行ったことがなかったから。どんなところか楽しみ。学校の廊下を歩いていると、1階の窓から中庭で藍と女の子が向かい合って立っているのが見えた。藍、もしかして告白でもされてるのかな?ていうかあの子、最近朝ドラに出てた女優さんだ。そんな子にまで声をかけられるなんて、藍はすごいな。なんとなく気になって、私はつい足を止めてしまう。「あの……私、久住くんのことが好きです」「悪いけど、俺は君のこと好きじゃない」藍に冷たく言われ、目を潤ませる女の子。「どうしても、私じゃダメですか?」「うん。どうしてもダメ。そもそも俺、事務所から恋愛は禁止されてるから」藍は、無表情で言い放つ。「うわあ。久住くん、あんな可愛い子を振るなんて。相変わらずだね」「う、うん」藍、告白断ったんだ。良かった……って、何を安心してるの私!あの子は藍に振られたんだから、ちっとも良くないのに。良かったって思うとか、いくら何でも失礼すぎる。「なになに?めっちゃ真剣な顔で、人の告白現場なんか見ちゃってー」「ひっ」後ろから突然だれかに腰に手を添えられ、背筋に冷たいものが走った。私に、こんなことをする人は……。「梶間さんって、意外と悪趣味なんだね?」振り返ってみると、背後に立っていたのは予想通り陣内くん。「ち、違……」「あんな食い入るように見るなんて。もしかして、梶間さんって……久住藍のことが好きなの?」陣内くんに尋ねられ、私の心臓が跳ねる。「や、やだなあ。私はただ、かっこいいなと思って久住くんを見てただけで……別に好きとかじゃないから」慌てて否定する。「そうなの?この前、彼氏はいないって言ってたけど。それじゃあ梶間さん、今は特に好きな人とかもいないんだ?」「う、うん。いないよ」好きな人がいないっていうのは、本当。何も、嘘をついてることはないのに。どうして、こんな後ろめたさを感じるんだろう。「好きな人がいないのなら、良かった。もしも梶間さんに、あーんなイケメンモデルが好きだなんて言われたら、俺に勝ち目なんてないもん