内心驚きながらも、瑠璃は優雅で落ち着いた笑みを崩さなかった。美しい眉をわずかに上げ、少し疑問を含んだ表情を作りながら、「私の体に特別な印があるの?知らなかったわ。それで、何を見たの?」と平然と尋ねた。しかし、胸の鼓動が早まった。隼人は深い黒い瞳で彼女を見つめ、唇の端を緩ませた。「左の腰の後ろに、淡いピンク色の小さな蝶がいる」朝の静けさと、どこか倦怠感を帯びた声。「たぶん、それは母胎からの贈り物だろう」その言葉を聞いた瞬間、瑠璃は密かに安堵の息を吐いた。そして、唇を軽く弧に描くように微笑んだ。「そう、母胎からの印よ」「とても特徴的な印だな」「だから何?どんなに特別でも、結局、私は実の両親に捨てられた身よ」瑠璃は目を伏せ、静かに朝食を続けた。朝の柔らかな光がガラス窓から差し込み、彼女の繊細で上品な顔立ちを優しく包んでいた。長く濃密なまつ毛が瞬きをするたびに微かに揺れ、その瞳の奥には、言葉にできない寂しさが滲んでいた。隼人は、目の前の女性が静かに俯いている姿を見て、なぜか胸が締めつけられるような痛みを感じた。彼の顔から笑みが消え、真剣な表情になった。「前に言っていたよな?両親が子供を取り違えて、お前を失ったと。それで……この何年かの間に探したのか?」「見つけたわ」瑠璃は顔を上げることなく、淡々と答えた。「でも、彼らは今の偽物のほうを気に入っている。私のことなんて……」彼女は皮肉っぽく微笑んだ。「私のことなんて、認めるどころか、顔すら見たくないんですって」言葉が途切れると、重い沈黙が流れた。朝食を終えると、隼人は瑠璃をマンションまで送った。瞬は彼女を一晩中待っていた。瑠璃が無事に戻ってくるのを見て、彼は密かに抱えていた心配をようやく手放すことができた。しかし、瑠璃は昨夜薬を盛られたことについて何も話さなかった。彼を余計に心配させたくなかったからだ。それでも、瞬は彼女が着ている服が、昨日出かけたときのものと違うことに気づいた。「昨夜はずっと彼と一緒にいたのか?」彼は探るように尋ねた。瑠璃は適当な理由を作った。「蛍を怒らせるために、あえてそこに残ったの」「彼の部屋に泊まったのか?二人は……」「何もなかったわ」瑠璃は彼の言葉を遮り、声を少し冷たくした。「私はもう二度と、彼に触れさせるつもりはな
一方で、蛍は隼人の別荘の外で一晩中監視をしていた者たちから、瑠璃が一晩中隼人の寝室にいたことを聞き、怒りを募らせていた。三年前、やっと瑠璃を完全に片付けたと思っていたのに、まさか彼女にそっくりな女が現れるなんて!しかも、問題なのは、この女が瑠璃ほど簡単には対処できないことだ。蛍は鏡の前に立ち、まだ癒えていない顔の傷を見ながら、ますます心が乱れていった。使える手段はほとんど尽きていたが、今や隼人は彼女に冷たくなっており、はっきりと感じていた。今は「千璃ちゃん」という人物設定を演じ続けたしかない、そうすれば隼人を取り戻せるかもしれない。でもその前に、まずは顔の傷を治さなければならない。その時、ふと左腰の後ろにかゆみを感じ、何度か掻いてみたが、だんだんかゆみが増してきた。鏡で確認すると、赤く腫れているのが見えた。以前、瑠璃に成りすますため、碓氷家の令嬢になるために、この部位に蝶の形をした偽の母斑を入れていたのだ。だが、あの時は急いでいたため、適当なタトゥー店で入れたせいか、三年経った今では色が薄くなり、さらに謎のアレルギー反応でかゆみまで生じていた。蛍は我慢できずにかゆみを掻き続けていると、部屋の扉が開く音が聞こえた。「蛍、蛍、洗面所にいるの?」夏美の声が遠くから近づいてきた。蛍は慌ててスカートを下ろし、何事もなかったかのように洗面所から出てきた。「ママ」と素直に呼びかけたが、顔に落ち込みが浮かんでいた。「蛍」夏美は心配そうに彼女の肩をポンポンと叩き、「バカな子ね、そんな不愉快なことを考えてないで、それはあなたのせいじゃないわ」蛍は唇を噛みしめながら言った。「あの千ヴィオラがたくさんの男たちを使って私をいじめていたのに、何も罰を受けずに済んで、隼人が彼女を守るために、この件を追求しないと言っているのが、本当に胸が痛くてたまらない」「この件は、ママが必ず最後まで追及するわ!」夏美は断言した。「隼人はおそらく一時的に頭が混乱していたのよ。さっきD.wの店長から電話があって、隼人がその店でドレスを注文したって。サイズはあなたが普段着るサイズだって」蛍は驚いて言った。「隼人が私のためにドレスを?」夏美は嬉しそうに微笑んだ。「来月の十日は目黒家の当主の八十歳の誕生日だから、隼人があなたのためにそのドレスを注文したんだと思うわ。それ
隼人は、身体にぴったりとした黒いスーツを纏い、その長身で整ったシルエットは完璧に引き立っていた。彼の美しい顔立ちと、何気ない仕草からも、貴族的な気品が滲み出ていた。まさにそんな彼を、蛍は初めて見たときから独占したいと思っていた。彼女は策略を使って、長い間彼を手に入れた。しかし、今、この完璧な男が他の女と腕を組んで歩いているのを見て、彼女は怒りの炎が胸中を焼いていた。蛍は、隼人の隣を歩く千ヴィオラを睨みつけ、さらに信じられなかったのは、隼人から自分への贈り物だと思っていたそのドレスが、今や千ヴィオラの身にまとわれていることだった。そのドレスは、なんと千ヴィオラに用意したものだったのだ。彼女は長い間そのドレスを待ち望んでいたが、結局それは自分のものではなかった。現実は、彼女の期待を打ち砕いた。隼人は、いつも人々の注目を集める存在だ。庭に集まったゲストたちは、彼が現れるとともに、彼の隣にいる瑠璃にも目を奪われた。視線の先の女性は、決して絶世の美女というわけではない。それでも、彼女に目を奪われずにはいられなかった。ドレスは美しく、瑠璃の体に着られてこそ、その魅力が引き立つ。彼女の体はしなやかで優雅、肌は白磁のように透き通り、歩くたびにほのかな香りを残し、その一挙一動には何とも言えない魅力があった。誰かが小声で囁いた。「あれ、千ヴィオラじゃないか?」「MLの創設者で、専属デザイナーの」「先日のML二周年パーティーで、彼女は大注目だったわよね」「目黒様の元妻に本当に似てるわね、でも目黒様がどうして彼女と一緒にいるの?」「最近、目黒様がよく水晶街1号で千ヴィオラを訪ねているって聞いたけど、どうやらそのふたりの関係はただのビジネスパートナー以上みたいよ」「それに、先月四宮蛍が誘拐され、何人かの男に……まさかそれで目黒様が四宮蛍を捨てて、千ヴィオラと一緒にいるの?」この様々な噂を聞いて、蛍はもう怒りで拳を握りしめていた。彼女は今、沸騰する怒りを抑え込まなければならなかった。だが、夏美は我慢できなかった。彼女は一歩前に進み、怒りに満ちた声で言った。「千ヴィオラ」瑠璃は足を止め、怒りに満ちた夏美を見て、無理やり笑みを作った。「碓氷夫人、何かご用ですか?」「用事なんてないわ。でも、あなたにはすぐに大きな問題があるわよ」夏美は言いな
夏美はもともと娘を溺愛する性格だった。今、蛍のこの言葉を聞いて、胸が張り裂ける思いだった。「蛍、安心しなさい。ママは決して、あなたがこんな理不尽な仕打ちを受けるのを黙って見てはいないわ!今日ここにいる皆さんに、景市一の名門――目黒家の目黒様がどれほど薄情で移り気な男か、そしてこの千ヴィオラという女がどれほど卑劣で恥知らずな泥棒猫かをはっきりと見せてあげる!」「シッ……」賓客たちは夏美の言葉を聞いて驚きを隠せなかった。その口ぶりでは、まるで千ヴィオラが隼人と蛍の関係に割り込んだことで、蛍が捨てられたように聞こえる。「ママ、もうやめて、お願いだからやめて……すべて私のせいなの。隼人と千さんには関係ないわ。もう、ここから出ましょう!」蛍は涙を浮かべながら、震える声で懇願した。その弱々しく見える姿に、多くの人が心を動かされた。実際、蛍と隼人の関係は長年にわたり知られており、千ヴィオラがどう見ても第三者のように思われた。次第に、多くの人々が蛍に同情し、瑠璃を軽蔑する目で見始めた。隼人は周囲の雰囲気の変化を察し、振り返って瑠璃を気遣うように見つめた。「大丈夫か?」彼は手を伸ばし、指先でそっと彼女の頬を撫でた。瑠璃は優雅に微笑み、「この程度の平手打ちで、どうかなるわけないでしょう?私はそんなに弱くないわ」そう言って、夏美と蛍を見つめ、周囲から向けられる冷たい視線を感じながらも、まったく怯むことなく言葉を続けた。「碓氷夫人、ご自身の発言や行動には、それなりの責任を持つべきじゃないですか?こんな大勢の前で、理由もなく私を叩いて、それに『泥棒猫』なんて呼ばれる筋合い、私にはないと思うんですけど……ちゃんと説明していただけます?」彼女は微笑みながらも、その美しい瞳には誇り高い光が宿っていた。「私は……何よりも冤罪を着せられるのが嫌いなんですが」その言葉をゆっくりと、意味深げに吐き出した。「冤罪?」夏美は冷笑した。「私が冤罪をかけたですって?あんたは泥棒猫よ!それだけじゃない、心が冷酷で、卑劣で、恥知らずな女だわ!」「ママ、もういいの。私たち、行きましょう。千さんに逆らったら、また酷い目に遭うかもしれないわ……今でも、目を閉じるたびにあの出来事が蘇るの。次から次へと、みんなが私を傷つけて……すごく、つらい……」蛍はすすり泣きな
瑠璃の言葉が落ちると、周囲のざわめきが収まった。この件の真相?ということは、今まで聞いていた話はすべて嘘なのか?人々は互いに顔を見合わせ、困惑の色を浮かべた。蛍は、自分こそがこの件の黒幕であることを誰よりも理解していた。瑠璃の言葉を聞いた瞬間、彼女は冷や汗が背中を伝った。何か反撃しなければ――そう考えた刹那、夏美が素早く前に出て、蛍を庇った。「あなたっては本当に陰険ね!どうしてそんな汚い手を使って、私の娘に罪をなすりつけようとするの!」夏美は怒りに満ちた目で瑠璃を指差し、声を荒げた。「お金を使ってあの男たちに蛍を誘拐させ、あんな酷い目に遭わせただけでなく、その事件をネットで拡散して、蛍の名誉を完全に踏みにじった!私は今日、娘のために正義を求めるわ!」「ママ……」蛍は涙に濡れた目で夏美の腕にしがみつき、弱々しく抱きついた。「もういいの、ママ。私はもう追及しないわ……隼人を困らせたくないの……」「隼人、聞いたでしょう?こんな状況になっても、蛍はまだあなたのことを気遣っているのよ!なのにあなたはどう?こんなにも彼女が傷ついているのに、無関心を貫くつもり?」夏美は蛍を抱きしめながら、怒りの視線を隼人と瑠璃に向けた。「この泥棒猫のために、蛍をここまで傷つけるなんて!あなたなんか、私の娘にはふさわしくないわ!」「隼人、未来の義母の言う通りよ」隼人の母もまた蛍の肩を持ち、まるで公正な立場であるかのように語った。「蛍をこんな風に放っておくわけにはいかないわ。今回の件、ちゃんと調査して責任を取らせるべきよ!」一方で、蛍はさらに声を震わせながら泣き続けた。「伯母様、ママ……私の味方をしてくれるだけで十分よ。私は被害者だけど、もう何も追及するつもりはないの……」彼女はすすり泣きながら瑠璃を見つめた。「千さん、ごめんなさい。怒らせたのね。今回のことは、すべて私の運が悪かっただけだから……だから、お願い、ママにまで怒りを向けないで……」そう言いながら、彼女は隼人に縋るような目を向けた。「隼人、ごめんなさい……すべて私が悪かったの……お願いだから怒らないで……これからは、もう二度とこの話をしないわ……だから、お願い、私を嫌わないで……」涙に濡れた彼女の顔は、どこまでも儚げで哀れだった。もしも瑠璃が蛍の本性を知っていなかった
「皆さんもご存知の通り、私は以前、何者かに誘拐され、さらに複数の男に辱めを受けました。その黒幕こそ、この千ヴィオラです!私は本当は追及するつもりはなかったんです。でも、この女がここまで嘘をつき、私を悪者に仕立て上げるなら、もう許せません!」蛍は唇を震わせ、突然瑠璃を指差した。「千ヴィオラ、あなたを訴える!」彼女の言葉が落ちると、賓客たちは一斉に蛍の味方についた。「四宮さん、私たちは支持します!」「千ヴィオラ、なんてひどい女だ!」「蛍さん、安心してください。我々全員があなたの訴えを応援します!」「千ヴィオラ、そんな人間性では、今後MLの顧客は誰もいなくなるわね。きっとすぐに潰れるでしょう!」「全員、黙れ!」その瞬間、冷酷な声が群衆の中に鋭く響き渡った。一斉に声が止まり、誰もが息をのんだ。瑠璃の隣に立つ隼人の表情は、氷のように冷え切っていた。彼は、刀のような視線で客席を掃いて、最後に泣き顔の蛍に向けられた。蛍は鼓動が一瞬速まり、呼吸が浅くなった。「なぜ自ら恥を晒す?」隼人の声は冷徹だった。「もうこの件を蒸し返したなと言ったはずだ。それなのに、なぜ何度も同じ傷を自ら抉る?」「隼人、違うの……私は追及したくないけど、私を陥れた人間を野放しにはできないの」蛍は必死に訴え、涙を拭った。「いいわ、もう話さない、もう追及しない。これ以上、何も言わないわ」彼女は強調するように言ったが、内心ではこれ以上事態が深掘りされることを何より恐れていた。もし徹底的に調べられたら、自分が黒幕だという事実が露呈してしまう。「追及しない?そんなわけにはいかないわ!」夏美が強く主張した。「ククッ……」隼人は冷たい笑みを浮かべ、その氷のような目が蛍を射抜いた。彼女はますます不安を覚え、無意識に夏美の手を引いた。「ママ……もういいの……追及しないで……」しかし、隼人は冷然と遮った。「この状況で、もはや追及しないなど不可能だ」蛍は背筋に冷たい汗が伝った。「これまで、過去の縁を思い、この真相を公にするつもりはなかった」隼人は淡々とした口調で言いながら、ちらりと瑠璃を見た。「他人が何を言おうと、どう評価しようと、俺にとってはどうでもいいことだ」「でもな、俺の大事な人を標的にするのは筋違いだろ」彼は一拍置き、
瑠璃はゆっくりと口を開き、スマートフォンを取り出すと、画面にとある電話番号を表示させた。人々の視線が一斉にそこへ向けられた。蛍も画面を見た瞬間、一瞬戸惑ったが、次第にその数字の並びに気づいた途端、彼女の顔色はみるみる蒼白になって、視線が不自然に泳いだ。彼女の動揺を見て、瑠璃は優雅に微笑みを湛えた。「四宮さん、どうしたの?何も言わないのね?この番号、見覚えがあるんじゃない?当然よね。だってこれは――あなたの養母、華さんの電話番号だから」瑠璃は優雅に歩を進め、蛍のすぐ目の前で立ち止まった。その一挙手一投足から放たれる高貴な雰囲気が、今の蛍を完全に圧倒していた。「さすがは四宮さんね」瑠璃は微笑みながら続けた。「自分に疑いがかかるのを恐れて、母親の電話を使ってあの男たちとやり取りしたわけ。でも残念ながら、彼らのスマホには通話履歴がしっかりと残っているの。たとえ消去したとしても、通信会社に問い合わせればすぐに確認できるわ。「それだけじゃないのよ。その男たちは、取引の際に録音する習慣があるの。だから……」瑠璃はふと軽く首を傾げ、「ここで皆さんにその録音を聞かせて差し上げましょうか?」と問いかけた。「……」蛍の瞳が大きく見開かれ、顔色は完全に蒼白になった。たった今まで彼女を支持していた賓客たちは、その場の急展開に愕然とし、皆が怒りの目を彼女に向け始めた。まさか、こんなことになるなんて……危うく無実の人を誤解するところだった!」人々の反応を見て、瑠璃は満足げに微笑み、「まだ自分は被害者だと言うつもり?」と問いかけた。「……」「隼人はあなたとの縁を思い、私を犠牲にしてまで、あなたを守ろうとしたのよ」瑠璃はゆっくりと言葉を紡ぐ。「でも、あなたはそれを理解せず、この場でお母様と一緒になって私たちを追い詰めた。この結果、満足?」瑠璃の視線が、困惑と驚愕に染まった夏美と隼人の母に向けられた。「碓氷夫人、目黒夫人、どうします?まだ追及しますか?警察を呼びますか?それとも、私が代わりに通報しましょうか?」「……」「……」事態がここまで発展するとは、蛍にとって完全に想定外だった。彼女は唇を噛み締め、瞳を鋭く光らせながら、瑠璃を睨みつけた。周囲からの疑いと怒りの視線が突き刺さる。蛍の心は焦りでいっぱいだった――こ
隼人が人前でこれほど感情を表に出したことは、今まで一度もなかった。だが今日、彼は千ヴィオラのためにその冷静で高貴な姿を崩し、明確な態度を示した。「隼人!華の言葉を聞いたでしょう?蛍は被害者なのよ!彼女は何も悪くないわ!」夏美は必死に叫んだ。彼女にとって、華の証言の方が信じられた。どんなことがあっても、自分の娘が卑劣なことをするとは思いたくなかった。「その女をすぐに下ろしなさい!蛍の立場を考えたことがあるの?」しかし、隼人は当然ながら瑠璃を降ろすことはなかった。それどころか、さらにしっかりと彼女を抱きしめ、優しい眼差しを彼女に向けた。「この女を――俺は一生、手放すつもりはない」彼は淡々とした口調で言い放った。「お前の娘については、すでに婚約を破棄している。それを何度も繰り返させるな」そう言うと、瑠璃を抱いたまま、足早に屋内へと向かった。夏美は言葉を失い、悔しさで歯ぎしりした。そして、蛍にとってこの瞬間は――これ以上なく屈辱的で、許しがたいものだった。隼人が大勢の前で、完全に彼女との婚約を否定し、それどころか千ヴィオラへの気持ちを宣言した。こんな屈辱、耐えられるわけがない!隼人は瑠璃を抱えたまま、彼がこの屋敷に滞在するための部屋へと向かった。彼は滅多にここに泊まることはなかったが、常に誰かが掃除をしており、部屋は清潔に整えられていた。部屋に入ると、瑠璃はふと微かな香りを感じた。これは……彼女が調合したアロマの香り?それは心を落ち着かせ、安眠を促す効果のある香りだった。以前、隼人の父が彼のために二箱購入したことを思い出した。隼人は昔から睡眠の質が悪かったからだ。瑠璃はバスルームへ行き、乱れたドレスを整えてから部屋に戻った。すると、隼人が窓辺に立っていた。清潔な白シャツを身に纏い、秋の日差しを浴びるその姿は、大学時代に初めて彼を見たときの記憶を蘇らせた。だが――彼はもう、あの頃の少年ではない。「さっきのこと、怒ってる?」彼の背後に立ちながら、瑠璃はわざと困ったような声を出した。隼人は振り返り、秋の光に映える透き通った瞳で彼女を見つめた。「最初から、お前にこんな思いをさせるべきではなかった。それなら、こんな茶番が起こることもなかった」瑠璃はくすっと笑い、「それって、私のことを心配してく
瑠璃は微笑みながら、口を開こうとしたその時、スマホが鳴った。画面を確認すると、瞬からの着信だった。彼女はごく自然に電話を取り、簡単にやり取りしただけで通話を切った。「隼人、お店でちょっとトラブルがあって、今戻らないといけないの」「送っていくよ」「いいの、夜にまた会いましょう」そう言って背を向けて歩き出した瞬間、隼人が手を伸ばして彼女を引き止めた。不思議そうに振り返った瑠璃の唇に、隼人はそっとキスを落とした。「Kiss Goodbye」「……」心の中では拒絶していたが、瑠璃は笑顔でそれを受け入れた。彼女が去っていく背中を見つめながら、隼人の唇に浮かんでいた微笑はゆっくりと消えていき、目の奥に潜んでいた鋭さもすっかり色褪せ、代わりに残ったのは後悔の色だった。――さっき、夏美が「瑠璃が自分たちの娘だ」と言った時、彼の心の中でずっと繋がらなかった点と点が、完璧な形でひとつに結びついた。「千璃ちゃん……」彼の薄く色気のある唇から、静かにその名が零れた。そこには、深い愛と悔しさが込められていた。……瑠璃は瞬と合流し、これまでに得た情報を伝えた。「隼人のパソコンにはロックがかかっていて、あなたが欲しがっているデータを手に入れるのは簡単じゃない」「それでも、彼のオフィスの配置を把握できただけでも十分すごい」瞬はそう言って振り返り、黒曜石のように輝く瞳に優しい光を湛えて瑠璃を見つめた。「本当は、情報よりも君に会いたかった」「欲しいものを手に入れて、計画を完遂すれば、あなたのもとへ戻るわ」「……本当に戻ってきてくれるのか?」瞬の目には、一抹の不安が浮かんでいた。「君はかつて、隼人を深く愛していた。今は、本当に彼に対して何の気持ちもないのか?」その問いに、瑠璃は少し笑って、静かに息を吐いた。「かつてどれだけ愛していたか……今はそれだけ、彼を憎んでる」彼女は遠くの海を見つめながら、続けた。「私の彼への愛は、四月山の海底に沈んでしまった。二度と戻れない……」……一方その頃。夏美と賢は、瑠璃の遺品を探すことを諦めていた。そんな時、不意に隼人から電話がかかってきた。指定された場所で隼人と落ち合うと、彼はひとつの透明なビニール袋を夏美に手渡した。「これは……」夏美は驚きながら
瑠璃が止める間もなく、夏美の口からその言葉が飛び出した。一瞬にして、周囲の空気が凍りついたように静まり返った。瑠璃は視線を動かさず、余所見するように隼人の表情を窺った。彼の顔にはわずかに複雑な色が浮かび、驚いているようにも見えたが、どこか平静さを保っているようにも思えた。瑠璃は静かに数秒考えたあと、あえて沈黙を破った。「碓氷さん、碓氷夫人、本当に四宮瑠璃がご自身の娘だとお思いですか?」夏美はまっすぐに彼女を見つめた。「科学的な証明はまだないけれど、私は九割の確信を持っている。瑠璃は、私の娘よ!」彼女の口調には揺るぎのない確信があり、その涙を湛えた瞳は、名残惜しそうに瑠璃の顔をじっと見つめていた。「ヴィオラさんには、娘さんがいるよね?」夏美は突然そう訊ねた。瑠璃は頷いた。「はい」「以前、幼稚園の前であなたの娘さんを見たとき、私は本当に驚いた。娘の幼い頃にそっくりだった。でも今になって、その理由がわかった。あなたの娘さんはあなたに似ていて、あなたの顔は瑠璃とほとんど同じだったから……」夏美の言葉を聞いて、瑠璃はようやく思い至った。あのとき、確かに夏美は陽ちゃんを見つめて、しばらく動けなくなっていた。なるほど、そういうことだったのか。――三十年近く経っても、母は私の赤ん坊の頃の顔を覚えていてくれたのだ。その事実に、瑠璃の胸の奥に、じんわりとした温かさが広がった。長い間、両親のいない日々を生きてきた彼女は、ようやく「愛されていた」という感覚を噛みしめていた。それが、誰にも知られぬ密かな想いだったとしても。そんな思いにふけっていた矢先、賢の言葉が静かに隼人に向けられた。「隼人様……あなたが瑠璃を憎んでいたことは知っている。策略に嵌められ、無理に結婚させられたと思っていたのでしょう。でも今では、全てが蛍の罠だったとわかっているはず。そして……瑠璃は、もう三年も前に亡くなっている」そこまで語ると、賢の声は詰まり、しばらくして再び続けた。「隼人様、僕たち夫婦にあなたを責める資格などない。今日伺ったのは、ただ……かつて夫婦であったご縁に免じて、お願いしたいことがあるんだ」「生きて再会できなくとも……私たちはせめて、娘に名前と血筋を返してやりたいの。無名のまま、彷徨う魂にだけは、なってほしくないよ……」
透明なガラスの壁一面の窓の外には、広大な川の流れが見え、その向こうには街全体を見下ろせるような絶景が広がっていた。こんな一等地のオフィスに座れる人間など、そうそういるものではない。だが、かつて自分は、この場所に入ることすら許されなかった。彼は自分の夫だった。それなのに、彼のオフィスには一歩も踏み入れる資格さえ与えられなかった。その一方で、彼は別の女がここを自由に出入りするのを黙認していた。瑠璃は唇の端をわずかに上げ、静かに思い返しながら、持ってきた料理を丁寧に取り出して並べた。もちろん、もう彼のためにエプロンをつけて料理を作ることなどない。かつて一方的に尽くした日々は、すでに過去のものだ。隼人の機嫌は良さそうだった。料理が彼女の手作りかどうかを疑うこともなく、美味しそうに食べていた。晩秋の午後のやわらかな陽光が、黒いシャツを身にまとう彼の肩に静かに降り注ぎ、彼の深い瞳を柔らかく照らしていた。食事の後、瑠璃は給湯室でフルーツを切り、フォークに刺して隼人の口元へ差し出した。「甘い?」彼女は笑顔で尋ねた。隼人は静かに頷き、その深いまなざしで彼女の美しい顔をじっと見つめていた。この瞬間が、少しでも長く続いてくれればと願うように……だが、フルーツを食べ終える前に、隼人は重要な電話を受け、席を外すことになった。瑠璃は、すぐに彼の私物のパソコンを調べ、自分の計画を進めようとした。だが室内を見回すと、監視カメラが設置されていることに気づいた。無理に行動すれば、すぐにバレる。仕方なく、彼女はフルーツの皿を片づけ、さらに気を利かせるふりをして、隼人のデスクを整え始めた。整理の最中、彼女はわざとマウスを床に落とし、それを拾い上げながらパソコンを操作する素振りを見せた。だが、パソコンにはロックがかかっており、中を見ることはできなかった。諦めざるを得なかったが、何も得られなかったわけではない。ちょうどその時、隼人が戻ってきた。だが、聞こえてきたのは三人分の足音だった。顔を上げた瑠璃は、隼人の後ろに立っている夏美と賢の姿を見て、思わず心が跳ねた。彼女は、夏美と賢が自分が瑠璃であることに気づいたことを隼人には話していなかった。もし今、彼らがそのことを口にすれば、全てがバレてしまう。胸中で不安を抱えながらも、瑠璃は穏や
一瞬の出来事だった。瑠璃の叫び声が響いたその瞬間、夏美と賢の耳にその言葉が飛び込んだ。死を覚悟して身を投げようとしていた夏美は、驚きで半分以上乗り出していた体をぴたりと止め、涙に濡れた顔をぼんやりと瑠璃の方へ向けた。その視線の先には、記憶の中で憎んできた女と瓜二つの顔を持つ少女が立っていた。「お母さん、千璃は死んでなんかいないよ。私のために死のうとしないで」瑠璃は優しく微笑みながら、静かにそう言った。「もう戻って。お父さんを心配させないで」「千璃……」夏美は呆然としたまま瑠璃を見つめていたが、ゆっくりと身体を引き戻し、危険な縁から離れていった。賢もまた、しばらくの間瑠璃を見つめていたが、ようやく我に返ると急いで夏美の手を取り、病室へと引き戻した。そしてすぐさまバルコニーの扉に鍵をかけた。「き、君は……瑠璃なのか?本当に……瑠璃なのか?」夏美は震えるように瑠璃の元へ駆け寄り、彼女の手をぎゅっと握った。温もりを与えたくて、その手を包み込んだが――自分の手のひらは氷のように冷たかった。期待と感激のまなざしで彼女を見つめる夏美と賢。だが、瑠璃はただ静かに微笑んだ。「碓氷夫人、ご無事でよかったです。命を粗末にしてはいけませんよ。衝動は悪魔を呼びます」「……」夏美と賢は同時に固まった。今の言葉が、ただ、夏美を助けるための演技だったと理解した瞬間――さっきまで天国にいたような気持ちは、一気に地獄へと叩き落された。彼らにはわかっていた。瑠璃は三年前、治療不可能な病で亡くなったと。でも、もし自分たちがあの時、何度も彼女を追い詰めなければ――彼女はもっと長く生きられたのかもしれない。思い返すのは、あの日。病に侵されながら、苦しい身体で蛍と隼人の婚約式に現れた彼女。それなのに、自分たちは彼女を罵倒し、侮辱した。彼女が血を吐いて倒れかけた時ですら、夏美はそれを「演技」だと決めつけ、冷たく突き放した。だがその「演技」の結末は――彼女の永遠の別れだった。そしてそれは、今もなお、二人の胸をえぐる痛みとなって消えなかった。病院を後にする頃、夏美はもう泣いてはいなかった。その深い喪失の痛みを、誰よりも理解できるのは、瑠璃自身だった。かつて、自分の我が子が命を奪われたと知った時、彼女もまた、生きる気力を失っ
賢は困惑した表情で瑠璃を見た。「千さん、どうして君が妻を病院まで?」「それは……」瑠璃が説明しようとしたその瞬間、病室の中から嗚咽混じりの泣き声が聞こえてきた。賢の顔色が一変し、すぐさま病室へ駆け込んだ。瑠璃は気を落ち着け、何事もなかったような顔で後に続いた。夏美はすでに目を覚ましていたが、今まさに泣き崩れていた。賢は心配そうに彼女のそばにしゃがみ込んだ。「夏美、どうしたんだ?なんでそんなに泣いてるんだ?」その声に、夏美はようやく賢の存在に気づいたかのように、はっと顔を上げた。涙で赤くなったその目には、取り返しのつかない深い痛みが浮かんでいた。「賢……どうして神様は私たちをこんなにも弄ぶの……どうして……」その声は震え、涙はまるで糸が切れた真珠のように次々と頬を伝って落ちていった。賢は話が見えず、ただ不安と焦りが増していくばかりだった。「夏美、どういうことだ?ゆっくり話してくれ。落ち着いて、泣かないで……」夏美は涙の中で苦笑し、青ざめた顔を上げて、賢の不安に満ちた視線を見つめた。彼女は懐から一つのペンダントを取り出した。「賢……私たちの実の娘を見つけたのよ」「なに!?本当か!娘を見つけたって!?本当に!?」賢の顔には一瞬にして喜びが広がった。「彼女はどこにいるんだ?夏美、娘は今どこにいる?」賢は興奮して問いかけたが、夏美は痛ましげに目を閉じた。「……もう、亡くなってるの」「……な、なんだって?死んだ?」賢は茫然として固まった。「私たちも、間接的に彼女を死なせてしまったのよ……」夏美は悔しさで唇を噛みしめながら顔を上げた。「四宮瑠璃こそが、私たちの本当の娘だったの……」「……な、なんだって?」夏美のその一言に、賢の全身が凍りついた。わずか数秒前の喜びは、瞬時に無残に砕け散り、その破片が胸の中に突き刺さるような痛みとなって押し寄せてきた。その傍らで、瑠璃は痛みに満ちた両親の姿を見つめながら、自分の胸にもじわじわと鈍い痛みが広がっていくのを感じた。「四宮……瑠璃が、俺たちの……娘だと?」賢は愕然としたまま目を見開いた。その脳裏には、かつて自分が瑠璃の頬を平手打ちした時の記憶がよみがえっていた。あの偽者の蛍をかばうため、彼は瑠璃を足で突き倒したことすらあった。あの時の
君秋のその一言に、瑠璃も夏美も、目を大きく見開いて驚いた。夏美もデザイナーであり、瑠璃の体にある母斑は、まさにA4用紙に描かれたその蝶とほぼ完全に一致していた。もしかして、どこかで自分の腰の後ろにあるその母斑が見えてしまい、それを君秋が目にしたのではないか――瑠璃の胸にそんな疑念が浮かんだ。「君ちゃん、この蝶を見たって言ったけど、どこで見たの?」夏美はしゃがみ込み、目を潤ませながら食い入るように尋ねた。「碓氷夫人、こんなにたくさんのビラを印刷されたんですか?それで娘さんを探そうと?」瑠璃は平静を装い、話題をそらした。夏美はうなずいた。「ネットでもたくさん情報を出しているけど、こうした手段も一つの方法だと思って。とにかく、娘を見つけられるなら、どんな手段でも使いたいの!」その声には、切実な願いと誠意があふれていた。彼女は心から、かつて失ってしまった我が子を見つけたいと思っているのだ。瑠璃の心は揺れ動き、思わず胸が締めつけられた。……もしかしたら、私の本当の両親を責めるべきじゃなかったのかもしれない。彼らは、蛍一家に騙されていただけ。自分たちの大切な子を探すために、利用されてしまっただけなんだ。でも……「君ちゃん、お願い。どこでこの蝶を見たのか、おばあちゃんに教えてくれない?」再び、夏美の必死の問いかけが瑠璃の耳に飛び込んできた。彼女ははっとして現実に戻り、止めようとしたその瞬間、小さな声が耳を打った。「瑠璃お姉ちゃん」君秋は静かに、そう答えた。瑠璃の心臓が一瞬、強く鼓動した。夏美も呆然とした。「君ちゃん……今、瑠璃お姉ちゃんって言ったの?それって、四宮瑠璃のこと?」君秋はこくんとうなずき、突然、小さな手で瑠璃の右腰の後ろを指差した。「瑠璃お姉ちゃんの、ここのところに、このちょうちょがあるよ」「……」「……」まさか本当に、君秋があの母斑を見たことがあったなんて――三年前に「死んだ」自分のことを、当時まだ二歳だった君秋が、こんなにも鮮明に覚えていたなんて。瑠璃は完全に予想外の展開に言葉を失った。「な、なに?」夏美は混乱したまま、視界が暗くなっていくのを感じた。まるで全身から力が抜けるような感覚に襲われ、よろめきながら倒れそうになる。瑠璃はすぐに我に返り、夏美の体
瑠璃はその微笑を浮かべたまま眠る顔を冷ややかに見つめ、薄く唇を引き結んだ。三年間ほとんど毎晩眠れなかったって言ってたんじゃなかった?なのに、昨夜はずいぶんと気持ちよさそうに眠っていたじゃない。ふん、隼人――あなたは本当に、私の死を悔やみ、不安に感じたことなんてあったの?いいえ、あなたは一度だって、そんなことなかった。彼の顔を一瞥し、瑠璃は素早く身支度を整えて部屋を出た。ちょうどその時、君秋が部屋から出てくるところだった。「君ちゃん、おはよう」彼女は優しく微笑みながら彼のもとへ歩み寄った。「学校へ行くのね?ヴィオラお姉ちゃんが朝ごはんを作ってあげようか?」君秋はその言葉を聞いて、キラキラした大きな目で見上げながらコクリと頷いた。「うん」その愛らしく整った小さな顔を見て、瑠璃の気分は一気に和らいだ。メイドたちは朝早くから朝食の準備をしていたが、それでも瑠璃は自らキッチンに立ち、君秋のために簡単で栄養バランスの良い朝ごはんを作った。君秋は食卓につき、目の前のハート型の目玉焼きをじっと見つめていたが、なかなか箸を取ろうとしなかった。瑠璃は彼の反応が気になって声をかけた。「君ちゃん、目玉焼きが苦手?食べたいものがあれば教えてね、ヴィオラお姉ちゃんがすぐ作ってあげる」そう言った直後、君秋は首を横に振った。その澄んだ目にはまっすぐな喜びが宿っていて、彼は小さな口を開き、可愛らしい八重歯を覗かせながら言った。「ありがとう、ママ」――ママ。瑠璃は一瞬、言葉を失った。まさか君秋がこんなにも早く、そして自分から「ママ」と呼んでくれるなんて、夢にも思わなかった。普通の子供なら、継母には少なくとも嫌悪感を持つものなのに。なのに君秋は、心から自分を慕ってくれている。瑠璃の目尻が熱くなり、そっと君秋の頭を撫でながら、慈しみに満ちた眼差しを向けた。「君ちゃん、ヴィオラお姉ちゃんは、あなたを本当の我が子のように大切にするからね。これからは、あなたを心から愛するママがそばにいるよ」君秋はコクリと頷き、その小さな顔にこれまで見たこともないほど自由で幸せそうな笑顔を咲かせた。その笑顔を見て、瑠璃の心もとろけるように温かくなった。これまでの愛や憎しみも、復讐も、その笑顔の前では全てが小さく思えた。朝食
その言葉を聞いた瞬間、瑠璃の表情がわずかに変わった。――母斑。もし今この場で夏美が、自分の体にあるその母斑の形を口にしたら、これまでの計画がすべて水の泡になってしまう。「どんな母斑?」隼人が不思議そうに問い返した。「蝶の――」「隼人……なんだか急に、頭がクラクラするの……」夏美が「蝶の」まで口にしたその時、瑠璃は眉間を寄せて弱々しく隼人にもたれかかった。隼人の意識はすぐに瑠璃へと戻った。彼はすぐに彼女を抱き上げた。「病院へ連れていこう」「病院なんて必要ないわ。ただ少し、疲れただけよ」瑠璃は彼の肩に身を預けながら、かすかに囁いた。隼人に抱かれてその場を離れる彼女を見送りながら、夏美と賢の心には、どこか得体の知れない不安がじんわりと広がっていった。夜が更けて、窓辺の大きな木をそよ風が揺らし、ささやくような音を立てていた。瑠璃はベッドに横たわっていたが、まったく眠気はなかった。それでも、目を閉じて、眠っているふりをしていた。今夜は彼女と隼人の新婚初夜だった。彼が今どんな気持ちでいるのか、彼女には分からない。だが彼と肌を重ねることだけは、どうしても避けたかった。しばらくすると、バスルームから水の音が止み、隼人が静かに出てくる足音が聞こえてきた。まるで彼女を起こさないようにと、意図的に足音を抑えているようだった。やがてベッドの片側がわずかに沈み、隼人がそこに横たわったのが分かった。彼の体温と気配が、じわじわと瑠璃の側に近づいてきた。瑠璃の心臓がわずかに早く鼓動し、毛布の下にある手が静かに強ばっていく。彼がまさか、そんなつもりじゃ……そう思った矢先、頬にふわりとあたたかな吐息が触れた。キスされるかもしれない――その不安に駆られ、瑠璃は一気に目を開けた。その瞬間、彼女の瞳は深く静かな目とぶつかった。「起こしてしまったか?」男の低くて優しい声が耳元でささやいた。瑠璃は口角を少し引き上げた。「ううん」「それならよかった」隼人は穏やかに微笑み、長くしなやかな指で彼女の頬に触れ、その美しい顔がゆっくりと近づいてきた。そして、彼の唇は彼女の口元にそっと触れた。瑠璃は彼を押しのけた。「隼人……私、妊娠してるのよ。あんまり無理はできないわ」隼人は顔を上げて彼女を見つめ、その目に探るような光を
だが、この結婚式は心からのものではなかったとはいえ、瑠璃は今日、君秋がフラワーボイとして来てくれたことが嬉しかった。そして人混みの中には、夏美と賢の姿もあり、彼らが式に出席してくれたことで、ある意味、両親からの承認を得られたとも言えた。しかし、隼人の母は当然ながら不満げだった。隼人の母と親しい上流階級の婦人が祝福にやってきた。「目黒夫人、今回の新しいお嫁さんは本当にすごい方ね。お金もあって、有能で、それにあんなに綺麗だなんて。きっと今回はご満足でしょう?」「お金があって何?うちにお金が足りないとでも?綺麗な女なんてこの世に山ほどいるわよ。あの子なんて大したことないわ!」隼人の母は軽蔑したように、ちょうど招待客にお酒を注いでいた瑠璃に目を向けて白い目を向け、そっぽを向いた。そして夏美と賢の姿を見つけると、急いで近づき親しげに話しかけた。「碓氷さん、碓氷夫人、まさかあの四宮蛍が偽者だったなんて、私もすっかり信じ込んでいたのよ。結果として騙されて、ほんとに腹立たしいわ」隼人の母は憤慨した表情でそう語りながら、さりげなく自分との関係を切り離した。夏美は困ったようにため息をついた。「実の娘を見つけたと思っていたのに……目黒家と親戚になるかもしれないと期待していたけど、まさかこんなことになるなんて」隼人の母はすぐに同調した。「誰が想像できたかしら、あの四宮家の連中があんなにひどいなんて。隼人の子供を産んだという一点だけが唯一の考慮だったのよ。それがなければとっくに詐欺で訴えてたわ!」彼女は憤りを込めてそう言い放ち、さらに残念そうな顔をして続けた。「碓氷家は景都でも有名な名門だから、もし親戚関係になれていたら、それはもう素晴らしいご縁でしたのにね。残念ながらお嬢さんが今も見つからないだなんて……もっと早く見つかっていれば、隼人と何か進展があったかもしれないし、こんな女にチャンスを与えることもなかったでしょうに!」そう言いながら、隼人の母は不機嫌そうに瑠璃に睨みを利かせた。夏美もその視線を追い、純白のドレスをまとい、まるで絵のように美しい瑠璃の姿を目にして、胸の奥がなぜかきゅっと痛んだ。「実は……ヴィオラも、そんなに悪い子ではないのよ」「碓氷夫人、ご存じないでしょうけど、この女はね、隼人の元妻である瑠璃に比べて、悪さでは上