「隼人、安心して。明日の夜、必ず両親と一緒に向かうわ」蛍は待ちきれない様子で即座に答えた。「それならいい」隼人はそう短く返すと、すぐに通話を切った。暗くなったスマートフォンの画面を見つめながら、細長い目に複雑な光が揺れる――何を考えているのか、誰にも読めない表情だった。瑠璃はそのままマンションへ戻った。部屋に入ると、すでに瞬が起きていた。彼は大きな窓のそばのテーブルに座り、ラフなルームウェア姿で優雅にトーストをかじりながら、スマートフォンで経済ニュースを読んでいた。瑠璃の姿を見つけると、穏やかに微笑む。「『Miss L.ady』の売上は好調だ。君がデザインしたジュエリーはどれも大人気だよ。きっと今回のGMA国際ジュエリーデザインコンテストで優勝するのも夢じゃない。それから、君が必要だと言っていた調香の材料も手に入れた。ここで安心して、夢を追い続けてほしい」瞬の言葉に、瑠璃の胸に温かな感謝の念が込み上げた。「ありがとう、瞬」瞬は微笑を深め、その神秘的な目が、朝日に照らされて金色の輝きを放つ。「俺が欲しいのは、感謝の言葉なんかじゃない」彼の声は柔らかく、まるで春風のように心地よい。瑠璃が少し戸惑った様子を見せると、瞬はくすりと笑った。「心配しなくていい。君に何かを強いるつもりはない。ただ、君が幸せでいてくれるなら、それだけでいい。俺はずっと君の騎士でいるよ」その優しい笑顔に、瑠璃の心がじんわりと温まる。――この笑顔が、どれだけ自分の心を照らしてくれたことか。この三年間、もし瞬がそばにいてくれなかったら、きっと今の自分はなかっただろう。翌日の夕方。瑠璃は瞬と共に、目黒家本宅へ向かった。彼は片手に手土産を持ち、もう一方の手で瑠璃の手をしっかりと握ったまま、広大な邸宅の敷地へと足を踏み入れる。執事は瞬の姿を見るなり、すぐに目黒家の当主へ報告しに行く。ちょうど部屋で休んでいた目黒家の当主は、その報告を聞くと、一瞬にして緊張した表情になった。――三年前、瞬が本宅に戻ってきたとき、彼は体調不良を理由に会わなかった。しかし、同じ手は二度も使えない。瑠璃は目黒家の当主と会うつもりで来たが、部屋に入ると、意外な光景が広がっていた。ソファに座って目黒家の母と楽しげに会話をしているのは――夏美と蛍
すべての視線が困惑に包まれる中、隼人はズボンのポケットから深い青色のベルベットの小箱を取り出した。彼はその箱をそっと開き、瑠璃に向けて差し出す。そこには、輝くダイヤモンドの指輪が鎮座していた。蛍は目を疑い、息を呑んだ。「隼人、あなた……何をしているの?」彼女は慌てた様子で駆け寄りながら、ぎこちない笑顔を作る。「隼人、あなたが今日私の両親をここに呼んだのは、私にプロポーズするためでしょう?その指輪も、私に渡すつもりだったのよね?」期待に満ちた瞳で、隼人の冷淡な横顔を見つめる。だが、彼は蛍に一瞥もくれず、ただ静かに指輪を取り出すと、瞬が握っていた瑠璃の左手を取ろうとした。瑠璃はすぐさま手を引っ込めた。「目黒さん、一体何をするつもり?」瞬もまた、瑠璃をかばうように彼女をそばへ引き寄せる。「隼人、ヴィオラと瑠璃は確かによく似ているが、前にも言ったはずだ。彼女たちは全くの別人だ」「そんなに大事に守るのか?」不意に、隼人は低く笑った。その笑みには何か含みがあり、誰も真意を読み取ることができなかった。「ただのことだ。未来の義叔母への贈り物として、これを渡そうとしただけだ」「ありがとう、目黒さん。でも、指輪というものは、簡単に贈るものではないよ。あなたの婚約者が嫉妬するかもしれないから」瑠璃は微笑みながら断り、ちらりと蛍を見る。彼女の顔は、笑顔を保とうとしながらも、歪んでいた。「蛍が嫉妬なんてするわけないでしょう!」目黒家の母は瑠璃を冷ややかに睨みつけ、忌々しげに鼻で笑った。「千さん、あんたは隼人の忌々しい元妻と顔がそっくりだけど、勘違いしないでちょうだい?隼人があなたに特別な感情を抱くことなんて、絶対にありえないから!」そして、軽蔑の笑みを浮かべながら続ける。「あの瑠璃は、うちの家族全員にとって目の上のたんこぶだった。何より、隼人は彼女を心の底から憎んでいたのよ。彼女が死んだことで、ようやく我が家に平穏が訪れたの。隼人も、ようやく愛する人と一緒になれる。これほど喜ばしいことはないわ。だから、あなたも安心しなさい。未来の義娘が嫉妬するなんてことはないわよ。隼人と蛍の絆は揺るぎないわ。だって、二人の間にはすでに五歳になる息子がいるのだから!」その言葉に、蛍はすぐに笑顔を取り戻し、同調するように頷いた。
蛍は頬を赤らめ、小鳥のように隼人の腕に身を寄せた。「パパ、ママ、安心して。隼人は必ず私を大切にしてくれるわ。ねえ、隼人?」潤んだ瞳で隼人を見上げる。だが、彼が彼女を見下ろしたその目は、驚くほど冷たかった。その視線に射抜かれ、蛍の表情が固まる。「……隼、隼人?」「俺が今日発表するのは――お前との婚約解消だ」「……」「……え?」まるで時間が止まったかのように、蛍は硬直した。夏美と賢、そして目黒家の夫婦もまた、目を見開いて驚愕する。瑠璃は冷静にその光景を見つめながらも、心の中では驚きを隠せなかった。――隼人が蛍との婚約を解消?そんな馬鹿な。彼はこれまで一貫して蛍を溺愛し、どんなわがままも許してきた。彼女のためなら何でもする男だったはずなのに、なぜ突然こんな決断を?「隼人、何を言っているの?蛍とは結婚する約束だったでしょう! 彼女はあなたの子供まで産んだのよ!」夏美は怒りをあらわにし、指を突きつけた先には――瑠璃。「まさか、この女のせいじゃないでしょうね?」隼人は眉をひそめ、不快そうに言い放つ。「彼女は関係ない」そして、視線を蛍へと移す。「……あの日、俺が言ったことを覚えているか?」蛍の顔が凍りつく。脳裏に、彼が告げた言葉がよみがえる。――「もしも昔、君秋の誘拐にお前が関わっていたと分かったら、その時点で婚約は無効だ」瞬間、彼女の顔色が血の気を失った。「隼人……結局、あなたは私を信じてくれないの?私は関わってなんていない!君ちゃんは私の実の息子よ?どうしてそんなひどいことができるっていうの?何のためにそんなことをする必要があるのよ!」必死の弁明に、周囲の人々も状況を察し始めた。隼人が婚約を解消すると言い出した理由――それは、彼女が君秋の誘拐に関与していたから。「瑠璃に罪をなすりつけるためだ。そして、俺に彼女を憎ませるため」隼人は淡々と言葉を紡ぐ。蛍は愕然とし、目を泳がせた。「ち、違う!隼人、そんなのデタラメよ!あの陸川辰哉ってチンピラの証言なんて信じるの?私たちは長年一緒にいたじゃない、どうして私を疑うの……」「陸川辰哉の証言は関係ない」隼人は冷然と遮った。蛍はさらに混乱する。辰哉の証言が関係ない?ではなぜ、彼は確信しているのか?まさか、当時の目撃者で
隼人は視線を落とし、自分がかつて「永遠に守る」と誓ったこの女を見つめた。しかし、その端正な顔に浮かんでいたのは、皮肉めいた笑みだった。「……俺は、あの運転手を見つけてなどいない」「!」誰もが息を呑み、客間の空気が瞬時に凍りついた。蛍は瞳を大きく見開き、驚愕に震えながら隼人の顔を見つめる。彼は、彼女を嵌めたのか!恐怖に駆られた彼女は、無意識に自分の罪を認めてしまったのだ。瑠璃は静かに座っていたが、その心は大きく揺れていた。昨日、隼人に頼まれて「瑠璃」に扮し、辰哉から証言を引き出そうとしたが、失敗に終わった。人証も物証も揃わず、真相を暴く手立てがないと思っていた――だが彼は、この方法を使って蛍に自白させたのだ。心臓が大きく跳ねた。この感情が何なのか、彼女でも分からない。そっと差し出された温かい手。瞬が彼女の手を優しく握った。二人は目が合う。言葉はない――だが、互いの想いは通じ合っていた。「やはりお前だったのか!」目黒家の当主は怒りに震え、手に持った杖を蛍へと向けた。「まさか自分の息子を誘拐し、その罪を瑠璃に擦り付けるとは……なんという極悪非道な女だ!」その手は小刻みに震え、顔は怒りで紅潮している。杖を振り上げ、今にも彼女を打とうとした――「大旦那、やめてください!」夏美が慌てて前に立ちはだかった。「どうして蛍を責めるの? きっと彼女なりの事情があったはずよ!」――事情?この期に及んでなお、蛍を庇う夏美の姿に、瑠璃の心は完全に冷え切った。真相が明らかになれば、自分はきっと――心のどこかで「親の愛」に期待してしまうのではないかと思っていた。すべてを許し、もう一度家族としてやり直せるのではないか、と。だが、それはただの幻想だった。「お祖父様、誤解です!」蛍は涙をこぼしながら訴えた。「私は君ちゃんを傷つけるつもりなんてなかったんです!だって、私が十ヶ月もお腹に宿して産んだ子なんですよ?そんなこと、できるはずがありません!」彼女は必死に隼人にすがりつき、腕を握りしめる。「隼人……私は仕方なく、あんなことをしたの!すべて瑠璃のせいよ!」――またか。またしても彼女は、すべての責任を瑠璃に押し付ける。瑠璃は小さく笑った。――私のせい?一体いつ?どうやって?
蛍はまるで全身の力を奪われたかのように、その場で立ち尽くした。彼は本気なのか?「隼人、あなた……どうしてそんなことを?」夏美が怒りを露わにし、蛍を庇うように前へ出た。「蛍はずっとあなたに尽くしてきたのよ!五年前にはあなたの子供まで産んで、それなのにずっと悪意に満ちた噂で『愛人』扱いされてきた……あなたはそんな彼女を、あの忌々しい瑠璃のために捨てるつもり?」彼女の非難に、隼人のこめかみがピクピクと跳ねた。そして、目の奥に深い闇が宿る。――また「あの忌々しい瑠璃」か。彼はもはや、誰かが瑠璃をそう呼ぶのを聞くのが耐えられなかった。「黙れ!」目黒家の当主が激怒し、杖を床に叩きつけた。「碓氷夫人、お前はたしかにこの女を長年失っていた娘だと思っているかもしれんが、それでも贖罪の仕方が間違っている!瑠璃もまた、両親に育てられた娘だ!彼女の親がこの惨状を知ったら、どれほど悲しむか!」大旦那は深いため息をつき、静かに背を向ける。「……哀れな瑠璃。死んでもなお、汚名を着せられ続けるとは……」そう呟くと、ゆっくりと階段を上がっていった。瑠璃は唇をかみしめ、心の奥にじんわりとした痛みが広がる。おじいちゃん。ありがとう。少なくとも、あなたは私を気にかけてくれている。けれど、私の『両親』は……視線を夏美と賢に向けると、彼らは今もなお、何の躊躇もなく蛍を甘やかしていた。彼女がどれほど非道なことをしても、すべてを庇い、正当化する。部屋の空気が沈黙に包まれた。その静寂を破ったのは、隼人の冷たい声だった。「君ちゃんの親権は争わない。だが……今のうちに、自分が何をしたのか、よく考えるんだな」言い捨てると、彼は振り向くことなく背を向けた。その後ろ姿を見つめていると、瑠璃の胸が妙にざわつく。――彼の背中が、どうしてこんなに寂しそうに見えるの?「隼人!待って、どこへ行くの!?」蛍は慌てて彼の後を追ったが、次の瞬間、エンジン音が響き渡る。隼人の車が、迷いなく屋敷を後にした。蛍はその場に立ち尽くし、ぎゅっと拳を握りしめる。――こんなの、認められない!彼女は今日、彼が婚約を発表すると信じて疑わなかった。それが、まさかの「婚約解消」だなんて!絶対に、諦めるもんか!目黒若夫人の座を絶対に譲れない!隼人が去った
瑠璃は、自分が隼人が誰にバラを贈るのかを気にしているわけではないと思っていた。ただ、納得がいかなかったのだ。隼人の車はひたすら前へと進み、道路の車の数は次第に減っていった。彼に気づかれないよう、瞬は慎重に距離を保ちながら後を追う。約二十分後――隼人の車がようやく停まった。しかし、その場所を見た瞬間、瑠璃と瞬は驚きを隠せなかった。「……墓地?」彼は花束を抱え、墓地へと向かったのだ。どうしてこんな場所に? しかも、バラの花を持って――?ここは、かつて瑠璃が祖父と最初の子供を埋葬した場所。そして何より――隼人が彼女の目の前で、子供の遺骨を焼き尽くした場所だった。その記憶が瑠璃の脳裏に突き刺さる。あの日、雪が降っていた。今、再びその雪が、彼女の心の奥へと舞い落ちる。冷たく、凍えるような痛みとともに。彼女は決して忘れない。どれほど必死に懇願しても、彼は一切の情けをかけなかった。哀れみの涙すら許されず、心を無惨に引き裂かれた。最後には、蛍に顔を傷つけられることさえ黙認した――「……中へ入って、見てみるか?」瞬の問いかけに、瑠璃は我に返った。「……いいえ」彼女はかすかに首を振る。「ここは人も車も少ない。近づけば、彼に気づかれるわ」「なら、待ってみるか?」瑠璃は沈黙した。待つ? 何を?墓地は広くて、彼の姿はすでに見えなくなっていた。彼女がここに留まったところで、何が変わるのか?沈黙する彼女の手を、瞬がそっと包む。「……手が冷たいな」彼の指先は温かかった。「過去のことを思い出したのか?」いつものように、優しく穏やかな声が彼女の胸にしみ込む。瑠璃は答えず、ただ目を伏せた。すると、瞬は微笑み、彼女の髪をそっと耳にかける。「心配するな。君には俺がいる」……墓地。隼人は八十八本の赤いバラを抱え、見慣れた道を進む。そして、静かに一つの墓の前で立ち止まった。墓碑に刻まれた名前を指でなぞる。まるで、それが彼女の温もりであるかのように――しかし、指先に伝わる冷たさが、すべてが幻であることを思い知らせる。隼人はバラの花束を供え、いつものようにタバコに火をつけた。煙がゆっくりと空へと昇る。墓碑が霞むほどに、彼の瞳もまた、朧げな色を帯びていた。だが、彼の脳裏には、鮮明にあの日
隼人は静かに墓碑の文字を指でなぞった後、ゆっくりと立ち上がった。四方には何もなく、ただ広がる静寂――まるで彼の心の中そのものだった。ふと、空から細かな雨が降り始める。その冷たい感触に、彼はようやく重い足を動かし、名残惜しそうにその場を後にした。瑠璃は陽ちゃんを迎えに行き、マンションへ戻ってきたばかりだった。その時、突然隼人からの電話が掛かってきた。今、彼女のマンションの前にいる。大事な話があるって。彼女は通話を切った。陽ちゃんと遊んでいた瞬を見つめていた。「行ってこい。君がやりたいことを、すればいい」瞬はすでに、彼女の迷いを察していた。彼女が何を望み、何をしようとしているのか――すべて、分かっている。それは復讐だった。そして、隼人はその復讐の相手の一人だ。瑠璃は服を変え、何も言わずにバッグを手に取り、部屋を後にした。エレベーターを降りた瞬間、目の前に黒い車が停まっているのが見えた。すでに日が暮れ、夜の帳が街を覆い始めている。雨脚は強く、地面に叩きつけるように降り続いていた。しかし、隼人は傘もささずに車のドアを開け、瑠璃を迎え入れた。車内に入ると、彼女はまっすぐに切り出す。「それで――何の話?」「君を悩ませているすべての問題に、終止符を打とうと思っている」「……どういう意味?」ハンドルを握る彼の横顔は、薄暗い車内の照明に照らされ、硬質な美しさを浮かべている。そんな彼が、ふと目を細めて笑った。「ただ、食事に招待したいだけだ。もう二度と、君を『彼女』と重ねることはない」「彼女?」「俺の元妻だ」隼人はそう答えると、アクセルを踏み込んだ。車が走り出し、路上に散った雨に濡れた枯葉を巻き上げていく。まるで、過去の影すらも巻き込みながら――瑠璃は、彼が高級レストランへ向かうものだと思っていた。だが、辿り着いた先は、彼のプライベート別荘だった。ここは、かつて彼女が暮らしていた場所。家の中は静まり返り、執事や使用人の気配すらない。もちろん、君秋の姿もない。本当に……彼は親権を放棄したのね。だが、もし君秋が蛍の手に渡ってしまえば――彼の未来はどうなる?考えたくもない不安が、瑠璃の胸をざわつかせる。「好きな場所に座ってくれ」隼人はそう言うと、濡れたコートを脱ぎ、紅茶を
まさか、玄関のチャイムを鳴らしたのが蛍だったとは。これには、さすがの瑠璃も驚いた。三年経ったというのに、彼女はこの家の鍵すら持っていないの?不思議に思いながらも、隼人の表情を伺う。彼は眉を軽く寄せ、沈黙の中で何かを思案しているようだった。「目黒さん、開けないの?」瑠璃は薄く笑いながら言う。「四宮さんよ? 彼女は、あなたの子供の母親でしょう?」隼人はその言葉に、ゆっくりと視線を上げた。漆黒の瞳に微妙な色が宿る。「……すぐ戻る。待っていてくれ」「ええ」瑠璃は穏やかに頷き、彼の背中を見送る。しかし、その瞳には冷ややかな嘲笑が浮かんでいた。「結局、彼女を放っておけないってことね?」外の雨は激しさを増し、扉が開いた瞬間、夏の終わりの冷たい風が吹き込んだ。「隼人、ようやく会えた!」蛍は、必死に駆け寄ってくる。彼女は傘もささずにずぶ濡れで、まるで雨の中を走ってきたかのようだった。隼人の顔を見るなり、ぽろぽろと涙をこぼす。まるで、世界で一番の悲劇に見舞われたかのように。「隼人、お願い……私の気持ちを分かって……」声を詰まらせながら、彼女は訴えた。「私たちの最初の子供のことを思い出して!あの子がいなかったら、私はあんな過ちを犯さなかった……すべては瑠璃が私を追い詰めたせいよ!君ちゃんを傷つけるつもりなんてなかった!陸川辰哉にも、絶対に君ちゃんを大事にするようにって言ってたの!ただ、私だって報復したかった……あなたと私の、最初の子供のために……」震える手で、彼のシャツの裾をそっと掴む。潤んだ瞳を向け、必死にすがる。「隼人……もう一度、やり直そう?過去のことは忘れて、君ちゃんと三人で幸せになりましょう……」屋内にいた瑠璃は、すべて聞いていた。またしても、彼女のせいにするのね?瑠璃はゆっくりとワイングラスを持ち上げ、薄く笑う。そして次の瞬間――パリンッ!彼女はグラスを指から滑らせた。床に落ちたグラスは、鈍い音を立てて砕け散る。赤い液体が、白い大理石の床に広がり、まるで血のように鮮やかに染まる。静寂の中で響いた、その音。ちょうど、隼人の返事を待っていた蛍が、ハッと顔を上げる。「……隼人?まさか、中に誰かいるの?」彼女の声が微かに震えた。「お客さん?」柔らかく問いながら、彼女
瑠璃は微笑みながら、口を開こうとしたその時、スマホが鳴った。画面を確認すると、瞬からの着信だった。彼女はごく自然に電話を取り、簡単にやり取りしただけで通話を切った。「隼人、お店でちょっとトラブルがあって、今戻らないといけないの」「送っていくよ」「いいの、夜にまた会いましょう」そう言って背を向けて歩き出した瞬間、隼人が手を伸ばして彼女を引き止めた。不思議そうに振り返った瑠璃の唇に、隼人はそっとキスを落とした。「Kiss Goodbye」「……」心の中では拒絶していたが、瑠璃は笑顔でそれを受け入れた。彼女が去っていく背中を見つめながら、隼人の唇に浮かんでいた微笑はゆっくりと消えていき、目の奥に潜んでいた鋭さもすっかり色褪せ、代わりに残ったのは後悔の色だった。――さっき、夏美が「瑠璃が自分たちの娘だ」と言った時、彼の心の中でずっと繋がらなかった点と点が、完璧な形でひとつに結びついた。「千璃ちゃん……」彼の薄く色気のある唇から、静かにその名が零れた。そこには、深い愛と悔しさが込められていた。……瑠璃は瞬と合流し、これまでに得た情報を伝えた。「隼人のパソコンにはロックがかかっていて、あなたが欲しがっているデータを手に入れるのは簡単じゃない」「それでも、彼のオフィスの配置を把握できただけでも十分すごい」瞬はそう言って振り返り、黒曜石のように輝く瞳に優しい光を湛えて瑠璃を見つめた。「本当は、情報よりも君に会いたかった」「欲しいものを手に入れて、計画を完遂すれば、あなたのもとへ戻るわ」「……本当に戻ってきてくれるのか?」瞬の目には、一抹の不安が浮かんでいた。「君はかつて、隼人を深く愛していた。今は、本当に彼に対して何の気持ちもないのか?」その問いに、瑠璃は少し笑って、静かに息を吐いた。「かつてどれだけ愛していたか……今はそれだけ、彼を憎んでる」彼女は遠くの海を見つめながら、続けた。「私の彼への愛は、四月山の海底に沈んでしまった。二度と戻れない……」……一方その頃。夏美と賢は、瑠璃の遺品を探すことを諦めていた。そんな時、不意に隼人から電話がかかってきた。指定された場所で隼人と落ち合うと、彼はひとつの透明なビニール袋を夏美に手渡した。「これは……」夏美は驚きながら
瑠璃が止める間もなく、夏美の口からその言葉が飛び出した。一瞬にして、周囲の空気が凍りついたように静まり返った。瑠璃は視線を動かさず、余所見するように隼人の表情を窺った。彼の顔にはわずかに複雑な色が浮かび、驚いているようにも見えたが、どこか平静さを保っているようにも思えた。瑠璃は静かに数秒考えたあと、あえて沈黙を破った。「碓氷さん、碓氷夫人、本当に四宮瑠璃がご自身の娘だとお思いですか?」夏美はまっすぐに彼女を見つめた。「科学的な証明はまだないけれど、私は九割の確信を持っている。瑠璃は、私の娘よ!」彼女の口調には揺るぎのない確信があり、その涙を湛えた瞳は、名残惜しそうに瑠璃の顔をじっと見つめていた。「ヴィオラさんには、娘さんがいるよね?」夏美は突然そう訊ねた。瑠璃は頷いた。「はい」「以前、幼稚園の前であなたの娘さんを見たとき、私は本当に驚いた。娘の幼い頃にそっくりだった。でも今になって、その理由がわかった。あなたの娘さんはあなたに似ていて、あなたの顔は瑠璃とほとんど同じだったから……」夏美の言葉を聞いて、瑠璃はようやく思い至った。あのとき、確かに夏美は陽ちゃんを見つめて、しばらく動けなくなっていた。なるほど、そういうことだったのか。――三十年近く経っても、母は私の赤ん坊の頃の顔を覚えていてくれたのだ。その事実に、瑠璃の胸の奥に、じんわりとした温かさが広がった。長い間、両親のいない日々を生きてきた彼女は、ようやく「愛されていた」という感覚を噛みしめていた。それが、誰にも知られぬ密かな想いだったとしても。そんな思いにふけっていた矢先、賢の言葉が静かに隼人に向けられた。「隼人様……あなたが瑠璃を憎んでいたことは知っている。策略に嵌められ、無理に結婚させられたと思っていたのでしょう。でも今では、全てが蛍の罠だったとわかっているはず。そして……瑠璃は、もう三年も前に亡くなっている」そこまで語ると、賢の声は詰まり、しばらくして再び続けた。「隼人様、僕たち夫婦にあなたを責める資格などない。今日伺ったのは、ただ……かつて夫婦であったご縁に免じて、お願いしたいことがあるんだ」「生きて再会できなくとも……私たちはせめて、娘に名前と血筋を返してやりたいの。無名のまま、彷徨う魂にだけは、なってほしくないよ……」
透明なガラスの壁一面の窓の外には、広大な川の流れが見え、その向こうには街全体を見下ろせるような絶景が広がっていた。こんな一等地のオフィスに座れる人間など、そうそういるものではない。だが、かつて自分は、この場所に入ることすら許されなかった。彼は自分の夫だった。それなのに、彼のオフィスには一歩も踏み入れる資格さえ与えられなかった。その一方で、彼は別の女がここを自由に出入りするのを黙認していた。瑠璃は唇の端をわずかに上げ、静かに思い返しながら、持ってきた料理を丁寧に取り出して並べた。もちろん、もう彼のためにエプロンをつけて料理を作ることなどない。かつて一方的に尽くした日々は、すでに過去のものだ。隼人の機嫌は良さそうだった。料理が彼女の手作りかどうかを疑うこともなく、美味しそうに食べていた。晩秋の午後のやわらかな陽光が、黒いシャツを身にまとう彼の肩に静かに降り注ぎ、彼の深い瞳を柔らかく照らしていた。食事の後、瑠璃は給湯室でフルーツを切り、フォークに刺して隼人の口元へ差し出した。「甘い?」彼女は笑顔で尋ねた。隼人は静かに頷き、その深いまなざしで彼女の美しい顔をじっと見つめていた。この瞬間が、少しでも長く続いてくれればと願うように……だが、フルーツを食べ終える前に、隼人は重要な電話を受け、席を外すことになった。瑠璃は、すぐに彼の私物のパソコンを調べ、自分の計画を進めようとした。だが室内を見回すと、監視カメラが設置されていることに気づいた。無理に行動すれば、すぐにバレる。仕方なく、彼女はフルーツの皿を片づけ、さらに気を利かせるふりをして、隼人のデスクを整え始めた。整理の最中、彼女はわざとマウスを床に落とし、それを拾い上げながらパソコンを操作する素振りを見せた。だが、パソコンにはロックがかかっており、中を見ることはできなかった。諦めざるを得なかったが、何も得られなかったわけではない。ちょうどその時、隼人が戻ってきた。だが、聞こえてきたのは三人分の足音だった。顔を上げた瑠璃は、隼人の後ろに立っている夏美と賢の姿を見て、思わず心が跳ねた。彼女は、夏美と賢が自分が瑠璃であることに気づいたことを隼人には話していなかった。もし今、彼らがそのことを口にすれば、全てがバレてしまう。胸中で不安を抱えながらも、瑠璃は穏や
一瞬の出来事だった。瑠璃の叫び声が響いたその瞬間、夏美と賢の耳にその言葉が飛び込んだ。死を覚悟して身を投げようとしていた夏美は、驚きで半分以上乗り出していた体をぴたりと止め、涙に濡れた顔をぼんやりと瑠璃の方へ向けた。その視線の先には、記憶の中で憎んできた女と瓜二つの顔を持つ少女が立っていた。「お母さん、千璃は死んでなんかいないよ。私のために死のうとしないで」瑠璃は優しく微笑みながら、静かにそう言った。「もう戻って。お父さんを心配させないで」「千璃……」夏美は呆然としたまま瑠璃を見つめていたが、ゆっくりと身体を引き戻し、危険な縁から離れていった。賢もまた、しばらくの間瑠璃を見つめていたが、ようやく我に返ると急いで夏美の手を取り、病室へと引き戻した。そしてすぐさまバルコニーの扉に鍵をかけた。「き、君は……瑠璃なのか?本当に……瑠璃なのか?」夏美は震えるように瑠璃の元へ駆け寄り、彼女の手をぎゅっと握った。温もりを与えたくて、その手を包み込んだが――自分の手のひらは氷のように冷たかった。期待と感激のまなざしで彼女を見つめる夏美と賢。だが、瑠璃はただ静かに微笑んだ。「碓氷夫人、ご無事でよかったです。命を粗末にしてはいけませんよ。衝動は悪魔を呼びます」「……」夏美と賢は同時に固まった。今の言葉が、ただ、夏美を助けるための演技だったと理解した瞬間――さっきまで天国にいたような気持ちは、一気に地獄へと叩き落された。彼らにはわかっていた。瑠璃は三年前、治療不可能な病で亡くなったと。でも、もし自分たちがあの時、何度も彼女を追い詰めなければ――彼女はもっと長く生きられたのかもしれない。思い返すのは、あの日。病に侵されながら、苦しい身体で蛍と隼人の婚約式に現れた彼女。それなのに、自分たちは彼女を罵倒し、侮辱した。彼女が血を吐いて倒れかけた時ですら、夏美はそれを「演技」だと決めつけ、冷たく突き放した。だがその「演技」の結末は――彼女の永遠の別れだった。そしてそれは、今もなお、二人の胸をえぐる痛みとなって消えなかった。病院を後にする頃、夏美はもう泣いてはいなかった。その深い喪失の痛みを、誰よりも理解できるのは、瑠璃自身だった。かつて、自分の我が子が命を奪われたと知った時、彼女もまた、生きる気力を失っ
賢は困惑した表情で瑠璃を見た。「千さん、どうして君が妻を病院まで?」「それは……」瑠璃が説明しようとしたその瞬間、病室の中から嗚咽混じりの泣き声が聞こえてきた。賢の顔色が一変し、すぐさま病室へ駆け込んだ。瑠璃は気を落ち着け、何事もなかったような顔で後に続いた。夏美はすでに目を覚ましていたが、今まさに泣き崩れていた。賢は心配そうに彼女のそばにしゃがみ込んだ。「夏美、どうしたんだ?なんでそんなに泣いてるんだ?」その声に、夏美はようやく賢の存在に気づいたかのように、はっと顔を上げた。涙で赤くなったその目には、取り返しのつかない深い痛みが浮かんでいた。「賢……どうして神様は私たちをこんなにも弄ぶの……どうして……」その声は震え、涙はまるで糸が切れた真珠のように次々と頬を伝って落ちていった。賢は話が見えず、ただ不安と焦りが増していくばかりだった。「夏美、どういうことだ?ゆっくり話してくれ。落ち着いて、泣かないで……」夏美は涙の中で苦笑し、青ざめた顔を上げて、賢の不安に満ちた視線を見つめた。彼女は懐から一つのペンダントを取り出した。「賢……私たちの実の娘を見つけたのよ」「なに!?本当か!娘を見つけたって!?本当に!?」賢の顔には一瞬にして喜びが広がった。「彼女はどこにいるんだ?夏美、娘は今どこにいる?」賢は興奮して問いかけたが、夏美は痛ましげに目を閉じた。「……もう、亡くなってるの」「……な、なんだって?死んだ?」賢は茫然として固まった。「私たちも、間接的に彼女を死なせてしまったのよ……」夏美は悔しさで唇を噛みしめながら顔を上げた。「四宮瑠璃こそが、私たちの本当の娘だったの……」「……な、なんだって?」夏美のその一言に、賢の全身が凍りついた。わずか数秒前の喜びは、瞬時に無残に砕け散り、その破片が胸の中に突き刺さるような痛みとなって押し寄せてきた。その傍らで、瑠璃は痛みに満ちた両親の姿を見つめながら、自分の胸にもじわじわと鈍い痛みが広がっていくのを感じた。「四宮……瑠璃が、俺たちの……娘だと?」賢は愕然としたまま目を見開いた。その脳裏には、かつて自分が瑠璃の頬を平手打ちした時の記憶がよみがえっていた。あの偽者の蛍をかばうため、彼は瑠璃を足で突き倒したことすらあった。あの時の
君秋のその一言に、瑠璃も夏美も、目を大きく見開いて驚いた。夏美もデザイナーであり、瑠璃の体にある母斑は、まさにA4用紙に描かれたその蝶とほぼ完全に一致していた。もしかして、どこかで自分の腰の後ろにあるその母斑が見えてしまい、それを君秋が目にしたのではないか――瑠璃の胸にそんな疑念が浮かんだ。「君ちゃん、この蝶を見たって言ったけど、どこで見たの?」夏美はしゃがみ込み、目を潤ませながら食い入るように尋ねた。「碓氷夫人、こんなにたくさんのビラを印刷されたんですか?それで娘さんを探そうと?」瑠璃は平静を装い、話題をそらした。夏美はうなずいた。「ネットでもたくさん情報を出しているけど、こうした手段も一つの方法だと思って。とにかく、娘を見つけられるなら、どんな手段でも使いたいの!」その声には、切実な願いと誠意があふれていた。彼女は心から、かつて失ってしまった我が子を見つけたいと思っているのだ。瑠璃の心は揺れ動き、思わず胸が締めつけられた。……もしかしたら、私の本当の両親を責めるべきじゃなかったのかもしれない。彼らは、蛍一家に騙されていただけ。自分たちの大切な子を探すために、利用されてしまっただけなんだ。でも……「君ちゃん、お願い。どこでこの蝶を見たのか、おばあちゃんに教えてくれない?」再び、夏美の必死の問いかけが瑠璃の耳に飛び込んできた。彼女ははっとして現実に戻り、止めようとしたその瞬間、小さな声が耳を打った。「瑠璃お姉ちゃん」君秋は静かに、そう答えた。瑠璃の心臓が一瞬、強く鼓動した。夏美も呆然とした。「君ちゃん……今、瑠璃お姉ちゃんって言ったの?それって、四宮瑠璃のこと?」君秋はこくんとうなずき、突然、小さな手で瑠璃の右腰の後ろを指差した。「瑠璃お姉ちゃんの、ここのところに、このちょうちょがあるよ」「……」「……」まさか本当に、君秋があの母斑を見たことがあったなんて――三年前に「死んだ」自分のことを、当時まだ二歳だった君秋が、こんなにも鮮明に覚えていたなんて。瑠璃は完全に予想外の展開に言葉を失った。「な、なに?」夏美は混乱したまま、視界が暗くなっていくのを感じた。まるで全身から力が抜けるような感覚に襲われ、よろめきながら倒れそうになる。瑠璃はすぐに我に返り、夏美の体
瑠璃はその微笑を浮かべたまま眠る顔を冷ややかに見つめ、薄く唇を引き結んだ。三年間ほとんど毎晩眠れなかったって言ってたんじゃなかった?なのに、昨夜はずいぶんと気持ちよさそうに眠っていたじゃない。ふん、隼人――あなたは本当に、私の死を悔やみ、不安に感じたことなんてあったの?いいえ、あなたは一度だって、そんなことなかった。彼の顔を一瞥し、瑠璃は素早く身支度を整えて部屋を出た。ちょうどその時、君秋が部屋から出てくるところだった。「君ちゃん、おはよう」彼女は優しく微笑みながら彼のもとへ歩み寄った。「学校へ行くのね?ヴィオラお姉ちゃんが朝ごはんを作ってあげようか?」君秋はその言葉を聞いて、キラキラした大きな目で見上げながらコクリと頷いた。「うん」その愛らしく整った小さな顔を見て、瑠璃の気分は一気に和らいだ。メイドたちは朝早くから朝食の準備をしていたが、それでも瑠璃は自らキッチンに立ち、君秋のために簡単で栄養バランスの良い朝ごはんを作った。君秋は食卓につき、目の前のハート型の目玉焼きをじっと見つめていたが、なかなか箸を取ろうとしなかった。瑠璃は彼の反応が気になって声をかけた。「君ちゃん、目玉焼きが苦手?食べたいものがあれば教えてね、ヴィオラお姉ちゃんがすぐ作ってあげる」そう言った直後、君秋は首を横に振った。その澄んだ目にはまっすぐな喜びが宿っていて、彼は小さな口を開き、可愛らしい八重歯を覗かせながら言った。「ありがとう、ママ」――ママ。瑠璃は一瞬、言葉を失った。まさか君秋がこんなにも早く、そして自分から「ママ」と呼んでくれるなんて、夢にも思わなかった。普通の子供なら、継母には少なくとも嫌悪感を持つものなのに。なのに君秋は、心から自分を慕ってくれている。瑠璃の目尻が熱くなり、そっと君秋の頭を撫でながら、慈しみに満ちた眼差しを向けた。「君ちゃん、ヴィオラお姉ちゃんは、あなたを本当の我が子のように大切にするからね。これからは、あなたを心から愛するママがそばにいるよ」君秋はコクリと頷き、その小さな顔にこれまで見たこともないほど自由で幸せそうな笑顔を咲かせた。その笑顔を見て、瑠璃の心もとろけるように温かくなった。これまでの愛や憎しみも、復讐も、その笑顔の前では全てが小さく思えた。朝食
その言葉を聞いた瞬間、瑠璃の表情がわずかに変わった。――母斑。もし今この場で夏美が、自分の体にあるその母斑の形を口にしたら、これまでの計画がすべて水の泡になってしまう。「どんな母斑?」隼人が不思議そうに問い返した。「蝶の――」「隼人……なんだか急に、頭がクラクラするの……」夏美が「蝶の」まで口にしたその時、瑠璃は眉間を寄せて弱々しく隼人にもたれかかった。隼人の意識はすぐに瑠璃へと戻った。彼はすぐに彼女を抱き上げた。「病院へ連れていこう」「病院なんて必要ないわ。ただ少し、疲れただけよ」瑠璃は彼の肩に身を預けながら、かすかに囁いた。隼人に抱かれてその場を離れる彼女を見送りながら、夏美と賢の心には、どこか得体の知れない不安がじんわりと広がっていった。夜が更けて、窓辺の大きな木をそよ風が揺らし、ささやくような音を立てていた。瑠璃はベッドに横たわっていたが、まったく眠気はなかった。それでも、目を閉じて、眠っているふりをしていた。今夜は彼女と隼人の新婚初夜だった。彼が今どんな気持ちでいるのか、彼女には分からない。だが彼と肌を重ねることだけは、どうしても避けたかった。しばらくすると、バスルームから水の音が止み、隼人が静かに出てくる足音が聞こえてきた。まるで彼女を起こさないようにと、意図的に足音を抑えているようだった。やがてベッドの片側がわずかに沈み、隼人がそこに横たわったのが分かった。彼の体温と気配が、じわじわと瑠璃の側に近づいてきた。瑠璃の心臓がわずかに早く鼓動し、毛布の下にある手が静かに強ばっていく。彼がまさか、そんなつもりじゃ……そう思った矢先、頬にふわりとあたたかな吐息が触れた。キスされるかもしれない――その不安に駆られ、瑠璃は一気に目を開けた。その瞬間、彼女の瞳は深く静かな目とぶつかった。「起こしてしまったか?」男の低くて優しい声が耳元でささやいた。瑠璃は口角を少し引き上げた。「ううん」「それならよかった」隼人は穏やかに微笑み、長くしなやかな指で彼女の頬に触れ、その美しい顔がゆっくりと近づいてきた。そして、彼の唇は彼女の口元にそっと触れた。瑠璃は彼を押しのけた。「隼人……私、妊娠してるのよ。あんまり無理はできないわ」隼人は顔を上げて彼女を見つめ、その目に探るような光を
だが、この結婚式は心からのものではなかったとはいえ、瑠璃は今日、君秋がフラワーボイとして来てくれたことが嬉しかった。そして人混みの中には、夏美と賢の姿もあり、彼らが式に出席してくれたことで、ある意味、両親からの承認を得られたとも言えた。しかし、隼人の母は当然ながら不満げだった。隼人の母と親しい上流階級の婦人が祝福にやってきた。「目黒夫人、今回の新しいお嫁さんは本当にすごい方ね。お金もあって、有能で、それにあんなに綺麗だなんて。きっと今回はご満足でしょう?」「お金があって何?うちにお金が足りないとでも?綺麗な女なんてこの世に山ほどいるわよ。あの子なんて大したことないわ!」隼人の母は軽蔑したように、ちょうど招待客にお酒を注いでいた瑠璃に目を向けて白い目を向け、そっぽを向いた。そして夏美と賢の姿を見つけると、急いで近づき親しげに話しかけた。「碓氷さん、碓氷夫人、まさかあの四宮蛍が偽者だったなんて、私もすっかり信じ込んでいたのよ。結果として騙されて、ほんとに腹立たしいわ」隼人の母は憤慨した表情でそう語りながら、さりげなく自分との関係を切り離した。夏美は困ったようにため息をついた。「実の娘を見つけたと思っていたのに……目黒家と親戚になるかもしれないと期待していたけど、まさかこんなことになるなんて」隼人の母はすぐに同調した。「誰が想像できたかしら、あの四宮家の連中があんなにひどいなんて。隼人の子供を産んだという一点だけが唯一の考慮だったのよ。それがなければとっくに詐欺で訴えてたわ!」彼女は憤りを込めてそう言い放ち、さらに残念そうな顔をして続けた。「碓氷家は景都でも有名な名門だから、もし親戚関係になれていたら、それはもう素晴らしいご縁でしたのにね。残念ながらお嬢さんが今も見つからないだなんて……もっと早く見つかっていれば、隼人と何か進展があったかもしれないし、こんな女にチャンスを与えることもなかったでしょうに!」そう言いながら、隼人の母は不機嫌そうに瑠璃に睨みを利かせた。夏美もその視線を追い、純白のドレスをまとい、まるで絵のように美しい瑠璃の姿を目にして、胸の奥がなぜかきゅっと痛んだ。「実は……ヴィオラも、そんなに悪い子ではないのよ」「碓氷夫人、ご存じないでしょうけど、この女はね、隼人の元妻である瑠璃に比べて、悪さでは上