Mag-log inとわこは今夜、ただの口実で彼に会いに来たのではない。本当に彼の再検査結果に問題があると確信していた。車で病院へ戻る道中、とわこの胸がぎゅっと痛む。昼に放射線科で奏のCTを頼み込み、医師は黒い手帳を取り出した。奏がゴミ箱に捨てたものだと言う。さっき渡した薬も、きっと彼は捨ててしまっているだろう。車内の音楽を流す。旋律が流れる間だけ、気が紛れる。赤信号で停まると、低く甘い男性の声が耳元で歌うように響く。「いっしょに傘を差して雨の中を歩こう。静かに手をつないで過ごす。あなたは傘を投げ出し、風と雨と私を抱きしめる。君が君であるからこそ、ぼくはぼくでいられる 互いが互いの欠片になる」風も雨も共にしたいと思ったのに、彼は別の女性の手を取る。歌で痛みを紛らわせようとしたが、一曲も終わらないうちに涙があふれて崩れる。信号が変わる。とわこはアクセルを踏み込んで発進する。ビデオ通話の着信音が鳴り、蓮からだと分かると路肩に車を停めて音楽を止める。ティッシュで頬の涙を拭い 気持ちを整える。画面に息子の顔が映ると、とわこの口元が少し上がる。「蓮、レラは帰ってきた?」「うん」蓮は母の目の赤さに気づく。表面は笑っているが泣いた跡があるのを見て心が重くなる。そんな母の姿に、蓮の胸は重苦しく、言いようのない感覚に押しつぶされそうだった。蓮は携帯をレラに渡し そっと離れる。「ママ、つまんない」レラは起きたばかりで不機嫌だ。「久しぶりに会えたのに」「今会ってるでしょ ママは毎日でもビデオかけるよ」とわこはなだめる。「おばさんには会えた?」「会ったよ。一郎おじさんに迎えられて行っちゃった」レラはため息をつく。「ママいつ帰ってくるの?パパに新しい奥さんができたならパパなんていらないって言えばいいのに。一度や二度の過ちは許せるけど、今回で何回目よ、五回六回七回八回」「レラ、パパのことについてはちょっと複雑で、ママもすぐにはうまく説明できないの」とわこは優しい声で言った。「ママが帰ったら、ゆっくり話すね」「そう……弟はもう走れるようになったよ。走る姿がアヒルみたいで、見てられないくらい可愛いんだから」レラは眉をひそめてつぶやいた。「私もお兄ちゃんも楽しくなかったよ。弟だけが毎日、バカみたいにニコニコしてるんだから」とわこは言葉に
奏はとわこを連れて彼女の車のそばまで来る。「ドアを開けろ!」彼は怒鳴った。「あなたの再検査の結果、あまり良くなかったわ。副院長のところに行かなかったでしょう?」彼女はもう一度薬を差し出し、彼よりも強い口調で言う。「絶対にタバコもお酒もダメ。あの高橋家の長男がどんな立場でも、あなたの体を犠牲にするなんて許さない!」「ドアを開けろと言ってる!」彼は声を荒げ、握り締めた拳を突然車体に叩きつけた。ドン、と鈍い音が響く。彼女はびくりと肩をすくめた。「わかった!すぐ行くから!」彼の全身から放たれる圧倒的な気迫に、彼女は息が詰まりそうになる。薬を彼の胸に押し込み、そのまま彼の体を軽く突き放した。ドアを開け、乗り込む前に振り返る。「奏、私はいつまでもあなたに執着するつもりはない。心配なのは、あなたが記憶を取り戻したあとで後悔することだけ。もしいつか記憶が戻って、今の生活こそが自分の望んだものだって思うなら、その時は私、去るわ」喉に刺が刺さったような思いでそう言い終えると、彼女は車に乗り込み、ドアを閉めた。車が視界から消えるのを見届けた後、彼は彼女が押し付けた薬を手に取り、隣のゴミ箱に投げ捨てた。今日の撮影が終わったあと、医者は「回復は順調だ」と言っていた。彼は医者の言葉を信じていた。彼は大股で前庭を進み、別荘に入る。真帆がスマホで通話していた。彼が入ってくると、真帆は電話の相手に丁寧な言葉をかけてから通話を切った。「奏、さっき副院長に電話して、再検査のことを聞いたの。今日検査は受けたけど、副院長のところには行かなかったって言ってたわ」真帆は心配そうに眉を寄せる。「放射線科の医師によると、映像では問題なかったみたい。でもとわこが『結果が悪かった』と言っていたから、今、彼がフィルムを確認してるの」真帆の言葉を聞き終えると、大貴が横で笑った。「真帆、お前、そんなに俺のことを心配したことはないよな」「だって違うもの。お兄ちゃんのことはみんなが気にかけてるけど、今、奏のことを気にしてるのは私だけなんだから」真帆は兄の前に歩み寄り、軽く甘えるように言った。「お兄ちゃん、今回どのくらい滞在するの?」「父さんに呼ばれたんだ。帰れなんて言われてない」大貴はそう言いながら、奏に視線を向けた。「奏、お前は俺の妹と結婚したんだ。今
「さっき言わなかったかしら?午後にプレゼントを買いに出かけて、まだ帰ってきていないって」家政婦はとわこを睨みつけるように言う。「あなたほど図々しくて恥知らずな女は見たことがないわ。常盤さんはもうあなたを求めていないのよ。それでもここに来るなんて」とわこは唇を引き結び、袋を強く握る。「さっさと帰って。でないとそのうちこの家の長男様が来たら、あなたに優しく説明なんてしないわよ。場合によってはその場で殺されるかもしれないから」家政婦は冷たく言い放し、敷地の中へ戻っていく。長男?高橋家の長男?とわこが剛に関する情報を得たのは三郎からだ。三郎は剛が今大きなトラブルに巻き込まれているとだけ伝え、家族構成までは言わなかった。だから家政婦の言う「長男」が誰なのか、とわこには分からない。とわこはボディーガードに、無駄に命を捨てないと約束している。ここに来たのは自分の死に場所を探すためではない。奏に薬を渡すためだ。彼女は昼に放射線科で粘り強く頼んで、奏の今日の再検査のCT画像を手に入れている。画像を丁寧に確認した結果、小さな異常を見つけた。門の前に立ってからしばらくして、二台の高級車が遠くからやって来る。その瞬間、向こうの車の一台が故意にハイビームをつけ、とわこに照射する。強烈な光でとわこはとっさに手を上げて目を遮る。「この女は誰だ」助手席に座る高橋家の長男、高橋大貴が振り向いて妹に尋ねる。さっきのハイビームは彼が運転手に指示したものだ。真帆は眉を寄せて不機嫌そうに言う。「奏の日本の妻よ。でも式だけで婚姻届けは出していないって聞いてる」「三千院とわこか」「そうよ。どうやってここを見つけたのかしら。嫌な女ね」真帆は小声で呟く。大貴の目に不快の色が浮かび、奏に向き直る。「奏、うちの妹は高橋家の目に入れても痛くない子なんだ。もし妹が困らされたら……」「お兄ちゃん、奏は私に酷いことはしてないよ。前にとわこが来たとき、奏は突き放したの。あの女がしつこくまとわりついただけ。奏は何度もはっきりさせているんだよ」真帆が慌てて説明する。「それなら、降りてぶっ殺してくる」大貴が言い終わると、運転手は車をとわこの前に停める。張り詰めた空気が広がる。真帆は奏の顔を見る。奏の表情は冷たく曇り、真帆は慌てて兄を制する。「お
運転手は奏を別荘まで送り届けた。車が静かに停まると、奏はドアを開けて外に出る。玄関から、真帆が真っ赤なロングドレス姿で軽やかに現れた。「奏、検査の結果はどうだったの?」奏は穏やかに答える。「問題ない。医者からは、少し休養を取るよう言われただけだ」真帆は彼の腕にそっと手を添え、一緒にリビングへ向かう。「だったら、しばらく無理しないでね。もしお義父さんに言いづらいなら、私が代わりに言うから。お義父さんは仕事のことしか頭にないのよ。あなたの体のこと、まったく気にしてくれない。私にとっては、何よりあなたが一番大事なんだから」「真帆、今日はずいぶん華やかだな」奏は彼女の言葉を聞きながら、話題を変えるように視線を滑らせた。真帆は嬉しそうに笑う。「だって今夜はね、特別なゲストが来るの。ふふ、誰かは内緒。夜になればわかるわ」奏は軽くうなずく。「もうすぐ誕生日だろう。欲しいものはあるか?」真帆は頬を赤らめて、恥ずかしそうに笑った。「自分から欲しいなんて言えないよ。あなたがくれるなら、何でも嬉しい。何をくれても、大切にするから」彼女の一言一言が、奏の胸に穏やかに沁みていく。とわこが口を開くたびに、頭痛が始まる。理屈では真帆のように穏やかで思いやりのある女性を選ぶべきだと分かっているのに、心がそれに逆らっていた。「真帆、買い物にでも行くか?午後は君へのプレゼントを見に行こう」その提案に真帆の顔がぱっと明るくなり、つま先立ちになって奏の頬に軽くキスをした。「ありがとう、あなた。そういえば朝ごはん抜きだったでしょ?きっとお腹空いてるよね。あなたの好きな料理とスープを作ったの。食べてみて」「うん」時間が流れ、夕方になった。とわこは食事を済ませると、車を運転して奏と真帆の住む別荘へ向かった。彼らの家の前に直接車を停める勇気はなく、塀の脇に静かに駐車する。袋を手に取り、深く息を吸い込んでから車を降りた。門の前に立ち、鉄の柵の隙間から中を覗く。夕焼けの光を受け、左手の庭には色とりどりの花や木々、右手には小さな人工の滝と池がある。静かで、まるで別世界のように穏やかな空気が流れている。まだ陽は落ちきっていないが、庭の照明はすでに灯されていた。玄関の扉は閉ざされ、窓の向こうに明かりが見えるものの、中の様子ま
黒いビュイックが彼らの斜め後ろを、距離を保ちながらついてくる。奏は前方の道路状況を確認し、静かに言った。「人の少ないところで止めろ」「了解です」運転手はすぐにアクセルを踏み、車を人気のない脇道へと入れていった。後ろの車もそのまま曲がってくる。ところが、角を曲がった瞬間、奏の車が道端に停まっているのが見えた。ボディーガードは思わず悪態をつきながら、急ブレーキを踏み込む。奏が車を降り、大股でボディーガードの車のもとへ歩み寄る。ボディーガードは舌打ちしながら、しぶしぶ窓を下げた。その顔を見た奏の目に、一瞬だけ驚きと納得が混じった光が宿る。普通の人間なら、こんなあからさまな尾行はしない。「とわこに命じられたのか?」奏の声は冷たく、刺すようだった。ボディーガードは肩をすくめて言う。「そうっすよ。社長の命令がなきゃ、わざわざあなたを追うわけないでしょ?家で寝てた方がよっぽど幸せですよ。だから、俺に当たらないでくださいよ。こっちもただの社畜なんです」奏の顎の筋肉がぴくりと動く。「彼女は、俺を尾行して何をしたい?」「住所を知りたいそうです」ボディーガードは正直に答えた。「奏さん、家の住所を教えてくれませんか?そうしたら今日の任務、さっさと終われるんです。社長が言ってたんすよ、家を突き止めるまで一日中つけろって。……一日中後ろにいられても困るでしょ?」奏の瞳が冷たい光を宿す。低い声で、威圧的に言い放った。「とわこが死にたいなら勝手にすればいいが、お前も死にたいのか?」ボディーガードは慌てて両手を振る。「死ぬのは勘弁してください!怒るなら社長に怒ってください。俺はただの使いっ走りです!それに、社長があなたの住所を知りたいのは、別に邪魔したいからじゃないっすよ……もしかしたら、あなたが誰かに殺された時に、せめて遺体を引き取れるようにって考えてるのかもしれません」奏の眉がぴくりと動いた。この男、今まともなことを言ったのか?自分は生きているというのに、なぜ死を前提に話をする?「社長は高橋さんの状況がかなり危険だってもう知っています」ボディーガードはさらに言葉を続けた。「危険だと分かっているなら、なぜ彼女を日本に連れ戻さない?」「俺だってそうしたいですけど、聞かないんですよ!昔っから頑固なんです。正直、あな
秘密というより、むしろプライベートな情報だ。とわこは、自分のすべてのアカウントとパスワードを、そのノートに書き残していた。だが、奏には覗き見る趣味などない。他人の秘密を暴くことに、何の興味もなかった。ページを一枚めくると、そこに、一枚の写真が貼られていた。それは、かつて二人が仲睦まじく笑っている写真。彼がカメラの前で彼女の頬にキスをしている一瞬を切り取ったものだった。胸が大きく波打ち、鼓動が乱れる。体温がじわりと上がっていく。慌てるようにページをめくっていくと、どのページにも、彼女とのツーショットが貼られていた。リビング、ダイニング、寝室、レストラン、街角、海辺。だが奏は、ひとつひとつを見ようとしなかった。過去を思い出すこと自体が、もう無意味だと思った。自分の過去は「失敗」として終わったのだと、心のどこかで決めつけていた。パタン、黒い手帳が、無造作にゴミ箱へと放り込まれた。「奏さん、CTの結果が出ました」放射線科の医師が、紙のレポートを差し出す。「回復は順調です。ただ、無理は禁物です。頭を酷使したり、激しい運動は避けて、できるだけ休養を」「ありがとう」奏は受け取りながらも、視線はゴミ箱から離れなかった。医師は不思議そうに首を傾げる。「副院長に見せに行かなくていいんですか?」「あとで行く」「何かありましたか?」「いや、ない。仕事に戻ってくれ」医師は頭を掻きながら、CT室へと戻っていった。ドアが閉まるやいなや、奏は即座にゴミ箱へ歩み寄り、あの黒いノートを拾い上げた。最初のページを破り取り、ノート本体を再びゴミ箱に戻す。写真も記録も、もう見たくなかった。だが、彼女のプライベートを他人に晒すことだけは、許せなかった。破り取った一枚の紙を丁寧に折りたたみ、胸ポケットにしまい込む。病院を出ると、運転手がすぐにドアを開けた。車は静かに発進する。その頃、駐車場の一角、とわこのボディーガードが、吸いかけの煙草をアスファルトに落とし、靴で踏み消した。今日の任務は奏の尾行。できれば奏の住まいを突き止める。無理なら、一日の行動と接触相手を報告する。あまりに危険で、気が重い任務だ。朝、その指令を聞いたとき、彼はすぐに首を横に振った。だが、とわこが黙って帰国チケットを







