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第816話

作者: 夏目八月
さくらは、彼女がなんと特異な少女かと感じた。あのような環境で育ちながら、一日一日を精一杯生きることだけを考え、できる限り自分を卑下することなく生きている。

父親に対して、愛でも憎しみでもなく、ただ嫌悪感だけを抱いている。

「上原様」青影は尋ねた。「首を斬られた後、引き取り手がいない場合、遺体はどうなるのでしょう?晒し者にされるのですか?」

「引き取り手のない場合は、簡単な土葬となります。ただし、謀反の首謀者であれば、晒し者にされることもありますが」とさくらは答えた。

「へぇ」と一言呟いただけで、青影はそれ以上何も訊かなかった。湛輝親王の元に戻ると「出かける時、栗きんとんが少し残っていましたね。戻って食べましょう。置いておくと美味しくなくなってしまいます」

「見ていかないのか?」湛輝親王が尋ねた。

「血は苦手ですから、やめておきます」青影は言った。

寵愛する青影に、湛輝親王は「では帰るとしようか。明日は湖に遊びに行こう」と言った。

青影は肩掛けを身に纏いながら「こんな寒い日に湖なんて。家で炉を囲んでお茶を飲み、羊肉でも焼いた方が良いではありませんか」

「気晴らしに連れて行ってやろうというのに、この子ときたら恩を知らんな」親王は笑いながら玄武に向かって言った。「はあ、仕方がない。わしは一生、女に振り回されっぱなしよ。年を取った今でもこの調子だ」

玄武は、ここは刑場なのだから、もう少し厳かな雰囲気を保ってほしいと思ったが、湛輝親王の機嫌の良さを損ねたくもなく「私も同じです。一生、女性に尻に敷かれる運命のようです」と答えた。

湛輝親王は玄武の肩を叩いた。「では、邪魔はせんぞ。首でも斬って来い。青影と帰るとしよう」

「......」影森は呆れながら刑場の東海林を指差し「斬るのはあちらの首です」

「そりゃそうだ」湛輝親王は笑みを浮かべながら、青影を連れて立ち去った。

午の刻となり、東海林の断末魔の曲が響き渡る。玄武の手から令牌が落ちるのと同時に、首切り役人が大刀を振り上げた。

真昼の陽光が刃に反射し、一瞬、血に濡れたかのような赤い輝きを放った。

しかし、よく見れば、それは役人の腰の赤い帯が映り込んだだけのことだった。

大刀が振り上げられた瞬間、東海林の胸中で恐怖が爆ぜ、頭の中が轟音と共に真っ白になり、気を失った。

役人が背中の囚人札を外し、刃
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    さくらの心臓が喉まで飛び上がる。北條守が駆け出そうとした瞬間、紫乃が彼の膝を蹴り飛ばした。「刺激するんじゃないわ!」守が片膝をつくと、紫乃は彼の頭を押さえつけながら、美奈子に向かって叫んだ。「ほら、謝罪してるわ!何か不満があるなら、全部言って!怒鳴ってもいいわ!」「無駄よ!」美奈子は号泣しながら告発するように叫んだ。「もう遅いの!すぐに離縁されるわ。実家もない、お金もない。持参金も装飾品も全部売り払ってしまった。離縁されたら、私、飢え死にするしかないの。それなら、今ここで死んだ方がまし......」「そんな馬鹿なことを......お子のことを考えて」さくらは紫乃に目配せし、北條守を押さえつけて黙らせるよう促した。「叩かれたって言ったわよね。どうしてそんなことを?話してみて。私が必ず守るから」話しかけながら、さくらは気づかれないように一歩前に進んだ。この調子でいけば、美奈子が飛び降りるより早く飛びつくことはできるはず。だが、もし一度飛び降りてしまったら、この荒れ狂う川の中から救い出す自信はなかった。「お金がないの......」美奈子は絶望的な声で泣きながら言った。「私のすることは何もかも間違い。雪心丸が買えないのも私の過ち、参膠丸が買えないのも私の過ち。家計を維持しようとしても、親房夕美は三割しかくれない。あの方の屋敷にはあれほど大勢の人がいて、葉月琴音までいるのに。使用人を減らそうと言えば、体面が......将軍家の面目が......って。でも誰が維持するの?葉月琴音を迎えるために売れる財産は全部売り払って、親房夕美を迎えるために皆で金を出し合って、北條涼子の持参金にもあれだけの金を使って......家政を任されても、何を切り盛りすればいいの?お金もないのに、どうやって家を切り盛りすれば......」その時、三頭の馬が疾走して到着した。北條義久と北條正樹、そして三男の北條森だった。北條正樹は馬から降りるなり怒鳴り散らした。「何を狂っているんだ!死ぬ気があるなら飛び降りろ!ここで恥を晒すな!」さくらは振り返って紫乃に目配せした。紫乃は即座に北條正樹の頬を平手打ちし、彼を地面に叩きつけた。地面に倒れながらも、北條正樹は怒鳴り続けた。「恥を知れ!お前の身分で何様のつもりだ?本当に死ぬ気があったら、とっくに飛び降りているはずだ。何を脅

  • 桜華、戦場に舞う   第842話

    禁衛府の役人の一人が松明を探しに走る中、紫乃は美奈子が目を閉じるのを見て慌てた。極度の疲労と寒さで全身を震わせている様子に、思わず叫んだ。「美奈子さん、眠っちゃだめ!さくらに会いたいんでしょう?今すぐ来るから、目を開けていて!」美奈子は目を開き、下の荒れ狂う川面を見つめた。生来の臆病な性格は今も変わらず、恐怖を感じていた。それでも、この場所は将軍家にいるよりもましだと感じていた。ここから飛び降りれば、すべてが終わる。どうしてここに来たのか、もう思い出せない。頭は麻痺したように、寒さ以外の感覚が失われていた。懐には質札が一枚。さくらにそれを返したかった。謝罪の言葉と、感謝の言葉を伝えたかった。謝罪は、かつて北條守が離縁を望んだ時、自分が鶉のように怯え、一言も発することができなかったこと。感謝は、さくらが将軍家にいた頃、心から親切にしてくれたこと。質に入れた装飾品を取り戻す機会は、もう自分にはない。さくらに請け出してもらえればと思う。元々は彼女の物だったのだから。ただ、お金は使ってしまった。許してほしい。風を切って馬蹄の音が橋へと近づいてきた。さくらが真っ先に到着する。紫乃が飛び出して止めると、さくらは急いで手綱を引き、馬から飛び降りた。すでに辺りは暗く、二人の禁衛府の役人が松明を掲げていたが、美奈子のいる場所まで光は届かない。更なる松明を求める声が上がった。さくらは美奈子の姿をかろうじて見分けた。闇の中のその姿は一層痩せて見え、まるで支柱に立てられた一本の棹のよう。寒風に翻る袿袴は、柱に掲げられた旗のように揺れていた。「姉さん、私よ、さくら」かつての義姉に対して、特に今このような状況で、ただ「美奈子」とだけ呼ぶことはできなかった。そもそも今の美奈子には、その名を呼ぶことさえ抵抗があった。風にはためいていた袿袴が体に寄り添うように収まり、美奈子は言葉を発さず、ただ声を上げて泣き始めた。ここまで涙一つ見せなかった彼女が、さくらの声を聞いて初めて泣き崩れたのだ。北條守の馬も到着し、彼は馬から飛び降りるなり駆け寄ろうとした。「美奈子さん、いったい何を!」「近づかないで!」美奈子の悲鳴が響き、足を滑らせて危うく転落しそうになった。誰かが悲鳴を上げ、見ている者全員の心臓が止まりそうになった。守はすぐに足を止めた。

  • 桜華、戦場に舞う   第841話

    さくらの表情が明るくなった。「見つかったの?どこで?」山田は膝に手をつき、大きく息を吐きながら答えた。「三途橋です。急いでください。飛び降りようとしています。私どもでは説得できず、強引な救助も危険です。美奈子さんは上原殿にしかお会いになりたくないとおっしゃって......風が強くて、もう立っているのも危うい状態です」「えっ?」北條守は驚愕の表情を浮かべ、呆然と尋ねた。「なぜ飛び降りなどと......」さくらは即座に走り出し、大声で叫んだ。「馬を!」三途橋は京の西北に位置し、その下には荒々しい流れの玄水川が流れている。この辺りの玄水川は、上流が広く下流が狭い地形に加え、急な傾斜があるため、水流が特に激しい。三途橋から落ちれば、生還はほぼ不可能とされていた。元々は第二玄水橋と呼ばれていたが、そうした事情から、人々の間では玄水橋の別名として「三途橋」とも呼ばれるようになっていた。北條守は一瞬の戸惑いの後、山田に将軍家へ兄上への報告を頼み、自身も馬を走らせて三途橋へと向かった。紫乃はすでに現場へ向かっていた。道中で山田と出くわし、美奈子が三途橋で発見され、投身を図ろうとしているという話を聞いていたのだ。紫乃が三途橋に到着した時、太陽はちょうど沈みかけ、空の端には橙色の名残りだけが残されていた。夕暮れ時の三途橋は格別な美しさを湛えるものだった。寒風に吹かれる孤独な橋と、轟々と流れる川の風景。だが、今は橋の上で今にも落ちそうな人影が揺れており、その美しさなど微塵も感じられず、ただ背筋の凍る光景が広がっていた紫乃は現場を目にした瞬間、血の気が引いた。美奈子の立っている場所があまりにも危険だったのだ。欄干の支柱の上という、両足を置くのがやっとという狭い場所に立っていた。強風が吹き荒れ、美奈子は正気を失いかけているようだった。身体を震わせ、よろめきながら、着ていた袿袴が風にはためき、今にも転落しそうな様子だった。三途橋の両側から人々は退けられていたものの、遠巻きに大勢の見物人が集まっていた。数名の禁衛府の役人たちが降りてくるよう呼びかけていたが、近づくことができずにいた。声が嗄れているところを見ると、かなりの時間説得を続けていたのだろう。「近寄らないで!」美奈子は紫乃の姿を認めるや否や、彼女が駆け寄ろうとする素振りを見せた途

  • 桜華、戦場に舞う   第840話

    薬王堂の丁稚は美奈子とよく話をする仲で、昨日の様子を詳しく話してくれた。丁稚の推測では、「きっと装飾品を質に入れてこられたのでしょう。ぼんやりとした様子で、手に質札を握りしめていました。ちらっと見たところ、万宝質店のものでした。来るなり参膠丸を七、八個欲しいとおっしゃるので、二個で十分だとお勧めしました。一個は出産時用、もう一個は産後用で、それ以外の時期に服用する必要はないと」「泣いた後だったのは確かですか?」「間違いありません。入ってこられた時、まだ涙が乾ききっていませんでした」「分かりました。ありがとうございます」さくらはこれ以上詳しく聞かず、紫乃を連れて万宝質店へ向かった。官服姿のさくらが昨日の将軍家大奥様の質物について尋ねると、質屋の主人は質に入れられた品を取り出してきた。さくらが一目見ると、以前自分が美奈子に贈ったものだと分かった。「絶対に請け出すとおっしゃっていました。永代質ではないそうです」質屋の主人がさくらに告げた。つまり、質に入れた時点では、まだ希望を持っていた。装飾品は必ず請け出せると思っていた。その後、家に戻って叱責され、平手打ちを食らい、さらには離縁という言葉まで出た後で、家を出たということになる。美奈子は臆病で暗がりを怖がる性質だ。真夜中に家を出たということは、よほどの衝撃を受けていたに違いない。本当に何か良くないことを考えているかもしれない。しかし、一体どこへ行ったのだろう。広大な京都で、しかも届け出も出ていないため、禁衛府や御城番を総動員して探すこともできない。さくらは実家の屋敷にも人を遣わしたが、すぐに戻ってきた使いの者は、門の錠が錆びついていて、誰も訪れた形跡がないと報告した。城門でも確認したが、今朝早く、女性が一人で出城した様子はないという。つまり、美奈子はまだ都の中にいるはずだ。徒歩で移動している以上、そう遠くまでは行けないはず。まだ都のどこかを歩いているか、路地で寒さを凌いでいるのなら、見つけられるはずなのだが。しかし、山田や親王家の者たちが手分けして探し回り、大小の宿屋という宿屋を探し尽くしても見つからない。将軍家にも内密に確認したが、戻ってはいないという。日が西に傾き、風が強まってきた。夜になればさらに寒くなる。もう構っていられない。さらに多くの人手を出して探すことにした

  • 桜華、戦場に舞う   第839話

    第二老夫人は溜息をついた。「私も最初は知りませんでした。今は長男家のことには極力関わらないようにしています。本当は分家して出て行きたいのですが、外聞が悪い、北條家の不和を取り沙汰されるのも困るので、思いとどまっているのです。最近、将軍家は色々と揉め事が多くて。親房夕美は妊娠してから名目上は家政を取り仕切っているものの、実際は美奈子さんが采配を振るっています。ただ、お金を使う時は必ず夕美に伺いを立てなければならない。この頃は長男家老夫人の容態が安定せず、美奈子さんが付きっきりで看病していますが、あの方の性格はご存知の通り。美奈子さんを見下して、何をしても気に入らないという始末です」「美奈子さんの立場は想像できます」さくらは頷いた。「今朝、美奈子さんの姿が見えなくなって、将軍家中を探し回ったそうです。私のところにまで来て、私が匿っているに違いないと言い張るので。いくら居ないと言っても信じず、私が怒鳴りつけてようやく引き下がりました。後で事情を聞いたところ、美奈子さんは夕美と言い争いになったとか。家政のことで、夕美は美奈子さんに家政を任せると言いながら、北條守の俸禄は三割しか渡さないと言い出して。口論になった末、夕美は美奈子さんに『私を殺す気か』と大声で騒ぎ立て、はては鋏まで持ち出して、『ここを刺せ』と自分の腹を指したそうです......」第二老夫人は、美奈子が老夫人と北條正樹から平手打ちを食らい、離縁すると脅されたことまで含めて、知っている限りの状況をさくらと紫乃に話した。「これを聞いて、私も心配になりました。でも彼らは誰も探しに出そうとしない。老夫人は『どこにも行けやしない。ただの八つ当たりで、戻ってきたらまた懲らしめてやる』と言うばかり。でも、これまで美奈子さんがこんなことをしたことは一度もない。何か起きるのではと心配で、私から人を出して探させているのです」「何という仕打ち。将軍家の横暴も甚だしいわ」紫乃は机を叩きながら怒りを露わにした。「こんなにも惨めな暮らしを強いられているなんて」さくらも眉をひそめた。「ええ、本当に惨めなものです。以前は病気を装って家事を避けるよう勧めたこともありましたが、それも長くは続きませんでした。嫁いできた当初は老夫人も元気で、家政を任せる気なんてなかった。その後はあなたが来てくれたおかげで、何も心配することは

  • 桜華、戦場に舞う   第838話

    さくらは、かつて一年間義理の姉妹として過ごした美奈子のことを思い出していた。臆病で気の弱い性格で、将軍家では一番いじめやすい存在だった。今の将軍家の状況は、ある程度把握している。北條家老夫人の病状は一向に良くならず、親房夕美は身重で看病はできない。葉月琴音に至っては論外で、今は安寧館に引きこもったまま。となると、看病できるのは美奈子しかいない。以前、自分が将軍家にいた時は、自分が看病していた。老夫人は気難しかったものの、自分には大きな持参金があったため、あまり無理は言ってこなかった。でも美奈子は違う。「何か辛い目に遭ったのかもしれないわね」さくらは言った。「辛い目に遭ったのは間違いないわ。問題は、どれほど辛かったのかしら。真夜中に家を飛び出すほどだったなんて」紫乃は言った。「梅田ばあやの話じゃ、将軍府で耐えられなくなっても、他に生きる道はないんですって。有田先生はもう捜索の人を出したわ。私も紅竹に将軍家の様子を探りに行かせたの。奥方様がいなくなって、さすがに向こうも焦っているんじゃないかしら」「そうね。美奈子さんを大切にしているわけじゃないけど、今は彼女がいないと困るはずよ」さくらは言ったが、心の中では何か不安が渦巻いていた。なぜ美奈子は太政大臣家の門前に座っていたのだろう。自分を探すなら、親王家に来るはずなのに。食欲はなかったが、さくらは紫乃と昼食を共にした。紫乃は朝食を抜いていたせいか、たくさん食べていた。しばらくすると、紅竹が戻ってきた。「将軍家からは誰も探しに出ていません。でも次男家の老夫人が側仕えの者たちを出して、様子を探らせているそうです」さくらは北條次男家の老夫人がもう長男家の事には関わっていないことを知っていた。それなのに人を出して探させているということは、何かあったに違いない。少し考えてから、さくらは命じた。「紅竹、北條次男家の人たちを探して、見つかったら伝言を頼めるかしら。次男家の老夫人様を都景楼にお招きして、紫乃がお茶に誘っているって。見つからなければそれでいいわ。絶対に将軍家には行かないでね」「承知しました」紅竹はお茶を一口飲むと、すぐに立ち上がって外へ向かった。「じゃあ、私たちも都景楼で待ち合わせましょうか?」紫乃が言った。「ええ、都景楼の個室には寝椅子があるから、横になりながら待

  • 桜華、戦場に舞う   第837話

    「師匠は北條家の老夫人の治療は断っていますが、雪心丸を服用なさっているので、美奈子様が薬を買いに来られる度に、店の者に様子を伺うよう言いつけているのです」紅雀は説明を続けた。「美奈子様も店の者と親しくなって、時々愚痴をこぼされるようになりました。昨日は何も話されませんでしたが、泣いた後のようでした。以前は、屋敷の大小の用事は全て自分が取り仕切り、お姑様の世話もしなければならず、会計は親房夕美が握っていて、わずかな金しか回してくれない。支払いができないと、自分の持ち物を売ったり質に入れたりする、といった具合に。とにかく、かなり息苦しい暮らしをなさっているようです」梅田ばあやの部屋に着くと、福田もまだ居て、二人は旧交を温めながら、お珠が傍らで付き添っていた。梅田ばあやは顔色が優れず、美奈子の話を聞くと、溜息をついた。「あの方は柔弱すぎる。自分の考えもはっきりせず、自分を立て直すこともできない。実家のことは言い難いが、父親は地方で小役人をしている。左遷と言っても同じこと。将軍家も大したことはないが、実家はもっと頼りにならない。実の父親でも、継母がいれば継父同然になるもの。だから、将軍家での暮らしがどれほど辛くても、耐えていくしかない。子供もいることだし」「そう聞くと、辛い目に慣れた方なのね」紫乃が言った。「辛さに慣れるも慣れないもないよ」ばあやは言った。「『耐える』という言葉を使わねばならないような事は、いつか必ず耐えられなくなる時が来る。将軍家で何があったのかは知らないが、もしあの方が将軍家で生きていけないとなれば、死ぬしかない。他に道はない。実家を頼ることもできないのだから」梅田ばあや再び溜息をつき、続けた。「だからこそ、あの時、さくらお嬢様のところへ助けを求めて来られた。老夫人の雪心丸が買えなければ離縁すると言われて。お嬢様もその立場を憐れんで、薬王堂で跪かせることにした。まずは孝行の名を得させて、将軍家も簡単には離縁できないようにと」「実は、私もあの方のような人をよく見てきました」紅雀が言葉を継いだ。「耐えている時は誰よりも耐え忍び、どんな辛さも飲み込める。でも、一度耐えられなくなると、誰よりも極端な行動に出てしまうのです」「太政大臣家の門前に座り込んでいたということは、行き場を失ったということでしょうか」福田は言った。「このまま放って

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