入門の宴を終え、屋敷に戻った紫乃は、さくらに打ち明けた。「まるで茶番劇を演じているような気分だわ。私自身、弟子としても未熟なのに、もう師になるなんて。しかも年上で、玄甲軍の精鋭たち。もし私の指導が不十分だったら、あなたに迷惑がかかってしまうんじゃないかしら」さくらは紫乃の手を取り、玄武を先に屋敷へ戻らせると、二人で花園を散策し始めた。「無理だと感じるなら、入門の儀など無かったことにしても構わないわ。これまで通り『先生』として接すれば良いの。指導の出来不出来なんて気にすることないわ。師匠は門を示すだけ。修行は本人次第。あなたには十分な腕前があるし、威厳だって保てる。もし上達できないのなら、それは彼らの才覚の問題。あなたの責任ではないわ」「ただね、彼らは朝廷の官人なの。武芸界の作法で教えるのは、少し不適切かもしれないって」「玄甲軍の強化は陛下の望むところよ。玄甲軍と京の駐軍は皇城の守りなのだから」「そんなに重要なのに、あなたに任せるなんて、随分と大胆ね」紫乃が呟く。「今、謀反を企てる者の正体が掴めていないから。でも陛下は、その者が北冥親王家の者ではないと知っているの......」さくらはそれ以上の説明を控えた。以前話した通りだ。「つまり、私たちを使って黒幕を炙り出すか、もし反乱が起きた時は、敵を討ち陛下をお守りするか、というところね」「飛鳥尽きなば、良弓も収められるというわけね」紫乃は淡々と言った。さくらは言った。「飛鳥が姿を消すのは、世が平らかになった証。私たちは権勢など望まないわ。その時が来たら、弟子たちを連れて梅月山に戻りましょう。何不自由のない日々が待っているはず」「そうね、やっぱり梅月山が一番」紫乃は梅月山での憂いのない日々を思い出し、心が温かくなる。京の都は確かに栄えている。けれど、権謀術数が渦巻きすぎる場所でもあった。「私にも打算があるの」さくらは申し訳なさそうに紫乃を見つめた。「あなたに武術を教えてもらいたいのは、燕良親王が北條守に近づこうとしているのを見たから。恐らく玄甲軍を足がかりにするはず。私は確かに大将だけど、衛士も、御城番も、禁衛府も、御前侍衛も、これまでは独立した組織だった。一朝一夕には心服させられないわ。それ自体は問題じゃない。問題は、私が上官だってこと。誰と付き合おうと、私には言わないし、私の前
この夜、北冥親王邸では久しぶりに全員揃っての食事となった。さくらはその時になって、深水師兄がまだ梅月山に戻っていないことに気付いた。「大師兄、まだ戻られていなかったのですか? てっきり、もうお帰りになったと。一言の挨拶もなく去られたのかと思っていました」さくらの頭を軽く叩きながら、深水青葉は呆れ気味に言った。「この薄情者め。何度も声をかけたというのに、まるで返事もしない。何か気に障ることでもしたかと気を揉んでいたら、そもそも私の存在に気付いていなかったとはな」玄武は心配そうにさくらの後頭部を撫でながら説明した。「最近は多忙を極めておりまして。何かを考え込んでいて、お声がけに気付かなかったのでしょう......言葉で済むことを、手を出すことはありますまい」玄武の口調は大師兄への敬意を保ちつつも、僅かな非難の色が混じっていた。深水は思わず笑みを漏らした。「そう力も入れてはいない。それに彼女も慣れているさ。彼女を一番叩いていたのは、私の師叔である君の師匠だったのだからな」玄武は一瞬の沈黙の後、「師匠は時として加減を知らない。後ほど申し上げておきましょう」深水は席に着きながら、心から安堵の表情を浮かべた。さくらと玄武は、まさに天が結んだ縁であった。彼は本当に彼女のことを心に掛けている。さくらの方は少々鈍感だが、それも構わない。徐々に気付き始めており、人の好意にも応えられるようになってきている。有田先生が酒を運ばせ、棒太郎も席に着いた。この期間、親王家の者たちも皆、表立っては見えぬよう、密かに奔走していたのだ。杯を交わし合う宴の賑わいは、最近の事件捜査が漂わせていた暗い影を払い去っていった。有田先生は文武両道に通じ、深水先生の機嫌を取ろうと、酒壺を持ち出して意気揚々と提案した。「折角の美酒、歌詠みの酒宴などいかがでしょうか」その言葉が出た途端、棒太郎と紫乃は立ち上がり、声を揃えて言った。「もう腹一杯です」有田先生は眉間に皺を寄せる。「腹一杯、ですと? 村上教官、あなたは誰よりも食べる方ではありませんか。いつも最後まで食べ続けているのに、今日はまだ一膳も平らげていないでしょう」「今日は食欲がないんです!」棒太郎は食卓の料理を見つめ、思わず唾を飲み込んだ。だがもう食事を続けるわけにはいかない。歌詠みの酒宴となれば、もう無理な
「薬は届けましたが」有田先生が言う。「生き延びたかどうか、まだ情報は届いておりません」普段は政務に関わることの少ない深水青葉が口を開いた。「平安京の情勢は複雑を極めているよ。皇太子は既に執政の任に就かれたが、皇帝はまだ息がある。朝廷の重臣の半数が皇太子の強硬策に反対しているのが現状でね。また、皇太子は先代の皇太子との兄弟の情は深かったものの、その政策には全く賛同されていない。スーランジーは先代皇太子の熱心な支持者だったからね、命が助かったとしても、状況は好転しないだろう」「老帝の命、長いわね」紫乃が言った。「とうに崩御するって噂があったのに、まだ息があるなんて。一体何が、その命を繋ぎとめているのかしら」「それは国の混乱だろうな」深水が答える。「先代皇太子は民の心を掴んでおられ、老帝との政務の引き継ぎも殆ど済んでいた。それが先代を失い、新たな皇太子が立った。朝廷の重臣たちは基本的に先代の人々でね。新たな皇太子はスーランジーにさえ支持されず、誰もが不安を抱いている。混迷を極めているよ。先日の報せでは、もう食事も召し上がれないとのことだ。既に崩御なさっているかもしれん。ただ、その知らせがまだ届いていないだけかもしれんがね」「えっ、清湖さんから連絡が?」さくらは驚いた様子だった。大師兄はこういった事には関わりたがらなかったはずなのに。「ああ、手紙が来ていてな」「でも......」さくらが言い終わらないうちに、深水青葉は慈しむような眼差しを向けた。「何を言いたい? さくらが朝廷の渦中にいるというのに、私が傍観できようか。梅月山が傍観できようか。控えめにではあるが、支援はせねばなるまい」さくらの瞳に一瞬、悲しみが宿った。「私のせいで皆様を巻き込んでしまって。梅月山での悠々自適な日々を――。大師兄は絵を描き、山水を愛でる暮らしだったのに。私のせいで都に囚われることになって、申し訳ない気持ちで一杯です」深水が彼女の後頭部を軽く叩こうとしたが、玄武の手の甲に当たった。師兄の動きを見て取った玄武は、既にさくらの後頭部に手を添えていたのだ。深水は呆れつつも微笑ましく思った。「生き方は一つじゃない。気ままに過ごすのも良いが、男として肩に責任を背負うのも務めというものだ」さくらは少し鼻にかかった声で言う。「でも、大師兄は男らしくないような.....
「師匠も言っていた」玄武が付け加える。「さくらは、見たことのある弟子の中で最も武芸の才に恵まれていると。多くの技は一度見ただけで会得してしまう」「確かにそう言っていたな」深水は笑みを浮かべる。「だが、その後に続く言葉を君は省いているよ。彼女は怠け者でね。終日山を駆け回り、木に登っては鳥の巣を漁り、穴を掘っては毒蛇を捕まえ、鼠の尻尾を振り回して子供たちを驚かすことばかり考えていた」「俺がその被害者だ」棒太郎が無表情で言う。「確かに鼠の尻尾を振り回してきたが、最後には俺の上に投げつけやがった。泣きながら師匠の元へ駆け込んだら、男が泣くものかと叱られたさ。まあ翌日には師匠が万華宗へ怒鳴り込んでたけどな」「そして最終的には」紫乃も知っている話に便乗する。「一年分の地代が免除されたのよね」さくらの感動は一気に萎んでしまい、赤面しながら言った。「平安京の話をしていたはずなのに、どうして私の幼い頃の話になるの?ほら、食事を続けましょう」棒太郎は箸を置き、紫乃を見つめた。「一年分の地代が免除?マジか?どうしてそれを知ってるんだ?」「私たち赤炎宗も梅月山にいるんだもの。知らないわけないでしょ。梅月山中の噂よ。毎年、地代の支払い時期になると、あなたの師匠はあなたをさくらと手合わせさせてたでしょう?」「えっ!」棒太郎は驚愕した。「つまり、師匠は俺をわざとさくらと手合わせさせて、俺が打ちのめされるのを見計らって怒鳴り込み、地代免除を狙ってたってことか?」紫乃は真面目くさって頷いた。「そうよ、梅月山中の知るところだわ」棒太郎は泣きそうな顔で言った。「まさか。俺の師匠は几帳面で落ち着いた人なのに、そんなことするわけないだろ?さくらとの手合わせはほとんど負けてたけど、武芸が未熟だから負けるんだって。上達しないのは罰に値するって」紫乃は彼の肩を叩いた。「かわいそうな棒太郎。ずっと知らなかったのね。でも気にすることないわ。あなたが食らった拳のおかげで、ほとんど毎年地代を払わずに済んだんだから。払っても少額だったでしょ」さくらは首を振った。「違うわ。私の師匠が、あの宗門があまりに哀れで、食べるにも着るにも困っているから地代を減免したの。時には衣料や布団まで送ってたわ。師匠は、人を助けることが大切だって教えてくれたの」「いいえ、賠償よ」紫乃は首を振る。
将軍邸にて。親房夕美は一度激しく感情を爆発させた後、お腹も大きくなってきたこともあり、ようやく落ち着きを取り戻していた。だが、北條老夫人の容態は冬に入ると悪化の一途を辿り、薬の量は増える一方だったが、相変わらず病身は改善しなかった。丹治先生を招くことは依然として叶わず、北條老夫人は具合が悪くなるたびに、夕美にさくらほどの腕がないことを責めた。さくらの人脈の広さは本物だと。夕美も老夫人を甘やかすことはなかった。看病はおろか、安否の挨拶にすら顔を出さなくなり、日々の世話は長男の嫁である美奈子が一手に引き受けていた。老夫人は北條守に不満を漏らした。「あなたは御前侍衛副将にまでなったというのに、たかが一人の嫁も躾けられないとは。不孝で反抗的で、義母に口答えばかり。不肖の嫁は三代の禍となるというではないか」守は今や出世街道の真っ只中。夕美と言い争うたびに心身共に疲弊してしまうため、争いは避けたかった。そのため、母を宥めながら、美奈子に母の世話を頼むことしかできなかった。「守さん」美奈子も困惑した様子で言う。「義母上のお世話は私の務めよ。言われなくても当然のことだわ。でも私も体が弱くて、それに屋敷の財政がとても厳しいの。夕美さんは家政に関心もないのに、お金はいつも通り使ってるし。来月の雪心丸を買う銀子すらないのよ。涼子に相談してみたら?今は平陽侯爵家の人なんだから、少しはお金に余裕があるんじゃないかしら」「銀子の件は俺が何とかする」守は言った。「涼子に実家の面倒を見させるわけにはいかん」そう言われて美奈子は溜息をつく。「もう他に方法がないなら、何人かお仕えを売り払うしかないわね。これだけの人数を抱えてたら、月々の給金やお食事代も大変よ。四季の衣装まで用意しなきゃいけないんだから」「その件は美奈子さんから母上に相談してもらえないか」北條守が言う。「相談できるなら、わざわざあなたに話す必要もないでしょう。母上は使用人を手放すことをお許しにならないの。特にあなたが御前侍衛副将になった今、屋敷の体面を保たねばならないって」美奈子は一旦言葉を切り、「葉月への仕送りも欠かせないのよ。減らしたら大騒ぎになるでしょ。夕美さん以上に手に負えないほどの騒動になりかねないわ。出費を抑えるしかないんだけど......正直言うと、もう売れるものは何も残って
部屋に戻ると、親房夕美が針仕事に励んでいた。あの一件以来、確かに随分と大人しくなっていた。守は少し不安げに、家政を美奈子に任せる件を告げた。夕美は顔を上げ、艶のある目で彼を見やる。「当然、美奈子さんにお任せすべきですわ。今は身重なのですから、いえ、そうでなくとも私が家政を預かるべきではありませんもの」守は小さく安堵の息を漏らし、腰を下ろして彼女を見つめた。「針仕事は目に良くない。やめておけ。お仕えの者たちに任せればいい。確かお紅の針仕事も上手だったはずだ」「母親なら、子供の衣装くらい自分で作りたいものですわ」夕美は顔を上げ、優しい笑みを浮かべる。「それに、うちは三人分の俸禄があるとはいえ、大勢の家族を養うのは容易ではありません。母上のお薬もありますし、節約できるところは節約しませんと」守には彼女が何故節約の話を持ち出したのか分からなかった。針仕事を使用人に任せることと、節約とは何の関係もないはずだ。だが、彼女が怒らないのならそれでよかった。家の中に争いがなければ、日々の暮らしも自ずと良くなっていくだろう。今や彼も功を立てることなど望んでいない。ただ屋敷の中が平穏で、この役職を失わないことだけを願っていた。「今日は早いお帰りですね。ちょうどお話ししたいことがありました。もう月も進んできましたから、乳母を探さねばなりませんわ。産婆も最上の方を。それに、お産は鬼門をくぐるようなもの、危険が付き物です。永平姫君様の難産のことはご存知でしょう?ですから薬王堂で備えの薬を買っておきたいのです。母上の雪心丸を買いに行くついでに、一緒に買いましょう」守も出産の危険は承知していた。「分かった。薬の名は何だ?明日、勤めを終えた後に買って来よう」「参膠丸というお薬です。人参と阿膠に、痛み止めの生薬を調合したもの。七、八粒ほど用意していただけませんこと?お産の折、痛みで力が続かなくなったり、気血が上がらなくなった時に、この参膠丸が一番よろしいかと」守は言った。「ああ、明日買って来る。産婆と乳母の件は、美奈子さんに相談して探してもらおう。次男家の叔母上にも手を貸してもらえるかもしれないな」「叔母様ですって?」夕美は嘲るように笑う。「当てにはなりませんわ。今でも屋敷のことには一切関わろうとなさらない。もし外に住まいがあれば、とっくにお引っ越しなさって
翌日、北條守は遅くまで勤めが続き、参膠丸を買うことができなかった。そこで美奈子に、明日薬王堂で参膠丸を八粒買ってきてほしいと頼み、併せて乳母と産婆も探してほしいと相談した。美奈子は承諾した。どうせ姑の雪心丸も買い置きしなければならなかったからだ。以前は病を理由に家政から手を引いていたものの、広大な将軍邸とはいえ、帳簿上の残金が乏しいことは承知していた。そこで翌日、薬を買いに出かける前に会計室へ立ち寄って金を引き出そうとしたところ、残高がわずか十両しかないことを知った。資金が逼迫しているとは分かっていたが、将軍邸全体でたった十両とは。あまりの事実に美奈子は愕然とした。次男家は分家していないのだから、そちらからの上納金も相当な額になるはず。それに夫と舅、それに義弟の北條守の俸給に加え、賜った百両の黄金まで。いくら使ったところで、少なくとも二、三百両は残っているものと思い込んでいた。ところが実際は、たったの十両。美奈子は帳簿を一つ一つ確認していった。義妹の嫁入り支度に出費があり、葉月琴音も幾らか引き出し、親房夕美の毎月の出費も少なくない。そこに姑の薬代、屋敷の使用人たちの食費と給金。すべての出費が帳簿に記されており、計算上の誤りは一切なかった。ただ、親房夕美の出費があまりにも大きかった。燕の巣だけでも一ヶ月に一斤も消費し、他の滋養品に至っては言うまでもない。しかも屋敷には滋養品が揃っているはずだった。以前、義弟が怪我をした際、大勢から滋養品が贈られてきた。夕美の実家の義姉からも随分と届いていたはず。屋敷にあるものを使えばよいものを、なぜわざわざ外で買い求めるのか。どうしても理解できない美奈子は文月館へと向かい、夕美に尋ねることにした。もともと物柔らかな性格の美奈子は、ただ事情を聞きたいだけで、とがめ立てするつもりなど毛頭なかった。ところが夕美は誤解してしまった。妊婦の自分の出費を咎められたと思い込み、美奈子に対して激しく感情を爆発させた。果ては鋏を手に取って美奈子に突きつけ、「それほど金が惜しいのなら、この腹を刺して子を堕ろせばいい」とまで言い出す始末だった。美奈子は恐れをなして文月館から逃げ出すように立ち去った。背後からは夕美の取り乱した泣き声が響いてきた。まだ動揺の収まらぬ中、老夫人付きの侍女が駆けつけてきた。老夫人が胸
美奈子は侍女を連れて薬王堂に赴いたものの、参膠丸の値段を聞いて愕然とした。一粒が五両もする代物で、それを八粒も買わねばならないとなると......寒風の吹く中、額に汗を滲ませながら、涙を堪えて決断を躊躇っていた。薬王堂の丁稚は美奈子の顔なじみで、事情も心得ていた。「奥方様、この参膠丸というのは気血の虚した産婦が出産時に用いるものでございます。普段の気血の調整なら、生薬を調合して自分で煎じれば、ずっとお安くつきますよ。それに出産用となれば一粒で十分。まさか八人同時にお産があるわけでもございますまい」と、親切に助言を差し伸べた。「一粒で足りるの?本当?」美奈子は涙を拭いながら、急いで確認した。「はい、一粒で十分です。ご心配でしたら二粒お買い求めになれば。といいますのも、この薬は安産を絶対に保証するものではございません。気血の極端に衰えた方や、陣痛が長引いて力尽きそうな時に、体力の回復用として服用するものですので」「では二粒いただきましょう。それと雪心丸も二粒お願いします」美奈子は銀子を差し出した。店員は頷きながら目方を量り、計算して銅銭をお釣りとして渡した。「一つ申し上げておきますが、雪心丸は来月から値上がりの予定でございます。薬材の入手が難しくなり、仕入れ値が上がってしまいまして......実は、以前は丹治先生が老夫人様のお薬を調合なさっていた時は、毎日のお薬に雪心丸を一粒加えるだけで、随分とご容態が良くなられていました。あと二、三年も続ければ、すっかりお元気になられたはずなのに、今となっては......」丁稚は言葉を濁し、首を傾げた。「致し方のないことですわ」美奈子は涙を堪えながら、無理に笑みを浮かべた。「今となっては丹治先生にお越しいただくこともできませんし、同じ処方箋を使い続けるわけにもまいりません。症状に応じてお薬を調整しなければ......雪心丸も、買える時に買わせていただくしかございません」丁稚はその話題には触れず、薬を手渡しながら、参膠丸の服用方法を説明した。「これは必ず四時間以上の間隔を空けてお使いください。決して二粒を同時に服用なさらぬよう。普通、陣痛が長引いて力尽きた場合は、一粒で十分でございます。ただし、他の原因での難産や大量出血の場合は、効果は期待できません。残りの一粒は、産後半月経ってからお使いください」「
三姫子は参鶏湯を老夫人に飲ませてから、楽章と共に老夫人の話に耳を傾けた。「あの時、私は確かに騙されていたのよ。あの長青大師が『萌虎は家運を盛んにする子』と言っていたと、そう思い込んでいたわ。あの頃、あの人は萌虎を可愛がってたのよ。萌虎が病に伏せば、誰よりも心配して、あちこちの医者を訪ね回ってね。なのに、萌虎の体は日に日に弱っていって……五歳になる頃には、もう寝台から起き上がることすらままならなくなってたわ」その記憶を語る老夫人の表情には、まるで心臓を刺されたかのような苦痛が浮かんでいた。息をするのも辛そうな様子で言葉を紡いでいく。「長青大師が言うには、このままではあと一ヶ月ともたないかもしれないって……石山のお寺に預けて、仏様のご加護を受けるしかないと。そうすれば十八歳まで生きられる可能性があって、その年齢さえ越せば、その後は順風満帆な人生が約束されるって言うのよ」「あなたの祖父は最初、そんな戯言は信用できないって反対したわ。でもね、あの人が長青大師を連れて祖父に会いに行って、何を話したのか……結局、祖父も同意することになった。それどころか毎年三千両もの銀子を長青大師に渡して、あなたの命を繋ぐ蓮の灯明を焚いてもらうことになったのよ。仏道両方からのご加護を受けるためってね」「でも、それは全部嘘だったのよ!」老夫人の声が突然高くなり、険しい表情を浮かべた。「私も、あなたの祖父も、みんな騙されていたの。実は長青大師はね、『萌虎は祖父の運気を奪う子で、生きている限り爵位は継げない。むしろ早死にするかもしれない』って告げていたのよ。あなたを殺そうとして、薬をすり替えていたの。微毒を入れたり、相性の悪い薬を組み合わせたり、気血を弱めるものを……だからあなたの体は日に日に弱っていったのよ」息を切らしながら、老夫人の目には憎しみが満ちていた。「私が気付いたのは、あの大火の後よ。長青大師があの人を訪ねてきて、書斎で長話をしていた時。私は外で……すべてを聞いていたの。我が子を害するなんて……許せない、絶対に許せないわ!」老夫人は両手を強く握りしめ、顎を上げ、全身に力が入っていた。相手はすでにこの世にいないというのに、その憎しみは少しも薄れていないようだった。三姫子は老夫人の様子を見て、何かを直感的に悟ったようで、信じられない思いで彼女を見つめた。「では、
何かに取り憑かれたかのように、普段は足元の覚束ない老夫人が、まるで若返ったように駆け出した。織世も松平ばあやも、その背中を追いかけるのがやっとだった。耳には自分の心臓の鼓動しか聞こえない。目に映る庭の景色は、長年心を焼き続けてきたあの業火の光景に変わっていた。火の中から聞こえてくる悲痛な叫び声。あの時、誰かに引きずられ、抱えられながら、炎が全てを呑み込んでいくのを、ただ見つめることしかできなかった。末っ子は、あの炎の中で命を落としたはずだった。焼け跡から多くの遺体が見つかり、どれが我が子なのかさえ、判別できなかった。何度も気を失うほど泣き崩れた。だが一度も、息子が生きているかもしれないとは考えなかった。そんな望みを持つ勇気すらなかった。あの子は病に衰弱し、歩くのにも人の手を借りねばならなかったのに。あの猛火の中を、どうやって逃げられただろう?正庁に駆け込んだ老夫人の目に、ただ一つの姿だけが映った。涙が溢れ出し、他の姿は霞んでいく。ぼんやりとした影を追うように、足を進めた。首を微かに傾げ、綿を詰められたような力のない、不確かな声を絞り出した。「あなたが……私の子なのかしら?」楽章には見覚えがあった。最も恨みを抱いていた相手だ。だが、この瞬間、止めどなく流れる涙を目にして、胸が締め付けられた。彼は黙って立ち尽くし、答えなかった。「母上!間違いありません、萌虎でございます!」鉄将が泣きながら叫んだ。「ああ……」老夫人の喉から引き裂かれるような悲鳴が漏れ、楽章を抱きしめた。漆黒の夜を越えて、過去の記憶が押し寄せる。心の一部が抉り取られるような痛みが、一つの叫びとなって迸った。「生きていたのね!」熱い涙が楽章の肩を濡らしていく。最初は無反応だった楽章の頬も、やがて涙で濡れていった。しかし、すぐに老夫人を突き放した。冷ややかな声で言う。「芝居はもう十分でしょう。人を食らう魔物の巣に私を送り込んだのは貴方たち。死んでいて当然だった。師匠の慈悲があって、ここにいるだけです。私は親房萌虎ではない。音無楽章という者です」「違う……」老夫人は必死に楽章に縋りつこうとする。「私は何も知らなかったのよ。何も……」激しい悲喜の入り混じった感情に押し潰され、老夫人は楽章の腕の中で意識を失った。喜楽館の中には幾つかの灯りが
鉄将は怒りに震える声で指を差し上げた。「戯言を!母上が実の子を捨てたことなど一度もない。兄上も私も、ここで立派に育ったではないか」「貴様らは無事でも、俺はどうなった?」楽章は咆哮した。声を張り上げすぎた反動で、胃が痙攣を起こし、しゃがみ込む。内力を使って、胃の中で渦巻く酒を押さえ込んだ。その言葉に鉄将は一瞬凍りつき、何かを思い出したかのように、楽章を見つめ直した。その目には、信じがたい現実への戸惑いが満ちていた。三姫子も嫁入り直後に聞いた話を思い出していた。姑は三人の息子を産んだが、末っ子は病に倒れ、寺に預けられた。そして寺の火事で命を落としたと、姑は目の前で見たはずだった。まさか……生きていたというのか?「お前の……名は?」鉄将の声は震え、唇は制御できないように小刻みに動いた。楽章の姿を必死に見つめている。「彼女に……訊け」楽章は胃を押さえたまま椅子に崩れ落ち、力なく呟いた。三姫子が近寄り、興奮を抑えきれない様子で言った。「思い出しました。あなたを見かけたことがある。何度か邸の前を行き来していた方……」楽章は黙したまま。三姫子は紫乃に目を向けた。紫乃は三姫子ではなく、楽章を見つめたまま話し始めた。「さあ、五郎さん。ここまで来たからには全てを話すのよ。あなたは親房萌虎。幼い頃から女の子のように育てられ、五歳で寺に捨てられた。数ヶ月で折檻され、死にかけたところを師匠が拾い上げ、命を救った。あなたに非はない。過ちを犯したのは彼らよ。きちんと説明を求めなさい」鉄将の体が雷に打たれたかのように硬直し、瞳までもが凍りついた。次の瞬間、絶叫とともに楽章に飛びつき、全身で抱きしめた。生涯で最も悲痛な声を絞り出す。「萌虎!お前は生きていたのか!」確かめる必要さえ感じなかった。ただひたすら楽章を抱きしめ、号泣を続けた。誰にも言えなかったことがある。末弟が死んでからというもの、何度も夢に見た。弟が生還する夢。まるで現実のような鮮明な夢。だが、目覚めれば常に虚しさだけが残った。楽章は鉄将を突き放そうとしたが、全身の力を込めた抱擁は微動だにしない。耳元で響く泣き声が煩わしい。楽章は口元を歪めた。胸の奥の屈辱が、少しずつ溶けていく。この家にも、自分を真摯に想う者がいたのだ。三姫子は目を潤ませ、急いで織世の手を力強く握った。声は震
程なくして、酔っ払った二人は西平大名邸に到着した。紫乃の身分を知る門番は、夜更けにも関わらず二人を通した。三姫子が病臥していることから、使用人は親房鉄将と蒼月に事態を報告に向かった。鉄将と蒼月は困惑の表情を浮かべた。こんな夜更けに沢村お嬢様が来訪するとは一体何事か。「男を連れているとな?何者だ?」鉄将が尋ねた。門番は答えた。「鉄将様、存じ上げない男でございます。態度が横柄で、邸内を物色するように歩き回り、椅子を二つも蹴り倒し、『人を欺きおって』などと罵り続けております」鉄将は眉をひそめた。「因縁でも付けに来たのか?まさか夕美が何か……」最近の出来事で神経質になっていた鉄将は、何か揉め事があれば、まず夕美が原因ではないかと考えてしまう。「違うかと……」門番は躊躇いがちに、細心の注意を払って続けた。「あの方が罵っているのは老夫人と……亡き大旦那様のことでして」展は爵位を継いでいなかったため、大名の称号はなく、屋敷の使用人たちからは「大旦那様」と敬われていた。孝行者として知られる鉄将は、亡き父と母を罵る者がいると聞いて激怒した。紫乃が連れて来た相手だろうとも構わず、「行こう。どんな馬鹿者が親房家で暴れているのか、この目で見てやる」と声を荒げた。鉄将は死者を冒涜するような無作法は、教養のない下劣な人間のすることだと考えていた。蒼月を伴い、怒りに任せて大広間へと向かった。一方、楽章が椅子を蹴り倒した時点で、既に使用人が三姫子に報告に走っていた。皆、このような事態は奥様でなければ収まらないと心得ていた。鉄将様には官位こそあれど温厚な性格で、酒に酔った荒くれ者を抑えきれまいと考えたのだ。三姫子は紫乃が連れて来た男が、亡き舅と病床の姑を罵っていると聞くや、急ぎ着物を羽織り、簡単な身支度を整えると、織世に支えられながら部屋を出た。病状は既に快方に向かっていたが、まだ体力は十分ではなかった。秋風が肌を刺す中、足早に歩を進めると、かえって血の巡りが良くなったように感じられた。正庁に着くと、普段は温和な鉄将の顔が青ざめ、まだ罵声を上げている男を指さしながら叫んでいた。「黙れ!亡き父上をどうして侮辱できる。何という無礼者め」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、男は鉄将の胸元を掴み、拳を振り上げた。三姫子は咄嗟に「待て!」と声を上
青葉が追いかけると、楽章は手を振り続けながら歩き続けた。「何も言わなくていい。たいしたことじゃない」「五郎、これは私たちの推測に過ぎない。真実とは限らないんだ」青葉は楽章の性格をよく知っていた。心に苦しみを抱えても決して口にせず、ただ世を避けて別の場所へ去っていくのが常だった。「大丈夫だよ、大丈夫。酒でも飲みに行くさ」楽章は笑いながら言った。「折角の秋風、この爽やかな天気には、美人の相手でも探すとするか」紫乃は前に出て、彼の腕を取った。「私が付き合いましょう」紫乃もつい先ほどまで知らなかったのだ。彼の母は側室などではなく、西平大名家夫人その人であり、親房甲虎や夕美と同じ母から生まれた実の兄弟だということを。「俺の行くところはお前には相応しくない」楽章は紫乃を振り切ろうとした。「勝手に決めないで」紫乃は構わず彼の腕を掴んだ。「あんたの会計は私が持つわ」「金なら持ってる。付いて来るな」楽章は彼女の手を振り払い、急に意地の悪い調子になった。「俺がそんなに貧乏だと思ってるのか?お前に飲み食いの面倒を見てもらう必要なんてない。恩を売られるのも御免だ。本当に、お前たち女というのは……自分がどれだけ鬱陶しいのか分かっていない」紫乃は怒る気配もなく、にこやかに言い返した。「女が鬱陶しいだけ?男は大丈夫なの?」その笑顔を見て、楽章は不機嫌そうに吐き捨てた。「どっちも同じだ。みんな面倒くさい」「じゃあ、馬を走らせに行きましょう。人なんて誰も見なくていいわ」紫乃は彼を引っ張って厩舎へ向かった。「この爽やかな風に乗って走れば、嫌なことなんて全部吹き飛ぶわ」「行かない!」「行くの!」紫乃は笑顔を引き締め、険しい表情になった。「乗馬が嫌なら酒でもいい。でも、今日は私の相手をしてもらうわ。私も気が滅入ってるのよ」二人の姿が遠ざかるにつれ、声も次第に聞こえなくなっていった。結局、紫乃の思い通り、彼女は楽章を連れ去ることに成功した。さくらは肩を落とし、胸が締め付けられる思いだった。どうしてこんなことに……師匠はきっと真実を知っていたのだろう。ただ、嘘の方が優しかったから黙っていたのだ。余計なことをしてしまった。何も調べなければ良かったのに。誰も声を上げる者はいなかった。この調査の結果が良かったのか悪かったのか、それを判断できる者など
有田先生と道枝執事の調査により、事態は当初の想定よりも複雑であることが判明した。深水青葉の証言によれば、師匠の調査では、親房展は幼い萌虎が家に福をもたらすと考えていたという。ただ、その代償として自身の体調を崩し、都の名医を幾人も訪ねたものの効果なく、やむを得ず寺に預けることになったとされていた。これだけを見れば、展は末っ子である萌虎に深い愛情を注いでいたと解釈できる。末子は往々にして可愛がられるものだからだ。しかし、道枝執事が西平大名家の古参の執事や女中たちから聞き出した話は、まったく異なっていた。亡くなったとされる子に対して、展は強い嫌悪感を示していたというのだ。最初はどうだったか記憶は定かでないものの、後になってからの扱いは明らかに冷たかったという。彼らは具体的な出来事も語ってくれた。当時の大名様の誕生祝いの席で、今の音無楽章、当時の萌虎は大名様に抱かれて宴席に入った。その頃、大名様の体調は随分と回復しており、足取りも軽やかだったという。ところが、展は後日、「祖父を疲れさせた」という理由で萌虎を引きずり出し、竹の定規で手のひらを十回も打ち据えたのだ。こうした出来事は、主だった者たちの耳には入らなかったかもしれないが、確かに目撃した使用人がいたのだ。もう一つの出来事は、当時の大名様が萌虎を狩りに連れて行った時のことだ。白狐を仕留め、その毛皮を萌虎に与えたのだが、後になってその毛皮は三女の親房夕美の身に纏われることになった。他にも細かな出来事が数多くあった。展が萌虎に向ける嫌悪の表情を目にした使用人は少なくなかった。道枝執事に情報を漏らした者たちもその一人だ。当時はまだ別家しておらず、皆が同じ屋敷で暮らしていた。展は感情を隠すのが上手くない人物で、自分でも気づかぬうちに感情が顔に出てしまうことが多かった。さらに気になる点がある。萌虎の病の治療に関してだ。医師は確かに大名様が呼んだのだが、薬を煎じる際には数味の生薬が差し替えられていた。展は薬を調合する下女や小姓たちに口外を禁じ、これらは丹治先生から授かった良薬だと言い張った。大名様の機嫌を損ねないための配慮だと説明していたという。萌虎を寺に預ける話が持ち上がった時も、大名様は最初、その妖術使いの力を疑って強く反対していた。しかし、妖術使いが大名様と何度か面会を重ねるうち
しかし、執事からの報告に、三姫子は首を傾げずにはいられなかった。売り出した資産は次々と買い手が付き、しかも市価より一、二割も高値で取引されていた。長年家政を取り仕切ってきた経験から、資産の売買は常に相場に従うものと心得ていた。一軒や二軒が若干高値で売れることはあっても、最近売却した物件すべてがこれほどの高値とは。不可解でならなかった。もしや王妃様が自分の資産売却を知り、急な銀子の調達だと思って、高値で買い取ってくださったのではないかとさえ疑った。売買契約書を取り寄せ、買主の名を確認すると「風早久時」とある。聞き覚えのない名前だった。「北冥親王邸に風早久時という執事はおりませんか?」三姫子は執事に尋ねた。「存じ上げません」「では、この買主は何者なのでしょう」相場を大きく上回る値段で買い取るとは、何か裏があるのではないかと不安が募る。だが、よく考えれば、すべて正式な契約書があり、登記も済み、仲介人も立ち会っている。完全な合法取引なのだ。何を心配することがあろう。「もういい。残りは売らないことにしましょう。お義母様の耳に入ることは避けたいので」三姫子は言った。資産の売却は老夫人にも、鉄将にも蒼月にも黙っていた。家政に関わっていない彼らが詮索することもないだろう。もし発覚しても、その時は事情を説明すればよい。これは決して自分のためだけではないのだから。とはいえ、買主の件は気になっていた。この日、さくらが見舞いに来た際、さりげなく尋ねてみた。「王妃様、風早久時という方をご存じですか?」さくらは目を上げ、少し考えてから言った。「風早久時?風早という姓は都では珍しいですね。何かお困りごとでも?三姫子は首を振った。「いいえ、そうではありません。先日、少し離れた場所にある店を売りに出したところ、風早という方が買い手として現れ、市価より二割も高い値段を提示してきたのです」「それは良いことではありませんか?得をなさったということで」さくらは微笑んで答えた。「最初はそう思ったのですが、相場は誰でも調べられるはず。それなのに、先方から高値を提示してきたことが、何だか不自然で」「正式な売買契約さえ済んでいれば、高値であっても問題はありませんよ。幸運だと思えば良いのでは」さくらは柔らかく答えた。三姫子には確信があった。王妃は
夕美の涙は止まらなかった。「でも、あの人に前途などありません。一兵卒になるなんて……私はこれからどう人様に顔向けすれば……ただ自分を卑しめたくなかっただけなのに。上原さくらだって、あの時離縁を望んで、わざわざ勅許までいただいた。それほど決意が固かったのに、私が彼女に負けるわけには……」お紅は心の中で、今の状況の方がよほど世間体が悪いと思ったが、口には出せなかった。「お比べになることではございません。人それぞれ、歩む道が違うもの。王妃様より劣る人もいれば、優れた人もおります。王妃様に勝ったところで、他の方々にも勝てるとは限りません」「どうして、前にこういう話をしてくれなかったの?」夕美の声に苦い響きが混じる。「申し上げても、お聞き入れになられなかったでしょう」お紅は簾を下ろしながら言った。「御者、参りましょう」椿の花が刺繍された紅い錦の座布団に寄り掛かりながら、夕美の心に得体の知れない不安が忍び寄った。突如として気づいたのだ。もう誰も自分を望まないかもしれないという現実に。さくらのように、離縁を経てなお、凛々しく勇猛で戦功赫々な親王様を夫に迎えることなど、自分には叶わない。「お紅」夕美は突然、侍女の手を掴んだ。青ざめた顔で問う。「守さんは……本当に軍功を立てることができるかしら?」「お嬢様」お紅は静かに答えた。「人の運命は分かりませんもの。将軍の座に返り咲くかもしれませんし、このまま落ちぶれて、二度と立ち直れず、将軍家まで取り上げられるかもしれません」「こうなっては、もう出世など望めないでしょう」夕美は虚ろな声で呟いた。「あの人と共に老い果て、持参金を使い果たし、最後には将軍家まで陛下に召し上げられる……そんな人生を送っていたら、本当に私の人生は台無しになっていた。私の選択は間違っていない。間違っていないのよ」最初は北條守に好感を持っていた。端正な容姿で、陛下の信任も厚く、宰相夫人の取り持ちだった。だが次第に、優柔不断で決断力に欠け、感情に流されやすい性格が見えてきた。主体性のない男。そこへわがままな平妻がいて、さらには輝かしい前妻までいる。大名家の三女である自分は、あまりにも影が薄く感じられた。将軍家に嫁ぐ前は、きっと皆に愛されるはずだと思っていた。しかし現実は期待と余りにも懸け離れており、次第に守への怨みが募っていった。
紫乃は今日、天方家を訪れていた。村松裕子の病に、薬王堂の青雀が呼ばれていたのだ。日が暮れても紫乃は帰らず、そうこうするうちに夕美の一件が屋敷にも伝わってきた。天方許夫の奥方は、裕子には知らせぬよう取り計らっていた。だが、それも束の間の隠し事に過ぎなかった。不義密通だけでなく、密かな懐妊まで。今や十一郎は夕美の夫ではないとはいえ、大きな影響を受けずにはいられなかった。結局のところ、それは天方家での出来事なのだから。「天方十一郎様は、もしや男として……だからこそ夕美さんが他の男に……」「戦場に出られて間もない時期に、どうしてこんなことに……」と、陰口も囁かれ始めた。また、夕美は慎みのない女、死罪も相応しいほどの不埒な行為だという声も。光世も非難の的だった。「従兄弟の情も忘れ、天方家の情けも踏みにじって、人としてあるまじき行為」と。結局のところ、世間は光世と夕美を糾弾し、十一郎を無辜の被害者として憐れむばかり。北條守のことは少し話題に上がったものの、すぐに立ち消えた。将軍家でどんな醜聞が起ころうと驚くに値しないと思われていたからか。彼と夕美の離縁さえ、もはや誰も口にしなかった。その夜、紫乃とさくらは親王家に戻り、今日の出来事について少し話し合った後、互いに顔を見合わせて深いため息をついた。これまでは他人事のように見ていた騒動も、大切な人が巻き込まれると、自分のことのように心配になるものだ。賢一は今夜もいつもどおり稽古に来ていたが、いつも以上に真剣な様子だった。今の自分には力不足で、何の助けにもなれない。だからこそ、早く強くなりたいのだと。棒太郎が休憩で茶を飲みに来た時、さくらと紫乃にそう伝えた。さくらは三姫子の娘も女学校で一生懸命勉強していることを知っていた。三姫子の子供たちは、特別秀でているわけではないが、物事をよく理解し、粘り強く、冷静さを持ち合わせていた。稽古が終わり、棒太郎が賢一を送って行く途中、親房夕美の馬車が西平大名家を出て行くのを目にした。夕美の乗る馬車の後ろには、荷物を積んだ数台の馬車が続いていた。夕美は夜陰に紛れて立ち去ろうとしていた。馬車に乗る前、夕美は賢一の姿を見つけ、立ち止まって挨拶を待った。だが賢一は、まるで夕美など存在しないかのように、そのまま屋敷に入ろうとした。「賢一