夕暮れ時、沈みゆく太陽が空を錦絵のように染め上げていた。さくらと紫乃は馬で山を下りながら、事件は完全な決着こそついていないものの、一区切りついたことに安堵を覚えていた。「明日、東海林椎名の処刑だけど、東海林家の者は遺体を引き取りに来るのかな」と紫乃が尋ねた。「分からないわ」さくらは斎藤夫人が子供を引き取ろうとしていることを考えていた。紫乃はさくらの様子を見抜いていた。「斎藤夫人は本当にあの子を引き取るつもりなのかしら」「そう言ってたけど、一時の感情かもしれないわ」紫乃は言った。「確かに子供たちは影森茨子の犠牲者で、何の罪もないわ。でも、なぜそれを斎藤夫人が背負わなきゃいけないの?夫人にとって、この子の存在は人生を奇妙で困難な状況に追い込むことになるわ。これまでの幸せな日々が幻のように感じられてしまう。本当に切ないわね」「馬車の中で、私だったらどうするかって聞かれたの」さくらは馬に任せて歩を進めた。稲妻の足取りは山道でも安定していた。「紫乃は、もし玄武が外に側室を作って子供までできたら、私がどうすると思う?」紫乃は考える間もなく答えた。「梅月山にいた頃のあんただったら、持てる力のすべてを使って徹底的にやり返したでしょうね。でも今のあんたなら、きっと離縁して別々の道を行くんじゃない?」「あんたと仲良くし過ぎるのは危険ね」さくらは笑った。「私がどれだけあんたのこと分かってると思ってるの?」紫乃は横目でさくらを見た。「じゃあ、あんたならどうするの?」紫乃はくすりと笑った。「そんなこと、私には起こり得ないわ。だって結婚なんてしないもの。そんな可能性と向き合う必要もないわ」「そう」「ねえ」紫乃が尋ねた。「私が結婚しないこと、本当に支持してくれてる?あんたは親王様と幸せそうだから、私にも誰かと結婚するように勧めたりしない?」さくらは紫乃を見つめた。「そんなわけないでしょ。あんたの人生はあんたが決めればいいの。私は支持して、必要な時に手を貸すだけ。男女の情とか結婚とかって、人生のすべてじゃないし、幸せになるのに結婚が唯一の道でもない。あんたにとっての幸せは、お金があって自由で、やりたいことができて、やりたくないことは誰にも強制されないことでしょ」紫乃は顎を上げた。「そうね。私は今、多くの人より恵まれた立場にいる。毎日楽
夫人は先に腰を下ろすと、落ち着いた声で言った。「忠義、戸を閉めなさい。三人で話し合いたいことがあるの」忠義も何か察したようで、困惑した目で父を見やった。父は唇を固く結び、困惑と不安の入り混じった表情を浮かべていた。重い足取りで戸を閉め、戻ってきた。夫人は片手を肘掛けに、もう片手を膝の上に置いた。長年の裕福な暮らしと、睦まじい夫婦生活のおかげで、同年代の女性より若々しく見える。丸みを帯びた優雅な顔立ちには気品が漂っていたが、ここ数日は幾分痩せ衰えていた。夫人は式部卿を見つめ、何気ない出来事を語るかのように言った。「今日、北冥親王妃に会ったわ」まるで毒蛇に噛まれたかのように、式部卿は驚愕の声を上げた。「あの女が君を?何か嘘でも言いつけたのか?何を言われても信じるな。あの女は信用できない」夫人は夫を見つめた。もはや漆黒ではない瞳に、一層の気品が宿っていた。「北冥親王妃とはあまり親しくないけれど、そのような方じゃないことは分かっているわ。それに、彼女が私を訪ねてきたわけじゃないの。私が棗葉荘に行った時、たまたま彼女がお子様を迎えに来ていただけよ」式部卿の唇が震え、目が慌ただしく泳いだ。「な、なんの......お子様だと?」夫人は穏やかな眼差しを保ちながら、淡々と語った。「もう分かっているわ。だから説明はいらないの。今日、私はあの子を東江に預けるため引き取りに行ったの。でも、あなたたち父子のどちらかが迎えに行かなければならないそうよ」夫人の姿勢は変わらないのに、父子は落ち着かない様子で、特に式部卿は心が乱れ、妻の顔も見られず、言葉も出ない。「なぜ引き取るのか、あなたたちにも分かってるでしょうね。決して私が寛大だからじゃないわ。一つには、子供に罪はない。あなたは父親で、私は嫡母で、実母もいる。もう一つは、壁に耳ありということ。刑部の審理書類は、何人もの手を経ている。一人の口は封じられても、すべての人の口は封じられない」両手を膝の上で組みながら、続けた。「たとえ事が表沙汰にならなくても、かつて審理書類を見た者たちの手に弱みを握られることになるわ。我が斎藤家は大きな木のように風当たりが強い。あなたと忠義は要職に就き、娘は今上の皇后。過ちを犯すのは構わないけれど、決して誰かに弱みを握られてはいけない。隠せば隠すほど、大きな禍となり、最後には
翌日、斎藤忠義は梨水寺に永愛を迎えに訪れた。さくらが居合わせていたため、忠義は彼女を脇に呼び、「上原殿、どうかご安心ください。母は必ずや大切に育てます。決して辛い思いはさせません。私にも庶兄弟姉妹がおりますが、母は皆を平等に慈しんでまいりました」さくらは率直に答えた。「お母様とはお付き合いは浅いものの、深いお話をさせていただきました。お子様を粗末になさるとは思っていません。ただ一つ、はっきりさせておきたいことがあります。昨日、お母様があの子の名前を尋ねられた時、私は『若菜』とお答えしました。斎藤永愛という名前を使うかどうかは、ご家族でお決めください」忠義は小さく溜息をついた。「上原殿、ご配慮ありがとうございます」「お連れ帰りになるなら、椎名青妙にも会わせるおつもりですか?」忠義は頷いた。「はい。実は母も昨日申しておりました。父が彼女を迎え入れたいのなら、反対はしないとのことで」くらは驚いて忠義を見つめた。「斎藤殿、そう単純な話ではありませんよ。あの方はあなたの母上です。もう少し心を配り、お気持ちを慮るべきではありませんか」忠義は慌てて説明した。「誤解なさらないでください。母は決して狭量な人間ではありません。ただ家の存続を考えて、弱みを作らないようにと」「誤解などしていません。お母様が大局を見据えていらっしゃるのは分かります。でも、そのことで、まるで母上に心がないかのように扱うのは間違っています。このような事態で最も辛い思いをしているのは、あなたの父上だとでも?違いますよ。最も辛く、心を痛めているのはお母様です。それでもなお、そのような苦しい心境の中で斎藤家の将来を考えていらっしゃる。この大局観は、あなたにはまだ及びもしません」さくらは珍しく斎藤家の者と丁寧に言葉を交わしていた。実のところ、昨日は斎藤夫人の対応があまりにも寛容すぎるのではないかと訝しく思ったものの、よくよく考えれば理由は明白だった。これは後々、斎藤家や皇后様が攻撃材料にされることを避けるため、先手を打って潔く対処したのだと。忠義の瞳には深い悲しみが滲んでいた。「母の胸中お察しいたしますが、最も辛い思いをしているのは父でございます。この一件で、家中の多くの者が父への畏敬の念を失ってしまいました。父は長年、斎藤家の名誉を守るために尽力してまいりました。その重圧に耐え
青妙は首を振った。「いいえ、ここに居させていただきたいです」「でも、お嬢様は斎藤家に」とさくらが言いかけると。青妙は首を傾げ、長い髪が肩に流れ落ちた。「分かっています。でも、あの子は大切に育てられ、普通の子供たちと同じように、何不自由なく成長していけるはず」その瞳には憧れの色が満ちていた。自分には叶わなかった願いが、娘には与えられる――それだけでも、彼女には幸せだった。さくらは温かな声音で言った。「大丈夫です。お望みでないのなら、誰もあなたを強制することはできません。斎藤家であなたには何の身分もないのですから、強制的にお連れすることもできないはずです」青妙は素足で床を降り、さくらの前に跪いて深々と頭を下げた。声を詰まらせながら、「ありがとうございます......私たちにとってどれほどの意味があるのか......ご存じないでしょう。私たちの頭上に吊るされていた刃が......消えたのです。もう悪夢に追われることもありません」さくらは彼女を優しく起こし上げた。「事件が完全に片付くまでは、まだ本当の自由とは言えませんが、その後はお好きな所へ行けますよ」「今のままで十分です。もう誰も私を傷つけることはない」青妙は寝台に腰を下ろし、切なげに笑いながら涙を流した。「私は式部卿様が怖かったのです。いらっしゃる度に震えが止まらなくて......別に慈しみなど求めてはいませんでしたが、あまりにも乱暴で......」彼女は着物の襟を緩め、体中に残る噛み跡を見せた。新しいものも古いものも混ざり、胸や腕、体中に付けられていた。最も目を背けたくなるのは、そのところにも刻まれた無数の痕跡だった。さくらは胸が締め付けられる思いだった。誰が彼女たちを被害者ではないと言えるだろうか。まさに彼女たちこそが、真の被害者ではないか。東海林椎名の「やむを得なかった」という言葉が、何と空虚で偽りに満ちていることか。さくらは青妙の着物を直すのを手伝いながら言った。「もう誰もあなたを苦しめることはありません。安心してここにお住みください」「ありがとうございます......本当に......」青妙は着物を整えながらも、止めどなく涙を流し続けた。「私たちを救ってくださって......」さくらが梨水寺を出たところで、椎名紗月が歩いてくるのが見えた。馬車も駕籠もなく、徒歩で
翌日、東海林椎名の処刑が執り行われることとなった。影森玄武が監察官を務め、禁衛府の者たちが警備線を張り、秩序維持に当たった。玄武は本来、さくらを行かせたくなかった。確かに東海林は憎むべき存在ではあったが、首謀者ではない。また、斬首という血生臭い場面を、さくらに見せたくはなかったのだ。だが、さくらはどれほどの残虐な場面を見てきただろうか。東海林が首謀者でなかったにせよ、私利私欲のために悪に加担し、その弱さゆえに多くの人々を苦しめた。それは紛れもない重罪だった。だから、彼女は行くと決めたのだ。早朝から、刑場の周りは人々で溢れかえっていた。処刑は午の刻とされていたため、禁衛はまだ警備についておらず、刑場周辺は騒然としていた。露店の商人たちまでもが、商売を始めている始末だった。臆病な者たちは見物には来ないし、子供たちは禁止されていた。もっとも、禁止されていなくとも、親たちが子供を連れては来なかっただろう。しかし、世の中には物見高い連中が付き物だ。特に今回は公主の夫君という高位の者の処刑とあって、普段なかなか見られない光景とばかりに、大勢の人々が集まっていた。この刑場が最も賑わうのは例年、秋口のことだった。死刑囚の多くが、秋の終わりに処刑されるのが通例だったからだ。巳の刻を過ぎると、山田鉄男が禁衛府の兵を率いて現れ、秩序の維持に当たり始めた。刑場の周囲に縄を張り、境界線を設けて、民衆を全てその外側へと下がらせた。東海林椎名はまだ刑部におり、刑場へ向かう前のことだった。死刑執行の前には、刑部から豪勢な食事が振る舞われる。最期の道中を、せめて腹一杯にして送り出すためだ。東海林は最初こそ平静を装っていたものの、食事が運ばれてくると、全身を震わせ始め、一言も発せず、箸もつけなかった。刑部丞の小倉千代丸が自ら見送りに来て、声をかけた。「食べなされ。腹いっぱいの死人の方が、餓えた死人より幾分ましというものだ」その言葉が、かえって逆効果だった。東海林は恐怖のあまり、その場で失禁してしまった。震える手で箸を取ろうとしては置き、また取ろうとしては置き、やがて千代丸に向かって掠れた声で訊ねた。「東、東......海林爵家からは......誰も来て......はおりませんか」小倉千代丸は答えた。「もう東海林侯爵家などありはしない。東海林家の者
やがて、堰を切ったように言葉が溢れ出した。「全て、私の本意ではなかったのです。もう一度選び直せるのなら、断じて公主様との縁など......東海林侯爵家が没落しようと、それでも侯爵家。その基盤は揺るがない。どれほど零落しようと......」「私は挙人の身。文章生も目指せた。決して一つの道だけではなかったはず。なぜ、あんなにも愚かだったのでしょう。前途有望だったというのに。賢淑な女性を正妻に迎え、二、三人の側室を持ち、三、四人の息子と数人の娘にも恵まれ、縁組みで家の繁栄も......近道だと思っていたものが、死への一本道だったとは」箸が再び取り落とされ、肩を震わせて泣き崩れた。千代丸は落ちた箸を拾い上げながら言った。「今更、後悔しても詮無いこと。行動こそが実を結ぶ。知っていることを話せば、まだ転機はある。だが、黙ったままでは死あるのみ」東海林は暫く顔を覆って泣き続けた後、やっと手を放し、袖で涙と鼻水を拭った。拷問の後遺症か、その動作は緩慢で不器用で、背中も丸まったままだった。「もはや......どちらを選んでも死路。転機など......ありはしない」長年、官途に在った千代丸は、ありとあらゆる悪人、凶徒を見てきた。死に直面して後悔し、一縷の望みにすがろうと、知っていることを残らず吐露する者も少なくなかった。しかし、東海林は大悪人には見えないのに、この上なく冷静な理性を保っている。斬首という極刑を目前にしながらも、なお利害を冷静に判断できる。これほどの聡明さと冷静さを持ち合わせていながら、なぜ当初、影森茨子の術中に陥るのを避けられなかったのか。結局は、私利私欲に目が眩んだということか。最初は抵抗があっただろう。それが次第に半ば強いられ、半ば従うようになり、最後には謀略の渦中で操り手となっていた。影森茨子が黒幕で、自分は被害者を装えば罪を逃れられると考えたのだろうが、それは大きな誤算だった。千代丸はもう何も言わず、静かに待った。やがて、東海林は泣き止み、顔を上げてポツリと訊ねた。「首が落ちた時......すぐに、死ねるものでしょうか」千代丸は適当に答えた。「首を落とされた経験はないから分からんが、検屍官の話では、首が落ちて体が分かれても、しばらくは意識が残るそうだ。自分の首が落ちたことも分かるとか。まあ、私も経験したことはないから、
刑場に着くと、東海林は引き立てられ、刑場の中央に跪かされた。刀を携えた屈強な首切り役人が傍らに立ち、その刃が陽光に煌めいている。恐怖で膝が震え、跪いていられなくなった東海林は、すがるような目で群衆を見渡した。辺りは喧騒に包まれているはずなのに、彼の耳には何も入ってこない。ただ自分の心臓の鼓動だけが、胸から飛び出さんばかりに太鼓を打つように響いていた。背後の監察官、影森玄武の姿は見えないが、かすかに声だけが聞こえる。振り返ろうとしても、背後に立てられた札のせいで首を回すことができず、ただ鼻を押さえ、嫌悪の表情を浮かべる首切り役人の顔だけが目に入った。その時になって初めて、自分が大小便を漏らしていたことに気づいた。恐怖が毒蛇のように肌から内部へと這い込んでくる。怖い、怖くて堪らない。とうとう、群衆の中に見覚えのある顔を見つけた。狂喜して、掠れた声を振り絞る。「青影......青影よ......」湛輝親王が、ふくよかな椎名青影を連れて規制線の外に立っていた。葡萄のように黒い瞳で父を見つめ、視線が合う。しかし青影の目には、実の父親の恐怖も喜びも映っていないようで、ただ無感情に見つめ返すだけだった。「何か食べ物でも持って行ってやるか?」湛輝親王が青影に尋ねた。「もう満腹なのではないでしょうか」青影は淡々と答えた。親王は頷いた。「そうだな。刑部で最期の食事は出されている筈だが......何か言葉をかけてやりたいことはないのか?」青影は少し考えて言った。「私、近づいて話してもいいのですか?」「遺言を聞くことはできるだろう」青影は言った。「では、一つ訊ねたいことがあります」「では行こう」湛輝親王は言った。「監察官に会いに行こう。わしの甥の孫だ。老人臭いなどとは言わん優しい者でな」「今の私は臭いとは思いませんよ。ただ歳を召し過ぎているだけかと」青影は親王の後に続いた。今日の着物は体に合っていたため、そこまで太って見えず、ただ丸みを帯びた愛らしい姿で、まるで幸せを招く縁起物のようであった。監察台に向かった湛輝親王は玄武に言った。「玄武よ、この子が東海林に質問があるそうだ」玄武はさくらの方を一瞥した。さくらは「私も同行いたしましょう」と申し出た。親子とはいえ、さしたる情愛があるわけでもない。しかし青影は湛輝親王の庇護下にある
さくらは、彼女がなんと特異な少女かと感じた。あのような環境で育ちながら、一日一日を精一杯生きることだけを考え、できる限り自分を卑下することなく生きている。父親に対して、愛でも憎しみでもなく、ただ嫌悪感だけを抱いている。「上原様」青影は尋ねた。「首を斬られた後、引き取り手がいない場合、遺体はどうなるのでしょう?晒し者にされるのですか?」「引き取り手のない場合は、簡単な土葬となります。ただし、謀反の首謀者であれば、晒し者にされることもありますが」とさくらは答えた。「へぇ」と一言呟いただけで、青影はそれ以上何も訊かなかった。湛輝親王の元に戻ると「出かける時、栗きんとんが少し残っていましたね。戻って食べましょう。置いておくと美味しくなくなってしまいます」「見ていかないのか?」湛輝親王が尋ねた。「血は苦手ですから、やめておきます」青影は言った。寵愛する青影に、湛輝親王は「では帰るとしようか。明日は湖に遊びに行こう」と言った。青影は肩掛けを身に纏いながら「こんな寒い日に湖なんて。家で炉を囲んでお茶を飲み、羊肉でも焼いた方が良いではありませんか」「気晴らしに連れて行ってやろうというのに、この子ときたら恩を知らんな」親王は笑いながら玄武に向かって言った。「はあ、仕方がない。わしは一生、女に振り回されっぱなしよ。年を取った今でもこの調子だ」玄武は、ここは刑場なのだから、もう少し厳かな雰囲気を保ってほしいと思ったが、湛輝親王の機嫌の良さを損ねたくもなく「私も同じです。一生、女性に尻に敷かれる運命のようです」と答えた。湛輝親王は玄武の肩を叩いた。「では、邪魔はせんぞ。首でも斬って来い。青影と帰るとしよう」「......」影森は呆れながら刑場の東海林を指差し「斬るのはあちらの首です」「そりゃそうだ」湛輝親王は笑みを浮かべながら、青影を連れて立ち去った。午の刻となり、東海林の断末魔の曲が響き渡る。玄武の手から令牌が落ちるのと同時に、首切り役人が大刀を振り上げた。真昼の陽光が刃に反射し、一瞬、血に濡れたかのような赤い輝きを放った。しかし、よく見れば、それは役人の腰の赤い帯が映り込んだだけのことだった。大刀が振り上げられた瞬間、東海林の胸中で恐怖が爆ぜ、頭の中が轟音と共に真っ白になり、気を失った。役人が背中の囚人札を外し、刃
三姫子は参鶏湯を老夫人に飲ませてから、楽章と共に老夫人の話に耳を傾けた。「あの時、私は確かに騙されていたのよ。あの長青大師が『萌虎は家運を盛んにする子』と言っていたと、そう思い込んでいたわ。あの頃、あの人は萌虎を可愛がってたのよ。萌虎が病に伏せば、誰よりも心配して、あちこちの医者を訪ね回ってね。なのに、萌虎の体は日に日に弱っていって……五歳になる頃には、もう寝台から起き上がることすらままならなくなってたわ」その記憶を語る老夫人の表情には、まるで心臓を刺されたかのような苦痛が浮かんでいた。息をするのも辛そうな様子で言葉を紡いでいく。「長青大師が言うには、このままではあと一ヶ月ともたないかもしれないって……石山のお寺に預けて、仏様のご加護を受けるしかないと。そうすれば十八歳まで生きられる可能性があって、その年齢さえ越せば、その後は順風満帆な人生が約束されるって言うのよ」「あなたの祖父は最初、そんな戯言は信用できないって反対したわ。でもね、あの人が長青大師を連れて祖父に会いに行って、何を話したのか……結局、祖父も同意することになった。それどころか毎年三千両もの銀子を長青大師に渡して、あなたの命を繋ぐ蓮の灯明を焚いてもらうことになったのよ。仏道両方からのご加護を受けるためってね」「でも、それは全部嘘だったのよ!」老夫人の声が突然高くなり、険しい表情を浮かべた。「私も、あなたの祖父も、みんな騙されていたの。実は長青大師はね、『萌虎は祖父の運気を奪う子で、生きている限り爵位は継げない。むしろ早死にするかもしれない』って告げていたのよ。あなたを殺そうとして、薬をすり替えていたの。微毒を入れたり、相性の悪い薬を組み合わせたり、気血を弱めるものを……だからあなたの体は日に日に弱っていったのよ」息を切らしながら、老夫人の目には憎しみが満ちていた。「私が気付いたのは、あの大火の後よ。長青大師があの人を訪ねてきて、書斎で長話をしていた時。私は外で……すべてを聞いていたの。我が子を害するなんて……許せない、絶対に許せないわ!」老夫人は両手を強く握りしめ、顎を上げ、全身に力が入っていた。相手はすでにこの世にいないというのに、その憎しみは少しも薄れていないようだった。三姫子は老夫人の様子を見て、何かを直感的に悟ったようで、信じられない思いで彼女を見つめた。「では、
何かに取り憑かれたかのように、普段は足元の覚束ない老夫人が、まるで若返ったように駆け出した。織世も松平ばあやも、その背中を追いかけるのがやっとだった。耳には自分の心臓の鼓動しか聞こえない。目に映る庭の景色は、長年心を焼き続けてきたあの業火の光景に変わっていた。火の中から聞こえてくる悲痛な叫び声。あの時、誰かに引きずられ、抱えられながら、炎が全てを呑み込んでいくのを、ただ見つめることしかできなかった。末っ子は、あの炎の中で命を落としたはずだった。焼け跡から多くの遺体が見つかり、どれが我が子なのかさえ、判別できなかった。何度も気を失うほど泣き崩れた。だが一度も、息子が生きているかもしれないとは考えなかった。そんな望みを持つ勇気すらなかった。あの子は病に衰弱し、歩くのにも人の手を借りねばならなかったのに。あの猛火の中を、どうやって逃げられただろう?正庁に駆け込んだ老夫人の目に、ただ一つの姿だけが映った。涙が溢れ出し、他の姿は霞んでいく。ぼんやりとした影を追うように、足を進めた。首を微かに傾げ、綿を詰められたような力のない、不確かな声を絞り出した。「あなたが……私の子なのかしら?」楽章には見覚えがあった。最も恨みを抱いていた相手だ。だが、この瞬間、止めどなく流れる涙を目にして、胸が締め付けられた。彼は黙って立ち尽くし、答えなかった。「母上!間違いありません、萌虎でございます!」鉄将が泣きながら叫んだ。「ああ……」老夫人の喉から引き裂かれるような悲鳴が漏れ、楽章を抱きしめた。漆黒の夜を越えて、過去の記憶が押し寄せる。心の一部が抉り取られるような痛みが、一つの叫びとなって迸った。「生きていたのね!」熱い涙が楽章の肩を濡らしていく。最初は無反応だった楽章の頬も、やがて涙で濡れていった。しかし、すぐに老夫人を突き放した。冷ややかな声で言う。「芝居はもう十分でしょう。人を食らう魔物の巣に私を送り込んだのは貴方たち。死んでいて当然だった。師匠の慈悲があって、ここにいるだけです。私は親房萌虎ではない。音無楽章という者です」「違う……」老夫人は必死に楽章に縋りつこうとする。「私は何も知らなかったのよ。何も……」激しい悲喜の入り混じった感情に押し潰され、老夫人は楽章の腕の中で意識を失った。喜楽館の中には幾つかの灯りが
鉄将は怒りに震える声で指を差し上げた。「戯言を!母上が実の子を捨てたことなど一度もない。兄上も私も、ここで立派に育ったではないか」「貴様らは無事でも、俺はどうなった?」楽章は咆哮した。声を張り上げすぎた反動で、胃が痙攣を起こし、しゃがみ込む。内力を使って、胃の中で渦巻く酒を押さえ込んだ。その言葉に鉄将は一瞬凍りつき、何かを思い出したかのように、楽章を見つめ直した。その目には、信じがたい現実への戸惑いが満ちていた。三姫子も嫁入り直後に聞いた話を思い出していた。姑は三人の息子を産んだが、末っ子は病に倒れ、寺に預けられた。そして寺の火事で命を落としたと、姑は目の前で見たはずだった。まさか……生きていたというのか?「お前の……名は?」鉄将の声は震え、唇は制御できないように小刻みに動いた。楽章の姿を必死に見つめている。「彼女に……訊け」楽章は胃を押さえたまま椅子に崩れ落ち、力なく呟いた。三姫子が近寄り、興奮を抑えきれない様子で言った。「思い出しました。あなたを見かけたことがある。何度か邸の前を行き来していた方……」楽章は黙したまま。三姫子は紫乃に目を向けた。紫乃は三姫子ではなく、楽章を見つめたまま話し始めた。「さあ、五郎さん。ここまで来たからには全てを話すのよ。あなたは親房萌虎。幼い頃から女の子のように育てられ、五歳で寺に捨てられた。数ヶ月で折檻され、死にかけたところを師匠が拾い上げ、命を救った。あなたに非はない。過ちを犯したのは彼らよ。きちんと説明を求めなさい」鉄将の体が雷に打たれたかのように硬直し、瞳までもが凍りついた。次の瞬間、絶叫とともに楽章に飛びつき、全身で抱きしめた。生涯で最も悲痛な声を絞り出す。「萌虎!お前は生きていたのか!」確かめる必要さえ感じなかった。ただひたすら楽章を抱きしめ、号泣を続けた。誰にも言えなかったことがある。末弟が死んでからというもの、何度も夢に見た。弟が生還する夢。まるで現実のような鮮明な夢。だが、目覚めれば常に虚しさだけが残った。楽章は鉄将を突き放そうとしたが、全身の力を込めた抱擁は微動だにしない。耳元で響く泣き声が煩わしい。楽章は口元を歪めた。胸の奥の屈辱が、少しずつ溶けていく。この家にも、自分を真摯に想う者がいたのだ。三姫子は目を潤ませ、急いで織世の手を力強く握った。声は震
程なくして、酔っ払った二人は西平大名邸に到着した。紫乃の身分を知る門番は、夜更けにも関わらず二人を通した。三姫子が病臥していることから、使用人は親房鉄将と蒼月に事態を報告に向かった。鉄将と蒼月は困惑の表情を浮かべた。こんな夜更けに沢村お嬢様が来訪するとは一体何事か。「男を連れているとな?何者だ?」鉄将が尋ねた。門番は答えた。「鉄将様、存じ上げない男でございます。態度が横柄で、邸内を物色するように歩き回り、椅子を二つも蹴り倒し、『人を欺きおって』などと罵り続けております」鉄将は眉をひそめた。「因縁でも付けに来たのか?まさか夕美が何か……」最近の出来事で神経質になっていた鉄将は、何か揉め事があれば、まず夕美が原因ではないかと考えてしまう。「違うかと……」門番は躊躇いがちに、細心の注意を払って続けた。「あの方が罵っているのは老夫人と……亡き大旦那様のことでして」展は爵位を継いでいなかったため、大名の称号はなく、屋敷の使用人たちからは「大旦那様」と敬われていた。孝行者として知られる鉄将は、亡き父と母を罵る者がいると聞いて激怒した。紫乃が連れて来た相手だろうとも構わず、「行こう。どんな馬鹿者が親房家で暴れているのか、この目で見てやる」と声を荒げた。鉄将は死者を冒涜するような無作法は、教養のない下劣な人間のすることだと考えていた。蒼月を伴い、怒りに任せて大広間へと向かった。一方、楽章が椅子を蹴り倒した時点で、既に使用人が三姫子に報告に走っていた。皆、このような事態は奥様でなければ収まらないと心得ていた。鉄将様には官位こそあれど温厚な性格で、酒に酔った荒くれ者を抑えきれまいと考えたのだ。三姫子は紫乃が連れて来た男が、亡き舅と病床の姑を罵っていると聞くや、急ぎ着物を羽織り、簡単な身支度を整えると、織世に支えられながら部屋を出た。病状は既に快方に向かっていたが、まだ体力は十分ではなかった。秋風が肌を刺す中、足早に歩を進めると、かえって血の巡りが良くなったように感じられた。正庁に着くと、普段は温和な鉄将の顔が青ざめ、まだ罵声を上げている男を指さしながら叫んでいた。「黙れ!亡き父上をどうして侮辱できる。何という無礼者め」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、男は鉄将の胸元を掴み、拳を振り上げた。三姫子は咄嗟に「待て!」と声を上
青葉が追いかけると、楽章は手を振り続けながら歩き続けた。「何も言わなくていい。たいしたことじゃない」「五郎、これは私たちの推測に過ぎない。真実とは限らないんだ」青葉は楽章の性格をよく知っていた。心に苦しみを抱えても決して口にせず、ただ世を避けて別の場所へ去っていくのが常だった。「大丈夫だよ、大丈夫。酒でも飲みに行くさ」楽章は笑いながら言った。「折角の秋風、この爽やかな天気には、美人の相手でも探すとするか」紫乃は前に出て、彼の腕を取った。「私が付き合いましょう」紫乃もつい先ほどまで知らなかったのだ。彼の母は側室などではなく、西平大名家夫人その人であり、親房甲虎や夕美と同じ母から生まれた実の兄弟だということを。「俺の行くところはお前には相応しくない」楽章は紫乃を振り切ろうとした。「勝手に決めないで」紫乃は構わず彼の腕を掴んだ。「あんたの会計は私が持つわ」「金なら持ってる。付いて来るな」楽章は彼女の手を振り払い、急に意地の悪い調子になった。「俺がそんなに貧乏だと思ってるのか?お前に飲み食いの面倒を見てもらう必要なんてない。恩を売られるのも御免だ。本当に、お前たち女というのは……自分がどれだけ鬱陶しいのか分かっていない」紫乃は怒る気配もなく、にこやかに言い返した。「女が鬱陶しいだけ?男は大丈夫なの?」その笑顔を見て、楽章は不機嫌そうに吐き捨てた。「どっちも同じだ。みんな面倒くさい」「じゃあ、馬を走らせに行きましょう。人なんて誰も見なくていいわ」紫乃は彼を引っ張って厩舎へ向かった。「この爽やかな風に乗って走れば、嫌なことなんて全部吹き飛ぶわ」「行かない!」「行くの!」紫乃は笑顔を引き締め、険しい表情になった。「乗馬が嫌なら酒でもいい。でも、今日は私の相手をしてもらうわ。私も気が滅入ってるのよ」二人の姿が遠ざかるにつれ、声も次第に聞こえなくなっていった。結局、紫乃の思い通り、彼女は楽章を連れ去ることに成功した。さくらは肩を落とし、胸が締め付けられる思いだった。どうしてこんなことに……師匠はきっと真実を知っていたのだろう。ただ、嘘の方が優しかったから黙っていたのだ。余計なことをしてしまった。何も調べなければ良かったのに。誰も声を上げる者はいなかった。この調査の結果が良かったのか悪かったのか、それを判断できる者など
有田先生と道枝執事の調査により、事態は当初の想定よりも複雑であることが判明した。深水青葉の証言によれば、師匠の調査では、親房展は幼い萌虎が家に福をもたらすと考えていたという。ただ、その代償として自身の体調を崩し、都の名医を幾人も訪ねたものの効果なく、やむを得ず寺に預けることになったとされていた。これだけを見れば、展は末っ子である萌虎に深い愛情を注いでいたと解釈できる。末子は往々にして可愛がられるものだからだ。しかし、道枝執事が西平大名家の古参の執事や女中たちから聞き出した話は、まったく異なっていた。亡くなったとされる子に対して、展は強い嫌悪感を示していたというのだ。最初はどうだったか記憶は定かでないものの、後になってからの扱いは明らかに冷たかったという。彼らは具体的な出来事も語ってくれた。当時の大名様の誕生祝いの席で、今の音無楽章、当時の萌虎は大名様に抱かれて宴席に入った。その頃、大名様の体調は随分と回復しており、足取りも軽やかだったという。ところが、展は後日、「祖父を疲れさせた」という理由で萌虎を引きずり出し、竹の定規で手のひらを十回も打ち据えたのだ。こうした出来事は、主だった者たちの耳には入らなかったかもしれないが、確かに目撃した使用人がいたのだ。もう一つの出来事は、当時の大名様が萌虎を狩りに連れて行った時のことだ。白狐を仕留め、その毛皮を萌虎に与えたのだが、後になってその毛皮は三女の親房夕美の身に纏われることになった。他にも細かな出来事が数多くあった。展が萌虎に向ける嫌悪の表情を目にした使用人は少なくなかった。道枝執事に情報を漏らした者たちもその一人だ。当時はまだ別家しておらず、皆が同じ屋敷で暮らしていた。展は感情を隠すのが上手くない人物で、自分でも気づかぬうちに感情が顔に出てしまうことが多かった。さらに気になる点がある。萌虎の病の治療に関してだ。医師は確かに大名様が呼んだのだが、薬を煎じる際には数味の生薬が差し替えられていた。展は薬を調合する下女や小姓たちに口外を禁じ、これらは丹治先生から授かった良薬だと言い張った。大名様の機嫌を損ねないための配慮だと説明していたという。萌虎を寺に預ける話が持ち上がった時も、大名様は最初、その妖術使いの力を疑って強く反対していた。しかし、妖術使いが大名様と何度か面会を重ねるうち
しかし、執事からの報告に、三姫子は首を傾げずにはいられなかった。売り出した資産は次々と買い手が付き、しかも市価より一、二割も高値で取引されていた。長年家政を取り仕切ってきた経験から、資産の売買は常に相場に従うものと心得ていた。一軒や二軒が若干高値で売れることはあっても、最近売却した物件すべてがこれほどの高値とは。不可解でならなかった。もしや王妃様が自分の資産売却を知り、急な銀子の調達だと思って、高値で買い取ってくださったのではないかとさえ疑った。売買契約書を取り寄せ、買主の名を確認すると「風早久時」とある。聞き覚えのない名前だった。「北冥親王邸に風早久時という執事はおりませんか?」三姫子は執事に尋ねた。「存じ上げません」「では、この買主は何者なのでしょう」相場を大きく上回る値段で買い取るとは、何か裏があるのではないかと不安が募る。だが、よく考えれば、すべて正式な契約書があり、登記も済み、仲介人も立ち会っている。完全な合法取引なのだ。何を心配することがあろう。「もういい。残りは売らないことにしましょう。お義母様の耳に入ることは避けたいので」三姫子は言った。資産の売却は老夫人にも、鉄将にも蒼月にも黙っていた。家政に関わっていない彼らが詮索することもないだろう。もし発覚しても、その時は事情を説明すればよい。これは決して自分のためだけではないのだから。とはいえ、買主の件は気になっていた。この日、さくらが見舞いに来た際、さりげなく尋ねてみた。「王妃様、風早久時という方をご存じですか?」さくらは目を上げ、少し考えてから言った。「風早久時?風早という姓は都では珍しいですね。何かお困りごとでも?三姫子は首を振った。「いいえ、そうではありません。先日、少し離れた場所にある店を売りに出したところ、風早という方が買い手として現れ、市価より二割も高い値段を提示してきたのです」「それは良いことではありませんか?得をなさったということで」さくらは微笑んで答えた。「最初はそう思ったのですが、相場は誰でも調べられるはず。それなのに、先方から高値を提示してきたことが、何だか不自然で」「正式な売買契約さえ済んでいれば、高値であっても問題はありませんよ。幸運だと思えば良いのでは」さくらは柔らかく答えた。三姫子には確信があった。王妃は
夕美の涙は止まらなかった。「でも、あの人に前途などありません。一兵卒になるなんて……私はこれからどう人様に顔向けすれば……ただ自分を卑しめたくなかっただけなのに。上原さくらだって、あの時離縁を望んで、わざわざ勅許までいただいた。それほど決意が固かったのに、私が彼女に負けるわけには……」お紅は心の中で、今の状況の方がよほど世間体が悪いと思ったが、口には出せなかった。「お比べになることではございません。人それぞれ、歩む道が違うもの。王妃様より劣る人もいれば、優れた人もおります。王妃様に勝ったところで、他の方々にも勝てるとは限りません」「どうして、前にこういう話をしてくれなかったの?」夕美の声に苦い響きが混じる。「申し上げても、お聞き入れになられなかったでしょう」お紅は簾を下ろしながら言った。「御者、参りましょう」椿の花が刺繍された紅い錦の座布団に寄り掛かりながら、夕美の心に得体の知れない不安が忍び寄った。突如として気づいたのだ。もう誰も自分を望まないかもしれないという現実に。さくらのように、離縁を経てなお、凛々しく勇猛で戦功赫々な親王様を夫に迎えることなど、自分には叶わない。「お紅」夕美は突然、侍女の手を掴んだ。青ざめた顔で問う。「守さんは……本当に軍功を立てることができるかしら?」「お嬢様」お紅は静かに答えた。「人の運命は分かりませんもの。将軍の座に返り咲くかもしれませんし、このまま落ちぶれて、二度と立ち直れず、将軍家まで取り上げられるかもしれません」「こうなっては、もう出世など望めないでしょう」夕美は虚ろな声で呟いた。「あの人と共に老い果て、持参金を使い果たし、最後には将軍家まで陛下に召し上げられる……そんな人生を送っていたら、本当に私の人生は台無しになっていた。私の選択は間違っていない。間違っていないのよ」最初は北條守に好感を持っていた。端正な容姿で、陛下の信任も厚く、宰相夫人の取り持ちだった。だが次第に、優柔不断で決断力に欠け、感情に流されやすい性格が見えてきた。主体性のない男。そこへわがままな平妻がいて、さらには輝かしい前妻までいる。大名家の三女である自分は、あまりにも影が薄く感じられた。将軍家に嫁ぐ前は、きっと皆に愛されるはずだと思っていた。しかし現実は期待と余りにも懸け離れており、次第に守への怨みが募っていった。
紫乃は今日、天方家を訪れていた。村松裕子の病に、薬王堂の青雀が呼ばれていたのだ。日が暮れても紫乃は帰らず、そうこうするうちに夕美の一件が屋敷にも伝わってきた。天方許夫の奥方は、裕子には知らせぬよう取り計らっていた。だが、それも束の間の隠し事に過ぎなかった。不義密通だけでなく、密かな懐妊まで。今や十一郎は夕美の夫ではないとはいえ、大きな影響を受けずにはいられなかった。結局のところ、それは天方家での出来事なのだから。「天方十一郎様は、もしや男として……だからこそ夕美さんが他の男に……」「戦場に出られて間もない時期に、どうしてこんなことに……」と、陰口も囁かれ始めた。また、夕美は慎みのない女、死罪も相応しいほどの不埒な行為だという声も。光世も非難の的だった。「従兄弟の情も忘れ、天方家の情けも踏みにじって、人としてあるまじき行為」と。結局のところ、世間は光世と夕美を糾弾し、十一郎を無辜の被害者として憐れむばかり。北條守のことは少し話題に上がったものの、すぐに立ち消えた。将軍家でどんな醜聞が起ころうと驚くに値しないと思われていたからか。彼と夕美の離縁さえ、もはや誰も口にしなかった。その夜、紫乃とさくらは親王家に戻り、今日の出来事について少し話し合った後、互いに顔を見合わせて深いため息をついた。これまでは他人事のように見ていた騒動も、大切な人が巻き込まれると、自分のことのように心配になるものだ。賢一は今夜もいつもどおり稽古に来ていたが、いつも以上に真剣な様子だった。今の自分には力不足で、何の助けにもなれない。だからこそ、早く強くなりたいのだと。棒太郎が休憩で茶を飲みに来た時、さくらと紫乃にそう伝えた。さくらは三姫子の娘も女学校で一生懸命勉強していることを知っていた。三姫子の子供たちは、特別秀でているわけではないが、物事をよく理解し、粘り強く、冷静さを持ち合わせていた。稽古が終わり、棒太郎が賢一を送って行く途中、親房夕美の馬車が西平大名家を出て行くのを目にした。夕美の乗る馬車の後ろには、荷物を積んだ数台の馬車が続いていた。夕美は夜陰に紛れて立ち去ろうとしていた。馬車に乗る前、夕美は賢一の姿を見つけ、立ち止まって挨拶を待った。だが賢一は、まるで夕美など存在しないかのように、そのまま屋敷に入ろうとした。「賢一