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第807話

Author: 夏目八月
この瞬間、さくらと紫乃の胸は共に締め付けられた。

「永愛ちゃん、お姉さんと一緒に別のところに行こうか?」紫乃は気持ちを落ち着かせ、優しく女の子に問いかけた。

一歳の幼女は、まだ言葉もままならず、ただ「あーちゃん」と繰り返すばかりだった。

「うん、お母さんに会いに行こうね」紫乃は微笑んで応えた。

さくらと目を合わせると、二人とも重い表情を浮かべた。たとえ行ったとしても、住職か誰かに育てられ、椎名青妙の側で暮らすことはできないのだから。

乳母がおんぶ紐を持ってきて、紫乃に永愛をおんぶさせた。乳母が同行しないと分かると、永愛は暫し泣き叫んだが、なだめられてようやく落ち着き、紫乃は馬を引いて出発した。

棗葉荘の外に出ると、一台の馬車が停まっていた。さくらは馬車の紋章を見て、斎藤式部卿家のものだと分かった。

彼女は躊躇した。式部卿だろうか、それとも斎藤忠義か?あるいは......

紫乃も気づき、馬の手綱を引いたまま足を止めた。後ろに手を伸ばし、永愛の背中を軽く叩いて、おとなしくするよう促した。

しばらくして、馬車の簾が上がり、憔悴した婦人の顔が現れた。

青灰色の錦の衣装を纏い、髪には控えめな装飾を施している。目は赤く腫れ、二人を見つめたが、唇が僅かに動いただけで、何も言葉を発することはなかった。

馬車の中には老女がおり、婦人の肩を抱きながら、小声で慰めているようだった。

さくらは彼女を認識していた。斎藤式部卿夫人だ。胸が高鳴った。

明らかに、この子に危害を加えるつもりはない。そうでなければ、老女一人だけを連れてくることはないだろう。

尚式部卿は家庭内の問題は解決したと言っていたが、それも嘘だったようだ。夫人を愚かな女だと思い込んで欺いていたのだろうが、これほど大きな家を切り盛りしてきた斎藤夫人が、そんなに単純なはずがない。

ただ、夫の前では敢えて単純を装っていただけなのだ。

さくらは近寄らず、夫人も動かなかった。数瞬の視線の交錯の後、さくらは馬に跨った。余計な混乱は避けたかった。

「お待ちください!」斎藤夫人が声を上げた。御者が踏み台を用意し、夫人は老女と共に馬車を降りた。

紫乃は一歩後ずさりし、夫人の意図を図りかねていた。

斎藤夫人と老女が近づいてくると、永愛は紫乃の背中から顔を覗かせ、涙の残る瞳で夫人を不思議そうに見つめた。

夫人の
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    紫乃が出てきて尋ねた。「何があったの?」さくらは大まかな説明をし、不快感を露わにした。「あの斎藤式部卿は以前、椎名青妙の側に子供を置けないと言っていたのに、今になって子供を寄越すなんて。式部卿という立場でありながら言行不一致も甚だしい。自分の子供の面倒すら満足に見られないのなら、なぜ産ませたのか。子供は何も悪くないのに」紫乃も、そのような人物に憤りを感じていた。「きっと、自分で面倒を見ると言ったのは一時の感情で、よく考えたら無理だと思い直して、寺に頼み込んできたのでしょう。でも、送り込んでおきながら母子を一緒にさせず、孤児として住職に預けるなんて、正気の沙汰じゃないわ。れっきとした親がいるのに孤児として扱うなんて、まるで自分で自分を呪っているようなものじゃない」「もう放っておきましょう」さくらは言った。「私たちは必要な手配をすればいい。斎藤家が育てないというなら、寺で引き取るしかないわ。式部卿夫人にとって、椎名青妙にしろこの子にしろ、その存在自体が残酷なものでしょうけど」「確かに。壊された幸せは、もはや幸せとは言えないものね。でも、本当に夫人は何も知らなかったのかしら?」「それは夫人自身にしか分からないことでしょう」「そうそう」紫乃は名簿を確認しながら尋ねた。「衛国公家の椎名青露が来ていないけど、図面を盗んだ件は、陛下が別途お裁きになるの?」さくらの冷たかった瞳が少し和らいだ。「椎名青露には杖刑二十度、衛利定には三十度と二年の減俸刑が言い渡されたわ。ただ、青露の二十度は衛利定が代わりに受けて、結局五十度の杖刑を受けることになったの。昨日執行されたけど、命が危ういほどだったわ」「この人は少なくとも筋は通してるわね。斎藤式部卿と比べたら、雲泥の差だわ」と紫乃は言った。「そうね」さくらは応じた。「でも、地位が上がれば上がるほど、考慮すべきことも増えるのよ。斎藤式部卿は名声も高く、要職に就いている。その評判に傷をつけることは許されない。だから簡単に切り捨てられる。確かに今の状況だけを見れば、衛利定の方が男らしく見える。でも、衛利定が式部卿の立場になった時、果たして椎名青露を守り続けられるかしら?それに、二人の状況は違うわ。式部卿の場合は隠し事の妾だけど、衛利定の場合は正式な関係で、生まれた子供も衛国公家に認められているのよ」「もう、ご

  • 桜華、戦場に舞う   第805話

    さくらは冷ややかな目を向けた。「斎藤殿は道理をわきまえた方だと思っておりましたが、私の見込み違いだったようですね。『被害者ではない』などと、何気なく口にされましたが、その一言でどれほどの命が危うくなるかご存知ですか?これらの女性たちだけでなく、彼女たちが仕えた名家までもが連座の憂き目を見ることになります」さくらがこう言うのは、彼を責めたいわけでも、鬱憤を晴らしたいわけでもない。斎藤忠義は今や陛下の信頼厚い側近大臣となっている。彼女に向かって言えることは、陛下にも進言できるのだ。陛下は今、賢明な君主としての名声を築こうとしている。数年後、基盤が固まった時に斎藤忠義の言葉を思い出せば、後患を断つという考えに至らぬとも限らない。そうなれば、女性たちの生きる道は完全に断たれてしまう。忠義も自分の失言を悟り、その話題には触れまいと「では、上原殿、その子を孤児として寺に引き取っていただけるよう、住職にお取り次ぎいただけませんでしょうか。これは実は彼女たちのためでもあります。少なくとも母子は共に暮らせるのですから」「それが斎藤家のご決断ならば、住職には話してみましょう。ですが、これが彼女たちのためだとおっしゃる点には、私は同意できかねます。実の親がいながら、孤児として扱われる子。母娘は同じ場所にいながら、親子と名乗ることもできない。特に最初は、二人を引き離さねばなりませんね。たとえ椎名青妙さんが抱きつかなくとも、たった一歳の幼子が実の母を見分けられないとでも?」忠義の体裁の良い言葉は、さくらの容赦ない指摘によって、完全に粉々に砕かれた。さくらは以前、斎藤式部卿に子どもを寺に預けることを提案したことがあった。母子が共に暮らせるようにと。しかし、斎藤忠義の今の提案は、その関係を隠したままにしておきたいという意図が見え透いていた。つまり、同じ屋根の下にいながら、実際には親子として暮らせないということだ。これは彼女の当初の提案とは全く異なる。そもそも式部卿は、子どものことは心配するなと言っていたはず。それがなぜ今になって、こうして彼女に頭を下げているのだろうか。忠義はほとんどさくらの顔を見ることができなかった。彼だって分かっているはずだ。本当にその子を大切に思うなら、最善の策は屋敷に引き取ることだ。母は失望するかもしれないが、庶子庶女を虐げるような人ではな

  • 桜華、戦場に舞う   第804話

    東海林家から五万両が届けられた。被害女性たちの救済金だという。東海林夫人は貧しさを嘆き続け、これだけの金額を用意するだけでも家中の財産を掻き集めたのだと訴えた。さくらは夫人の嘆きを遮った。「陛下の命により、十万両を用意なさい。一文たりとも少なくてはなりません。三日後、あなたの息子は処刑されます。その前に、東海林家の皆様には最後の面会が許されています」夫人は当然のように会いたがった。十月の胎を痛めた実の子である。しかし、東海林家当主の冷たい眼差しを感じ取ると、啜り泣きながらこう言った。「もう会うまい。会ったところで......ただ怒りが増すばかり。あのような所業を働いた者は、もはや東海林家の人間ではございません」「そうだ。重罪を犯した者だ。会わぬが良かろう」東海林当主も同調した。今や彼らは息子との縁を切ることに必死だった。息子を思う気持ちがないわけではない。ただ、どのみち死刑は確定している。せめて家族への累が及ばなければそれでいいのだ。さくらは通達の義務を果たしただけだった。面会するかどうかは彼らの判断に委ねられている。会わないというのなら、藩札を受け取って帰らせるだけだ。五万両という額は、東海林夫婦なりの駆け引きだった。一度に十万両を差し出せば、豊かな資産の存在を疑われかねない。また、陛下が大長公主府の没収財産から幾分かを充てるだろうとの思惑もあり、できるだけ少なく済まそうとしたのだ。しかし、一文たりとも減額は認められない。翌日、残りの五万両が届けられた。さくらはその金を、帰郷できる女性たちに分配した。もはや誰も彼女たちを側室と呼ぶことは許されない。今や彼女たちは自分自身の人生を生きる者であり、誰かの付属物でも所有物でもない。ただし、多くの女性たちには年齢の異なる娘たちがおり、、そのため離れることを望まず、大半は梨水寺への同行を選んだ。椎名紗月は梨水寺には行かないが、沢村紫乃が彼女の動向に責任を持つことになった。湛輝親王家の椎名青影も同様だ。湛輝親王は「あの子が豚になるまでは手放さん」と冗談めかして言った。斎藤家の妾であった椎名青妙は、斎藤忠義が梨水寺まで付き添ってきた。ちょうど諸事の手配をしていたさくらは、忠義の姿を認めると、人々に青妙の受け入れを指示した。忠義は懇願するような眼差しでさくらを見つめた。「上原殿、少し

  • 桜華、戦場に舞う   第803話

    大長公主の一件の後は、東海林椎名の番となった。勅命が下され、その罪状は一言で「強姦、拉致、殺人を含むあらゆる悪行」と要約された。東海林は自分が死を免れないことを悟り、側室たちとの面会を願い出た。玄武に哀願する。「彼女たちとは夫婦の契りを交わし、子まで儲けた仲。ただ、私をあまり恨まないでほしいのです。彼女たちだって分かっているはずです。私には選択の余地がなかった。必死に生き延びようとしたのも、彼女たちが影森茨子に殺されないようにするためでした。確かに申し訳ないことをしました。どうか陛下にお取り次ぎください。彼女たちに土下座して謝罪させていただきたいのです」一言一句が責任逃れで、男としての覚悟など微塵も感じられなかった。彼は東海林侯爵家のことには一切触れなかった。東海林家を守ろうとしているのは明らかだった。今は爵位こそ失ったものの、陛下は家財没収を命じておらず、その基盤は依然として健在で、さほど困窮することもないだろう。玄武は、かつての義理の叔父となるこの男を見つめながら、わずかに身を乗り出した。「偽善的な仮面は外しなさい。小林鳳子さえも、あなたが最愛だと口にする彼女でさえ、一目会おうともしない。彼女はとうにあなたの本性を見抜いていた。まあ、謝罪したいというのなら、死後に被害者一人一人に詫びを入れるがいい」東海林は苦笑を浮かべた。「死後、私が謝るべき相手には必ず謝罪いたします。すべては私の過ちです。彼女たちを守れなかった。親王様、かつての叔父という縁を思い出していただけませんか。紗月だけでも会わせていただけないでしょうか。最期に、肉親に一目会わせていただきたいのです」「肉親に会いたいと?それなら簡単なことだ」玄武は冷ややかに言った。「今すぐ東海林家からお前の甥や姪を呼び寄せよう。あるいは儀姫に最期の見送りをさせるか」哀願に満ちていた東海林の表情が一瞬こわばり、ゆっくりと手を下ろすと、諦めたように呟いた。「もういい。どのみち死ぬ身、会ったところで何になろう。どうか親王様から私の謝罪の言葉だけでも伝えていただけませんか。来世では畜生となって償いをいたします」玄武は冷たい眼差しで彼を見据えた。「死に際の言葉は善なりと言うが、お前は死に瀕してなお悔い改める気がないのか。あの女性たちをこれほどまでに苦しめておいて、まだ足りぬというのか。最期

  • 桜華、戦場に舞う   第802話

    激痛に耐えながら、親房虎鉄は狂気じみた怒りに駆られ、目上への不敬も顧みず、さくらに向かって飛びかかった。結果として、左右から顔面に拳を叩き込まれたが、さくらがどのように攻撃を繰り出したのか、最後まで見切ることはできなかった。さくらは都に戻ってからというもの、実に思いやり深く、人の気持ちを汲み取る人物となっていた。虎鉄の目にもはっきりと見えるよう配慮してか、彼の胸元の衣を掴み、拳を振り上げた。虎鉄が両手で防御の構えを取ったにもかかわらず、その隙間を縫うように顔面に的確な一撃を浴びせた。そして虎鉄が驚愕する間もなく、さくらは蹴りを放った。彼は再び壁に叩きつけられ、崩れ落ちた。今度の動きは一つ一つがはっきりと見えたのに、それでも避けることができなかった。蹴り出しの動作は緩やかで、軌道も遅く見えた。だが空中での突然の加速と、相手の退避方向を読んだ精確な軌道修正により、虎鉄は自分が打たれ、蹴られるのをただ見ているしかなかった。虎鉄の顔は怒りで紫色に変わっていた。痛みのせいか、この二発の蹴りが相当効いたらしく、丹田から気を集めることすらままならない様子だった。さくらは軽く袖を払い、新田銀士の驚愕の表情を見やりながら告げた。「始めなさい。私が監視する」新田の目は驚きから畏怖へと変わった。「は、はっ!」衛士に支えられて近寄ってきた親房虎鉄は、先ほどまでの高慢な態度は影を潜め、さくらの前では思わず頭を低くしていた。大長公主が押さえつけられると、凄まじい悲鳴を上げ、その後は毒々しい呪詛の言葉を吐き始めた。さくらの先祖代々までをことごとく呪い立てた。さくらはほとんど反応を示さなかったが、いよいよ処置が始まろうとする時になって、冷ややかに一言だけ投げかけた。「そう呪うことしかできなくなったのね」歯を抜くという行為は確かに残虐に見えるが、茨子があの女性たちにしたことと比べれば、取るに足らないものだった。官庁の役人たちは手慣れた様子で、茨子をうつ伏せに押さえつけ、一人が口を無理やり開かせ、もう一人が鉗子を手に作業を始めた。刑部での拷問の時でさえ、茨子はここまで凄まじい悲鳴を上げなかった。あの時の苦痛は確かに激しかったが、少なくとも体は無事なままだったからだ。しかし今や歯を抜かれ、手足の筋を切られては、武芸の心得のない者として、もう二度

  • 桜華、戦場に舞う   第801話

    馬車が官庁に到着すると、さくらは影森茨子を引きずり降ろした。皇族の要犯を監督する官吏の新田銀士が出迎え、引き継ぎを済ませると、すぐさま茨子の全身に重い鎖を掛けるよう命じた。「上原殿」新田は前置きもなく切り出した。「陛下の御意により、影森茨子が舌を噛んで自害するのを防ぐため、歯の大半を抜き、手足の筋を切ることになっております。上原殿にもその場に立ち会っていただき、ご確認願います」「よくも......」茨子は歯を食いしばり、憎々しげに吐き捨てた。「案内してください」さくらは淡々と返した。茨子が引き立てられながら中へ連行される間、馬車の中での冷静さは影も形もなく、怒りの咆哮を上げ続けた。官庁は広大な敷地を持ち、東西は広い通路で区切られていた。東側が執務棟、西側が収監施設となっている。ここで収監されるのは皇族のみということもあり、一般的な牢獄はなく、それぞれ独立した小さな中庭付きの区画に分かれていた。とはいえ、収監区域は高い壁に囲まれ、厳重な警備が敷かれていた。さくらはすでに衛士統領の親房虎鉄に命じ、警備の増強を要請していた。衛士の姿は見えるものの、親房虎鉄の姿はまだなかった。新田は官庁の官吏として、この施設の収監者全員を管理する立場にあった。通常は官庁独自の衛士たちが警備に当たるが、茨子は陛下からの「特別な配慮」により、衛士による監視が追加で命じられていたのだ。収監区画に着くと、茨子は中へ押し込められた。すでに数人が待ち構えており、古びた矮卓の上には抜歯用の鉗子と、手足の筋を切るための鉄の鉤が不吉げに並べられていた。「このような真似を!」茨子は必死に抵抗したが、全身を縛る重い鎖が邪魔をして、かえって体勢を崩し、前のめりに膝から崩れ落ちた。新田はこうした光景に慣れているかのように、微動だにせず冷めた調子で言い放った。「確かに公主の身分は剥奪されましたが、それでもなお官庁での収監が許されたのは、陛下の御慈悲。今の一礼で、その御恩に感謝したことになりますな」その言葉が終わるか否かのうちに、部下たちに茨子を引き起こすよう命じた。彼女の口元は血に染まっていた。転んだ衝撃で、再び唇を切ったのだ。さくらは新田の言葉を聞きながら、かつて四貴ばあやが語った言葉を思い出していた——身分の高き者が卑しき者に対して何をしようと、それは恩寵な

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