Share

第813話

Author: 夏目八月
翌日、東海林椎名の処刑が執り行われることとなった。影森玄武が監察官を務め、禁衛府の者たちが警備線を張り、秩序維持に当たった。

玄武は本来、さくらを行かせたくなかった。確かに東海林は憎むべき存在ではあったが、首謀者ではない。また、斬首という血生臭い場面を、さくらに見せたくはなかったのだ。

だが、さくらはどれほどの残虐な場面を見てきただろうか。東海林が首謀者でなかったにせよ、私利私欲のために悪に加担し、その弱さゆえに多くの人々を苦しめた。それは紛れもない重罪だった。

だから、彼女は行くと決めたのだ。

早朝から、刑場の周りは人々で溢れかえっていた。処刑は午の刻とされていたため、禁衛はまだ警備についておらず、刑場周辺は騒然としていた。露店の商人たちまでもが、商売を始めている始末だった。

臆病な者たちは見物には来ないし、子供たちは禁止されていた。もっとも、禁止されていなくとも、親たちが子供を連れては来なかっただろう。

しかし、世の中には物見高い連中が付き物だ。特に今回は公主の夫君という高位の者の処刑とあって、普段なかなか見られない光景とばかりに、大勢の人々が集まっていた。

この刑場が最も賑わうのは例年、秋口のことだった。死刑囚の多くが、秋の終わりに処刑されるのが通例だったからだ。

巳の刻を過ぎると、山田鉄男が禁衛府の兵を率いて現れ、秩序の維持に当たり始めた。刑場の周囲に縄を張り、境界線を設けて、民衆を全てその外側へと下がらせた。

東海林椎名はまだ刑部におり、刑場へ向かう前のことだった。死刑執行の前には、刑部から豪勢な食事が振る舞われる。最期の道中を、せめて腹一杯にして送り出すためだ。

東海林は最初こそ平静を装っていたものの、食事が運ばれてくると、全身を震わせ始め、一言も発せず、箸もつけなかった。

刑部丞の小倉千代丸が自ら見送りに来て、声をかけた。「食べなされ。腹いっぱいの死人の方が、餓えた死人より幾分ましというものだ」

その言葉が、かえって逆効果だった。東海林は恐怖のあまり、その場で失禁してしまった。

震える手で箸を取ろうとしては置き、また取ろうとしては置き、やがて千代丸に向かって掠れた声で訊ねた。「東、東......海林爵家からは......誰も来て......はおりませんか」

小倉千代丸は答えた。「もう東海林侯爵家などありはしない。東海林家の者
Locked Chapter
Continue Reading on GoodNovel
Scan code to download App

Related chapters

  • 桜華、戦場に舞う   第814話

    やがて、堰を切ったように言葉が溢れ出した。「全て、私の本意ではなかったのです。もう一度選び直せるのなら、断じて公主様との縁など......東海林侯爵家が没落しようと、それでも侯爵家。その基盤は揺るがない。どれほど零落しようと......」「私は挙人の身。文章生も目指せた。決して一つの道だけではなかったはず。なぜ、あんなにも愚かだったのでしょう。前途有望だったというのに。賢淑な女性を正妻に迎え、二、三人の側室を持ち、三、四人の息子と数人の娘にも恵まれ、縁組みで家の繁栄も......近道だと思っていたものが、死への一本道だったとは」箸が再び取り落とされ、肩を震わせて泣き崩れた。千代丸は落ちた箸を拾い上げながら言った。「今更、後悔しても詮無いこと。行動こそが実を結ぶ。知っていることを話せば、まだ転機はある。だが、黙ったままでは死あるのみ」東海林は暫く顔を覆って泣き続けた後、やっと手を放し、袖で涙と鼻水を拭った。拷問の後遺症か、その動作は緩慢で不器用で、背中も丸まったままだった。「もはや......どちらを選んでも死路。転機など......ありはしない」長年、官途に在った千代丸は、ありとあらゆる悪人、凶徒を見てきた。死に直面して後悔し、一縷の望みにすがろうと、知っていることを残らず吐露する者も少なくなかった。しかし、東海林は大悪人には見えないのに、この上なく冷静な理性を保っている。斬首という極刑を目前にしながらも、なお利害を冷静に判断できる。これほどの聡明さと冷静さを持ち合わせていながら、なぜ当初、影森茨子の術中に陥るのを避けられなかったのか。結局は、私利私欲に目が眩んだということか。最初は抵抗があっただろう。それが次第に半ば強いられ、半ば従うようになり、最後には謀略の渦中で操り手となっていた。影森茨子が黒幕で、自分は被害者を装えば罪を逃れられると考えたのだろうが、それは大きな誤算だった。千代丸はもう何も言わず、静かに待った。やがて、東海林は泣き止み、顔を上げてポツリと訊ねた。「首が落ちた時......すぐに、死ねるものでしょうか」千代丸は適当に答えた。「首を落とされた経験はないから分からんが、検屍官の話では、首が落ちて体が分かれても、しばらくは意識が残るそうだ。自分の首が落ちたことも分かるとか。まあ、私も経験したことはないから、

  • 桜華、戦場に舞う   第815話

    刑場に着くと、東海林は引き立てられ、刑場の中央に跪かされた。刀を携えた屈強な首切り役人が傍らに立ち、その刃が陽光に煌めいている。恐怖で膝が震え、跪いていられなくなった東海林は、すがるような目で群衆を見渡した。辺りは喧騒に包まれているはずなのに、彼の耳には何も入ってこない。ただ自分の心臓の鼓動だけが、胸から飛び出さんばかりに太鼓を打つように響いていた。背後の監察官、影森玄武の姿は見えないが、かすかに声だけが聞こえる。振り返ろうとしても、背後に立てられた札のせいで首を回すことができず、ただ鼻を押さえ、嫌悪の表情を浮かべる首切り役人の顔だけが目に入った。その時になって初めて、自分が大小便を漏らしていたことに気づいた。恐怖が毒蛇のように肌から内部へと這い込んでくる。怖い、怖くて堪らない。とうとう、群衆の中に見覚えのある顔を見つけた。狂喜して、掠れた声を振り絞る。「青影......青影よ......」湛輝親王が、ふくよかな椎名青影を連れて規制線の外に立っていた。葡萄のように黒い瞳で父を見つめ、視線が合う。しかし青影の目には、実の父親の恐怖も喜びも映っていないようで、ただ無感情に見つめ返すだけだった。「何か食べ物でも持って行ってやるか?」湛輝親王が青影に尋ねた。「もう満腹なのではないでしょうか」青影は淡々と答えた。親王は頷いた。「そうだな。刑部で最期の食事は出されている筈だが......何か言葉をかけてやりたいことはないのか?」青影は少し考えて言った。「私、近づいて話してもいいのですか?」「遺言を聞くことはできるだろう」青影は言った。「では、一つ訊ねたいことがあります」「では行こう」湛輝親王は言った。「監察官に会いに行こう。わしの甥の孫だ。老人臭いなどとは言わん優しい者でな」「今の私は臭いとは思いませんよ。ただ歳を召し過ぎているだけかと」青影は親王の後に続いた。今日の着物は体に合っていたため、そこまで太って見えず、ただ丸みを帯びた愛らしい姿で、まるで幸せを招く縁起物のようであった。監察台に向かった湛輝親王は玄武に言った。「玄武よ、この子が東海林に質問があるそうだ」玄武はさくらの方を一瞥した。さくらは「私も同行いたしましょう」と申し出た。親子とはいえ、さしたる情愛があるわけでもない。しかし青影は湛輝親王の庇護下にある

  • 桜華、戦場に舞う   第816話

    さくらは、彼女がなんと特異な少女かと感じた。あのような環境で育ちながら、一日一日を精一杯生きることだけを考え、できる限り自分を卑下することなく生きている。父親に対して、愛でも憎しみでもなく、ただ嫌悪感だけを抱いている。「上原様」青影は尋ねた。「首を斬られた後、引き取り手がいない場合、遺体はどうなるのでしょう?晒し者にされるのですか?」「引き取り手のない場合は、簡単な土葬となります。ただし、謀反の首謀者であれば、晒し者にされることもありますが」とさくらは答えた。「へぇ」と一言呟いただけで、青影はそれ以上何も訊かなかった。湛輝親王の元に戻ると「出かける時、栗きんとんが少し残っていましたね。戻って食べましょう。置いておくと美味しくなくなってしまいます」「見ていかないのか?」湛輝親王が尋ねた。「血は苦手ですから、やめておきます」青影は言った。寵愛する青影に、湛輝親王は「では帰るとしようか。明日は湖に遊びに行こう」と言った。青影は肩掛けを身に纏いながら「こんな寒い日に湖なんて。家で炉を囲んでお茶を飲み、羊肉でも焼いた方が良いではありませんか」「気晴らしに連れて行ってやろうというのに、この子ときたら恩を知らんな」親王は笑いながら玄武に向かって言った。「はあ、仕方がない。わしは一生、女に振り回されっぱなしよ。年を取った今でもこの調子だ」玄武は、ここは刑場なのだから、もう少し厳かな雰囲気を保ってほしいと思ったが、湛輝親王の機嫌の良さを損ねたくもなく「私も同じです。一生、女性に尻に敷かれる運命のようです」と答えた。湛輝親王は玄武の肩を叩いた。「では、邪魔はせんぞ。首でも斬って来い。青影と帰るとしよう」「......」影森は呆れながら刑場の東海林を指差し「斬るのはあちらの首です」「そりゃそうだ」湛輝親王は笑みを浮かべながら、青影を連れて立ち去った。午の刻となり、東海林の断末魔の曲が響き渡る。玄武の手から令牌が落ちるのと同時に、首切り役人が大刀を振り上げた。真昼の陽光が刃に反射し、一瞬、血に濡れたかのような赤い輝きを放った。しかし、よく見れば、それは役人の腰の赤い帯が映り込んだだけのことだった。大刀が振り上げられた瞬間、東海林の胸中で恐怖が爆ぜ、頭の中が轟音と共に真っ白になり、気を失った。役人が背中の囚人札を外し、刃

  • 桜華、戦場に舞う   第817話

    紗月は煮込みの屋台を開くことはせず、梨水寺に入って、寺の買い出しを担当することになった。梨水寺には体の弱い者が多く、長期の精進料理は難しいため、寺から離れた場所に新しく建物を建て、そこで肉のスープなどを作って体調を整えられるようにした。つまり、肉料理を食べたい者は、そちらへ行けばよいということだ。ただし、住職の決まりで、梨水寺本堂でも別棟でも直接の殺生は禁じられていた。そのため紗月は毎日山を下りて肉を買い、運び上げねばならなかった。しかし、二、三日もすると、誰も肉を口にしなくなった。おそらく寺院が心に安らぎを与え、信仰が芽生えたことで自然と戒律を守るようになったのだろう。誰かに言われるまでもなく、自ら肉食を断つようになった。幸い、梨水寺の周りの山には珍しい山の恵みが豊富にあった。滋養のある薬草や山菜で煮込み汁を作り、また多くの官家の婦人たちから丹参や人参などの薬材の寄進もあった。上等なものではないにせよ、体調を整えるには十分な効果があった。公主の屋敷では、処分すべき者たちは既に処分を終え、残るは四貴ばあやだけとなっていた。太后は特別に詔を下し、四貴ばあやに官庁で影森茨子の食事の差し入れを許可した。ただし、中に入って仕えることは許されず、大門の右下に設けられた小さな窓から食事を差し入れることだけが認められた。四貴ばあやが身を屈めれば、その窓越しに公主の姿を見ることができた。これは四貴ばあやにとって、この上ない恩寵であった。しかし、立つこともできず床を這うように近寄ってくる公主の姿に、四貴ばあやの心は千々に乱れた。かつては錦の衣装に身を包み、高価な宝飾で飾られ、天の寵児として、着物が少しでも汚れれば捨ててしまうような大長公主が、今は不潔極まりない場所で、排泄まで同じ空間で行わねばならず、悪臭が漂っていた。白く輝いていた肌は荒れ果て、老いさらばえ、黒髪の中に白髪が一本また一本と混じり、今では白い方が多くなっていた。公主も、老いてしまったのだ。屋敷の警備長の土方勤は邪馬台への五年の苦役を言い渡された。幸い、屋敷での勤務期間が短く、また影森茨子による上原修平一家への謀害命令を拒否した功績があり、功罪相殺して五年の苦役で済んだのだった。これらの者たちの処分が済み、公主邸は没収された。表札が外される日には、大勢の民衆が見物に集ま

  • 桜華、戦場に舞う   第818話

    北條守が傷が癒えると、正式に着任した。まず、清和天皇に拝謝すると、天皇は彼を半時ほど留め置いて言葉を交わした。訓戒の中にも十分な信頼を示され、守は御書院を目を潤ませながら出たのだった。宮中に領侍衛局が設けられ、上原さくらが指揮使となった今、彼女は多くの時間を領侍衛局で過ごすことになる。そのため守も上司への挨拶を済ませねばならなかった。かつては夫婦であった二人。今や北條守は片膝をつき、上官への礼を尽くす。禁衛府副将の山田鉄男、御城番の村松碧、衛士副統領の親房虎鉄、そして御前侍衛副将の北條守。これで陣容が整ったことになる。守は複雑な思いを抱えていた。さくらが意地悪く当たってくるだろうと覚悟していたが、意外にも彼女は「お立ちなさい。しっかり勤めるように」と言っただけだった。立ち上がった守は目を伏せ「上原様、ありがとうございます」と答えた。山田が近寄り、彼の肩を叩いた。「北條殿、おめでとう。いつ祝いの酒を振る舞ってくれるのかな?」かつての上司である山田鉄男に対しては今でも畏敬の念を抱いており、北條守は手を組んで答えた。「山田様のご都合の良い時に」「私だけじゃないぞ。禁衛府の仲間たちもいるじゃないか」と山田は笑いながら言った。「は、はい」守は気まずそうに笑い、こっそりとさくらの様子を窺った。「では後日、自宅で宴を設けさせていただきます。皆様どうかお越しください」「よかろう」親房虎鉄も頷いた。「もちろん伺わせていただく。ただ、上原殿はいかがなものか」虎鉄はさくらに対して表面上は従いながらも内心では納得していない状態で、故意にこう問いかけ、さくらを窮地に立たせようとした。さくらは椅子に座り、目を細めながら、虎鉄の顔に残る腫れを見つめた。「親房、衛士統領でありながら、武芸が弱すぎるわね。数日後に私が直接試験をするわ。禁軍十二衛長は全員参加。彼らにそう伝えておきなさい」虎鉄は不満げに言った。「衛士だけですか?御城番や御前侍衛は?禁衛はしなくてもよいのですか?」「全て行うわ」さくらは淡々と言った。「でも最初は衛士よ。他は順番を待ちなさい。適切な時期に抜き打ちで実施する」「なぜ禁軍が最初なのです?」虎鉄は尋ねた。さくらは一切の情けも見せずに言い放った。「あなたの武芸が劣っていると判断したからよ。試験に合格できなければ、衛

  • 桜華、戦場に舞う   第819話

    山田は冷たく言い返した。「男だろうが女だろうが、私は関係ない。実力が上なら少しも不服はない。それに彼女は陛下のご任命だぞ。彼女に反対するということは、勅命に背くということか?衛士を長年勤めて、傲慢になったか?女を見下すようになったのか?男なら実力で彼女を打ち負かして、二度と顔を上げられないようにしてみろ。それが何より雄弁だろう」「本気で怒っているんだな」親房虎鉄は言った。「お前だけが気性が激しいわけじゃないんだ」山田は腕を振り払って背を向け、立ち去った。虎鉄は興ざめて領侍衛局の広間に戻ると、村松碧と北條守がまだいるのを見て、椅子にどかりと座った。「お前たちも彼女に従うのか?村松は分かる。お前はずっと彼女の言うことを聞いているからな。だが北條、お前も本当に従うつもりか?彼女はお前と離縁したんだぞ。お前を捨てたんだぞ」村松は首を振った。「親房、その口から悪口を吐かないと死ぬのか?」「これは率直なだけだ。思ったことをはっきり言う。回りくどいのは苦手でな。策略なんて使えん」「誰がお前に策略を使うというんだ?自分を買いかぶるな。率直じゃない、ただの毒舌だ」村松はそれ以上何も言わず、さっさと出て行った。御城番は忙しいのだ。こんな時間に無駄口を叩いているような輩とは付き合ってられない。守と虎鉄が顔を見合わせて残された。「義弟よ、気にするな」虎鉄は守に声をかけた。親房夕美は自分の従妹で、たとえ西平大名の親房甲虎と不仲でも、一族は結局一族。外に対しては一致団結すべきだ。「さっきのは冗談だ。気にするな。だがお前だって、上原のことは心から認めてないだろう?」守はしばらく考えてから答えた。「まずは職務をしっかりと全うすることが肝要かと。夕美からいつも虎鉄さんのことを聞かされておりました。度量の広い方だと。西平大名家の傍系の中で、虎鉄さんだけは認めていると。ですから、虎鉄さんも職務を第一に考えてくださると信じております」虎鉄は冷笑した。「まるで私が小人のようだな」夕美がそんなことを言うはずがない。あの女は鼻持ちならない高慢さで、兄の西平大名以外、誰も眼中にないのだ。北條守は誰とも、特に上原さくらとは争いたくなかった。就任したばかりだ。この地位から滑り落ちれば、もう二度と這い上がれないだろう。虎鉄は守の沈黙を見て、さらに興が覚め、袖を払っ

  • 桜華、戦場に舞う   第820話

    就任したばかりの北條守は残業が続いていた。時には自ら宮殿各所を巡回する。後宮以外の場所をだが。巡回のない時は、御書院の前か領侍衛局で待機し、交代時に日誌を提出する。当直者は交代時に巡回状況を記録しなければならない。異常があれば記録し、なくても「異常なし」と書かねばならない。酉の刻には退出できるのだが、その終わり際まで残っていた。宮城を出る時、燕良親王と出くわした。守は彼が早朝に入って夜に出ることを知っていたが、普段は門限前に出るはずなのに、今日はなぜこんなに早いのだろう。前に進み出て礼をする。「北條、参上いたしました」燕良親王は笑みを浮かべて彼を見た。「北條将軍の栄転、まだお祝いを申し上げていなかったな。私はずっと、お前には才があると思っていた。これまでは埋もれすぎていた。今後の出世を祈っているぞ」守は恐縮して「親王様のお言葉、恐悦至極に存じます」燕良親王は手を背に組んで言った。「将軍、暇を見つけて奥方と共に我が屋敷にいらっしゃい。妃が都に不慣れでな。もし奥方にご都合が良ければ、案内してやってほしい。さぞ喜ぶだろう」守は言った。「ご厚意に感謝申し上げます。ですが、妻が身重でして、外出は難しいかと」「そうであったな。では屋敷に来て話でも、というのはどうだ」燕良親王は朗らかに笑った。「将軍は昇進に加えて父親にもなられる。まさに二重の慶事だ。重ねてお祝い申し上げるぞ」守は燕良親王の親しみやすさを感じながらも、少し度が過ぎているのではないかと思った。それ以上何も言えず、「ありがとうございます」と一言だけ告げてから、話題を変えた。「今日は随分早くのご退出ですね」燕良親王は体を伸ばしながら、くつろいだ様子で答えた。「ああ、母上が薬を召し上がって休まれたのでな。今日は少々疲れていてな。でなければ必ず将軍を屋敷に招いて酒を酌み交わしたいところだ。関ヶ原や邪馬台での将軍の手柄は、よく存じておるぞ」関ヶ原という言葉に、守は胸が締め付けられた。「機会がございましたら、必ずお伺いいたします」燕良親王は微笑んだだけで、それ以上は何も言わなかった。宮城を出て、しばらく馬を並べて進んだ後、二人は別々の道へと向かった。さくらは彼らのすぐ後ろを行っており、会話の一部を耳にしていた。ほとんどが燕良親王が北條守を褒め称える内容だった。

  • 桜華、戦場に舞う   第821話

    試験当日、上原さくらは命令を下した。玄甲軍所属の指揮官は、衛長であっても、当直でない限り全員出席するようにと。親房虎鉄は最初、自分を狙い撃ちにされたと思い込み、屋敷で妻にさくらの悪口を並べ立ててから出かけた。なんと意地の悪い女だ。玄甲軍がこんな意地悪な女の手に渡るなど、これからどれだけの騒動が起きることか。だが、禁衛府に着いてはじめて、今日の試験が自分一人を対象としたものではなく、しかも式部の評価に直結することを知った。そこで初めて緊張が走った。さくらの機嫌を損ねてしまった今、もし今日の結果があまりにも見苦しければ、評価は芳しくなくなる。そうなれば俸禄削減か、さらには降格、異動も十分あり得る。出発前に線香でも上げて、先祖の加護でも願っておけばよかった。北條守も来ていたが、試験には参加しない。就任したばかりなので、まだ評価対象外だった。守は邪馬台の戦場でさくらの武芸を目にしていた。親房虎鉄が彼女の相手になどなれるはずがない。何合持ちこたえられるかを見物するだけだろう。この日のさくらは、官服を着用せず、青色の錦の袍に翡翠の冠という出で立ちだった。威圧的な官僚の雰囲気は影を潜め、どこか文雅な趣きすら漂わせている。演武場の石段に立ち、凛とした声で告げた。「本日は私が直々に諸君の実力を見させていただく。存分に力を振るっていただきたい。副領の方々は私と五十合手合わせができなければ、特別訓練を受けていただく。衛長の方々は二十本。これもまた叶わなければ、同じく特訓となる」その声は場内の隅々まで響き渡った。あちこちから嘲笑うような笑い声が漏れる一方で、眉間に深い皺を刻む者もいた。笑いを漏らしたのは、さくらの武芸を知らぬ者たち。眉をひそめたのは親房虎鉄と北條守などの副領たちだ。彼女と五十合も手合わせができるはずがない――つまり、特訓は避けられないと悟ったのだ。「特訓の師範も、すでに手配済みだ」さくらは冷ややかな眼差しで一同を見渡し、場が静まり返るのを待って、「沢村紫乃殿」と告げた。現れたのは紅い衣装に身を包んだ、艶やかな女性だった。一同の目が疑いの色を帯びる。女性が、それも この人物が師範を?紫乃は廊下の前に椅子を運ばせると、豪奢な袖を翻して悠然と腰を下ろした。その半身もたれかかった姿には、孤高の気概が漂っていた。ふふ、今日は弟子

Latest chapter

  • 桜華、戦場に舞う   第833話

    美奈子は姑の怒りに歪んだ顔を大きな目で見つめた。離縁状と追い出しという言葉に、頭の中が真っ白になった。茫然自失のまま立ち上がり、よろよろと外へ向かった。「戻ってきなさい。まだ言い足りないことがあるわ。よくもそんなことを。姑に装飾品を売れだなんて。恥を知りなさい。この卑しい女!この恥知らず!」北條老夫人は美奈子が立ち去ろうとするのを見て、さらに激しい罵声を浴びせかけた。「戻りなさい。誰か捕まえなさい」震える体で足取りも覚束ない美奈子の姿は、今にも砕け散りそうな花瓶のようだった。誰も彼女に手を出す勇気はなく、ただ「奥方様、お待ちください」と声をかけるばかり。美奈子は何も聞こえていないかのように、一歩一歩自分の居所へと向かった。だが、回廊の突き当たりで、大きな腹を抱えた親房夕美がお紅に支えられて立っているのに出くわした。鋏を突きつけられた記憶が蘇り、思わず一歩後ずさった美奈子は、全身の震えを抑えられなかった。「お義姉様、どういうおつもりですの?たった二粒だけ?七、八粒買うようにとお願いしたはずですわ」夕美は不満げに言った。「お金がないなどとおっしゃらないで。昨夜、守さんとも相談済みです。お義姉様が家政を任されたからには、守さんの俸給の三割を公費に納めて、残りは私たちで自由に使わせていただくことに」「三割、ですって?」少しずつ我に返った美奈子は、頬の焼けるような痛みを感じ、思わず手で押さえた。「三割だけ?どうしてわずか三割なのです?皆、ほぼ全額を納めているというのに。三割では家の運営など......」「なぜできないというの?今までどおりやればいいじゃありませんか。守さんの俸給がこれほど多くなかった時だって、なんとかやってこられたはずです」「つまり」美奈子は唾を飲み込んでから続けた。「この三割を納めた上で、あなた方のお世話する人々の衣食住、外出の費用まで、すべてご自分たちでご負担なさるということですか?」「義姉様、正気を失われたのですか?」夕美は冷笑を浮かべた。「自分たちで賄うというのなら、なぜ三割を納める必要があるというの?」耳鳴りがする中でも、美奈子は普通の会話をするように努めた。「でも、屋敷の出費で一番かさむのはあなた方のお世話ではありませんか。燕の巣やお薬に、葉月さんのお世話、それにあなた方に仕える下女や小姓たち。月にどれほどの

  • 桜華、戦場に舞う   第832話

    美奈子は侍女を連れて薬王堂に赴いたものの、参膠丸の値段を聞いて愕然とした。一粒が五両もする代物で、それを八粒も買わねばならないとなると......寒風の吹く中、額に汗を滲ませながら、涙を堪えて決断を躊躇っていた。薬王堂の丁稚は美奈子の顔なじみで、事情も心得ていた。「奥方様、この参膠丸というのは気血の虚した産婦が出産時に用いるものでございます。普段の気血の調整なら、生薬を調合して自分で煎じれば、ずっとお安くつきますよ。それに出産用となれば一粒で十分。まさか八人同時にお産があるわけでもございますまい」と、親切に助言を差し伸べた。「一粒で足りるの?本当?」美奈子は涙を拭いながら、急いで確認した。「はい、一粒で十分です。ご心配でしたら二粒お買い求めになれば。といいますのも、この薬は安産を絶対に保証するものではございません。気血の極端に衰えた方や、陣痛が長引いて力尽きそうな時に、体力の回復用として服用するものですので」「では二粒いただきましょう。それと雪心丸も二粒お願いします」美奈子は銀子を差し出した。店員は頷きながら目方を量り、計算して銅銭をお釣りとして渡した。「一つ申し上げておきますが、雪心丸は来月から値上がりの予定でございます。薬材の入手が難しくなり、仕入れ値が上がってしまいまして......実は、以前は丹治先生が老夫人様のお薬を調合なさっていた時は、毎日のお薬に雪心丸を一粒加えるだけで、随分とご容態が良くなられていました。あと二、三年も続ければ、すっかりお元気になられたはずなのに、今となっては......」丁稚は言葉を濁し、首を傾げた。「致し方のないことですわ」美奈子は涙を堪えながら、無理に笑みを浮かべた。「今となっては丹治先生にお越しいただくこともできませんし、同じ処方箋を使い続けるわけにもまいりません。症状に応じてお薬を調整しなければ......雪心丸も、買える時に買わせていただくしかございません」丁稚はその話題には触れず、薬を手渡しながら、参膠丸の服用方法を説明した。「これは必ず四時間以上の間隔を空けてお使いください。決して二粒を同時に服用なさらぬよう。普通、陣痛が長引いて力尽きた場合は、一粒で十分でございます。ただし、他の原因での難産や大量出血の場合は、効果は期待できません。残りの一粒は、産後半月経ってからお使いください」「

  • 桜華、戦場に舞う   第831話

    翌日、北條守は遅くまで勤めが続き、参膠丸を買うことができなかった。そこで美奈子に、明日薬王堂で参膠丸を八粒買ってきてほしいと頼み、併せて乳母と産婆も探してほしいと相談した。美奈子は承諾した。どうせ姑の雪心丸も買い置きしなければならなかったからだ。以前は病を理由に家政から手を引いていたものの、広大な将軍邸とはいえ、帳簿上の残金が乏しいことは承知していた。そこで翌日、薬を買いに出かける前に会計室へ立ち寄って金を引き出そうとしたところ、残高がわずか十両しかないことを知った。資金が逼迫しているとは分かっていたが、将軍邸全体でたった十両とは。あまりの事実に美奈子は愕然とした。次男家は分家していないのだから、そちらからの上納金も相当な額になるはず。それに夫と舅、それに義弟の北條守の俸給に加え、賜った百両の黄金まで。いくら使ったところで、少なくとも二、三百両は残っているものと思い込んでいた。ところが実際は、たったの十両。美奈子は帳簿を一つ一つ確認していった。義妹の嫁入り支度に出費があり、葉月琴音も幾らか引き出し、親房夕美の毎月の出費も少なくない。そこに姑の薬代、屋敷の使用人たちの食費と給金。すべての出費が帳簿に記されており、計算上の誤りは一切なかった。ただ、親房夕美の出費があまりにも大きかった。燕の巣だけでも一ヶ月に一斤も消費し、他の滋養品に至っては言うまでもない。しかも屋敷には滋養品が揃っているはずだった。以前、義弟が怪我をした際、大勢から滋養品が贈られてきた。夕美の実家の義姉からも随分と届いていたはず。屋敷にあるものを使えばよいものを、なぜわざわざ外で買い求めるのか。どうしても理解できない美奈子は文月館へと向かい、夕美に尋ねることにした。もともと物柔らかな性格の美奈子は、ただ事情を聞きたいだけで、とがめ立てするつもりなど毛頭なかった。ところが夕美は誤解してしまった。妊婦の自分の出費を咎められたと思い込み、美奈子に対して激しく感情を爆発させた。果ては鋏を手に取って美奈子に突きつけ、「それほど金が惜しいのなら、この腹を刺して子を堕ろせばいい」とまで言い出す始末だった。美奈子は恐れをなして文月館から逃げ出すように立ち去った。背後からは夕美の取り乱した泣き声が響いてきた。まだ動揺の収まらぬ中、老夫人付きの侍女が駆けつけてきた。老夫人が胸

  • 桜華、戦場に舞う   第830話

    部屋に戻ると、親房夕美が針仕事に励んでいた。あの一件以来、確かに随分と大人しくなっていた。守は少し不安げに、家政を美奈子に任せる件を告げた。夕美は顔を上げ、艶のある目で彼を見やる。「当然、美奈子さんにお任せすべきですわ。今は身重なのですから、いえ、そうでなくとも私が家政を預かるべきではありませんもの」守は小さく安堵の息を漏らし、腰を下ろして彼女を見つめた。「針仕事は目に良くない。やめておけ。お仕えの者たちに任せればいい。確かお紅の針仕事も上手だったはずだ」「母親なら、子供の衣装くらい自分で作りたいものですわ」夕美は顔を上げ、優しい笑みを浮かべる。「それに、うちは三人分の俸禄があるとはいえ、大勢の家族を養うのは容易ではありません。母上のお薬もありますし、節約できるところは節約しませんと」守には彼女が何故節約の話を持ち出したのか分からなかった。針仕事を使用人に任せることと、節約とは何の関係もないはずだ。だが、彼女が怒らないのならそれでよかった。家の中に争いがなければ、日々の暮らしも自ずと良くなっていくだろう。今や彼も功を立てることなど望んでいない。ただ屋敷の中が平穏で、この役職を失わないことだけを願っていた。「今日は早いお帰りですね。ちょうどお話ししたいことがありました。もう月も進んできましたから、乳母を探さねばなりませんわ。産婆も最上の方を。それに、お産は鬼門をくぐるようなもの、危険が付き物です。永平姫君様の難産のことはご存知でしょう?ですから薬王堂で備えの薬を買っておきたいのです。母上の雪心丸を買いに行くついでに、一緒に買いましょう」守も出産の危険は承知していた。「分かった。薬の名は何だ?明日、勤めを終えた後に買って来よう」「参膠丸というお薬です。人参と阿膠に、痛み止めの生薬を調合したもの。七、八粒ほど用意していただけませんこと?お産の折、痛みで力が続かなくなったり、気血が上がらなくなった時に、この参膠丸が一番よろしいかと」守は言った。「ああ、明日買って来る。産婆と乳母の件は、美奈子さんに相談して探してもらおう。次男家の叔母上にも手を貸してもらえるかもしれないな」「叔母様ですって?」夕美は嘲るように笑う。「当てにはなりませんわ。今でも屋敷のことには一切関わろうとなさらない。もし外に住まいがあれば、とっくにお引っ越しなさって

  • 桜華、戦場に舞う   第829話

    将軍邸にて。親房夕美は一度激しく感情を爆発させた後、お腹も大きくなってきたこともあり、ようやく落ち着きを取り戻していた。だが、北條老夫人の容態は冬に入ると悪化の一途を辿り、薬の量は増える一方だったが、相変わらず病身は改善しなかった。丹治先生を招くことは依然として叶わず、北條老夫人は具合が悪くなるたびに、夕美にさくらほどの腕がないことを責めた。さくらの人脈の広さは本物だと。夕美も老夫人を甘やかすことはなかった。看病はおろか、安否の挨拶にすら顔を出さなくなり、日々の世話は長男の嫁である美奈子が一手に引き受けていた。老夫人は北條守に不満を漏らした。「あなたは御前侍衛副将にまでなったというのに、たかが一人の嫁も躾けられないとは。不孝で反抗的で、義母に口答えばかり。不肖の嫁は三代の禍となるというではないか」守は今や出世街道の真っ只中。夕美と言い争うたびに心身共に疲弊してしまうため、争いは避けたかった。そのため、母を宥めながら、美奈子に母の世話を頼むことしかできなかった。「守さん」美奈子も困惑した様子で言う。「義母上のお世話は私の務めよ。言われなくても当然のことだわ。でも私も体が弱くて、それに屋敷の財政がとても厳しいの。夕美さんは家政に関心もないのに、お金はいつも通り使ってるし。来月の雪心丸を買う銀子すらないのよ。涼子に相談してみたら?今は平陽侯爵家の人なんだから、少しはお金に余裕があるんじゃないかしら」「銀子の件は俺が何とかする」守は言った。「涼子に実家の面倒を見させるわけにはいかん」そう言われて美奈子は溜息をつく。「もう他に方法がないなら、何人かお仕えを売り払うしかないわね。これだけの人数を抱えてたら、月々の給金やお食事代も大変よ。四季の衣装まで用意しなきゃいけないんだから」「その件は美奈子さんから母上に相談してもらえないか」北條守が言う。「相談できるなら、わざわざあなたに話す必要もないでしょう。母上は使用人を手放すことをお許しにならないの。特にあなたが御前侍衛副将になった今、屋敷の体面を保たねばならないって」美奈子は一旦言葉を切り、「葉月への仕送りも欠かせないのよ。減らしたら大騒ぎになるでしょ。夕美さん以上に手に負えないほどの騒動になりかねないわ。出費を抑えるしかないんだけど......正直言うと、もう売れるものは何も残って

  • 桜華、戦場に舞う   第828話

    「師匠も言っていた」玄武が付け加える。「さくらは、見たことのある弟子の中で最も武芸の才に恵まれていると。多くの技は一度見ただけで会得してしまう」「確かにそう言っていたな」深水は笑みを浮かべる。「だが、その後に続く言葉を君は省いているよ。彼女は怠け者でね。終日山を駆け回り、木に登っては鳥の巣を漁り、穴を掘っては毒蛇を捕まえ、鼠の尻尾を振り回して子供たちを驚かすことばかり考えていた」「俺がその被害者だ」棒太郎が無表情で言う。「確かに鼠の尻尾を振り回してきたが、最後には俺の上に投げつけやがった。泣きながら師匠の元へ駆け込んだら、男が泣くものかと叱られたさ。まあ翌日には師匠が万華宗へ怒鳴り込んでたけどな」「そして最終的には」紫乃も知っている話に便乗する。「一年分の地代が免除されたのよね」さくらの感動は一気に萎んでしまい、赤面しながら言った。「平安京の話をしていたはずなのに、どうして私の幼い頃の話になるの?ほら、食事を続けましょう」棒太郎は箸を置き、紫乃を見つめた。「一年分の地代が免除?マジか?どうしてそれを知ってるんだ?」「私たち赤炎宗も梅月山にいるんだもの。知らないわけないでしょ。梅月山中の噂よ。毎年、地代の支払い時期になると、あなたの師匠はあなたをさくらと手合わせさせてたでしょう?」「えっ!」棒太郎は驚愕した。「つまり、師匠は俺をわざとさくらと手合わせさせて、俺が打ちのめされるのを見計らって怒鳴り込み、地代免除を狙ってたってことか?」紫乃は真面目くさって頷いた。「そうよ、梅月山中の知るところだわ」棒太郎は泣きそうな顔で言った。「まさか。俺の師匠は几帳面で落ち着いた人なのに、そんなことするわけないだろ?さくらとの手合わせはほとんど負けてたけど、武芸が未熟だから負けるんだって。上達しないのは罰に値するって」紫乃は彼の肩を叩いた。「かわいそうな棒太郎。ずっと知らなかったのね。でも気にすることないわ。あなたが食らった拳のおかげで、ほとんど毎年地代を払わずに済んだんだから。払っても少額だったでしょ」さくらは首を振った。「違うわ。私の師匠が、あの宗門があまりに哀れで、食べるにも着るにも困っているから地代を減免したの。時には衣料や布団まで送ってたわ。師匠は、人を助けることが大切だって教えてくれたの」「いいえ、賠償よ」紫乃は首を振る。

  • 桜華、戦場に舞う   第827話

    「薬は届けましたが」有田先生が言う。「生き延びたかどうか、まだ情報は届いておりません」普段は政務に関わることの少ない深水青葉が口を開いた。「平安京の情勢は複雑を極めているよ。皇太子は既に執政の任に就かれたが、皇帝はまだ息がある。朝廷の重臣の半数が皇太子の強硬策に反対しているのが現状でね。また、皇太子は先代の皇太子との兄弟の情は深かったものの、その政策には全く賛同されていない。スーランジーは先代皇太子の熱心な支持者だったからね、命が助かったとしても、状況は好転しないだろう」「老帝の命、長いわね」紫乃が言った。「とうに崩御するって噂があったのに、まだ息があるなんて。一体何が、その命を繋ぎとめているのかしら」「それは国の混乱だろうな」深水が答える。「先代皇太子は民の心を掴んでおられ、老帝との政務の引き継ぎも殆ど済んでいた。それが先代を失い、新たな皇太子が立った。朝廷の重臣たちは基本的に先代の人々でね。新たな皇太子はスーランジーにさえ支持されず、誰もが不安を抱いている。混迷を極めているよ。先日の報せでは、もう食事も召し上がれないとのことだ。既に崩御なさっているかもしれん。ただ、その知らせがまだ届いていないだけかもしれんがね」「えっ、清湖さんから連絡が?」さくらは驚いた様子だった。大師兄はこういった事には関わりたがらなかったはずなのに。「ああ、手紙が来ていてな」「でも......」さくらが言い終わらないうちに、深水青葉は慈しむような眼差しを向けた。「何を言いたい? さくらが朝廷の渦中にいるというのに、私が傍観できようか。梅月山が傍観できようか。控えめにではあるが、支援はせねばなるまい」さくらの瞳に一瞬、悲しみが宿った。「私のせいで皆様を巻き込んでしまって。梅月山での悠々自適な日々を――。大師兄は絵を描き、山水を愛でる暮らしだったのに。私のせいで都に囚われることになって、申し訳ない気持ちで一杯です」深水が彼女の後頭部を軽く叩こうとしたが、玄武の手の甲に当たった。師兄の動きを見て取った玄武は、既にさくらの後頭部に手を添えていたのだ。深水は呆れつつも微笑ましく思った。「生き方は一つじゃない。気ままに過ごすのも良いが、男として肩に責任を背負うのも務めというものだ」さくらは少し鼻にかかった声で言う。「でも、大師兄は男らしくないような.....

  • 桜華、戦場に舞う   第826話

    この夜、北冥親王邸では久しぶりに全員揃っての食事となった。さくらはその時になって、深水師兄がまだ梅月山に戻っていないことに気付いた。「大師兄、まだ戻られていなかったのですか? てっきり、もうお帰りになったと。一言の挨拶もなく去られたのかと思っていました」さくらの頭を軽く叩きながら、深水青葉は呆れ気味に言った。「この薄情者め。何度も声をかけたというのに、まるで返事もしない。何か気に障ることでもしたかと気を揉んでいたら、そもそも私の存在に気付いていなかったとはな」玄武は心配そうにさくらの後頭部を撫でながら説明した。「最近は多忙を極めておりまして。何かを考え込んでいて、お声がけに気付かなかったのでしょう......言葉で済むことを、手を出すことはありますまい」玄武の口調は大師兄への敬意を保ちつつも、僅かな非難の色が混じっていた。深水は思わず笑みを漏らした。「そう力も入れてはいない。それに彼女も慣れているさ。彼女を一番叩いていたのは、私の師叔である君の師匠だったのだからな」玄武は一瞬の沈黙の後、「師匠は時として加減を知らない。後ほど申し上げておきましょう」深水は席に着きながら、心から安堵の表情を浮かべた。さくらと玄武は、まさに天が結んだ縁であった。彼は本当に彼女のことを心に掛けている。さくらの方は少々鈍感だが、それも構わない。徐々に気付き始めており、人の好意にも応えられるようになってきている。有田先生が酒を運ばせ、棒太郎も席に着いた。この期間、親王家の者たちも皆、表立っては見えぬよう、密かに奔走していたのだ。杯を交わし合う宴の賑わいは、最近の事件捜査が漂わせていた暗い影を払い去っていった。有田先生は文武両道に通じ、深水先生の機嫌を取ろうと、酒壺を持ち出して意気揚々と提案した。「折角の美酒、歌詠みの酒宴などいかがでしょうか」その言葉が出た途端、棒太郎と紫乃は立ち上がり、声を揃えて言った。「もう腹一杯です」有田先生は眉間に皺を寄せる。「腹一杯、ですと? 村上教官、あなたは誰よりも食べる方ではありませんか。いつも最後まで食べ続けているのに、今日はまだ一膳も平らげていないでしょう」「今日は食欲がないんです!」棒太郎は食卓の料理を見つめ、思わず唾を飲み込んだ。だがもう食事を続けるわけにはいかない。歌詠みの酒宴となれば、もう無理な

  • 桜華、戦場に舞う   第825話

    入門の宴を終え、屋敷に戻った紫乃は、さくらに打ち明けた。「まるで茶番劇を演じているような気分だわ。私自身、弟子としても未熟なのに、もう師になるなんて。しかも年上で、玄甲軍の精鋭たち。もし私の指導が不十分だったら、あなたに迷惑がかかってしまうんじゃないかしら」さくらは紫乃の手を取り、玄武を先に屋敷へ戻らせると、二人で花園を散策し始めた。「無理だと感じるなら、入門の儀など無かったことにしても構わないわ。これまで通り『先生』として接すれば良いの。指導の出来不出来なんて気にすることないわ。師匠は門を示すだけ。修行は本人次第。あなたには十分な腕前があるし、威厳だって保てる。もし上達できないのなら、それは彼らの才覚の問題。あなたの責任ではないわ」「ただね、彼らは朝廷の官人なの。武芸界の作法で教えるのは、少し不適切かもしれないって」「玄甲軍の強化は陛下の望むところよ。玄甲軍と京の駐軍は皇城の守りなのだから」「そんなに重要なのに、あなたに任せるなんて、随分と大胆ね」紫乃が呟く。「今、謀反を企てる者の正体が掴めていないから。でも陛下は、その者が北冥親王家の者ではないと知っているの......」さくらはそれ以上の説明を控えた。以前話した通りだ。「つまり、私たちを使って黒幕を炙り出すか、もし反乱が起きた時は、敵を討ち陛下をお守りするか、というところね」「飛鳥尽きなば、良弓も収められるというわけね」紫乃は淡々と言った。さくらは言った。「飛鳥が姿を消すのは、世が平らかになった証。私たちは権勢など望まないわ。その時が来たら、弟子たちを連れて梅月山に戻りましょう。何不自由のない日々が待っているはず」「そうね、やっぱり梅月山が一番」紫乃は梅月山での憂いのない日々を思い出し、心が温かくなる。京の都は確かに栄えている。けれど、権謀術数が渦巻きすぎる場所でもあった。「私にも打算があるの」さくらは申し訳なさそうに紫乃を見つめた。「あなたに武術を教えてもらいたいのは、燕良親王が北條守に近づこうとしているのを見たから。恐らく玄甲軍を足がかりにするはず。私は確かに大将だけど、衛士も、御城番も、禁衛府も、御前侍衛も、これまでは独立した組織だった。一朝一夕には心服させられないわ。それ自体は問題じゃない。問題は、私が上官だってこと。誰と付き合おうと、私には言わないし、私の前

Scan code to read on App
DMCA.com Protection Status