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第810話

Author: 夏目八月
夫人は先に腰を下ろすと、落ち着いた声で言った。「忠義、戸を閉めなさい。三人で話し合いたいことがあるの」

忠義も何か察したようで、困惑した目で父を見やった。父は唇を固く結び、困惑と不安の入り混じった表情を浮かべていた。

重い足取りで戸を閉め、戻ってきた。

夫人は片手を肘掛けに、もう片手を膝の上に置いた。長年の裕福な暮らしと、睦まじい夫婦生活のおかげで、同年代の女性より若々しく見える。丸みを帯びた優雅な顔立ちには気品が漂っていたが、ここ数日は幾分痩せ衰えていた。

夫人は式部卿を見つめ、何気ない出来事を語るかのように言った。「今日、北冥親王妃に会ったわ」

まるで毒蛇に噛まれたかのように、式部卿は驚愕の声を上げた。「あの女が君を?何か嘘でも言いつけたのか?何を言われても信じるな。あの女は信用できない」

夫人は夫を見つめた。もはや漆黒ではない瞳に、一層の気品が宿っていた。「北冥親王妃とはあまり親しくないけれど、そのような方じゃないことは分かっているわ。それに、彼女が私を訪ねてきたわけじゃないの。私が棗葉荘に行った時、たまたま彼女がお子様を迎えに来ていただけよ」

式部卿の唇が震え、目が慌ただしく泳いだ。「な、なんの......お子様だと?」

夫人は穏やかな眼差しを保ちながら、淡々と語った。「もう分かっているわ。だから説明はいらないの。今日、私はあの子を東江に預けるため引き取りに行ったの。でも、あなたたち父子のどちらかが迎えに行かなければならないそうよ」

夫人の姿勢は変わらないのに、父子は落ち着かない様子で、特に式部卿は心が乱れ、妻の顔も見られず、言葉も出ない。

「なぜ引き取るのか、あなたたちにも分かってるでしょうね。決して私が寛大だからじゃないわ。一つには、子供に罪はない。あなたは父親で、私は嫡母で、実母もいる。もう一つは、壁に耳ありということ。刑部の審理書類は、何人もの手を経ている。一人の口は封じられても、すべての人の口は封じられない」

両手を膝の上で組みながら、続けた。「たとえ事が表沙汰にならなくても、かつて審理書類を見た者たちの手に弱みを握られることになるわ。我が斎藤家は大きな木のように風当たりが強い。あなたと忠義は要職に就き、娘は今上の皇后。過ちを犯すのは構わないけれど、決して誰かに弱みを握られてはいけない。隠せば隠すほど、大きな禍となり、最後には
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    この夜、北冥親王邸では久しぶりに全員揃っての食事となった。さくらはその時になって、深水師兄がまだ梅月山に戻っていないことに気付いた。「大師兄、まだ戻られていなかったのですか? てっきり、もうお帰りになったと。一言の挨拶もなく去られたのかと思っていました」さくらの頭を軽く叩きながら、深水青葉は呆れ気味に言った。「この薄情者め。何度も声をかけたというのに、まるで返事もしない。何か気に障ることでもしたかと気を揉んでいたら、そもそも私の存在に気付いていなかったとはな」玄武は心配そうにさくらの後頭部を撫でながら説明した。「最近は多忙を極めておりまして。何かを考え込んでいて、お声がけに気付かなかったのでしょう......言葉で済むことを、手を出すことはありますまい」玄武の口調は大師兄への敬意を保ちつつも、僅かな非難の色が混じっていた。深水は思わず笑みを漏らした。「そう力も入れてはいない。それに彼女も慣れているさ。彼女を一番叩いていたのは、私の師叔である君の師匠だったのだからな」玄武は一瞬の沈黙の後、「師匠は時として加減を知らない。後ほど申し上げておきましょう」深水は席に着きながら、心から安堵の表情を浮かべた。さくらと玄武は、まさに天が結んだ縁であった。彼は本当に彼女のことを心に掛けている。さくらの方は少々鈍感だが、それも構わない。徐々に気付き始めており、人の好意にも応えられるようになってきている。有田先生が酒を運ばせ、棒太郎も席に着いた。この期間、親王家の者たちも皆、表立っては見えぬよう、密かに奔走していたのだ。杯を交わし合う宴の賑わいは、最近の事件捜査が漂わせていた暗い影を払い去っていった。有田先生は文武両道に通じ、深水先生の機嫌を取ろうと、酒壺を持ち出して意気揚々と提案した。「折角の美酒、歌詠みの酒宴などいかがでしょうか」その言葉が出た途端、棒太郎と紫乃は立ち上がり、声を揃えて言った。「もう腹一杯です」有田先生は眉間に皺を寄せる。「腹一杯、ですと? 村上教官、あなたは誰よりも食べる方ではありませんか。いつも最後まで食べ続けているのに、今日はまだ一膳も平らげていないでしょう」「今日は食欲がないんです!」棒太郎は食卓の料理を見つめ、思わず唾を飲み込んだ。だがもう食事を続けるわけにはいかない。歌詠みの酒宴となれば、もう無理な

  • 桜華、戦場に舞う   第825話

    入門の宴を終え、屋敷に戻った紫乃は、さくらに打ち明けた。「まるで茶番劇を演じているような気分だわ。私自身、弟子としても未熟なのに、もう師になるなんて。しかも年上で、玄甲軍の精鋭たち。もし私の指導が不十分だったら、あなたに迷惑がかかってしまうんじゃないかしら」さくらは紫乃の手を取り、玄武を先に屋敷へ戻らせると、二人で花園を散策し始めた。「無理だと感じるなら、入門の儀など無かったことにしても構わないわ。これまで通り『先生』として接すれば良いの。指導の出来不出来なんて気にすることないわ。師匠は門を示すだけ。修行は本人次第。あなたには十分な腕前があるし、威厳だって保てる。もし上達できないのなら、それは彼らの才覚の問題。あなたの責任ではないわ」「ただね、彼らは朝廷の官人なの。武芸界の作法で教えるのは、少し不適切かもしれないって」「玄甲軍の強化は陛下の望むところよ。玄甲軍と京の駐軍は皇城の守りなのだから」「そんなに重要なのに、あなたに任せるなんて、随分と大胆ね」紫乃が呟く。「今、謀反を企てる者の正体が掴めていないから。でも陛下は、その者が北冥親王家の者ではないと知っているの......」さくらはそれ以上の説明を控えた。以前話した通りだ。「つまり、私たちを使って黒幕を炙り出すか、もし反乱が起きた時は、敵を討ち陛下をお守りするか、というところね」「飛鳥尽きなば、良弓も収められるというわけね」紫乃は淡々と言った。さくらは言った。「飛鳥が姿を消すのは、世が平らかになった証。私たちは権勢など望まないわ。その時が来たら、弟子たちを連れて梅月山に戻りましょう。何不自由のない日々が待っているはず」「そうね、やっぱり梅月山が一番」紫乃は梅月山での憂いのない日々を思い出し、心が温かくなる。京の都は確かに栄えている。けれど、権謀術数が渦巻きすぎる場所でもあった。「私にも打算があるの」さくらは申し訳なさそうに紫乃を見つめた。「あなたに武術を教えてもらいたいのは、燕良親王が北條守に近づこうとしているのを見たから。恐らく玄甲軍を足がかりにするはず。私は確かに大将だけど、衛士も、御城番も、禁衛府も、御前侍衛も、これまでは独立した組織だった。一朝一夕には心服させられないわ。それ自体は問題じゃない。問題は、私が上官だってこと。誰と付き合おうと、私には言わないし、私の前

  • 桜華、戦場に舞う   第824話

    数日後、村松ら三人は入門の宴を設けた。江景楼に紫乃を招き、親王様と王妃様にも証人として臨席いただく手筈を整えた。あの日の帰り道、紫乃は後悔の念に駆られていた。自分のような気ままな性分で弟子など取れるものか。身動きが取れなくなるだけではないか。しかも年下の自分が――。師としての威厳を保てないわけではないが、そもそも弟子を取る必要などない。ただの武術指南役として「先生」と呼ばれる程度で十分なはずだった。断る方法を模索していた矢先、彼らは江景楼での入門の宴を提案してきた。これほどまでに格式を重んじられては――。馬鹿げているとは思いつつも、どこか虚栄心がくすぐられる。思い返せば、いずれ赤炎宗も自分が継ぐ身。そう考えれば、弟子を取るのも悪くはない。腹が決まると、三人それぞれに相応しい武器を選び、玄武とさくらを伴って江景楼へ向かった。跪拝と献茶の礼を受けた後、紫乃は言葉を継いだ。「まず一つ申し上げておきたいことがあるわ。私への入門の件は、大々的に触れ回らないでいただきたいの。あの日、確かに皆の前で跪いてはくださったけれど、献茶の儀もない非公式なものだった。今日の宴で正式な師弟の契りを結ばせていただいたわけだけど、これは此処にいる者たちだけの秘密にしましょう。外では『師匠』でも『沢村先生』でも、お好きな呼び方で構わないわ」三人は恭しく頷き、「承知いたしました」と応じた。紫乃は持参した武器を一つずつ配り始めた。「山田、大師兄として相応しい剣を選んできたわ。あなたの剣術は見事だもの。この清風剣を手にして、さらなる高みを目指してちょうだい」「恩に着ります、師匠!」山田は両手で剣を受け取り、歓喜に震えた。「村松、あなたを二師兄とするわ。普段から刀を使っているでしょう? この紫金刀をあなたに」「紫金刀、ですと?」村松は飛び上がらんばかりの喜びようだった。武芸者が愛刀に寄せる思いの深さは言うまでもない。刀剣どちらも扱えるとはいえ、刀こそが己に相応しい。「ありがとうございます、師匠、本当にありがとうございます」「親房!」親房虎鉄は大人しく跪いたまま。帰宅後、随分と思い悩んだものだ。若輩の娘を師と仰ぐなど、一時の気の迷いではなかったか。噂が広まれば、人前に顔向けできなくなるのでは――。だが、二人が稀代の名器を手にするのを目の当たりにし、今は別の後悔

  • 桜華、戦場に舞う   第823話

    紫乃は微かに微笑むと、一瞬の躊躇もなくさくらへ飛びかかった。さくらは身を翻して避けながら、紫乃の腕を掴んで後ろへ引き込む。だが紫乃は空中で鷹のように身を翻した。百本を超える手数を繰り出してなお、決着はつかない。その動きは目が追いつかないほどの速さで、拳と蹴りが風を切る音だけが響き渡る。時折、二人の蹴りが周囲の青石の敷石を砕き、石板は粉々に砕け散った。その威力に、見守る者たちは息を呑んだ。この凄まじい打ち合いを目の当たりにして、皆は悟った。先ほどまでの自分たちの腕試しなど、まさに見せかけの技に過ぎなかったのだと。本気で戦えば、上原殿は二、三手で全員を倒せたはずだった。百余りの攻防を経て、二人は同時に間合いを取った。これほどの激戦を繰り広げたというのに、髪が僅かに乱れている程度だった。その様子を見つめる北條守の胸中は、複雑な思いで満ちていた。邪馬台での戦いで、確かに二人の凄みは知っていた。だがあの時は戦場、純粋な力と機敏さ、速さを競うだけだった。今の手合わせは違う。真の技の粋を尽くした、しかも美しくも凄絶な戦いだった。こんな稀有な女性を、自分は手放してしまったのだ――。出陣から戻った時、彼女に投げかけた言葉を思い出し、顔が熱くなる。あんな言葉を、よくも口にできたものだ。あの時の自分は一体何に取り憑かれていたのか。山田が真っ先に反応を示した。すぐさま跪き、「弟子の山田鉄男、師匠に拝謁いたします」村松も一瞬の戸惑いの後、急いで跪いた。「弟子の村松碧、師匠に拝謁いたします」二人は単なる武術指南役としてではなく、真摯な師弟の契りを求めていた。「すまんな」山田が村松に向かってにやりと笑う。「これで俺が大師兄だ」「ちぃ」村松が舌打ちする。「抜け目ないな、一歩遅れを取った」親房虎鉄は躊躇いがちに尋ねた。「必ず、その、師弟の契りを結ばねばならないのでしょうか」「いいえ」さくらは淡々と答えた。「そもそも沢村お嬢様が受け入れてくれるかどうかもあるわ。誰でも弟子にするわけじゃないもの。武術の指南役として『先生』と呼ぶだけで十分よ」「いえ、私たちは是非とも弟子にしていただきたい」山田が食い急いで言った。玄甲軍の者として、武芸の上達は出世への近道なのだ。紫乃はまだ弟子を取るつもりはなかったのだが、二人が跪いた以上は受け入れざるを得な

  • 桜華、戦場に舞う   第822話

    その後、十二衛が次々と挑んでいったが、二十合どころか、十五、六合で全員が打ち破られていった。村松碧は四十本まで持ちこたえたものの、最後には倒れてしまった。だが、立ち上がって礼をする彼の表情には、この成績に満足げな色が浮かんでいた。そして、最後の親房虎鉄の番となった。これまでじっと上原さくらの動きを観察してきた虎鉄は、ある程度の型は読めたと自負していた。己の実力を見積もれば、五十本は何とかなるはずだ。足技なら自分が一枚上手。明らかに彼女の蹴りには力不足だ。対して彼女の拳は驚くほど速い。となれば、下段での勝負に持ち込めば勝算は十分――。虎鉄は軽く躰を屈めながら拳を握り、その場で数度跳躍して足の筋を伸ばした。「では、私の番でございますね」さくらの唇に、何とも言えない微笑みが浮かぶ。「ええ、あなたの番よ」その笑みを目にした瞬間、虎鉄の心底に不安が走った。まるで何か恐ろしい奥の手を隠し持っているかのような予感が、背筋を冷やしていた。「最初の一手は譲らせていただくわ」幾度もの手合わせを経ているというのに、さくらの声には疲れの色が見えない。むしろ瞳の輝きは一段と冴えわたっていた。虎鉄は、彼女が微かに膝を曲げて戦闘態勢に入るのを見逃さなかった。すかさず表の拳を放って相手の目を惑わし、続いて蹴りを放つ。表面上は正面への蹴りに見せかけて、途中で軌道を変え、顎を狙う奇襲だ。変化の速さは尋常ではない。普通なら腹部か胸元への防御が精一杯のはずが――。だが、さくらはその奇襲を見透かしていた。両肘を揃えて前に構え、一気に振り払う。その衝撃で虎鉄の体が弾き飛ばされる。慌てて後方へ跳躍し、空中で一回転して何とか体勢を立て直す。だが、足場を固める間もなく、連続蹴りの嵐が襲いかかった。必死に防御し、躱し、かわすも、さくらの矢のような跳躍から繰り出される蹴りは、空中で向きを変えながら更なる一撃となって襲い掛かる。三発、四発と畳みかける蹴りに、もはや足元も覚束ない。内臓が移動したかのような激痛が走り、思わず呻き声が漏れそうになる。このままでは不味い――。虎鉄は痛みを堪えて間合いを詰める。これなら蹴りは使えまいと踏んだのだ。だが、致命的な読み違いがあった。さくらの拳の恐ろしさを失念していたのだ。接近戦において、素手での戦いなら拳こそが最強の武器となる。顎

  • 桜華、戦場に舞う   第821話

    試験当日、上原さくらは命令を下した。玄甲軍所属の指揮官は、衛長であっても、当直でない限り全員出席するようにと。親房虎鉄は最初、自分を狙い撃ちにされたと思い込み、屋敷で妻にさくらの悪口を並べ立ててから出かけた。なんと意地の悪い女だ。玄甲軍がこんな意地悪な女の手に渡るなど、これからどれだけの騒動が起きることか。だが、禁衛府に着いてはじめて、今日の試験が自分一人を対象としたものではなく、しかも式部の評価に直結することを知った。そこで初めて緊張が走った。さくらの機嫌を損ねてしまった今、もし今日の結果があまりにも見苦しければ、評価は芳しくなくなる。そうなれば俸禄削減か、さらには降格、異動も十分あり得る。出発前に線香でも上げて、先祖の加護でも願っておけばよかった。北條守も来ていたが、試験には参加しない。就任したばかりなので、まだ評価対象外だった。守は邪馬台の戦場でさくらの武芸を目にしていた。親房虎鉄が彼女の相手になどなれるはずがない。何合持ちこたえられるかを見物するだけだろう。この日のさくらは、官服を着用せず、青色の錦の袍に翡翠の冠という出で立ちだった。威圧的な官僚の雰囲気は影を潜め、どこか文雅な趣きすら漂わせている。演武場の石段に立ち、凛とした声で告げた。「本日は私が直々に諸君の実力を見させていただく。存分に力を振るっていただきたい。副領の方々は私と五十合手合わせができなければ、特別訓練を受けていただく。衛長の方々は二十本。これもまた叶わなければ、同じく特訓となる」その声は場内の隅々まで響き渡った。あちこちから嘲笑うような笑い声が漏れる一方で、眉間に深い皺を刻む者もいた。笑いを漏らしたのは、さくらの武芸を知らぬ者たち。眉をひそめたのは親房虎鉄と北條守などの副領たちだ。彼女と五十合も手合わせができるはずがない――つまり、特訓は避けられないと悟ったのだ。「特訓の師範も、すでに手配済みだ」さくらは冷ややかな眼差しで一同を見渡し、場が静まり返るのを待って、「沢村紫乃殿」と告げた。現れたのは紅い衣装に身を包んだ、艶やかな女性だった。一同の目が疑いの色を帯びる。女性が、それも この人物が師範を?紫乃は廊下の前に椅子を運ばせると、豪奢な袖を翻して悠然と腰を下ろした。その半身もたれかかった姿には、孤高の気概が漂っていた。ふふ、今日は弟子

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