斉家一族は長年にわたって官界で手腕を振るい、今まさに最盛期を迎えていた。斎藤式部卿は先帝の時代から重用され、先帝の心中は読めたと自負していたが、現帝の心中だけは測りかねていた。なぜ上原さくらを大将に任命したのか。この重要な地位は、もし北冥親王邸に反逆の意志があれば、やりたい放題できる立場だった。そこで家族会議を開き、厳しい規律を説くと同時に、上原さくらへの不満も表明した。「こんな無茶な真似をすれば、都の名家が皆、天地逆さまになってしまう。冤罪も起こりかねん。これまであんなに功を焦る人間だとは思いもしなかったが、いきなり燕良親王邸に切り込んで威信を示すとは。他の家にも手加減などするはずがない。まったく無茶苦茶な話だ」斎藤芳辰と齋藤六郎もその場にいた。式部卿の言葉を聞き、さくらのために一言言おうとしたが、その前に式部卿の冷たい視線が二人に向けられた。「三男家も気をつけろよ。六郎、お前は特にだ。今や姫君を娶ったのだからな。寧姫は北冥親王の実妹だ。彼女の前では慎重に振る舞え。まだ分からんからな、彼女の心が夫のお前にあるのか、実家にあるのか」「叔父上、ご安心ください」齋藤六郎は言わざるを得なかった。「私と姫君は如何なる試練にも耐えられます。それに、上原大将は決して無謀な行動はなさらないと信じております」「何が分かるというのだ」式部卿は眉間に深い皺を寄せた。「彼女は今日、誰の顔も立てないと宣言したようなものだ。陛下は当面彼女に手を出さないだろうが、このようなやり方では各家の面目が潰れる。特に我が斎藤家だ。このような侮辱を受けていられるか」斎藤家の現在の地位は、挑発など許されるものではなかった。齋藤六郎が何か言いかけたが、斎藤芳辰に制された。家族会議が終わった後、外に出た六郎は芳辰に尋ねた。「なぜ私を止めたのですか。王妃様は決して無謀な行動はなさらない。必ず深い意図があるはずです。大長公主が本当に謀反を企てているなら、必ず同党がいるはずです」「叔父上がそれを知らないとでも?」斎藤芳辰は言った。「はっきり言えば、世家の調査を行うのが王妃だからだ。もし王様ご自身なら、叔父上はこのような物言いはなさらなかっただろう」「女性だからといって、何が違うというのです」齋藤六郎は不満げに言った。「王妃様の能力は誰もが認めるところ。叔父上だって以前、王妃
今、身籠もっている夕美は、妊婦特有の繊細な感情に支配されていた。北條守の昇進を知った時の喜びも、上原さくらが夫の上司になると知った途端、涙が溢れ出した。守の腕に寄り添いながら、夕美は声を詰まらせた。「私、嫉妬しているわけじゃないの。でも、どうして彼女があなたの上に立つの?大長公主の謀反の証拠を見つけたのはあなたでしょう。もしあなたがいなかったら、大長公主の謀反の企みなんて、今でも誰も気付いていなかったはずよ」「我慢できないの。どうしてあなたはいつも彼女に押さえつけられているの?功績も、戦功も、あなたの方が上なはずでしょう?陛下がどうして女を大将になさるの?女が京都の玄甲軍を統べて、衛士も御前侍衛まで指揮下に置くなんて、おかしいじゃない。男たちの面目が丸つぶれよ」守は妻の啜り泣く声を聞きながら、胸の内で苛立ちが募っていった。あの夜、自分と対峙した刺客の正体を、彼は知っていた。だとすれば、この功績は本当に自分の力で勝ち取ったものなのか。いや、あの人が与えてくれたものだ。おそらく大長公主の謀反は既に把握していて、寒衣節に大長公主の陰謀を暴こうとしていたのだろう。自分はただ運が良かっただけだ。西庭にいて、地下牢まで追いかけ、武器を発見できただけの話。なぜ北冥親王は自ら暴かず、禁衛府と御城番に暴かせたのか。これほどの大功を。なぜ禁衛府と御城番にこの功績を譲ったのか。おそらく、軍功の重みを知り尽くした北冥親王には、この程度の功績など眼中になかったのだろう。守の瞳が暗く曇った。結局は出自の違いなのだ。影森玄武が欲しがりもしないものが、自分には命を賭けても手に入らない。「もういい。とにかく昇進はできたんだ」北條守は胸の苦みを押し殺し、親房夕美に優しい笑みを向けた。「これからはお前は御前侍衛副将の夫人だ」「でも、私たち将軍家はいつになったら昔の栄光を取り戻せるの?上原さくらはあなたの上司よ。きっとこれからもあなたを押さえつけるわ。あの人はあなたに恨みも怨みも持っているのよ。もし策略にかかったら、この御前侍衛副将の地位だって危うくなるかもしれない」北條守は指で彼女の涙を拭いながら言った。「そんなことはない。彼女はそんな人間じゃない」夕美は彼の手を払いのけ、表情が一瞬にして怒りに染まった。「あなた、彼女の味方をするの?そんな人間
妻たる者が、夫の顔を打つなどあってはならないことだった。将軍家という身分はもとより、一般の庶民でさえ夫の顔を打つようなことはしない。どれほど腹が立っても、せいぜい体を叩く程度が関の山だ。所詮、女の拳に大した力などないのだから。顔を打つということは、男の尊厳そのものを踏みにじる行為に等しい。屋敷には使用人たちの目もある。これでは北條守の威厳も地に落ちるというもの。しかも彼は御前侍衛副将に昇進したばかりというのに。この平手打ちは、北條守の胸に芽生えかけていた喜びの感情を一瞬にして打ち砕いてしまった。親房夕美は唇を噛みしめ、涙を流した。自分が度を越してしまったことは分かっていたが、自尊心が邪魔して謝罪の言葉を口にすることができない。「もういい。下がってくれ」守は怒りを押し殺して言った。もう口論は避けたかった。夫婦喧嘩の苦さは十分すぎるほど味わってきた。あまりにも心が疲れる。夕美は平手打ちを食らわせた後、確かに後悔の念に駆られていた。しかし、夫のそんな冷たい物言いを聞いて、胸が締め付けられる思いだった。「私だって身重の体で、あなたの看病をしようと来たのよ。早く傷が治って、昇進のお礼を言いに行けるようにって思って。でも、あなたの態度には本当に失望したわ」守は目を閉じ、口論も応答も避けた。その冷淡な態度に傷ついた夕美は、立ち上がって涙を拭うと、一言残して背を向けた。「結構よ。そんなに私を見たくないというのなら、実家に帰る」夕美には分かっていた。北條守が自分の実家の評判を気にかけていることを。身重の体で実家に戻れば、きっと彼は心配するはずだと。だが、お紅に支えられて屋敷を出て、かなりの距離を歩いても、北條守が誰かに呼び戻すよう命じる声は聞こえてこなかった。夕美の胸は怒りと悲しみで一杯になった。北條守は本当に自分のことなど少しも気にかけていないのだと。そうして夕美は、憤りのままにお紅を連れて実家へと戻った。都で突発的な事件が起きたため、各名家は門下の者たちの行動を制限していた。三姫子の家も例外ではなかった。大長公主家との付き合いは少なかったとはいえ、用心に越したことはないのだから。だからこそ、妊婦の義妹が泣きじゃくりながら実家に戻ってきたと聞いた時、三姫子は門番に追い返すよう言い渡しておけばよかったと後悔した。もちろん、それは心の
西平大名老夫人は決して愚かな人ではなく、娘の性格も分かっていた。しかし、大きなお腹を抱えて泣きながら戻ってきた娘を見ては、母心が痛まないはずがない。ここ最近は特に問題も起こしていなかったし、過去の出来事は水に流そうと思っていた。母親が実の子との過去の諍いを、いつまでも根に持つはずもない。それゆえ、北條守が自分を冷たくあしらい、身重の体で実家に戻ると言っても制止もしなかったという娘の話を聞いて、嫁を呼びにやったのだ。夫婦の仲を取り持とうと思ってのことだった。三姫子が到着した時には、次男家の蒼月もすでに老夫人の居間に座っていた。「お義姉様!」蒼月は立ち上がりながら、内心ほっと胸を撫で下ろした。これ以上三姫子が来なければ、そろそろ何か言い訳をつけて逃げ出すところだった。三姫子は蒼月に頷きかけると、老夫人に向かって礼をした。「お義母様、お伺いいたしました」「ちょうどよい頃合いだ」老夫人は上座に座り、厳しい表情を浮かべていた。その傍らには、涙の跡の残る親房夕美が座っていた。夕美は身重のため、すすり泣きながら「お義姉様」と一言呟いただけで、立ち上がっての挨拶はしなかった。三姫子は座に着くと、夕美を見上げ、何も知らないふりをして尋ねた。「夕美、どうして泣いているの?誰かに何かされたの?」実のところ、夕美は実家に戻った時、実家を盾に何かを要求するつもりはなかった。ただ北條守を脅かすつもりだったのだが、一度言い出した手前、引っ込みがつかなくなって戻ってきたのだ。母親に会えば自然と胸の内が込み上げてきた上、些細なことで実家に戻ってきたと思われたくなかったため、北條守が意図的に自分を冷遇し、つれない態度を取っていること、将軍家の他の者たちも自分を軽んじていることを訴えた。しかし母親がすぐさま義姉たちを呼びつけるとは思いもよらなかった。特に三姫子は厳格な人だ。今日の一件を話せば、むしろ自分に非があることになってしまう。そのため、三姫子の問いに対して、母親に話したことは口にできず、ただ「少し言い争いがあって、実家で数日ゆっくりさせていただこうと思いまして」とだけ答えた。「今、身重の体なのに、将軍家の皆が、守くんも含めて冷たくあしらって、つれない態度を取ってるっていうのよ」老夫人は言った。「きっと天方家へ行った件が原因なんだろうけどね。でもさ、も
老夫人はそれを聞くと、心臓が止まりそうなほど激怒した。夕美を指差しながら怒鳴った。「なんて身の程知らずな!守くんの昇進がどうして良くないことになるの?縁起でもない話ばかりして、それに王妃様のことを持ち出して何になるの?そんなこと、相手が喜ぶと思ってるの?それに、母親のこの私が、妻たるものが夫の顔を打っていいなんて教えた覚えはないわよ。よくも実家に戻って泣けたものね。てっきり以前のことで揉めているのかと思えば、結局はあなたが一人で騒いでいただけじゃない。あれだけの重傷を負っているのに、妻として看病もろくにせず、ちょっとした言い合いで夫の顔を打つなんて。本当に性根が腐ってるわ。あなた、私を死なせる気?」夕美は俯いたまま、心の中では相変わらず納得がいかなかったが、声高に主張する勇気はなく、ただ涙声でこう言った。「お母様、お義姉様、私だって好きで揉め事を起こしているわけではありません。苦労して彼の子を宿したというのに、彼の心には上原......前の奥様のことばかり。こんなこと、誰だって我慢できないでしょう?」三姫子は黙っていた。こんな話題には関わりたくなかった。姑も道理は分かる人なのだから、これからは夕美のことは姑に任せ、自分は付き添って話を聞いているだけでいい。老夫人は夕美がまだそんなことを言うのを聞いて、怒りが収まらなかった。「聞くけどね、守くんはあなたの前でそんな話をするの?」夕美は目を丸くした。「まさか、そんなことできるはずないじゃありません」「じゃあ、家族の前で?それとも他人の前で?」夕美は言った。「将軍家では誰も進んで話したりしません。葉月琴音以外は。外でなんてとても......でも、口に出さなくたって、心の中では考えてるんです」老夫人はもう我慢の限界だった。「本人が何も言わないのに、どうしてあなたばかりがそんな話を蒸し返すの?もうまともな生活を送る気がないとでも言うの?自分のことを考えないなら、お腹の子のことくらい考えなさい。もう子供じゃないでしょう。二度目の結婚なのに、どうしてそんなに分別がつかないの?まったく、頭を犬に噛まれたみたいね。それに、守くんの心の中なんて、あなたに分かるはずないでしょう?」老夫人の怒りに任せたその言葉に、三姫子と蒼月は思わず袖で口元を隠し、こらえきれない笑みを押し殺した。夕美は啜り泣きながら言っ
さくらは親房夕美が実家に戻っていることを知らなかった。今夜訪れたのは三姫子に伝えたいことがあったからで、昼間は事件の捜査で忙しかったためだった。それに、西平大名家は大長公主家と特に親密な付き合いがあるわけではなく、事情聴取で訪れる必要もなかった。昼間に訪れれば、他の屋敷同様、禁衛を同行せねばならず、そうしないのは差別的な扱いとなってしまう。三姫子はさくらが官服ではなく女性らしい装いをしているのを見て、少し安堵した。「王妃様、沢村お嬢様、ようこそいらっしゃいました」「奥様、こんばんは」紫乃は三姫子に特別な好感を抱いていた。今日は疲れていたものの、さくらが西平大名家を訪れると聞いて、同行を決めたのだった。「どうぞお座りください」三姫子は笑顔で招き入れ、使用人にお茶を出すよう命じた。座が落ち着くと、三姫子は言った。「王妃様、何かございましたら、使いの者にお言付けいただければ、私の方からお伺いできましたのに。わざわざお越しいただくことはございませんのに」「そこまで堅苦しくなさらないで。今日は少しお話ししたいことがありまして」さくらは正庁に控える使用人たちを見やった。「皆さんに下がっていただくことは可能でしょうか」三姫子は織世に目配せをした。織世はすぐさま「皆、下がりなさい。もう結構です」と告げた。使用人たちが退出すると、三姫子はさくらに向き直った。「王妃様、どのようなご用件でしょうか」「奥様、万葉家茶舗の万葉お嬢様という方をご存知ですか?」三姫子はすぐに、親房鉄将が水餃子を買いに行った夜に話していた女性のことを思い出した。あの時から、この万葉という女性に何か引っかかるものを感じていた。三姫子の心は一瞬、凍りついた。隠し立てせずに答えた。「はい、存じております。義弟の鉄将が何度かお会いしたと聞いておりますが、その後は会ったという話は聞いておりません」そして、親房鉄将が水餃子を買いに行った時に万葉家茶舗の万葉お嬢様と出会った一件を話し始めた。「その時、私は少し違和感を覚えまして、特に気をつけるように、万葉家茶舗でお茶を買わないよう使用人たちに言い付けました。鉄将もあの万葉お嬢様のことはあまり良く思っていなかったようです。というのも、後日水餃子を買いに行った時、屋台の主人から、万葉お嬢様があの水餃子を食べなかったと聞かされ、その夜の
三姫子は椅子の肘掛けを握りしめ、眉間に皺を寄せた。彼女の表情も複雑なものへと変わっていった。夫のことは妻が一番よく知っている、とはまさにこのことだ。夫は邪馬台に赴任する時、二人の側室を連れて行った。そして現地でさらに二人を迎え入れた。まだ正式な身分は与えていないものの、すでに寝所に入れている以上、側室としての地位を与えるのは時間の問題だった。三姫子は厳格に家を治め、側室たちも彼女に従い敬っていたため、西平大名家で側室が騒動を起こすような醜聞は一度もなかった。ほぼ間違いないと言えた。椎名青舞が夫に近づければ、好みに合わせる必要すらない。あの花魁の顔を見せるだけで、夫の心は揺らぐだろう。紫乃は三姫子の表情を見つめていた。どうやら、親房甲虎が椎名青舞の美貌に抗えないことを、彼女自身がよく分かっているようだった。紫乃は胸が痛んだ。三姫子はすばらしい女性なのに、良い男性に巡り合えなかった。親房甲虎は邪馬台の守将とはいえ、彼女には相応しくない男だった。三姫子は京で内も外も心を砕いて切り盛りし、姑に仕え、義妹の尻拭いをし、西平大名家を傷つけかねない人や事から守ってきた。それなのに、幸せを手に入れることはできなかった。三姫子はすぐに平静を取り戻し、感謝の眼差しでさくらを見つめた。「ご報告くださり、ありがとうございます。早速、手紙で注意を促します」「椎名青舞は姿を変えていますし、影森茨子も彼女の素性を公にしていませんから」とさくらは言った。「今、彼女が平西大名に対してどんな目的を持っているのか、私たちには分かりません」三姫子はさくらの言葉の意味を理解した。椎名青舞はもはや花魁という身分ではなく、大長公主も失脚した今、自由の身となっている。もし後ろ盾を求めているのなら、確かに親房甲虎はその役目を果たせるだろう。もしそれだけの話なら、三姫子もそれほど心配することはなかった。しかし、椎名青舞は依然として大長公主家の庶出の娘という事実がある。この事実を刑部も上原大将も知っている。もし親房甲虎が彼女と関係を持てば、いくつかの疑惑を晴らすことは難しくなるだろう。それは西平大名家全体に、そして自分の子供たちにまで影響が及ぶ可能性がある。これこそが彼女の本当の懸念だった。「王妃様、もし椎名青舞が夫と関係を持った場合、刑部は......」言葉
織世はすぐにお紅と共に夕美を支え、諭すように言った。「お医者様は、お嬢様はなるべく動かないようにとおっしゃいました。早くお休みになってください。王妃様のお見送りは奥様にお任せして、お嬢様は戻られたほうが」「王妃様」という言葉で、夕美の理性が戻ってきた。自分が血の気に逸って衝動的に行動してしまったことに気付いた。もし義姉が自分のことを話すつもりなら、どうして上原さくらがわざわざ訪ねてくるだろう。きっと大長公主の謀反の件で来たのに違いない。夕美は恥ずかしさのあまり、不安も募り、さくらに向かって慌ただしくお辞儀をすると、その場を去った。さくらと紫乃は顔を見合わせた。一体どんな風が吹いたというのだろう。三姫子が二人を見送る間、紫乃が尋ねた。「お宅の夕美お嬢様が、こんな夜更けにいらっしゃるなんて。また実家にお戻りなんですか?ご主人と何かあったんでしょうか?」別に詮索好きなわけではない。ただ、親房夕美があまりにも物騒がしく、さっきもあんな風に突っかかってきて、北條守との何かを口にした。明らかにさくらと関係があるようだったから、聞かずにはいられなかった。三姫子も家の恥を外に晒したくはなかったが、夕美の醜聞は既に二人も知っているので、包み隠す必要もないと判断した。「お恥ずかしい限りです。守様と喧嘩をして実家に戻ってきたのですが、胎動が不安定になってしまい、しばらく療養させることにしました」「北條守は功績を上げて昇進したのに、今は怪我で静養中なのに......この時期に喧嘩って、まさかまたさくらのことですか?」紫乃の表情が曇った。三姫子は苦笑いを浮かべた。「理不尽な振る舞いです。王妃様も沢村お嬢様も、どうかお気になさらないでください」「病気ね」と紫乃は小声で吐き捨てた。既に離縁して、それぞれ再婚しているというのに、まだ執着している。王妃と沢村お嬢様を見送った三姫子が内庭に戻ると、親房夕美が自分の部屋の外で待っているのが見えた。一瞥しただけで何も言わず、そのまま中に入った。この義妹にはもう完全に失望していた。何を言っても無駄だろう。救いようのない者に慈悲は無意味だ。このまま騒ぎ続ければ、単なる面目の問題では済まなくなる。「お義姉様、あの方たち、何しに来たんですか?」夕美が後を追って入ってきて、腰に手を当てながら尋ねた。三姫子は座に
さくらは冷ややかな目を向けた。「斎藤殿は道理をわきまえた方だと思っておりましたが、私の見込み違いだったようですね。『被害者ではない』などと、何気なく口にされましたが、その一言でどれほどの命が危うくなるかご存知ですか?これらの女性たちだけでなく、彼女たちが仕えた名家までもが連座の憂き目を見ることになります」さくらがこう言うのは、彼を責めたいわけでも、鬱憤を晴らしたいわけでもない。斎藤忠義は今や陛下の信頼厚い側近大臣となっている。彼女に向かって言えることは、陛下にも進言できるのだ。陛下は今、賢明な君主としての名声を築こうとしている。数年後、基盤が固まった時に斎藤忠義の言葉を思い出せば、後患を断つという考えに至らぬとも限らない。そうなれば、女性たちの生きる道は完全に断たれてしまう。忠義も自分の失言を悟り、その話題には触れまいと「では、上原殿、その子を孤児として寺に引き取っていただけるよう、住職にお取り次ぎいただけませんでしょうか。これは実は彼女たちのためでもあります。少なくとも母子は共に暮らせるのですから」「それが斎藤家のご決断ならば、住職には話してみましょう。ですが、これが彼女たちのためだとおっしゃる点には、私は同意できかねます。実の親がいながら、孤児として扱われる子。母娘は同じ場所にいながら、親子と名乗ることもできない。特に最初は、二人を引き離さねばなりませんね。たとえ椎名青妙さんが抱きつかなくとも、たった一歳の幼子が実の母を見分けられないとでも?」忠義の体裁の良い言葉は、さくらの容赦ない指摘によって、完全に粉々に砕かれた。さくらは以前、斎藤式部卿に子どもを寺に預けることを提案したことがあった。母子が共に暮らせるようにと。しかし、斎藤忠義の今の提案は、その関係を隠したままにしておきたいという意図が見え透いていた。つまり、同じ屋根の下にいながら、実際には親子として暮らせないということだ。これは彼女の当初の提案とは全く異なる。そもそも式部卿は、子どものことは心配するなと言っていたはず。それがなぜ今になって、こうして彼女に頭を下げているのだろうか。忠義はほとんどさくらの顔を見ることができなかった。彼だって分かっているはずだ。本当にその子を大切に思うなら、最善の策は屋敷に引き取ることだ。母は失望するかもしれないが、庶子庶女を虐げるような人ではな
東海林家から五万両が届けられた。被害女性たちの救済金だという。東海林夫人は貧しさを嘆き続け、これだけの金額を用意するだけでも家中の財産を掻き集めたのだと訴えた。さくらは夫人の嘆きを遮った。「陛下の命により、十万両を用意なさい。一文たりとも少なくてはなりません。三日後、あなたの息子は処刑されます。その前に、東海林家の皆様には最後の面会が許されています」夫人は当然のように会いたがった。十月の胎を痛めた実の子である。しかし、東海林家当主の冷たい眼差しを感じ取ると、啜り泣きながらこう言った。「もう会うまい。会ったところで......ただ怒りが増すばかり。あのような所業を働いた者は、もはや東海林家の人間ではございません」「そうだ。重罪を犯した者だ。会わぬが良かろう」東海林当主も同調した。今や彼らは息子との縁を切ることに必死だった。息子を思う気持ちがないわけではない。ただ、どのみち死刑は確定している。せめて家族への累が及ばなければそれでいいのだ。さくらは通達の義務を果たしただけだった。面会するかどうかは彼らの判断に委ねられている。会わないというのなら、藩札を受け取って帰らせるだけだ。五万両という額は、東海林夫婦なりの駆け引きだった。一度に十万両を差し出せば、豊かな資産の存在を疑われかねない。また、陛下が大長公主府の没収財産から幾分かを充てるだろうとの思惑もあり、できるだけ少なく済まそうとしたのだ。しかし、一文たりとも減額は認められない。翌日、残りの五万両が届けられた。さくらはその金を、帰郷できる女性たちに分配した。もはや誰も彼女たちを側室と呼ぶことは許されない。今や彼女たちは自分自身の人生を生きる者であり、誰かの付属物でも所有物でもない。ただし、多くの女性たちには年齢の異なる娘たちがおり、、そのため離れることを望まず、大半は梨水寺への同行を選んだ。椎名紗月は梨水寺には行かないが、沢村紫乃が彼女の動向に責任を持つことになった。湛輝親王家の椎名青影も同様だ。湛輝親王は「あの子が豚になるまでは手放さん」と冗談めかして言った。斎藤家の妾であった椎名青妙は、斎藤忠義が梨水寺まで付き添ってきた。ちょうど諸事の手配をしていたさくらは、忠義の姿を認めると、人々に青妙の受け入れを指示した。忠義は懇願するような眼差しでさくらを見つめた。「上原殿、少し
大長公主の一件の後は、東海林椎名の番となった。勅命が下され、その罪状は一言で「強姦、拉致、殺人を含むあらゆる悪行」と要約された。東海林は自分が死を免れないことを悟り、側室たちとの面会を願い出た。玄武に哀願する。「彼女たちとは夫婦の契りを交わし、子まで儲けた仲。ただ、私をあまり恨まないでほしいのです。彼女たちだって分かっているはずです。私には選択の余地がなかった。必死に生き延びようとしたのも、彼女たちが影森茨子に殺されないようにするためでした。確かに申し訳ないことをしました。どうか陛下にお取り次ぎください。彼女たちに土下座して謝罪させていただきたいのです」一言一句が責任逃れで、男としての覚悟など微塵も感じられなかった。彼は東海林侯爵家のことには一切触れなかった。東海林家を守ろうとしているのは明らかだった。今は爵位こそ失ったものの、陛下は家財没収を命じておらず、その基盤は依然として健在で、さほど困窮することもないだろう。玄武は、かつての義理の叔父となるこの男を見つめながら、わずかに身を乗り出した。「偽善的な仮面は外しなさい。小林鳳子さえも、あなたが最愛だと口にする彼女でさえ、一目会おうともしない。彼女はとうにあなたの本性を見抜いていた。まあ、謝罪したいというのなら、死後に被害者一人一人に詫びを入れるがいい」東海林は苦笑を浮かべた。「死後、私が謝るべき相手には必ず謝罪いたします。すべては私の過ちです。彼女たちを守れなかった。親王様、かつての叔父という縁を思い出していただけませんか。紗月だけでも会わせていただけないでしょうか。最期に、肉親に一目会わせていただきたいのです」「肉親に会いたいと?それなら簡単なことだ」玄武は冷ややかに言った。「今すぐ東海林家からお前の甥や姪を呼び寄せよう。あるいは儀姫に最期の見送りをさせるか」哀願に満ちていた東海林の表情が一瞬こわばり、ゆっくりと手を下ろすと、諦めたように呟いた。「もういい。どのみち死ぬ身、会ったところで何になろう。どうか親王様から私の謝罪の言葉だけでも伝えていただけませんか。来世では畜生となって償いをいたします」玄武は冷たい眼差しで彼を見据えた。「死に際の言葉は善なりと言うが、お前は死に瀕してなお悔い改める気がないのか。あの女性たちをこれほどまでに苦しめておいて、まだ足りぬというのか。最期
激痛に耐えながら、親房虎鉄は狂気じみた怒りに駆られ、目上への不敬も顧みず、さくらに向かって飛びかかった。結果として、左右から顔面に拳を叩き込まれたが、さくらがどのように攻撃を繰り出したのか、最後まで見切ることはできなかった。さくらは都に戻ってからというもの、実に思いやり深く、人の気持ちを汲み取る人物となっていた。虎鉄の目にもはっきりと見えるよう配慮してか、彼の胸元の衣を掴み、拳を振り上げた。虎鉄が両手で防御の構えを取ったにもかかわらず、その隙間を縫うように顔面に的確な一撃を浴びせた。そして虎鉄が驚愕する間もなく、さくらは蹴りを放った。彼は再び壁に叩きつけられ、崩れ落ちた。今度の動きは一つ一つがはっきりと見えたのに、それでも避けることができなかった。蹴り出しの動作は緩やかで、軌道も遅く見えた。だが空中での突然の加速と、相手の退避方向を読んだ精確な軌道修正により、虎鉄は自分が打たれ、蹴られるのをただ見ているしかなかった。虎鉄の顔は怒りで紫色に変わっていた。痛みのせいか、この二発の蹴りが相当効いたらしく、丹田から気を集めることすらままならない様子だった。さくらは軽く袖を払い、新田銀士の驚愕の表情を見やりながら告げた。「始めなさい。私が監視する」新田の目は驚きから畏怖へと変わった。「は、はっ!」衛士に支えられて近寄ってきた親房虎鉄は、先ほどまでの高慢な態度は影を潜め、さくらの前では思わず頭を低くしていた。大長公主が押さえつけられると、凄まじい悲鳴を上げ、その後は毒々しい呪詛の言葉を吐き始めた。さくらの先祖代々までをことごとく呪い立てた。さくらはほとんど反応を示さなかったが、いよいよ処置が始まろうとする時になって、冷ややかに一言だけ投げかけた。「そう呪うことしかできなくなったのね」歯を抜くという行為は確かに残虐に見えるが、茨子があの女性たちにしたことと比べれば、取るに足らないものだった。官庁の役人たちは手慣れた様子で、茨子をうつ伏せに押さえつけ、一人が口を無理やり開かせ、もう一人が鉗子を手に作業を始めた。刑部での拷問の時でさえ、茨子はここまで凄まじい悲鳴を上げなかった。あの時の苦痛は確かに激しかったが、少なくとも体は無事なままだったからだ。しかし今や歯を抜かれ、手足の筋を切られては、武芸の心得のない者として、もう二度
馬車が官庁に到着すると、さくらは影森茨子を引きずり降ろした。皇族の要犯を監督する官吏の新田銀士が出迎え、引き継ぎを済ませると、すぐさま茨子の全身に重い鎖を掛けるよう命じた。「上原殿」新田は前置きもなく切り出した。「陛下の御意により、影森茨子が舌を噛んで自害するのを防ぐため、歯の大半を抜き、手足の筋を切ることになっております。上原殿にもその場に立ち会っていただき、ご確認願います」「よくも......」茨子は歯を食いしばり、憎々しげに吐き捨てた。「案内してください」さくらは淡々と返した。茨子が引き立てられながら中へ連行される間、馬車の中での冷静さは影も形もなく、怒りの咆哮を上げ続けた。官庁は広大な敷地を持ち、東西は広い通路で区切られていた。東側が執務棟、西側が収監施設となっている。ここで収監されるのは皇族のみということもあり、一般的な牢獄はなく、それぞれ独立した小さな中庭付きの区画に分かれていた。とはいえ、収監区域は高い壁に囲まれ、厳重な警備が敷かれていた。さくらはすでに衛士統領の親房虎鉄に命じ、警備の増強を要請していた。衛士の姿は見えるものの、親房虎鉄の姿はまだなかった。新田は官庁の官吏として、この施設の収監者全員を管理する立場にあった。通常は官庁独自の衛士たちが警備に当たるが、茨子は陛下からの「特別な配慮」により、衛士による監視が追加で命じられていたのだ。収監区画に着くと、茨子は中へ押し込められた。すでに数人が待ち構えており、古びた矮卓の上には抜歯用の鉗子と、手足の筋を切るための鉄の鉤が不吉げに並べられていた。「このような真似を!」茨子は必死に抵抗したが、全身を縛る重い鎖が邪魔をして、かえって体勢を崩し、前のめりに膝から崩れ落ちた。新田はこうした光景に慣れているかのように、微動だにせず冷めた調子で言い放った。「確かに公主の身分は剥奪されましたが、それでもなお官庁での収監が許されたのは、陛下の御慈悲。今の一礼で、その御恩に感謝したことになりますな」その言葉が終わるか否かのうちに、部下たちに茨子を引き起こすよう命じた。彼女の口元は血に染まっていた。転んだ衝撃で、再び唇を切ったのだ。さくらは新田の言葉を聞きながら、かつて四貴ばあやが語った言葉を思い出していた——身分の高き者が卑しき者に対して何をしようと、それは恩寵な
悲鳴と共に、九人の刺客が素早く飛び上がり、四方に散っていった。山田は自分の推測が正しかったと確信した。彼らは救出ではなく、影森茨子の暗殺を目的としていたのだ。しかし、馬車を見た時、彼は凍りついた。刺客は馬車の中に引きずり込まれ、両足を外に投げ出したまま、明らかに身動きが取れない状態だった。さくらが笑みを浮かべながら近づき、馬車の幕を開けた。覗き込んだ山田は目を疑った。親王様?親王様の他に、影森茨子も馬車の片側に縛り付けられており、先ほどの悲鳴は彼女が上げたものだった。今や彼女は凶暴な眼差しで刺客を睨みつけていた。玄武は刺客を引きずり出して山田に渡した。「刑部へ連行せよ。経穴を突かれており、毒薬も口から取り出した。だが油断は禁物だ。連行後は筋弛緩剤を飲ませろ。こういった死士は毒だけでなく、自ら経脉を断つこともできる」山田は部下に刺客を確保させながら、不審そうに王様を見つめた。いつ馬車に乗られたのか。影森茨子を護送する時、確かに馬車は空で、刑部を出発してからも禁衛府が周囲を固めていたはずだ。「上原殿、これは......?」と山田が尋ねた。「まずは官庁への護送を済ませましょう」さくらは玄武の方を向き、勝どきの仕草で拳を振り上げながら笑顔で言った。「あんた稲妻で帰って。私が馬車に乗るわ」「ああ、後は任せた」玄武は馬の手綱を取りながら茨子を一瞥した。茨子は冷ややかな目を向けて言った。「これで私が喋ると思っているの?」玄武は微笑んで近づき、低い声で告げた。「お前が話すか話さないかは、実はどうでもいい。我々の目的は刺客を捕らえ、ある人物をより恐れさせることだ。実は、その人物が誰か、私は知っている」茨子は意外な様子も見せず、嘲るように唇を歪めた。「それがどうだというの?陛下に申し上げたら?証拠をお出しなさい」「見ていれば分かる」玄武は笑みを浮かべたまま馬に跨り、鞭を打って走り去った。さくらは馬車に乗り込み、山田を急き立てた。「行きましょう!」山田は幕を下ろし、先導に立った。馬車の中で、茨子はさくらを睨みつけていた。これは逮捕されて以来、初めてさくらと二人きりになる機会だった。これまでの取り調べは刑部の役人たちが行い、さくらも時折姿を見せたが、少し様子を見るだけですぐに立ち去っていた。「賤女!」茨子は冷た
案の定、石燕通りを出るや否や、さくらは四方に漂う殺気を感じ取った。強烈な殺気に混じって、一般人には感知できない血の臭いがする。将軍邸であの夜に出会った死士たちと同じ気配だった。師匠から死士の育成過程を聞かされたことがある。残虐極まりないもので、生き残った者たちは、獣や人の死体を踏み越えて這い上がってきた。文字通り、死体の山、血の海を越えてきた者たちだ。だからこそ、彼らは武芸に秀で、技は凶悪だが、常に濃密な殺気と血の匂いを纏っているのだ。「全員、警戒!」さくらの声が風を切って、全員の耳に届いた。護衛たちは目を光らせ、武器を構え、周囲の些細な動きにも注意を向けた。十字路を過ぎた時、空気を震わせる微かな音が聞こえた。北風に吹かれた抜き身の剣が立てる音だ。「止まれ!」山田が手を上げて隊列を止め、即座に大声で叫んだ。「刺客だ!危険!退避せよ!」通りには商売を終えて帰路につく人々が疎らにいただけだった。山田の叫び声に一瞬怯んだ後、彼らは一目散に逃げ出した。一振りの長剣が空気を切り裂き、さくらめがけて飛来した。さくらは馬から跳び上がり、桜花槍で剣を弾き返した。剣は地面に落ちた。すぐさま左右から約十人の人影が飛び降りてきた。彼らは身軽な装束に顔を覆い、武器を手にしてさくらに突進してきた。まるでさくらだけを狙っているかのようだった。さくらは冷たい眼差しを向け、剣陣の中を素早く飛び抜け、桜花槍を振り回して跳躍と同時に一撃を放った。地面が砕けんばかりの衝撃だった。「討て!」山田が跳び出し、剣を受け止める。禁衛府の護衛は十人を馬車の警備に残し、残りの全員が戦いに加わった。さくらの桜花槍は攻防一体となって刺客たちを押し返し、槍先が地面を打つたびに火花が散り、金属の打ち合う音が絶え間なく響いた。さくらの動きは狂風の如く、落ち葉を吹き散らすかのような速さだった。五人の刺客は彼女の攻撃を受け止めるのが精一杯で、一人でも欠ければ、おそらく十合も八合も持たずに倒されていただろう。しかし、少なくとも五人でさくらを足止めできている状態だ。山田は一人では刺客を抑えきれず、二人の援護を必要としていた。残りの禁衛府の者たちは四人の刺客と対峙していた。十八対四という数の優位があるにも関わらず苦戦を強いられていたが、精鋭揃いの彼らは、刺客たちの
燕良親王も無相先生とこの件について協議していた。無相先生は人を送ることに反対したが、燕良親王は茨子が生きている限り重大な脅威になると考えていた。今は自分のことを密告してはいないが、今後はどうなるか分からない。「あの皇帝め、狡猾きわまりない。これほどの武器と鎧が押収されたというのに、本来なら見せしめに即刻処刑すべきところを、官庁への幽閉を命じおった。しかも、この案件が結審しない限り、影森玄武は狂犬のように私に噛みついてくる。茨子が生きている限り、私にとって脅威でしかない」無相は眉を寄せた。「確かに脅威ではありますが、行動が失敗すれば重大な結果を招きかねません。茨子は狂人です。直ちにあなた様を密告する可能性が」「だからこそ救出を装うのだ。我々が救いに来たと思わせ、その隙に始末する」無相は依然として反対した。「余りにも危険です。親王様にそこまでの賭けは不要かと。毎日宮中で看病に励まれ、他のことには関わらないこと。それが最善かと」「どちらにせよ危険は伴う。彼女が生きている限り、安眠などできぬ。あまりにも苦しい」燕良親王の目には残忍な色が宿っていた。「必ず死んでもらう」無相は決意の固さを悟り、しぶしぶ提案した。「それほどのご決意なら、死士たちを武芸界の者に扮装させ、囚人奪還を図るのはいかがでしょう。陛下は茨子が武芸界に配下を持っていたと疑うでしょう。ですが、今回は上原さくらが自ら護送を担当します。彼女の監視下での殺害も救出も容易ではありません」「それでも試みねばならぬ」燕良親王は最近、不眠に悩まされ、見る影もない。周囲の者は母妃を案じてのことと、看病による疲労だと思い込んでいた。そして付け加えて言った。「護送の時刻を探れ。十人で十分だ。茨子の手先は使えぬ今、探りは五弟、淡嶋親王の屋敷の者を使え」無相は頷いた。「承知いたしました」翌日の黄昏時、刑部では準備が整っていた。当初は囚人護送車を使用する予定だったが、協議の結果、茨子の姿を人目に晒さぬよう、馬車での護送に変更された。さくらが自ら隊を率い、三十名の禁衛府の護衛を伴い、山田鉄男が先導を務めることとなった。黄昏時、風は厳しくはないものの、日中より冷え込み、いつの間にか冬の気配が漂っていた。刑部を出発した馬車の先導を務める山田鉄男。さくらは愛馬の稲妻に跨り、桜花槍を手に、凛
東海林椎名への尋問では、かなりの拷問が加えられた。普段は軟弱な男が、この時ばかりは異様なまでに強気で、何も知らないと言い張り、自分も利用された駒に過ぎないと主張し続けた。拷問の最中、彼は泣き叫んでいた。「私こそが最大の被害者だ!影森茨子が最も裏切ったのは私だ!私の女たちを、私の子どもたちを、殺せる者は殺し、追い払える者は追い払った!あの女は本当に狂っている!やっと捕まえられて良かった。これでようやく魔の手から解放される!」京都奉行所の沖田陽も自ら尋問に当たった。京都奉行所の尋問や拷問の手法は刑部より手厳しいものだったが、それでも東海林椎名は何も知らないと言い張り続けた。早朝の朝議でこの件が報告され、大臣たちも耳にした。以前の人々の不安は薄れ、今では皆の心も落ち着きを取り戻していた。朝議に出席していない燕良親王にも、影森茨子と東海林椎名が誰も密告しなかったことは伝わっていた。確かに、ある使用人が燕良親王と淡嶋親王が公主邸を訪れたと証言したが、榎井親王や常寧親王も訪れており、湛輝親王までも一度は足を運んでいた。これは証拠にはならない。密謀の現場を押さえでもしない限り。姉妹の邸を訪れるのは、兄弟として当然のことだった。しかも燕良親王は帰京後、大長公主邸を一度訪れただけだ。どう考えても彼を事件に結びつけることはできなかった。この案件はついに一つの区切りを迎えた。清和天皇は早朝の朝議で、影森茨子を官庁に幽閉し、禁衛府が護送を担当、刑部は引き続き謀反の捜査を続け、黒幕が明らかになった時点で結審する旨を勅命で下した。被害を受けた女性たちへの処遇として、東海林椎名には即刻斬首の判決が下され、東海林侯爵家は共犯として爵位を剥奪され、庶民に降格された。しかし天皇は家財没収は命じなかった。大長公主の庇護の下で蓄えた財産は没収を免れたが、その代わりに十万両を女性たちの生活費として拠出するよう命じられた。側室たちは故郷への帰還を許されたが、庶出の娘たちは全員寺院に留め置かれることとなった。彼女たちの衣食は東海林家が負担し、事件完結後は内蔵寮からの支給に切り替わることが決まった。もちろん、この内蔵寮からの支給金は、大長公主邸から没収した財産から拠出されることになっている。これで事件は第一段階を終えた。しかし、まだ多くの後始末が残っている。京都