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第467話

作者: 夏目八月
「子供を望まない者などいるものか?朕は後宮に子孫が増えることを望んでいるというのに。玄武は朕より数歳年下だが、あの年齢なら父親になっていても不思議はない」

吉田内侍は静かな声で言った。「おそらく、親王様も陛下のご懸念をお察しなのでしょう。兄弟の間に疑念が生じることを望まれないのだと。覚えていらっしゃいますか?幼い頃から、親王様は何事も陛下を手本とし、誇りにしておられました。外で王兄様のことを話される時も、いつも誇らしげなお顔をなさっていました」

吉田内侍の言葉に、天皇は昔のことを思い出していた。その眼差しは自然と柔らかくなっていった。

長い沈黙の後、天皇は深いため息をついた。「朕が......余計な心配をしすぎていたのかもしれんな」

吉田内侍は黙って茶を注ぎ足した。長年の奉仕で、天皇のこの突然の溜息が何を意味するか分かっていた。兄弟の情を懐かしむ一時の感傷に過ぎず、警戒心が薄れることはないだろう。

王の子作りを控える判断は賢明なものだった。

少なくとも、後継ぎがいないことで、天皇も幾分安心できる。邪馬台領土を奪還して間もない今、朝廷の文武官僚たちは親王様を最も敬慕し、民衆からの支持も最高潮にある。功績が君主の権威を脅かすほどの親王を、どの帝王も警戒するものだ。

親王様は邪馬台を平定した後、軍権を返上し、妻を娶って心の拠り所を得た。天皇にとって、それは親王の忠誠と安全の証となったのだ。

役所に戻ると、刑部から案件について問い合わせの使者が来ていた。

玄武は案件の精査が終わっていないことを理由に、一旦帰らせた。

夜になって屋敷に戻り、さくらと食事を終えたところで、刑部卿の木幡次門が直々に訪れた。

二人は書斎で半時ほど案件について激論を交わし、最後は不快な空気のまま別れた。

梅の館に戻る時、玄武は門をくぐる前に、暗い表情を消し去り、いつもの穏やかな顔に戻していた。

さくらは宇治茶を用意させていた。案件の詳細は知らなかったが、尾張拓磨から親王様が一家殺害事件で頭を悩ませているという話を聞いていた。

刑部が今日使者を寄越し、夜には刑部卿が直々に来訪するほど、緊急を要する案件なのは明らかだった。

「一体何が、そんなにお悩みなのですか?」さくらは率直に尋ねた。明らかに案件で頭を抱えているのに、部屋に入るなり何事もないかのように振る舞う夫。

公務の重
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    この夜、北冥親王邸では久しぶりに全員揃っての食事となった。さくらはその時になって、深水師兄がまだ梅月山に戻っていないことに気付いた。「大師兄、まだ戻られていなかったのですか? てっきり、もうお帰りになったと。一言の挨拶もなく去られたのかと思っていました」さくらの頭を軽く叩きながら、深水青葉は呆れ気味に言った。「この薄情者め。何度も声をかけたというのに、まるで返事もしない。何か気に障ることでもしたかと気を揉んでいたら、そもそも私の存在に気付いていなかったとはな」玄武は心配そうにさくらの後頭部を撫でながら説明した。「最近は多忙を極めておりまして。何かを考え込んでいて、お声がけに気付かなかったのでしょう......言葉で済むことを、手を出すことはありますまい」玄武の口調は大師兄への敬意を保ちつつも、僅かな非難の色が混じっていた。深水は思わず笑みを漏らした。「そう力も入れてはいない。それに彼女も慣れているさ。彼女を一番叩いていたのは、私の師叔である君の師匠だったのだからな」玄武は一瞬の沈黙の後、「師匠は時として加減を知らない。後ほど申し上げておきましょう」深水は席に着きながら、心から安堵の表情を浮かべた。さくらと玄武は、まさに天が結んだ縁であった。彼は本当に彼女のことを心に掛けている。さくらの方は少々鈍感だが、それも構わない。徐々に気付き始めており、人の好意にも応えられるようになってきている。有田先生が酒を運ばせ、棒太郎も席に着いた。この期間、親王家の者たちも皆、表立っては見えぬよう、密かに奔走していたのだ。杯を交わし合う宴の賑わいは、最近の事件捜査が漂わせていた暗い影を払い去っていった。有田先生は文武両道に通じ、深水先生の機嫌を取ろうと、酒壺を持ち出して意気揚々と提案した。「折角の美酒、歌詠みの酒宴などいかがでしょうか」その言葉が出た途端、棒太郎と紫乃は立ち上がり、声を揃えて言った。「もう腹一杯です」有田先生は眉間に皺を寄せる。「腹一杯、ですと? 村上教官、あなたは誰よりも食べる方ではありませんか。いつも最後まで食べ続けているのに、今日はまだ一膳も平らげていないでしょう」「今日は食欲がないんです!」棒太郎は食卓の料理を見つめ、思わず唾を飲み込んだ。だがもう食事を続けるわけにはいかない。歌詠みの酒宴となれば、もう無理な

  • 桜華、戦場に舞う   第825話

    入門の宴を終え、屋敷に戻った紫乃は、さくらに打ち明けた。「まるで茶番劇を演じているような気分だわ。私自身、弟子としても未熟なのに、もう師になるなんて。しかも年上で、玄甲軍の精鋭たち。もし私の指導が不十分だったら、あなたに迷惑がかかってしまうんじゃないかしら」さくらは紫乃の手を取り、玄武を先に屋敷へ戻らせると、二人で花園を散策し始めた。「無理だと感じるなら、入門の儀など無かったことにしても構わないわ。これまで通り『先生』として接すれば良いの。指導の出来不出来なんて気にすることないわ。師匠は門を示すだけ。修行は本人次第。あなたには十分な腕前があるし、威厳だって保てる。もし上達できないのなら、それは彼らの才覚の問題。あなたの責任ではないわ」「ただね、彼らは朝廷の官人なの。武芸界の作法で教えるのは、少し不適切かもしれないって」「玄甲軍の強化は陛下の望むところよ。玄甲軍と京の駐軍は皇城の守りなのだから」「そんなに重要なのに、あなたに任せるなんて、随分と大胆ね」紫乃が呟く。「今、謀反を企てる者の正体が掴めていないから。でも陛下は、その者が北冥親王家の者ではないと知っているの......」さくらはそれ以上の説明を控えた。以前話した通りだ。「つまり、私たちを使って黒幕を炙り出すか、もし反乱が起きた時は、敵を討ち陛下をお守りするか、というところね」「飛鳥尽きなば、良弓も収められるというわけね」紫乃は淡々と言った。さくらは言った。「飛鳥が姿を消すのは、世が平らかになった証。私たちは権勢など望まないわ。その時が来たら、弟子たちを連れて梅月山に戻りましょう。何不自由のない日々が待っているはず」「そうね、やっぱり梅月山が一番」紫乃は梅月山での憂いのない日々を思い出し、心が温かくなる。京の都は確かに栄えている。けれど、権謀術数が渦巻きすぎる場所でもあった。「私にも打算があるの」さくらは申し訳なさそうに紫乃を見つめた。「あなたに武術を教えてもらいたいのは、燕良親王が北條守に近づこうとしているのを見たから。恐らく玄甲軍を足がかりにするはず。私は確かに大将だけど、衛士も、御城番も、禁衛府も、御前侍衛も、これまでは独立した組織だった。一朝一夕には心服させられないわ。それ自体は問題じゃない。問題は、私が上官だってこと。誰と付き合おうと、私には言わないし、私の前

  • 桜華、戦場に舞う   第824話

    数日後、村松ら三人は入門の宴を設けた。江景楼に紫乃を招き、親王様と王妃様にも証人として臨席いただく手筈を整えた。あの日の帰り道、紫乃は後悔の念に駆られていた。自分のような気ままな性分で弟子など取れるものか。身動きが取れなくなるだけではないか。しかも年下の自分が――。師としての威厳を保てないわけではないが、そもそも弟子を取る必要などない。ただの武術指南役として「先生」と呼ばれる程度で十分なはずだった。断る方法を模索していた矢先、彼らは江景楼での入門の宴を提案してきた。これほどまでに格式を重んじられては――。馬鹿げているとは思いつつも、どこか虚栄心がくすぐられる。思い返せば、いずれ赤炎宗も自分が継ぐ身。そう考えれば、弟子を取るのも悪くはない。腹が決まると、三人それぞれに相応しい武器を選び、玄武とさくらを伴って江景楼へ向かった。跪拝と献茶の礼を受けた後、紫乃は言葉を継いだ。「まず一つ申し上げておきたいことがあるわ。私への入門の件は、大々的に触れ回らないでいただきたいの。あの日、確かに皆の前で跪いてはくださったけれど、献茶の儀もない非公式なものだった。今日の宴で正式な師弟の契りを結ばせていただいたわけだけど、これは此処にいる者たちだけの秘密にしましょう。外では『師匠』でも『沢村先生』でも、お好きな呼び方で構わないわ」三人は恭しく頷き、「承知いたしました」と応じた。紫乃は持参した武器を一つずつ配り始めた。「山田、大師兄として相応しい剣を選んできたわ。あなたの剣術は見事だもの。この清風剣を手にして、さらなる高みを目指してちょうだい」「恩に着ります、師匠!」山田は両手で剣を受け取り、歓喜に震えた。「村松、あなたを二師兄とするわ。普段から刀を使っているでしょう? この紫金刀をあなたに」「紫金刀、ですと?」村松は飛び上がらんばかりの喜びようだった。武芸者が愛刀に寄せる思いの深さは言うまでもない。刀剣どちらも扱えるとはいえ、刀こそが己に相応しい。「ありがとうございます、師匠、本当にありがとうございます」「親房!」親房虎鉄は大人しく跪いたまま。帰宅後、随分と思い悩んだものだ。若輩の娘を師と仰ぐなど、一時の気の迷いではなかったか。噂が広まれば、人前に顔向けできなくなるのでは――。だが、二人が稀代の名器を手にするのを目の当たりにし、今は別の後悔

  • 桜華、戦場に舞う   第823話

    紫乃は微かに微笑むと、一瞬の躊躇もなくさくらへ飛びかかった。さくらは身を翻して避けながら、紫乃の腕を掴んで後ろへ引き込む。だが紫乃は空中で鷹のように身を翻した。百本を超える手数を繰り出してなお、決着はつかない。その動きは目が追いつかないほどの速さで、拳と蹴りが風を切る音だけが響き渡る。時折、二人の蹴りが周囲の青石の敷石を砕き、石板は粉々に砕け散った。その威力に、見守る者たちは息を呑んだ。この凄まじい打ち合いを目の当たりにして、皆は悟った。先ほどまでの自分たちの腕試しなど、まさに見せかけの技に過ぎなかったのだと。本気で戦えば、上原殿は二、三手で全員を倒せたはずだった。百余りの攻防を経て、二人は同時に間合いを取った。これほどの激戦を繰り広げたというのに、髪が僅かに乱れている程度だった。その様子を見つめる北條守の胸中は、複雑な思いで満ちていた。邪馬台での戦いで、確かに二人の凄みは知っていた。だがあの時は戦場、純粋な力と機敏さ、速さを競うだけだった。今の手合わせは違う。真の技の粋を尽くした、しかも美しくも凄絶な戦いだった。こんな稀有な女性を、自分は手放してしまったのだ――。出陣から戻った時、彼女に投げかけた言葉を思い出し、顔が熱くなる。あんな言葉を、よくも口にできたものだ。あの時の自分は一体何に取り憑かれていたのか。山田が真っ先に反応を示した。すぐさま跪き、「弟子の山田鉄男、師匠に拝謁いたします」村松も一瞬の戸惑いの後、急いで跪いた。「弟子の村松碧、師匠に拝謁いたします」二人は単なる武術指南役としてではなく、真摯な師弟の契りを求めていた。「すまんな」山田が村松に向かってにやりと笑う。「これで俺が大師兄だ」「ちぃ」村松が舌打ちする。「抜け目ないな、一歩遅れを取った」親房虎鉄は躊躇いがちに尋ねた。「必ず、その、師弟の契りを結ばねばならないのでしょうか」「いいえ」さくらは淡々と答えた。「そもそも沢村お嬢様が受け入れてくれるかどうかもあるわ。誰でも弟子にするわけじゃないもの。武術の指南役として『先生』と呼ぶだけで十分よ」「いえ、私たちは是非とも弟子にしていただきたい」山田が食い急いで言った。玄甲軍の者として、武芸の上達は出世への近道なのだ。紫乃はまだ弟子を取るつもりはなかったのだが、二人が跪いた以上は受け入れざるを得な

  • 桜華、戦場に舞う   第822話

    その後、十二衛が次々と挑んでいったが、二十合どころか、十五、六合で全員が打ち破られていった。村松碧は四十本まで持ちこたえたものの、最後には倒れてしまった。だが、立ち上がって礼をする彼の表情には、この成績に満足げな色が浮かんでいた。そして、最後の親房虎鉄の番となった。これまでじっと上原さくらの動きを観察してきた虎鉄は、ある程度の型は読めたと自負していた。己の実力を見積もれば、五十本は何とかなるはずだ。足技なら自分が一枚上手。明らかに彼女の蹴りには力不足だ。対して彼女の拳は驚くほど速い。となれば、下段での勝負に持ち込めば勝算は十分――。虎鉄は軽く躰を屈めながら拳を握り、その場で数度跳躍して足の筋を伸ばした。「では、私の番でございますね」さくらの唇に、何とも言えない微笑みが浮かぶ。「ええ、あなたの番よ」その笑みを目にした瞬間、虎鉄の心底に不安が走った。まるで何か恐ろしい奥の手を隠し持っているかのような予感が、背筋を冷やしていた。「最初の一手は譲らせていただくわ」幾度もの手合わせを経ているというのに、さくらの声には疲れの色が見えない。むしろ瞳の輝きは一段と冴えわたっていた。虎鉄は、彼女が微かに膝を曲げて戦闘態勢に入るのを見逃さなかった。すかさず表の拳を放って相手の目を惑わし、続いて蹴りを放つ。表面上は正面への蹴りに見せかけて、途中で軌道を変え、顎を狙う奇襲だ。変化の速さは尋常ではない。普通なら腹部か胸元への防御が精一杯のはずが――。だが、さくらはその奇襲を見透かしていた。両肘を揃えて前に構え、一気に振り払う。その衝撃で虎鉄の体が弾き飛ばされる。慌てて後方へ跳躍し、空中で一回転して何とか体勢を立て直す。だが、足場を固める間もなく、連続蹴りの嵐が襲いかかった。必死に防御し、躱し、かわすも、さくらの矢のような跳躍から繰り出される蹴りは、空中で向きを変えながら更なる一撃となって襲い掛かる。三発、四発と畳みかける蹴りに、もはや足元も覚束ない。内臓が移動したかのような激痛が走り、思わず呻き声が漏れそうになる。このままでは不味い――。虎鉄は痛みを堪えて間合いを詰める。これなら蹴りは使えまいと踏んだのだ。だが、致命的な読み違いがあった。さくらの拳の恐ろしさを失念していたのだ。接近戦において、素手での戦いなら拳こそが最強の武器となる。顎

  • 桜華、戦場に舞う   第821話

    試験当日、上原さくらは命令を下した。玄甲軍所属の指揮官は、衛長であっても、当直でない限り全員出席するようにと。親房虎鉄は最初、自分を狙い撃ちにされたと思い込み、屋敷で妻にさくらの悪口を並べ立ててから出かけた。なんと意地の悪い女だ。玄甲軍がこんな意地悪な女の手に渡るなど、これからどれだけの騒動が起きることか。だが、禁衛府に着いてはじめて、今日の試験が自分一人を対象としたものではなく、しかも式部の評価に直結することを知った。そこで初めて緊張が走った。さくらの機嫌を損ねてしまった今、もし今日の結果があまりにも見苦しければ、評価は芳しくなくなる。そうなれば俸禄削減か、さらには降格、異動も十分あり得る。出発前に線香でも上げて、先祖の加護でも願っておけばよかった。北條守も来ていたが、試験には参加しない。就任したばかりなので、まだ評価対象外だった。守は邪馬台の戦場でさくらの武芸を目にしていた。親房虎鉄が彼女の相手になどなれるはずがない。何合持ちこたえられるかを見物するだけだろう。この日のさくらは、官服を着用せず、青色の錦の袍に翡翠の冠という出で立ちだった。威圧的な官僚の雰囲気は影を潜め、どこか文雅な趣きすら漂わせている。演武場の石段に立ち、凛とした声で告げた。「本日は私が直々に諸君の実力を見させていただく。存分に力を振るっていただきたい。副領の方々は私と五十合手合わせができなければ、特別訓練を受けていただく。衛長の方々は二十本。これもまた叶わなければ、同じく特訓となる」その声は場内の隅々まで響き渡った。あちこちから嘲笑うような笑い声が漏れる一方で、眉間に深い皺を刻む者もいた。笑いを漏らしたのは、さくらの武芸を知らぬ者たち。眉をひそめたのは親房虎鉄と北條守などの副領たちだ。彼女と五十合も手合わせができるはずがない――つまり、特訓は避けられないと悟ったのだ。「特訓の師範も、すでに手配済みだ」さくらは冷ややかな眼差しで一同を見渡し、場が静まり返るのを待って、「沢村紫乃殿」と告げた。現れたのは紅い衣装に身を包んだ、艶やかな女性だった。一同の目が疑いの色を帯びる。女性が、それも この人物が師範を?紫乃は廊下の前に椅子を運ばせると、豪奢な袖を翻して悠然と腰を下ろした。その半身もたれかかった姿には、孤高の気概が漂っていた。ふふ、今日は弟子

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