お珠はうなずいて「分かりました」と言うと、急いで戻って湯を用意するよう人々に指示し、玄武の手と顔を清めようとした。さくらは玄武を長椅子に寝かせた。ちょうど落ち着いたところで、お珠が入ってきて報告した。「師匠や師兄方に酒を勧められたそうです。尾張副将によると、断れなかったとのこと。他の門派の人々と一緒に、桜酒をたくさん飲まされたそうです」さくらは眉をひそめた。「師匠までが酒を勧めたの?」これは酷いじゃないか。門派からこんなに大勢来て、一人一杯ずつ飲ませたら、吐血してしまうわ。「はい、かなり飲んだようです。古月宗の桜酒って普通は薄いはずなのに、なぜこんなに強いんでしょう?」「きっと師匠が醸造したものね。古月宗が私の嫁入り道具として贈ってくれたものじゃないわ」さくらは、頬から耳まで真っ赤になった玄武を見つめた。今夜の杯を交わす儀式は無理そうだ。テーブルに並んだ料理も、自分一人で食べることになりそうだった。本当はたくさん聞きたいことがあったのに。今夜、梅田ばあやから聞いたことの詳細を尋ねたかったのに。今となっては聞くどころか、呼びかけても目を覚まさない。明子が湯を持ってきたが、さくらは言った。「みんな下がって休んでいいわ。今夜は疲れたでしょう。私が彼の世話をするから」「でも、今夜は......」明子は躊躇した。本来なら、梅田ばあやの指示で新居の外で待機し、いつでも奉仕できるよう準備していたはずだった。大切な新婚の夜なのだから。しかし、親王様があまりにも酔いつぶれているので、杯を交わす儀式さえできそうにない。「婆やさま、まだ杯を交わしていないんです」明子は梅田ばあやに尋ねた。梅田ばあやはため息をついた。「どうしてこんなに酔わせてしまったのかしら。何も食べずに酒を飲ませるなんて。どうして玄武様のことを少しも気遣わないの?」まつは菅原義信を非難していた。お嬢様にとってこんなに大切な日なのに、しかも親王様は良い婿なのに、どうしてこんなに酒を勧めるのか。戦場では傷つくことも多かっただろうし、京に戻ってからもあれこれ忙しかったはず。体を休める暇なんてなかったでしょう。こんな風に酒を飲ませて大丈夫なの?さくらが心配するのは当然だけど、梅田ばあやだって心配でたまらなかった。さくらは温かい濡れタオルで玄武の顔を拭き、手も拭いた。そし
梅田ばあやはそれを見ていたが、もう関わらないことにした。すぐに他の者たちを連れて下がり、夫婦二人で調和するのに任せることにした。叩くにせよ叱るにせよ、二人の問題だ。口出しすべきではない。お嬢様が怒りを爆発させたのだ。傍で諭そうものなら、怒りが更に膨らむかもしれない。お嬢様は玄武様に怒っているのではなく、師匠に怒っているのだ。だから二人だけにしておけば、お嬢様も玄武様を心配するようになるだろう。顔を拭き、手を清め、テーブルの温かいお茶でうがいをさせると、玄武はようやくはっきりとした意識を取り戻した。目は覚めたものの、さくらが怒っていることに気づいた。自分に向けられた怒りではないことは分かっていたが、怒っているさくらの凛とした顔は、実に美しかった。赤い提灯と蝋燭の光が新居の中を照らし、あちこちに飾られた同心結びが彼の心を温めた。玄武は軽く咳払いをして尋ねた。「この同心結、ほとんど私が作ったんだ。きれいかな?」さくらはスープをよそいながら、顔を上げて部屋を見回した。彼が言うまで気づかなかった。同心結びが少なかったわけではない。今夜は落ち着かない気持ちだったのだ。彼の長い指を見つめながら、驚いて言った。「あなたが作ったの?こんな細かい作業ができるなんて」玄武の髪は少し乱れていたが、その顔は美しく、笑みを浮かべていた。「元々はできなかったけど、練習したんだ」さくらの瞳に、波のように揺らめく光が宿った。その光は、言葉にできない思いを湛えていた。知らないふりをして、さくらは尋ねた。「どうして?」「理由は分からない。ただ、自分の手で作りたかったんだ。私たちの結婚に、もっと関わりたくて」玄武は少し考えてから続けた。「ずっと君に言えていなかったことがあるんだ」彼は額に手を当て、残っているめまいを振り払おうとした。できるだけはっきりとした状態で話したかった。酔った勢いで言っているのだと思われたくなかったから。さくらはゆっくりと食卓に向かった。彼が何を言おうとしているのか、すでに察していた。「ええ、こっちに来て話さない?もう少し飲める?私たちの杯を交わす儀式がまだだから」「そうだ、杯を交わす儀式だ。これは絶対にしなければならない。大丈夫、飲める」玄武は立ち上がった。足元は少しふらついていたが、なんとかまっすぐ歩いて、さくらの隣
玄武はハンカチを取り出し、さくらの目尻の涙をそっと拭いた。優しく言った。「私は少しも馬鹿じゃないよ。軍権なんて何の意味がある?君と比べられるはずがない。今は平和な時代だ。軍権を握っていれば嫉妬を買い、将来の禍根になるだけだ。陛下が圧力をかけなくても、私は軍権を手放すつもりだった」彼は少し得意げに笑った。「陛下がこんな形で追い込まなければ、君にどうやって求婚すればいいか悩んでいたところだ。この命令のおかげで、君が後宮入りと私との結婚の間で、私を選んでくれると信じられた。陛下は助けてくれたんだ」さくらは彼を睨んだ。「まあ、喜んでいるの?本当に。騙されておいて感謝する馬鹿って、まさにあなたのことね」美しい人の愛らしい怒りが、彼の心の奥底まで染み渡った。心の中は砂糖をまぶした綿菓子のように柔らかくなった。「構わないよ。私の願いは叶ったんだから」と彼は言った。さくらは目を伏せたが、心の中は甘い喜びで満ちていた。願いが叶ったのは、彼女も同じだった。互いの気持ちが通じ合うのは、こんなにも幸せなことなのだと分かった。玄武はさくらのために料理を取り分け始めた。すべての料理を少しずつ。「今夜はお腹が空いているだろう?」さくらは言った。「私、今夜少し麺を食べたの。ばあやが私のことを心配して、麺を用意してくれたの。あなたは何も食べていないって聞いたわ」玄武は答えた。「次から次へと乾杯をしていて、確かに食べる暇がなかったんだ。早く戻ろうと思っていたのに、師匠に引き止められて他の宗門の宗主たちと酒を交わすことになってね。つい飲みすぎてしまった」「私の師匠があなたを引き止めたのね?」さくらはレンコンを一口食べた。このレンコンは柔らかくて粉っぽく、とても美味しかった。レンコンは穴が通っていて、夫婦の心が通じ合うという意味がある。だからさくらは先にレンコンを食べ、玄武にも一切れ取り分けた。妻が取り分けてくれた料理を口に運ぶと、玄武の心は甘く溶けた。二人は静かに食事を続けた。心の中には伝えたいことがたくさんあったが、これは結婚後の初めての食事だった。適切な言葉を見つけられないなら、間違いを避けるために少なめに話すほうがいいと思った。さくらの食べ方は上品で、まるで良家の令嬢のような優雅さだった。玄武の目に笑みが浮かんだ。日向城を攻め落とした
浴室には既に玄武の寝間着が用意されていた。寝間着も赤色で、さくらのものと同じデザインと色合いだった。生地は快適で、暗い雲模様があるだけで他の刺繍はなかった。完全に無地というわけではなく、袖口に文字が刺繍されていた。片方の袖には「琴瑟相和」、もう片方には「異体同心」と、縁起の良い言葉が刺繍されていた。玄武は体を洗うだけで、髪は洗わなかった。今夜遅くまで起きていることを知っていたので、昨夜髪を洗っていたのだ。浴室から出てきた玄武は、赤い寝間着姿で清潔感あふれる美しい姿だった。京の都で過ごした日々のおかげで、肌の色も白くなっていた。さくらは戦場で初めて会った時のことを思い出した。髭だらけで、とても汚らしかった。目の前の人物と同一人物だとは想像もつかなかった。赤い蝋燭の光が大きな赤い婚礼の布団を照らし、帳が床まで垂れ下がっていた。玄武はさくらの手を取り、ゆっくりとベッドに向かった。さくらの心臓は早鐘を打ち、手に汗をかいていた。これほど誰かに緊張したことはなかった。しかし、さくらが知らなかったのは、玄武の方がもっと緊張していたということだ。玄武は今、誰かの襟をつかんで大声で叫びたかった。誰か分かるか?ある女の子を何年も待って、大きくなったら妻にしようと思っていたのに、他の男と結婚してしまった。絶望的だと思った時、その子が離婚して自分のもとに来て、今夜ついに願いが叶って妻になったんだ。この興奮と喜びが分かる人はいるのか?誰か!あまりの興奮のせいか、さくらの長い裾を踏んでしまった。さくらが前のめりになったのを、玄武は素早く抱きとめた。「ごめん!」柔らかく香る体を抱きしめ、玄武の頭の中は真っ白になった。再び目まいがし、胸の中で稲妻が走るような激しい鼓動を感じた。すべてが空白になった。どのように事が進んだのか、彼にも分からなかった。少し意識が戻ったとき、すでにベッドの上で、さくらが不器用に震える手で彼の服を脱がそうとしているのに気がついた。さくらはベッドに半ば伏せた姿勢で、玄武と目を合わせようとせず、顔は熟れたリンゴのように真っ赤だった。玄武の寝間着は半開きで胸が露わになり、さくらはさらに緊張して、どこに手を置いていいか分からずにいた。さくらの心臓が激しく鳴る中、玄武が突然彼女を抱きしめてベッドに倒れこんだ。
卯の刻の終わり頃、梅田ばあやが外から戸を叩いた。寝室は内と外に分かれており、寝室の戸は外の間にあり、内と外はカーテンで仕切られていた。叩く音を聞くと、玄武とさくらはほぼ同時に目を開け、体を起こした。二人とも目覚めの軽い人だった。さくらは起き上がって玄武が服を着ていないのに気づき、一瞬驚いた。そして自分も服を着ていないことに気づき、すぐに布団を掴んで体を覆った。顔が熱くなり、きっと真っ赤になっているだろうと思った。玄武は昨夜のことを思い出し、自分の振る舞いがあまり上手くなかったと感じ、さくらの目をまっすぐ見ることができなかった。お互いの体を隠さず見せ合うことにもまだ慣れていなかったので、寝間着を掴んで布団の中で着始めた。着終わると、咳払いをして言った。「私が先に起きるよ。君は......寝間着を着てから、人を呼んで着替えをしてもらって」ああ、なぜこんなに気まずいんだろう?彼女の目さえまともに見られない。でも、こっそり一瞥してみると、目覚めたばかりのさくらは少し呆然としているけど、とても美しくて清々しかった。今日は母上にお茶を捧げる日だ。母上の性格を考えると、きっとさくらを難しい立場に立たせるだろう。だから時間を無駄にせず、言い訳の機会を与えないようにしなければ。玄武が先に戸を開けると、梅田ばあやが何人かの侍女を連れて外で待っていた。高松ばあやもいて、玄武を見るとすぐに礼をして「親王様」と呼びかけた。玄武は軽く頷いて「王妃の着替えを手伝ってやってくれ」と言った。高松ばあやは単に着替えを手伝うためだけに来たのではなかった。貴太妃の命令で、さくらがまだ清らかな身かどうかを確認するためだった。そのため、礼をした後すぐに寝室に入った。さくらが寝間着を着て起き上がるのを見て、急いで礼をして「王妃様」と呼びかけた。「お構いなく」さくらはまつの目を見て、自分の首が赤くなっているのを思い出し、寝間着では隠しきれないと気づいた。心の中では恥ずかしさを感じたが、表面上は落ち着いた様子を装って「みんな来たのね。じゃあ、身支度を始めましょう」と言った。玄武には本来小姓がいたが、新居にはまだ入れていなかった。さくらに選んでもらう必要があったからだ。邪馬台の戦場で長年過ごした玄武の元の小姓は、今では屋敷の小さな管理職についていて、当然
玄武も朝服を着ることになっていたが、複雑すぎて自分では着られなかった。結局、朝服を持って外の間に出て、道枝執事と小姓を呼んで着付けを手伝ってもらった。玄武は冕冠をかぶり、青色の朝服を着た。肩の両側には龍の模様が刺繍され、腰は朱色の帯で締められていた。腰の左右には金で雲と龍の模様が描かれた玉の佩を下げ、玉珠がつながれていた。佩には金の鉤があり、下には四色の小さな飾り紐がついていた。大きな飾り紐は赤、白、薄青、緑の四色で織られていた。もともと背が高く細身だった玄武は、この豪華な朝服を着ることでさらに凛々しく威厳のある姿になった。さくらはまだ眉を整え、薄く化粧をする必要があった。どんなに美しくても、素顔のままでは適切ではなかった。身支度が整うと、さくらは梅田ばあやとお珠たちに囲まれて外に出た。まず潤くんのことを尋ね、まだ起きていないこと、瑞香が世話をしていることを知って安心した。外の間で、同じく身支度を整えた玄武と目が合った。おそらく二人とも正装をしていたせいか、昨夜の親密さを忘れたかのように、もはや気まずさは感じなかった。玄武は無意識に手を差し出し、さくらは自然にその手に自分の手を置いた。二人は目を合わせて微笑み、一緒に外に出た。梅田ばあやは後ろで涙を拭いた。泣かないと決めていたのに、親王様と王妃様がこんなに仲睦まじい様子を見ると、涙が止まらなかった。恵子皇太妃はすでに正庁のひじ掛け椅子に座っていた。この椅子は彼女が特別に注文したもので、正庁の外の間ではあまり使わなかった。今後さくらが挨拶に来る時は彼女の部屋に来るはずだった。だが、今日は威厳を示す必要があった。一方、玄武とさくらが外に出る途中、有田先生に呼び止められた。今日、嫁入り道具を倉庫に収める予定だったため、点検が行われることになっていた。不足している数個の伊勢の真珠については、必ず報告しなければならなかった。これらの嫁入り道具は、于先生が役所に登録してあり、目録と贈り物リストがあった。そのため、何か足りないものがあれば、倉庫に入れる時の点検ですぐに分かるはずだった。伊勢の真珠は一斛ずつ届けられたが、一斛に何個あるかは、于先生が贈り物リストを確認したところ、一部には記載があった。たとえ記載がなくても、この件は親王様と王妃様に報告しなければならない。大長公主に
この光景は確かに目を楽しませるものだった。息子は端正で、さくらは美しく、二人とも威厳のある冷ややかな表情を浮かべ、夫婦の相性の良さが感じられた。先ほど、高松ばあやが急いで報告に来ていた。さくらが清らかな身であり、昨夜初めて王爺に身を委ねたことが確認されたのだ。恵子皇太妃はこれに満足していたが、それはたださくらが清らかだったということだけであって、さくらの再婚については完全には受け入れていなかった。彼女は姿勢を正し、傲慢な態度で、威厳に満ちた目つきをしていた。玄武は怒りを抑えながら、さくらの手を引いて前に進み、跪いて頭を下げて挨拶した。「新妻が皇太妃様にお茶を差し上げます」と高松ばあやが茶托を持って傍らに立ち、告げた。さくらはお茶を持ち、両手で恵子皇太妃の前に差し出した。「母上、どうぞお茶を」恵子皇太妃はしばらく待った。玄武の目に怒りが湧き上がりそうになった時、ようやくゆっくりと手を伸ばしてお茶を受け取り、小さく一口飲んでから脇に置いた。「賜物だ」彼女の声はゆっくりとしており、生まれながらの高慢さが感じられた。高松ばあやはトレーを置き、一対の龍鳳の腕輪を取り出してさくらに着けながら笑顔で言った。「これは皇太妃様が新妻に下さったものです。新妻は頭を下げてお礼を言いなさい」姑からの賜物に対しては頭を下げてお礼を言うのが作法だった。さくらはそれに従った。お礼を言い終わって立ち上がると、恵子皇太妃は自分の首を揉みながら言った。「うむ、昨夜はよく眠れなかった。一晩中騒がしくて、頭が少し痛い。こちらに来て頭を少し押してくれないか」「急ぐ必要はありません」玄武は冷たく言った。「母上に聞きたいことがあります。昨夜、さくらの嫁入り道具の中から数個の伊勢の真珠を大長公主に渡したのではありませんか?」恵子皇太妃は一瞬驚き、すぐに目をそらした。その態度が後ろめたさを露呈していた。彼女もそれに気づいたようで、すぐに強がりながら言った。「誰がそんな噂を広めたのだ?その者の舌を抜いてやる!」玄武は言った。「母上、あったのかなかったのか、はっきり言ってください。あったならあった、なかったならなかったと」恵子皇太妃が最も恐れていたのは、息子が顔を引き締める様子だった。それは先帝が怒った時とそっくりだった。先帝が怒った時は、彼女は甘えること
さくらは微笑んだ。歯を噛みしめそうになったが、それでも穏やかに同意した。「母上のおっしゃる通りです。商売には損も得もありますね。ああ、そうそう、金屋は母上と彼女たちで半々なのですか?契約書は交わしましたか?開業以来、帳簿はご覧になりましたか?」恵子皇太妃は孔雀のように誇らしげだった。「当然契約書は交わしているわ。私を馬鹿だと思っているの?半々ではなくて、私が7割を占めているのよ。帳簿ももちろん見ているわ。毎季節帳簿が送られてきて、私が確認しているの。確かに損失が出ているようね」「まあ、母上が大半を占めているのですね?そうすると、損失が出た場合、母上がより多くの銀子を補填しなければならないということですね?これまでの年月で、どれほどの銀子を出されたのでしょうか?記録はありますか?」「もちろん記録はあるわ。銀子を出すたびに、私が記録しているのよ」さくらは心の中で「よし」と思った。「では、母上は全部でどれくらいの銀子を出されたか覚えていらっしゃいますか?」恵子皇太妃は不機嫌そうに言った。「誰が頭の中に覚えているものか?帳簿を見なければならないけど、おおよそ数万両はあるでしょうね」「まあ!」さくらは顔色が真っ黒になった玄武を一瞥してから、さらに尋ねた。「母上はおそらく金屋に行ったことがないのでしょうね?」恵子皇太妃は冷たく答えた。「どうやって行けというの?私は深宮にいて、外出できるものかしら?宮を出たと思えば、あなたたちの婚礼の準備で忙しくて、まだ行く暇がないのよ。それに、私が行くか行かないかが何の関係があるの?金屋のことは増田店主に任せているわ。私と大長公主は身分が高貴なのだから、表に出るわけにはいかないでしょう。どのみち毎季の帳簿は私が見ているのだから、増田店主が私たちを騙すこともないでしょ」さくらは、京の多くの権力者の家が商売の店を持っていることを知っていた。しかし、彼らは自ら管理することはなく、すべて店主に任せていた。店主が報告を上げ、信頼できる家臣や側近が時折視察に行き、自身も時々足を運ぶ程度だった。直接経営することなど、あり得なかった。恵子皇太妃の言葉は間違っていなかった。ただし、「私たち」という言葉を除いては。彼女と大長公主を「私たち」と呼ぶべきではなかった。玄武はすでに怒り心頭だった。数万両の銀子を投じて、
北條守は慌ただしく将軍家に戻った。周防からの使者の報せを聞いた時から、胸が締め付けられる思いだった。葉月琴音の性格をあまりにも知り尽くしている。矛盾した性格の持ち主で、強がりながらも死を恐れ、行き詰まっても必ず抗おうとする。今回も、おとなしく投降するとは思えなかった。そして今や、二人の間に情は残っていない。生き延びるため、琴音が何をするか、予測もつかない。この時期、彼女は都を離れたがっていた。しかし、安寧館を出れば暗殺者が待ち構えているのではと恐れていた。あの暗殺未遂は、彼女を本当に震え上がらせたのだ。おそらく、事が起きた時の対処法を何度も考えていたのだろう。だからこそ、平安京の使者が来ることを告げなかった。彼女が準備を整えることを警戒してのことだ。吉祥居に着くと、琴音が自らの喉元に剣を当てているのが目に入った。胸が沈んだ。「葉月琴音、剣を下ろせ!」琴音の目が凍てついたように冷たく光り、その視線が剣のように彼を射抜いた。歯を噛みしめるように言う。「北條守!」親房虎鉄も二名の衛士を連れて到着し、すぐさま北條守を制止した。「近づき過ぎないように」北條守は複雑な眼差しで虎鉄を見た。何を懸念しているのか、分かっていた。「葉月、周防殿と共に刑部へ行くんだ」虎鉄を挟んで北條守は諭すように言った。「余計なことはするな。調べるべきことは協力して明らかにすれば良い。刑部も無理な取り調べはしない」「馬鹿な!」琴音の目が炎のように燃えた。「無理な取り調べをしないなら、なぜ将軍家に置いておけないの?北條守、一つだけ聞かせて。今のあなたには、私への情など微塵も残っていないということ?」北條守は居心地の悪そうな表情を浮かべた。「それは俺たち二人の問題だ。まずは刑部の職務に従ってくれ」琴音は冷笑を浮かべた。「従う?いいでしょう。こちらへ来て、あなたの手で私を捕らえて。御前侍衛副将なんでしょう?」北條守は動かない。琴音の目の中の怒りが徐々に消え、深い悲しみだけが残った。声も虚ろだ。「北條守、私たち一緒に関ヶ原の戦場を駆けて、生死を共にしたわね。鹿背田城に向かう時、あなたが私に何を言ったか、覚えてる?」その言葉に、守の瞳孔が収縮した。思わず頷く。「覚えている」「覚えていてくれて良かった」琴音の目に涙が光った。「刑部についていくわ。将
刑部大輔が自ら将軍邸に赴き、葉月琴音の逃亡を防ぐため、まず屋敷を包囲した。この事態に親房夕美は震え上がり、文月館に身を隠して外に出られなかった。葉月の逮捕が目的と知って、やっと姿を見せた。騒ぎが起きた時点で、琴音は察していた。安寧館の廊下に立ち、剣を構える。冷たい風が彼女の半ば毀れた顔を撫でていく。死のような静寂が漂っていた。安寧館に踏み込んできた役人たちを見つめ、剣を優雅に舞わせ、先頭の役人に向けた。「葉月琴音、おとなしく投降しろ!」安寧館の外から、刑部大輔の周防光長が怒鳴った。「北條守は?」琴音は冷ややかに問うた。北條守の復職は知っていた。天皇の側近として、すべてを知っていたはずなのに、一度も戻って来て教えてはくれなかった。周防は彼女の問いには答えず、厳しい声で言った。「抵抗しない方がいい。しても無駄だ。将軍邸は完全に包囲されている」しかし琴音は自らの喉元に剣を当て、不気味な冷笑を浮かべた。「北條守を呼べ!」夕美は彼女が投降を拒むのを見て、将軍家に累が及ぶことを懸念し、慌てて叫んだ。「葉月、馬鹿なことはやめて!」琴音は夕美など眼中にない様子で、相変わらず冷たい声で周防に言い放った。「北條守を呼べと言っている。聞きたいことがある。どのみち死ぬのなら、早く死んだ方が苦しまずに済む」周防は眉をひそめた。今、葉月琴音を死なせるわけにはいかない。平安京使者の怒りを受け止めさせねばならない。死ぬにしても、使者の目の前でなければ。「葉月、お前は死んで楽になれるかもしれんが、両親や親族を巻き込むことになるぞ。軽挙妄動は慎むがいい」「両親?親族?」琴音は嘲笑的に冷笑した。「私のことなど、彼らは一度でも気にかけてくれましたか?世間の噂を気にして、さっさと都を離れた。私という娘の存在すら認めない彼らの生死など、どうでもいい」「それでも将軍家に累を及ぼすことはできないでしょう!」夕美は怒りを露わにした。琴音は夕美を、まるで泥を見るような目で睨んだ。「将軍家なんて、私の道連れになればいい」夕美は怒りで指先を震わせながらも、安寧館に踏み込む勇気はなかった。「なんて悪意に満ちた......」琴音は横たえた剣が既に喉元の皮膚を破り、血が滲んでいるのもかまわず、冷たく声を上げた。「くだらない。北條守を連れて来い」周防は眉
清和天皇と朝廷の面々に残された選択肢は二つ。一つは、虐殺の事実を完全に否認すること。もう一つは、これまで事態を知らなかったと装い、国書受領後に平安京の調査に協力し、然るべき者を処罰する。後の祭りとはいえ、国の名誉を挽回する機会にはなる。国書には境界線の問題には触れられていなかった。この件は熟慮の上での行動を要する。天皇は大臣たちと三日間に渡って協議を重ねた。第一の選択肢は論外だった。平安京は正式な国書で告発してきた以上、十分な証拠を握っているはずだ。加えて、平安京国内での世論工作も長期に及び、両国の国境では既に騒動が広がっている。責任逃れをすれば、即座に開戦となるだろう。となれば第二の選択肢しかない。責めを負うべき者には、相応の処分を下さねばならない。決断を下した後、清和天皇は穂村宰相と暫し目を交わした。他の者たちは沈黙を保ち、誰も口を開こうとしない。この事態に対処するには、佐藤大将を召還して責任を問わねばならないからだ。しかし、佐藤大将は生涯を戦場で過ごしてきた。文利天皇の治世から反乱の平定や盗賊の討伐に従事し、邪馬台の戦場を踏み、野心的な遊牧民族を撃退し、最後は関ヶ原の守備についた。これほどの年月、佐藤家の息子たちも戦場を転々とし、幾人が命を落としたことか。二月十九日は、この老将の古稀の祝いの日だ。この年齢にして未だ辺境を守る武将は、大和国の建国以来、彼一人のみである。誰が召還を言い出せようか。清和天皇は最後に玄武に視線を向けた。「北冥親王よ、かつて邪馬台の元帥であった汝は、この件をどう処理すべきと考える?」一同は驚きを隠せなかった。なぜ北冥親王に問うのか?北冥親王妃は佐藤大将の孫娘である。彼から召還と問責の進言があれば、夫婦の不和を招くではないか。清家本宗は背筋が凍る思いがした。夫人の逆鱗に触れた際の様々な結末が脳裏をよぎり、同情心が溢れ出て、一歩前に進み出た。「陛下、臣は佐藤大将を召還して事態の調査を行い、関ヶ原の指揮権は一時的に養子の佐藤八郎に委ねることを提案いたします」兵部大臣である彼への諮問は、本来なら宰相の後であるべきだった。両者からの提案が最も適切なはずなのだ。天皇は清家本宗を一瞥した後、「他に異論はあるか?」と問うた。しばしの沈黙の後、次々と大臣たちが「臣も同意見でございます」と声を
二日後、深水青葉が水無月清湖からの伝書鳩の便りを携えて玄武を訪ねた。表情は険しい。「平安京の皇帝が使者を大和国に派遣すると。国書も間もなく到着するそうです」玄武の表情が暗くなった。来るべきものが、ついに来たか。正月も明けぬうちに、清和天皇は御前侍衛を玄甲軍から独立させ、上原さくらの管轄外とすることを宣言した。御前侍衛副将には相変わらず北條守が任命された。北條守には信じられない思いだった。あの日、淡嶋親王家の萬木執事との出会いを思い返し、まさか本当に親王家の助力があったのではと胸中で思案を巡らせた。しかし、もし本当に淡嶋親王家の手が働いているのなら、この復職には危険が潜んでいるはずだ。相談できる相手もなく、帰宅して親房夕美に話すと、彼女は言った。「相手が何を企んでいようと、元の職に戻れるなら良いじゃありませんか?しかも今は上原さくらの指揮下にもない。これ以上の好条件はないでしょう」北條守は眉間に深い皺を寄せた。「いや、駄目だ。何か陰謀がある可能性が高い。陛下にお話ししなければ」夕美は信じられないという表情で夫を見つめた。「正気ですか?そんなことを陛下にお話しして、お怒りを買えば職を失うことになります。そうなれば、一生出世の道は断たれる。御前侍衛副将どころか、普通の禁衛にさえなれなくなってしまいます」北條守は黙り込んだ。同じ不安を抱いていた。「言わないで。私の言う通りにして。淡嶋親王家があなたを助けるのは、あの時上原さくらとの離縁を止められなかった後ろめたさから......」北條守は首を振り、妻の言葉を遮った。「それはおかしい。仮に淡嶋親王妃に後ろめたさがあるとしても、それは上原さくらに対してであって、俺に対してのはずがない。俺こそ、上原さくらに対して申し訳が立たないのだ」「あなたって本当に......」夕美は目を丸くして怒りを爆発させた。「もういいわ。彼らがどんな思惑を持っているにせよ、淡嶋親王には野心がないのは確かです。謀反など考えてもいない。あなたを復職させたのは、何かあった時にあなたの力を借りたいからでしょう」「それもおかしい。私の職を守れるほどの力があるということは、これまでの臆病で控えめな態度が演技だったということになる」「そんなことを気にする必要があるの?自分のことだけ考えなさい。御前侍衛副将の職を望んで
守は無相の深い瞳に潜む陰謀の色を見て、背筋が凍った。大長公主の謀反事件さえ決着していないというのに、もう天皇の側近を手駒にしようというのか?淡嶋親王は本当に臆病なのか?一体何を企んでいるのか?自分の器量は分かっている。二枚舌を使うような真似は到底できない。特に天皇の側近として......そんなことをすれば、首が十個あっても足りまい。ほとんど反射的に立ち上がり、深々と一礼する。「萬木殿、申し訳ございませんが、家に用事が......これで失礼させていただきます」言い終わるや否や、踵を返して足早に立ち去った。無相は北條守の背を呆然と見送りながら、次第に表情を引き締めていった。自分の目を疑わずにはいられなかった。まさか、この男には少しの大志もないというのか?御前侍衛副将という地位が何を意味するか、本当に分かっているのだろうか?天皇の腹心として、朝廷の二位大臣よりも強い影響力を持ち得る立場なのだ。野心がないはずはない。接触する前に徹底的に調査したはずだ。将軍家の名を輝かせることは、彼の悲願のはずだった。一族の執念とも言えるものだ。三年もの服喪期間を甘んじて受け入れるなど、あり得ないはずだ。それとも......既に誰かが先手を打ったのか?服喪の上申書が留め置かれていることは、ある程度知れ渡っている。先回りされていても不思議ではない。だが、ここ最近も監視は続けていた。年が明けてからは、禁衛府の武術場以外にほとんど足を運んでいない。喪中という事情もあり、人との付き合いもなく、西平大名家を除けば訪問者もいなかったはずだ。西平大名家か?しかし、それも考えにくい。親房甲虎は邪馬台にいる。親房鉄将は役立たず。残りは婦女子ばかり。どうやって北條守を助けられるというのか?無相は考え込んだ。おそらく、北條守は淡嶋親王家の力量を信用していないのだろう。無理もない。この数年、淡嶋親王は縮こまった亀以下の有様だったのだから。とはいえ、燕良親王家の身分を表に出すわけにもいかない。大長公主が手なずけていた大臣たちも、今となっては一人として頼りにならない。全員が尻込みしている状態だ。ため息が漏れる。以前から燕良親王に進言していたのだ。大長公主の人脈は徐々に吸収し、彼女だけに握らせるべきではないと。しかし燕良親王は、大長公主が疑われることはないと過信し続けた。そ
北條守は特に驚かなかった。御前侍衛副将としての経験は浅くとも、陛下がこの部署を独立させようとしている意図は察知していた。彼は愚かではなかったのだ。天皇が北冥親王を警戒しているのは明らかだった。上原さくらに御前の警護、ましてや自身の身辺警護までを任せるはずがない。苦笑しながら守は答えた。「致し方ありません。母の喪に服すべき身です」無相は微笑みながら、自ら茶を注ぎ、静かな声で告げた。「親王様がお力添えできるかもしれません」守は思わず目を見開いた。都でほとんど誰とも交際のない淡嶋親王に、そのような力があるというのか?そもそも、あり得るかどうかも分からない後悔の念だけで?仮に後悔があるにしても、それはさくらに対してであって、自分に対してではないはずだ。彼は決して愚かではなかった。淡嶋親王に助力する力があるかどうかはさておき、仮に援助を受ければ、今後は親王の意のままになることは明らかだった。「萬木殿、母の喪に服することは祖制でございます。陛下の特命がない限り免除は......私は朝廷の重臣でもなく、辺境を守る将軍でもありません。私でなければならない理由などございません」無相は穏やかに微笑んだ。「北條様は自らを過小評価なさっている。度重なる失態にも関わらず、陛下がまだ機会を与えようとされる。その理由をご存知ですか?」守も実はそれが疑問だった。「なぜでしょうか?」「北冥親王家との確執があるからです」無相は分析を始めた。「玄甲軍は元々影森玄武様が統率していた。刑部卿に任命された後も、我が朝の多くの官員同様、兼職は可能だったはず。しかし、なぜ陛下は上原さくら様を玄甲軍大将に任命されたのでしょう?」守は考え込んだ。何となく見えてきた気もしたが、確信は持てない。軽々しい発言は慎むべきと思い、「なぜでしょうか?」と問い返すに留めた。無相は彼の慎重な態度など意に介さず、率直に語り始めた。「玄甲軍の指揮官を交代させれば、必ず反発が起きます。玄甲軍は影森玄武様が厳選し、育て上げた精鋭たち。しかし、影森玄武様から上原さくら様への交代なら、夫婦間の引き継ぎということで、さほどの反発もない。ですが、上原さくら様の玄甲軍大将としての任期は長くはないでしょう。陛下は徐々に彼女の権限を削っていく。まずは御前侍衛、次に衛士、そして禁衛府......最終的には
その人物こそ、燕良親王家に仕える無相先生であった。ただし、親王家での姿とは装いも面貌も異なっていた。無相は一歩進み出て、深々と一礼すると、「北條様、御母君と御兄嫁様のことは存じております。謹んでお悔やみ申し上げます」と述べた。所詮は見知らぬ人物である。北條守は距離を置いたまま応じた。「ご配慮感謝いたします。お名前もお告げにならないのでしたら、これで失礼させていただきます」「北條様」と無相が言った。「私は萬木と申します。淡嶋親王家に仕える者でございます。淡嶋親王妃様のご意向で、お見舞いにまいりました。ただ、以前、王妃様の姪御さまである上原さくら様とのご不和がございましたゆえ、突然の訪問は憚られ......」北條守は淡嶋親王家の人々とはほとんど面識がなかったが、家令に萬木という者がいることは知っていた。目の前の男がその人物なのだろう。しかし、その風采は穏やかで教養深く、実務を取り仕切る家令というよりは、学者のような印象を受けた。もっとも、親王家に仕える者なら、当然相応の学識は持ち合わせているはずだ。淡嶋親王妃からの見舞いとは意外だった。胸中に様々な感情が去来する。「淡嶋親王妃様のご厚意、恐縮です。私の不徳の致すところ、お義母......いえ、上原夫人と王妃様のご期待に添えませんでした」「もし差し支えなければ、お茶屋で少々お話を......親王妃様からのお言付けがございまして」北條守は結婚式の当日に関ヶ原へ赴き、帰京後すぐに離縁となった。その際、淡嶋親王妃はさくらの味方につくことはなかった。恐らく離縁を望んでいなかったのだろう、と北條守は考えていた。そのため、どこか親王妃に好感を抱いていた。それに、淡嶋親王家は都で常に控えめな立ち位置を保っている。一度や二度の付き合いなら、問題はあるまい。「承知いたしました。ご案内願います」北條守は軽く会釈を返した。二人がお茶屋に入っていく様子を、幾つもの目が物陰から追っていた。無相は北條守を見つめていた。実のところ、これまでも密かに彼を観察し続け、常に見張りを付けていたのだ。年が明けて以来、北條守は一回り痩せ、顔の輪郭がより際立つようになっていた。眼差しにも、以前より一段と落ち着きと深刻さが増していた。しかし無相は些か失望していた。北條守の中に、憤怒の気配も、瞳の奥に潜む野心も、微
百宝斎の店主を呼び、手下と共に品物の査定をさせた。次々と開けられる箱から、母が隠し持っていた金の延べ棒や数々の高価な装飾品が出てきた。ばあやの話では、一部は母の持参金で、一部は祖母の遺品。分家していなかったため叔母には分配されなかったという。そして幾つかは上原さくらから贈られたもの。さくらが離縁した時、これらは全て隠されたまま。幸い、さくらも問い質すことはなかった。北條守はばあやにさくらからの品々を選び分けさせ、返却することにした。ばあやは溜息をついた。「お返ししても、あの方はお受け取りにならないでしょう。それなら第二老夫人様にお渡しした方が。あの方と第二老夫人様は仲がよろしいのですから」「さくらが叔母上に渡すのは彼女の自由だが、俺たちが勝手に決めることはできない」北條守はそう考えていた。親房夕美はこれに反対した。些細な金品に執着があるわけではない。ただ、親王家の人々との一切の関わりを断ちたかった。さくらが持ち出さなかったのだから、売却なり質入れなりして、その代金を第二老夫人に渡せばよいではないか。「上原さくらはそんなものに関心はないでしょう。それより、美奈子さんが亡くなる前に質に入れた品々があったはず。上原さくらに返すより、それを請け戻す方が良いのではありませんか?」「兄嫁の品も本来なら返すべきものだ」北條守は言った。夕美の言い分は筋が通らないと感じた。「関わりを断つというなら、なおさら返すべきだ。たとえあの人が捨てようと、それはあの人の判断だ」百宝斎の者たちがいる手前、夕美は夫のやり方に腹を立てながらも、これ以上家の恥をさらすまいと、彼を外に連れ出して話をすることにした。蔵の外に出ると、北條守は自分の外套を自然な仕草で夕美の肩にかけた。早産から体調が完全には戻っていない彼女を、この寒さから守りたかった。夕美は一瞬たじろいだ。夫の蒼白い顔を見つめると、胸に燻っていた怒りが半ば消えかけた。しかし、そんな些細な感動で現状が変わるわけではない。柔らかくなりかけた表情が再び硬くなる。「こんな小手先で私を説得しようというのなら、やめていただきたいわ。私はそんな簡単には納得しませんから。今の将軍家の状況はご存知でしょう?次男家への返済については反対しません。でも上原さくらに装飾品を返すなら、その分の金を別途次男家に支払わなけ
落ち着きを取り戻した後、ある疑問が湧いた。なぜ母上は突然叔父の診察を命じたのか。しばらく考えてから尋ねた。「今日、恵子叔母上が参内なさったとか」太后は笑みを浮かべた。「そう、私が呼んだのよ。司宝局から新しい装身具が届いて、その中に純金の七色の揺れ飾りがあったの。皇后も定子妃も欲しがっていてね。皇后は后位にいるのだから、望むものを与えても問題はない。かといって、定子妃は身重で功もある。どちらに与えるべきか迷っていたから、思い切ってあなたの叔母にやることにしたの。ところがあの強欲な女ったら、その揺れ飾りだけでなく、七、八点も持って行ってしまったのよ。本当に後悔しているわ」天皇も笑いを漏らした。「叔母上がお喜びなら、それでよいのです。叔母上が嬉しければ、母上も嬉しいでしょう」財物など惜しくはない。母上を喜ばせることができれば、それでよかった。夜餐を終えると、天皇は退出した。太后は玉春、玉夏を従え、散歩に出かけた。長年続けてきた習慣で、どんなに寒い日でも、食後少し休んでは必ず外に出るのだった。凛とした北風が唸りを上げて吹き抜ける中、太后は連なる宮灯を見上げた。遠くの灯火ほど、水霧に浸かった琉璃のように朧げで、はっきりとは見分けがつかない。玉春は太后が何か仰るのを待っていたが、御花園まで歩き通しても、一言も発せられなかった。ただ時折、重く垂れ込める夜空を見上げるばかりで、溜息さえもつかなかった。玉春には分かっていた。太后が北冥親王のことを案じ、陛下の疑念が兄弟の不和を招くことを恐れておられることが。太后と陛下は深い母子の情で結ばれているものの、前朝に関することとなると、太后は一言も余計なことは言えない。太后の言葉には重みがある。しかしその重みゆえに慎重にならざるを得ない。さもなければ、北冥親王が太后の心を取り込んだと陛下に思われかねないのだから。北冥親王邸では――恵子皇太妃は純金の七宝揺れ飾りをさくらに、石榴の腕輪を紫乃に贈り、残りは自分への褒美として、日々装いに心を配っていた。姉である太后が言っていた。女は如何なる時も、如何なる境遇でも、できる限り身なりを整え、自分を愛でなければならないと。天皇は北條守と淡嶋親王邸に監視の目を向けた。北冥親王邸もまた、この二家を注視していた。北條守は首を傾げた。服喪の願いを提出した