爽やかな秋晴れに恵まれた、十月の土曜日。 日本では縁起担ぎで、多くの人が人生の門出の日に選ぶ、大安吉日。 私は、今日、結婚式を挙げた。 ここは東京のアクアフロント、お台場にある超高級ホテルのチャペル。 ドアが両側に開いた途端、視界をパアッと薄紅色に染めたライスシャワーが、ひらひらと宙を舞って地面に落ちる。 チャペルの前には、鮮やかな庭園が広がっている。 このホテルの売りでもある、色とりどりの花々が咲き誇るヨーロピアンガーデンに、参列者たちが待ち構えていた。 「おめでとう! 葉月(はづき)、とっても綺麗……!」 「各務(かがみ)、幸せにな〜!!」 昔からの友人たちが、口々に祝ってくれる中。 純白のウェディングドレスに身を包んだ私を、スマートにエスコートしてくれる彼を見上げた。 彼……各務颯斗(はやと)も、同じタイミングで私を見下ろしていて、宙で視線が絡み合う。 私たちは、思わず「ふふっ」と笑い合った。 と、そこに。 「各務ー! 浮気すんなよ〜!」 からかい混じりの声がして、私たちを囲んだ人たちが、ドッと笑う。 どうやら、今のは、颯斗の中学時代の悪友のようだ。 彼はその方向に顔を向けて、「しねーよ、バーカ!」と苦笑いで返している。 結婚式の主役、新郎の一言が、さらに参列者たちの笑いを取った。 颯斗はほんのり頬を染めて、「まったく」と独り言ちた。 ちょっと乱暴に、ガシガシと頭を掻く。 今日の彼は、白いタキシード姿。 いつもは額に下ろしているサラサラの前髪を、後ろに流している。 少しセットが崩れて、形のいい額に一房落ちた。 私は、そんな彼にもクスッと笑った。 遠くに見える青い海に浮かぶ船の汽笛が、チャペルの尖塔の鐘の音に混じって、鼓膜をくすぐる。 潮の香りを運んでくる柔らかいそよ風に、頭に着けたヴェールがふわりと舞う。 無意識に頭に手を遣った時、視界の端に、よく知る顔ぶれが揃っているのが映り込んだ。 「あ、颯斗」 私は、彼の腕にかけた手にキュッと力を込めた。 それに気付いた颯斗が、私の促す方向に顔を向ける。 『あ』という形に、口を開いた。 私は、それを横目に、彼から手を離す。 そちらに向けて、やや小走りで歩を進めた。 そして、左手のウェディングブーケを、一度両手で持ち直す。 花嫁の、ブーケトス。 本
披露宴を終えて、友人たち主催の二次会まで参加して、私たちがホテルの部屋に戻った時、午後十時半を回っていた。 そして、迎えた、結婚初夜――。 アメリカで、一年間の同棲生活を経ての結婚だ。 『結婚初夜』なんて言っても、気分的に、いつもとちょっと違うだけ。 いつだって、颯斗に抱かれると幸せだし、甘く蕩けてしまいそうになることに、変わりはない。 そう思っていたのに。 お互いに、よく知り尽くした身体。 触れ合って、どんな反応をするかも、予想できる。 なのに、肌に馴染んだ体温に、彼の指や唇の感触に、なぜかいつもよりも、猛烈にドキドキして……。気怠い微睡み、覚醒に向かう途中から感じていた、心地よい温もり。 一夜明け、同じベッドで目覚めてみると、すごく特別な朝を迎えた実感が湧いた。 今、私の身体に回っている、彼の逞しい腕。 その左手の薬指には、私とお揃いのマリッジリングが嵌められている。 二人で選んだ、シンプルなデザインのプラチナリングを目にしただけで、私の胸はとくんと淡い音を立てて跳ねた。 ああ――。 私、本当に颯斗と結婚したんだなあ……。 なんだか感無量で、気恥ずかしくて、ほんの少し身を縮めた。 と、同時に、私を囲っていた腕に、グッと力がこもる。 「おはよう。葉月」 「っ」 彼のサラサラの前髪に、頬をくすぐられる。 薄い男らしい唇が耳を直接掠めて、私はドキッとして身体を固まらせた。 「……どうした?」 私の反応に、颯斗がやや訝しげに訊ねてくる。 「お、おはよう。颯斗」 慌てて強張りを解き、肩越しに挨拶を返す。 目が合うと、颯斗は綺麗な切れ長の目を細めて、ふんわりと微笑んだ。 「ん」 短く頷いて、背中半分の長さがある、緩く波打つ私の髪に指を通した。 後頭部に回った大きな手に誘われ、軽く触れるだけのキスを交わす。 唇を離すと、 「……んーっ」 颯斗が、私をぎゅうっと抱きしめた。 「わっ。颯斗」 彼の引き締まった逞しい胸板に、顔をムギュッと押しつけてしまい、私の心臓はドクッと跳ねる。 頭上から、クスクスと愉快げな笑い声が降ってきた。 「感無量……」 「え?」 一瞬、心の内を見透かされたのかと思った。 「結婚して、一日目の朝。やっと葉月が、全部俺のものになった。これから先はずっと、俺の人
今回は挙式のための帰国で、滞在期間は四日間と短い。初日は夕刻に到着し、二日目の昨日は結婚式。明日はもうアメリカに発つ。でも、三日目の今日は一日オフ。颯斗とは、別行動の約束をしていた。結婚式の日取りと日本滞在の日程が決まった時、彼が、『大学時代の恩師に結婚と近況報告に行くついでに、仲間に会っておきたいんだ』と言うのに、もちろん異論はなかった。颯斗は三十四歳、私は四つ違いの三十歳。お互いに、今まで築いてきたバックグラウンドがある。久しぶりの日本だからこそ、行きたい場所があるし、会いたい人がいて当たり前。「行ってらっしゃい」ノーカラーのシャツにジャケットを羽織り、外出の支度を終えた颯斗に、そう声をかけた。「夕方には帰って来れる。葉月も戻れるなら、夕食は一緒にしよう」彼は私の頭をポンと叩いて、ホテルの部屋から出ていった。パタンと音を立ててドアが閉まるまで見送って、私は肩を動かして息を吐く。「さて。私も行こうかな」私は午後から人間ドッグを受けるつもりで、予約していた。どうして、せっかくの帰国時、しかも結婚式翌日に人間ドッグなんて……と言うと、私の英語力が一向に上達しないせいだ。この春から語学学校に通って英会話を勉強しているし、家で颯斗に教えてもらったりもするのに、脳が語学に向いていないのか、怖いくらい身に着かない。アメリカで病院に行って、現地人ドクターの診察を受けても、流暢に相談できる自信はまったくない。体調が悪い時なんかは、颯斗が勤務する大学医学部付属病院に行けば、彼が便宜を図ってくれる。でも、日本にいた頃以上に忙しいのを知っているから、病気じゃなく緊急性がない時に、手を煩わせたくない。となると、日本滞在中、颯斗と別行動の今日がベストだった。メイクをしようと、バスルームの大きな鏡の前に立つ。結婚式は昼間だったから、食事制限もちゃんとクリア。体調に問題はない。でも、昨夜は結婚初夜だったし、颯斗は朝から求めてくるし……。疲れた顔をしてるかと思いきや、意外や意外。妙に肌が潤っているのに、自分でも驚いた。二重目蓋の大きな目には、落ち着いたブラウン系のアイシャドウを入れる。高くはないけど形のいい鼻。下唇がちょっとぽってり厚く、口紅はヌードカラーでも映える。それぞれのパーツがしっかりしていて、わりとバランスがいいから、普段はノーメイクでもぼんやりした顔にならないのがありがたい。その上
すべての検査を終えて、診察室で女性ドクターと向き合った時、私はさすがに疲れていた。「各務葉月さんですね。あら、アメリカにお住まいですか」受診手続き時のカルテに目を通したドクターが、ふっと顔を上げた。「なんでわざわざ、日本で健診なんて」「私、英語がからきしで……アメリカで診察受けるの、ちょっと自信なかったので」苦笑交じりに説明すると、ドクターは「なるほど」と相槌を打った。「それで、一気にこんなに検査受ける羽目に……大変でしたね」私を労いながら、デスクの前のシャーカステンに目を向けた。そこには、レントゲンやCTの画像フィルムが貼ってある。「肺、胃、脳に、画像から判断できる所見はありません」ドクターは、ポインターで示しながら簡単に説明してくれた。ホッと安堵する私の前ですべてのフィルムを外し、新しい物を挿し込む。「これは、婦人科で撮った、腹部エコー。各務さん、新婚さんですね。ブライダルチェックは受けられましたか?」「え?」思わず聞き返したものの、すぐに結婚前の妊娠チェックのことだと合点する。「いえ。受けてません」「婦人科系で、今まで気になることもなかった、ということですか」「はい。多少周期が狂ったり、生理痛があるくらいで」そう答えると、ドクターは「そうですか」と肩を竦めた。その表情が、どこか険しくも見えたから、私は恐る恐る身を乗り出した。「あの。なにか、おかしなところでも……?」シャーカステンのフィルムを見ても、私にはなにがなんだかわからない。私の視線を追うように、ドクターもそこに目を向けた。「子宮や卵巣にも、これと言った所見はないんですが、一度詳しい検査をされることをお勧めします。……もしかしたら各務さん、妊娠しにくい可能性が」「……え?」心臓が、ドクッと嫌な音を立てて沸いた。大きく目を丸くして、その先を求めてドクターを見つめる。「新婚さんということですし。お子さん、お望みですよね?」「は、はい……」困惑しながら、頷いて返す。ドクターも、理解を示すように首を縦に振った。「今のところ、可能性としか言いようがありません。ですが、どちらにしても、精密検査は早いに越したことはありませんよ」滔々と説くように告げる声が、何故か遠くなっていく。『俺たちの最初の子は、男の子がいいな』渡米後初めて帰国した時、颯斗は私の両親に挨拶してくれた。帰りの飛行機で、彼が言った言葉が、胸に蘇ってく
病院を出た時、東京の空は夕焼けに染まっていた。左手首の腕時計に目を落とすと、午後五時半を指している。人間ドッグを受けるために、朝からなにも食べていない。胃は空っぽのはずなのに、全然空腹を感じない。それどころか、胸焼けすら覚えた。無意識に胃を摩りながら、川沿いの通りを駅に向かってとぼとぼ歩く。ふと顔を上げると、遠くに東都大学医学部附属病院のヘリポートが見えた。なんとなく眺めながら足を止め、橋の欄干にもたれかかる。少し身を乗り出して眼下の川の水面を見つめ、「はーっ」と大きな溜め息をついた。今日の診断結果は、二週間ほどでフィラデルフィアの自宅に送ってくれるそうだ。当たり前だけど、今日の今日で確定診断が出るわけがない。だけど――。『各務さんの生理痛の原因としては、子宮内膜症の可能性があります。こちらは生化学検査の結果ですが、三十歳で生理周期が不規則という点からも、プロラクチンがやや高いのが気になります」パソコン画面で、生化学検査の結果を見せてもらった。異常を示すアスタリスクがついていたけど、私はそれをどう読めばいいのかわからなかった。質問を挟んでみると、プロラクチンは、別名乳汁分泌ホルモン。ブライダルチェックでは、必須の検査項目。この数値が高いと、妊娠しづらいという診断に繋がるという。『幸い、各務さんまだお若いですし、治療も有効ですよ。今回の確定診断と一緒に、英文紹介状をお送りしますので、アメリカで検査されてはいかがでしょう』機械的に頷いたものの、私の思考回路はまともに働いてくれなかった。紹介状。アメリカで、検査。本当に私は、妊娠しにくい可能性があるの――?子供を望み、避妊せずにごく普通の夫婦生活をしていれば、一年で九割の夫婦が授かるそうだ。それでも妊娠の兆候がない時、初めて不妊症が疑われる。『ですが、結婚前提で一年同棲されていたなら、ある意味、普通の夫婦生活と同じ状況下にあったとも言えます。旦那様にもご確認された方がよろしいかと』つまり――。颯斗に、今まで毎回避妊していたかどうか確認しろ、ということだ。一年の同棲期間、『普通の夫婦生活』と同様の状態にあったなら、私はすでに不妊症と定義づけられるのかもしれない。言われた通り、一刻も早く産婦人科に駆け込むべきなんだろう。だけど……だからと言って。「今さらそんなこと、どうやって聞けって……」お腹の底から深い息を吐いて、欄干に額を
その夜――。「ええと……葉月?」私に引き締まった背中を向けた颯斗が、ぎこちなく振り返った。訝し気な瞳に、私もギクッと身体を強張らせる。「な、なに?」「いや、なに?じゃないだろ。なんでそんなに、俺がゴムつけるの、ガン見してんの?」「……っ!」彼の不審はごもっともだ。私は、なんでこんなまじまじと、颯斗が避妊具をつけるのを確認してるんだか……!!「ご、ごめんっ」慌てて彼の背中から離れ、勢いよくベッドに突っ伏した。「別に謝らなくてもいいんだけど。さすがに、そこまでジッと見られると、俺も恥ずかしいって言うか……」苦笑交じりの声に、居た堪れない思いに駆られる。「早く……って、急かしてた?」揶揄するような言葉と同時に、颯斗が私の肩をぐいと掴む。「そんなんじゃ……」「ふふ。ほら、お待たせ」「っ、あっ……!」強引に身体を上に向けられ、次の瞬間、彼が私の中に一気に入ってきた。「んっ……颯斗っ……!」容赦なく最奥を攻められ、身体がビクンと痙攣する。堪らず、彼の首に両腕を回して抱きついた。「ああ……君の中、いい」颯斗が私の耳元で、熱い吐息を漏らす。その、気怠げでしっとりした声に、私もゾクッと背筋を震わせた。「愛してる。葉月……」颯斗は、なにか絞り出すように、切なげに呟いた。中を掻き混ぜるみたいに、ゆっくり腰を動かし始める。「あっ、んっ……颯斗、颯斗っ……」縋るように呼びながら、私は心のどこかでホッとしていた。結婚したのに。私がなにも言わなくても、彼はごく普通に避妊した。だからきっと、聞くまでもない。今までも、それが当たり前だったはずだ。結婚前提で同棲していて、子供ができても困らなくても、まだ結婚前だから。こういうけじめは、ちゃんとつけてくれる。そうよ。颯斗はそういう人。それなら、私はまだ一般的に不妊症と定義づけできる状況ではない。焦ることじゃない。ただ、少しだけ、頭に留めておいた方がいいというだけ。自分にそう言い聞かせて、私は彼に愛される悦びに身を震わせた。
フィラデルフィアに戻ってきて、最初の語学学校の授業が終わった。私は、週に二日、初級クラスを受講している。結婚式で日本に戻っていたのもあり、今週初めは欠席した。そのおかげで、今日の授業もついていけなかった。いや、ついていくどころか、確実に遅れを取っている……。ニットの上から、トレンチコートを羽織る。デニムをインしたブーツの踵を鳴らして、教室を出ると同時に、無意識に溜め息が漏れる。「はあ……」すごすごと廊下を歩き出すと、後ろから「葉月さ~ん!」と声をかけられた。同じクラスの日本人男性が、こちらに走ってくる。「お疲れ様、学(まなぶ)君」そう返すと、彼は私の目の前まで来て、ピタッと立ち止まった。学君……鈴木(すずき)学君は、私と同時期にこの語学学校に入学した、いわゆる『同期』だ。と言っても、三十歳の私と違って、彼は二十二歳の大学生。底抜けに明るく人懐っこい性格もあって、私よりずっと上達が早い。「やっと帰ってきたと思ったら。なんか、死んじゃいそうに暗~い顔してますよ」無邪気に揶揄されて、私は「はは」と乾いた笑い声で返す。「死んじゃいそう、か」彼の言葉を反芻して、再び先に歩き始めた。「先生に当てられて、とんちんかんな返事したことなんか、気にしなくても。俺たち、初級クラスなんだし。今のうちに目いっぱい掻いときましょうよ、赤っ恥」人の気も知らずに、随分と軽い調子で笑い飛ばしてくれる。いつもなら、羞恥のあまり憤慨するところだけど……。「そのくらいじゃ死なないよ」苦笑で返して、先を急ぐ。「えー」と、学君が後からついて来た。「じゃあ、日本でなにかあったんですか?」隣に並んだ彼にツッコまれ、私は返事に窮した。学君は、答えを待って瞬きをしている。「……なんにもない」私はふいっと顔を背け、意識して歩を速めた。「ちょっ……葉月さん」それでも、彼は私を追ってくる。「先週日本に帰国してたのって、結婚式挙げるためでしょ?」そう言いながら、いきなり私の左手首を掴んだ。「きゃっ……!」「旦那さん、医者でしたっけ。これ、マリッジリングでしょ。さっすが~。シンプルだけど、いかにも高級そうで、神々しいったら。授業中、光が反射してましたよ」「ちょっ……やめて」私は慌てて手を引っ込めた。学君は悪びれずに、「へへへ」と笑っている。「新婚ホヤホヤってヤツでしょ? 相当浮かれてんだろうな~と思ってたのに。逆に暗いから、心
寄り道せずにまっすぐ帰ってきたおかげで、いつもの倍、四人分の夕食も余裕を持って支度できた。今日は、颯斗にオペの予定はない。帰宅時間が読みやすいのもあり、彼のアメリカでの同僚、ブラウン博士夫妻をホームパーティーに招いていた。午後七時。二人は颯斗の車で、病院から一緒にやって来た。「こんばんは、ハヅキ。お招きありがとう」シックなダークグリーンのイブニングドレスに身を包んだメグさんが、相変わらず流暢な日本語で挨拶してくれた。透き通ったエメラルドのような瞳。髪はブロンドで、サラサラのボブスタイル。才女といった印象の、すらりとした美人だ。去年の夏、ブラウン博士が東都大学の視察に訪れた際、彼女も個人秘書として同行していて、私もその時出会った。「これ。結婚、おめでとう」両手いっぱいに抱えていた艶やかな花束を、私に渡してくれる。「わあ、ありがとうございます!」私は花束を受け取り、声を弾ませた。軽く顔を埋めただけで、花の蜜の甘い香りが鼻腔をくすぐる。「やあ、ハヅキ。今夜も麗しいね」メグさんの隣の、光沢ある素材のブラックスーツ姿の男性が、やや片言の日本語で言って、私に手を差し出してくれた。彼はレイモンド・ブラウン博士。颯斗と同じ心臓外科医で、彼が東都大学に来る前からの同僚で親友。この夏、大学時代からの付き合いのメグさんと、めでたく結婚した。彼らも新婚さんだ。身長百八十センチ近い颯斗と、同じくらい背が高い。ふわっとしたプラチナブロンドの髪に、深く澄んだ青い瞳。超エリート外科医のわりに、結構やんちゃで気さくな性格で、颯斗の親友というのも納得だ。『麗しい』と言ってもらえた私は、ベビーピンクのロングドレスを身に纏っていた。新婚同士のホームパーティーだから、ちょっと優雅に、長い髪も結い上げている。「レイさんも、相変わらず素敵です」私は、花束を左腕に寄せて、彼に握手を返す。レイさんに負けないシックなスーツに着替えた颯斗が、ダイニングに入ってきた。「また、レイは……」彼は、ニコニコしているレイさんの耳を、ギュッと引っ張る。「いて。いてて、ハヤト!」「メグの前だっていうのに、どうしていつもそう軽々しく、女性を褒めるんだ」やや呆れ顔で眉根を寄せる彼に、メグさんがクスクス笑う。「あら、ハヤト。私を気遣ってくれるの? ありがとう」「メグは慣れてるだろうし、気遣うってのとも違うんだけど」「ふふ。本音は、大事な奥
誕生日パーティーが始まって、三十分ほど経った時。「遅くなって、ごめん!」颯斗が、額に汗を滲ませて走ってきた。いち早く気付いたメリッサちゃんが、「Hayato dad!」嬉しそうに声を弾ませて、彼の方に駆けていく。「Wow! Sorry for being late, Melissa. Happy Birthday」飛びつかれた彼が、笑顔でお祝いを告げる。メリッサちゃんをひょいと抱き上げ、くるくると回旋する。彼女が、きゃっきゃっとはしゃぎ声をあげた。地面に下ろされると嬉しそうに戻ってきて、レイさんの膝の上に乗っかった。「Daddy. Hayato dad is always kind」ちょっと不満げに告げられ、レイさんが「はは」と苦笑した。「僕はもう若くないんでねえ。してやりたい気持ちはあっても、抱っこしてグルグルはとても……」「なに言ってんのよ。ハヤトと同い年でしょ」すぐさまメグさんに突っ込まれ、ひくっと頬を引き攣らせる。そんな二人を前に、私と颯斗は顔を見合わせ、クスッと笑った。「お疲れ様、颯斗」隣に座った彼のグラスに、シャンパンを傾ける。「サンキュ、葉月。……君も」颯斗は私のグラスが空になっているのを見留めて、私からボトルを受け取ろうとした。私は、「あ」と手で制する。「ありがとう、颯斗。でも、私はこっち」そう言って、レモンを浮かべたミネラルウォーターの瓶を手に取った。「……え?」颯斗が、きょとんとしている。彼を横目に、メグさんとレイさんがふふっと目を細めた。「おめでとう、ハヅキ、ハヤト!」「え? ……え?」いきなり二人から祝福され、颯斗は忙しなく瞬きを繰り返した。答えを求めるように、戸惑いに揺れる目を私の上で留める。「えっと……ごめんね、伝えるのが遅くなって」私は、恐縮して首を縮めた。本当は、乾杯の前に、みんなに伝えるつもりでいた。でも、颯斗が遅れてくることになって、シャンパンを断るために、メグさんたちに先に告白する羽目になってしまった。「実は……ここに、颯斗の赤ちゃん、いるの」私は頬を染めて、自分のお腹に両手を置いた。「昨日、わかったの。三ヵ月だって」ちょっと照れ臭くて、素っ気なく言ってしまった。だけど。「あの、颯斗……?」反応がないから心配になって、上目遣いで彼を窺った。颯斗は、目も口も大きく開けて、ポカンとしていたけれど……。「Congrats! Hayat
メリッサちゃんの二歳の誕生日。私は大きなクマのぬいぐるみを抱えて、レイさん夫妻の家を訪ねた。今日は朝から明るい太陽に恵まれて、ほんのちょっと暑いくらい。絶好のガーデンパーティー日和だ。門の外からチャイムを押すと、今日の主役が玄関のドアを開けて出迎えてくれた。「Hi! Haduki mom!」水色のワンピースで着飾ったメリッサちゃんが、転がるように駆けてきて、自ら門を開けてくれた。彼女は私を、『葉月ママ』と呼んでくれる。「Happy Birthday! Melissa」笑顔でお祝いを言ってプレゼントを渡すと、彼女はぬいぐるみの大きさに「Wow!」と目を見開いた。すぐに嬉しそうに顔を綻ばせ、「Welcome to my birthday party! Where is Hayato dad?」私の隣に颯斗がいないのを気にして、きょろきょろと辺りを見回している。私はクスッと笑ってしゃがみ込み、彼女の肩をポンと叩いた。「彼はお仕事でちょっと遅れるけど、ちゃんとメリッサのお祝いに来るから、大丈夫」そう説明した時、家の中からメグさんが出てきた。「ハヅキ、いらっしゃい! メリッサの誕生日パーティーに来てくれて、ありがとう」メリッサちゃんに目線を合わせるために屈んでいた私は、ゆっくりと背を起こした。「お招きありがとうございます、メグさん」彼女はふわっと微笑み、メリッサちゃんが抱えているぬいぐるみを見て、まったく同じ反応をする。「わあ、大きい……! いつもありがとう、ハヅキ。メリッサ、ちゃんと葉月ママにお礼は言った?」メグさんにそう言われて、メリッサちゃんはハッとしたように瞬きをする。「Thank you, Haduki mom!」慌てた様子でそう言うと、「Daddy!」屋内にいるレイさんを捜して、またしても転がるように走っていった。小さな背中を見送って、私たちは顔を見合わせてクスクス笑った。「お誕生日、おめでとうございます。ほんと、いつも元気で可愛い。メリッサちゃん」私の言葉に、メグさんはやや苦笑いで肩を竦めた。「元気すぎるのが、玉にキズ。この間も階段から転がって、額にたん瘤作ったのよ」「えっ! 大丈夫?」とっさに心配した私に、「見ての通り」と笑う。「ハヤトは?」そう問われて、今度は私がひょいと肩を竦めた。「昨夜、当直だったんです。仕事が残ってるから、まっすぐこちらに向かうって」「
義父母を空港まで見送って、家に帰ってきた途端――。「……っ、くしゅっ」私は、玄関先で小さなくしゃみをした。先にリビングに向かいかけた颯斗が、廊下の中ほどでピタリと足を止める。やけにゆっくり振り返り、じっとりとした目を向けてきた。「まさか……やっぱり風邪ひいた?」「ち、違っ……」慌てて否定したものの、颯斗はピクッと眉尻を上げて、ツカツカと私の方に歩いてくる。背を屈め、私の額に自分のそれをこつんとぶつけた。「あー……熱、出てる」至近距離から上目遣いに見つめられ、私の胸は小さく弾んで疼いてしまう。「ほ、ほんと? でも、昨夜のが原因じゃないでしょ、きっと」慌てて一歩飛び退いて、ぎこちなく笑ってみせた。「なんで言い切る」「だって、もしそうだったら、すぐに出てたんじゃ……」「葉月、親父たち見送るまで、気、張ってたから、不調に気付かなかっただけじゃないのか?」颯斗は渋い表情のまま、さらりと前髪を掻き上げた。「っつーか……俺も、気付かないとか、なんて迂闊な……」そのまま、生え際から前髪をくしゃっと握り、深い溜め息をつく。「なんで。颯斗のせいじゃないって。確かに飛行機飛ぶまで、気、詰めてたし。ほら、知恵熱みたいな……?」熱はあっても元気!を装うつもりで、私は無意味に二の腕に力瘤を作る仕草をして見せた。「子供か、君は。……でもまあ、ストレス性高体温症と言い換えれば、当たらずとも遠からず、か」「え? っと……?」思わず首を傾げて、聞き返す。颯斗は私には答えず、軽く身を屈めて、「よっ、と」軽い掛け声と同時に、私をひょいと抱え上げた。「っ、えっ!?」肩に担がれたことに気付き、私はギョッとしてジタバタと抵抗した。「ちょっ、颯斗っ! 私、自分で歩けるからっ……!」「暴れんな。昨夜も言っただろ? 肺炎でも起こしたらどうする」そう言われて、足をバタつかせるのだけは堪える。「そうそう。大人しくしてろ」「ほんとに……颯斗に言われるまで、自分でもわからなかったくらいの熱だよ? そんな大袈裟なもんじゃないから、きっと」「医者でもない葉月が、勝手に自己診断するな。俺が診るから」今朝、颯斗のことを、『神の権化のような医師』と羨望したばかりだ。その彼に、医師の顔で言われると、ぐうの音も出ない。「は、い……」結局私は、彼に担がれたまま、寝
次の滞在地、ボストンに向かう義父母を、颯斗が空港まで送ると言ってくれた。仕事を休むことをレイさんに伝えて電話を切った彼に、横から「大丈夫?」と訊ねる。「平気。オペもないし、浩太の経過も順調だし。泊まり込み続いた分、『ハヅキと仲良く過ごしてくれ』ってさ」颯斗は私の前で親指を立てて、バチッとウィンクをした。おどけた仕草にドキッとしたものの、私もすぐに笑って返す。先ほどまでの深刻な話題の会話の後で、いつもの空気感を取り戻そうとしてくれているのが、よくわかる。「うん……。ありがとう、颯斗」ちょっと気恥ずかしいのを堪えてお礼を言った時、出発の準備を終えた義父母が、ゲストルームから降りてきた。「葉月さん。いろいろお世話になりました」今朝方のやり取りもあってか、義母はちょっと照れ臭そうにはにかむ。それは私の方も同じで、妙にピンと背筋を伸ばして向き合った。「い、いえ。本当に、あの……」またしても謝罪が口を突いて出そうになって、一度口を噤んでのみ込む。「また、ぜひ遊びにいらしてください。その時は、今回振る舞えなかった手料理、ちゃんとご馳走したいです」そう言葉を返すと、義父母も嬉しそうに微笑んだ。「ありがとう。颯斗はあなたの手料理、いつもくどいくらい絶賛してくれるのよ」義母から悪戯っぽい目を向けられて、颯斗がムッと唇を結んだ。「くどいって……。心外だな。それに、そう何度も、母さんと電話で話した記憶ないぞ、俺」ブツブツと呟いて頭を掻く彼に、義父も面白そうに目を細めている。ここでも、親子三人の強く温かい絆を見た気がして、私は無意識に目元を綻ばせた。「さて。じゃあ、行こうか」義父が、義母を促す。「ええ。颯斗、悪いわね。送らせちゃって」「ああ」コートを羽織りながら玄関に向かって行く義母に、颯斗は軽く頷いて応えた。自分もコートを手に取り、ポケットから車のキーを取り出す。「あの……颯斗、よろしくね」帰りも私がお見送りをするつもりだったけど、彼に託して笑いかけた。颯斗はきょとんとした顔をして、「え?」と聞き返してくる。「あ。もしかして、風邪ひいた? 熱っぽい? 体調悪いとか」「え?」今度は私が瞬きで返した。「う、ううん。大丈夫」昨夜、冷たい雨に濡れた私を心配してくれる彼に、慌てて首を横に振ってみせる。「それなら、葉月も一緒に行こう」颯斗は訝し気に首を傾げながら、私の腕を取った。「え。でも」「ん?」「
ほとんど眠らずに夜を過ごした義父母には、出発までゲストルームで休んでもらい、私と颯斗はリビングのソファに並んで座った。彼が手にしているのは、日本とアメリカ、二つの病院でもらった、私の検査結果だ。肩に力を込め、ピンと背筋を伸ばす私の隣で、ブラウンのフレームの眼鏡の向こうから、真剣な目で数値を追っている。英語と日本語、両方の所見にも目を通し、やがて「ふうっ」と息を吐いた。「なるほど。プロラクチン……ね」天井を見上げ、ポツリと呟く。私は軽く座り直して、彼の方に身体を向けた。「あ、あのね。プロラクチン値が高いと、身体が疑似妊娠状態に近くなるんだって。えっと、たとえば……」いくら同じ医師でも、心臓外科医の彼に、産婦人科の領域はわからないだろう。そんな考えから、ドクターたちから聞いたことを、説明しようとする。ところが。「妊娠、出産の経験がない未産婦なのに、母乳が出たり、生理が止まったりする。他にも、乳房が張ったり……」ふむ、と顎を撫でる颯斗に、私は大きく目を剥いた。「な、なんで……」「知ってるのか、って? 甘いな、葉月」彼は、心外といった顔をして、胸の前で腕組みをした。「俺は心臓外科医だけど、他科を知らないわけじゃない。もちろん、産婦人科は専門外。でも、君よりはよっぽど詳しい。その気になれば、薬も処方できる程度の知識はあるよ」不遜なほどのドヤ顔で言って退ける彼に、呆気に取られる。「でも、おかしいな……俺が知る限り、葉月に乳汁分泌症状は見られないと思うけど」「えっ!? あ、うん。それは私も、胸を張って言い切れ……」「生理周期も、あまり一定しないようだけど、止まったことはないはず。まあ、乳房が張って固いことはあるか……でも、君はそこそこボリュームあるから、そのくらいで十分……」「って! な、なに言ってんのよ!?」診てもいないのに、私の身体状況を冷静に分析されて、カアッと頬が火照った。思わず腰を浮かせると、彼は私を上目遣いに見据えて、ほくろのある方の口角をにやりと上げる。「一緒に暮らしてる大事な人の身体状況くらい、結構ちゃんと把握できてるけど? 俺」「っ……」太々しく言われて、しゅーっと蒸気が噴射しそうなほど、顔が熱くなる。それでも、反論の挟みどころがなくて、結局ストンと腰を下ろした。そんな私を横目に、颯斗はクスッと笑う。「薬。なに飲んでるの?」続けて質問されて、私は彼に薬袋を渡した
翌朝、夜明けを待って、私たちは家に帰った。遥々日本から遊びに来てくれた義父母に、衝撃的な告白をした挙句、家を飛び出してしまうなんて……。人間としても嫁としても、最低なことをしてしまった。ガレージで車から降り、込み上げる緊張で顔を強張らせた私に、颯斗は苦笑した。「ほら、おいで。なにも、煮て焼かれるようなことはないから」ちょっと意地悪な揶揄にも、返す言葉はない。だって、そのくらいされて当然だ。私は、ますます悲壮感を漂わせる。颯斗は「やれやれ」と困った顔をして、私の手を取った。そして、もう片方の手でコツンと額を小突く。「俺の親なんだから。万が一怒られても、俺が一緒に頭下げるから」悪戯っぽく目を細める彼に、私もやっと、少しだけ表情を和らげた。「うん……。ありがとう、颯斗」指を絡ませて手を繋ぎ、ガレージを出た。中庭を横切り、家の玄関前に歩を進める。すると、庭に面したリビングの窓から、弱い明かりが漏れているのに気付いた。「あれ……」颯斗も、訝しげに瞬きをする。「もう起きてるのかな。やけに早いな」口に出して首を傾げると、玄関の鍵を開けた。私の手を引いたまま、廊下を突っ切る。そして、リビングにひょいと顔を覗かせ、やや遠慮がちに声をかけた。「ただいまー……」「颯斗、葉月さんっ……」私たちに気付いた義母がソファから立ち上がり、弾かれたようにこちらに駆けてきた。青白く硬い表情を前に、私は反射的に身を竦めた。義母から一拍遅れて、義父もソファに起き上がる。「二人とも、帰ってきたのか……?」眩しそうに目を細め、一瞬辺りを見渡すような仕草を見せる。どうやら、義父の方は、うたた寝から目覚めたといった様子だけど。「母さん。……もしかして、ずっと起きてたのか?」目の前に立った義母が、真っ赤な目をしているのを見て、颯斗が困惑して訊ねる。「大丈夫って言ったのに。休んでてって……」「そう言われても、休めるわけがないじゃない。息子夫婦の家で、二人とも不在なのに」義母にそう返されて、颯斗がグッと口ごもった。「……だよな。すみません……」気まずそうに口元に手を遣る彼から目を逸らし、義母は私の方に顔を向けた。さすがに、条件反射で身体が強張る。だけど、謝らなきゃいけないことがたくさんある。「あ、あのっ……」私は肩に力を込めて、思い切って口を開いた。「お義母さん。昨夜は……」「葉月さん、ごめんなさい。本当に、ごめんなさ
颯斗は、私を抱えて敷地内に停めた車に戻った。エンジンをかけると、すぐにエアコンを強める。そうして、スマホを手に取った。画面に目を落とし、指をスライドさせて電話をかける。「……俺。ああ、大丈夫。でも、今夜は帰れない。ごめん。こっちは気にしないで、ゆっくり休んで。葉月がゲストルーム用意してくれてるから」表情を動かさず、短い会話をして通話を終えた。電話の相手が誰か、私にもわかる。だからなにも言えないまま、彼のコートに包まって、助手席で身を縮めた。颯斗はスマホをスラックスのポケットにねじ込み、無言でアクセルを踏む。病院から走り出た車は、先ほどの宣言通り、家とは逆方向に進路を取った。十分ほど走った後、颯斗は、市内でも有数の大型ホテルの駐車場で車を停めた。簡単なやり取りで、チェックインを済ませる。高層階のダブルルームに入ると、彼は私の手を引いて、ベッドサイドに歩いていった。ここでもすぐにエアコンを強め、「服、脱ぐぞ。葉月」言うが早いか、私の服に手をかける。水を吸ってぐっしょり濡れて、肌に貼りつく服は、さすがに彼にも脱がしづらそうだ。協力も抵抗もせず、されるがままの私を下着姿にすると、自分も勢いよくニットを捲り上げて脱ぎ捨て、引き締まった上半身を露わにした。「葉月……」寒さで身を縮める私を、そっと抱き寄せる。彼の手が背中に回るのを感じて、私はビクッと肩を強張らせた。「ダメ。……抱かないで」俯いて呟くと、彼の指がぴくりと動いた。「嫌?」短い問いかけに、黙って首を横に振る。「颯斗が、冷えちゃう……」床に顔を伏せたまま答えると、頭上でクスッと笑う声が聞こえた。「大丈夫。俺も君も、すぐに熱くなる」そう言って、颯斗は躊躇うことなく、私のブラジャーのホックを外した。胸の締めつけが、一気に和らぐ。私は、こくっと唾を飲んだ。「うわ。氷、抱いてるみてえ……」颯斗は私を抱きしめると、わずかに悲鳴のような声をあげた。裸の肌が触れ合っても、なにも言わない私を覗き込み、眉根を寄せる。「唇……チアノーゼ出てる」温めようとしてくれたのか、迷いもなく唇を寄せた。軽く啄むキスをしながら、大きな手で私の胸を弄る。触られているのに、肌の感覚が鈍い。私は目を閉じて、彼に身を委ねるだけだった。「葉月……」颯斗の唇が、顎の先から首筋に落ちていく。鎖骨を越えて胸の膨らみに到達しても、反応を見せない私に、彼はやや寂し気な笑みを
頭の中は真っ白。目の前は、真っ暗。光のないブラックホールのような空から、大粒の雨が降りしきる。傘も持たず、コートも着ずに出てきてしまった。だけど、義父母に向ける顔がなくて戻れないまま、雨の街を彷徨い――。辿り着いたのは、颯斗の病院だった。クリスマスは過ぎたけど、外来棟前のイルミネーションはそのまま。ずぶ濡れで惨めな私を、寂しく照らし出してくれる。寒い……。無意識に暖を取ろうとして、二の腕を摩った。冷たい雨に濡れてかじかむ身体には、なんの効果もない。意思に関係なく、カタカタと小刻みに震える自分を抱きしめ、病棟を見上げた。颯斗……もう家に帰ってるかな。帰ったらきっと、義父母から話を聞くだろう。その時彼は、どんな顔をする……?驚愕して、凍りつく。辛そうに強張る瞬間を見なくて済むことが、今、せめてもの救いの気がして、ほんのちょっと胸が軽くなる。――ううん、違う。違う、こんな形じゃ……。ちゃんと、私から言わなきゃいけなかったのに。人づてに知るなんて、傷つけるに決まってる。妻の私が、一番しちゃいけないことだった。今、強く確信できるのに、言えなかった自分が情けない。歯痒くて、颯斗に申し訳なくて、消えてしまいたくなる。「ごめん……颯斗。ごめんなさい……」彼への謝罪は、まるでうわ言のように、何度も口を突いて出てくる。一言言うごとに、強い罪悪感が積もっていって、立っていられない。私は、その場に頽れた。土砂降りの雨が、容赦なく私の身を打つ。地面にペタンと座り込み、喉を仰け反らせて空を仰ぐ。すべての雨が、私目掛けて降り注いでいるような錯覚を覚える。天からも、責められているような気がした。「っ……」堪らず、嗚咽が漏れた。目から溢れる涙に、唯一の温もりを感じる。「ふっ……ううっ」涙は雨が隠してくれるけど、お腹の底からせり上がる声は、抑え切れない。地面に両手を突いてこうべを垂れ、肩を震わせた、その時。「葉月……っ!!」水溜りを踏む足音と共に、名を呼ぶ声が聞こえた。「葉月、ここに来てたのか……」条件反射でビクッと身を竦めてから、そろそろと顔を上げると、血相を変えてこちらに駆けてくる颯斗の姿が、視界に飛び込んできた。弾む息が、白い。彼は私の目の前に来てしゃがみ込むと、手にしていた傘を差しかけてくれた。私の耳を塞いでいた雨音が弱まる。「ずぶ濡れじゃないか。この時期に、そんな薄着で自殺行為だ。肺炎でも起
タクシーで移動する間も雨脚は強まり続け、家に着いた時には、本降りになっていた。門から玄関まで走る間に雨に打たれ、玄関先に立った義父母の髪も濡れてしまっている。「すぐに、タオル持ってきますね」私は急いでバスルームに向かった。タオルを二枚持って、玄関に引き返す。「ありがとう」と、早速濡れた髪や服を拭う二人を、リビングに招いた。ソファを勧めて、時間を確認する。午後六時。颯斗は、七時には帰って来れるはず。夕食は彼の帰りを待つから、今のうちにお風呂を勧めた方がいいかもしれない――。「あのっ。ちょっと早いですけど、お風呂用意しますね」バスルームに走り、浴槽にお湯を張って、新しいタオルを数組用意する。「よし」と、誰にともなく頷いて、私は再びリビングに戻った。ドア口から、声をかけようとして……。「葉月さん。子供を考える気、ないのかしら」義母の声が聞こえて、私はギクッとして足を止めた。「そんなことないだろう。勝手な憶測で、ものを言うんじゃないよ」義父が、溜め息混じりに窘めている。「でも」と、義母が反論を返した。「葉月さん、子供の話題になるとはぐらかすじゃない。電話でもそうよ。いつも」不満げな声に、私はその場で凍りついた。「颯斗は、銃撃事件に遭ったばかりだから、そっとしておいてくれって言うけど。原因はわかってるんだし、カウンセリングに通ったりするべきなんじゃ」「………」義父も、義母の口調に口を噤んだ。「ちゃんと説明してもらった方がいいかしら。いつになったら、考えるのかって」「説明って。それは……」「聞いておいた方が、こちらだって安心よ。颯斗の親として納得してないことも伝えられるし。それでもし、もしもよ。葉月さんが子供を望んでいないようなら……」「おい、やめないか。葉月さんが戻ってきたら……」まさに私を気にして、義父がふっと振り返った。ドアの前で立ち尽くす私に気付き、大きく息をのむ。「葉月さん……」「え?」義父の声で、義母もハッとしたようにこちらに顔を向けた。そして、『あ』と口に手を当てる。「葉月さん、今の話……」ぎこちない声が、尻すぼんでいく。私もその場から動けず、なんとも気まずい空気が過ぎった。義父母にきまり悪そうな顔をさせているのは私だから、嫁として居た堪れない。「お二人のご不満を察せず、申し訳ありませんでした」私は、自ら沈黙を破った。意を決して、二人の前まで歩いていく。「お義母さ