寄り道せずにまっすぐ帰ってきたおかげで、いつもの倍、四人分の夕食も余裕を持って支度できた。今日は、颯斗にオペの予定はない。帰宅時間が読みやすいのもあり、彼のアメリカでの同僚、ブラウン博士夫妻をホームパーティーに招いていた。午後七時。二人は颯斗の車で、病院から一緒にやって来た。「こんばんは、ハヅキ。お招きありがとう」シックなダークグリーンのイブニングドレスに身を包んだメグさんが、相変わらず流暢な日本語で挨拶してくれた。透き通ったエメラルドのような瞳。髪はブロンドで、サラサラのボブスタイル。才女といった印象の、すらりとした美人だ。去年の夏、ブラウン博士が東都大学の視察に訪れた際、彼女も個人秘書として同行していて、私もその時出会った。「これ。結婚、おめでとう」両手いっぱいに抱えていた艶やかな花束を、私に渡してくれる。「わあ、ありがとうございます!」私は花束を受け取り、声を弾ませた。軽く顔を埋めただけで、花の蜜の甘い香りが鼻腔をくすぐる。「やあ、ハヅキ。今夜も麗しいね」メグさんの隣の、光沢ある素材のブラックスーツ姿の男性が、やや片言の日本語で言って、私に手を差し出してくれた。彼はレイモンド・ブラウン博士。颯斗と同じ心臓外科医で、彼が東都大学に来る前からの同僚で親友。この夏、大学時代からの付き合いのメグさんと、めでたく結婚した。彼らも新婚さんだ。身長百八十センチ近い颯斗と、同じくらい背が高い。ふわっとしたプラチナブロンドの髪に、深く澄んだ青い瞳。超エリート外科医のわりに、結構やんちゃで気さくな性格で、颯斗の親友というのも納得だ。『麗しい』と言ってもらえた私は、ベビーピンクのロングドレスを身に纏っていた。新婚同士のホームパーティーだから、ちょっと優雅に、長い髪も結い上げている。「レイさんも、相変わらず素敵です」私は、花束を左腕に寄せて、彼に握手を返す。レイさんに負けないシックなスーツに着替えた颯斗が、ダイニングに入ってきた。「また、レイは……」彼は、ニコニコしているレイさんの耳を、ギュッと引っ張る。「いて。いてて、ハヤト!」「メグの前だっていうのに、どうしていつもそう軽々しく、女性を褒めるんだ」やや呆れ顔で眉根を寄せる彼に、メグさんがクスクス笑う。「あら、ハヤト。私を気遣ってくれるの? ありがとう」「メグは慣れてるだろうし、気遣うってのとも違うんだけど」「ふふ。本音は、大事な奥
楽しいホームパーティーは、午後十時半まで続いた。レイさんとメグさんが送迎のハイヤーに乗るのを見送って、颯斗はシャワーを浴びにバスルームに向かった。私は、キッチンで片付けをした。食器洗浄機のボタンを押してから、手の甲で額を拭い、「ふうっ」と声に出して息を吐く。ワインでちょっとほろ酔い。脱力して、リビングのソファにドスッと腰を下ろす。クッションを抱きしめ、先ほどまでの楽しい時間を思い出しながら、ずっと気になっていたことをぼんやりと考えた。四人で食事をしたのは、日本にいた時が最初。その後、私たちが渡米してからも、何度か賑やかに食事を楽しむ機会はあった。記憶を手繰る限りでは、メグさんも結構お酒はいける口だったと思う。でも今日は、最初の乾杯のシャンパンも『今日はちょっと』と遠慮した。旦那様のレイさんも特に気にする様子はなかったから、なんとなく流してしまったけど。あれって、もしかしたら……。改めて深読みしかけた時、リビングのドアが開いて、寝巻き姿の颯斗が、髪をタオルで拭きながら入ってきた。「葉月、今日はお疲れ。夕食の準備、ありがとな」「っ! う、うん」弾かれたようにソファから背を起こすと、隣に腰かけた彼が、「ん?」と首を傾げる。「あの……颯斗」私はクッションを脇に置いて、お尻の位置をずらして彼に向き直った。「メグさん……」最後まで口にせず、言い淀む。だけど颯斗は、私がなにを匂わせたか合点した様子で、「ああ」と軽い相槌を打った。「メグ、昔からすごいザルなんだけど、今夜は一滴も飲まなかったな」「それって、やっぱり」「俺もなにも聞いてないけど……多分、そうだろうな」顎を撫で、思案顔で呟くのを聞いて、私は無意識にゴクッと唾を飲んだ。「だったら、こんな時にホームパーティーなんて、申し訳なかったかな」思わず独り言ちたのを、颯斗が聞き拾う。「酒は飲まなかったけど、食事は普通に取ってたし。つわりがほとんどない女性もいるし、葉月が気にすることじゃない。第一、酷かったら本人が断わるだろうから」淡々と医師の顔で言われて、私は口を噤んだ。黙って何度か頷き、そのまま俯く。隣で颯斗が、「ハネムーンベビーかな」とボソッと零した。「え?」反射的に聞き返すと、彼は唇に人差し指を当てて、目線を天井に上げていた。「勘繰るわけじゃないけど、なんとなく。レイって、そういうとこ外さない男だから」私にちょっと悪戯っぽい目を
その翌週、週末。颯斗が車を出してくれて、私たちは買い物に出かけた。フィラデルフィア最大のショッピングセンターは、我が家から車で三十分ほどの距離にある。ここは日本の食材も豊富だけど、車じゃないと来れないので、普段は家の近くのスーパーを利用する。だから、いつも颯斗が休みの時に来て、日本食中心に大量買いしている。昨夜、患者さんの容体が悪く、明け方近くに帰宅した彼は、ほんの少し眠そうだった。カートを押しながら、「ふわああ」と生欠伸を噛み殺している。私は醤油のビッグボトルをカートに乗せながら、目尻に涙を滲ませる彼をチラ見した。「たまの休みなのに、ごめんね」ひょこっと肩を竦めて謝ると、颯斗が瞬きを返してくる。「買い物。いつも付き合わせちゃって」「ああ」口に当てていた手をカートに戻しながら、クスッと笑った。「全然? 買い物デート、楽しいからいいよ」「でも。私が運転できれば、休日はもっと別のところに行けるのに」「アメリカは日本と比べて運転荒いし、危ないから。葉月は俺の助手席でいいよ。どこにでも、俺が連れて行ってやるから」彼の大きな手が、私の頭にポンと乗せられる。私は思わず、その手を捕まえた。きゅんとときめく胸の反応に、自分で照れる。「……うん。ありがとう」ほんの少し頬を染めて、はにかんだ笑顔を向ける。彼も、柔らかく微笑み返してくれた。
ついつい、あれもこれもと欲張ってしまい、カートいっぱいになった食品を一度精算して、駐車場の車に戻った。ワンボックスカーの後部座席に購入した品物を置いて、まだ足りない分を買いに、もう一度建物の中に引き返す。「葉月。後はなに?」颯斗が指を絡ませて手を繋ぎながら、訊ねてきた。私は、買い忘れ防止のためのメモを開く。「ええと……」大きな吹き抜けのホールを、大型スーパーに向かって突っ切ろうとした、その時。「わあああっ!」突如、階上のフロアから、複数の悲鳴が聞こえてきた。私も颯斗もハッと息をのみ、反射的に頭上を仰ぐ。繋いだままの彼の手に、ギュッと力がこもった。休日のショッピングセンターは、たくさんの外国人買い物客で混雑している。彼らも、私たちと同じように、不安げに顔を上げていた。頭上で、なにが起きているのか。息を潜めて窺う間にも、金切り声や叫び声が続く。上のフロアがより一層騒然とする様子が伝わってきて、周りでみんながざわめき始めた。なにか不穏な、よくない事が起きている。そんな空気に触れて、緊張が込み上げてくる。「は、颯斗……」私は、無意識に彼に身を寄せた。颯斗も険しい表情だけど、すぐに私の肩を抱き寄せてくれる。その次の瞬間、パンパンパン……!と、乾いた破裂音がショッピングセンターに響き渡った。「きゃああっ!」今度は、私の周りでもたくさんの悲鳴があがった。多くの人が、床に伏せる。銃声だ!と察し、私はとっさに頭を抱え込んだ。「っ……葉月っ!」身を竦めた私に、颯斗が覆い被さる。私は固く目を閉じ、床に這いつくばって、彼の下で身体を強張らせた。心臓が、怖いくらい速く強く、ドッドッと拍動している。悲鳴と怒声が、あちらこちらから反響してくる。どこから湧き上がっているものか、もう判断もできなかった。銃声がやむと、「葉月、こっちに……!」颯斗はサッと身を起こし、強く私の手を引いた。「は、はや……」「早くっ」思わぬ銃撃事件に遭遇して怯える私を、引き摺るようにして走り出す。隠れる場所を探して、エスカレーター下の狭いスペースに、駆け込んだ。そこには、アメリカ人の老夫婦が、不安そうに身を寄せ合っていた。彼らの会話を耳にして、颯斗が英語で割って入る。奥様の方が、興奮した様子で、かなり早口に応じた。私も、その会話に、必死に耳を澄ました。老夫婦は、たった今、二階から逃げてきたようだ。男が暴れて銃を撃ったと話すの
フィラデルフィアで起きた銃撃事件では、十人の負傷者が出たものの、亡くなった人はいなかった。この事件は、日本でも大きく報道されたようだ。翌日の夜、私の母の後、颯斗のお母さんから電話をもらった。『二人とも、無事なのね!?』開口一番で、そう問われる。「ご心配、おかけしました。事件に遭遇したものの、私も颯斗も擦り傷一つありません」恐縮して答えると、義母も『よかった』とホッと息をついた。義母につられて、私も昨日の恐怖を思い出した。今、無事であることに、安堵の吐息を漏らす。その時、「ただいまー」玄関のドアが開く音が聞こえた。仕事を終えて、颯斗が帰ってきたらしい。『それはそうと……。ねえ、葉月さん。この間、姪っ子に子供が生まれたのよ』義母の声から、ついつい意識が逸れてしまう。「葉月……ん? 電話?」リビングに入ってきた颯斗が、私が電話しているのに気付いて首を傾けた。私は軽く目配せをして、『お帰りなさい』を伝える。「誰?」電話の相手を気にする彼に、スマホを手で押さえ、『お義母さん』と口だけ動かして答える。それを見て、颯斗もひょいと肩を竦めた。『もしもし? もしもし? 葉月さん、聞いてる?』私の応答が疎かになったせいか、義母がちょっと低めた声で呼びかけてくる。私は、慌てて「はいっ」と背筋を伸ばした。「ええと……おめでとうございます」なにを言われていたっけ……?頭の中で会話のログを辿ってそう繕うと、深い溜め息が返ってきた。『そうじゃなくて。私も、早く孫の顔が見たいって言いたいのよ』呆れた調子で被せられ、私の胸がドキッと跳ねる。「えっ……あの……」「葉月?」思わず口ごもった私に気付き、颯斗が怪訝そうな目を向けている。『アメリカのニュースは、不安になることばかり。だから葉月さん、早く……』「もしも~し。母さん?」義母が話している途中で、私からスマホを取り上げた。ハッとして顔を上げると、彼は私のすぐ隣で、顎を引いてバチッとウィンクをする。「ああ、そのこと。心配、ありがとう。俺も葉月も無事だよ」義母にはそう返し、私には『あっち行ってろ』と言うように、ひらひらと手を振っている。ここは颯斗に任せて、キッチンにでも退散しておこう……。首を縮めて、リビングから出ようとすると。「え? 孫……?」彼が呟くのを聞いて、条件反射で振り返った。颯斗は私に背を向けて、ガシガシと頭を掻いている。「いや、そう言われて
語学学校も、週末に起きたショッピングセンターの銃撃事件の話題で持ちきりだった。この街に住んでいる生徒たちにとって、他人事ではない、極めて身近な事件だ。特に、銃に慣れていない日本人の怯えは色濃い。「ニュースで見たけど、現場で救護活動に協力した日本人医師って、あれ、葉月さんの旦那さんですか?」休み時間に、学君が私の席に近寄ってきた。「州立大学医学部の、Dr.各務って。そうですよね?」「えっ!? あ、ああ、うん……」こちらのニュースでは、颯斗のことも報道されたのは知ってたけど、まさかそれが私の旦那様だと気付く人がいるなんて、思ってなかった。ちょっと怯みながら返事をすると、私の隣に座っていた日本人女性、遠山恵美子(とおやま えみこ)さんが聞き拾ったようで、「え、仁科さん、あの事件の時、ショッピングセンターにいたの!?」と、ギョッとした声をあげる。遠山さんの旦那様は、フィラデルフィアにある日本企業に派遣されている社員だ。赴任してきたのはこの春で、必要に駆られて語学学校に通うようになった経緯も、わりと私と似ている。私より五つ年上の三十五歳で、四歳になる男のお子さんがいる。学君と同様に、この学校で、私がよく話す友人の一人だ。「怪我は!? って、なさそうね」返事を待たずに、私にサッと視線を下ろすだけで、確認できたようだ。ホッとしたように、胸を撫で下ろす。「怖かったねー。大丈夫?」心配してくれる彼女に、私は笑顔を返した。「怖かったけど、はや……夫が一緒だったので」素直に言ってしまってから、もしや惚気に聞こえたのでは、とハッとして口を噤む。学君には、まさにそう受け取られたようで、「夫、ねえ」と独り言ちるのが聞こえた。「まあ、無事でなにより。……でも、銃撃事件で救護活動なんて、旦那さん英雄じゃない!」遠山さんは、うんうんと頷いて同意してくれてから、いきなりテンションを変えて目をキラキラさせた。「英雄なんて……」誇らしいやら、気恥ずかしいやら。でも、あの場で私も『神の手』に見惚れたことを思い出し、思わず頬を赤くした。「そう言えば……私、前に一度見たことあるんだ。街中で、仁科さんが長身の超イケメンと歩いてるの」「えっ!?」腕組みをして話し出す遠山さんに、ギョッとして目を見開く。「あのイケメンが、英雄の旦那様なんでしょ?」「ど、どのイケメンかって聞きたいとこですけど、多分間違いなく彼です」あま
語学学校からの帰り道、颯斗から『今夜、オペに入る』と連絡があった。心移植手術が普及しているアメリカでは、その機会は突然、そしてわりと頻繁に舞い込む。准教授の彼には、大学の講義や医学セミナーの講師など、臨床から離れた仕事もあるけど、オペが組まれていないというのは、緊急時への対応がしやすいメリットに繋がる。今日は、オペはなかったはず。九十九パーセント、心移植手術だろう。彼が勤務する大学附属病院は、ここから車で十五分ほどの位置にある。そこで今夜、颯斗が心移植手術に臨む……。私は、一度だけ、日本で見学したことがある。一分一秒を争う、緊迫感に包まれたオペ室。キビキビとした迅速なやり取り。それぞれの術者が発する研ぎ澄まされた緊張感で、室内の空気はキンと音がしそうなほど、張り詰めていた。そんな中、颯斗は堂々と執刀医を務めた。彼の、美しく繊細に動く神の手。あれから一年以上経っても、私の目に焼きついたまま離れない。オペ室の中二階にある見学ルームから、その様を見つめていた私の鼓動は騒ぎ、胸が熱くなったのを思い出す。目を閉じ、あの時の彼を網膜に浮かべるだけで、今もなお、胸のドキドキは治まらない――。「ただいまー……」誰もいないとわかっているのに、声をかけながら家に入った。ポストから抜き取ってきた郵便物を手に、リビングのソファにドスッと腰を下ろす。今夜は一人だし、夕飯は適当でいい。なににしようかな、と考えながら郵便物を改め、私はギクッと手を震わせた。颯斗宛の英語の封書がほとんどの中、日本語の病院名が印刷された封筒。宛名は英語だけど、私宛。この間の人間ドッグの結果だ。私は、逸る気持ちを抑えて封を開けた。検査の結果と、封緘された白い封筒が出てくる。『Medical referral letter』。日本語で、『患者紹介状』――。問診を担当してくれた女性ドクターから、英文紹介状を書いてくれると聞いていた。これが同封されているからには、間違いない。アメリカで受診すべき所見があったということだ。私は、重い心拍を伴って騒ぎ出す胸に手を当て、検査結果に目を落とした。コンピューターで分析された確定診断は、検査後、口頭で受けた内容とほぼ変わらない。紹介状を手にした私は、焦燥感に駆られた。「妊娠しにくい体質……その疑いが、色濃いってことよね」独り言ちると同時に、私の手から検査結果の紙がひらりと落ちた。目の前が
颯斗が執刀した心移植手術は、十二時間に及んだ。翌、昼過ぎのニュースで、その成功が報じられた。なんとか聞き拾ったところによると、心臓だけじゃなく、肝臓、腎臓の移植も同時に行うという、なんとも難しい大手術だったそうだ。夕刻になって帰宅した颯斗も、さすがに疲れた顔をしていた。「お帰りなさい、お疲れ様」ちょっとやつれた彼から、コートと鞄を受け取りながら労う。「サンキュ」と笑った彼の目が、大きなテレビモニターに向けられた。「……なに見てんの」やや咎めるように降りてきた視線に、私はふふっと目を細める。「颯斗が緊急手術してると思ったら、また観てみたくなって」テレビに再生されているのは、DVDの映像。まだ日本にいた頃に撮影した、彼が出演している医療ドキュメンタリー番組だ。番組のプロデューサーが送ってくれた完パケを、私はこうして時々引っ張り出して、繰り返し観ている。「何度観ても、颯斗のオペシーンはいいね」私の言葉に、颯斗はやや呆れ顔。「よく言うよ。実際に撮影した時は、『生のオペは怖い』って、隅に隠れてたくせに」「う」鋭く尖った指摘の前で、言葉を詰まらせる私をクスッと笑うと、リモコンを取り上げてDVDを停止させた。「あ。なんで消しちゃうの」「テレビの俺、恥ずかしいから。やけに神聖に美化して編集されてて」照れ隠しなのか、素っ気なく言うけど、目の下がわずかに赤く染まっている。日本でもアメリカでも認められた超エリート心臓外科医なのに、偉ぶったところのない彼に、私は無意識に微笑んでいた。「なら、いいもん。颯斗がいない時、一人で観るし……」そう言いながら、テレビの方に歩いた。ブルーレイデッキを操作して、中からDVDを取り出す。大事にケースに収める私に、颯斗が「葉月」と呼びかけてきた。「ん?」床にペタンと座った格好で、振り返る。彼は少し乱れた髪を掻き上げ、一度私から目を逸らした後、思い切った様子で口を開いた。「メグ……やっぱりだって」「え?」簡潔すぎる言葉の意味がわからず、私は反射的に聞き返した。だけどすぐに思い当たり、ハッと息をのむ。「妊娠、三ヵ月。来年の春には生まれる」私の思考が働くのを見透かしたのか、颯斗が説明を続けた。私がどんな反応をしても見逃すまいというように、黒い澄んだ瞳を揺らすことなく見つめている。私は、ゴクリと唾を飲んだ。「そ、そっか」なんとか第一声を返したものの、何故だか喉に貼り
誕生日パーティーが始まって、三十分ほど経った時。「遅くなって、ごめん!」颯斗が、額に汗を滲ませて走ってきた。いち早く気付いたメリッサちゃんが、「Hayato dad!」嬉しそうに声を弾ませて、彼の方に駆けていく。「Wow! Sorry for being late, Melissa. Happy Birthday」飛びつかれた彼が、笑顔でお祝いを告げる。メリッサちゃんをひょいと抱き上げ、くるくると回旋する。彼女が、きゃっきゃっとはしゃぎ声をあげた。地面に下ろされると嬉しそうに戻ってきて、レイさんの膝の上に乗っかった。「Daddy. Hayato dad is always kind」ちょっと不満げに告げられ、レイさんが「はは」と苦笑した。「僕はもう若くないんでねえ。してやりたい気持ちはあっても、抱っこしてグルグルはとても……」「なに言ってんのよ。ハヤトと同い年でしょ」すぐさまメグさんに突っ込まれ、ひくっと頬を引き攣らせる。そんな二人を前に、私と颯斗は顔を見合わせ、クスッと笑った。「お疲れ様、颯斗」隣に座った彼のグラスに、シャンパンを傾ける。「サンキュ、葉月。……君も」颯斗は私のグラスが空になっているのを見留めて、私からボトルを受け取ろうとした。私は、「あ」と手で制する。「ありがとう、颯斗。でも、私はこっち」そう言って、レモンを浮かべたミネラルウォーターの瓶を手に取った。「……え?」颯斗が、きょとんとしている。彼を横目に、メグさんとレイさんがふふっと目を細めた。「おめでとう、ハヅキ、ハヤト!」「え? ……え?」いきなり二人から祝福され、颯斗は忙しなく瞬きを繰り返した。答えを求めるように、戸惑いに揺れる目を私の上で留める。「えっと……ごめんね、伝えるのが遅くなって」私は、恐縮して首を縮めた。本当は、乾杯の前に、みんなに伝えるつもりでいた。でも、颯斗が遅れてくることになって、シャンパンを断るために、メグさんたちに先に告白する羽目になってしまった。「実は……ここに、颯斗の赤ちゃん、いるの」私は頬を染めて、自分のお腹に両手を置いた。「昨日、わかったの。三ヵ月だって」ちょっと照れ臭くて、素っ気なく言ってしまった。だけど。「あの、颯斗……?」反応がないから心配になって、上目遣いで彼を窺った。颯斗は、目も口も大きく開けて、ポカンとしていたけれど……。「Congrats! Hayat
メリッサちゃんの二歳の誕生日。私は大きなクマのぬいぐるみを抱えて、レイさん夫妻の家を訪ねた。今日は朝から明るい太陽に恵まれて、ほんのちょっと暑いくらい。絶好のガーデンパーティー日和だ。門の外からチャイムを押すと、今日の主役が玄関のドアを開けて出迎えてくれた。「Hi! Haduki mom!」水色のワンピースで着飾ったメリッサちゃんが、転がるように駆けてきて、自ら門を開けてくれた。彼女は私を、『葉月ママ』と呼んでくれる。「Happy Birthday! Melissa」笑顔でお祝いを言ってプレゼントを渡すと、彼女はぬいぐるみの大きさに「Wow!」と目を見開いた。すぐに嬉しそうに顔を綻ばせ、「Welcome to my birthday party! Where is Hayato dad?」私の隣に颯斗がいないのを気にして、きょろきょろと辺りを見回している。私はクスッと笑ってしゃがみ込み、彼女の肩をポンと叩いた。「彼はお仕事でちょっと遅れるけど、ちゃんとメリッサのお祝いに来るから、大丈夫」そう説明した時、家の中からメグさんが出てきた。「ハヅキ、いらっしゃい! メリッサの誕生日パーティーに来てくれて、ありがとう」メリッサちゃんに目線を合わせるために屈んでいた私は、ゆっくりと背を起こした。「お招きありがとうございます、メグさん」彼女はふわっと微笑み、メリッサちゃんが抱えているぬいぐるみを見て、まったく同じ反応をする。「わあ、大きい……! いつもありがとう、ハヅキ。メリッサ、ちゃんと葉月ママにお礼は言った?」メグさんにそう言われて、メリッサちゃんはハッとしたように瞬きをする。「Thank you, Haduki mom!」慌てた様子でそう言うと、「Daddy!」屋内にいるレイさんを捜して、またしても転がるように走っていった。小さな背中を見送って、私たちは顔を見合わせてクスクス笑った。「お誕生日、おめでとうございます。ほんと、いつも元気で可愛い。メリッサちゃん」私の言葉に、メグさんはやや苦笑いで肩を竦めた。「元気すぎるのが、玉にキズ。この間も階段から転がって、額にたん瘤作ったのよ」「えっ! 大丈夫?」とっさに心配した私に、「見ての通り」と笑う。「ハヤトは?」そう問われて、今度は私がひょいと肩を竦めた。「昨夜、当直だったんです。仕事が残ってるから、まっすぐこちらに向かうって」「
義父母を空港まで見送って、家に帰ってきた途端――。「……っ、くしゅっ」私は、玄関先で小さなくしゃみをした。先にリビングに向かいかけた颯斗が、廊下の中ほどでピタリと足を止める。やけにゆっくり振り返り、じっとりとした目を向けてきた。「まさか……やっぱり風邪ひいた?」「ち、違っ……」慌てて否定したものの、颯斗はピクッと眉尻を上げて、ツカツカと私の方に歩いてくる。背を屈め、私の額に自分のそれをこつんとぶつけた。「あー……熱、出てる」至近距離から上目遣いに見つめられ、私の胸は小さく弾んで疼いてしまう。「ほ、ほんと? でも、昨夜のが原因じゃないでしょ、きっと」慌てて一歩飛び退いて、ぎこちなく笑ってみせた。「なんで言い切る」「だって、もしそうだったら、すぐに出てたんじゃ……」「葉月、親父たち見送るまで、気、張ってたから、不調に気付かなかっただけじゃないのか?」颯斗は渋い表情のまま、さらりと前髪を掻き上げた。「っつーか……俺も、気付かないとか、なんて迂闊な……」そのまま、生え際から前髪をくしゃっと握り、深い溜め息をつく。「なんで。颯斗のせいじゃないって。確かに飛行機飛ぶまで、気、詰めてたし。ほら、知恵熱みたいな……?」熱はあっても元気!を装うつもりで、私は無意味に二の腕に力瘤を作る仕草をして見せた。「子供か、君は。……でもまあ、ストレス性高体温症と言い換えれば、当たらずとも遠からず、か」「え? っと……?」思わず首を傾げて、聞き返す。颯斗は私には答えず、軽く身を屈めて、「よっ、と」軽い掛け声と同時に、私をひょいと抱え上げた。「っ、えっ!?」肩に担がれたことに気付き、私はギョッとしてジタバタと抵抗した。「ちょっ、颯斗っ! 私、自分で歩けるからっ……!」「暴れんな。昨夜も言っただろ? 肺炎でも起こしたらどうする」そう言われて、足をバタつかせるのだけは堪える。「そうそう。大人しくしてろ」「ほんとに……颯斗に言われるまで、自分でもわからなかったくらいの熱だよ? そんな大袈裟なもんじゃないから、きっと」「医者でもない葉月が、勝手に自己診断するな。俺が診るから」今朝、颯斗のことを、『神の権化のような医師』と羨望したばかりだ。その彼に、医師の顔で言われると、ぐうの音も出ない。「は、い……」結局私は、彼に担がれたまま、寝
次の滞在地、ボストンに向かう義父母を、颯斗が空港まで送ると言ってくれた。仕事を休むことをレイさんに伝えて電話を切った彼に、横から「大丈夫?」と訊ねる。「平気。オペもないし、浩太の経過も順調だし。泊まり込み続いた分、『ハヅキと仲良く過ごしてくれ』ってさ」颯斗は私の前で親指を立てて、バチッとウィンクをした。おどけた仕草にドキッとしたものの、私もすぐに笑って返す。先ほどまでの深刻な話題の会話の後で、いつもの空気感を取り戻そうとしてくれているのが、よくわかる。「うん……。ありがとう、颯斗」ちょっと気恥ずかしいのを堪えてお礼を言った時、出発の準備を終えた義父母が、ゲストルームから降りてきた。「葉月さん。いろいろお世話になりました」今朝方のやり取りもあってか、義母はちょっと照れ臭そうにはにかむ。それは私の方も同じで、妙にピンと背筋を伸ばして向き合った。「い、いえ。本当に、あの……」またしても謝罪が口を突いて出そうになって、一度口を噤んでのみ込む。「また、ぜひ遊びにいらしてください。その時は、今回振る舞えなかった手料理、ちゃんとご馳走したいです」そう言葉を返すと、義父母も嬉しそうに微笑んだ。「ありがとう。颯斗はあなたの手料理、いつもくどいくらい絶賛してくれるのよ」義母から悪戯っぽい目を向けられて、颯斗がムッと唇を結んだ。「くどいって……。心外だな。それに、そう何度も、母さんと電話で話した記憶ないぞ、俺」ブツブツと呟いて頭を掻く彼に、義父も面白そうに目を細めている。ここでも、親子三人の強く温かい絆を見た気がして、私は無意識に目元を綻ばせた。「さて。じゃあ、行こうか」義父が、義母を促す。「ええ。颯斗、悪いわね。送らせちゃって」「ああ」コートを羽織りながら玄関に向かって行く義母に、颯斗は軽く頷いて応えた。自分もコートを手に取り、ポケットから車のキーを取り出す。「あの……颯斗、よろしくね」帰りも私がお見送りをするつもりだったけど、彼に託して笑いかけた。颯斗はきょとんとした顔をして、「え?」と聞き返してくる。「あ。もしかして、風邪ひいた? 熱っぽい? 体調悪いとか」「え?」今度は私が瞬きで返した。「う、ううん。大丈夫」昨夜、冷たい雨に濡れた私を心配してくれる彼に、慌てて首を横に振ってみせる。「それなら、葉月も一緒に行こう」颯斗は訝し気に首を傾げながら、私の腕を取った。「え。でも」「ん?」「
ほとんど眠らずに夜を過ごした義父母には、出発までゲストルームで休んでもらい、私と颯斗はリビングのソファに並んで座った。彼が手にしているのは、日本とアメリカ、二つの病院でもらった、私の検査結果だ。肩に力を込め、ピンと背筋を伸ばす私の隣で、ブラウンのフレームの眼鏡の向こうから、真剣な目で数値を追っている。英語と日本語、両方の所見にも目を通し、やがて「ふうっ」と息を吐いた。「なるほど。プロラクチン……ね」天井を見上げ、ポツリと呟く。私は軽く座り直して、彼の方に身体を向けた。「あ、あのね。プロラクチン値が高いと、身体が疑似妊娠状態に近くなるんだって。えっと、たとえば……」いくら同じ医師でも、心臓外科医の彼に、産婦人科の領域はわからないだろう。そんな考えから、ドクターたちから聞いたことを、説明しようとする。ところが。「妊娠、出産の経験がない未産婦なのに、母乳が出たり、生理が止まったりする。他にも、乳房が張ったり……」ふむ、と顎を撫でる颯斗に、私は大きく目を剥いた。「な、なんで……」「知ってるのか、って? 甘いな、葉月」彼は、心外といった顔をして、胸の前で腕組みをした。「俺は心臓外科医だけど、他科を知らないわけじゃない。もちろん、産婦人科は専門外。でも、君よりはよっぽど詳しい。その気になれば、薬も処方できる程度の知識はあるよ」不遜なほどのドヤ顔で言って退ける彼に、呆気に取られる。「でも、おかしいな……俺が知る限り、葉月に乳汁分泌症状は見られないと思うけど」「えっ!? あ、うん。それは私も、胸を張って言い切れ……」「生理周期も、あまり一定しないようだけど、止まったことはないはず。まあ、乳房が張って固いことはあるか……でも、君はそこそこボリュームあるから、そのくらいで十分……」「って! な、なに言ってんのよ!?」診てもいないのに、私の身体状況を冷静に分析されて、カアッと頬が火照った。思わず腰を浮かせると、彼は私を上目遣いに見据えて、ほくろのある方の口角をにやりと上げる。「一緒に暮らしてる大事な人の身体状況くらい、結構ちゃんと把握できてるけど? 俺」「っ……」太々しく言われて、しゅーっと蒸気が噴射しそうなほど、顔が熱くなる。それでも、反論の挟みどころがなくて、結局ストンと腰を下ろした。そんな私を横目に、颯斗はクスッと笑う。「薬。なに飲んでるの?」続けて質問されて、私は彼に薬袋を渡した
翌朝、夜明けを待って、私たちは家に帰った。遥々日本から遊びに来てくれた義父母に、衝撃的な告白をした挙句、家を飛び出してしまうなんて……。人間としても嫁としても、最低なことをしてしまった。ガレージで車から降り、込み上げる緊張で顔を強張らせた私に、颯斗は苦笑した。「ほら、おいで。なにも、煮て焼かれるようなことはないから」ちょっと意地悪な揶揄にも、返す言葉はない。だって、そのくらいされて当然だ。私は、ますます悲壮感を漂わせる。颯斗は「やれやれ」と困った顔をして、私の手を取った。そして、もう片方の手でコツンと額を小突く。「俺の親なんだから。万が一怒られても、俺が一緒に頭下げるから」悪戯っぽく目を細める彼に、私もやっと、少しだけ表情を和らげた。「うん……。ありがとう、颯斗」指を絡ませて手を繋ぎ、ガレージを出た。中庭を横切り、家の玄関前に歩を進める。すると、庭に面したリビングの窓から、弱い明かりが漏れているのに気付いた。「あれ……」颯斗も、訝しげに瞬きをする。「もう起きてるのかな。やけに早いな」口に出して首を傾げると、玄関の鍵を開けた。私の手を引いたまま、廊下を突っ切る。そして、リビングにひょいと顔を覗かせ、やや遠慮がちに声をかけた。「ただいまー……」「颯斗、葉月さんっ……」私たちに気付いた義母がソファから立ち上がり、弾かれたようにこちらに駆けてきた。青白く硬い表情を前に、私は反射的に身を竦めた。義母から一拍遅れて、義父もソファに起き上がる。「二人とも、帰ってきたのか……?」眩しそうに目を細め、一瞬辺りを見渡すような仕草を見せる。どうやら、義父の方は、うたた寝から目覚めたといった様子だけど。「母さん。……もしかして、ずっと起きてたのか?」目の前に立った義母が、真っ赤な目をしているのを見て、颯斗が困惑して訊ねる。「大丈夫って言ったのに。休んでてって……」「そう言われても、休めるわけがないじゃない。息子夫婦の家で、二人とも不在なのに」義母にそう返されて、颯斗がグッと口ごもった。「……だよな。すみません……」気まずそうに口元に手を遣る彼から目を逸らし、義母は私の方に顔を向けた。さすがに、条件反射で身体が強張る。だけど、謝らなきゃいけないことがたくさんある。「あ、あのっ……」私は肩に力を込めて、思い切って口を開いた。「お義母さん。昨夜は……」「葉月さん、ごめんなさい。本当に、ごめんなさ
颯斗は、私を抱えて敷地内に停めた車に戻った。エンジンをかけると、すぐにエアコンを強める。そうして、スマホを手に取った。画面に目を落とし、指をスライドさせて電話をかける。「……俺。ああ、大丈夫。でも、今夜は帰れない。ごめん。こっちは気にしないで、ゆっくり休んで。葉月がゲストルーム用意してくれてるから」表情を動かさず、短い会話をして通話を終えた。電話の相手が誰か、私にもわかる。だからなにも言えないまま、彼のコートに包まって、助手席で身を縮めた。颯斗はスマホをスラックスのポケットにねじ込み、無言でアクセルを踏む。病院から走り出た車は、先ほどの宣言通り、家とは逆方向に進路を取った。十分ほど走った後、颯斗は、市内でも有数の大型ホテルの駐車場で車を停めた。簡単なやり取りで、チェックインを済ませる。高層階のダブルルームに入ると、彼は私の手を引いて、ベッドサイドに歩いていった。ここでもすぐにエアコンを強め、「服、脱ぐぞ。葉月」言うが早いか、私の服に手をかける。水を吸ってぐっしょり濡れて、肌に貼りつく服は、さすがに彼にも脱がしづらそうだ。協力も抵抗もせず、されるがままの私を下着姿にすると、自分も勢いよくニットを捲り上げて脱ぎ捨て、引き締まった上半身を露わにした。「葉月……」寒さで身を縮める私を、そっと抱き寄せる。彼の手が背中に回るのを感じて、私はビクッと肩を強張らせた。「ダメ。……抱かないで」俯いて呟くと、彼の指がぴくりと動いた。「嫌?」短い問いかけに、黙って首を横に振る。「颯斗が、冷えちゃう……」床に顔を伏せたまま答えると、頭上でクスッと笑う声が聞こえた。「大丈夫。俺も君も、すぐに熱くなる」そう言って、颯斗は躊躇うことなく、私のブラジャーのホックを外した。胸の締めつけが、一気に和らぐ。私は、こくっと唾を飲んだ。「うわ。氷、抱いてるみてえ……」颯斗は私を抱きしめると、わずかに悲鳴のような声をあげた。裸の肌が触れ合っても、なにも言わない私を覗き込み、眉根を寄せる。「唇……チアノーゼ出てる」温めようとしてくれたのか、迷いもなく唇を寄せた。軽く啄むキスをしながら、大きな手で私の胸を弄る。触られているのに、肌の感覚が鈍い。私は目を閉じて、彼に身を委ねるだけだった。「葉月……」颯斗の唇が、顎の先から首筋に落ちていく。鎖骨を越えて胸の膨らみに到達しても、反応を見せない私に、彼はやや寂し気な笑みを
頭の中は真っ白。目の前は、真っ暗。光のないブラックホールのような空から、大粒の雨が降りしきる。傘も持たず、コートも着ずに出てきてしまった。だけど、義父母に向ける顔がなくて戻れないまま、雨の街を彷徨い――。辿り着いたのは、颯斗の病院だった。クリスマスは過ぎたけど、外来棟前のイルミネーションはそのまま。ずぶ濡れで惨めな私を、寂しく照らし出してくれる。寒い……。無意識に暖を取ろうとして、二の腕を摩った。冷たい雨に濡れてかじかむ身体には、なんの効果もない。意思に関係なく、カタカタと小刻みに震える自分を抱きしめ、病棟を見上げた。颯斗……もう家に帰ってるかな。帰ったらきっと、義父母から話を聞くだろう。その時彼は、どんな顔をする……?驚愕して、凍りつく。辛そうに強張る瞬間を見なくて済むことが、今、せめてもの救いの気がして、ほんのちょっと胸が軽くなる。――ううん、違う。違う、こんな形じゃ……。ちゃんと、私から言わなきゃいけなかったのに。人づてに知るなんて、傷つけるに決まってる。妻の私が、一番しちゃいけないことだった。今、強く確信できるのに、言えなかった自分が情けない。歯痒くて、颯斗に申し訳なくて、消えてしまいたくなる。「ごめん……颯斗。ごめんなさい……」彼への謝罪は、まるでうわ言のように、何度も口を突いて出てくる。一言言うごとに、強い罪悪感が積もっていって、立っていられない。私は、その場に頽れた。土砂降りの雨が、容赦なく私の身を打つ。地面にペタンと座り込み、喉を仰け反らせて空を仰ぐ。すべての雨が、私目掛けて降り注いでいるような錯覚を覚える。天からも、責められているような気がした。「っ……」堪らず、嗚咽が漏れた。目から溢れる涙に、唯一の温もりを感じる。「ふっ……ううっ」涙は雨が隠してくれるけど、お腹の底からせり上がる声は、抑え切れない。地面に両手を突いてこうべを垂れ、肩を震わせた、その時。「葉月……っ!!」水溜りを踏む足音と共に、名を呼ぶ声が聞こえた。「葉月、ここに来てたのか……」条件反射でビクッと身を竦めてから、そろそろと顔を上げると、血相を変えてこちらに駆けてくる颯斗の姿が、視界に飛び込んできた。弾む息が、白い。彼は私の目の前に来てしゃがみ込むと、手にしていた傘を差しかけてくれた。私の耳を塞いでいた雨音が弱まる。「ずぶ濡れじゃないか。この時期に、そんな薄着で自殺行為だ。肺炎でも起
タクシーで移動する間も雨脚は強まり続け、家に着いた時には、本降りになっていた。門から玄関まで走る間に雨に打たれ、玄関先に立った義父母の髪も濡れてしまっている。「すぐに、タオル持ってきますね」私は急いでバスルームに向かった。タオルを二枚持って、玄関に引き返す。「ありがとう」と、早速濡れた髪や服を拭う二人を、リビングに招いた。ソファを勧めて、時間を確認する。午後六時。颯斗は、七時には帰って来れるはず。夕食は彼の帰りを待つから、今のうちにお風呂を勧めた方がいいかもしれない――。「あのっ。ちょっと早いですけど、お風呂用意しますね」バスルームに走り、浴槽にお湯を張って、新しいタオルを数組用意する。「よし」と、誰にともなく頷いて、私は再びリビングに戻った。ドア口から、声をかけようとして……。「葉月さん。子供を考える気、ないのかしら」義母の声が聞こえて、私はギクッとして足を止めた。「そんなことないだろう。勝手な憶測で、ものを言うんじゃないよ」義父が、溜め息混じりに窘めている。「でも」と、義母が反論を返した。「葉月さん、子供の話題になるとはぐらかすじゃない。電話でもそうよ。いつも」不満げな声に、私はその場で凍りついた。「颯斗は、銃撃事件に遭ったばかりだから、そっとしておいてくれって言うけど。原因はわかってるんだし、カウンセリングに通ったりするべきなんじゃ」「………」義父も、義母の口調に口を噤んだ。「ちゃんと説明してもらった方がいいかしら。いつになったら、考えるのかって」「説明って。それは……」「聞いておいた方が、こちらだって安心よ。颯斗の親として納得してないことも伝えられるし。それでもし、もしもよ。葉月さんが子供を望んでいないようなら……」「おい、やめないか。葉月さんが戻ってきたら……」まさに私を気にして、義父がふっと振り返った。ドアの前で立ち尽くす私に気付き、大きく息をのむ。「葉月さん……」「え?」義父の声で、義母もハッとしたようにこちらに顔を向けた。そして、『あ』と口に手を当てる。「葉月さん、今の話……」ぎこちない声が、尻すぼんでいく。私もその場から動けず、なんとも気まずい空気が過ぎった。義父母にきまり悪そうな顔をさせているのは私だから、嫁として居た堪れない。「お二人のご不満を察せず、申し訳ありませんでした」私は、自ら沈黙を破った。意を決して、二人の前まで歩いていく。「お義母さ