一瞬で顔が真っ赤になった。定義とかって言われても……次から次へと連続して押し寄せてくる私への褒め言葉に戸惑いが隠せない。「笑って。藍花ちゃんの笑顔は、僕の疲れた体に1番よく効くお薬みたいだから」七海先生……とびきりの優しい笑顔と共に放たれる甘いセリフにドキドキが止まらない。いったいどういう顔をして受け止めればいいのだろう。「さあ、行こう。お腹空いたな、何食べよっか」私達は駅の近くにある中華料理店に入り、そこでは他愛もない話をして楽しく食事をした。七海先生は聞き上手だし、話し上手。患者さんに人気がある理由が改めてわかった気がした。「すみません、ごちそうさまでした。とっても美味しかったです。本当にありがとうございました」「いえいえ。その代わり、またどこか行こうね。藍花ちゃんと一緒に大好物のエビチリとチャーハンを食べたら元気になれたよ。明日も……仕事頑張れる」「そ、そんな。また行こうなんて彼女さんに申し訳ないです」七海先生レベルなら、独身だけど、さすがに彼女はいるだろう。いないわけが……ないか。「彼女?そうだね。確かに2年前まではいたような気もするけどね。もう忘れたよ。君がうちの病院に入ってきた頃の話。それからはずっと1人でいる。全く寂しい男だよ」七海先生は苦笑いした。「彼女さん、どうしていないんですか?先生みたいに……その……イケメンさんなら女性がほおっておかないんじゃないですか?病院にも先生のファンはたくさんいますし」ミーハーのようでかなり失礼かとは思ったけれど、思わず聞いてしまった。うちの病院の七不思議の1つを――「ファン……ね。確かにこんな僕に好意を示してくれる人もいて有難いなって思うよ。でも……彼女を作るのは難しいね」
こんな僕……?七海先生みたいな素敵な人が、そんな言い方をすることに違和感を覚えた。まさか、七海先生、自分に自信がないのだろうか?「今日、先生と話してわかりました。私を気遣っていっぱい話をして下さって。すごく穏やかで優しい人なんだなって思いました。だから、皆さんが先生のことを信頼したり、素敵だなって思ったりするんだろうなって。……あっ、すみません、偉そうですよね」それに少し強引なところがあることも知った。人は、話してみないとわからないものだ。先入観だけで人を判断してはいけないと改めて感じた。「偉そうなんかじゃないよ。そんな風に言ってくれて素直に嬉しいよ。さっきも僕のことイケメンさんって言ってくれたしね。だけど、上手くいかないね。本当に想ってもらいたい人にはなかなか想ってもらえなくて……」たまに見せる七海先生の切なげな表情は、憂いを帯びていて、とても妖艶で胸を刺激する。「とにかく、また誘うね。今日は帰ろうか。駅まで送るよ」「あっ、はい。本当に今日はありがとうございました。美味しかったです」七海先生はわざわざ私を駅に送り届けてから、近くに止めてあった車で一人暮らしのマンションに帰っていった。今日の七海先生とのやり取りは、いったい何だったのだろうか?わけのわからない余韻を残した感情は、行き場を探しながら頭の中をぐるぐる回った。
今日はまた白川先生に注意された。中身は全然たいしたことじゃない。それほどキツく言われたわけでもないのに、勝手に落ち込んでしまってる。私だけが白川先生に睨まれてる気がして……最近、先生と話すのが少し憂鬱になっている。中川師長に相談しようかとも思っているけど、何だか言えないまま時間が過ぎていた。それに、先生は正しいことを言ってるだけで、私が強くなって成長すればいいだけの話。グジグジ悩んでいる自分がいけないんだ。だけど……苗字の呼び捨てはそろそろ止めてもらいたいし、色々考えると負のループに陥っている気がする。「邪魔」「えっ!あ、すみません」振り向くと白川先生がいた。驚いてすぐに横にズレたけど、こんな広い廊下で特に邪魔になっているとは思えなかった。「蓮見」「は、はい!」「お前、今日の夜の予定は?」「えっ、よ、予定……?」「無いんだな。わかった、じゃあ今夜付き合え」えっ、えっ!?私にはかなりヘビーな内容過ぎて、何を言ってるのか理解できなかった。「あの……私、予定が無いとか何も言ってません」「無いんだろ?」定期的に会ってくれる彼氏もいない上に、確かに今日は何も予定は無い。それでも、勝手に決めつけるなんて失礼な話だ。「な、無かったら何なんですか?」白川先生の言い方が気に入らなくて、つい反抗的な返事をしてしまった。「仕事が終わったら、フラワーショップの前で待ち合わせ。いいな。必ず来いよ」何を言われてるの?フラワーショップは、病院を出て数分行ったところにあるけど、そこで待ち合わせをするの?誰と誰が?頭がパニックになる。「あ、あの!ちょっ、ちょっと無理やり過ぎませんか?急にそんなこと言われても困ります」日頃の恨みだろうか。まだまだ新人の看護師が、白川先生にこんな言い方をするなんて。自分の発言に自分で驚いた。「黙って待ってろ。いいな」え、嘘、行っちゃった……白川先生の行動に呆気にとられて動けない。勝手に決めて、待ってろなんて、めちゃくちゃ強引過ぎる。まさか、私があまりにどんくさいからお説教されるのだろうか、それとも、もしかしてクビにされるとか!?
どうしよう……私はもっと看護師を続けたいし、誰かの役に立ちたい。しっかりしていないにしても、辞めさせられたらあまりにも悲しい。無理やり約束させられて、白川先生の意図がわからなくて困惑する。とにかく――今は何も考えないようにするしかない。モヤモヤはするけれど、きちんと仕事をしなければ。私は、気持ちを切り替え、仕事に戻った。***言われた通りフラワーショップに向かいながら思った。今日は外来がかなり混んでいたから、白川先生の方が遅いはず。きっと疲れているだろう。イライラしていないか心配になる。いったい今日は何を言われるんだろうか。考えていると自然に足取りが重くなる。「あ……」目の前にはフラワーショップ。もう着いてしまった、先生はまだ来ていない。少しホッとしている自分がいて、変な気分だ。確かに、本来なら、何を言われるのかもわからないのに、こんなにも不安になる必要はない。必要はないのだけど……白川先生は、本当にカッコ良い。認めざるを得ないくらいの「超イケメン」だと思う。だけど、私の中ではあの意地悪な感じのせいで全部台無しになっている。白川先生も、七海先生みたいに優しかったら……きっともっと素敵な男性だと思えるのに。「藍花!!」その時、誰かが私の名前を呼んだ。藍花……って、この声、いつも聞いてる……って、嘘!!「し、白川先生!」どうして先生が私の名前を?いつもは「蓮見」としか呼ばないのに。いったい何が起こってるの?「待たせたな、悪かった」「え……」白川先生が、私を名前で呼んだ上に謝っている。こんな展開、予想もしていなかった。この人は、本当にあの白川先生なのか?いつもとの違いに大いに違和感を感じた。「藍花、どうした?そんな顔して」「あっ、えと、すみません。……ちょっと驚いてしまって」つい本当のことを口走ってしまった。「なぜ驚く?」「な、なぜって……」
答えに困っていると、「まあいい、歩くぞ」白川先生は、そう言って黙って歩きだした。とても横には並べなくて、私は少し下がって着いていった。ん……?先生の歩幅、いつもと違う……病院ではかなり足早に歩く先生に、私は小走りで着いていくのが必死だ。なのに、今日は私に合わせてくれてるのだろうか。そんなこと、あるはずないとは思うけれど。「ここでテイクアウトしよう」「……ハンバーガーですか?」「ハンバーガーは嫌いか?」「い、いえ、好きです。でも、テイクアウトしてどこかで食べるんですか?」「ああ。いいところがある」テイクアウトしたハンバーガーを、白川先生と一緒に食べるなんて信じられない。何が起こっているのか、理解に苦しむ。私達はハンバーガーを買って、また歩きだした。目的地がどこなのかはわからない。ただ2人の地面を踏む音だけが、夜の静けさの中に響いている。「ここ」先生が足を止めたのは、病院から歩いて7分くらいの場所だった。目の前に流れる浅めの川。その両側が川原になっていて、土手を降りて、広いスペースに置かれたベンチに腰掛けた。3人がけのベンチの真ん中にはドリンクが2個。見上げると夜空に綺麗な月が浮かび、それが川面に写って何とも幻想的な雰囲気をかもし出している。時折、秋の風が優しく頬をかすめ、体に当たる澄んだ空気がとても心地良かった。遠くの方に目をやると、大きな陸橋をライトを付けた車が行き交っているのが見えた。「寒くないか?」「はい、大丈夫です。すごく気持ちの良い夜ですね」「ああ、そうだな」高い位置に光る星がこんな綺麗に見える場所……今まで知らなかったのが残念だ。白川先生は、いつからこの場所を知っているのだろう?「はい、これ」私は、袋からハンバーガーを取り出して渡してくれた先生に、「ありがとうございます」と言って頭を下げた。まだ少し温かい。「すみません。ご馳走になります」「ハンバーガーで悪いな」「いえいえ、嬉しいです」先生、また謝った……今日の先生は、本当に別人なのかも知れない。もしかして双子だったりして、入れ替わって私を騙してるのかも……なんて、思わずバカな想像をしてしまう。
「いただきます。あの……先生、ちょっといいですか?」食べる前にどうしても聞きたくなった。「何?」「私、今から外科医の白川先生と2人でハンバーガーを食べるんですよね。なんかこの組み合わせがどうもよくわからなくて。なぜ、私はここにいるのでしょうか?」「……内科医なら良かったか?」「え?えっと……その……」真面目な顔をして困ってたら、白川先生は突然私の目の前に顔を近づけた。「真剣に考えるな。笑え」この距離感に、思わずハンバーガーを落としてしまいそうになった。今、すぐ目の前にある白川先生の笑顔。月の光にほんのりと照らされて、一つ一つの顔のパーツがはっきりと私の視界に入り込んできた。ほんの数秒でギブアップ――あまりの美しさに直視することができない。私はサッと正面を向き、冷静を装うためにハンバーガーを口にした。小刻みに震える手。緊張で飲み込みにくいことを悟られないように、ドリンクで必死に流し込んだ。「ど、どうして私に声をかけてくれたんですか?今日ここに来た理由は……?」念を押すように、また質問した。確かに嫌な答えなら聞きたくない気もするけれど、早く答えを聞きたい気もした。「理由……か」「は、はい。私、今日誘われてからずっと思ってました。白川先生に……怒られるのかなって。だからすごく緊張してて」「なぜ?俺がどうして怒る?」「え?どうしてって……あの、私、いつも先生に注意されてばかりなので……。もちろん、私が仕事ができないのが悪いんですけど」「……藍花は俺に怒られたいの?」「そ、そんなわけないです!怒られたいなんて思ってません。思ってるわけないです。それに、私のことを藍花って呼ぶのも変ですよ。いつも病院では「蓮見」って呼ぶのに」「お前は「蓮見 藍花」だろ?だったら蓮見でも藍花でも同じだ」その理屈、かなり変――同じじゃない、全然。
「先生は他の看護師には「さん付け」なのに、私だけ「蓮見」って呼び捨てにするの、ちょっと……嫌でした。怖い感じがして、嫌われてるような気もして。それに、いきなり藍花って呼ばれるのもやっぱり……何だか変です」ずっと心でモヤモヤしていたことをようやく口に出せた。「名前で呼ぶのは歩夢も一緒だ」「それは歩夢君が男子だからいいですけど……」白川先生は少し黙ってしまった。もしかして怒らせてしまったのか?この空気に耐えられないと思い始めたその時、白川先生は空を見上げながら言った。「蓮見も、藍花も……どちらもとても美しい名前だ。だから、つい呼び捨てしたくなる」「えっ……」「藍花……って呼ばれるの、そんなに嫌か?俺は……お前を藍花って呼びたい」私の耳元まで近づいて甘く囁いたその声が、あまりにセクシーで艶っぽくて、私は腰が砕けそうになった。何なのか、この展開は?かろうじてベンチから滑り落ちないように耐えたけれど、今、私の体は急激に熱くなっている。心臓も激しく動き出し、何だかよくわからない状況に動揺が隠せなかった。自分に何が起こっているのか、まるで理解できない。七海先生に感じた妖艶さ、それとはまた違う白川先生の色気――どちらからも、大人の男性として申し分ない魅力を感じるけれど、やはりタイプは全然違う。当然、同じわけない。正直、今の今まで白川先生のこんな一面を見たことがなかった。全く知らなかった男としての部分を発見し、すごく不思議で複雑な感じがした。そうか……白川先生のファンは、みんなとっくに気づいてたのだろう。この、何とも言えない先生の魅力に。いつもすぐ近くにいたのに、私が先生のことを怖がり過ぎて気づかなかっただけなんだ。好きとか嫌いとか、よくわからない。まだ苦手意識だって全然消えないけれど……それでもたぶん、今までよりは白川先生に怯えなくて済むような気がして、少しホッとした。「あ、ありがとうございます。名前を褒めてもらえて嬉しいです。両親も喜びます」何を言ってるんだろか、動揺し過ぎだ。気の利いたことを言えない自分が情けなくなる。白川先生に呆れられたかも知れない。
「あっ、そんなことより白川先生もハンバーガー食べて下さい。冷めてしまいますから」「その白川先生っていうのやめてくれないか」「えっ?」「俺には「蒼真」という名前がある。白川より蒼真の方が好きなんだ。だから蒼真でいい」「そ、そ、そんなこと!よ、呼べるわけないじゃないですか、突然何を言い出すんですかっ」白川先生を「蒼真」と呼ぶなんて、あまりに恐れ多くて、思わず大声を出してしまった。「別に普通だろ。俺は「藍花」って呼ぶ。だからお前は俺を「蒼真」って呼ぶ。ただそれだけのことだ」「それだけって……。でも他の看護師はみんな白川先生って呼んでますよね」もしかして私が知らないだけで、プライベートではみんな蒼真って呼んでるのだろうか?「俺が呼び捨てにするのは藍花だけだ。だからお前も必ず蒼真と呼ぶこと。2人きりの時だけでいい。それくらいできるだろ?」「先生、ちょっと強引過ぎませんか?私、白川先生の家族でも彼女でもないんですよ。だいたい私なんかに『蒼真』なんて呼ばれて嬉しいわけないですよね?何か魂胆があるんですか?」少し激しめの口調で言ったら、なぜか先生はニヤリと笑った。「やっと言った。それでいい。これから先、俺のことは必ず蒼真と呼ぶんだ。嫌だとは言わせない」「えっ、で、でも……」「これは業務命令だから取り消せない」「ぎょ、業務命令!?そんな……。先生、意地悪です」「そうか?なら、もっと意地悪しようか?」「そ、それは嫌です!」「だろ?なら素直に呼べばいい」白川先生は、平然とハンバーガーを食べ始めた。私はこんなにもドキドキしてるというのに――このやり取りの本当の意味を、私は怖くて聞けなかった。ただ先生にからかわれているだけなのか?冷静に考えれば、白川先生にはちゃんとした彼女がいるかも知れない。こんなイケメン先生が、私に好意を持っているはずがないし、あんなに注意ばかりされていた私を女性として相手にするわけがない。やはり……これは意地悪なのか?でも、逆らえばどうなるかわからない。これからは嫌でも「蒼真」と呼ぶしかないのだろうか。
嬉しいとはいえ、この心臓が飛び出しそうなシチュエーションは、そろそろ限界に近い気がする。月那は、「美味しいご飯、美味しいお酒、ベランダから星を見たりなんかして……。あ~もうその後は『私、どうなってもいい!』ってなるんだよ、絶対に」なんて楽しそうに言っていた。本当に人ごとだと思って……私達はベランダになんか出ない。だから、何も起こらない。きっと……起こるわけがない。蒼真さんはこんなに落ち着いているのに、私だけが内心あたふたしているのがすごく恥ずかしい。「カレー、本当に美味しかった。ありがとう」「いえ……。こちらこそたくさん食べてもらえて嬉しかったです」「美味しいものでお腹が満たされると、人は幸せな気持ちになれるな」「そうですね……」蒼真さんがとても穏やかに言ってくれた言葉が、何だかくすぐったく感じる。美味しい……と、何度も言われると心から作って良かったと思えてくる。2人の時のこの優しさが、病院でもずっと続けばいいのに……とつい願ってしまった。子どもの頃のこと、好きな食べ物、影響を受けたテレビのこと、プライベートな内容を惜しげもなくたくさん話してくれる蒼真さん。話せば話すほど興味が湧き、もっと色々聞いてみたいと思った。まるで患者さんと話すみたいに……いや、それ以上にリラックスしている蒼真さんに、私も次第に心を開いていった。「白川先生」と、こんなにも自然体で会話ができる日がくるなんて、少し前までは思いもしなかった。私達は、時間を忘れてお互いのことを話した。「藍花、足はもう大丈夫か?」「あ、はい。もう大丈夫です。本当にありがとうございました。蒼真さんにすぐに手当してもらったおかげです」「見せて」先生はソファから降りて、私の足の前にしゃがみこんで傷口辺りに手を伸ばした。「本当にもう治ってますから」私は、思わずロングスカートの中に足を引っ込めて隠した。「ダメだ。ちゃんと見せて」蒼真さんは私の足を優しく掴んで、スカートの裾から外に出した。そして、靴下をゆっくりと脱がせた。やっと緊張が少しずつ溶けてきたのに、こんなことをされたらまた……
蒼真さんは、食べる姿もとても美しい。上品というのか、育ちの良さが全てから溢れ出ている。改めて思う、蒼真さんは、やはりとんでもなく上流階級の人間なんだ――と。ごく普通の生き方をしてきた私とは全く違う。お抱えのシェフがいるくらい豪華な食事をして、立派なお屋敷に住んで……きっと、お手伝いさんや執事、ばあやさんとか、たくさんの人に守られてきたんだろう。ホワイトリバー不動産の御曹司として、大変なこともあったかも知れないけれど、でも、蒼真さんは紛れもなく本物のセレブなんだ。セレブ中のセレブ――そんな世界に生きてきた人が、私の手作りカレーを食べて美味しいと言ってくれた。もはや、これは奇跡という以外にない。「おかわり」お皿を差し出す蒼真さん。「あ、はい。量はどれくらい……」「さっきと同じでいい」「はい」私は、またご飯の上にルーをかけた。このやり取り……何だか夫婦みたいだ。昔、両親がよくやっていた。「おかわり!」と言う父に、母が「はいはい」と。私は、温かな子どもの頃の食卓の光景を思い出した。「早くして」「あ、すみません!」勝手な妄想に時が止まっていたのかも知れない。それに、きっとニタニタとニヤけていただろう。「お待たせしました」「ありがとう」私達は、2人で向かい合ってカレーを食べた。緊張しながらの食事だったけれど、一緒に食べることができて何だか嬉しかった。そして、食事が終わってから、リビングの大きめのソファに移動し、座るように促された。私は、長いソファの端の方に、蒼真さんとは少し距離を取って座った。たった2人だけの空間――静かな部屋で蒼真さんと話をするのはすごくドキドキする。リラックス、リラックス……そうやってさっきからずっと自分に言い聞かせてはいるけれど、なかなかこの状況を受け入れられない。
蒼真さんが出してくれたカレー用の白いお皿。私は、できたてのルーをご飯にかけてテーブルに運んだ。見た目や匂いは良いけれど、肝心の味は気に入ってもらえるだろうか?「熱いですよ。気をつけて下さいね」「ああ。いただきます」「はい、どうぞ……」緊張の瞬間。「……」蒼真さんは、1口食べても何も言わない。美味しくなかったのか、心配になる。「あの……お口に合いませんでしたか?」「美味しい……」ぽつりとつぶやく蒼真さん。「ほ、本当ですか?美味しいですか?」「……これ、本当に藍花が作ったのか?」その疑いの目は何なのか?「もちろんです。私が作ってるところを見てましたよね?」「見ていたけど、これ、俺がずっと食べてきたカレーとは全然違う。病院のカレーとも違う……」正直、病院のカレーよりは自信があるけれど、蒼真さんが今まで食べてきたカレーとはレベルが違うのは仕方ないことだ。「あの、蒼真さんは今までいったいどんなカレーを食べてきたんですか?」「どんなって……家にはフランスで修行してたシェフがいた」「フ、フランス?!い、一流のシェフじゃないですか!そんなカレーと私が作ったカレーを比べないで下さい!」美味しいなんてやはりお世辞だったんだ。一瞬でも喜んだ自分が恥ずかしくなる。「子どもの時から当たり前のようにシェフがいて、ずいぶんお世話になった。今も実家にいてくれる。彼らの作るカレーももちろん美味しかった。でも、何だろうか。この味は今まで食べた中で1番美味しく感じる……」「えっ……」「どうしてだろう」「ちょっと待って下さい。1番なんてお世辞ですよね?これ、カレールーを入れてちょっと隠し味とかで煮込んだだけですから」「お世辞は嫌いだ。本当に美味しいと思うから言ってる」「で、でも……」「そうか……。きっと、誰が作るのかも重要なんだろうな。このカレーが美味しいのは、藍花が一生懸命作ってくれたからなんだ……」キュン――胸が鳴る音が聞こえる。フランスで修行したシェフよりも、私が作ったカレーを褒めてくれたことに驚きを隠せない。蒼真さんは、私が作るごく平凡なカレーを目の前で美味しそうに食べてくれている。まるでテレビのコマーシャルかと思うくらいだ。
ルーを入れて煮込むと、とたんに良い香りが部屋に充満した。その時、蒼真さんがスっと立ち上がり、私の横に来てお鍋を覗き込んだ。「あ、あの、まだですよ」「いい匂いがしたから」蒼真さんがすぐ隣にいる。身長差、ちょうど20cm。腕が私の肩に触れて、自然に胸が高鳴る。この人は、本当にいつも病院にいる白川先生なのだろうか?と、さっきから何度も思ってしまう。病院にいる時の冷静で淡々とした先生から考えると、今は全くの別人で、醸し出す空気感がまるで違う。もちろんオフなのだから当たり前ではある、それでもやはり、この環境になかなか慣れることはできない。「そ、蒼真さん、本当に中辛で良かったんですか?辛口が好みなら少し甘く感じるかも知れませんよ」私はサッと顔を見上げた。「ああ。中辛でいいんだ」この至近距離で目が合うことの恥ずかしさは、もはや言葉では表現できない。アッシュグレーの前髪がハラっと下がり、目、鼻、口、全てのパーツが私の視界に収まった。こんなのダメだ、近過ぎる――ドキドキがマックスにまで到達し、私は危険回避のため急いで視線を外してカレーをかき混ぜた。今の私は、きっとロボットみたいにガチガチで、関節が上手く動かせず、ぎこちない動きになっているだろう。「も、もう少し煮込みますからね。向こうで待っててもらえますか?」「ここにいたらダメ?」「だ、だ、ダメです!ダメですよ!早く戻って待っててくださいね」額から汗がひとすじ流れる。私は、何事も無かったかのように、ただ鍋だけを一点に見つめ、これでもかというくらいカレーをかき混ぜ続けた。その手はかすかに震えている。「そんな真剣な顔して、鍋に穴が開きそうだな」「えっ……」今のは……冗談なのか?あたふたし過ぎて、何が起こってるのか理解できない。「……向こうで仕事してるから」「は、はい、そうしてください。すみません」蒼真さんは再び椅子に座ってパソコンを使いだした。ホッとして胸を撫で下ろす。そして……長かったカレー作りがようやく終わりの時を迎えた。いつもの100倍の気力と体力を使った気がする。
目線を外し、お互いぎこちなく体を離す。だけれど、なぜかほんの少し、心の距離は縮まった気がした。それから、私達は1杯だけお茶を飲んで、私はキッチンを借りたいと蒼真さんに言った。「お腹空いた。早く食べたい」そうねだる蒼真さんはまるで子どもみたいだった。普段とのギャップに心がくすぐられる。「キ、キッチンも綺麗ですね。こんなキッチンで料理できるなんて嬉しいです」本当に、全く使っていないのかと思うほどピカピカだ。憧れのアイランドキッチン。どこを見ても「素敵」としか言いようがなかった。「カレーで良かったんですよね」「ああ。手作りのカレーは久しぶりだから。どうしても食べたくてリクエストした」「わかりました。でも……あんまり上手じゃないですよ。期待はしないでくださいね」「食べられれば何でもいい」何でもいい……それなら私じゃなくてもいいのではないか?どうして私を呼んだのか……全てが未だ謎のまま。とにかく、いつものようにリラックスして……いや、無理やり気持ちを落ち着かせ、私はカレーを作り始めた。手伝うと言ってくれたけれど、近くにいられると心拍数が異常に上がってしまうので、蒼真さんには仕事をしてもらうことにした。テーブルの上にあったパソコンを開いて作業を始めた蒼真さんを見て少しホッとする。それにしても、ただ椅子に座っているだけなのに、どこからどう見ても絵になってしまう。蒼真さんがいる場所が、一瞬でパリのオシャレなカフェのように見えてしまうから不思議だ。カレーを作りながら、ついチラチラと盗み見をしてしまう。パソコンを打つスピードがなんとも早く、ブラインドタッチ選手権があるならば、間違いなく優勝だろう。見た目だけではないこの人の才能は、いったいどこまで広がるのだろうか?最近、蒼真さんがナースステーションの前で困っていた外国人の患者さんと、ペラペラ英語で喋っていたのを目撃し、あの時は看護師のみんながその姿に見とれてしまった。もちろん、私も……英語が話せる人が好きなだけに、思わず「カッコいい」とつぶやいてしまい、中川師長に「心の声が漏れてるよ」と突っ込まれたのを思い出す。蒼真さんが仕事をしている今の間なら、何とか緊張しないでカレーを作れそうだ。集中しよう――息を整え、野菜を刻み、炒め、煮込んだ。「その調子」、私は、自分で自分を応援した
「……おじい様とおばあ様が?」「ああ。俺が学生の頃、祖父母がここに住んでいる時にたまに遊びに来てたんだ。2人には特に可愛がってもらってたから、医者になるって決めた時も誰よりも喜んでくれた」「そうだったんですか……素敵なお話しですね」おじい様とおばあ様の話をする時の蒼真さんは、こんな穏やかな表情をするんだ……と、何だか心がポッと温かくなった。祖父母を大事にしようとする気持ちがすごく優しくて、今も、蒼真さんの中に閉まってあった大切な記憶が蘇ってきたんだろう。「外科医になってすぐに祖父が亡くなって、祖母はうちの実家に住むことになった。ここには祖父との思い出がたくさんあるし、病院からも近いから蒼真に住んでほしいって、祖母が言ってくれたんだ。だから、有難く住まわせてもらってる。本当に、2人にはずっと感謝してる」「蒼真さんは、ご家族のみんなに大事にされてるんですね。私も……自分の家族に会いたくなりました」「ご家族にはたまに会ってるのか?」「連絡はしてます。でもなかなか会うとなると……」「たまにはちゃんと顔を見せに帰った方がいい。家族は大切にするんだ」自分のことだけではなく、私の家族のことまで気にしてくれる蒼真さんは、やはりすごく優しくて良い人なのかも知れない。「はい、そうします。でも、応援して下さっていたおじい様が亡くなられたのはつらかったですね……」「ああ。1番の理解者だったからな。優しい人だった。昔は小さな僕を膝に乗せてよく絵本を読んでくれた。外科医になれた時には、もう病気で治しようもなかったけど、それでもすごく喜んでくれた。もう少し早く医師になれてたら、絶対に死なせなかったのに……それだけが悔やまれる」蒼真さんは唇を噛み締めた。「幸せだったと思います。膝に乗せてたお孫さんが、立派な外科医になって……。嬉しくてたまらなかったと思います」不思議だ……なぜだか涙が溢れてくる。「そうだといいな」蒼真さんは、私の頭に手を置いて、見つめながらそう言ってくれた。その笑みに胸を掴まれる。涙を見られ、恥ずかしさもあるけれど、蒼真さんの心が知れた気がして嬉しくなった。まさか自分が「あの白川先生」にこんな風にしてもらえるなんて想像もできなかったのに……今のこの状況は、私には奇跡にも近い出来事だった。
「どうぞ、中に入って」「はいっ、お、お邪魔します」「ああ」まだ全然落ち着かない。早くこの状況に慣れたいのに……それにしても、このワンフロア、全てが蒼真さんの部屋なのか?だとしたら相当すごい。私は、まず広いポーチで靴を脱ぎ揃え、恐る恐る中に入った。まるで未知のジャングルにでも踏み込むかのような緊張感に、帰るまで心臓がもつか心配になった。まだスタートラインに立ったばかりだというのに――用意してあったスリッパを履き、廊下の奧まで進み、ドアを開けると、目の前に広々とした明るいリビングが現れた。「素敵……」そこは、洗練された家具が置かれている、清潔感溢れるオシャレな空間になっていた。アロマディフューザーから良い香りがしている。本当にここは男性の部屋なのだろうか?疑いたくなるくらい綺麗に片付けられていて、蒼真さんの几帳面さが伺えた。「あの、この階は1部屋しかないんですか?」何を話せばいいか迷ったあげく、つい気になることをズバリ聞いてしまった。「ああ」「すごいですね……。広くてびっくりしました」「このマンションはホワイトリバーの不動産だから」「えっ、そうなんですか?こんな素敵なマンションがご実家の持ち物なんてさすがですね」「この部屋の家賃を取るとしたら結構高いだろうな。外科医の給料では全然足りない」外科医のお給料がどれくらいなのか全く想像ができないけれど、蒼真さんはまだ3年目だから……「そうなんですね。でも、お医者さんのお給料でも全然足りないなら、私なんてこんな素敵なお部屋には一生住めないですね」笑いながら言ってはみたけれど、紛れもない現実に、少し残念な気持ちになる。「そうか?そんなこと、わからないだろ」「わ、わかりますよ。普通の看護師がこんな立派なマンションに住めるわけないです。蒼真さんと私は生きる世界が違いますから」少しムキになってしまったせいか、蒼真さんは少し黙ってしまった。「……人生なんて、数秒先のことは何もわからない」ぽつりとつぶやいた言葉と、真っ直ぐに見つめるその潤んだ瞳にドキッとした。「蒼真さん……?」「ここは、元々祖父と祖母が暮らしてた場所なんだ」
ついにここまで来た。蒼真さんが一人暮らしをしているマンションに――かなり有名な建築家の設計らしく、きっと家賃も高いに違いない。こんな素敵で立派なマンションに、私なんかが足を踏み入れてもいいのだろうか。場違い感が半端ない。私は、フゥーっと大きな息を吐き、意を決して1階ロビーで蒼真さんの部屋の番号を押した。「はい」「あの……は、蓮見です」「上がって来て」「は、はい」オートロックが解除され、目の前の自動ドアが開く。そこを通り、奥のエレベーターで最上階へ。降りるとそこには部屋がひとつしかなく、蒼真さんが待っていてくれた。壁にもたれ、腕組みをしながら――「こ、こんにちは」かっこよ過ぎる……我が目をうたがいたくなる程に美しく、その立ち姿にため息が漏れる。白いシャツとブラックジーンズ。足の長さに改めて驚き、もはや人気雑誌のオシャレなモデルにしか見えない。ここは本当に「白川先生」の部屋なのか?私はどこか違う世界にでも迷い込んだのではないだろうか?「よく来たな、待ってた」体勢を変え、こちらに近寄ってくる蒼真さん。その圧倒的な存在感に思わず2、3歩後ずさる。「あっ、あの、本当に来て良かったんですか?こんな立派なマンションに私なんかが……」「もちろんだ。来てほしくなかったら絶対に呼ばない」「……あ、ありがとうございます」蒼真さんの甘いセリフに戸惑い過ぎて「ありがとうございます」なんて、意味不明なことを言ってしまった。月那にいろいろ言われ過ぎて、昨日からずっとドキドキが止まらない。会ってすぐの蒼真さんの一つ一つの言動に、すでに心が大きく揺れてしまう。きっと今の私は、かなり挙動不審に見えるだろう。「あの、言われたように買ってきました」私は、今夜の食事の材料をすぐ近くのスーパーで揃えた。高級志向のスーパーではあったけれど、蒼真さんに恥ずかしくないものをと、時間をかけて丁寧に選んだ。「悪かったな。ありがとう」蒼真さんは、そう言って大きめのマイバッグをサッと持ってくれた。こういうところがすごくジェントルマンだと思う。
見つめあう2人がとっても素敵で……ただでさえ美人の月那が、今までで1番綺麗で可愛く見えた。「笹本さん、月那のこと絶対に幸せにして下さいね。もし泣かしたらこのマッサージ店に二度と来ませんからね」「うわっ、上得意様に来てもらえなくなったら困るしな。わかりました、月那のことは絶対に泣かしません!」「って、私が太一を泣かすかもだけどね~」「そうなんだよ~。月那は怖いから、俺が泣かされるかもなぁ。でも、その時は藍花ちゃんに助けてもらお」楽しく軽快なやり取りの2人を見ていたら、こっちまで幸せな気持ちになる。本当にお似合いのカップルだ。「俺達、絶対に幸せになるからさ。だから藍花ちゃんも必ず幸せになってくれよな。月那の大切な人が不幸になるのは嫌だからさ」筋肉いっぱいの笹本さんからの優しい言葉。そのギャップがちょっと可愛く見える。「ありがとうございます」「月那からちょっと聞いてるけど、今、藍花ちゃん、めちゃくちゃモテモテらしいね」「えっ、モテモテなんて、そんなことないです」月那がどんな風に私の恋愛話をしているのかわからないけれど、この言葉はかなり恥ずかしい。「絶対に良い男を捕まえるんだよ。藍花ちゃんみたいな良い女が妥協したらもったいないし、本当にこいつ!って思えるやつが現れるまでゆっくり待った方がいいよ」笹本さんが真剣な表情で言ってくれた。「良い女じゃないです。でも……ゆっくり待ってたら、このまま一生結婚できないかも知れません」「そんなことはないよ。藍花ちゃんは本当に可愛いんだから自信持った方がいいって」「そうだよ、藍花。本当に自信持たないと損だよ。太一の言う通り、あなたはめちゃくちゃ可愛いんだから」やはりなぜか月那に容姿を褒められるととても嬉しい。「2人に言われたら嬉しいけど……でも……」「でもじゃない!俺達がついてるから大丈夫!ちゃんと良い奴と出会って恋愛して結婚してほしい。俺達はずっとここで店やってるから、何かあったらいつでも飛び込んでくればいいよ」「そうだよ、いつでも来な」この安心感に溢れた優しい2人に勇気をもらえた気がする。明後日、蒼真さんと会って、改めてちゃんと考えようと思う。答えが出せるかはわからないけれど、でも何だか今は前向きになれている。この感情は間違いなく2人のおかげだ。月那……「笹本 月那」になっても、ず