グレースホテル東京――要人も利用する世界的に有名な最高級ホテル。待ち合わせの場所を聞いて少しはオシャレをしてきたつもりだけれど、これでは七海先生と全然釣り合わない。見た目の違いに恥ずかしさを感じながらも、このホテルには1度来てみたかったから、宿泊は無理でも、ラウンジでお茶を飲めるだけで満足だった。「藍花ちゃんにそう言ってもらえて良かった。僕はここのホテルがとても好きでね。子どもの頃からよく利用してるんだ」子どもの頃からよく……やはり七海先生もとんでもないお金持ちだ。こんな一流ホテルを何度も利用できるなど、生活レベルがあまりにも違い過ぎて驚く。本当にうらやましい限りだ。「私は七海先生とは違って初めてで……。だから、先生からここで待ち合わせと聞いて、かなりテンションが上がってしまいました」幼稚なカミングアウトをしている自分が恥ずかしい。「そうだったんだね。それを聞いて安心したよ。待ち合わせ場所、どこが良いのかずいぶん悩んだんだ。僕はここのホテルに来るとホッとするから……だから、ぜひ藍花ちゃんにも良さを知ってもらえたと思って。格式高いホテルだけど、飾らずにとても温かく迎えてくれるんだよ」「そうなんですね。本当に、先生のおかげでこんな素敵なホテルに来ることができて嬉しいです。ありがとうございます」「いらっしゃいませ、七海様」えっ、だ、誰?!私は、突然現れた謎の超イケメンに目を疑った。「こんばんは。深月(みつき)総支配人」総支配人さん……?こんなにカッコ良いホテルマンは今まで見たことがない。「蓮見様も、よくいらして下さいました。七海様から伺っております」「えっ、あっ、はじめまして。とても素敵なホテルですね。さっきからずっと感動しています」「お褒めいただきありがとうございます。どうぞごゆっくりお過ごし下さい」「あっ、はい。ありがとうございます」「七海様。最近は少しご多忙なようですね」総支配人さんは、七海先生に話しかけた。この2人のツーショットはかなり目を引く。「はい。最近、父の病院で働くことになって、まだまだ全然慣れなくて……今は毎日必死です」七海先生は苦笑いした。「お父様も先日いらして下さりお聞きしました。七海様と一緒に仕事ができると大変喜んでおられましたよ。私もいつかは父と……とは思っていますが」スラッと背が高く、
「私はまだまだこれからですよ。深月総支配人はもうご立派です。いつもアドバイスをいただいて感謝しています」「こちらこそ七海様には感謝しております」そう言ってから、総支配人さんは私を見た。その美しい顔立ちには女性である私でさえドキッとする。「では、蓮見様。これで失礼致します」「あっ、はい。お声がけをいただいてありがとうございました」「七海様から『明日は大切な人と伺います』とお聞きしておりましたから。本日はお会いできて光栄でした」「た、大切な人……?」七海先生はそんな紹介の仕方をしたのか?まさかこんな私を彼女や結婚相手と間違えることはないと思うけれど……「七海様の大切な方なら私どもにとっても大切なお客様です。またいつでもグレースホテル東京にお越し下さい。お待ちしております」総支配人さんの笑顔が眩し過ぎて照れてしまう。すぐ近くに超ド級のイケメンが2人もいて、その間に挟まれている私はいったい何者なのかわからなくなる。どちらからも良い匂いがするうえに、モデルみたいにキラキラ輝いてる人達と一緒にいるこの状況には全く現実味を感じられない。「あっ、はい、すみません。お気遣いありがとうございます」確かに、昔から憧れていたこのホテルにはまた来たいと思う。だけど……これから先、七海先生と一緒に来ることは二度とないんだ。大切な人だと紹介してくれた先生の想いを考えると、急に胸が苦しくなった。私達は総支配人と別れ、ラウンジに向かった。静かな時間が流れる素敵な空間の奥の席に座り、飲み物を注文する。数分して、七海先生の前にはブラックのコーヒーが運ばれ、私は気持ちを落ち着かせるために温かい紅茶を選んだ。上品で可愛いカップに口をつけ、ゆっくりと1口。とても美味しくて癒された……のもつかの間、なぜか少しの沈黙に気まずい空気が流れた。
私達は嫌な静けさをかき消そうと、全く同じタイミングで声を発した。思わず見つめ合い、苦笑いする。「すみません、先生からどうぞ」「あ、ああ。ごめん、じゃあ……藍花ちゃん、体調は大丈夫?元気かな?」まずは私の体を心配してくれる七海先生。こういうところは相変わらず優しくて紳士的だ。「ありがとうございます。いつもと変わらず元気にしてます」「そっか、それなら良かった。安心したよ」七海先生は、ホッとしたように一息吐いてから微笑んだ。その顔を見たら、本当に心配してくれていたんだとわかった。「七海先生がいなくなって、病院のみんな寂しがってますよ。患者さん達も『七海先生はいないのか?』って。みんなで先生の存在の大きさを改めて感じてます。それでも産婦人科の看護師さん達は、新しい先生と一緒に毎日頑張ってますよ」「有難いね、僕のことを覚えていてくれて。でも、あの先生は素晴らしい人だから。僕も父も以前から良く知っててね。今回は彼女を是非にと松下院長に紹介させてもらったんだ。腕は確かだし、志も熱いしね」「そうだったんですね。本当にすごく前向きで良い先生だってお聞きしました。またいろいろお話ししてみたいです」「彼女、喜ぶよ。藍花ちゃんみたいな可愛い人が話しかけてくれたら。きっと勉強になると思うし、機会があれば本当に話しかけてあげて」七海先生は、さっきからずっと私だけを見つめて微笑んでくれている。少し離れたテーブルに座っている若い綺麗な女性達がずっと先生のことを見ているのに、熱い視線は気にならないのだろうか?他のテーブルにいる女性だって、チラチラこちらを見ているのに、視線を向けようともしない。きっと、気配は感じているはずなのに。普通の男性なら女性に見つめられたら嫌な気はしないと思う。でも、七海先生はずっと私だけを見てくれている。全く目を逸らさずに、にこやかに。「あの……七海先生」優しい眼差しの先生に、今から言うことはとても残酷なことかも知れない。それでも私は、今、このタイミングで切り出さなければならないと思った。
「うん」何かを覚悟したような返事、少し顔が強ばったような気がした。私の中に緊張が走る。「七海先生に、この前のお返事をさせていただきたいと思っています」「……だよね。でも不思議だね、藍花ちゃんの返事を待っていたはずなのに、今はあまり聞きたくないと思ってる。そう思うのは何故かな……」「先生……」「ごめん。大丈夫。聞かせてくれるかな?」自分に言い聞かせるような言葉に、申し訳ない気持ちが溢れる。「あの、私……。七海先生から告白してもらった時は、本当に自分の気持ちがわからなくて迷っていました。でも、それから、すぐに自分の気持ちがわかった……というか、素直になれたというか……」何を言ってるのか、ドキドキし過ぎてよくわからない。でも、大丈夫、キチンと伝えなければ……私自身も自分に言い聞かせ、話を続けた。「あの、私……」上手く言おうとして言葉がもつれる。私は急いで呼吸を整えようとした。「藍花ちゃん、大丈夫だよ。ゆっくりでいいから。落ち着いて」きっと顔が引きつっているだろう。こんな素敵な場所で、みっともない姿を晒しているかも知れないと思うと情けない。私は、意を決して、七海先生を見つめた。「すみません。私……他に好きな人がいます」それだけ言って目をギュッと閉じる。七海先生の顔が……見れない。膝の上でギュッと手を握りしめ、体中に力が入った時、私の頭の上に大きな手のひらが触れた。「えっ……」ハッとして目を開ける。すぐ近くに先生の顔がある。すごく穏やかで優しくて、魅力的な笑顔が。その瞬間、胸がキュンとして泣きたくなった。「それは白川先生だね」七海先生に名前を先に出されて、言葉が出てこなくなる。「今、藍花ちゃんの顔を見て確信したよ。君は、本当に……白川先生が好きなんだって」「先生……」「彼はやっぱりモテるね。大学時代と変わらない。うらやましいよ」「……」「2人はもう付き合ってるのかな?」「……はい」そう言った瞬間、先生は眼鏡の奥の瞳をゆっくりと閉じた。「……そっか、わかった。なら、僕は藍花ちゃんにフラれたってことだね」「……」いったいどういう風に答えればいいのだろうか?「覚悟してたよ。ちゃんと覚悟は決めてたんだ。でもやっぱり……つらいんだね、大好きな人にフラれるのって。初めてだよ、こんなに胸が苦しいのは。君には他
七海先生の優しい笑みが少しずつ消えていく。こんな悲しい表情にさせている自分に罪悪感が生まれた。「先生……すみません、本当に。七海先生のこと、私は心から尊敬しています。先生に優しくしてもらったことは、ずっと忘れません」七海先生は、私の人生の中でとても大切で貴重な時間を一緒に過ごした人。たとえそれがどんなに短い間だったとしても、絶対に忘れたくなかった。「ありがとう……。人として医師として尊敬してもらえるなら……それもまた嬉しいね。今まで頑張ってきてよかったよ」「先生はとても素敵な人です。私なんかよりもっと良い女性が必ず見つかります。それに……お見合い相手の方は……」聞いていいのか迷ったけれど、私は口にしてしまった。「彼女はもちろんお断りしたよ。好きな人がいるからって。それでもまだ会いたいって言ってくれてるんだけどね……」「もう会わないつもりなんですか?」「そうだね。会うつもりはないよ。君を想ってるのに他の女性に会うのは失礼だと思うから」そんな……その人は七海先生が好きで好きでたまらないのに……「私のことがあってストップがかかってるとしたら、とても悲しいです。ご両親も認めておられるような女性なら、きっと素晴らしい人なんですよね。七海先生もその人のこと……嫌いじゃないんですよね?」あまりにもプライベートにズケズケと踏み込んでいる自分。止めるべきなのかも知れないけれど、七海先生を思うと聞かずにはいられなかった。「彼女は確かに素晴らしい女性だと思うよ。僕にはもったいないくらいにね。でも、それでも……僕の心の中には藍花ちゃんがいるから。その状態で彼女には会えない」「じゃ、じゃあ、ハッキリ言います。私のことは、わ、忘れて下さい。私には……心から大切な人がいますから。私が七海先生を好きになることは……あ、ありません。だから……」胸が潰れそうに痛い。涙が溢れそうになるのを必死でこらえた。「……藍花ちゃん」「お願いします。その人の気持ちをちゃんと受け止めて、考えてあげてもらえませんか?必死で七海先生を想っている気持ち、私にはよくわかります。七海先生がその人を嫌いでないのなら……。すごく、すごく偉そうですけど……でも、私は……」「ごめん」「えっ……」「それ以上は言わないでくれないか」七海先生のこんな暗い表情と声のトーン、いつもの先生ではない。
「先生……」「ごめんね。君につらい思いをさせて。君は何も悪くないのに」「私、七海先生には本当に幸せになってほしいです。素敵なお相手と結婚して温かいご家庭を作って……だって七海先生は、こんなに立派でカッコよくて、優しくて仕事もできて、それから……」「ありがとう。もう十分だよ。恥ずかしいから、そんなに言われると」先生は、ほんの少しだけ……照れたように笑った。「嘘じゃないです。本当に、先生は素敵ですから」「……だけどね。僕は……白川先生に負けたんだ」「えっ」心臓が掴まれるくらいドキッとした。何とも言えず妖艶で……妖しげなその表情に。この人から溢れ出る男の色気は、白川先生でも敵わない。ただ、七海先生のセリフは、私の心に重くのしかかった。「……なんて、ちょっとイヤミっぽかったね。ごめんごめん」私は、首を横に振った。「僕は……やっぱりどうしようもなく藍花ちゃんが好きだよ。君と温かい家庭を築きたかった。それに……君との子どもも……欲しいと思っていたんだ」七海先生と私の子ども――嬉しい言葉ではあったけれど、今の私にはそれを想像することはできなかった。「子どもは宝物だからね。たくさんの人達がそう言ってるのを聞いてきた。産まれてくる赤ちゃんを抱きしめるお母さんの顔は、みんな幸せに満ちている。毎回、感動的で素晴らしい場面に立ち会えて僕は幸せだよ。だからね、いつしかそういうのに憧れて、藍花ちゃんと家族になれたらいいなって……思ってしまったんだ」新しい命の誕生に立ち会うことは、本当に尊い。それは私にも想像ができる。「七海先生の気持ちはとても嬉しいです。私との未来を描いて下さって……。でも、本当にすみません」私は先生の憧れを壊してしまった……その思いに対しての申し訳なさが心を濁す。「いいんだ。白川先生は無敵なんだから、僕は彼には敵わない。昔からずっとそうだった、今に始まったことじゃないよ。誰も白川先生には勝てないんだ。僕にも、あの人みたいな魅力がほんの少しでもあれば……」「何を言うんですか!七海先生も素敵じゃないですか!魅力的ですよ、すごく。白川先生とは違う魅力ですけど、でも、どっちも素敵だし、どっちが上とか、どっちが勝ちとか、そんなのはないんです」先生も首を横に振った。
「ありがとう。藍花ちゃんに慰めてもらえて嬉しいけど、僕にはやっぱり……男性としての魅力が足りないんだよ。それは充分わかってるんだ」「七海先生。私は……確かに白川先生を好きになってしまいましたけど、七海先生にだって恐ろしい程の魅力があります!それは私が500%保証します!いえ、1000%です」私はどうしてこんなにも力説してるのだろうか?熱くなっている自分が恥ずかしい。「……1000%?そんなに」「はい!」「藍花ちゃんに言われたら自信になるよ」七海先生は笑っている。私に呆れているのかも知れないけれど、その顔を見たら少しだけホッとした。「本当に自信持って下さいね。先生みたいなスーパーイケメンはなかなかいないんですから」そう、それは本当のこと。「ありがとう、藍花ちゃんは優しいね。やっぱり君はすごく素敵な女性だよ。僕は、君を好きになって本当に良かったと思ってる。とにかく……白川先生と幸せになって。彼なら大丈夫だよ、必ず君を幸せにしてくれる。まあ、そんなこと、僕が心配しなくても大丈夫か」七海先生は冷めたコーヒーに口をつけた。「……いえ、心配して下さってありがとうございます。いろいろあって、今は私も心から幸せになりたいって思ってます。だから先生も……必ず幸せになって下さい。それが私の心からの願いです」「うん、そうだね。ありがとう、藍花ちゃん」先生はほほ笑みを浮かべながら、小さくうなづいた。「今日は本当にありがとうございました。お会いできて、いろいろ話せて良かったです。お忙しいのにお時間を作っていただいてすみませんでした」「とんでもないよ。また……会えるといいね。藍花ちゃん、体に気をつけて、あまり無理をしないようにね。藍花ちゃんは頑張り屋さんだから」「七海先生こそ無理なさらないでくださいね。産婦人科の先生は、いつ出産になるかわからないから本当に大変ですもんね。1日中気が張ってると思いますから、ちゃんとリラックスもして下さいね」「気遣いありがとう。まあ、確かに大変だけどね、うん、大丈夫。僕はいつでもこんなに元気だから」七海先生は、きっと私を安心させようとしてくれている。本当に、どこまで優しいのだろう。「本当に……すごく感謝しています。どうか、いつまでもお元気でいて下さい」私は、敬意を込めて深く頭を下げた。
「元気でいないとね。でも、君と次に会えた時にはもっともっと腕の良い産婦人科医になっていたいから、つい頑張ってしまうかも知れないな」七海先生はまた、ニコッと微笑んだ。その笑顔があまりにも眩し過ぎて、私は、七海先生のことを絶対に忘れたくないと思った。「ダメですよ。無理は禁物です」「はいはい、わかったよ。君は本当にいい奥さんになるね。僕は、君を忘れない。ずっとずっと一生忘れないよ。藍花ちゃんは、僕の全てをかけて愛した女性だからね。たとえ、僕が誰かと結婚したとしても、君との思い出は決して消えることはないから。じゃあ、ここで……」先生はそう言って椅子から立ち上がった。胸が熱くなるセリフに心から感謝が溢れた。誰か素敵な女性と結婚して幸せになってもらえたら……私はそれが一番嬉しい。「先生、お元気で」「藍花ちゃんも元気でね。またね」「はい、また……。本当にありがとうございます」「ありがとう」私達は笑顔で手を振って別れた。これで、本当に最後かも知れない……七海先生、素敵な思い出をありがとうございました。私は、心の中でもう一度お礼を言って、先生と本当のさよならをした。グレースホテル東京を出た瞬間、ふと見上げた空は、まるで七海先生の新しい人生の出発を見守るかのように、とても爽やかに晴れ渡ったっていた。
「嘘っ!またオーナーに怒られたの?」「うん。今月の売り上げがイマイチだったから……。思うようにはいかない」マンションの小さな部屋で、食事中に缶のビールを握りしめ落ち込む太一。「し、仕方ないよ。きっと来月はもうちょっと頑張れるよ。まあ、また気合入れていこー」満面の笑顔でそう言ったものの、実際、経営はかなり苦しかった。実は最近、すぐ近くに同じような店ができ、うちより規模も大きいし、オシャレで、かなりの人気になっている。そのことは、間違いなく売り上げが下がった原因の1つだ。でも……それでも頑張るしかない。弱音を吐いても何も変わらないから。「そうだな。月那のウエディングドレス姿見たいし、新婚旅行にも連れていきたいし」それが、太一の口癖。「それは別にいいって。気にしなくて大丈夫だから。とにかく、心も体も元気じゃないと何も前に進まないんだから、笑顔で乗り切ろうよ。太一はお客さんからの評判いいんだし、頑張ってたら、必ずまたこっちにお客さんが戻ってきてくれるから。絶対大丈夫!」太一と私のマッサージの腕は誰にも負けることはない、それだけは絶対に自信があった。「ありがとうな、月那。俺は、お前がいるから頑張れる。本当に……感謝してる」一瞬で顔が真っ赤になる。私は慌ててビールを喉の奥に流し込んだ。「あ~ちょっと酔っ払ったかも~。そうだ、ベランダ行こっ。太一も一緒に出よう。さっ」私は、太一を無理やり外に連れ出した。「うわぁ、いいね~。気持ちいい風だな、最高~」「ほんとに秋の風って最高~」こうして隣に太一がいてくれる安心感は半端ない。「月……めっちゃ綺麗だ」 「そうだね。いつか連れてってくれるんでしょ、あそこに」私は、腕を空に伸ばして指をさした。「ああ。任せとけ!絶対、行くから。2人であの月に!」そう言って、太一は私のことを抱きしめた。「ちょっと痛いよ、太一。もう、こんなムキムキの立派な腕をしてるんだから、めそめそしてちゃダメだよ。元気出しな。笑おうよ」私も、太一の腰に両腕を回した。このでっかい感じ、これが好き。「ガッハッハッ。これでいいか?」「バカじゃないの?本当に太一はお調子者なんだから」まだ抱き合ったまま、今日は離さないんだね。ちょっと照れる。「なあ、月那」「ん?」「俺、お前と結婚して良かったよ。本当に……大正解。これ
「今度はどんな映画を見に行く?」「あっ、そうね。恋愛……ううん、ホラーとか、楽しいかも」「ホラー映画は得意じゃないよ」「そう?結構好きなんだけど、私は」何気ない朝のやり取り。仕事が休みの日はなるべく妻と一緒にゆっくり過ごすことにしている。子どもがいない僕らにとって、2人で何をするかを考えるのは幸せな時間だった。その気持ちに嘘はない。「恋愛映画なんてずいぶん観てないな。何か良いのあるかな?」「恋愛映画は……何だか観ていて苦しくなりそうだから」「えっ?」「あなたは……きっとヒロインを誰かに重ねてしまうでしょうから」「な、何を言ってる?」「ヒーローは……あなたかしら。残念ながら、その相手は……私じゃない」「突然どうしたんだ?いつもの君らしくないよ」こんな妻を見るのは初めてだった。心臓がバクバクと音を立てる。「私、もう……限界かも。できることならずっとずっとあなたと一緒にいたかった。死ぬまで寄り添えたら、どんなに幸せだろうって……。でも、やっぱり……何だか毎日苦しいの」「……」「あなたは優し過ぎる。毎日毎日、慶吾さんに優しくされて、私……」「どうしてそんなことを言うんだ?君は毎日頑張ってる。家事を完璧にして、僕の帰りを待ってくれて。そんな君に優しくするのは当たり前のことだよ」そう、君は頑張ってる。全て完璧というほどに。「ただ優しいだけじゃ、私は嫌だよ。最初は、側にいてくれればそれでいいって思ってた。それは本当。でも、あなたの中にはいつも他の誰かがいて……」「……そんなことは」「無いって言えるの?私はどんどんあなたを好きになるのに、あなたは……ますます違う方を見てる。私じゃない誰かの方を。もう……耐えられないの」泣き崩れる君に、僕は何も言えなかった。結婚の意味なんて、今でも僕にはわからない。それでもこの人と、一生、2人で生きてゆく覚悟はしていたのに。なのに、いつだって彼女の笑顔が浮かんでくる。自分は異常なのか?と悩みもした。でも、結婚してさらに、こんなにも藍花ちゃんを想っている自分に気付かされた気がして……「ごめん。本当に……ごめん」僕は、最低だ。目の前で号泣するこの人の背中に手を置く。すごく震えていて、泣き声が切なくて……僕の心臓はとても痛くなった。いや、この痛みなど、この人に比べれば……この人は
私は今、すごく幸せ――だったら、それでいいのかな?都合良すぎる考え方かも知れないけれど……だけど、月那が言ってくれた言葉だから、私はそれを信じようと思った。七海先生も歩夢君も……絶対「幸せ」でいてほしい。お願いだから、悲しい思いをしないで……心からそう祈るばかりだ。「私の話ばかりでごめんね。月那は太一さんとの新婚生活はどう?楽しんでる?」「う~ん、まあまあだね。仕事も家でも一緒だし、ちょっと飽きてきたかな」また大声で笑う。大きな口を開けていても、美しい人は美しい。「さっき世界一幸せな夫婦って言ってたよね?」「そんなとこ言ったかな?まあ……ね、もちろん楽しくやってるよ。いろいろあるけど、私、太一がいないとダメみたいだしさ。あんなに筋肉バカなのに、嘘みたいに優しい人だし。ちょっと頼りないとこあるけど、私にとっては最高の夫かなって思うよ」「そっか……素敵だね」月那もすごく幸せなんだ。その言葉がとても胸に響いて嬉しくなる。「素敵……かな?」「うん!最高の旦那様だって、素直に太一さんにもそう言ってあげてね」「い、嫌だよ。そんなこと言ったら負けだし」「負けって……。月那、私には素直にって言っておいてズルくない?」「ズルくないズルくない。私はいいの~」自由な月那に苦笑いした。そんな風に、お互いの新婚生活や仕事、子育てのことをしばらく語り合う2人だけの時間は、あっという間に過ぎていった。もっとずっと話していたいけれど、今日はここでおしまい。「今日の晩御飯は何?」「太一が好きだから今日は豆腐ハンバーグ。子どもみたいだからね、あの人。何個も食べるからミンチの大量買いしなきゃいけない」「いいな~美味しそう!豆腐ハンバーグはヘルシーだしいいよね。うちはカレーにする」初めて蒼真さんに作った料理。いつ食べても毎回褒めてくれる「カレーならそっちも子どもだよ」「確かにそうだね」「男はお子さま料理が好きだよね。煮物とか食べないんだから」「煮物美味しいのにね」「まあ、鍛えてるから食事はちょっと大変だけど、喜んで食べてる姿見たら嬉しくなるからね。頑張って作ろうって思えるよね」「本当にそう。美味しそうに食べてくれるのが1番嬉しいよ」女子トークは結局、ドアを閉める瞬間まで続いた。「必ずまた女子会しよう」と約束して、手を振りながら、月
「そっか……。奥さん、毎日側にいてわかったんじゃないかな。七海先生の中には他の誰かがいて、自分を見てないって。最初からわかってたつもりだったけど、実際に側にいると余計につらいと思うからさ」「……」その言葉について、私は何も言えなかった。「大好きな七海先生と別れるのは寂しかったかも知れないけどさ。その分、藍花が幸せにならなきゃダメだよ。奥さんだって、七海先生より良い人に必ずいつか巡り会えるんだから。そのための離婚だよ。絶対に」「月那……」その言葉にほんの少し救われる。七海先生が私のことをずっと想ってくれているなんて、自惚れたくはないけれど、奥さんの、好きな人と別れる決断は、ものすごくつらかっただろうと、今の私には痛いほどわかる。結婚して蒼真さんの側にいて……私はどんどん彼を好きになっていくから。「七海先生はさ、たぶん1人で大丈夫だよ。あの人、結局誰と結婚しても一生藍花を想い続けるから。それが七海先生の幸せなんじゃない?」「そんな……。私、どうしたらいいかわからないよ」「出たね、藍花の迷い癖」「えっ?」「いいんだよ、どうもしなくて。本当にほおっておきなよ。好きにさせてあげたらいいんだよ」「でも……」「でもじゃない。七海先生にとってはそれが1番の幸せなんだって。藍花は気にせずに自分の幸せだけを考えたらいいの。でないと白川先生に悪いよ」「……うん。わかった……」「素直でよろしい!いい子だね、よしよし」月那は私の頭を優しく撫でた。その仕草に少し照れる。「とにかくさ。七海先生と歩夢君はそれぞれに幸せなんだからね。自分のせいだとか考えちゃダメだからね。藍花が幸せになることが、2人にとって何よりも嬉しいことなんだからね」
「うん、今、すごく頑張ってるんだって。蒼真さんが歩夢君をとても可愛がってるみたいで、人一倍動けるし、患者さんからの人気もあるって言ってた」「そうなんだ。歩夢君、やるね~。本当に真面目ないい子なんだね。見た目も可愛くてイケてるしさ。キュートな眼鏡男子って感じで」「うん、そうだよね。本当にみんな癒されてた。歩夢君がいてくれたら職場が安定するというか……」「安定剤だね」「確かに。歩夢君、前にお母さんのために早く1人前になりたいって言ってたけど、十分過ぎるくらい頑張ってる。体を壊さないかって蒼真さんも心配してた。まあ、中川師長がすぐ側にいるから大丈夫と思うけど。ほんと、新人なのに私の何倍も偉いよ。私は……さっさと辞めちゃったしね」歩夢君の頑張っている話を聞くとすごく嬉しくなる。でも、バリバリ仕事ができることが、少しうらやましくも思える。私も、歩夢君みたいに看護師という仕事が好きだから……「藍花が辞めたのは妊娠したからだし、またいつか復帰するって思ってるんだからさ。何も卑屈になる必要はないよ。それまでは白川先生と蒼太君のために「奥さん」と「お母さん」を頑張りな」「うん、そうだね」「そうだよ、藍花は本当に幸せ者なんだからさ」「ありがとう、月那。今は家族のことだけ考えて、いつかまた看護師に復帰できたら、その時はしっかり頑張るね。蒼真さんと同じ病院は無理かも知れないけど、ここの近くにも病院はたくさんあるからね」「うんうん、頑張れ!応援してる」「……ありがとう。すごく心強いよ」「あっ、そうだ。あともう1人のイケメンは?」「……七海先生?」月那がうんうんとうなづく。「蒼真さんにはたまに連絡があるみたいだよ。あれからお見合い相手の人と結婚したんだって。でも……」「ん?」「……七海先生、フラれたみたいで……」「嘘!あの超イケメンが!?」「そうみたいなんだ。残念だけど……」「えっ、七海先生、結婚したお見合い相手にフラれたの?」「……うん」蒼真さんから聞いた時はすごく驚いた。せっかく新しい1歩を踏み出したのに……「でも何で?あんな超イケメンをフルなんて度胸あるよね」「別れた原因はわからないんだって。フラれたとだけ聞いたって。今は1人で、もう一生結婚はしないって言ってるみたい。お父様の病院で産婦人科医として仕事に生きるって……」
私は病院から少しだけ離れたところに新居を建ててもらい、月那はマッサージ店の近くのマンションを買った。常にいつでも会える距離……ではないけれど、大好きな月那とはたまにはこうして会いたい。月那のアドバイスはやはり直接聞きたいし、そばにいてくれるだけでかなり安心できる存在だから。「ねえ、あれからみんなどうしてるの?病院行ってもなかなか情報聞き出せないしさ」「月那、スパイじゃないんだから」「似たようなもんよ。客商売、情報が全てでしょ」「ダメだよ、病院の内部事情をお客さんに話したら」「当たり前だよ。言っちゃダメなことは言わないようにしてる。それくらい心得てるから大丈夫……たぶんね」「たぶんって、本当にダメだって~」「大丈夫、大丈夫、ちゃんとわかってますよ。だけど、白川先生と藍花のことは当然みんな知ってるよ。患者さん達も喜んでたし。あの子なら仕方ないって、白川先生のファンのおば様達が言ってたから」「そ、そうなんだ……」蒼真さんのファンって……まるでアイドルみたいな扱いだ。「それでもさ。未だに病院じゃ、みんな白川先生のことをハートマークのついたキラキラした瞳で見つめてるから気をつけた方がいいよ~」そう言って、月那は意地悪そうに微笑んだ。「うん。そうだね。でも、病院じゃなくても蒼真さんといるとみんなそんな目で見てるから。本当にどこにいても注目の的で……」あのルックスでは絶対に目立ってしまうから仕方がない。ただでさえそうなのに、最近はますます男性としての魅力に磨きがかかっている。やはり蒼真さんは無敵だ。「うらやましいよね、本当。だってさ、太一といても誰も振り向かないから」月那が大きな声で笑う。だけど……みんなは月那のことを見ているんだ。太一さんには申し訳ないけれど、2人は美女と野獣というか……月那みたいなすごい美人はなかなかいないし、どうしても目を引いてしまう。私達とは逆――視線は全て蒼真さんに向いているから。「ねぇ、それよりさ。歩夢君はどうしてるの?元気なの?」突然、月那が話題を変えた。
それでも「疲れているだろう」と、蒼真さんは私を気遣ってくれる。診察、回診、手術……きっと自分の方が何倍も疲れているはずなのに……その、人を思いやる優しさに、私は心から感謝の気持ちでいっぱいになっていた。***それから1年――1歳になった蒼太に会いに、久しぶりに月那が遊びにきてくれた。月那は今は仕事に大忙しで、旦那様ともラブラブだった。「本当に幸せだよね、藍花。こんな立派な新居を建ててもらって、こんな可愛い蒼太君がいてさ」蒼太を見て微笑む月那は相変わらず美人だ。こんな美しい女性が私の友達だなんて、かなりの自慢になる。「うん、幸せだよ。みんなに感謝しかないよ。月那にはずっと相談に乗ってもらって、本当に感謝してる。いろんなことが月那の言う通りになっていくのがすごく驚いたよ」「当たり前だよ。月那様には全てお見通しだったからね。あの時の藍花はすごく迷ってた。3人のイケメンの間で揺れてたよね」「そう……だったね。あの時の自分は何もわからなくて本当に困ってた。ただ頭を抱えているだけで、前に進むことができなかったから」「まあ、仕方ないけどさ。あんなイケメン達に告白されたら、人間誰だってちょっとしたパニックになるよ。きっと世界が違って見えるんだろうな。その世界が見れた藍花は本当に幸せ者だよ」「世界が違って見えたかどうかはわからないけど……でも、もし月那がいなかったら、私は素直になれてなかったかも知れない。今でもまだ、月那がいう『違う世界』で迷子になってたかも……」本当にそうだ。恋愛マスターの月那がいたから、私は今の幸せを掴めたんだ。月那には、感謝してもし足りない。「ううん、藍花の中ではさ、本当は決まってたんだよ。3人の中で白川先生が1番好きだって。だから……白川先生と上手くいった……」「……そ、そうなの?」「うん。でも、藍花は優しいからさ。みんなに対していろいろ考えてたら何が何だかわからなくなってたんだよ。七海先生も、歩夢君も、みんなを大切に考えて……。私、見てて可哀想なくらいだったから。でもいろいろあった結果、藍花は世界で2番目に幸せになれたんだから、良かったんだよ」ニコッと笑う月那。「世界で1番幸せなのは……月那、だね」「もちろん、その通り。なかなかやるね」2人の笑い声、久しぶりの楽しい時間が嬉しかった。
陣痛も短く、驚く程に安産で、スっと出てきてくれた赤ちゃんに感謝した。この世に生を受け、一生懸命生まれて来てくれた我が子がどうしようもなく愛おしくて、涙が止まらなかった。蒼真さんもパパになることを楽しみにしてたから、小さなその体を初めて腕に抱いた瞬間、大粒の涙をこぼしていた。その顔を見て、私もまた泣いた。あの白川先生が涙を流すなんて……という感じもあったのか、周りにいた女医さんや看護師さんまでみんなもらい泣きしていた。赤ちゃんの泣き声と共に、分娩室は感動の連鎖で温かな空気に包まれた。入院中は代わる代わる中川師長や歩夢君、他の看護師達も部屋に寄ってくれて、赤ちゃんを抱っこして喜んでくれた。中川師長は「孫ができたみたい!」と言ってくれ、歩夢君は毎日「可愛い可愛い」と言って部屋に来てくれた。私への気持ちなんか決して口にせず、私と赤ちゃんを優しく見守ってくれている感じがしてすごく有難かった。赤ちゃんの名前は、しばらくして蒼真さんが決めてくれた。「蒼太(そうた)」元気な男の子にピッタリの名前だと思った。私が絶対に「蒼」という漢字を入れてほしいと頼んだこともあって、ずいぶん悩んでいたけれど、ようやく蒼太に決めたようだった。気づけば、蒼真さんと急接近して、付き合って、赤ちゃんまで授かって、そして結婚まで……こんな人生、私には予想もできなかった。あまりにも嘘みたいな展開に自分でも驚いている。とんでもないシンデレラストーリーに、私はまだ半分夢見心地だ。だけど、いつまでもフラフラしていてはいけない。本格的に子育てが始まったのだから、ママになった自覚はキチンと持たなければ。慣れない家事をしながらの育児に、最初は戸惑いはあったけれど、それでも毎日私なりに一生懸命頑張った。夜泣きしたり、ミルクを飲まなかったり、眠れない日々が続いても、やっぱり我が子はとてつもなく可愛くて、愛おしかった。子どもの笑顔には、疲れを吹き飛ばす偉大な力があるということを、ヒシヒシと実感していた。
まだ少し肌寒く感じる4月初旬。つわりも早めに落ち着いてホッとしていた。「藍花、大丈夫?寒くないか?」「大丈夫です、蒼真さん。ありがとうございます」「体、絶対冷やさないように」「はい」「10月には俺達の赤ちゃんがこの世に誕生するんだな……すごく不思議な気持ちだ」私のお腹をゆっくりとさすりながら蒼真さんが言った。「本当に信じられないです。私がママになるなんて」「俺もパパになるんだな。今から楽しみで仕方ないよ」「蒼真さんがパパで、この子は本当に幸せです。こんな素敵な人がパパで、赤ちゃんびっくりすると思いますよ」「そうだといいけどな。いつまでも素敵なパパでいられるようにしないとな」「蒼真さんならいつまでも若々しくてカッコ良くて、最高の自慢のパパになりますよ」「だったら藍花は自慢のママだな。誰よりも綺麗で、可愛くて、キラキラ輝いて……。この子のママは世界一素敵なママだ」「は、恥ずかしいです」「恥ずかしくないだろ?本当のことなんだから」何気ない日常のやり取り、私は、いろんなことに幸せを感じながら、明日、蒼真さんと婚姻届を出す。前々から蒼真さんの4月の誕生日に出すことを決めていた。妊娠中ということもあり、2人で真剣に話し合った結果、式は挙げないことにして、ドレスとタキシードで写真撮影をすることになった。数日前にカメラマンさんが撮ってくれた写真の中の私達は、2人とも笑顔だった。それを見ていたら、少しずつではあるけれど、本当に夫婦になったんだと実感した。白いタキシード姿の蒼真さんは、世界中の誰よりもカッコ良くて、この人を他の誰にも渡したくないと思った。永遠に私の側にいて、私のことだけを見ていてほしいと心の底から願った。蒼真さんは私の平凡な人生をバラ色に染めて、180度変えてくれた。これからは……「白川先生」と「新人看護師」という関係ではなく「夫婦」として長い道のりを一緒に歩むんだ。***そして、10月――木々の葉っぱが赤や黄色に美しく色づいた秋晴れの日に、私達の待望の赤ちゃんが誕生した。産声をあげたのは元気な男の子。七海先生の紹介で入った女医さんが、赤ちゃんを取り上げてくれた。さすが七海先生の肝いりの先生だけあって、腕も確かで出産時の声掛けも素晴らしかった。女医さんや蒼真さん、周りのみんなのおかげで、私は安心して出産す