その眼差しに、清次は心地よさを感じた。 彼は淡く微笑み、「大丈夫、心配しないで」と言った。 たとえこの件がなかったとしても、賢太郎は山口家との対立を諦めないだろう。 だから、彼は中村家の人々に対して遠慮する必要はなかった。 「それなら良かった」 個室の中で、沙織は夕食を半分食べたところで眠くなり、清次の腕の中で寝てしまった。 由佳はほとんど食べずに箸を置いた。 清次はそれに気づき、低い声で尋ねた。「こんなに少しだけ?」 「食欲がないの」 「気分が悪い?」 由佳は沈黙で返した。 「歩美のことはもう知っているよ。彼女のカルテは偽物だ」 由佳は疑ったことがなかった。彼女は歩美を誘拐事件の被害者として見ていたから、山口翔こそが真の黒幕だと考えていた。 しかし、清次は山口翔を信じており、その誘拐事件は歩美が自ら演じたものだと考えていた。 誘拐事件が偽りなら、病状報告も当然偽りだ。 ここまで言うと、清次は少し間を置いて由佳を見た。 以前、彼はこのカルテを非常に信じていた。 彼は何度も歩美を許し、何度も由佳を傷つけてきた。 由佳は眉を上げ、目に光が宿った。「偽り?どういうこと?」 「前に言っただろう?誘拐事件は偽りで、彼女のトラウマも当然偽りだ」 「そうなんだ……」由佳の目の光がまた消えた。 つまり、そういうことか。 しかし、誘拐事件は本当に偽りなのか? 彼女は警察署で聞いた山口清月の言葉を思い出した。 実は、彼女は清次が山口翔を助けるために動いているのではないかと少し疑っていた。 だが、そんなことを口にする勇気はなかった——清次がまた狂ったように雨に打たれるのが恐ろしかったから。 清次は由佳の表情を見て、彼女がまだこの件について疑念を抱いていることを理解した。 「心配しないで、鑑定を申請してみていいよ」 彼はしつこく迫りたかったのは、由佳に彼から距離を置かないようにさせたかったからであって、山口翔を信じさせようとしているわけではなかった。 亡くなったのは由佳の父親で、彼女が真実を明らかにしたいと最も思っている人だろう。 本当のことは本当であり、偽りのことは偽りだ。いつか真実が明らかになる日は来るだろう
家に戻った由佳は、写真の証拠を整理し、メールで写真コンテストの主催者に送信した。 彼女は参加申込のメール、元のEXIF情報、RAWの原本を持っており、これらが彼女が受賞作品の撮影者であることを証明できる。 この件はそれほど難しくないはずだ。 由佳はコンピュータを閉じて、洗面所に行き身支度を整えた。 ベッドに横になり休む準備をしていたところ、清次から突然微信が届いた。「出てきて」 続けて「今、家の前にいる」とメッセージが来た。 由佳は一瞬眠気が覚めた。「夜遅くに何をするの?」 「ドライブ。出る時は厚着を忘れないで」 「……頭おかしいの?」 夜遅くにドライブに行くって? 「十分の猶予を与える。十分後にドアをノックするから、高村さんに気づかれるのが嫌なら急いで出てきて」 「!」 由佳は歯を食いしばった。「清次って本当に悪い」 彼女は布団から起き上がり、手早く服を着て、静かに外に出た。 清次は消防通路の窓の前でタバコを吸っており、ドアの音を聞くとすぐにタバコを消し、由佳の方に歩み寄った。 彼女が厚着をしているのを見て、さりげなくエレベーターの下行ボタンを押した。「行こう」 由佳は清次を睨んだ。「急にドライブに行きたいってどういうこと?」 「突然の思いつき」 「行きたくない」 「出てきたんだから、少し遊んでから帰ろう」 エレベーターの扉が開き、清次は由佳を引きずり込んで、一階のボタンを押した。 「地下一階じゃないの?」 「着いたらわかる」 エレベーターは一階で止まり、清次は先に出て、マンションを出て近くのガレージに向かって歩いた。 一体どういうこと? 由佳は興味を持って清次の後ろをついていくと、彼が一台のバイクに向かって歩いているのを見た。 そのバイクはスタイリッシュで、流れるようなラインを持ち、一目で高価なものであることがわかる。 なるほど、彼の言う「ドライブ」とはこれのことだった。 清次はハンドルからヘルメットを取り、由佳に手を振った。「こっちに来て」 由佳は彼のところに行き、バイクを見ながら尋ねた。「これ、清次の?」 清次はヘルメットを彼女の頭にかぶせ、「友達のを借りてきた」 「清次はこ
「今、気分はどう?」清次が由佳のそばに来た。由佳はようやく、清次が自分の気分が良くないから、自分を連れ出してくれたのだと気づいた。彼女は心には暖かいものが湧き上がり、彼に微笑みかけた。「だいぶ良くなったわ、ありがとう」単にドライブに連れ出してくれたことへの感謝だけでなく、午後のとき、沙織のためにも自分のためにも正義を取り戻してくれたことに対する感謝でもあった。清次は目を離さずに彼女を見つめていた。対岸の灯りが彼の瞳に一点の光を落とした。その瞳は水中の宝石のように澄んで輝いていた。明るい光が彼の横顔を照らしたため、その輪郭を一層立体的に際立たせていた。由佳は一瞬、見惚れてしまった。すると清次が低い声で、彼女を怒らせる一言を呟いた。「本当に感謝してるなら、キスしてくれ」せっかくの感動が一瞬で台無しになった。彼女は我に返り、口角を引きつらせながら清次を一瞥して、「バカなこと言わないで」由佳はふいっと振り返り、川沿いを歩き始めた。その背中を見て、清次は少し微笑んで、彼女に歩調を合わせて並んで歩き出した。二人は何も話さなかった。周囲にはただ風の音、水の音、そして遠くから時折聞こえた汽笛の音だけが響いていた。由佳の心も次第に静まっていった。少し先に、空っぽだった川沿いに人が一人立っていた。足音に気づいたその人が振り向き、体をこわばらせ、信じられないという表情で探るように声をかけてきた。「お姉さん?」由佳は前方の人に気づき、足を止めた。「颯太、久しぶりだね。ここで会うとは思わなかった」彼は以前より痩せ、顔つきにも少し大人びた様子が見えた。彼女の隣にいた清次をちらりと見て、颯太は目に苦笑が浮かんだ。「久しぶりだね。時々ここを散歩しに来るんだ」「ごめんなさい」由佳は真剣な表情で言った。「ずっと謝りたかった」彼を探しに行こうと思ったこともあったが、会いたくないと思われているかもしれないと怖かった。裏切りと傷つけた事実があり、どんな謝罪も虚しいだけだった。「謝るのはむしろ僕のほうだ。父が誘拐犯だったなんて、ニュースでしか見たことのないことだから」颯太は目を閉じ、「今、父の行方は?」「まだ分からないわ。この件はあなたに関係ない。謝らなくていいの、むしろ私があなたを利用した」颯太は深く息を
清次は心に喜びがあふれ、目を細めて由佳の背中をじっと見つめ、獲物を狙うように大股で歩み寄った。由佳の頬がじわじわと熱くなった。歩く速度が次第に早まった。背後から聞こえた足音がどんどん近づいたのに気付き、彼女は小走りになった。地面を見つめると、男の影がますます近づき、もうすぐ自分の影と重なりそうになったのを見た。心臓が一瞬止まり、彼女はすぐさま駆け出して清次との距離を取った。清次は唇の端を引き上げ、眼差しに勝利への自信が光り、二三歩で由佳に追いつくと、腕を伸ばして彼女の手首を掴み、一気に自分の胸に引き寄せた。鋭い目で彼女を見つめ、「なんで逃げる?」「なんで追ってくるのよ?」由佳は目を逸らし、肩を押して反撃するように言い返した。「なんでだと思う?」清次は眉を上げ、薄笑いを浮かべた。「わからないわ」由佳はしらを切り、口ではそう言いながら心中では別のことを思っていた。「じゃあ、わからせてやる」清次は大きな手で彼女の後頭部を押さえ、身を屈めて唇を重ねた。唇と舌が触れ合い、息が絡み合った。彼の唇は熱く、攻める勢いも強くて大胆だった。由佳の長い睫毛が震え、息が詰まった。脚が力を失いかけたため、彼の衣服をぎゅっと掴んでなんとか自分を支えた。夜の冷たい風が川辺に吹き付けていた。けれども、由佳は熱かった。身体の奥から湧き出るような熱さがあった。彼女の鼻先には小さな汗が浮かび始めた。清次は彼女の唇を名残惜しげに味わい、舌がさらに深く入り込んでいった。片腕を彼女の腰に回し、じわじわと力を込めて彼女を抱きしめ、まるで身体に取り込むかのようだった。薄暗い街灯の下で、二つの影が絡み合っていた。由佳は息ができなくなり、力強く清次を押し返した。清次は彼女の舌先を軽く噛み、ゆっくりと口を離した。由佳は荒い息をついていた。彼女の顔が赤く染まり、目元が湿っており、見上げた瞳には自然と色っぽい表情が浮かんでいた。清次は胸が高鳴り、彼女の顎を指でつかみ、顔を上げさせて再び唇を重ねた。由佳は目を大きく見開き、間近で清次のまつげの根元を見つめていた。なんて図々しい!しばらくして清次はようやく由佳を放した。由佳はすぐさま彼を押し返し、数歩後ろに下がると、唇に軽く触れてみた。少しひりひりするような痛みがあった。
つまり、署名の改ざんや写真の盗用に関して、主催側はそれを知りつつ黙認して、さらには関与していた可能性が高いということだった。署名がされていたID「莉奈」は見覚えがあったため、由佳が調べてみると、その人物は前回の写真コンテストで2位を受賞していたのが分かった。その2位が本当に彼女の実力によるものかは不明で、おそらく盗用によるものだろう。もしこのコンテストにそんなスキャンダルが発覚すれば、その信頼度は大きく失われることになる。由佳は、賢太郎が山河写真コンテストの審査員であり、発起人の一人であることを思い出した。彼と主催側には深い繋がりがあった。礼儀を考えて、由佳は直接それを暴露して抗議するのではなく、収集した証拠を賢太郎に送り、状況を説明した。1時間後、賢太郎から返信が届いた。「由佳、申し訳ない。公式サイトの告示は既に修正した。この件について、きちんと説明するよ」「ありがとう、賢太。率直に言わせてもらうけど、主催側の関係者が関わっている可能性が高い」「分かっている。すでに調査を始めたよ」「ところで」と賢太郎はまたメッセージを送ってきた。「昨日、勇気とお母さんと何かあった?」「ええ、大丈夫。もう解決した」と由佳は答えた。少なくとも彼女の方では解決済みだったが、勇気とその母親が心にわだかまりがあるかどうかは分からなかった。「勇気は元々喘息持ちで、母親は彼を厳しく見守っている。もし何か無礼があったなら、どうか気にしないでくれ」「分かっているよ、賢太」「君の作品は、今回の応募作品の中でも私が一番気に入っている。これからも頑張ってくれ」「ありがとう」賢太郎は携帯を置くと、前に立っていた秘書をじっと見つめた。「加奈子を呼んでくれ」「かしこまりました」秘書は、彼の怒りをすぐに感じ取った。しばらくして、加奈子が精巧なメイクを施した顔で部屋に入ってきた。この数日間の疲労感を隠しているようだった。「お兄さん、呼ばれたけど?」賢太郎は鋭い視線を上げ、「他人の作品を自分の名前で発表するなんて、誰がそんなことを許可した?」そのID「莉奈」は加奈子のものだった。以前から賢太郎に好意を持っていた彼女は、二人の関係を近づけようと写真を学び始めたが、なかなか上手くいかず成果も出なかった。賢太郎の前で無様な姿を見せ
加奈子は顔が青ざめ、勇気を振り絞って言った。「お兄さん、名前を元に戻せばいいじゃない?どうして謝らなきゃいけないの?」「虚栄心に満ちて無責任だ。あなたの母親はそんなふうに育てたのか?これで中村家の一員だなんて、恥ずかしいとは思わないのか?」加奈子は震え上がり、恐る恐る答えた。「お兄さん、分かった。謝る、謝るから!」「すぐに手書きで謝罪文を書きなさい」「今すぐやる」加奈子はオフィスを出ると、すぐに苛立った表情を浮かべ、目に暗い陰りを滲ませた。くだらないことが、お兄さんの耳にまで入るなんて。この私が怒られる羽目になるなんて!誰が告げ口したのか分かったら、ただじゃ済まさないから!加奈子はネットで謝罪文を検索し、適当に手直しして仕上げた。書き終えると、彼女は担当者にメッセージを送り、「私の写真って、誰の応募作品なの?名前は?」と尋ねた。名前を書き入れるためだった。担当者からの返事は「由佳という応募者の作品です」だった。由佳は実名でネットに参加しており、IDも彼女の本名だった。担当者はニュースを追っておらず、由佳が誰かを知らなかった。加奈子は驚いて言葉を失い、心の中で嫌な予感が走った。この「由佳」というのは、自分が知っているあの由佳ではないか。彼女は賢太郎の写真アシスタントの智樹を尋ねた。智樹は全てを話した。そのとき初めて、賢太郎が由佳と共に月影市に撮影に行っていたことを知った。やっぱり!やっぱりこの件が賢太郎の耳に入ったのは、由佳が密告したからだ。加奈子は手をゆっくり握りしめ、目に憎悪の色が浮かんだ。由佳め!あんな女なのに。清次は彼女に夢中で、再婚しようとする始末だ。お兄さんまで彼女を庇うなんて!あの日の地下駐車場での出来事を思い出し、加奈子は手の平に爪を食い込ませ、血がにじんだ。あのとき計画通りにいっていれば、自分の隣にいるのは清次だったはずだ。山口グループの社長が相手で、小物の酔っぱらいなんかじゃなかった!すべて由佳のせいだ。彼女がいなければ、清次は絶対にあの媚薬にかかって逃げ出したりしなかった!加奈子は憎しみに震えた。必ず由佳に代償を払わせてやる!一方、由佳は公式サイトを確認すると、自分のIDが一等賞の受賞者として記載されていたのが分かった。さらに受
「慶太が公表したくない気持ちは理解できる。山河写真コンテストは慶太が立ち上げた大会で、その名声は今後の開催にも、慶太にも関わっている。しかし、こんなことが起きると、過去にも似たようなことが他にもあって、さまざまな理由で揉み消されていたのでは、と疑わずにはいられない……」「心配しなくていい。再度の審査を指示するから。今後また同様のケースがあれば、主催側で受賞を取り消す」「慶太、迷惑をかけてごめんね」由佳にできることは、それだけだった。「いや、迷惑なんかじゃないよ。これは僕の責任だ。それにしても今回のことは僕も恥をかかされた。そうだ、君が櫻橋町での授賞式に来るときは、僕がごちそうするから、ゆっくり楽しんでくれ」「ありがとう、慶太。それでは、お言葉に甘えるね」その後、由佳が受賞のTwitterを投稿すると、総峰からLineでお祝いのメッセージが届き、同時に「莉奈」の撮影依頼についても話題に挙げた。由佳はスタンプで返事をした。「本当に私に頼むの?冗談じゃないわよね?」「冗談なんかじゃない。君の腕を信頼してるんだ」「いいわ。そこまで信じてくれるなら、絶対に失望させない!いつ撮影する?」「君が空いているときに。おそらく一日で終わると思う」由佳は翌週のスケジュール表の写真を総峰に送った。スケジュールを見ると、由佳は月曜と火曜に撮影があったのが分かった。総峰は撮影日を水曜に設定した。火曜日、その日由佳には3つのアクションシーンがあり、ワイヤーで空中を飛び回るハードな撮影だった。撮影が終わったのは夜の8時過ぎで、由佳は完全に疲れ果てていた。撮影はこの一本だけで出番も多くないため、アシスタントも付けず、仕事のすべてを自分でこなしていた。着替えを済ませてから、彼女は駐車場へ向かった。街灯の下に停まっていた黒い車が突然ハザードランプを点滅させた。由佳は無意識にそちらを見て、口元を引き締めた。清次の車だった。彼女が少し戸惑っている時、後部座席の窓が開き、沙織が小さな頭を出して手を振った。「叔母さん、叔父さんと一緒に迎えに来たよ!早く乗って!」由佳の顔に安堵の笑みが浮かび、車に歩み寄ってドアを開けると、清次を見やった。「今日はどうして来たの?」ちょうどいいタイミングだった。今は運転したくないし、ただリラック
「おはよう、来たね」スタジオ内で由佳はカメラを覗き込み、何気なく撮った写真を確認していたが、足音と挨拶の声が聞こえて顔を上げると、総峰が来ていたのに気づいて笑顔で挨拶を返した。由佳を見ると、総峰は足を止めて、複雑な表情を浮かべていた。「おはよう、ずいぶん早いな?」「そうよ、初めてだからね、ちゃんと気合入れてきたわ」由佳は笑いながら言った後、再びカメラを向けて新しくセットしたばかりの場面を数枚撮った。そのため、総峰の表情には気づかなかった。「じゃあ、メイクに行ってくる」「行ってらっしゃい」由佳はカメラに夢中で、顔を上げなかった。総峰は唇を引き締め、深い眼差しで由佳を見つめた。彼女と清次はどうなっているのか、思い切って聞きたくなった。彼女はそれほどまで清次が好きなのか?浮気を許せるほどに?「総峰?」アシスタントが、動かなかった彼に声をかけた。総峰は我に返り、由佳を一瞥してからメイク室へと向かった。数日前、総峰のチームから彼女に撮影要望の資料が送られてきた。由佳はそれをしっかり分析していたが、初めての本番撮影は相当うまくいかなかった。二人の息が合わず、撮れた写真も総峰の表情が感情を外しているものばかりだった。スピードは遅く、仕上がりも悪かった。由佳は自分の考えに没頭し、総峰の集中力が切れていたとは気づかず、自分に問題があると思って何とか状況を打破しようとした。総峰は目を閉じ、こめかみを揉みながら、昨夜の出来事を忘れようと必死に自分に言い聞かせた。その後の撮影はかなりスムーズに進んだ。由佳は総峰チームの承認した写真を参考にしつつ、画面にダイナミックさを出しながらも基準を満たすように努め、作業の効率が格段に向上した。途中、総峰は2着の衣装を着替え、シチュエーションとスタイルも変えた。撮影が終わったのは夜の8時近くで、全員が疲労の色が濃かった。「OK、今日はここまでだな」総峰のマネージャーが、由佳のカメラの写真を確認し、うなずきながら言った。全員がほっと息をついた。総峰は一気に力が抜けたのか、伸びをしながら立ち上がって「やっと終わったな、着替えてくる」と言った。数歩進んで立ち止まると、マネージャーに向かって言った。「由佳、ちょっと待ってて。光、レストランに個室を予約してくれ、皆で
朝、直人が帰ってきた。雪乃は彼が目の下に赤みを帯び、顔に疲れ切った表情を浮かべているのを見て、歩み寄り、肩を揉みながら尋ねた。「勇気はどうだった?」「いつもの症状だ。医者は、昨日感情が高ぶりすぎたせいだろうと言って、入院して休養する必要があると言っていたよ。彼の母親と使用人が病院で付き添っている」直人は目を閉じてため息をつき、全身がだるくて辛いと感じた。年を取って、もはや無理が効かなくなった自分を認めざるを得なかった。アレルギー源によるアレルギー喘息と、感情から来る喘息発作の症状には少し違いがあり、医者は豊富な経験を基に、血液検査を経て結論を出した。「大事に至らなくてよかったわ。あなた、かなり疲れているようね。早く朝ご飯を食べて休んだほうがいいわ」直人は頷いた。朝食後、直人は上の階に上がり休むことにした。一方、加奈子は陽翔に会うために出かけた。雪乃は家で暇を持て余し、ドライバーに頼んで病院に向かった。彼女は勇気のお見舞いに行くつもりだった。もちろん、早紀は厳重に守るだろうが、それでも少しでも嫌がらせをしてやろうと思った。病院に到着し、雪乃は入院棟に向かって歩いていると、ふと見覚えのある人影を見かけた。その人物は急いで歩きながら、電話を耳に当てて話し、彼女より先に入院棟の建物に入っていった。賢太郎だ。彼も勇気のお見舞いに来たのだろう。雪乃はゆっくりと歩いて行き、エレベーターで勇気の病室へ向かった。窓から見てみると、勇気はベッドに横たわり、点滴を受けていた。隣の付き添い用のベッドでは、早紀が休んでいた。雪乃はドアを軽く三回ノックし、返事を待たずに扉を開けた。病室の中で、早紀は突然目を覚まし、すぐに体を起こした。人が誰かを確認すると、その目に眠気は消え、警戒の色が浮かんだ。「何の用?」早紀は急いでベッドの前に立ちふさがった。雪乃は手に持った果物の籠を揺らし、優しく微笑んだ。「もちろん、勇気を見舞いに来ました」彼女の視線は早紀を越えて、ベッドに横たわる男の子に向けられた。「勇気が早く元気になりますように」彼女の視線に気づいた勇気は、黙って頭を下げた。早紀は微笑みながら言った。「勇気に代わって、お礼をするね。医者は静養が必要だと言っているから、長居は控えてね」短い言葉で、雪乃を
加奈子は雪乃の背中を見つめ、腹を立てて足を踏み鳴らした。このクソ女!あの時、デパートで加奈子に平手打ちされた時は、まるで犬のようにおとなしくて、何も言えなかったくせに、今はおじさんの力をかして、堂々と対抗してきた!部屋に戻った雪乃はベッドに横たわり、すぐに眠りに落ちそうになったが、突然携帯の通知音が鳴り、仕方なくメッセージを返すことにした。加奈子は寝返りを打っても眠れず、ついに携帯を手に取って、瑞希とチャットを始めた。彼女は今日の出来事を瑞希に話した。「彼女、ホントに腹黒いよ。もし私が彼女に出会ってなかったら、勇気は彼女に買収されてたことにも気づかないところだった!」加奈子:「さっき、堂々と勇気のアレルギー源を聞いてきたんだけど、私のおじさんはまるでボケ老人みたいに、そのままアレルギー源を教えてあげちゃって」瑞希はすぐに返信した。「あの女、レベル高いね」加奈子:「ほんとに!!」瑞希:「あなたたちじゃ勝てないよ。彼女に対処したいなら、最も簡単な方法は権力で抑えつけること。おじさんみたいに、彼女はただひたすら取り入ろうとするだけだから。だから、早く陽翔と結婚した方がいいよ」加奈子:「もうすぐだよ、陽翔家が同意したから、近日中に婚約日を決めるために話し合いに行く予定」瑞希:「でも、結婚したからって、すぐに安心してはいけないよ。もし陽翔が以前みたいにふらふらしてるなら、手に入る権力なんてないし、家族内でも発言権なんてないから」加奈子は、陽翔家の権力が陽翔の父親、陽翔の兄、叔父の雄一朗に集中していることをよく知っていた。以前、陽翔の兄、成行に近づこうとしたことがあるが、彼はとても忙しくて、なかなか会えなかったし、会ってもまったく話をしてくれなかったので、諦めざるを得なかった。彼女は言った。「でも、陽翔も会社で働くタイプじゃないよ」瑞希:「彼に少しずつ学ばせることができるよ。あの家柄なら、何人かの先生を雇うのは簡単でしょ?ちゃんと会社に行かせて、全然変わらなくても、せめて見かけ上は変わったってことを示させないと。そして、彼の両親にその変化を見せないと」瑞希:「加奈子、今は陽翔は陽翔家の二番目の息子だから、両親の後ろ盾があって、何も心配することはない。でも、今だけを見ていてはいけないよ。未来を見据えて、陽翔家は彼の兄
ちょうどそのとき、外から使用人の声が聞こえた。「旦那様、勇気坊ちゃんが喘息の発作を起こしました!今すぐ病院へ連れて行きますので、急いで来てください!」直人も目を覚まし、ベッドサイドのランプを点けて、服を羽織りベッドを降りた。雪乃が起き上がろうとするのを見て、彼は言った。「君は寝ていていいよ。俺が様子を見てくる」雪乃は体を支えながらベッドに腰かけ、こう言った。「勇気って喘息持ちだったの?」「うん、生まれつきだ」「それなら、私も見に行くわ」そう言って雪乃もベッドを出て、コートを手に取り羽織った。直人が着替え終わると、二人で一緒に外へ出た。勇気はすでに薬を飲んでいたが、咳は止まらず、胸は苦しく息も浅くて、顔まで真っ赤になっていた。早紀がそばで心配そうに見守っていた。直人が尋ねた。「さっきまで元気だったのに、どうして急に発作が?」早紀はため息をついて言った。「アレルゲンに触れたのかも......でもお医者さんが言っていた。勇気は感情の起伏が激しいと良くないって。特に悲しみや不安といった沈んだ感情が良くないって言っていたわ」そうしたネガティブな感情が出ると、体内で迷走神経が優位になり、それが興奮状態に入ると気管が収縮して、喘息を引き起こすのだ。勇気は生後まもなく喘息と診断されてからというもの、家では細心の注意を払い、掃除や消毒を徹底してきた。勇気も成長するにつれて体力がつき、発作の頻度もかなり減っていたし、学校にも特別対応をお願いしてあったので、直人もようやく安心して寮生活を許していた。「アレルゲンじゃなくて、たぶん午後に何か怖い思いをしたんだろうな」直人は勇気のそばに腰を下ろし、背中をさすって呼吸を整えてやりながら言った。「勇気、パパが怒りすぎた。ごめんな」加奈子が冷笑を浮かべ、意味深に雪乃を見ながら言った。「叔父さん、それだけじゃないかも。午後、雪乃が勇気の部屋に行ったよね。彼女が変なものを持ってたかもしれないよ?勇気のためにも、ちゃんと調べたほうがいいと思いますけど」「加奈子」早紀が低い声でたしなめるように言い、直人と雪乃に笑いかけた。「加奈子も勇気のことを心配してるの。気にしないで。私は雪乃さんが関係してるとは思ってないわ。もしかしたら雪乃さん、勇気が喘息持ちだって知らなかったのかもしれないし」雪乃は率直
勇気は親に叱られ、心の中で落ち込んでいたが、雪乃が突然好意を示したことで、彼の心の中での彼女の印象が一気に高まった。雪乃は間違いなく、早紀がこれまで出会った中で最も手強い相手だ。賢太郎との関係は普通で、彼女が中村家で頼りにしているのは、直人のあいまいで儚い「愛」か、勇気という息子だけだ。雪乃は一瞬で彼女の弱点を見抜いた。早紀は深く息を吸い込み、湧き上がる感情を抑えて、加奈子に言った。「加奈子、先に外に出て」加奈子は不満そうに勇気を睨んだが、振り返って部屋を出て行き、ドアを激しく閉めた。部屋には母子二人だけが残り、空気が重く、息が詰まるようだった。早紀は勇気の前に歩み寄り、しゃがんで彼の肩に手を伸ばそうとしたが、勇気はそれを避けた。彼女の指は空中で固まり、ゆっくりと引っ込められた。「勇気」彼女の声はとても軽かった。「ゲーム機を返して」勇気はさらにしっかりと抱きしめ、頑なに首を振った。「いやだ!これは僕のだ!」「勇気、ママは怒っているのよ」早紀は立ち上がり、低い声で言った。「あなたはママを本当にがっかりさせたわ。ママはあなたをここまで育てて、豊かな生活を与えて、新しい服やおもちゃを買ってあげた。あなたが病気のときは病院にもついていったのに、こんなふうに恩を仇でかえすの?」勇気の目に涙が溢れ、ゲーム機を放り投げて、早紀を抱きしめた。「ママ、ごめん。ゲーム機はいらないよ、怒らないで」早紀は彼の肩を軽く叩いて言った。「そうよ、それでこそママの息子よ」「ううう」早紀は真剣な表情で言った。「勇気はまだ子供だから、大人たちの争いごとはわからないかもしれないけど、覚えておきなさい。雪乃には近づかないで、彼女からの贈り物も受け取らないこと。わかった?」「うん。ママ、わかった」「欲しいものがあったら、ママに言って。ママが買ってあげるから」「ゲーム機が欲しい......」勇気は涙を拭いながら、小さな声で言った。「いいわよ、ママが買ってあげる。でも、学校には持って行っちゃダメよ。週末は家で遊ぶ時間を決めて、勉強に支障が出ないようにするのよ」「うん」ようやく、母子は合意に達した。早紀は壊れたゲーム機とギフトボックスを取り上げた。その様子を見ていた女中の夏萌は、すぐに雪乃に知らせに行った。雪乃は特
「お義姉さん、何か用?」用がないなら早く行ってくれよ。まだゲームを続けたいんだ。「さっき雪乃が来てた?」「うん......」勇気はつい頷こうとしたが、急に動きを止め、首を横に振った。「来てないよ」加奈子は彼の表情を一瞥し、何か違和感を覚えたものの、それが何なのかはっきりとは分からなかった。彼女はそのまま部屋を出ようとしたが、ふと気づいたように振り返り、勇気の手にあるゲーム機と机の上のギフトボックスを見て尋ねた。「そのゲーム機、誰が買ったの?」勇気の動きが一瞬止まった。「お、母さんだよ。どうかした?」「本当?」加奈子は疑わしそうに問い返した。「じゃあ、おばさんに聞いてみる」勇気の顔色が変わった。「待って!」加奈子はじっと勇気を見つめ、低い声で、それでいて強い圧を込めて言った。「勇気、正直に言いなさい。そのゲーム機、誰からもらったの?」勇気はゲーム機を強く握りしめ、指の関節が白くなるほどだった。俯いたまま、彼女の目を見ることができず、しばらくしてから、か細い声で言った。「......雪乃さんが買ってくれた」「雪乃さん!?」加奈子は信じられないというように苦笑し、怒りに満ちた目で勇気を睨みつけた。「あんた、あの女を雪乃さんって呼んでるの!? それに、こんな高価なプレゼントまで受け取ったの!? あの人が何者か分かってるの!?」勇気は彼女の突然の怒りに怯え、思わず後ずさった。「雪......雪乃さんは良い人だよ。ただ......」「良い人?」加奈子は怒りで笑いすら込み上げ、一気にゲーム機を奪い取ると、床に叩きつけた。「パキッ!」新品のゲーム機の画面が粉々に割れ、外装が砕け、中の部品が散乱した。勇気は呆然とした。次の瞬間、彼は弾かれたように地面に飛びつき、震える手でゲーム機をかき集めた。大粒の涙がポタポタと床に落ちた。「何するんだよ! なんで僕の物を壊すんだ! 返せよ!」「返せ?」加奈子は冷笑した。「勇気、お前、頭おかしくなったの? あの女が誰だか分かってんの? あいつはお前の父さんと母さんの結婚を壊した女だよ! ゲーム機を買ってやることで、お前を取り込もうとしてるだけだって分からないの? それなのに、簡単に騙されて......お前、本当に裏切り者だな!」彼女はふと、スマホでよく目にする短編ドラマを
勇気は俯き、唇を噛んだ。何を言えばいいのか、分からなかった。 「それにね、この件については私にも非があるの」雪乃は彼を一瞥し、さらりと言った。「スマホの充電が切れてたんじゃなくて、わざと電話に出なかったのよ」 勇気は驚いて顔を上げ、雪乃を見つめた。 「勇気、私が伝えたかったのはね、もう私が勝手に出ていける状況じゃないってこと。あなたのパパはそれを許さない。あなたはとても優しい子だけど、まだ幼くて、大人の考えを変えることはできないし、下手をすれば巻き込まれてしまう。だから、もうこの件には関わらないで。分かった?」 雪乃の目には優しさが宿り、微笑みも穏やかだった。その声は落ち着いていて、柔らかかった。 勇気は、無意識にこくりと頷いた。 ママも同じことを言っていた。でも、ママの言葉には責めるような響きがあって、彼はひどく罪悪感を抱いた。ママがパパに叱られたのも、自分のせいだと思った。 でも雪乃は違う。彼女は優しくて理解がある。パパが彼女を好きになるのも無理はない。 雪乃は勇気の頭を軽く撫で、「勇気はいい子だね。さぁ、一緒にゲーム機を開けましょう」と言った。 彼女は箱を彼の前に押し出し、机の上から小さなカッターを見つけた。 「うん」 勇気はカッターを手に取り、慎重に外装を切り開いた。包装を剥がし箱を開けると、そこには新品のずっと欲しかったゲーム機が入っていた。 彼の顔には満ち足りた笑みが浮かんだ。 雪乃は彼の背後で、ふっと微かな笑みを浮かべた。 その視線は勇気の頭越しに、本棚の上の家族写真に向けられていた。写真の中――早紀は夫と息子を幸せそうに抱きしめていた。 勇気はゲーム機を大事そうに抱え、そっと指先で撫でた。それだけで、心が満たされた。 さっき階下で感じた悔しさや辛さもずいぶんと和らいでいた。 雪乃はゲーム機をセットアップし、起動してみせた。 本体だけでは足りない。ゲームもなければ。このゲーム機のソフトの多くは別途購入しなければならない。 雪乃はその場ですべてまとめて買った。 勇気はゲーム一覧に並んだ人気タイトルの数々を見て、興奮を抑えきれず叫んだ。「ありがとう!」 「さぁ、これで遊べるわね」雪乃は立ち上がり、壁の時計にちらりと目をやった。「そろ
早紀は、とうに気づいていた。雪乃は決して単純な女ではない。そして今、その思いはさらに強くなった。 今回の補償の申し出も、中村家の使用人たちを自分の味方につけるためのものだった。 この場で彼女の提案を却下すれば、使用人たちは自分を疎ましく思うに違いない。だが、受け入れてしまえば、彼らが雪乃に取り込まれるのを黙認することになる。 もちろん、彼らがわずかな金で買収されることはないだろう。だが、それでも雪乃に対して好意を抱くきっかけにはなってしまう。 直人が言った。「そんなことをする必要があるか? もともと彼らの仕事だろう?」 「そういう問題じゃないのよ......」 「よし、だったら君が払うことはない。俺が出そう......そうだ、今夜はチョウザメが食べられるぞ」 「本当? あなたが釣ったの?」 「そう」 「わぁ、すごい!」 早紀:「......」 部屋で、ベッドに突っ伏し、顔を枕に埋めたまま、勇気の肩が小さく震えていた。 泣きたくなんかないのに、涙が止まらなかった。 パパは、あんなに怒ったことなんてなかったのに。たったあの女のために。 彼はただ、ママのためを思ってやったのに。なのにママは彼に謝れと言い、勝手な行動を責めた。 その時、部屋の外から控えめなノックの音がした。 「......出てけ!」勇気は顔を上げ、怒鳴りつけた。 ノックは一瞬止まったが、すぐに再開された。さっきよりも軽く、しかし、ためらいのない音だった。 勇気は苛立ちながら、裸足のまま床を踏み鳴らして扉へと向かった。勢いよくドアを開け、怒鳴りつけようとした瞬間、そこに立っていたのは、雪乃だった。 彼の表情が一変した。無意識に視線をそらし、硬い口調で言った。「......何しに来た?」 彼女は、ただ買い物に行っていただけだった。 彼がカードを渡して「出ていけ」と言った時、彼女は心の中で笑っていたはずだ。こんなにも馬鹿なことをするなんて、と。 雪乃は何も言わず、彼を部屋に招く素振りすら待たずに、すっと中へと足を踏み入れた。そして、ドアを静かに閉めた。 彼女の視線が、部屋の中をゆっくりと巡った。壁に貼られたサッカー選手のポスター、机の上に広げられたままのノート、そして最後に、赤
「パパに謝って、自分が間違っていたって言いなさい」 母親の厳しい表情と向き合い、勇気は悔しさでいっぱいになりながら、しょんぼりとうつむいた。かすれた声で絞り出すように言った。「......パパ、ごめんなさい。僕が悪かった」 直人も少し冷静になり、ようやく状況を把握した。 早紀は、いつも時勢を読むのが早い。前回、失敗した以上、軽率に手を出すような真似はしないはず。 今回の件は、どうやら勇気が単独で思い付き、行動した結果だろう。 「......もういい、お前たちは部屋に戻れ」直人がそう言うと、早紀は勇気を連れて階段を上がろうとした――その時、玄関の扉が突然開いた。 皆が振り向くと、雪乃がいくつかの上品なショッピングバッグを手に、嬉しそうに笑いながら入ってきた。 しかし、その場にいた全員の視線が彼女に集中すると、笑顔が一瞬ぎこちなくなり、戸惑った様子で室内を見回した。「......何かあった?」 雪乃が直人に向かって尋ねた。この女、わざとね。早紀は心の中で冷笑し、勇気の手を引いて階段を上がた。 今日の騒ぎも、きっと雪乃の策略だ。 卑しい女だ。子供まで巻き込むとは。 一方、直人はようやく胸をなでおろし、雪乃の手首をぐっと掴んだ。その声には叱責の響きがあるものの、どこか甘さも滲んでいた。「雪乃ちゃん!どこに行ってた?なんで電話に出ないんだ?」 「んー、携帯の充電が切れちゃって、電源が落ちてたの。現金を持っててよかったわ。持ってなかったら帰れなかったかも」雪乃は悪びれずに笑ってみせた。 直人は、呆れたように将暉を見た。「全員、戻るように伝えろ」 「承知しました」 「もういい。解散しろ」 命令を受け、使用人たちは次々と頭を下げて去った。 しかし、告げ口をしたお手伝いさんだけは、その場を動かず逡巡していた。 奥様を怒らせた今、この屋敷での自分の立場は危うい。 そんなお手伝いさんの様子をよそに、雪乃はようやく状況を察し、驚いたように言った。 「......もしかして、私を探してたの?」 「そうだよ」 「......」 直人の機嫌が悪そうなのを見て、雪乃はショッピングバッグをお手伝いさんに預けると、すぐに彼の腕にしなだれかかった。「直人くん、ごめんな
直人はお手伝いさんを指さし、低い声で命じた。 「お前、前に出ろ」 鋭い視線と対峙した瞬間、お手伝いさんの顔がさっと青ざめ、ゆっくりと前へ進み出た。 「あ、あのう......」 「何か言いたいことがあるんじゃないか?」 彼女はしばらく考えた後、ためらいがちに口を開いた。 「......今朝、二階の掃除をしていたときに、私は......」 「何を見た?」 「......勇気さんと雪乃さんが話しているのを見ました。それだけじゃなく...... 勇気さんが雪乃さんに何かを渡して、その後、雪乃さんは出かけて行きました」 話しながら、彼女は何度も二階をちらりと見やった。 直人の顔色が、一瞬で冷たく沈んだ。今にも爆発しそうになった。その時、玄関の扉が勢いよく開いた。 早紀が肩掛けバッグを手にしながら、部屋へと入ってきた。 「何があったの?」 執事の将暉や家政婦たちが居並ぶ中、室内の張り詰めた空気を察し、彼女は不審そうに直人を見た。 直人はちらりと早紀を見ただけで、冷たく言い放った。 「勇気!下りてこい!」 状況が分からず戸惑う早紀に、将暉がそっと近づき、手短に説明をした。 話を聞くうちに、早紀の顔がわずかにこわばった。 彼女は階段の方を見やると、冷たい視線をお手伝いさんへ向けた。 「あなた、本当に勇気が雪乃と話しているのを見たの?」 お手伝いさんは真っ青になり、一歩後ずさった。 しまった。奥様を怒らせた。しかし、今さら証言を覆せば、奥様からも直人からも疑われる。どのみち逃げ場はない。 彼女はぎゅっと唇を噛みしめ、決意したように頭を下げた。「確かに、見ました」 勇気は、縮こまるように階段を降りてきた。小さな手で服の裾をぎゅっと握りしめ、どうすればいいのか分からなかった。 「勇気、今朝、雪乃と何を話した?」直人は顔色をこわばらせ、低い声で問い詰めた。 父の厳しい威圧に、勇気の肩が小さく震えた。唇を噛みしめ、目には涙が滲んでいた。 その時、早紀がそっと勇気の傍に寄り、肩を優しく叩いた。「勇気、ママに教えて。雪乃さんと話したの?もし話していないなら、正直に言えばいいのよ。パパは決して濡れ衣を着せたりしないわ」 彼女の言葉には、明