「若子、俺は本気で言ってるんだ」西也が彼女の背中に向かって声をかけた。若子は振り返って言った。 「もし私が家に帰って休むなら、もうここには来ないけど、それでいいの?」「どうして?」西也は慌てて尋ねた。「俺、また何か間違えたのか?」「何も間違えたくないなら、私の言うことをちゃんと聞いて。それに、私がいなくなったあと、本当に余計なことを考えないって約束できる?」若子が一番心配しているのはそこだった。西也は表面上は平気な顔をしているが、彼女が世話を焼いてくれるのを遠慮しているだけで、彼女が去った後には一人で不安に押しつぶされるのではないかと思っていた。今の彼の状態では、余計な心配事を抱えるのは良くない。少なくとも、彼女がそばにいれば彼の気持ちを落ち着けることができる。それが回復に役立つなら、若子は何も厭わなかった。彼が早く元気になることは、彼女にとっても彼にとっても良いことだった。西也は恥ずかしそうにうつむいた。実際、彼女がいない間、どうしても余計なことを考えてしまっていた。感情を抑えるのが難しかった。「西也、心配しないで。私はここで十分に休めてるし、何よりも西也が元気でいるのを見るのが一番嬉しいの。逆に家に帰ると、あなたのことが気になって眠れないと思う。ここにいれば安心できるのよ」西也はまだ何かを言おうとしたが、若子はすでに浴室へ向かっていた。彼は呆然と浴室の扉を見つめ、少し微笑んだ。彼女には休んでほしいと思っていたが、心の底では彼女にそばにいてほしかった。少しわがままかもしれないが、彼には彼女が必要だった。......ノラは病室のベッドに座り、スマホを握りしめていた。最初は笑いながら画面を見ていたが、途中から何かを見たのか表情が変わり、険しい顔になった。付き添いの看護師は椅子に座りながら、隣で編み物をしていた。ノラには特に世話をする必要がなく、暇を持て余していたのだ。看護師は若い女性で、年齢は若子と同じくらいに見えた。ノラの険しい表情に気づき、彼女は手を止めた。「どうしたのですか?」さっきまで笑っていたノラが、急に真剣な顔をしているのが気になったのだ。しかし、ノラは彼女に返事をせず、スマホの画面をじっと見つめていた。若子が西也の世話をしながら、彼に付き添い続けていることを思い出していた。西也が
ノラは少し焦った様子で声を上げ、掛け布団をどけてベッドから降りようとした。看護師はすぐに床から立ち上がり、彼の元へ駆け寄った。「大丈夫ですから、絶対に起き上がらないでください!」彼女はノラに布団をかけ直し、優しい声で言った。 「動かないで、ちゃんと横になっていてくださいね」「ごめんなさい、僕、怖がらせてしまいましたか?」ノラは大きな瞳を潤ませ、申し訳なさそうに彼女を見上げた。その様子はとても可哀想で、胸を締めつけられるようだった。看護師はその姿に心を打たれ、さっきまで感じていた怖さが薄らいでいった。「ちょっとびっくりしましたけど、大丈夫です。それより、どうしたんですか?」「最近、いろいろなことが重なって、手術で動けないのもあって......すごくイライラしてしまって、つい怒ってしまいました。本当にごめんなさい。僕、そんなつもりじゃなかったんです。どうか怒らないでください」ノラは悲しげな表情で話し、その瞳には涙が浮かんでいるようだった。看護師は思わず心をほぐされ、優しく答えた。 「確かに少し驚きましたけど、怒ってなんていませんよ。もし何か悩みがあるなら、話してみませんか?」「いえ、僕の話なんて、聞いてもつまらないですよ」ノラは肩を落とし、視線を下げた。看護師は椅子を引き寄せてノラのそばに座ると、柔らかい声で言った。 「聞かせてください。私の仕事はあなたをお世話することですけど、体だけじゃなくて、心のケアもお手伝いしたいんです。話してくれたら、少しでも力になれるかもしれません」ノラは目の前の彼女をじっと見つめ、しばらく黙っていた。そして少し不安そうに言った。「もし話したら、そのことを他の人に言ったりしませんか?」看護師は真剣な表情で首を横に振った。 「誰にも言いません。安心してください」「本当ですか?本当に僕を騙したりしませんよね?」「本当です。絶対に誰にも言いませんよ」彼女の目には、純粋な誠実さがあふれていた。 「分かりました。じゃあ、話します」 ノラはベッドに寄りかかり、小さく息をついてから話し始めた。 「僕にはお姉さんがいるんです。とても優しくて素敵な人なんです。でも、男の人に傷つけられることが多くて......」「それで、あなたはそのお姉さんに何か言ったんですか?」「僕のお姉さんはとても意思
看護師はノラの話を聞きながら、心の中で思った―何だか修羅場を見てみたい気もするな。「おっしゃる通りです。もし彼らが犬同士みたいにお互いを噛み合ってくれたら、一番いいですね」―自分の手を汚さずに済むしな。看護師もうなずいて答えた。 「そうですね、きっとお姉さんを巡って争うことになるはずです。そんなことが起きたら、あなたもあまり心配しなくて大丈夫ですよ。弟さんのあなたがそんなに賢いんですから、お姉さんもきっとしっかりしていますよね」「その通りですね」 ノラの笑顔は次第に明るいものになった。だが、彼にとって「チャンス」というのは、ただ待っているものではない。自分の手で作り出すものだ。そして、彼がやると決めたことは、必ずやり遂げる。「気分は少し良くなりましたか?」看護師が尋ねた。「はい、もうかなり楽になりましたよ」ノラはうなずいた。看護師は安心したように息をついた。 「それなら良かったです」ノラはふと唇にわずかな陰険な笑みを浮かべ、穏やかに言った。 「でも、今日の話は誰にも言わないでくださいね」看護師は胸に手を当てて力強く答えた。 「大丈夫です。誰にも言いませんから、安心してください」「分かりました。信じますよ。でも、僕は嘘をつかれるのが大嫌いです。もし誰かに話したら......」 ノラは言葉を一瞬切り、何かを考えるように視線をさまよわせた。「......どうなるんですか?」看護師は気になって尋ねた。ノラは口元に冷たい笑みを浮かべ、低い声で言った。 「その時は、あなたを殺して、骨まで粉々にしてやります」彼の声に寒気が混じり、看護師は一瞬身を震わせた。まるで頭からつま先まで冷水を浴びせられたような感覚だった。魂まで凍りつくような恐怖を感じた。看護師が呆然としているのを見て、ノラは突然笑い出した。 「ははは、びっくりしました?冗談ですよ!」その笑顔に、看護師はようやく我に返り、ぎこちない笑みを浮かべた。 「驚きましたよ、本当に。冗談だなんて、怖かったですよ」彼女の表情にはまだ怯えが残っていた。ノラは微笑んだまま、彼女をじっと見つめて言った。 「でも、本気ですよ。僕、嘘なんかついてません」看護師が少し安心しかけた顔は、すぐにこわばった。「本当に本気なんです」 ノラは一言一言、ゆっくりと強調するように言
今日はノラの退院日だった。朝早くから若子は彼のために退院手続きを済ませ、あれこれと世話を焼いていた。若子はノラを病院の出口まで送り届けた。彼は退院したばかりではあったが、これからも療養が必要で、誰かの付き添いが欠かせなかった。若子は介護士の費用をすべて支払い、ノラが回復するまで引き続き世話をするように手配していた。病院の前には、若子が手配した車が待っていた。彼女はノラの車椅子から手を離し、彼の正面に回り込むと微笑んで言った。 「ノラ、とりあえず小晴が一緒に帰ってくれるからね。しっかり面倒を見てくれるから、何も心配しなくていいよ」「お姉さん、ありがとうございます。絶対にこのお金は返しますから!」「今はそれより、体を治すことが一番大事よ。お金のことは気にしないで」「ありがとうございます、お姉さん。本当に優しいですね......」 ノラの目には涙が浮かんでおり、今にも泣き出しそうだった。若子は苦笑いを浮かべながら彼の頭を軽く撫でて言った。 「泣いちゃだめよ、泣いたら怒るからね。ほら、ちゃんと頑張るのよ」ノラは力強くうなずきながら言った。 「うん、分かりました!お姉さん、僕、頑張ります。絶対にお金を稼いで、お姉さんに大きな家を買ってあげます。それも、僕が直接お世話しますよ!服を着せたり、水を運んだり、ベッドを整えたり......」「もういいから!」若子は彼の話を遮った。「どんどん話が飛躍してるじゃないの」「そんなことありませんよ!本気で言ってます!」ノラは真剣な顔で言った。 「僕、お姉さんのために大きな素敵な家を用意しますからね」若子はあきれながらも優しく微笑み、言った。 「分かったわ。その大きな家を楽しみにしてる。でも、まずはちゃんと体を治すことが大事よ。元気でいないと、何も始まらないから」「はい!お姉さんの言うこと、全部聞きます!」 ノラは大きくうなずいた。ノラを見送ったあと、若子は病院の中に戻っていった。車の中で、小晴が我慢できずに尋ねた。 「ねえ、前に話してくれたお姉さんって、あの人ですか?」「そうですよ」 ノラはうなずいた。小晴は何かに気づいたようだった。「もしかして、好きなんですか?お姉さんのこと」 それは明らかに血の繋がった姉弟ではないと察しての質問だった。ノラは唇に人差し指を立て、声をひ
「ちょっと驚かされただけでそんなに怯えるなんて、もし誰かが本気で殺しに来たら、死ぬほど怖がるんじゃないですか?」ノラは興味津々な目つきで小晴を見つめた。誰かが彼女を殺そうとしたとき、この女性がどんな反応をするのか―その死への恐怖が彼女の顔に浮かぶ瞬間を、ノラは面白がって見たいと思っていた。「あなたって本当に言うことが怖すぎますよ!死ぬとか何とか、そんな話しないでください。それに、確かにあなたは雇い主だけど、これ以上私を怖がらせるなら、もう面倒を見るのやめます。他を当たってください!」小晴は本気で怒ったようだった。「分かりました、もうからかわないですよ。だって、君は僕より年上の年長者ですし」ノラがふざけたように言うと、小晴の顔が引きつった。 「誰がですか!私、まだ22歳なんですよ。あなたより4つ上なだけでしょ?それなら私を『お姉さん』って呼ぶべきですよ」すると、ノラの眉がピクリと動き、表情が一変した。冷たい目で彼女をじっと見つめると、その視線だけで小晴の心臓がドキリと鳴り、言葉を失った。冷ややかなその眼差しは、まるで彼女の呼吸を塞ぐように、部屋の空気を一気に重くした。「怖がりなんですね」 ノラは指を小晴に向け、ニヤリと笑った。 「そんなに怖がりで、よく僕のお姉さんを気取れますね」小晴は口をとがらせて言った。 「別に怖がってませんよ。ただ......」一瞬言葉に詰まり、考え込むような仕草をしたあとで彼女は言った。 「あなたがどうしても『お姉さん』って呼びたくないなら、無理に呼ばなくていいですけどね」そうは言ったものの、内心ではノラに「お姉さん」と呼ばれたい気持ちもあった。彼が若子を「お姉さん」と呼ぶときの甘えたような声が可愛らしくて、どこか特別な響きがあったからだ。でも、ノラが彼女に見せる態度はまるで別人のようだ。―もしかして、この子......病んでる?......若子は西也の病室へ向かう途中、廊下で修と鉢合わせた。足を止めた若子の目に、一週間ぶりに修の姿が映る。一週間、修の姿を見なかったことに対して、若子は奇妙な感覚を覚えた。それは恋しさではなく、何かに慣れていたものが突然消え、そしてまた現れたときのような、不思議な違和感だった。その感覚は、どこか「知らないけれど知っている」ものに似ていた。「今日、
若子はふと我に返り、現実に引き戻された。「なんでもないよ。すぐ戻るから」そう言って振り返り、病室へと向かった。 修はそんな彼女の背中をじっと見送った。病室に戻ると、若子は西也に事情を説明した。自分がこれから結婚式に参加しなければならないことを。しかし、修と一緒に行くことまでは伝えなかった。西也の今の状態を考えると、修の名前を出せば、彼に余計な刺激を与えてしまうのは目に見えていた。自分の記憶が間違っていると知ったら、西也はどうなるかわからない。「西也、なるべく早く帰ってくるから、その間はちゃんと休んでてね。何かあったら電話して」「大丈夫だよ、若子。自分のことを優先してくれるのを見るのも、嬉しいから」若子は彼の掛け布団を直しながら笑顔で言った。 「それじゃ、行ってくるね。帰ったら飴あげるから」西也は思わず吹き出した。 「ねえ、俺のこと子ども扱いしてない?」「うん、完全に子ども扱いしてる。だから、早く大人になってね」若子が軽く冗談を飛ばすと、西也も一緒に笑った。「よし、俺絶対に早く大人になるよ。それで、本当の夫になってみせる」その言葉を聞いて、若子の笑顔は一瞬固まった。しばらくしてから、彼女は小さく微笑み直し、言った。 「じゃ、行ってくるね」若子が病室を出たあと、西也の笑顔も次第に消えていった。眉間に少し皺を寄せ、暗い目をして何かを考え込む。―どうしてだろう。俺がちょっと親密なことを言うと、いつも避けられてる気がする。若子が避けているのは、言葉ではなく、その行動や目線だった。それは、まるで二人が親密になることを拒んでいるかのようだった。―俺たち夫婦だろ?キスやハグ、同じベッドで寝るなんて普通のことじゃないか。それなのに、どうして若子はこんなふうに距離を置くんだ?特にあの日、彼女にキスしたとき、若子の目が明らかに動揺していたのを覚えている。―最初は気にならなかったけど、回数が増えるにつれて、何かがおかしいと感じるようになった。でも、それが何なのか、まだわからない。......若子は修のところへ戻った。「行きましょうか」修は体を起こし、立ち上がった。 「遠藤にはちゃんと言った?」若子は軽くうなずいた。 「ええ、ちゃんと言ったわ」「俺たちが一緒に行くって話もした?」若子は淡々と答えた
修は軽くうなずきながら言った。 「いいよ。確かにその服、似合ってる。お前は何を着ても似合うからな」本当は、「何も着ない方がもっと似合う」と言いたかったが、それは彼の前でだけ許される特権だった。しかし、今ではその機会すら失ってしまった。以前は当たり前にできたこと、彼女との時間、その全てが、今では夢の中でしか味わえないものになってしまった。修の頭に、不意に西也の姿がよぎる。あの男も、若子の全てを目にしているのだろうか―そんな考えが彼の胸に炎を灯した。若子は、修の瞳に一瞬浮かんだその炎に気づき、首をかしげて尋ねた。 「どうしたの?何か問題でもある?」修は軽く首を振った。 「いや、なんでもない。行こう」彼はエレベーターのボタンを押した。ほどなくしてドアが開き、二人は中に入った。その頃、廊下の向こう側では、花が急いでエレベーターのボタンを連打していた。だが、すでに遅く、エレベーターは下の階へと動き出してしまった。彼女の視線の先には、若子と修が一緒にエレベーターに乗り込む姿が見えていた。二人がどこかへ向かうようだった。花は焦った。このまま修が若子に何かしてしまうのではないかと心配になり、急いで携帯を取り出して若子に電話をかけた。エレベーターを降りた若子は、すぐに電話に出た。 「もしもし?」「若子、今どこにいるの?」「ちょっと出かけてるの」「そうなんだ。どこに行くの?」「友達の結婚式に出席するのよ」「どんな友達?」「おばあさんの知り合いの人の結婚式。そっちのつながりね」「ああ、そういうことね。それで、今一人なの?」「うん。一人で行ってるから心配しないで。すぐ戻るから」若子は修と一緒だということを一切言わなかった。ただの結婚式だし、帰ってきたら何もなかったかのように振る舞えばいい、と考えていた。修の名前を出せば、西也に余計な刺激を与えてしまう。さらに、周りの人たちを心配させるだけだからだ。しかし、若子にとっては、おばあさんのためにどうしても修と行かなければならない理由があった。「分かった。じゃあ気をつけてね」「ありがとう。もし西也に何かあったら、すぐ連絡して」「分かった。じゃあ、またね」そう言って電話が切れた。花はしばらく画面を見つめ、首をかしげた。―一人で行く?でも、さっき修と一緒にエ
花の目に一瞬、憂いの色が浮かんだ。―どうしよう?お兄ちゃんと若子は従兄妹の関係なのに、今のお兄ちゃんは記憶を失っていて、若子のことを本当の妻だと思い込んでいる。そして、お兄ちゃんは若子を深く愛している。もし真実が明らかになったら、お兄ちゃんはどうなってしまうんだろう......「俺も若子と一緒に結婚式に行けたらよかったのに......それどころか、若子がおばあさんに会いに行くのにさえ付き添えない。こんな夫、本当に情けないよ」西也は深いため息をつきながら言った。 花は彼を励ますように言った。 「お兄ちゃん、そんなこと言わないで。元気になったら、全部解決するから!」「そうだよね......でも、俺、記憶が戻らないままかもしれない」 西也はうなだれて、視線を落とした。 「今、若子はどこまで行ったのかな。どんな結婚式なんだろう。俺も一緒に行けたらよかったのに。一人で寂しくしてないかな......もし、他の人に『旦那さんはどこにいるんですか』なんて聞かれたら、どう答えるんだろう?本当に、俺がそばにいてあげたいよ」彼は静かに息を吐き出し、顔を花に向けて言った。 「来てくれてありがとう。でも、少し一人にしてもらえるかな?」花は小さくうなずいた。 「もちろん。じゃあ、私はこれで。お兄ちゃん、無理しないでね」西也は軽く「うん」と答えた。 「ありがとう。忙しいのにごめんね」花は病院を出て、地下駐車場に向かった。車に乗り込もうとしたそのとき、エレベーターのドアが開き、そこから修と若子が出てくるのが見えた。―あれ?もうとっくに出発したと思ってたのに......花は咄嗟にその場に身を隠し、様子をうかがった。二人の距離はどんどん近づき、会話がはっきりと聞こえる位置にまで来た。「若子、もし体調が悪いなら無理しなくていいんだぞ」「大丈夫よ、体調は悪くないから行けるわ」「本当か?」修の目にはまだ疑念が浮かんでいる。若子は少しイラついたように言った。 「さっき洗面所に行っただけじゃない。洗面所に行っただけで体調が悪いって言われたら、この世の全員が病人ってことになるわね」「でも、俺が近づこうとすると止めただろ」 修は納得がいかない様子で食い下がった。「私が行ったのは女子トイレよ。男のあなたが近づいたら、それこそおかしいでしょ?そんなこと
若子の姿は血まみれだった。 自分の血じゃない、それでも―あまりにも生々しくて、見ているだけで胸がえぐられそうだった。 修はすぐに若子をひょいと抱き上げた。 「ちょっ......なにしてるの!?私はここにいる、彼を待たなきゃ」 「若子、手術はまだまだかかる。だから、まず体を洗って、着替えて、きれいになって......それから待とう。もし彼が無事に目を覚ましたとき、君が血まみれのままだったら、きっと心配するよ?」 若子は唇を噛みしめて、小さく頷いた。 「......うん」 修は若子をVIP病室へと連れて行った。ちょうど空いていた部屋で、すぐに清潔な服を持ってこさせた。まだ届いていなかったけれど― 若子はずっと泣き続けていた。 修は洗面台の前で、そっと後ろから若子を抱きしめるように支え、水を出しながらタオルを濡らして、彼女の手や顔を丁寧に拭っていく。 「いい子だから、じっとしてて。血、すぐ落ちるから」 「修......あんなに血が......彼の血、全部流れちゃったんじゃないの......?」 まるで迷子の子どものように、若子は震えていた。 「医者が輸血するさ。絶対に助けてくれる。若子、手を広げて、もうちょっと拭くから」 彼女の体からは生々しい血の匂いが漂っていて、魂まで抜けたように虚ろだった。 修はタオルで彼女の手、腕、顔を優しく拭い、そしてふと、手を伸ばして彼女のシャツのボタンに指をかけた―その瞬間、 「なにしてるの!?」 若子が慌ててその手を掴んだ。目には警戒と不安の色。 修は一瞬、固まった。そして......思い出した。 ―自分たちは、もう夫婦じゃない。 ただの錯覚だった。かつての関係に、心が勝手に戻ってしまっていた。 もう彼女に触れる資格なんて、ないのに。 それでも、腰にまわした腕は......なかなか離せなかった。 しばらく見つめ合ったあと、若子は静かにタオルを取り、赤く染まったそれを見つめた。 「......自分でやるから。もう出て行って」 修は小さく息を吐き、名残惜しそうに腕を離した。 「......わかった。外で待ってる。何かあったら呼んで」 若子はこくんと頷く。 修は浴室を出て、ドアをそっと閉めた。 鏡の前で水を浴びた若子は、腫れ上がった
確かに、修もヴィンセントに銃を向けた―でも。 あの時、若子の目に映った修の目は......あんな狂気に満ちたものじゃなかった。 しかも、あの場面で修は西也を止めていた。もし本気でヴィンセントを殺すつもりだったら、止める理由なんてなかったはず。 だから、若子は......修を選んだ。 黙り込む若子に、修がそっと問いかけた。 「若子......まだ答えてないぞ。俺のこと、信じてないって言ったのに、どうして俺を選んだんだ?」 「......もう、聞かないで」 若子はうつむいて、ぽつりと呟いた。 「ただ、その場で......なんとなく、選んだだけ。深くは考えてなかったの」 西也のことをここで悪く言うつもりはなかった。あれは彼女の個人的な「感覚」に過ぎない。言葉にするには、曖昧すぎる。 修は深く息を吸い込み、しばらく黙ったまま天井を見つめていた。 「......わかった。もう聞かないよ。でも、若子......もし、こいつが死んだら......お前は、どうするつもりなんだ?」 「そんなこと言わないで!彼は、死なない!絶対に、死なないんだから!」 「でも......」 修の口から出かけた言葉を飲み込む。 ヴィンセントの状態は、正直、絶望的だった。助かる可能性は限りなく低い。でも―今の若子に、それを突きつけるなんて......できなかった。 西也だけでも、十分に厄介だったのに、そこへ現れたヴィンセント。命を賭して彼女を守ったこの男。 一方は陰険で冷静な策士、もう一方は命を投げ出す危険人物― 修の胸は、重く沈んだ。 この泥沼の関係、一体いつ終わるのか。 そして― ―侑子は大丈夫だろうか...... 自分が出て行ったとき、きっと彼女は傷ついていた。放っていくしかなかった自分の無力さを噛み締めながら、彼はただ、唇をかみしめた。 侑子に対して抱くのは、情と同情。 でも―若子に対しては、愛。どうしようもなく、深い愛。 ようやく車が病院に到着し、すでに待機していた医療スタッフが慌ただしく駆け寄ってきた。 ヴィンセントはすぐさま担架に乗せられ、ベッドごと手術室へと運び込まれる。 手術室のランプが点灯する。 若子は、血まみれの服のまま、外で立ち尽くしていた。 震える手を見つめると、そ
―どこで、何が、狂ったんだ? 自分の気持ちが足りなかったのか、行動が空回りしていたのか。 西也の体は力なく落ちていくように崩れ、まるで希望ごと奪われたようだった。 拳を握りしめ、爪が肉に食い込む。 ―こんなはずじゃない。絶対に違う。 やっと若子との関係がここまで進んだのに。なのに、あの「ヴィンセント」とかいう男が、どこから湧いて出た?全部ぶち壊しやがって......! ―許せない。 ...... 夜の闇が、防弾車の車内を静かに包み込む。 漆黒のボディはまるで鋼の獣のように、無音の闇を進む。金属の冷たい光をちらつかせながら、獲物を守るように― 若子はヴィンセントを腕の中でしっかりと抱きしめていた。その瞳には、計り知れないほどの不安が滲んでいる。 車内には、血に染まった止血バンデージが散乱し、痛ましい光景が広がっていた。 窓の外では、夜の都市が幻想的に流れていく。ぼんやりと浮かぶ高層ビル、にじむ街灯、歩く人々の影―けれど誰にも、心の奥底の混乱と恐怖までは見えやしない。 修はその隣で、無言のまま座っていた。表情は険しく、苦しみと焦りが混じったような沈痛な面持ち。眉間のしわ、蒼白な頬―まるで、荒れた海に浮かぶ小舟のような無力さを纏っていた。 「冴島さん、お願い、耐えて......お願いだから、死なないで」 若子は必死にヴィンセントの体温を確かめ、冷えた身体を自分の上着で包み込む。 「お願い......死なないで」 ヴィンセントはすでに意識を失っていて、呼吸もかすかになっていた。 「もっとスピード出して!急いで、お願いっ!」 「若子、もう限界だよ。全速力で走ってる。医療班には連絡済み、もうすぐ到着する」 若子は震える手でヴィンセントの前髪を撫で、ポロポロと涙を落とした。 「ごめんね、ごめん......」 その姿に、修は耐えきれず口を開いた。 「若子、それはお前のせいじゃない。謝る必要なんてないよ」 「黙って!!」 若子の声が鋭く響く。 「もしあの時、いきなりあの部屋を爆破して踏み込まなければ......ヴィンセントさんはこんな目に遭わなかった!私はあなたを信じてた。なのに、あなたは私の想いを......裏切った!」 「でも、俺は今、彼を助けようとしてる。お前だって、俺に
「はいっ!」 部下たちが一斉に動き、ヴィンセントを受け取ろうと前へ出る。 修はすぐに若子の前に立ち、きっぱりと言った。 「若子、ヴィンセントは俺に任せて。安全な病院を知ってる。そこの医者は通報なんてしない。俺が責任を持って、彼のことを秘密裏に処理する」 そう言うと同時に、修は部下にさりげなく目配せをした。 すると―場面はまるでコントのような奇妙な空気に包まれた。 なんと、修と西也、ふたりの陣営がヴィンセントを奪い合い始めたのだ。 「遠藤、お前は引っ込んでろ。今は命を救うことが先決だ。俺には医療のリソースがある」 「お前にあるなら、俺にもある。なめるなよ?俺だって安全な病院にコネがあるし、信頼できる医者もいる。若子、俺にヴィンセントを預けて!」 「若子、信じるなよ、遠藤なんて!彼は腹黒い。ヴィンセントを死なせるぞ。俺なら絶対に助けられる!」 「若子、やめとけ。こいつのことなんて、もう信用できないだろ?こいつが前にお前にしたこと、忘れたのか?」 修と西也、互いに一歩も引かずに言い争いを続ける。 ......もう、ぐちゃぐちゃだった。 「全員、黙りなさいっ!!」 若子の怒声が、あたりを震わせた。 こんな大事な時に、男たちが口げんかしてる場合じゃない。彼女は真っ直ぐに修を見つめた。 「修......最後の最後に、あなたを信じる。ヴィンセントさんを任せるから、絶対に、最善の医者に診せて。彼を助けて」 修は深く頷き、安堵の息を吐くと、自らの腕でヴィンセントを抱き上げた。すぐに部下たちが受け取り、彼を連れて足早に去っていく。 若子も、そのあとを追った。 「若子!」 西也が焦って駆け寄り、叫ぶ。 「どうしてこいつに預けたんだ!?こいつは絶対に、ヴィンセントを殺す!信じちゃダメだ!」 「......さっき、彼はあなたに殺されかけたのよ」 若子は西也の手を振り払い、きっぱり言い放った。 「もういいの。これ以上話したくない。今は彼を救うことだけが私のすべてよ。だからお願い、放っておいて」 混乱と疲労で頭が真っ白だった。何もかもが絡まりすぎて、考える余裕もない。ただひとつ―ヴィンセントの命を救う、それだけだった。 それ以外のことは、あとで考える。 西也は呆然としたまま、若子が自分の手
今の若子には、他のことなんてどうでもよかった。たとえ医者が警察に通報しても、しなくても、彼女が望んでいるのは―ヴィンセントを、生かすこと。 彼がここで死んでしまったら、すべてが終わってしまう。 ヴィンセントは手を上げて、そっと若子の頬に触れた。涙を指でぬぐいながら、弱々しく笑う。 「泣くなよ......どうせ、俺たちそんなに親しくもないし。俺が死んだって、別にいいだろ」 「だめ!絶対にだめ!ヴィンセントさん、お願い、生きて......生きてよ、頼むから!」 「俺が死ねば、妹のところに行ける。だから......そんなに悲しむな。あのふたりの男、君のことすごく愛してるみたいだな。でもさ......俺は、君には幸せでいてほしい。誰かに愛されてるからって、それに縛られなくていいんだ。松本さん、男なんて、あんまり信じるなよ」 「冴島さん、目を開けて!ねぇ、お願い、開けてってば!」 若子は震える手でヴィンセントの瞼を押し開こうと必死になった。 そして、奥歯を噛み締めながら、全力で彼の体を背負い上げる。 「病院に連れてく!絶対に死なせない、私が死んでも、あなたは生きるの!マツだって、きっと同じ気持ちよ!」 そのとき、修がやっと我に返って駆け寄った。 「若子―!」 「来ないでっ!!」 若子は振り返って怒鳴りつけた。 「触らないで、修!あれだけ『撃たないで』って言ったのに、どうして聞いてくれなかったの?なんで私の話を、無視するの!?西也、あんたもよ!何も知らないくせに、勝手に撃って......ひどいよ、ふたりとも、ひどすぎる!」 怒りと絶望が入り混じった叫び声は、途中で息が続かなくなるほどだった。目には怒りの火が灯り、血の気の引いた顔には氷のような冷たさが宿っていた。彼女のその表情に、沈霆修も西也も言葉を失う。 ―まるで、憎しみを湛えているみたいだ。 「若子、俺だって、助けたかったんだよ......」西也は慌てたように言った。「この男が、まさかお前を助けたなんて......そんなの知らなかったんだ!これは、全部、誤解なんだよ!ワザとじゃない、信じてくれ!」 「どいて、もう何も話したくない。どいて!」 彼女の体は小さくても、気迫は誰にも負けなかった。全身が血と汗にまみれても、彼を背負って一歩一歩、出口へ向かおう
「大丈夫、少なくとも彼は助けに来てくれた。もう危ないことはない」 ヴィンセントは、もう死を恐れてなんかいなかった。首の皮一枚で生きる日常、いつ爆発するかわからない時限爆弾を抱えたような人生。今日死ぬか、明日死ぬか、それに大した違いなんてない。 早く死ねば、それだけ早く楽になれる。 若子は力いっぱいヴィンセントを支えて立たせると、修に向かって叫んだ。 「修、お願い―」 その言葉が終わる前に、突然、もう一組の人間がなだれ込んできた。 「若子!無事だった?こっちに来て!俺が助けに来たよ!」 西也はヴィンセントと一緒に立っている若子を見て、全身血まみれの彼女にショックを受けた。そして、反射的に銃を構え、バンバンバンとヴィンセントに向けて数発撃った。 「やめてええええええ!」 若子は喉が裂けそうなほど叫んだ。ヴィンセントが撃たれて、その場に崩れ落ちるのを、目の前で見ることしかできなかった。 「やだ......やだ!」 彼女はその場に膝をついて、苦しげに叫ぶ。 「ヴィンセントさん、冴島さん......冴島さん、お願い、死なないで、お願い......!」 「遠藤、お前ってほんと狂犬ね!」 修が彼を止めに入る。 「何やってんだ!」 「俺は若子を助けに来たんだ!彼女はいま危険だったんだぞ!それをお前は何もせずに突っ立ってただけじゃないか!何の役にも立ってない!だから俺が、夫の俺が守るって決めたんだ!」 西也は修を強く押しのけ、若子のもとへ走り出した。 「来ないで!」 若子は怒りに震えながら、西也に向かって叫んだ。 「なんで事情も知らないのに撃つの!?ひどすぎるよ!」 西也はその場で固まった。若子に責められるなんて思ってもみなかったのだ。 ―こんなこと、初めてだ。 「若子......俺は、助けたかったんだ。電話も繋がらないし、もう心配で、心配で......寝る間も惜しんで探し回って......こいつがどんな奴か知ってるのか?『死神』ってあだ名で呼ばれてる、殺しに躊躇しない化け物なんだぞ!」 「でも、彼は私を助けてくれたの。命の恩人よ。彼がいなかったら、私はもうとっくにあのギャングたちに......殺されてたかもしれない! ねぇ、あと何回言えば伝わるの!?なんでみんな、私の話を聞こうとしな
「......お前......」 修が歩み寄ろうとした瞬間、若子は彼を強く突き飛ばした。 「彼が言ったこと、間違ってなんかない!一言だって間違ってないわ!」 若子の瞳には怒りが燃えていた。 「修、私がギャングに捕まって、暴行されそうになって、殺されかけたとき―助けてくれたのはヴィンセントさんだった!......じゃああんたは?どこにいたの!? どうせあれでしょ、山田さんと手を繋いでアイス舐めあってたんでしょ?あの女の唾液を嬉しそうに食べてたんでしょ? ベッドででも盛り上がってた?私が死にかけてるときに!」 「......っ」 修は言葉を失った。 「はっきり言っておくわ。私は今、助けなんか求めてない。 今さら『心配してる』なんて顔して現れて、正義ぶらないで。全部、自己満足じゃない!」 「自己満足だって......俺は、必死にお前を探した。命がけで心配したんだぞ、それが『無駄』だっていうのか!?」 彼の叫びは、若子の怒りを前に粉々に砕けた。 「感謝するわよ、『探してくれてありがとう』って。でも、結局あんたがしたことは、私の恩人の家を爆破して、彼を傷つけたこと。 私、明日には自分で帰るつもりだった。放っておけばよかったのよ。 それをあんたが余計なことして、勝手に盛り上がって、感動して、自分に酔って―それを私が理解しないって怒る?」 「若子......お前、あんまりだ......どうして、そんなに冷たいんだ......」 修の声はかすかに震えていた。 「冷たい?じゃあ、聞くけど― さっき私が止めたよね?でもあんた、全然聞かなかった。彼に銃を向けて、撃とうとした。 あげくの果てには、『私が正気じゃない』とか言って、自分の都合で全部決めつけて......そんなあんたの努力、私がどうして感謝できるの? 修、あんたの『努力』はやりすぎなのよ」 若子は涙を拭いながら、冷たく言い放った。 「それに― 山田さんとラブラブなんでしょ? だったら彼女のそばにいなよ。なんでこっち来てまで『頑張って助けに来た』とか言ってるの?彼女、あんたの子どもを妊娠してるんでしょ?戻って、ちゃんと支えてあげなよ」 修は目を閉じ、深く息を吸った。 心の中で何かが音を立てて崩れていく。 若子の言葉は、す
「修、彼は私の命の恩人なの!絶対に傷つけさせない!誰にも彼を傷つけさせない!」 「......今、なんて言った?」 修の目が信じられないものを見るように大きく見開かれた。 「......あいつが、お前の命の恩人......だと?」 「そうよ。私が危ないところを助けてくれたのは彼なの。だから、彼を傷つけるってことは、私を傷つけるのと同じなの!」 その言葉に、修は言葉を失った。 事態は、彼の想定を完全に超えていた。 若子が何か薬を盛られて、意識が朦朧としてるんじゃないか― そんな疑念がよぎる。 けれど、彼の目にははっきりと見えていた。 若子の首筋にくっきり残った、指の跡。 明らかに暴力によるものだ。あの男がやったに違いない。 だとしたら、なんで彼女はこんなところにいるんだ? なんで家に帰らず、連絡もよこさなかった? これが「救い」だっていうのか? 「若子、わかった......まず、銃を返して。もう彼には手を出さない」 彼女の感情が高ぶっている中で下手に手を出せば、逆効果だ。 今は、冷静にするのが先。 「本当に?」 若子が疑うように問い返す。 修は静かに頷いた。 「本当だ。銃を、返してくれ」 もしこのまま彼女の手元に銃があれば、暴発の危険すらある。 若子は少し迷いながらも、ゆっくりと銃を修に手渡した。 だが、修は銃を受け取るや否や、すぐさま部下に命じた。 「囲め。あいつから目を離すな」 部下たちが一斉に動き、ヴィンセントを取り囲む。 銃口が一斉に彼へ向けられる。 「あんた......私を騙した......」 若子の叫びが響いた。「なんで......なんでそんなことができるの!?」 彼のもとへ走り寄り、その胸倉を掴む。 「やめて!銃を向けるな!お願い、彼にそんなことしないで!」 「若子、あいつはお前に何をした?」 修は彼女の肩をしっかりと掴み、必死に訴える。 「何か注射されたのか?薬を使われたのか?あいつに傷つけられたのに、なぜそこまでかばう!?病院に連れて行く、すぐに検査を―」 ―バチンッ! 乾いた音とともに、若子の平手打ちが修の頬を打った。 「藤沢修、あんたって人は......!」 「桜井さんのために私と離婚すると決めた
若子が生きていると確認して、修はようやく安堵の息を吐いた。 これまで幾度となく、彼女を探し続けるなかで何度も遺体を見つけ、そのたびに胸が潰れそうな絶望を味わった。 けれど、若子だけは見つからなかった。 代わりに、他の行方不明者ばかりが見つかった。 そして今ようやく、彼女を見つけた。 彼女は―生きていた。 だが彼女がどんな目に遭っていたのか、想像するだけで胸が痛んだ。 「修......なんであなたが......?」 若子は信じられないような目で彼を見つめた。 「どうしてここに?」 まさか来たのが修だったなんて、夢にも思わなかった。 ヴィンセントは目を細めて振り返った。 「この男......テレビに出てたやつじゃないのか?君の前夫だろ?」 若子はうなずいた。 「うん。彼は......私の前夫よ」 修が来たと分かって、若子は少しだけ安心した。 「若子、こっちに来い!」 修は焦った様子で手を伸ばした。 「修、どうしてここに......?」 「お前を助けに来たに決まってるだろ!お前がいなくなって、俺は気が狂いそうだった!」 「わざわざ......私のために......?」 若子は、てっきりヴィンセントの敵が来たのだと思っていた。 「若子、早く来い!そいつから離れて!」 「修、違うの!誤解してる!彼は......ヴィンセントって言って、彼は......」 若子が話し終える前に、修は彼女を後ろへ引っ張り、銃を構えてヴィンセントに発砲した。 ヴィンセントはまるで豹のような動きで避けたが、すぐに更なる銃弾が飛んできた。 すべての男たちが一斉にヴィンセントへ発砲を始めた。 彼はテーブルの陰に飛び込んで避けたが、ついに銃弾を受けてしまった。 「やめて!」 若子は絶叫した。 銃声が激しく響き、彼女の声はかき消されていった。 「修、やめて!」 彼女は必死に彼を掴んで叫んだ。 「撃たせないで、やめて!」 「若子、お前は何をしてるんだ!?あいつは犯罪者だぞ!お前を傷つけたんだ、正気か!?」 修には、なぜ若子がヴィンセントを庇うのか理解できなかった。 「彼は違う、彼はそんな人じゃない......!」 「違わない!」 修は彼女の言葉を遮った。 「