修は軽くうなずきながら言った。 「いいよ。確かにその服、似合ってる。お前は何を着ても似合うからな」本当は、「何も着ない方がもっと似合う」と言いたかったが、それは彼の前でだけ許される特権だった。しかし、今ではその機会すら失ってしまった。以前は当たり前にできたこと、彼女との時間、その全てが、今では夢の中でしか味わえないものになってしまった。修の頭に、不意に西也の姿がよぎる。あの男も、若子の全てを目にしているのだろうか―そんな考えが彼の胸に炎を灯した。若子は、修の瞳に一瞬浮かんだその炎に気づき、首をかしげて尋ねた。 「どうしたの?何か問題でもある?」修は軽く首を振った。 「いや、なんでもない。行こう」彼はエレベーターのボタンを押した。ほどなくしてドアが開き、二人は中に入った。その頃、廊下の向こう側では、花が急いでエレベーターのボタンを連打していた。だが、すでに遅く、エレベーターは下の階へと動き出してしまった。彼女の視線の先には、若子と修が一緒にエレベーターに乗り込む姿が見えていた。二人がどこかへ向かうようだった。花は焦った。このまま修が若子に何かしてしまうのではないかと心配になり、急いで携帯を取り出して若子に電話をかけた。エレベーターを降りた若子は、すぐに電話に出た。 「もしもし?」「若子、今どこにいるの?」「ちょっと出かけてるの」「そうなんだ。どこに行くの?」「友達の結婚式に出席するのよ」「どんな友達?」「おばあさんの知り合いの人の結婚式。そっちのつながりね」「ああ、そういうことね。それで、今一人なの?」「うん。一人で行ってるから心配しないで。すぐ戻るから」若子は修と一緒だということを一切言わなかった。ただの結婚式だし、帰ってきたら何もなかったかのように振る舞えばいい、と考えていた。修の名前を出せば、西也に余計な刺激を与えてしまう。さらに、周りの人たちを心配させるだけだからだ。しかし、若子にとっては、おばあさんのためにどうしても修と行かなければならない理由があった。「分かった。じゃあ気をつけてね」「ありがとう。もし西也に何かあったら、すぐ連絡して」「分かった。じゃあ、またね」そう言って電話が切れた。花はしばらく画面を見つめ、首をかしげた。―一人で行く?でも、さっき修と一緒にエ
花の目に一瞬、憂いの色が浮かんだ。―どうしよう?お兄ちゃんと若子は従兄妹の関係なのに、今のお兄ちゃんは記憶を失っていて、若子のことを本当の妻だと思い込んでいる。そして、お兄ちゃんは若子を深く愛している。もし真実が明らかになったら、お兄ちゃんはどうなってしまうんだろう......「俺も若子と一緒に結婚式に行けたらよかったのに......それどころか、若子がおばあさんに会いに行くのにさえ付き添えない。こんな夫、本当に情けないよ」西也は深いため息をつきながら言った。 花は彼を励ますように言った。 「お兄ちゃん、そんなこと言わないで。元気になったら、全部解決するから!」「そうだよね......でも、俺、記憶が戻らないままかもしれない」 西也はうなだれて、視線を落とした。 「今、若子はどこまで行ったのかな。どんな結婚式なんだろう。俺も一緒に行けたらよかったのに。一人で寂しくしてないかな......もし、他の人に『旦那さんはどこにいるんですか』なんて聞かれたら、どう答えるんだろう?本当に、俺がそばにいてあげたいよ」彼は静かに息を吐き出し、顔を花に向けて言った。 「来てくれてありがとう。でも、少し一人にしてもらえるかな?」花は小さくうなずいた。 「もちろん。じゃあ、私はこれで。お兄ちゃん、無理しないでね」西也は軽く「うん」と答えた。 「ありがとう。忙しいのにごめんね」花は病院を出て、地下駐車場に向かった。車に乗り込もうとしたそのとき、エレベーターのドアが開き、そこから修と若子が出てくるのが見えた。―あれ?もうとっくに出発したと思ってたのに......花は咄嗟にその場に身を隠し、様子をうかがった。二人の距離はどんどん近づき、会話がはっきりと聞こえる位置にまで来た。「若子、もし体調が悪いなら無理しなくていいんだぞ」「大丈夫よ、体調は悪くないから行けるわ」「本当か?」修の目にはまだ疑念が浮かんでいる。若子は少しイラついたように言った。 「さっき洗面所に行っただけじゃない。洗面所に行っただけで体調が悪いって言われたら、この世の全員が病人ってことになるわね」「でも、俺が近づこうとすると止めただろ」 修は納得がいかない様子で食い下がった。「私が行ったのは女子トイレよ。男のあなたが近づいたら、それこそおかしいでしょ?そんなこと
お前と寝たい。 修の心の中でその言葉が何度も浮かぶ。修は淡い笑みを浮かべて言った。 「なんでもない。ただ、君がそんなふうに笑うのを久しぶりに見たなって思って。すごく綺麗だ」お前と寝たい。「じゃあ、私が笑わなかったらブサイクってこと?」若子は真顔で修を見つめた。修は慌てたように首を振った。 「そんな意味じゃないよ、絶対に」笑ってなくても、寝たい。修の心には熱い炎が燃え盛っていたが、顔にはどこか焦りの色が浮かんでいた。「若子......俺が言いたいのは......」「分かった、分かった」 若子は軽く笑って言った。 「冗談よ、からかっただけ」彼女自身もどうしてか分からないが、今日は修に少し意地悪をしたくなった。普段から真面目で冷静な彼が慌てる姿を見るのが新鮮で、思わず面白く感じてしまったのだ。しかも、彼をどう慌てさせるか、なんとなく分かってしまう気がしていた。修は彼女の言葉を聞いて、少し困ったように言った。 「若子、からかうなんてひどい」「いつも私のこと散々いじめてたじゃない。それをちょっとやり返しただけよ」若子のこの言葉はあくまで冗談のつもりだった。だが、修の表情が微かに変わったのを見て、彼女は気づいた。この男には、冗談として流せないこともあるのだと。彼が何でも真に受けてしまうことが、分かりきっていたのに。修は目を伏せ、静かに言った。 「......ごめん」若子は彼の反応に少し戸惑いながらも、すぐに表情を柔らげた。 「さっきのは本当に冗談よ。昔のことなんてどうでもいい。もし気にしてるなら、今こうして一緒にいるわけないでしょ」修は少し寂しそうに彼女を見つめながら、小さな声で言った。 「でも、もう俺のこと、好きじゃないんだよね?」若子は言葉を失い、じっと修を見つめた。 かつて彼女はこの男に対して、たくさんの勘違いを抱いていた。だが今では、彼が彼女に対して間違った期待を持つことのほうが怖かった。―また誤解をさせてしまう。彼に「まだ可能性がある」と思わせてしまう。若子はそんな状況だけは避けたかった。彼の期待を無駄にしないためにも、そして自分を守るためにも。彼女は小さくうなずいた。「そうよ。ずっと知りたかった答えでしょ?はっきり言うわね、修。私はもう、あなたのことを愛してない」―私たちの間に、もう誤解
その後、若子は修がどこに行ったのか分からず、会場内を一通り探したが見つけられなかった。電話をかけても出ない。彼女の胸には次第に不安が広がっていった。ちょうどその時、祖母の友人が彼女を呼び止めた。「若子」若子は振り返り、軽くお辞儀をしながら答えた。 「茅野さん、こんにちは。何かご用ですか?」「ええ、少しお願いがあるのよ」茅野は微笑みながら言った。 「あなたと修、とっても幸せそうに見えるから、ぜひうちの孫娘とその婿さんに、祝福の言葉を何か一言いただけないかしら?」「祝福の言葉、ですか?」若子は困ったように笑った。「でも、私、何を言えばいいのか分からなくて......」「大丈夫よ、簡単でいいの。ほんの少しで構わないから、お願いできる?」「それは......」ほんの小さなお願いだったが、若子はすぐに断るのも気が引けた。ただ、問題は修がどこにいるか分からないことだった。「茅野さん、実は修が今......」「大丈夫です」 突然、背後から男性の声がした。振り返ると、修がいつの間にか戻ってきていた。若子は彼を見て少し驚いた。よく見ると、彼の目は赤く充血し、全身にアルコールの匂いが漂っていた。「どこに行ってたの?」若子は思わず問いかけた。「トイレだよ」修はそっけなくそう答えたが、明らかに嘘だった。若子はそれ以上追及しなかったが、彼がトイレではなく酒を飲んでいたことは分かっていた。―本当にこの人は。胃が弱いくせに、なんでまた飲むのよ......彼女は心の中でため息をついたが、口には出さなかった。今の自分はもう彼の妻ではない。下手に心配して口出しすれば、彼に誤解を与えるだけだったからだ。突然、修が若子の腰を強引に引き寄せ、彼女を抱きしめた。 「俺たち夫婦で、ちゃんと祝福の言葉を言わせてもらいます」若子は驚いて彼を見上げた。彼の行動はあまりにも自然で、冷静だったため、無理に振りほどくこともできなかった。ただ、仕方なく微笑みを浮かべて彼に合わせた。「そうです」修が戻ってきた以上、もう断る理由はなかった。彼女たちは今日ここに祖母のために来ているのだから、きちんと役目を果たさなければならない。茅野のお願いを引き受けると、司会者に紹介され、若子と修はステージに上がった。舞台上では新郎新婦が手を取り合い、二人の登場を待っ
修の冷ややかな声が、会場の隅々にまで響き渡った。 「愛だけじゃ足りない。たった一つの『愚かさ』で、全てを壊してしまうことだってある。たとえ天が結びつけた完璧なカップルでもな」彼の言葉が終わると、会場は一瞬で凍りついたように静まり返った。全員の視線が修に集中する。新郎新婦も目を見開き、修をじっと見つめていた。若子は眉をわずかにひそめ、修を横目でちらりと見ると、嫌な予感が胸をよぎった。彼女はそっと修の袖を引っ張り、やめるよう促す視線を送った。その時、司会者がなんとか場を取り繕おうと笑顔で口を開いた。 「藤沢総裁がおっしゃりたいのは、結婚というものは長く続く複雑なものだから、辛抱強さや寛容さが必要だということですよね。でも、新郎新婦が力を合わせれば、どんな困難も乗り越えられるはずです。先ほど藤沢夫人がおっしゃったように―」「違う」 修が司会者の言葉を遮り、冷たく言い放った。 「辛抱や寛容なんて、ただの自己満足でしかないこともある。相手が本当に必要としているのは、それじゃないかもしれない」司会者の笑顔が一瞬で凍りついた。 「そ、そうですよね、藤沢総裁のおっしゃる通りです。大事なのは夫婦間のコミュニケーション、ということですね。それはとても重要なアドバイスで―」「お前」 修は突然、新郎の目の前に立ちはだかり、冷たい視線を投げかけた。 「お前、自分の心を本当に理解してるのか?自分が何を望んでいるのか、本当に分かっているのか?もし結婚して彼女を手に入れた後で、自惚れて愚かなことをして、彼女を泣かせて傷つけることになったら、その時お前はどうするつもりだ?」修の鋭い視線に新郎は一瞬たじろぎ、緊張した表情で言葉を失った。しばらくの間、何も言えずにいた。「どうして黙ってる?お前、何かやましいことでもあるのか?」 修が鋭く問い詰める。まるで新郎が新婦に何か隠しているとでも思っているかのような様子だった。周りの人々も、修と新郎の間に何か因縁があるのではないかと疑い始めた。新婦は完全に困惑し、どうしていいか分からない顔をしていた。若子は慌てて修の袖を引っ張り、小声で言った。 「修、やめて......」「僕は彼女を愛します!」 新郎はようやく声を絞り出し、慌てて言った。 「妻を絶対に傷つけたりしません。僕は約束します!」修は突然笑い出した。
新婦は焦った様子で新郎の前に立ちはだかった。 「藤沢総裁、少しお疲れなんじゃないですか?もしよければ、一度お休みになられては?」「そんなに急いでこいつを庇うのか?お前、こいつが本当にお前を騙してないってどうして言い切れる?男は甘やかしちゃいけないんだ。こいつ、裏では他の女を囲ってるかもしれないぞ」修の発言に、会場中の人々が凍りついた。大勢の人が見守る中で、新郎新婦に対してこんな無神経な言葉を放つなんて―あまりにも非常識だ。だが、修の立場は特別すぎる。誰も彼を止めに入る勇気はなかった。「その女は誰だ?今ならまだ間に合う、正直に言え!」 修は新郎の腕を乱暴に掴み、力強く引き寄せた。彼の目は怒りに燃え、低い声が咆哮に変わった。 「言えよ!その女の名前を言え!」「藤沢総裁、一体何をされてるんですか!」 新婦は慌てて新郎の腕を掴み、彼を引き戻そうとした。だが修は一歩も引かない。新郎の襟元を強く掴み、冷たく言い放った。 「隠しても無駄だ。言わなければ俺が暴露することになるぞ。その時には、裏切られた者の怒りを存分に味わうことになる。自分で言うなら、まだ救いはあるかもしれない」修の瞳には、まるで氷のような冷たい輝きが宿り、彼の声は会場全体を震わせるような鋭さを帯びていた。「早く言え!」 彼の怒鳴り声が響き渡る。若子は修の手を強く掴み、必死に彼を引き止めようとした。 「修、やめて。私たち、もう下りよう?」会場はすでに限界の緊張感に包まれていた。新郎新婦の家族たちも慌てて駆け寄り、この荒唐無稽な場面をなんとか終わらせようとした。だが修の目を見た新郎は、完全に怯えきっており、耐えきれなくなったのか、ついに叫び声を上げた。 「わ、分かった!......僕は悪気があったわけじゃない。ただ、一度だけなんだ!」その言葉が響いた瞬間、会場中の視線が一斉に新郎へと向けられた。「な、なんだって......?」 新婦は驚愕の表情で新郎を見つめ、震える手でウェディングドレスの裾を掴んだ。信じられない―そう言わんばかりの表情だった。修は冷たい笑みを浮かべ、静かに言った。 「認めたか?結婚の誓いなんて、所詮ただの空約束だ。結婚したって何も変わらない。真実を隠され続けて、裏切られたことに気づくくらいなら、今知ったほうがマシだ」「ただ一度だけだ!」 新郎
新婦がまるで狂ったように新郎の服を引き裂こうと飛びかかり、周りの人々が慌てて止めに入った。 「ほら、もういいじゃないか。みんな見てるし、何かあれば後でゆっくり話そう」「彼にこんなことをされたのに、みんなは笑い話にすることしか考えてないの?あと少しで私は彼と結婚するところだったのよ!」新婦は悔しそうに泣き出し、周囲の人々が「家の恥は外に漏らさない方がいい」となだめ始める。「たった一度のことなんだ。うちの息子もストレスで追い詰められてただけなんだよ」新郎の両親が申し訳なさそうに言う。「なんですって?みんな知ってたのに、私に隠してたなんて......ひどすぎる!一家ぐるみで私を騙してたのね!」会場は一気に騒然となり、誰もがどうすればいいのかわからない状態だった。その様子を眺めていた修は、まるで舞台の上の喜劇を楽しむ観客のような顔をしている。そんな彼に怒りがこみ上げた若子は、堪えきれずに彼の腕を掴み、きつい口調で言った。 「修、ちょっと来なさい」彼女に引きずられるようにして修は歩き出した。足元はふらつき、周囲の視線を浴びていたが、若子は視線を無視して人混みを抜け出すことだけに集中していた。どうにか混乱した場から離れ、人のいない場所に辿り着くと、若子は扉を閉め、険しい顔で修を睨みつけた。 「修、さっき自分が何をしたかわかってるの?」修は鼻で笑い、悠然と彼女を見返す。 「何をしたかなんて、お前も見てただろ?」「まだそんな態度なの?!」若子は怒りを抑えきれず声を荒げた。「おばあさんが私たちにここへ来いと言ったのは、結婚式に出るためよ!邪魔するためじゃないの!さっきのあんたの行動でどれだけ混乱を引き起こしたかわかってる?どうしてあんなことをしたのよ!」「理由ならお前もわかってるはずだろ」修はまるで何も悪くないというようにそっけなく答える。その全身から漂う酒の匂いと、酔っ払いのような態度に、若子は怒りで震えた。「このっ......!」若子は手を振り上げ、修を叩こうとした。しかし―「っ!」修が一瞬で彼女の手首を掴み、その動きを止めた。「何だ、俺を叩くのか?俺が何を間違えたって言うんだ?」「何をしたかなんて、あなたが一番よくわかってるでしょ!」若子は力いっぱい手首を振り解こうとする。「離して!」だが、修はニヤリと笑うと、
「これは他人の結婚式よ。あなたに何の関係があるの?知らない人が見たら、新婦と何か特別な関係でもあるんじゃないかって思うわよ。どうしてそこまで彼女を庇うの?」若子が苛立った口調で言うと、修はふっと笑った。 「妬いてるのか?俺が他の女を庇ったから」「何を言ってるの?妬くわけないでしょう」若子は呆れたようにため息をついた。「ただ、あなたの行動があまりにも酷すぎるって言ってるのよ。私たちはただ結婚式に参加して、終わったら帰るだけだった。それなのに、あんなことをしたせいで、全部めちゃくちゃになったじゃない。おばあさんが知ったら、絶対に怒るわよ!」「俺はわざと大事にしたんだ。あいつらを結婚させないためにな」修の言葉には一点の迷いもない。「だって、あの男がクズだってわかってるからな」その真剣な口調に、若子は冷たい笑みを浮かべる。「へえ、正義感で動いたってこと?さすがSKグループの総裁様ね。まさか、路上で正義を振りかざすタイプだったなんて思わなかったわ」「正義なんかじゃない」修は少し酔った勢いもあってか、若子に一歩近づき、顔を寄せる。その酒臭い息が彼女にかかるほどだった。「ただ、あいつらの結婚式を見て、俺たちのことを思い出しただけだよ」修はさらに声を落とし、彼女の耳元で低くささやいた。 「もし新郎が新婦と結婚したら、きっとあの女はいつか傷つくことになる。お前みたいにな。俺はお前を傷つけた。それがわかってるから、何かしなきゃいけない気がしたんだ」修は目を閉じ、体を少し傾けて彼女の肩に額を押し当てた。 「俺、本当に何かしたいんだよ」若子は視線を宙にさまよわせ、遠くをぼんやりと見つめた。その瞳から焦点が消えたようだった。 「それで?こんなことをして、何の意味があるの?他人の結婚式を壊して、それで何の得があるの?......それでも、私たちは元に戻れない」修はぽつりとつぶやいた。 「若子、この世の中、何でもかんでも『得』がないとやっちゃいけないのか?ただ、やりたいからやる。やるべきだと思ったからやる。それだけだ」 少し間をおいてから、彼は続けた。 「俺があの結婚式を壊したのは事実だ。でも、時間が経ってからあの女が『旦那がクズだった』って気づくよりは、今の方がマシだろう?」若子は黙り込んだ。確かに、その言葉には一理あるのかもしれない。でも―「若
今の若子には、他のことなんてどうでもよかった。たとえ医者が警察に通報しても、しなくても、彼女が望んでいるのは―ヴィンセントを、生かすこと。 彼がここで死んでしまったら、すべてが終わってしまう。 ヴィンセントは手を上げて、そっと若子の頬に触れた。涙を指でぬぐいながら、弱々しく笑う。 「泣くなよ......どうせ、俺たちそんなに親しくもないし。俺が死んだって、別にいいだろ」 「だめ!絶対にだめ!ヴィンセントさん、お願い、生きて......生きてよ、頼むから!」 「俺が死ねば、妹のところに行ける。だから......そんなに悲しむな。あのふたりの男、君のことすごく愛してるみたいだな。でもさ......俺は、君には幸せでいてほしい。誰かに愛されてるからって、それに縛られなくていいんだ。松本さん、男なんて、あんまり信じるなよ」 「冴島さん、目を開けて!ねぇ、お願い、開けてってば!」 若子は震える手でヴィンセントの瞼を押し開こうと必死になった。 そして、奥歯を噛み締めながら、全力で彼の体を背負い上げる。 「病院に連れてく!絶対に死なせない、私が死んでも、あなたは生きるの!マツだって、きっと同じ気持ちよ!」 そのとき、修がやっと我に返って駆け寄った。 「若子―!」 「来ないでっ!!」 若子は振り返って怒鳴りつけた。 「触らないで、修!あれだけ『撃たないで』って言ったのに、どうして聞いてくれなかったの?なんで私の話を、無視するの!?西也、あんたもよ!何も知らないくせに、勝手に撃って......ひどいよ、ふたりとも、ひどすぎる!」 怒りと絶望が入り混じった叫び声は、途中で息が続かなくなるほどだった。目には怒りの火が灯り、血の気の引いた顔には氷のような冷たさが宿っていた。彼女のその表情に、沈霆修も西也も言葉を失う。 ―まるで、憎しみを湛えているみたいだ。 「若子、俺だって、助けたかったんだよ......」西也は慌てたように言った。「この男が、まさかお前を助けたなんて......そんなの知らなかったんだ!これは、全部、誤解なんだよ!ワザとじゃない、信じてくれ!」 「どいて、もう何も話したくない。どいて!」 彼女の体は小さくても、気迫は誰にも負けなかった。全身が血と汗にまみれても、彼を背負って一歩一歩、出口へ向かおう
「大丈夫、少なくとも彼は助けに来てくれた。もう危ないことはない」 ヴィンセントは、もう死を恐れてなんかいなかった。首の皮一枚で生きる日常、いつ爆発するかわからない時限爆弾を抱えたような人生。今日死ぬか、明日死ぬか、それに大した違いなんてない。 早く死ねば、それだけ早く楽になれる。 若子は力いっぱいヴィンセントを支えて立たせると、修に向かって叫んだ。 「修、お願い―」 その言葉が終わる前に、突然、もう一組の人間がなだれ込んできた。 「若子!無事だった?こっちに来て!俺が助けに来たよ!」 西也はヴィンセントと一緒に立っている若子を見て、全身血まみれの彼女にショックを受けた。そして、反射的に銃を構え、バンバンバンとヴィンセントに向けて数発撃った。 「やめてええええええ!」 若子は喉が裂けそうなほど叫んだ。ヴィンセントが撃たれて、その場に崩れ落ちるのを、目の前で見ることしかできなかった。 「やだ......やだ!」 彼女はその場に膝をついて、苦しげに叫ぶ。 「ヴィンセントさん、冴島さん......冴島さん、お願い、死なないで、お願い......!」 「遠藤、お前ってほんと狂犬ね!」 修が彼を止めに入る。 「何やってんだ!」 「俺は若子を助けに来たんだ!彼女はいま危険だったんだぞ!それをお前は何もせずに突っ立ってただけじゃないか!何の役にも立ってない!だから俺が、夫の俺が守るって決めたんだ!」 西也は修を強く押しのけ、若子のもとへ走り出した。 「来ないで!」 若子は怒りに震えながら、西也に向かって叫んだ。 「なんで事情も知らないのに撃つの!?ひどすぎるよ!」 西也はその場で固まった。若子に責められるなんて思ってもみなかったのだ。 ―こんなこと、初めてだ。 「若子......俺は、助けたかったんだ。電話も繋がらないし、もう心配で、心配で......寝る間も惜しんで探し回って......こいつがどんな奴か知ってるのか?『死神』ってあだ名で呼ばれてる、殺しに躊躇しない化け物なんだぞ!」 「でも、彼は私を助けてくれたの。命の恩人よ。彼がいなかったら、私はもうとっくにあのギャングたちに......殺されてたかもしれない! ねぇ、あと何回言えば伝わるの!?なんでみんな、私の話を聞こうとしな
「......お前......」 修が歩み寄ろうとした瞬間、若子は彼を強く突き飛ばした。 「彼が言ったこと、間違ってなんかない!一言だって間違ってないわ!」 若子の瞳には怒りが燃えていた。 「修、私がギャングに捕まって、暴行されそうになって、殺されかけたとき―助けてくれたのはヴィンセントさんだった!......じゃああんたは?どこにいたの!? どうせあれでしょ、山田さんと手を繋いでアイス舐めあってたんでしょ?あの女の唾液を嬉しそうに食べてたんでしょ? ベッドででも盛り上がってた?私が死にかけてるときに!」 「......っ」 修は言葉を失った。 「はっきり言っておくわ。私は今、助けなんか求めてない。 今さら『心配してる』なんて顔して現れて、正義ぶらないで。全部、自己満足じゃない!」 「自己満足だって......俺は、必死にお前を探した。命がけで心配したんだぞ、それが『無駄』だっていうのか!?」 彼の叫びは、若子の怒りを前に粉々に砕けた。 「感謝するわよ、『探してくれてありがとう』って。でも、結局あんたがしたことは、私の恩人の家を爆破して、彼を傷つけたこと。 私、明日には自分で帰るつもりだった。放っておけばよかったのよ。 それをあんたが余計なことして、勝手に盛り上がって、感動して、自分に酔って―それを私が理解しないって怒る?」 「若子......お前、あんまりだ......どうして、そんなに冷たいんだ......」 修の声はかすかに震えていた。 「冷たい?じゃあ、聞くけど― さっき私が止めたよね?でもあんた、全然聞かなかった。彼に銃を向けて、撃とうとした。 あげくの果てには、『私が正気じゃない』とか言って、自分の都合で全部決めつけて......そんなあんたの努力、私がどうして感謝できるの? 修、あんたの『努力』はやりすぎなのよ」 若子は涙を拭いながら、冷たく言い放った。 「それに― 山田さんとラブラブなんでしょ? だったら彼女のそばにいなよ。なんでこっち来てまで『頑張って助けに来た』とか言ってるの?彼女、あんたの子どもを妊娠してるんでしょ?戻って、ちゃんと支えてあげなよ」 修は目を閉じ、深く息を吸った。 心の中で何かが音を立てて崩れていく。 若子の言葉は、す
「修、彼は私の命の恩人なの!絶対に傷つけさせない!誰にも彼を傷つけさせない!」 「......今、なんて言った?」 修の目が信じられないものを見るように大きく見開かれた。 「......あいつが、お前の命の恩人......だと?」 「そうよ。私が危ないところを助けてくれたのは彼なの。だから、彼を傷つけるってことは、私を傷つけるのと同じなの!」 その言葉に、修は言葉を失った。 事態は、彼の想定を完全に超えていた。 若子が何か薬を盛られて、意識が朦朧としてるんじゃないか― そんな疑念がよぎる。 けれど、彼の目にははっきりと見えていた。 若子の首筋にくっきり残った、指の跡。 明らかに暴力によるものだ。あの男がやったに違いない。 だとしたら、なんで彼女はこんなところにいるんだ? なんで家に帰らず、連絡もよこさなかった? これが「救い」だっていうのか? 「若子、わかった......まず、銃を返して。もう彼には手を出さない」 彼女の感情が高ぶっている中で下手に手を出せば、逆効果だ。 今は、冷静にするのが先。 「本当に?」 若子が疑うように問い返す。 修は静かに頷いた。 「本当だ。銃を、返してくれ」 もしこのまま彼女の手元に銃があれば、暴発の危険すらある。 若子は少し迷いながらも、ゆっくりと銃を修に手渡した。 だが、修は銃を受け取るや否や、すぐさま部下に命じた。 「囲め。あいつから目を離すな」 部下たちが一斉に動き、ヴィンセントを取り囲む。 銃口が一斉に彼へ向けられる。 「あんた......私を騙した......」 若子の叫びが響いた。「なんで......なんでそんなことができるの!?」 彼のもとへ走り寄り、その胸倉を掴む。 「やめて!銃を向けるな!お願い、彼にそんなことしないで!」 「若子、あいつはお前に何をした?」 修は彼女の肩をしっかりと掴み、必死に訴える。 「何か注射されたのか?薬を使われたのか?あいつに傷つけられたのに、なぜそこまでかばう!?病院に連れて行く、すぐに検査を―」 ―バチンッ! 乾いた音とともに、若子の平手打ちが修の頬を打った。 「藤沢修、あんたって人は......!」 「桜井さんのために私と離婚すると決めた
若子が生きていると確認して、修はようやく安堵の息を吐いた。 これまで幾度となく、彼女を探し続けるなかで何度も遺体を見つけ、そのたびに胸が潰れそうな絶望を味わった。 けれど、若子だけは見つからなかった。 代わりに、他の行方不明者ばかりが見つかった。 そして今ようやく、彼女を見つけた。 彼女は―生きていた。 だが彼女がどんな目に遭っていたのか、想像するだけで胸が痛んだ。 「修......なんであなたが......?」 若子は信じられないような目で彼を見つめた。 「どうしてここに?」 まさか来たのが修だったなんて、夢にも思わなかった。 ヴィンセントは目を細めて振り返った。 「この男......テレビに出てたやつじゃないのか?君の前夫だろ?」 若子はうなずいた。 「うん。彼は......私の前夫よ」 修が来たと分かって、若子は少しだけ安心した。 「若子、こっちに来い!」 修は焦った様子で手を伸ばした。 「修、どうしてここに......?」 「お前を助けに来たに決まってるだろ!お前がいなくなって、俺は気が狂いそうだった!」 「わざわざ......私のために......?」 若子は、てっきりヴィンセントの敵が来たのだと思っていた。 「若子、早く来い!そいつから離れて!」 「修、違うの!誤解してる!彼は......ヴィンセントって言って、彼は......」 若子が話し終える前に、修は彼女を後ろへ引っ張り、銃を構えてヴィンセントに発砲した。 ヴィンセントはまるで豹のような動きで避けたが、すぐに更なる銃弾が飛んできた。 すべての男たちが一斉にヴィンセントへ発砲を始めた。 彼はテーブルの陰に飛び込んで避けたが、ついに銃弾を受けてしまった。 「やめて!」 若子は絶叫した。 銃声が激しく響き、彼女の声はかき消されていった。 「修、やめて!」 彼女は必死に彼を掴んで叫んだ。 「撃たせないで、やめて!」 「若子、お前は何をしてるんだ!?あいつは犯罪者だぞ!お前を傷つけたんだ、正気か!?」 修には、なぜ若子がヴィンセントを庇うのか理解できなかった。 「彼は違う、彼はそんな人じゃない......!」 「違わない!」 修は彼女の言葉を遮った。 「
彼女に違いない、絶対に若子だ! あの男は誰だ?一体若子に何をした? 修の目には、あの男が若子をここに連れてきたようにしか見えなかった。 若子がどれほどの苦しみを受けたのかも分からない。 修は考えれば考えるほど、動揺と焦りで頭がいっぱいになった。 部下が周囲を確認していた。 この家は簡単に入れない。どこも厳重に警備されていて、爆破しないと入れない状態だった。 突然、監視カメラの映像に映った。 男が女をソファに押し倒したのだ。 その瞬間、修の怒りが爆発した。 若子が襲われていると誤解し、理性を失った彼は即座に命令を出した。 「扉を爆破しろ、早く!」 ...... ソファの上で、ヴィンセントは若子の上から身体を起こした。 「悪い」 「大丈夫、気をつけて」 さっきはヴィンセントがバランスを崩してソファに倒れ、その勢いで若子も倒れたのだった。 ヴィンセントが姿勢を整えると、若子は言った。 「傷、見せて。確認させて」 彼女はそっと彼の服をめくり、包帯を外そうとした。 ―そのとき。 ヴィンセントの眉がぴくりと動いた。 鋭い危機感が背中を駆け抜けた次の瞬間、彼は若子を抱き寄せ、ソファに倒れ込ませた。 「きゃっ!」 若子は驚き、思わず声を上げた。 何が起きたのか分からず、反射的に彼を押し返そうとしたが― その瞬間、「ドンッ!」という轟音が響き、爆発が扉を吹き飛ばした。 煙と埃が宙に舞い、破片が飛び散る。 ヴィンセントは若子をしっかりと抱きかかえ、その身体で彼女を庇った。 その眼差しは鋭く、まるで刃のようだった。 若子は呆然としながら言った。 「何が起きたの?あなたの敵?」 もし本当にそうだったら― この状況は最悪だった。 ヴィンセントはまだ傷が癒えていない、今の彼に戦える力があるか分からない。 「怖がらなくていい。俺が守る」 その声は強く、闇を貫くように響いた。 彼はもうマツを守れなかった。 今度こそ、若子だけは―何があっても守り抜く。 扉が吹き飛んだあと、黒服の男たちが銃を持って突入してきた。 「動くな!両手を挙げろ!」 ヴィンセントはそっとソファの上にあった車のキーを手に取り、若子の手に握らせた。 そして、彼女の耳
ヴィンセントは「なぜだ、なぜなんだ!」と叫び続け、頭を抱えて自分の髪を乱暴に引っ張った。 その姿は絶望そのものだった。 若子は彼の背中をそっと撫でた。 何を言えば慰めになるのか、彼女には分からなかった。 ―すべての苦しみが、言葉で癒せるわけじゃない。 最愛の人を、あんな形で失った彼の痛み。 誰にだって耐えられることじゃない。 もしそれが自分だったら―きっと、同じように壊れていた。 突然、ヴィンセントは手を伸ばし、若子を抱きしめた。 若子は驚いて、思わず彼の肩に手を当て、押し返そうとした。 だが、彼はその耳元でかすれた声を漏らした。 「動かないで......少しだけ、抱かせて......お願いだ」 「......」 若子は心の中でそっとため息をついた。 彼の背中を軽く叩きながら言った。 「これはあなたのせいじゃないよ。全部、あいつらみたいな悪人のせい。 マツさんも、きっとあなたを責めたりしない。 きっと、あなたにこう言うよ。『今を大切にして、毎日をちゃんと生きて』って」 「松本さん......ごめん......君をここに閉じ込めて、マツとして扱って...... ただ、昔の記憶にすがりたかっただけなんだ...... 君を初めて見たとき、マツが帰ってきたのかと思った...... 君があいつらに傷つけられるって思ったら......もう耐えられなかった」 ヴィンセントの表情には、後悔と悲しみが滲んでいた。 その瞳は、内面の葛藤と苦しみに囚われ、涙が滲むような声で語った。 彼は若子に謝っていた。 そして、自分の弱さを―心の奥にある痛みを告白していた。 「それでも、助けてくれてありがとう。私をマツだと思ってたとしても、松本若子だと思ってたとしても......あなたは私を、助けてくれた」 「たとえマツじゃなくても、俺はきっと君を助けてたよ」 ヴィンセントは彼女をそっと離し、その肩に両手を置いた。 真剣な眼差しで言った。 「俺、女が傷つけられるのを見るのが耐えられないんだ」 ふたりの視線が交わる。 その間に流れる空気は、言葉では表せない感情に満ちていた。 若子は、彼の心の痛みを少しでも理解しようとした。 ―もしかしたら、自分が人の痛みに敏感だからかも
若子はほんの少し眉をひそめた。 しばらく考え込んだあと、こう言った。 「私には、あなたの代わりに決めることはできない。あなたが復讐したのは、間違ってないと思う。でも......もしも、まだ彼を苦しめるつもりなら......私は先に上に行ってもいい?見ていられないの」 あまりにも残酷な光景に、若子は夜に悪夢を見るかもしれないと思った。 ヴィンセントは彼女の顔を見て振り返った。 若子の表情は、少し青ざめていた。 彼女は確かに、怖がっていた。 そうだ。 彼女はまともな人間だ。 自分のように、何もかも見てきたような人間じゃない。 怖がって当然だ。 若子は、真っ白なクチナシの花。 自分は、血と泥にまみれた人間。 「......行っていい。すぐに俺も行く」 若子は「うん」と頷き、地下室を出て行った。 扉を閉めると、地下室から音が漏れてきた。 声の出ないその男は、うめくことも叫ぶこともできない。 聞こえてくるのは、ヴィンセントの行動音だけだった。 ナイフが肉を刺す音、物が倒れる音― 若子は耳を塞ぎ、背中を壁に押しつけた。 この世界では、日々さまざまな出来事が起こっている。 善と悪は、簡単に区別できない。 人を殺すことが、必ずしも「悪」ではなく、 人を救うことが、必ずしも「善」とは限らない。 たとえば、殺されたのが凶悪な犯罪者だったなら、それは正義かもしれない。 逆に、そんな人間を救えば、また誰かが被害に遭うかもしれない。 世の中は、白と黒で割り切れない。 極端な善悪の二元論では、何も見えてこない。 しばらくして、扉が開いた。 ヴィンセントが出てきた。手にはまだ血のついたナイフを持っていた。 彼はそのまま、近くのゴミ箱にナイフを投げ捨てた。 「殺した......地獄に落ちて、マツに詫びてもらう」 若子は彼をまっすぐに見つめた。 そこにいたのは、復讐を果たして満足している男ではなかった。 魂を失ったような、抜け殻のような男だった。 突然、ヴィンセントが「ドサッ」とその場に倒れ込んだ。 「ヴィンセント!」 若子は駆け寄って、彼を支えようとしゃがみ込む。 だが、彼は起き上がろうとせず、地面に崩れたまま笑い出した。 「なあ......天
男の体は血だらけで、すでに人間の姿とは思えないほどに痛めつけられていた。 全身からはひどい悪臭が漂っている。 若子は吐き気をこらえながら、口を押さえて顔を背け、えずいた。 「この人......誰?どうして......あなたの地下室に......?」 「こいつが、マツの彼氏だ」 若子は驚愕した。 「えっ?彼女の彼氏が、どうしてここに......?」 ヴィンセントは語った。 妹を殺したのはギャングたちだ― だから、彼はそのすべての者たちを殺して復讐を果たした、と。 だが、その中に彼氏の話は一切出てこなかった。 ―もしかして、妹を失ったショックで、理性を失ってるの......? 「こいつがマツを死なせた張本人だ」 「どういうこと......?ギャングがマツを襲ったって......それならこの人は......?」 「こいつがチクったんだ。マツが俺の妹だって、やつらに教えた」 ヴィンセントは男の前に立ち、声を荒げた。 「こいつが共犯だ!」 その目には殺意が宿っていた。 この男を殺したところで、気が済むわけではない。 それでも―殺さずにはいられないほど、憎しみは深かった。 男は顔も腫れ上がり、誰だか分からない。 身体中を鎖で縛られ、長い間、暗く湿った地下に閉じ込められていた。 声も出せず、体を動かすことすらできず、助けも呼べず― ただ、毎日苦しみ続けていた。 ヴィンセントは彼を殺さず、生かしたまま、マツが受けた苦しみを何倍にもして返していたのだ。 「......そういうことだったのか」 若子は心の中で思った。 マツは―愛してはいけない男を愛してしまったのだ。 女が間違った男を選べば、軽ければ心が傷つくだけで済む。 だが、重ければ命すら奪われる。 修なんて、この男に比べれば、まだマシだ。 少なくとも、彼は命までは奪わない。 ......でも、そういう問題じゃない。 傷つけられたことには変わりない。 「ヴィンセントさん......これからどうするの?ずっとここに閉じ込めて、苦しませ続けるつもり?」 若子には、彼の行動を否定することもできなかった。 非難する資格が自分にはないと分かっていた。 でも、心のどこかで―怖さもあった。 だが、