西也は、若子がこれほどまでに熱心に自分と美咲をくっつけようとしている姿を見て、思わず困惑した。彼女がここまで積極的になるのは珍しい。だが、それが「恋の応援」に使われているとは......「じゃあ、こうしない?」若子は新しいアイデアを思いついたように言った。「美咲を誘って、4人で食事をしようよ」「4人?」西也は眉を上げて聞いた。「どの4人?」「あなたと美咲、私と花よ」若子はじれったそうに彼を見ながら、「なんでそんなに鈍いの?」という表情を浮かべた。「俺たち4人で?」西也はさらに困惑した。「なんでそうなるんだ?」「だって、あなたが一人で彼女を誘うと、それってデートっぽくなるでしょ?でも、友達としてみんなで会うなら全然違うわ。それに、彼女は最近別れたばかりなんでしょ?」西也は内心冷や汗をかきながら「えっと......まぁ、そうだけど......でも、本当にそれでいいのか?」と口ごもった。そもそも美咲なんて存在しない。どうやって誘えっていうんだ?「西也、なんでそんなにぐずぐずしてるの?女の子を追いかけるなら積極的に行動しなきゃダメよ!」若子は微笑みながら断言した。「じゃあ決まりね。明日の昼に美咲を誘って。私もどんな子なのか気になるし」「えっと......」西也は内心大混乱だった。どうしてこんな展開になってるんだ......やっと若子と二人きりで過ごせるチャンスだったのに、美咲とかいう架空の人物に全部壊されるなんて。しかも俺が自分で言い出したことだ!「どうしたの?嫌なの?」西也がためらう様子を見て、若子は少し眉をひそめた。「嫌ならいいけど、前にあんなに相談してきたから、本気でアドバイスが欲しいんだと思ってたわ。でも、私が出したアイデアを聞く気がないなら......はぁ」若子はわざとらしく深いため息をついてみせた。彼女が少し寂しそうな顔をしたので、西也は慌てて否定した。「いや、そんなことはない。ただ、君に迷惑をかけたくないだけだ」「何を気にすることがあるの?私は気にしてないのに。むしろ、あなたが好きになるくらいの女の子なら、きっと素敵な人だと思うから会ってみたいのよ」若子は妙に楽しそうに言った。なぜか、彼女の中に湧き上がる衝動があった。それは、西也が早く恋愛をして、できれば結婚し、家族を築くところを見届けたいと
西也は、若子の表情がふと曇ったのを見て、何か声をかけようとした。でもその瞬間、スマホが鳴って、話が遮られてしまう。父親からだ。プロジェクトを急いで処理するようにと言われ、関係者が待っているからすぐに来いという内容だった。西也は渋々と立ち上がる。「今すぐってかよ......」と呟きながらも、若子が「お仕事なら仕方ないでしょ」と軽く微笑んで促す。そうして彼は若子の家を後にした。西也が出て行ってしばらくして、若子のスマホにメッセージが届いた。内容はたった二文字、「ごめん」。それが修からのものだと知った若子は、少し首を傾げながら返信する。「???」すぐに返事が来た。「この前の朝、お前のスマホに出た。でもその後、お前に言うの忘れてた。隠したかったわけじゃない。ただ忘れてただけだ。気分を害してたらごめん」若子は呆れたように頭を振る。この修ってば、反射神経が鈍すぎる。その時はっきり問い詰めたのに、堂々としれっとしてたくせに。「言われるまで思い出しもしなかったし、済んだことだからもういいよ」と返信する。しかし、また「ごめん」とだけ返ってきた。若子は少し眉をしかめながらメッセージを送る。「どうしてまた謝るの?さっき言ったばっかりでしょ」「さっきのはスマホの件についてだ。今のは......昔、お前を怒らせたり泣かせたりしたことについて」若子は画面を見つめたまま、少し驚いた表情になる。「えっと......どうしたの? 何でいきなり昔のことまで蒸し返して謝るわけ?」「......いや、俺って本当にクズだなって思ってさ」若子は鼻をこするようにして、小さく笑う―何よ、今日はどうしたっていうの?「まさか......末期がんとかじゃないよね?それで人に謝り倒してるとか?」と打つと、修からはバラの絵文字が送られてきた。「心配するな。俺は元気だ。ただお前の優しさには感謝してるよ。明日、健康診断に行ってくる。結果はちゃんと報告する」若子は画面を見つめたまま、短く息を吐いた。「......本当、どうしたいんだか」若子はもう分からなくなっていた。修は一体、何がしたいの?テキストでのやり取りだけなのに、今日は修の様子がいつもとまるで違う。なんだか妙に機嫌が良さそうだ。「別にいいってば。自分の健康を気にすればいいの。健康
若子は自分のメッセージを送信したあと、修が怒って反論してくるだろうと思っていた。きっと言い争いになるだろうし、その準備もできていた。反撃するセリフもいくつか頭に浮かべていたのに―予想外に、修はすぐにこう返してきた。「分かった。もし嫌なら、もう言わない。これからも嫌なことがあったら教えてくれ。俺、ちゃんと直すから」......何これ?若子は戸惑いながらカレンダーを見た。今日はエイプリルフールでもなければ、特別な日でもない。ただの普通の日だ。なのに、修の態度がこんなに......「甘々」?まるで聞き分けのいい子犬みたい。そう、甘えん坊な子犬。そのうち「お姉さん」って呼ばれるんじゃないかと思うくらいだ。さらに、修から次のメッセージが届いた。「若子、ちゃんとご飯食べて、ちゃんと休んで、自分を大事にしろよ。それと、ありがとう」若子はますます混乱した。「......何をありがとうなの?」と返信すると、修は悪戯っぽいスタンプを添えてこう返してきた。「お前が俺のためにしてくれたこと、全部さ」―何のこと?若子はスマホを見つめたまま眉をひそめる。彼が言っているのは、自分が修をずっと好きだったこと?彼に尽くして、良い妻であろうと努力したこと?それを感謝してるってこと?でも、修の様子からして、そういう話ではない気がする。そもそも、彼は自分が彼を愛しているなんて知らないはずだ。まるで彼の中で、若子が何か特別なことをしたと確信しているかのようだ。しかし、最近の若子は彼のために何もしていない気がする。むしろ、離婚問題で散々揉めて、喧嘩ばかりしていたくらいだ。「私、あなたのために何をしたの?」と若子が訊くと、修はこう返してきた。「俺たちの間の話だろ?それで分かるだろう、ありがとう」若子は画面を見つめたまま絶句する。......本気で訊いてるのに、何をかわしてるのよ。さらに困ったことに、修が送ってくるメッセージのたびに、小さな黄色い顔文字が添えられている。微笑んだり、手を振ったり、悪戯っぽい表情だったりーその顔文字がことごとく「おじさん感」全開だ。彼が本当に笑顔を送っているつもりでも、今やそのスタンプは「ふーん」とか「へぇ」といった皮肉を意味するのが常識だ。しかもバラや太陽の絵文字まで送られてきた。漂ってくるこの
送信する前に、突然スマホが鳴った。表示されたのは見知らぬ番号。若子は躊躇しながらも通話ボタンを押した。「もしもし」スマホ越しに聞こえたのは、落ち着いた中年男性の声だった。「松本さん、だ」その声はどこか聞き覚えがある。―今日、ついさっき聞いたばかりの声。間違いない、西也の父親の声だ。若子の頭が一瞬混乱する。「遠藤社長......ですか?」「さっきまで遠藤さんと呼んでいたのに、今度は社長か?」高峯の声は穏やかで、西也に話している時の冷淡さとはまるで違う。若子は思わず黙り込んだ。もしかして聞き間違い?いや、こんな穏やかな声を彼から聞くなんて信じられない。高峯は、彼女の驚きを察したようだった。「心配するな。この電話はお前を叱るためのものじゃない」若子は疑いながら訊ねる。「それで、何かご用ですか?」「西也はまだお前と一緒にいるのか?」「いえ、もう帰りました。遠藤社長からの電話を受けてすぐ、仕事に向かいましたよ」と答え、少し間をおいて付け加えた。「彼、本当に努力家で、とても優秀です」「随分と評価しているようだな」高峯の声には皮肉も怒りもなく、むしろ少し笑みを含んでいるようだった。「ええ」と若子は率直に答えた。「彼は尊敬に値する男性です。社長はとても素晴らしい息子をお持ちですね」「ふふ」爽やかな笑い声がスマホ越しに響いた。その笑い声を聞いて、若子はしばらく前に見た彼の凶暴な姿を思い出す―息子に手を上げようとする、激高した姿。あの時の姿とはまるで違うこの雰囲気。―これは気分屋というだけの問題?それとも何か別の理由?「お前はうちの息子が好きなんだろう?」高峯がそう言うと、若子は心臓が跳ねるように一瞬止まった。「そ、それは違います!」慌てて言葉を重ねる。「私と西也はただの友達です。友情だけです」「本当にそうか?俺の息子が最近、女のせいで仕事に身が入らないときがあった。叱った時も、その女の名前を絶対に教えなかった。その女って、お前だろう?」「遠藤社長、それは誤解です」若子は必死に否定する。「その女って、私じゃありません。私と西也は本当にただの友達です。どうか誤解しないでください」「ほう?どうしてお前にそんなことが分かる?」「だって、西也本人が好きな人がいるって、私に言いましたから」
「小物だなんてとんでもない。伊藤行長と知り合いなら、どうだ?彼女を紹介してくれないか。いずれ雲天も銀行からの融資が必要になるかもしれないからな」ついに若子は、高峯がわざわざ今日電話をかけてきた理由に気づいた。話を回りくどくしながらも、結局は利益のためだった。若子は冷静に応えた。「遠藤社長、正直に言わせていただきますけど、雲天みたいな優良企業なら、銀行側からぜひ融資を提供したいと申し出るはずです。あなたがわざわざ労力をかけなくても、そして私のような小物に頼る必要もないのでは?」この状況はどこかおかしい―彼ほどの人物がこんな方法で支援を求めるなんて。何か他に、高峯が言いたくない理由があるに違いない。「確かにその通りだが」と高峯は言った。「だが、選択はいつだって双方のものだ。大手の銀行の行長と知り合っておくことは、損にはならん。何より、俺だって今日は若子に面子を立ててやったつもりだぞ。息子を罰しなかったのも、そうでなければ今日のところはただじゃ済まさなかったからな」若子はおかしさに口元をゆがめた。「それはあなたのご子息ですよ?彼を殴るかどうかに、どうして他人の面子を考える必要があるんです?」「だが現実問題、そういうことだ。お前がいなければ、今頃彼は病院行きだろうよ。とはいえ、今日の罰を見送っただけだ」若子は眉をひそめ、ふとあることを感じ取った。「まさかと思いますが、それって脅しているつもりですか?」「いや、ただの事実だ」と高峯の声が冷たくなった。「お前が西也に情を持たないなら、俺もお前を脅すことはできん。俺が息子をしつけるのはお前とは関係のない話だろう。お前たちは友人に過ぎないのだから」「遠藤社長、そのようなことをおっしゃるのは、少し大人物らしくありませんよ」と若子はきっぱりと言った。「ご子息のことを大切に思っていなければ、誰が彼を気遣うのでしょうか?」「いい年した男に親が気を遣う必要などあるものか。むしろ、しつけが足りん!」高峯は冷たく言い放った。「松本さんが協力してくれないなら、これ以上は邪魔しないよ。では失礼」そう言って電話を切ろうとする高峯に、若子がとっさに声をかけた。「待ってください!」若子が彼を呼び止めた。高峯はゆっくりと答えた。「何か他に用でも?」「無礼な質問かもしれませんが、西也は本当にあなたのご
少しの沈黙のあと、若子が口を開いた。「何かを約束することはできません。でも、とりあえず聞いてみます」「松本さん、それなら俺も何も約束できないな」高峯は冷静に返した。「お互い頑張らないといけないようだ。俺は忙しいので、これで失礼する。いい知らせを待っているよ」そう言って、高峯は一方的に通話を切った。若子は握りしめたスマホを見つめながら、強く息を吐いた。―高峯はあまりにも冷酷だ。自分の息子を脅しの材料に使うなんて。とはいえ、世の中にはいろんな人間がいる。親だからといって、みんなが親としての資格を持っているわけではない。人渣は親になっても人渣だ。親になったからといって、偉大な人間になれるわけでも、英雄になれるわけでもない。若子は深く考え込みながら、光莉の番号をスマホから引っ張り出した。躊躇しつつも、ついに番号をタップして発信した。通話がつながるまで、かなりの時間がかかった。「もしもし。お母さん、私です」「何か用?」電話の向こうから聞こえてきたのは、冷たい声だった。顔が見えなくても、若子には光莉の声がどこか冷酷に感じられた。きっと何かあったのだろう。「お礼を言いたくて。今日、ありがとうございました。友達が無事でした」「そう」光莉の声はそっけない。「無事ならそれでいい。他に用がある?ちょっと忙しいんだけど」「はい、実はもうひとつお願いがあって」「何?」「その...... 友達のお父さんが、お母さんに会いたいと言っていて。豊旗銀行の行長だって知って、ぜひお会いしたいそうなんです」電話越しに、重たい沈黙が数秒続いた。やがて光莉の冷たい声が聞こえた。「その友達の父親って、さっきのあの人?」「そう。雲天の社長、遠藤高峯です」また数秒の沈黙が訪れた。「そう」と光莉が短く答える。「その人、名前は聞いたことある。でも、会いたくはないわ」若子が一番恐れていた展開が現実になった。「お母さん、お願いです。ご迷惑をかけるのは分かっています。でも、少しだけでも顔を出してもらえませんか?適当に話すだけでいいので、深い付き合いをする必要はありません」「無理よ」光莉の拒絶はあまりにあっさりしていた。「今は時間がない。忙しいから切るわね。さようなら」それだけ言うと、光莉は一方的に通話を切った。若子は、あま
西也は若子と別れた後、ずっと仕事に追われていた。高峯が大量の仕事を押しつけたため、あちこち飛び回り、様々な場所を訪れる羽目になったのだ。深夜になって、ようやく住まいに戻ったとき、西也は一口の水も飲めておらず、完全に疲れ果てていた。ソファに力なく腰を下ろし、ただぼんやりと天井を見上げる。―父親の厳しさに辟易するたびに思う。もしかして、自分は本当の息子ではないんじゃないかと。でも血液型も同じだし、顔もそっくりだ。親子関係に間違いはない。―結局のところ、自分は冷血な父親を引き当ててしまったんだろうな。この世には、冷血動物にも繁殖能力があるのだから。「お兄ちゃん、おかえり!」西也が座り込んでいると、花が二階から降りてきて、疲れた表情を見て声をかけた。西也は眉をひそめる。「お前、なんでここにいるんだ?」「ここに住むって言ったでしょ?しばらくお邪魔させてもらうわよ」花は落ち着かない様子で手をいじりながら続ける。「だって、家に帰りたくないもん。お父さん、あんなに厳しくて、顔を見るだけで怖いんだもん」西也は深いため息をつき、疲労に満ちた顔で言った。「好きにしろ」「お兄ちゃん、どうしたの?」花は西也の様子に疑問を抱き、ただ疲れているだけじゃないと感じた。彼女は西也の隣に腰を下ろし、そっと尋ねた。「今日、若子が助けてくれたんでしょ?普通、嬉しいことじゃないの?なんでため息なんかついてるの?」「それは嬉しかったさ。でもそのあと、彼女が俺と別の女性をくっつけようとしてきたんだ。どう思う、ため息つくべきだろ?」「え?誰か紹介されそうになったってこと?」花は目を丸くする。「もしかして、若子が誰かを紹介してくれようとしたの?」彼女は、若子がそんなことをするとは思えなかった。西也はもう一度ため息をつくと、今日の出来事を一から説明した。話を聞き終えた花は、あまりの内容にあっけに取られ、口が開いたままになった。「で、あなたは『高橋美咲』って名前の女性をでっち上げて、若子を納得させたってこと?」西也は真顔で頷く。「そういうことだ。だから、明日までに『高橋美咲』という名前の女性を見つけてくれ」「ええっ!私に探せって言うの!?」花は胸を押さえ、大げさに驚いた。「そんな人どこにいるのよ!」「お前の友達、適当に付き合ってるや
「もしかして、高橋美咲って友達がいたりする?」西也が口元に薄い笑みを浮かべて問いかける。花はその場で固まった。完全に兄にペースを握られている。「いないけど!」花は唾を飲み込むと、急に背筋をピンと伸ばして真顔で返答した。西也は面白そうに眉を上げたが、特に何も言わずにカードを懐にしまおうとする。だがその瞬間、花がガッと手首を掴んだ。「でも! 私なら高橋美咲を作れる!」そう言うなり、慎重な手つきで黒いカードを西也の手から抜き取り、自分の胸にギュッと抱きしめた。まるで兄に奪い返されるのを警戒するように。「お兄ちゃん、サランヘヨ♡」冗談っぽく飛ばしたウインクとともに、花はにっこりと笑った。「じゃあ、さっそく高橋美咲探してくるね!」夜中。若子は喉が渇いて目を覚ました。コップに水を注ぎ、一口飲む。けれど、胸のざわつきは収まらない。考えることが多すぎる。特に西也のこと。このことだけは西也に知られちゃいけない。自分一人で解決するしかなかった。あの人は、西也の実の父親─若子は皮肉めいた笑みを浮かべた。こんな馬鹿げた話が現実にあるなんて。実の息子を使って他人を脅すなんて、どれだけ歪んでいるのか。とはいえ、高峯の鋭さには感心せざるを得なかった。初対面の瞬間から、彼女の弱点を正確に見抜いていたのだから。ベッドに戻ったものの、眠れず天井をぼんやり見上げる。やがて彼女は再び身を起こし、スマホを手に取った。「西也、まだ起きてる?」送信ボタンを押して数秒も経たないうちに、返信が返ってきた。「まだ寝てないよ。どうした? 何かあった?」文字だけでも、西也が心配しているのが伝わってくる。「別に、大したことじゃないわ。ただ、そっちは大丈夫かなって思っただけ」「俺は平気だよ。さっきやっと仕事が片付いたところだ」時計を見ると、もう深夜11時40分を過ぎている。「こんな時間まで忙しかったの?」「まあね。今日は色々あったから。ちょうど風呂上がりで、横になったところで君のメッセージを見たんだ」「それなら早く休んで。邪魔しちゃ悪いから」「気にするな。まだ眠くないし、話したいことがあれば聞くよ」「本当に何もないの。ただ、こんな時間だなんて気づかなかっただけ。もう寝て」「君からメッセージが来て嬉しいよ。今夜はぐっすり
「明日、手術を受けるの。お医者さんに、無理な移動はしないようにって言われたわ。お腹の子に影響があったら、大変だから......」 若子は心配そうに呟く。 本当なら、修に会いに行きたい。どんなことをしてでも、彼に会いたい。 でも、彼女のお腹には修の子どもがいる。 だからこそ、無謀な行動はできなかった。 「お兄ちゃんは、今日藤沢に会いに行こうとしていたことを知ってるの?」 花が問いかけると、若子は頷いた。 「知ってるわ。昨日の夜に話したの。でも、お医者さんに止められちゃって......」 「なるほどね......」 花はちらりと目を細め、何か考え込むように視線を動かした。 ......なんだか、ちょっと引っかかるな。 若子は考えれば考えるほど、気持ちが沈んでいく。 「明日の手術......無事に終わるといいけど......でも、それよりも修に会いたい......せめて、電話に出てくれれば......」 「若子、藤沢が今どこにいるか、分かるのよね?」 花の問いかけに、若子は反射的に頷いた。 「ええ、分かるわ」 「じゃあ、私が車を出して連れて行ってあげようか?」 「本当!?」 若子の顔が一瞬で輝く。 でも、すぐに冷静になり、心配そうにお腹を押さえた。 「でも、お腹の子どもが......お医者さんが―」 「それは、お医者さんが『万が一』を心配してるからでしょ?」 花は若子の言葉を遮り、説得するように言う。 「車椅子に乗せて、移動は私が全部やるから。車に乗るのも、降りるのも、私がちゃんとサポートするわ。あなたは一切動かないで、ただ座ってるだけでいいの。そうすれば、問題ないんじゃない?」 若子は花の言葉を聞いて、ぐらりと心が揺れた。 「......それなら、大丈夫かもしれない......」 でも、少し迷いが残る。 「念のため、お医者さんに確認したほうが......」 「お医者さんに聞いたら、『ダメ』って言われるに決まってるわよ。慎重な人たちなんだから。もし問題なくても、絶対に行かせてくれないわ」 花の言葉を聞いた瞬間、若子の心は決まった。 「......そうね。分かった、花、お願い。連れて行って」 ―ついに、会いに行く理由を見つけた。 もう迷わない。どん
花の姿を見た瞬間、若子はふぅっと息を吐いた。 やっと気を使わなくていい相手が来た...... 「何があったの?」花が問いかけると、若子は軽く首を振った。 「......説明するのが面倒なくらい、いろいろよ」 それを聞いた花は、すぐに察したようにうなずく。 「なんとなく、分かる気がする」 若子は花のそばへ歩み寄ると、ふっと息をついて言った。 「少し外に出て気分転換したいの」 「いいわよ。じゃあ、ちょっと待ってて。車椅子を取ってくるね」 「大丈夫、私は歩けるからいらないわ」 「ダメよ」花はきっぱりと言った。「明日手術なんだから、無理しちゃダメ。ちゃんと車椅子に座って、私が押してあげる。お腹の赤ちゃんのためにもね」 若子はその言葉に少し考えた後、しぶしぶ頷いた。 「......分かった」 「俺も一緒に行く」西也が口を開いた。 「お姉さん、僕も付き添います!」ノラもすかさず言う。 しかし、若子はすぐに却下した。 「必要ないわ。あなたたちはここで大人しく寝てなさい」 そう言い残し、若子は花を見送る。しばらくして、花が車椅子を持って戻ってきた。 若子が出発する前に、彼女は付き添いの介護士に釘を刺した。 「この二人をしっかり見張っていてください。私が戻るまでベッドから降ろさないように。もし誰かが抜け出そうとしたら、すぐに私に知らせて。お金で買収されちゃダメよ。彼らがいくら払おうとしても、私が倍額出すわ」 介護士は力強く頷いた。 「分かりました!しっかり見張ります!」 若子は二人に向き直ると、最後に念を押した。 「演技が得意みたいだから、ここでじっくり寝ててちょうだい。もし一人でもベッドを抜け出したら......私は二度とそいつを相手にしないわよ。絶対にね」 西也とノラはビクリと震え、慌てて首を縦に振る。 それを見ていた花は、思わず目を丸くした。 ―このノラって子はともかく、あのお兄ちゃんまで若子に従ってる......!? すごい......若子、めちゃくちゃ強い......! 花は車椅子を押しながら、若子を病院の小さな庭園へ連れ出した。 空は次第に暗くなり、夕暮れのオレンジ色がゆっくりと消えていく。 二人は池のそばまで進み、若子は深く息を吸い込んだ。 ―外の
「ノラ、もう十八歳でしょ?立派な大人なのに、そんな子どもみたいなことして」 若子は、まるで本当の姉のようにノラを叱る。 もっとも、若子自身もノラより三つちょっと年上なだけなのだが。 ノラはしょんぼりとうつむく。 「ごめんなさい、お姉さん。僕が悪かったです......」 「そんな可哀想な顔してもダメよ。そうすれば許してもらえると思ってる?」 そのやりとりを見ていた西也が、突然クスクスと笑った。 ようやく若子も、この偽善者の本性に気づいたか......いいことだ。 だが、その笑いを若子は見逃さなかった。 「何がおかしいの?」 ピシャリと言われて、西也は動きを止める。 「......別に」 「別に?じゃあ何で笑ってたの?もしかして、調子に乗ってる?」 西也の笑みが一瞬で凍りついた。 いやいや、若子もさ......こんなに容赦なく詰めなくてもいいだろ? 「そんなんじゃ―」 「じゃあ、なんで笑うの?あなたもノラと同じくらい幼稚じゃない?頭が痛いとか言って、急に弱ったふりして倒れ込むなんて。そんなに演技が上手いなら、俳優にでもなれば?」 西也は口元を引きつらせる。 「若子、俺は本当に頭が痛かったんだ。ほら......痛い......」 わざとらしく額を押さえてみせる。 だが、若子は腕を組み、冷たい目で彼を見下ろした。 「......二十七にもなって、そんな子どもみたいなことして?ご飯食べてる途中で急に頭痛って......まるでドラマじゃない?」 若子は西也が本当に頭痛を感じている時と、ただの芝居の時の違いが分かる。 今回のは間違いなく「演技」だ。 西也はバツが悪そうに手を引っ込め、視線をそらした。 「......悪かったよ。別にわざとじゃない」 「わざとじゃなくても、やったことは変わらないでしょ?」 若子は二人を交互に指さし、きっぱりと言い放つ。 「二人とも、問題ありすぎ!」 公平に叱りつけるその姿勢に、二人は思わず息をのむ。 「私が明日手術を受けるって分かってるのに、ここで嫉妬合戦を繰り広げるなんて......」 ―嫉妬合戦。 その言葉が二人の胸にグサリと突き刺さる。 若子は、彼らの本音をあっさりと見抜いていた。 「お姉さん、怒らないで...
若子は二人にしっかり布団をかけた。 その瞬間、西也とノラは一つのベッドに整然と並んで横たわる形に。 若子は両手を腰に当て、冷たい口調で言った。 「これでよし。二人ともそのまま横になって休みなさい」 目の前の二人を見て、若子ははっきりと分かった。 ......こいつら、完全に嫉妬合戦をしている。 ここを何だと思ってるの?ハーレムじゃあるまいし! 西也とノラはお互いをチラッと見て、不満げな視線を送り合う。 「若子、もう大丈夫だ。具合も良くなったし、俺は先に―」 西也が身を起こそうとした瞬間、若子の怒声が飛んだ。 「動いちゃダメ!」 西也の体がビクッと震え、そのまま布団に戻って横になった。微動だにしない。 若子が怒るのが一番怖いのだ。 若子は少し苛立ちながら言った。 「いい?二人とも絶対に起き上がっちゃダメ。横になったまま!もし動いたら、ここから出て行ってもらうからね!もう二度と顔なんか見たくないわ!」若子は彼らが競い合う様子に呆れていた。 嫉妬なんて、いい歳した大人の男がすることじゃないでしょ! ここできちんと懲らしめないと、ますます調子に乗る。 若子の怒りに、西也とノラは何も言い返せず、ぐうの音も出ない。 これ以上逆らえば、本当に怒りを買うことになる......二人は静かに横たわり、大人しくしているしかなかった。 少し時間が経ち、若子はドアの方へ向かおうとする。 その瞬間、二人の男が布団の中でそっと動き出そうとした―が、若子はすぐに振り返り、鋭い目で睨みつけた。 「動かないでって言ったでしょ!」 二人は一瞬でピタッと動きを止めた。 若子が指を指し、厳しい口調で命令する。 「そのまま横になってなさい!」 二人はまるでしっぽを巻いた犬のようにおとなしくなった。 若子が病室を出て行くと、西也はノラに向き直り、険しい表情で睨みつけた。 「お前のせいだ。なんで余計なことをした?」 ノラは無邪気な顔で、「何のこと?僕は舌を噛んだだけですよ」と無実を主張する。 「......気持ち悪いぞ。お前、いい歳してそんな甘ったるい態度を取るな!」 「いい歳って、僕まだ十八歳ですよ?」ノラは無邪気に目を瞬かせる。「西也お兄さんは何歳なんですか?」 西也の胸の奥に何かが
西也は平然とした顔で微笑んでいた。 「西也お兄さん、ありがとうございます!」ノラは嬉しそうに言い、「断られたらどうしようって思ってたんですけど、よかったぁ。これで僕にもお兄さんができました!大好きです!」 そう言って、両手でハートの形を作る。 西也は微笑みながら、軽く肩をすくめた。 「おいおい、お前な......男のくせに、女みたいなことするなよ」 「女の子がどうしたんですか?」ノラはふくれっ面で言う。「女の子は素敵ですよ?お姉さんだって女の子じゃないですか」 西也はため息をつき、肩をすくめた。「はいはい、好きにしろ」 このガキ......あとで絶対に叩きのめす。 その後、三人は引き続き食事を続けた。 最初、若子は少し気を使っていた。西也がノラを気に入らないかもしれないと思っていたからだ。 しかし、西也がはっきりと受け入れを示したことで、彼女の心配も吹き飛んだ。安心した彼女は、ノラとさらに楽しく会話を続けた。 その間、西也はまるで背景のように黙って二人のやり取りを眺めていた。 ノラの口元に米粒がついているのを見つけると、若子は自然に手を伸ばしてそれを拭き取る。 「もう、まるで子どもみたい。口の周り、ベタベタよ?」 「だって、お姉さんの前では僕、子どもみたいなものでしょう?」 ノラはそう言いながら、すぐにティッシュを手に取ると、若子の口元を優しく拭った。 西也の目が、一瞬で燃え上がった。 ......殺意の火が。 バンッ! 西也の手から箸が落ち、床に転がる。 同時に彼は額を押さえ、ぐらりと身をかがめた。 若子は横目でそれを察し、すぐに声をかける。 「西也、大丈夫?」 西也は片手でこめかみを押さえながら、弱々しい声で言った。 「......大丈夫だ」 そう言いつつ、彼の体はふらりと揺らぎ、そのまま横に倒れそうになる。 若子はすぐに立ち上がり、彼の腕を支えた。 「西也、疲れてるんじゃない?昨夜、あまり眠れなかったんでしょう?少し休んだ方がいいわ」 「平気だよ、若子。お前は座っててくれ」 そう言いながら、西也は逆に彼女をそっと座らせる。 二人の距離が急に縮まり、寄り添う形になった。 「わっ!」 突然、ノラの小さな悲鳴が響いた。 若子が振り返ると
若子はノラのことを弟というだけでなく、まるで息子みたいに感じていた。 西也は眉をひそめ、露骨に嫌そうな顔をする。 どこから湧いてきた偽善者だ? 本人は恥ずかしくないのか? 「西也兄さん、どうかしましたか?」ノラが首をかしげる。「どうして食べないんですか?お姉さんはあまり食べられないから、西也兄さんがもっと食べてください。僕、おかず取りますね」 そう言いながら、ノラは西也の茶碗に料理を入れる。 西也は思わず茶碗を避けようとしたが、ふと何かを思いつき、そのまま手を止めた。 「......今、なんて呼んだ?」 聞き間違いじゃないよな? こいつが俺を「兄さん」なんて呼ぶ資格あるのか?ずいぶん大胆じゃないか。 「僕、お姉さんのことを『お姉さん』と呼んでいますよね?」ノラは当然のように言った。「お姉さんのご主人なら、西也さんは僕の『お兄さん』です。だからこれからは『西也お兄さん』と呼びますね!やったぁ、僕、お姉さんだけじゃなくて、お兄さんもできました!」 わざとらしく声のトーンを変えながら言うノラに、西也は拳を握りしめた。 こいつを豚の腹にぶち込んで、転生し直させてやりたい......! 自分の立場もわきまえずに「お兄さん」とか抜かすなんて、冗談だろ。 若子がここにいなかったら、今頃ボコボコにしてるところだ。 若子は西也の顔色が変わったのを見て、すぐにノラに言った。 「ノラ、お姉さんって呼ぶのはいいけど、西也をお兄さんって呼ぶなら、ちゃんと本人の許可をもらわないと。確かに彼は私の夫だけど、自分で決める権利があるからね」 若子は無理に西也を縛りたくなかった。 彼がノラのことを好きじゃないのは分かっていた。それでも、彼は自分のために我慢している。 だからこそ、彼の気持ちを無視してノラをかばい続けるのは、彼に対して不公平だと思った。 「申し訳ありません、お姉さん......僕、勝手でしたね」 ノラはすぐに箸を置き、西也に真剣な眼差しを向けた。 「僕、西也お兄さんと呼んでもいいですか?」 大きな瞳をキラキラさせ、無垢な顔でじっと見つめながら、控えめに唇をかむ。 その仕草が、西也にはものすごくイラつく。 お前、何その顔? なに猫なで声出してんだよ? 男のくせにそんな媚びた表情して、
しばらくして警察が病室を出て行くと、すぐに西也が戻ってきた。 「若子、大丈夫か?」 彼は真剣な表情で、心配そうに若子を見つめた。 警察の質問は、彼女に過去の苦しい記憶をもう一度思い出させるものだった。若子はベッドに座りながら、身にかけた布団をぎゅっと握り締めて答えた。 「大丈夫よ、心配しないで」 西也はベッドの横に腰を下ろし、彼女をそっと抱きしめて、自分の胸に引き寄せた。 「俺がいる。どんなことが起きても絶対に守る。もう二度とこんな目には遭わせない」 その言葉には優しさと決意が込められていたが、彼の鋭い視線は、少し離れた場所でじっとしているノラへと向けられていた。 ノラは気にする様子もなく、椅子に腰掛けると優しく言った。 「お姉さん、警察がきっと誘拐犯を捕まえますよ。お姉さんがこんな目に遭うなんて、本当に心が痛いです。どうしてお姉さんばかり......神様はお姉さんに冷たすぎます」 そう言うと、ノラの瞳から涙が次々と零れ落ちた。それはまるで、真珠のように綺麗で、見る人の心を打つものだった。 若子は驚いてすぐに西也の胸から身を起こし、ノラの方を向いた。 「ノラ、泣かないで。私は無事なんだから。ほら、今こうして元気でいるでしょ?」 ノラは涙をぬぐうこともせず、絞り出すような声で言った。 「でも、お姉さん、怖かったでしょう?きっとすごく怖かったはずです」 西也は眉をぐっと寄せた。彼の中でイライラが頂点に近づいていた。 ―普通の人間がこんなにすぐ泣くか?これは絶対に演技だ。 若子はノラのためにティッシュを取り、彼の涙をそっと拭き取った。 「ノラ、本当に大丈夫よ。もう終わったことだし、泣かないでね。あなたが泣いてると、私まで落ち着かなくなっちゃうわ」 「わかりました、お姉さん。もう泣きません」 ノラは涙をぐっとこらえ、優しい笑顔を見せた。 彼の表情が明るくなったのを見て、若子も安心した様子で笑った。 「そう、それでいいのよ。笑顔が一番大事だわ」 そのとき、ノラは西也の方に目を向け、礼儀正しい笑顔を浮かべた。 その笑顔は眩しいほどに輝いていたが、それが余計に西也の苛立ちを煽り、今にも引き裂いてやりたい気持ちになった。その後、3人は一緒に夕食を取ることになった。 若子とノラの会
「ノラ、何が食べたい?」と若子が尋ねると、ノラは穏やかに微笑みながら答えた。 「僕は何でも好きですよ。お姉さんが食べるものなら、それに合わせます。でも、お姉さんは明日手術を受けるんだから、少しはあっさりしたもののほうがいいんじゃないですか?」 ノラの気遣いの言葉に、若子は優しく微笑んだ。 「そんなに気にしなくていいわ。普通に食事すればいいのよ」 すると、西也が口を挟んだ。 「それじゃ、お前たちはここで話していてくれ。俺が食事を準備させるよ。安心してくれ、きっと両方が満足できるものを用意するから」 そう言うと、西也は病室を出て行った。 だが、彼は部屋を完全に離れたわけではなく、ドアのそばに立って様子を窺っていた。 ―このガキ、俺の悪口を言っていないか? しばらく耳を澄ませていたが、ノラは特に西也を非難するようなことは言わず、若子と他愛のない話をしているだけだった。 ―十八歳そこそこの小僧がこんなに「演技」がうまいとはな。無垢で無害を装って、若子を騙してるだけだ。 西也は心の中でそう思いながら、静かに聞き耳を立て続けた。 「ノラ、西也はただ私のことを心配しているだけなの。だから気にしないでね」 若子は優しく語りかけた。 ノラは笑顔で首を振りながら答える。 「お姉さん、大丈夫です。僕は気にしていませんよ。旦那さんがお姉さんを大事に思ってる証拠じゃないですか。旦那さんの気持ちもちゃんとわかっていますよ」 その言葉には全く怒りの気配がなかったが、どこか含みのあるようにも聞こえた。 若子は少しほっとした表情を浮かべる。 「そうならよかったわ」 「それにしても、旦那さんすごいですね。元気になられて、今はお姉さんの面倒まで見ている。以前はお姉さんが世話をしていましたよね」 ノラがそう言うと、若子はうなずきながら答える。 「ええ、すっかり元気になったの。でも、過去のことを思い出してくれるともっといいんだけど......あの事件の犯人もまだ捕まっていないし」 その話題になると、若子の表情は曇り、深いため息をついた。 ノラはそんな若子の手を優しく握り、軽く叩いて慰める。 「お姉さん、心配しないで。必ず犯人は捕まります。正義は悪には負けませんから」 ノラは変わらない落ち着いた表情で語った。若
西也の態度が軟化したことで、若子の怒りも少しだけ収まった。 彼女はノラに向き直り、申し訳なさそうに言った。 「ノラ、ごめんなさい。西也は今、ちょっと警戒してるだけなの。悪気があったわけじゃないから、気にしないでね」 ノラは穏やかな笑顔を浮かべながら、柔らかい声で答えた。 「大丈夫ですよ、お姉さん。僕は気にしてません。西也さんもお姉さんのことを思ってのことだって、ちゃんとわかってますから。夫婦なんだから、お姉さんのそばに他の男がいたら不機嫌になるのも当然ですよ」 ノラの言葉は一見すると寛大な態度を示しているようだったが、その裏には微妙な皮肉が込められているように聞こえた。 西也はその言葉に隠された意図をすぐに察し、拳を強く握りしめる。 ―こいつ、俺を小物扱いしてるのか? 若子は西也の表情をチラリと見たが、何を言えばいいのか分からなかった。 修の件で西也は既に苛立っている。その上、ノラとのやり取りも彼を不快にしている。 ―彼が不機嫌にならない人なんて、私の周りにいるのだろうか? そもそも彼は、私のそばに異性がいるだけで嫉妬する。 そしてそのたびに、私は彼に説明しなければならなくて、時には口論に発展することもある。 ―離婚しないって約束したのに、それでもまだダメなの?友達くらいいたっていいじゃない。 それも、ノラとは兄妹みたいな間柄なのに。 若子はため息をつきながら考えた。 西也と一緒にいることが、以前よりもずっと疲れると感じることが増えた。 かつて彼は、彼女の前に立ちはだかる嵐をすべて防ぎ、最も辛い時期を支えてくれた。 だが今では...... ―記憶を失うと、人の性格も変わるものなのだろうか? 彼を悪く思いたくはない。だからすべては記憶を失ったせいで、彼が不安定になっているせいだと、自分に言い聞かせるしかなかった。 若子は小さく息を吐き、静かに言った。 「ノラ、とにかく西也が悪かったわ。あなたが気にしないと言ってくれて本当にありがとう」 西也はその言葉にブチ切れそうだった。 彼女が愛しているのは自分だ。それなのに、自分を悪者にしてこのヒモ男に謝るなんて。 ―もし若子が俺の愛する女じゃなかったら、このガキをとっくに叩き出してるところだ。 だが、彼女が彼にとって何よりも大