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第341話

作者: 夜月 アヤメ
病室には二人だけが残り、西也が少し気まずそうに笑って言った。

「若子、あの子のことは気にしないでくれよ。花はいつも考えなしに話すからさ」

若子は「気にしてないわ。素直で明るいし、悪い子じゃないわね。むしろ、かわいくて好きよ」と微笑んだ。

若子がベッドから降り、靴を履こうとした瞬間、西也がすぐに膝をつき、「俺がやるよ」と言ってしゃがみ込んだ。彼は彼女の足首を軽く支え、靴を手に取った。

若子は反射的に足を引こうとしたが、西也はそれに気づいて顔を上げると、「ここは俺に任せてよ。低血糖でまたふらついたら危ないし、赤ちゃんにもよくない」と優しく言って再び顔を下げ、彼女の足をそっと靴の中に入れた。

それはまるで礼儀正しい執事のようで、紳士的な仕草だった。

若子はふと目を落とし、彼が自分に靴を履かせてくれている光景を見つめた。頭の中で過去の記憶がよみがえり、目の前が一瞬ぼやける。

そういえば、以前にもこうやって......修が靴を履かせてくれたことがあった。

結婚して間もない頃、修もまったく同じことをしてくれたのだった。

「うぅ......」若子はお腹を押さえながら、痛みでベッドの上で丸くなっていた。

修と結婚して、まだ一週間ほどしか経っていない。

修は今朝早くに家を出てしまい、若子も本当は学校に行く予定だったのだが、腹痛がひどくて動けず、出かけられる状態ではなかった。それに、鎮痛剤を飲むのを忘れてしまっていた。

今さら痛みがこんなにひどくなってしまったので、鎮痛剤を飲んでももう遅い。いつも服用している薬は、効果が出るまでに2時間はかかるタイプのもので、今から飲んでも、効き目が出るころには痛みが引いてしまっているだろう。

若子は、生理の度にこうして痛みに耐える生活を何年も続けてきた。

じっと耐えながら数時間をやり過ごすしかない。

彼女の小さな体は布団の中で震え、深い青色の掛け布団が少し盛り上がっていた。

その小さな影は、時折痛みに呻く声を漏らしながらも、ベッドの外で誰かが入ってきたことには気づいていなかった。

ふと布団がさっと引き剥がされ、目の前に現れたのは心配そうに顔を寄せる修だった。「どうしたんだ?」

彼の大きな手が若子の額に触れ、冷や汗がびっしょりと浮かんでいることに気づく。

「修......どうして戻ってきたの?」若子は驚いて言った。
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    西也が口を開いた。 「食事はお口に合ったか?」 美咲はうなずきながら答えた。 「とても美味しいです。ごちそうさまでした」 「お前は若子の友人だ。つまり俺の友人でもあるからな。もちろん、ちゃんと招待するのが筋だ。ただ......」 西也が「ただ」と言いながら言葉を切った。 美咲は少し首を傾げて尋ねる。 「ただ、何ですか?」 西也は箸を置き、真剣な表情で続けた。 「高橋さん、率直に言うけど、どうもお前がここに来た時から、若子が俺たちを二人きりにしようとしている気がするんだ。まるで、俺たちが以前から親しい間柄だったみたいに......俺たちって、以前会ったことがあるのか?」 その言葉に戸惑った美咲は、一瞬、本当のことを伝えるべきか迷った。けれども、若子のことを考えると、どうにも言葉が出なかった。 西也は、記憶を失っていながらも持ち前の鋭さで何かを感じ取ったのか、さらに問いかけた。 「高橋さん、何か言いたいことがあるなら、隠さずに教えてほしい。お前も分かるだろ、今の俺の状況を。俺は本当にすべてを知りたいんだ」 「松本さんは全部教えてないんですか?」美咲は驚いたように聞き返した。 西也は苦笑いを浮かべながら答える。 「少しは話してくれたけど、完全じゃない。きっと俺を気遣ってくれてるんだろうけど、それが逆に俺を過保護にしてる気がするんだ。正直、過保護にされるのは好きじゃないんだ。だから、高橋さん、もし知ってることがあれば教えてくれないか?」 美咲はちらりとドアの方を見やった。若子がまだ近くにいるかもしれないと思ったからだ。 美咲のためらいに気づいた西也は立ち上がり、 「ちょっと待って」と言うと、ダイニングを出ていった。 わずか一分も経たないうちに戻ってきた西也は、笑いながら言った。 「高橋さん、確認したけど、若子は裏庭に行ったよ。お前も分かるだろ、彼女はまた俺たちを二人きりにしようとしてるんだ。俺には本当に分からない。俺の妻である彼女が、どうしてこんなにも俺たちを安心して放っておけるのか......」 西也は苦笑いを浮かべたが、その胸中では自分が何を知っているのかを確信していた。若子との結婚が偽物だということ―あの日、彼女と成之の会話を盗み聞きしてしまったのだ。それは西也にとって晴天の霹靂だった

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    若子の言葉を聞いた西也は、ふと胸に罪悪感のようなものを覚えた。そして修が言っていたことを思い出す。 もしかして自分は今、若子に守られているだけの存在になってしまったのか? それに今日やったこと―修をちょっと懲らしめて、彼の鼻っ柱を折りたかっただけのつもりだったけど、かえって逆効果になったんじゃないか? 修は自分の行動のせいで、若子を奪い返したい気持ちをさらに強めてしまったのだろうか......? 西也はあの時、ただ修に一発お見舞いして、大人しくさせたかっただけだ。彼のあの傲慢な態度をどうにかしたくて。けど、もし今回の件が裏目に出てしまったら、自分にとっても何一つ良いことはない。 若子は西也がぼんやりしているのを見て、慌てて声をかけた。 「西也、どこか他に痛むところがあるの?何でもいいから言って」 「いや、そうじゃない」西也は首を振った。「ただ、あいつが俺の想像と違っただけだ」 「どういうふうに違うの?」若子が尋ねると、西也はこう答えた。 「俺にとって、あいつはただの他人だ。これまでのことは何も覚えていないし、今日が初対面みたいなものだ。でも、俺の中ではあいつは最低な男だと思ってたんだ。実際に会うまではね。だけど、あいつを見た時、全然違ってた。認めたくないけど、あいつは優秀な男だ。スーツ姿も様になるし、女が寄ってくるのも分かる」 「西也、そんなこと言わないで。どんなに見た目が良くても意味がないでしょ?私はもう離婚してるの」 「違う、俺が言いたいのはそれじゃない」西也は少し焦ったように続ける。 「俺が思ってたのは、あいつはただのクズで、浮気を繰り返してお前を裏切ったような奴だってこと。でも、今日会ってみて、あいつがお前に対して特別な感情を持ってるように感じたんだ。俺の想像してたみたいに、お前を軽く見てるわけじゃない。むしろ、お前を取り戻そうとしてるように見えた......それが愛情なのか、それともただの所有欲なのかは分からないけど」 西也の目に不安の色が浮かんでいるのを見て、若子は急いで言った。 「西也、そんなことないわ。気にしないで。彼が私を取り戻すなんて絶対にあり得ない。それに私も彼のところには戻らない」 「本当に?お前、本当に心が揺れたりしないのか?たとえ、あいつが頭を下げて頼んでも」 「実際に頼まれ

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第609話

    若子は急いで西也のそばに駆け寄り、その手首を掴んで連れて行った。 西也は歩きながら振り返り、修を一瞥すると、口元に得意げな笑みを浮かべた。そして若子の腰に手を回し、親密に寄り添う。 「若子!」修は追いかけようと数歩進んだが、途中で急に立ち止まった。 ダメだ。このまま衝動的に追いかけても、また言い争いになるだけだ。前のように無駄に揉め続けるだけで、問題は一つも解決しない。むしろ、状況はどんどん悪くなるばかりだ。 若子は今、自分が西也を傷つけたと信じ込んでいる。しかも、今の状況では西也の方が完全に優勢だ。それは修も認めざるを得なかった。 このまま追いかけても、何も得るものはない。むしろ若子の自分への嫌悪感をさらに煽るだけだ。 どうする?どうすればいい? そうだ、一人、頼れる相手がいる。彼なら― 修は思い切ったように玄関の方へ向かって歩き出した。 「修、どこに行くの?」 雅子が追いかける。 修は振り返りもせずに言った。 「ここで待ってろ。迎えを呼ぶから。俺は用事がある」 「修、修!」 修の歩みは速く、雅子はどうしても止めることができない。その場で悔しそうに足を踏み鳴らした。 「松本のせいよ......!全部彼女が悪いんだから!」 その様子を少し離れた場所から見つめる一人の男性。サービススタッフのような装いをしているが、その目には冷笑が浮かんでいた。 男はポケットからスマホを取り出し、雅子に電話をかける。 スマホの着信音に気づいた雅子はバッグから取り出し、耳に当てた。 「もしもし」 「雅子、やっぱり君は役に立たないな。藤沢を繋ぎ止めることもできないなんて」 「あんた......!」雅子はすぐに問い詰めるように言った。 「今どこにいるの?お願いだから助けて。松本を殺してくれない?彼女さえいなくなれば......あなたの望むこと、何だってするから!」 「今まで君のためにいろいろしてきたけど、君は何一つ結果を出してないよ。それなのに情敵を始末しろなんて。俺は君の道具じゃない」 「じゃあ、どうすればいいの?交換条件が必要なら教えて。私たちは仲間でしょう?」 「本当は君に頼みたいことがいくつかあったんだが、時間が経つにつれて、君はどんどん使えないと分かってきた。修だってもう君を気にして

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第608話

    西也は心配そうな顔をしながら、若子の手をしっかりと握りしめた。 「若子、怒らないで。大丈夫だから。俺は平気だよ。彼もきっとわざとじゃなかったんだ」 彼の言葉には勝利の確信があった。どんな状況でも、若子は自分の味方だった。自分こそが若子の夫であり、修はどこまで行っても若子に捨てられた過去の男にすぎない。 西也は心の中で強く決意していた。この男が再び若子を奪うことは決して許さない。どんな代償を払ってでも、若子を離さないと誓っていた。 一方、修はそんな西也を見つめ、眉間に深いしわを刻んだ。表情を次々と変える西也―陰険な一面と、哀れみを誘う弱々しい一面―そのどちらも修には到底信じられなかった。 若子がこんな男と暮らしているなんて......どうなるんだ? 修は心の中で考えた。西也が本当に記憶喪失でこうなったのか、それともこれが彼の本性なのかはわからない。だが、一つだけ確かなことがあった―この男は危険だ。 「西也、行きましょう。病院に行って診てもらったほうがいいわ」 若子は心配そうに言った。西也の状態はもともと良くないのに、頭を打ったことでさらに悪化する可能性があると考えていた。 修は拳を強く握りしめ、その骨が鳴る音が聞こえるほどだった。そして突如として若子の腕を掴み、彼女を自分の方へ振り向かせた。 「若子!彼はお前を騙してるんだ!見てわからないのか?あれは自分でわざと倒れて、お前を騙そうとしてるんだ!」 「放して!」若子は必死で腕を振りほどこうとした。 その様子を見るやいなや、西也が声を荒げて叫んだ。 「放せ!」 だが、修は若子を抱き寄せると、そのまま数歩後退して西也の手の届かないところへ避けた。 「お前みたいな男、本当に見苦しいな」修は冷たく嘲笑した。 「そんな卑劣な手段を使うなんて、呆れたよ。俺は若子が幸せならそれでいいと思ってた。少なくともお前が彼女を傷つけないならな。でも今は違う。若子をお前のような男の手に渡すわけにはいかない。お前には彼女を守る資格なんてない!」 「修、あなた、正気じゃないの?」若子は怒りを露わにしながら言った。 「放して!桜井さんもここにいるのよ!彼女を怒らせるつもり?」 「どうでもいい!」修は一切の迷いもなく叫んだ。その言葉に、雅子は心臓をぎゅっと掴まれるような感覚を覚

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第607話

    修の瞳に浮かぶ怨みと哀しみを見て、若子は一瞬動揺した。 その表情は、彼女の心に一抹の迷いを呼び起こした。もしかして、本当に修を誤解しているのだろうか? 彼の姿はどこか無実で、絶望的に見える。まるでかつて修が若子を誤解した時のようだった。若子がどれだけ真実を訴えても、修は耳を貸さず、雅子の言葉だけを信じた。雅子がいつも哀れなふりをしていたからだ。 しかし、その考えが頭をよぎると同時に、若子は自分に怒りを覚えた。なぜそんなことを考えたのか。修はこれまでに何度も彼女を騙してきたのだ。しかも相手は雅子。彼女のような人と西也を比べるのは馬鹿げている。 「信じるわ」若子は静かに言った。 その言葉を聞いて、修は一瞬呆然とし、信じられないような表情を浮かべた。彼は若子の瞳に、ほんの少しでも信頼の光を探そうとした。しかし、耳に届いたのは錯覚のような言葉だけだった。 若子の目に映っていたのは、冷たさと皮肉だけだった。「信じる」という言葉が、修には皮肉にしか聞こえなかった。むしろ、彼女が「信じない」と言うよりも、心に突き刺さった。 西也の眉がかすかに動き、不安げな光がその瞳をよぎった。 若子は本当に修を信じたのか? 場の空気が凍りつく中、修だけが若子の言葉の裏に隠された刺々しさを感じ取っていた。 若子は続けた。 「修、あなたは何も間違ってない。すべて他人が悪いのよね。あなたはいつだって正しい。この世界の誰もがあなたを信じるべきなんでしょう?」 そう言いながら、若子は西也の腕をそっと取り、柔らかく言った。 「西也、行きましょう」 修は拳を強く握りしめ、静かに言った。 「若子、俺が約束したことは絶対に守る。俺は彼をいじめたりなんてしてない」 「ええ、そうね。あなたはいじめたりなんてしてないわよね」若子の声は怒りに満ちていた。 あなたみたいな偉大な藤沢総裁が誰かをいじめるなんてあるわけがないもの。争いなんて一度もしたことがないし、手なんて絶対に出さないわよね」 若子は皮肉げに笑いながら続けた。 「本当に滑稽だわ、修。少なくとも昔のあなたは、自分がやったことを認める勇気があった。でも今はその勇気さえない。ただの臆病者よ!」 「そうだ、俺は臆病者だ!」修は叫ぶように言った。 「もし俺が臆病者じゃなかったら、どんなこ

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