「ロドルフは、聞いていたの?」
「はい。」
タイラー様は私達が別邸に移されることを知らなかったようで、朝から不機嫌だ。
紫色の瞳が再び鋭くなり、怒りを表している。
「マリアは僕と婚約する上、田舎の領地に連れて行かれるんだよ。
いくらなんでも可哀想じゃないか?せめて、王都にいたら楽しいこともあるかもしれないのに。」
タイラー様は、私を思って怒ってくれているらしい。
「タイラー様、私なら大丈夫です。
クライトン侯爵様から別邸に移ることは、昨日、伺っています。」「そうなのか?
マリアはそれでもいいのか?」タイラー様は、一転して私を心配そうに覗き込んだ。
「正直、私は今はカーステン様と会う心の準備ができていなくて。
彼とは婚約していた時に、直接会ったことはないのですが、お手紙を交換していたんです。私には、カーステン様に何となく好意があったものですから、思いを断ち切るためにも、今は彼と会わない方が良いと思いまして。」
タイラー様に気遣いは不要だと伝えたくて、私の素直な気持ちを話すことにした。
「マリアは、兄が好きなのか?」
「はい、ですがもう忘れようと思っています。
だから、タイラー様は気にしないでください。」「マリア様、それ、タイラー様の最も気にすることですよ。」
ロドルフが、すかさず教えてくれる。
「えっ、そうなの?
ごめんなさい、タイラー様。」「いいよ。
兄は僕の憧れだから。 僕とは違って、兄は学業も武術も秀でているし、こんな体の僕も気遣ってくれる優しい人なんだ。それに、マリアには僕に遠慮せずに思ったことを言ってほしい。
僕が、もしそのことで傷ついたとしても、この体だからいつものことさ。」
タイラー様は、少し悲しそうな眼をしたので申し訳ないと思った。
私は彼に気を使ったつもりが、逆効果だったらしい。
「兄のどんなところが好きだったの?」
「カーステン様は、学院での勉強とか、武術の練習を頑張っているようすを教えてくれていました。
そのたびに、私は手紙を通して彼を応援していました。」
「じゃあ、僕も何か頑張ったら応援してくれる?」
「もちろんです。
タイラー様は、そばで応援できる婚約者様なんですから。」「なんか、それいいね。」
「ちょっと、二人だけで急にいい感じにならないでください。
僕も仲間に入れてくださいね。」ロドルフが話に割り込む。
「ごめん、ロドルフのことも応援するわ。」
「ロドルフのことを応援したらダメだよ。
マリアは、僕の婚約者だよ。」「ふふふ。」
まだ、タイラー様とは出会ったばかりだけど、そばにいてお話できる婚約者様ができて嬉しかった。
気がつくと、自然と二人の話の輪の中に入れてもらえている。
私は二人の優しさに感謝しつつも、三人で過ごすことを楽しく思っていた。
順調に思われたその夜、タイラー様は高熱を出した。 ボツボツが赤く腫れ上がった顔は、見ていてとても痛々しい。今、タイラー様の意識は朦朧としているようで、苦しそうな呼吸を聞いているだけで、私も胸が苦しくなる。
このように、子供の頃、高熱と皮膚のボツボツが出た後、熱が下がると手足が動かなくなっていたそうで、医師からは、原因不明だと言われているそうだ。
ベッド脇に置いた椅子に座り、ロドルフは、慣れた様子でタイラー様の額のタオルを交換している。
私はそれを、少し離れた椅子に座り、眺めている。
「私ももう少しタイラー様の近くに行ってはダメかしら。
もしかしたら、私が来たせいでタイラー様は疲れて熱を出してしまわれたのかしら?婚約者だなんて、彼にとっては負担だったのね。
その上、急に現れて、申し訳ないことをしてしまったわ。」「マリア様、先ほどもお伝えしたように、もしこれが人にうつるものであれば、マリア様もなってしまう可能性があるのです。
だから、そのままそちらにいてください。
それに、高熱がマリア様が来たからかどうかはわかりません。」「でも、ロドルフはそばにいても大丈夫なのよね?」
「僕も大丈夫かどうかはわかりません。
今まで、たまたまうつらなかっただけかもしれませんし。でも、マリア様に熱をうつしたと後からタイラー様が知ったら、今度こそ、タイラー様はマリア様を近づけないでしょう。
マリア様と話すタイラー様は、とても楽しそうでした。
僕は、マリア様にずっとタイラー様のところにいてほしいのです。
だから、マリア様はもうお部屋にお戻りになって休んでください。」
「わかったわ。
何かあれば起こしてね。」そう言って、私はタイラー様の部屋を後にした。
タイラー様は、やはりお元気な方とは違うのね。
病気だとわかっていたのに、無理をさせてしまったわ。彼と少しでも打ち解けたいと思っていたのに、早速私、失敗してしまったのね。
私は、彼にどのぐらいの負担をかけてしまったのだろう?
考えてもよくわからない。早く元気になってほしいけれど、熱はすぐにさがるのかしら?
とりあえず、私はロドルフが言うように、タイラー様のさらなる負担にならないように眠ることにした。
私は彼のそばにいて、話し相手になるぐらいしか、こちらに来てからしていない。
けれども、夢見ていた婚約者とのデートや夜会でのダンスなどは、遠い夢であることははっきりしている。
それから二日後、ようやく熱が下がったタイラー様と私達は、別邸に馬車で向かった。
別邸のタイラー様の部屋は、大きな窓から庭園が見渡せる広々とした部屋だった。 タイラー様は、王都の邸では、暗く閉め切った部屋を好んでいたが、私がタイラー様のベッドサイドにいることもあって、私とロドルフがカーテンや窓を開けても、彼はダメとは言わなかった。 そこで私は、お部屋は明るくした方が良いと思い、庭園で摘んだお花を部屋の花瓶にいけることにした。 その花束を手にして、タイラー様の部屋に向かう。「マリアは、随分長く庭園にいたね。」「ええ。 この部屋に合うお花を摘んでいましたの。」「ああ、外から声が聞こえていたよ。」「もしかして、うるさくて迷惑でしたか? 窓が開いているから、声がここまで聞こえるのね。」「全然迷惑じゃないよ。 むしろ楽しそうだから、声だけじゃなく姿も見たいなぁと思っていたんだ。」「でしたら、私が庭園に行く前に、ロドルフに背中の後ろに枕などを入れてもらって、タイラー様の体を起こすのはどうでしょうか?」「マリアは、僕が君の姿を見たいと言っても嫌じゃないの?」「どうして? 嫌なわけないじゃないですか? 私達は婚約者同士なんですから、姿を見たくなるのは自然なことですよ。 私だって、タイラー様が高熱を出している時、心配でもっと近くでタイラー様を見たいと言って、ロドルフに止められていたのですから。」「そうだったんだ。 知らなかった。 ロドルフは、君を病気から守ろうとしたんだよ。」「ええ、伺いました。 でも、私は心配で、病気がうつってもいいから、タイラー様のそばに行きたかったのです。」「いや、それはダメだ。 そのことはロドルフが正しい。 僕は、高熱を出している時は、いつどうなるかわからない身なんだ。 だから、その間、マリアは僕に絶対に近寄ってはいけない。」「そんな。 どうなるかわからないなら、なおさらそばにいたいのに。」「ダメだ。 マリア、これだけは約束して。 僕の問題に君を巻き込みたくないんだ。」「わかりました。」 わかってないけれど、この場合はそう言うしかないわね。 タイラー様が、わたしを大切に思っていてくれているのはわかるから。「話は戻りますけれども、庭園でお花を摘む私をみたいなら、背中に枕を入れて、体を起こしてみますか? ご飯を食べる時みたいに。」「そうしてみるかな。」 タイラー様は
ある日、私はタイラー様の横で、自分の本を読み、タイラー様は、ベッドに座りロドルフにページを捲ってもらい読書をしていた。 その時ふと、私が持っている本を見ているタイラー様の視線に気づく。「僕もマリアの読んでいる本を読みたい。」 タイラー様は、元々は本を読むことも、字を書くこともできたそうだ。 少年の頃に急に発熱し、手足に力が入らなくなり、今のような寝たきりになったと話してくれた。 そのため、私がタイラー様の横で読書をするようになると、元々、ロドルフにページを開いてもらい、本を読んでいたタイラー様は、そばにいる私の本も同時に読み出した。 どうやら、ロドルフがページを捲るのを待ちきれず、二つの本を同時に読んでいるらしい。 なんと器用な。 タイラー様は、できることが限られているから、多くの時間を読書に充てて、過ごしているのだそう。 そして、それに伴い読むスピードがどんどん速くなったとのこと。「タイラー様、二冊の本を同時に読めるのでしたら、ロドルフに本を立てかけるものを作ってもらえば、ベッドに二人で並んで一緒に読めますよ。」「どう言う意味?」「私の読んでいる本とタイラー様の読んでいる本を横に並べて置いて、私は私の読んでいる方だけを読んで、タイラー様は両方とも読むんです。 私は一ページ読んだら、二冊の本のページをめくります。 そしたら、ロドルフはその時手が空いて、その間に他のことができますよね。」「なるほど、じゃあ早速、ロドルフ、作ってみて。」「わかりました。」 ロドルフはすぐに立ち上がると、庭に出て、庭師から木の板をもらい、本を立てかける台を作り始める。 そのようすを私とタイラー様は、窓越しに見守り、台の大きさや角度の希望をロドルフに伝えて、すぐにその台は完成した。 翌日から、私とタイラー様は、ベッドに並んで座り、その台に本を立てかけると、毎日少しずつ二人で読書を楽しむようになった。 本を読む時は、私もベッドの上に上がって座り、タイラー様の隣に並ぶので、いつもよりも二人の距離は近い。 私は、並んだ二冊の本をめくりながら、胸がドキドキして、読むスピードはゆっくりになってしまう。 最初は、私に合わせてゆっくり読んでいたタイラー様だが、元々早く読む方だから、ほとんど動かなかった自分の手をなんとか動かして、私がページをめくる前に、自分で
タイラー様の手が少しずつ動かせるようになると、元々ブツブツのせいで体中が痒かったらしく、無意識に手の届く範囲を掻き、体中が傷だらけになり、血が滲んでいるところまであった。「タイラー様、あちこちから血が出てますよ。 あまり掻かない方がいいのでは?」 ロドルフも心配そうに肌の血を拭いている。「そんなに血だらけ?」「はい、とても痛々しいです。」 私とロドルフは、タイラー様を心配し、掻かないように説得する。「わかった。 それなら掻くのを我慢する。 自分がそんなに血だらけだとは、気づかなかったんだ。」「タイラー様、私の故郷で使っていた傷薬を塗ってもいいですか?」「ああ、頼む。」 それは、私の住んでいた領地で取れる匂いが強烈な葉を練り状にした傷薬で、緑色のそれは匂いがきついから、決して塗られて気分のいい物ではない。 でも、たいがいの傷は治った気がするのだ。 だから、私のお気に入りで、こちらまで持って来ていた。 とりあえず、タイラー様が匂いを嫌がらないように、そっと手を持ち上げると手の甲に塗ってみる。「しみますか?」「いや、別に。」「でも、これはかなり匂いが強いですね。」 ロドルフは、なるべく匂いを避けようと、顔を退けぞらせている。 だが、タイラー様は、私に傷薬を嫌がらないで塗らせてくれている。 良かった。 これで傷が治るはず。 とりあえず、その薬を手の甲で試してみて、良くなるのであれば他のところも試してみたい。「これで、数日様子をみましょう。」 手の甲に塗った薬が取れないように、さらにその上から、ハンカチを巻いた。 タイラー様は、私が提案することを、拒否することはない。 とにかく、自由に色々させてくれている。 実家では、私のお顔が綺麗だから、間違いが起こってはいけないと、周りの男性から遠ざけられていた。 なので、話せる男の人はお父様だけで、こんなにも話しやすく、受け入れてくれる男性がいるとは知らなかった。 少し会っただけだけど、タイラー様のお父様は、その中でも話を聞いてくれそうもない方だった。 だからこそ私は、婚約者がタイラー様で、本当に良かったと思うのだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「タイラー様、ニヤけてますよ。」 僕の体を拭くために、マリアに寝室の外に外してもらい、ロドルフ
しばらく、薬の強い匂いに耐えながらみんなで我慢していると、タイラー様の肌は見違えるほど綺麗になった上に、現れた白いお顔はシミ一つなかった。 彼のきめ細かな肌は、いつもクリームを塗っている私の肌にも、負けない滑らかさだわ。 そして、何よりブツブツの無くなったタイラー様の顔立ちは、驚くほど整っている。 そして、紫色の瞳に金髪で、整った顔立ちは見惚れるほど美しい。「タイラー様って、実はかっこいい方だったんですね。」「えっ、そうなのか?」「そうです。」 ロドルフは何故か誇らしげに答えると、鏡をどこからか持って来た。 タイラー様は、その鏡を受け取ると、しばらく自分のお顔をじっと見つめている。「そうだね。 僕かっこいいね。 知らなかったよ。」「はい。 でも、僕は知っていましたけどね。」「ふふふ。 三人でお顔がかっこいい、かっこいいって。 でも、タイラー様は、体を搔く時、顔まで手を伸ばすのが大変だから、掻いていなかったのですね。 それが良かったのかもしれません。 そして、外にもあまり出ることは少ないから、シミも全くないですし。」「僕はブツブツがないだけで満足だけど、肌が綺麗ならば、これで少しはマリアと釣り合う男になれたかな?」 タイラー様は嬉しそうに、私に問いかける。「タイラー様、最初からタイラー様は、私にとってもったいないくらい優しい方でした。 だから、釣り合うに決まっていますし、むしろ今となっては、私の方が釣り合わないかもしれません。」「君に釣り合うと言われて嬉しいよ。 でも、僕の婚約者は絶対にマリアだけだよ。 それだけはずっと変わらないからね。 それに、ブツブツが治ったおかげで、実は前よりも体も動かしやすくなったんだ。 多分、皮膚が突っ張らないからだと思うんだけどね。 僕にはそっちの方がありがたい。」「タイラー様、素晴らしいですわ。 それなら、車椅子に乗って一緒にお散歩に行きませんか? 邸の庭園まで。」「ああ、いいね。 それぐらいならすぐできそうだよ。 以前は皮膚が突っ張って、車椅子に乗ってもすぐにつらくなってやめたけれど、最近は座っている時間が長くても、つらさを感じなくなって来ていたんだ。」 タイラー様は、ロドルフにベッドから移してもらい、車椅子に座った。「ああ、やっぱり皮膚がひきつれて痛くなるこ
タイラーは朝からベッドの中で、執務をしていた。 腕や指を少しずつ動かして、領地の者から届いた書状に許可するか否かを印を押すことで指示を出すのだ。 こちらに来てから、父上の負担を減らすべく少しずつ領地の執務を始め、今では別邸周辺の領地の分は、僕がするようになっていた。 ここから王都の邸までは遠く、父上の目が届かなくて困っていることを、周りの者達に相談され、少しずつ始めたのがきっかけだった。 以前はロドルフに書状を見せてもらい、口頭で伝え代筆してもらっていたが、今では非常にゆっくりとなら自分で行える。 そのため、執務をする時のロドルフの負担は減らせて来ている。 しかし、僕の体勢を整えたり、車椅子への移動など彼に頼っている状態なのは変わらずで、自分の無力さが嫌になる時も多々ある。 朝、執務を始めてから、そろそろ昼頃だと思われるのに、マリアもロドルフも姿が見当たらない。 いつもなら、マリアは僕が執務している時は、近くのソファに座り、刺繍をしたり、本を読んでいることが多いのに、今日はどうしたのだろう? ロドルフも僕の執務の準備をした後から、姿を見せない。 僕がベッドの横へ手を伸ばし、呼び鈴を鳴らすと、チャリンチャリンという高い音が邸内に響く。 以前はどうしても呼び鈴が鳴らせず、一人の時はロドルフが来るのをひたすら待つしかなかったから、これができるだけでも僕にはどれほどありがたいか。「お呼びですか? タイラー様。」 部屋にやって来たのは、新しく僕の護衛になったサエモンだった。 執務を始めると、意に沿わないからと暴力に訴える者もいると、父が懸念して護衛をつけた。 だから、邸の庭園に行くだけなのに、僕には護衛がいる。「マリアとロドルフの姿がみえないんだが、二人はどうしている?」「マリア様は買い物に、ロドルフ様はクライトン侯爵に呼ばれて、本邸に行っています。」「そうか。」「何かご用では?」「背中の枕を取ってくれないか?」「かしこまりました。」 サエモンは僕が座るために背後に置いていた枕を外し、ベッドに横たわれるようにしてくれた。「ありがとう。」「後、他に何かありますか?」「いや、もう大丈夫だ。」 僕はベッドに横たわり、座っていた疲れと、腰の痛みから解放されて、ぼんやりと庭園に目を向けた。 窓から見える青い空と手入れが行き届い
数日後のある日、タイラーが執務を終えて部屋を見渡すと、今日も一人だった。 僕はなんとなく窓の外に目を向ける。 庭園は花が咲き、空には雲一つない青空が広がっている。 今日も良い天気だな。 そう言えば、最近ではこんな日が時々ある。 良い天気の日に限って、マリアもロドルフもいない。 僕は背中の枕を取ってもらうために、呼び鈴を鳴らす。「お呼びでしょうか?」 今日もサエモンが部屋に入ってくる。「悪いが、背中の枕を取ってくれ。」「承知しました。」 サエモンは慣れた手つきで枕を外すと、僕を横たえさせる。「ありがとう。 ところで、マリアとロドルフは?」「マリア様は買い物へ、ロドルフ様は王都に向かわれました。」「そうか、わかった。 後はいいよ。」「では失礼します。」 僕はマリアの自由を奪いたくないし、いちいち細かく詮索もしたくないけれど、最近買い物に行きすぎじゃないのか? 女性とはこんなものなのか? それとも、もう僕といるのに飽きたとか? まあ、飽きるのも無理はないよな。 結局、僕はほぼベッドの上にいるだけだし。 でも、本当はもっと一緒にいたい。 だけど、いらないことを言って、マリアに気を使わせたり、嫌がられるのは避けたい。 僕はマリアには自由に過ごして欲しいし、彼女が婚約者としてそばにいてくれるだけで、文句なんて言えない立場だしな。 ロドルフだって、マリアが来る前は陰鬱な僕を、ほぼ一人で支えてくれた大切な側近だ。 最近、留守がちであっても、逆に言えばそれだけ僕が離れても心配ない人間になった証拠なんだから、これはいいことなんだ。 僕は少しずつ昼間、留守が多くなる二人に寂しさを感じながらも、なんとか良い方に捉えて、一人運動をすることにする。 指を動かして、膝を立てる。 最近では、二人がいない時間が増えて、退屈だと感じ、その分運動が進む。 僕は今日も無心で体を動かす。 「ただいま、タイラー様。」「おかえり、今日は楽しかった?」「ええ。」 笑顔のマリアが僕の部屋に来て、微笑む。 出かけても帰って来たら、必ず僕の元に来てくれるのが嬉しい。「何か買った?」「何も。」「そうか。」 窓の外から夕陽が差し込み、長い時間を一人で過ごしたと知る。 そして、ついに僕の心にマリアの買い物についての疑問が湧き始める。 こ
「マリア様、二人で出かけるのは今日を最後にしましょう。」 二人で馬車に揺られながら、ロドルフは心配そうに眉をひそめる。「そうね。 今日見つからなかったら、ロドルフの負担が大きいけど、この前の場所にするしかないわね。」「そろそろタイラー様が、おかしいと思い始めていると思うんです。 タイラー様はベッドに長くいたから、人の些細な変化にも気づくんですよ。 だから、僕は不安です。」「そうなの? でも、タイラー様は、気づいたそぶりは何も見せていないから、大丈夫だと思うけれど。 あっ、でも、匂いがどうとか言っていたわ。 その後、勘違いだと言っていたような気がするんだけど。」「そんなことを言っていたんですか? それ、絶対にまずいですって。 特にマリア様のことでタイラー様に恨まれたらと思うと、僕は不安でなりません。」「ふふ、ロドルフって案外小心者ね。」「笑いごとじゃないですよ。」「大丈夫よ。 それよりも見て、あそこなんてどうかしら?」「いいですね。 行ってみましょう。」 二人は領地内にある砂浜沿いの一本道を馬車で進んでいた。 道は馬車が通るギリギリの幅で、走ると砂埃が舞っている。 私がロドルフに示した場所は、馬車を停めるには充分な広さがあり、その先には真っ白い砂浜が広がり、海へと続いている。 ロドルフは馬車の壁を内側から軽くトントンとノックして、御者に停車するよう指示を出す。 すると、馬車は静かにその場所に停車した。 ロドルフは私が馬車から降りるのを手伝ってくれ、地面に降り立つと、二人は砂浜へ向かって歩き出す。 私は目の前に広がる美しい海を見ると心が弾み、我慢できず途中から海へ向かって走り出す。 その後ろを、ロドルフが慎重に歩いてついて行く。「ロドルフ、ここならどうかしら? 今までで一番馬車から砂浜へ行く道の長さが、短い気がするわ。」「はい、とても良さそうですね。」「ここは景色が開けて、海が輝いて見えるし、すごく気に入ったわ。」 私が海を見て喜んでいる間に、ロドルフは足元を確かめるように、一歩ずつゆっくりと歩いて、砂浜への歩数を数えている。「馬車から砂浜までは、約五十歩というところでしょうか。 そして、海へはさらに同じぐらいの距離があります。 このぐらいの距離ならば、タイラー様を背負って歩くことも、何とかできるか
タイラーが目を覚ますと、部屋は明るく今日も良い天気になりそうな予感がしている。 こんな日は、マリアとロドルフはまた僕を一人残して、二人で出かけるのだろう。 僕は二人の間に何かあるのを薄々感じてはいるが、それを口にできないまま、数日が過ぎていた。 マリアは日が経つにつれて、ますます楽しそうにしている。 ロドルフは、積極的に運動をして、その様子を見たマリアは、嬉しそうに応援している。 僕も運動しているけれど、僕の運動はゆっくりで地味だし、周りから見るとやっているように見えないものだから、体を大きく動かすロドルフの運動とは、比べものにもならない。 僕達の関係は、どうしてこうなってしまったんだろう? 僕は心がどんどん沈んでいくけれど、どうすることもできない。 今日はもう、執務さえもしたくないな。 そんなことを考えていると、マリアが部屋に入ってきた。 ここ数日ずっと笑顔だったけれど、その中でも一番の笑顔だ。「タイラー様、おはようございます。 今日は執務をお休みして、一緒にお出かけしましょう。」「えっ、どうして?」「一緒に行きたいところがあるんです。 ねっ、お願いします。」「でも、僕は車椅子がないと、どこにも行けないよ。」「大丈夫です。 ロドルフが背負ってくれますから。」「はい、タイラー様お任せください。」 ロドルフが近づき、笑顔で頷いている。「それなら、いいけど。」 急に何なんだ? 突然の提案に戸惑うが、マリアが望むのなら、僕はできることを精一杯する。 心がふしくれだっていても、僕の信念は健在だった。「そしたら、朝食を食べたら出発ですよ。」「わかった。」 僕は朝食を終え、着替えをロドルフに手伝ってもらい、車椅子に座らされ、玄関ポーチまで行くと今度は馬車に乗せられる。 この別邸に来た時、寝たきりだったから、別邸には僕が寝たまま移動できる特別な馬車が用意されている。「タイラー様、短い距離なら普通の馬車でも大丈夫かもしれませんが、今日は疲れてしまうと思うので、この馬車で行きましょう。」「わかった。」 僕は何がなんだかわからないけれど、ほぼもう投げやりで、言われたままにしている。 もし、心が元気ならば、どこにどのくらいかけて行き、そこで何をするのか、詳しく聞いたかもしれないけれど、もういいや。 考えるのさえ、億劫だ
「タイラー様、お話してもいいですか?」 タイラー様の居室には、タイラー様とロドルフがいて、マリアを迎えた。「どうぞ、座って。」 そう話すタイラー様は、微かに笑みを浮かべているが、瞳は何も映さず、心は見せない。 その姿はいかにも貴族だ。 彼の部屋に入って、今ここにいつもの三人でいるけれど、私の心は一人ぼっちで、タイラー様の気持ちが遠くにあるのがわかった。 そう感じたのは、この部屋で初めて出会ったばかりの時以来だった。 いや、違う。 あの頃ですら、私を受け入れてないのにも関わらず、タイラー様は婚約破棄され、傷ついた私を気遣ってくれた。 今、目の前にいるのは、それよりももっと遠い存在の人。 どう言葉を紡げば、再びいつもの優しいタイラー様の心を取り戻せるのかわからない。 「これからのことを自由に考えて。」と彼は言っていたけれど、もう心の中ではすでに、私との決別を決めてしまったのだろうか? カーステン様との話し合いを終わらせて、タイラー様に伝えたい想いがたくさんあるから、それを胸にこの部屋に来たけれど、もうそれさえもあなたには終わってしまったことなの? 手を伸ばせば届く距離にいるのに、到底彼に近づくことなどできそうにもない。 今ここにいるタイラー様は、ちょっとした知り合いのような心の見えない侯爵令息そのもので、私は彼といるのに切なくて、話すこともできずに泣き出した。「ちょっと待って。 どうしたの? 話を聞くから。」 そう言って、慌ててハンカチを差し出して、私を慰めようとするタイラー様はいつもの優しい彼で、私は涙が止まらなかった。 タイラー様と心が離れるということは、こんなに胸が苦しいのね。 私もタイラー様のように冷静に自分の気持ちを伝えようと思ってここに来たのに、口から出て来るのは、私の心の奥底の一人ぼっちの寂しがりな自分だった。「だって、タイラー様が私と距離を置こうとしているのよ。 私は、タイラー様といつものようにしていたのに。 私を一人にしないで。」 タイラー様は、そんな私を慰めようとしてくれる。「わかった。 わかったから、まずは座ろうか。」 優しく促されてソファに座らせると、タイラー様は、並んで一緒に座ってくれる。 私は、タイラー様の手をぎっちり掴む。 優しい彼と離れるのが、怖くてたまらない。「何があったの?
タイラーが、マリアに想いを告げ、マリアが居室から出て行くと、部屋にはタイラーとロドルフだけが残った。 部屋は静まり返り、沈黙が二人を覆う。 僕はきっといつかこんな日が来ることをわかっていた。 だから僕は無意識に、この邸に戻り兄とマリアを会わせるのを、できるだけ後回しにしていたんだ。 マリアを失うのが、怖かった。「タイラー様、どうしてマリア様に、これからのことを好きに選んでいいって言ったんですか? 今はタイラー様と婚約中なんだから、何も言わなければ、マリア様は、このままタイラー様の婚約者でいてくれたかもしれないのに。」 そう言うと、ロドルフは悲しげに僕を見つめ、目に涙を浮かべる。「どうして、ロドルフが先に泣くの?」「だって、僕ですよ。 タイラー様を、ずっと見てきた僕ですよ。 タイラー様が、マリア様に相応しい男になるために、陰でどれだけ運動も、領地経営も頑張ってきたかを、ずっと見てきた僕ですよ。 こんなにもマリア様を大切にしてきたって、僕ならいくらでも語ることができます。」「そうだったね。 ロドルフ、泣いていい。」「タイラー様~。」 ロドルフは、椅子に腰掛けているタイラーに抱きついて泣きだした。 長い付き合いだけど、ロドルフがこうやって泣く姿を見せるのは初めてだった。 以前は一人で僕を看病し、負担に感じていた時もあっただろう。 その時だって、僕の前でこのように感情を見せることはなかった。 なのに今、僕のために涙するロドルフは僕より僕の心に正直だ。 それに、いつも僕とマリアがうまくいくように、手助けしてくれていた。 そんなロドルフの気持ちを僕は裏切ってしまったのかな。 でも、頑張っても手が届かないこともあるし、変えられないものもある。 それでも、感謝だけは伝えないと。「マリアとのことをいつも応援してくれたね、ロドルフ、ありがとう。」「タイラー様、かっこつけないで、マリアは僕のものだって、言えば良かったじゃないですか。 絶対に誰にも渡さないって。」 泣きつくロドルフの背中を撫でながら、静かに口を開く。「僕は、かっこつけたわけじゃない。 本当にただ、マリアの幸せを優先したかっただけ。 僕は、彼女と知り合ってから、たくさんのものをもらった。 この動くようになった体も、皮膚がボロボロでも、受け入れてくれる女性がい
私は、タイラー様とのことも気がかりだけれど、それと同じぐらいハリエットのことが心配だった。 カーステン様を頼りにして、クライトン家に身を寄せていただろうに、その彼にあんなことを言われて、この侯爵邸で一人、さぞ傷ついて、心細い思いをしているのではないかと思った。 今私は、カーステン様のことは置いておいて、侍女に案内してもらい、ハリエットの部屋を訪れた。 すると、ドアは閉まっているが、中から女性の怒鳴り声が聞こえてきた。 私が慌てて居室に入ると、ハリエットが暴れていて、部屋の調度品を薙ぎ倒し、部屋は無残なありさまだった。 周りにいる侍女達は、彼女の暴力に恐れながらもそれを必死におさめようとしていた。「ハリエット、落ちついて。」「来たわね、私を笑いに。」 ハリエットは、お酒に酔っているらしく、私を見つけると焦点の定まらない目で睨みつけながら、ふらふらと近づいて来る。 とりあえず暴れることはやめたので、ハリエットをソファに侍女達と共に座らせる。「ハリエット、お酒を飲みたくなる気持ちはわかるわ。 でも、侍女達に迷惑をかけたり、物に八つ当たりしてはいけないわ。」 私は、ハリエットが落ち着いて来たようなので、目配せして怯える侍女達を下がらせた。 そして、侍女に託された水の入ったコップをハリエットに手渡す。「相変わらずね。 お姉様は、どんな時でも正しくて、イライラするわ。」「まずは、お水を飲んで落ち着いて。 話ならいくらでも聞くから。」「ねぇ、お姉様の頭の中はいつまでお花畑なの? もしかして、まだ、気づいてないの? どうして、クライトン侯爵に、お姉様が妾の子であるとバレたと思っているの?」「さぁ? わからないけれど、事実だから気にしても仕方ないと思っていたわ。 お父様が話したのかどうかもわからないし、考えても答えが出るとは限らないし。」「もう、お姉様はどうしていつもそうなの? どこまでも聖人で腹が立つわ。 もっと怒ってよ。 どうして婚約者を奪われても、そんなに平然としていられるの?」「声を荒げるのはやめて。 みんなビックリして集まって来てしまうから。 私だって冷静でいられたわけじゃなかったわ。 私はカーステン様のことを想っていたから、あの時は随分ショックを受けたのよ。 私の痛みは見えにくい、ただそれだけだわ。」
次の日、目を覚ますと自分が使っているベッドの中だった。 そのすぐそばにはタイラー様がいて、すでに目を覚まし私を見つめていた。「おはよう、マリア、ぐっすり寝れたようだね。」「おはようございます、タイラー様。 あれっ、私、どうしてここに? ごめんなさい、帰りの馬車で寝てしまって。 それに、どうして今まで起きなかったのでしょうか? きっとタイラー様に、ご迷惑をおかけしましたよね?」「迷惑だなんて思っていないよ。 昨日のパーティーの祝杯で酔ってしまったんだね。」「すみません、口をつける程度にしたつもりですが、お酒は今まで飲んだことがなかったのでこうなるとは、わかりませんでした。 私、お酒にかなり弱いんですね。」「飲み慣れていないから酔いがまわったんだよ。 その後、ダンスも踊ったし、王都に来てからの疲れも溜まっていたのだろう。」「それにしても、私どうやってこのベッドまで来たのですか?」「それは、もちろん僕が運んだんだよ。 僕はマリアを抱いて歩くと、めちゃくちゃ遅いし、力もまだ弱いから、ロドルフに支えられながらだけど、他の誰とも君を抱く役目を代わりたくなかったんだ。」「そうだったんですね。 すみません。 私、その間も全然起きなかったのですね。」「ああ、僕とロドルフが大騒ぎしながら運んでいても、君はスヤスヤと気持ち良さそうに寝ていたんだ。 今思い出すと、ちょっと笑えるよ。 君には、お酒に慣れるまで僕がいない時は、外で飲むのを控えてもらうかな。」 そう言って、タイラー様は笑う。「はい、約束します。」 私は、そんな優しい彼に苦笑いするしかなかった。 なんて恥ずかしいの。 その様子を邸の者達は、微笑ましく見守っていたのだろう。 そう思っただけで、顔が熱くなる。 こちらの邸の人達の前では、令嬢らしく振る舞いたかったのに、早速、失敗してしまったわ。「昨日は色々あったけど、馬車の中でマリアを初めて抱きしめられたし、その後も抱っこして運んだり、寝顔も久しぶりに見れた。 僕にとっては、とても素敵な一日の締めくくりだったよ。 マリアは、以前僕の傷に練り薬を塗ってくれたことがあったけど、僕から君に触れたのは、手を繋ぐことぐらいだからね。 昨日は、君が心配で思わず抱きしめてしまったけれど、嫌じゃなかったかい?」「そんなタイラー様が
王子のご成婚披露パーティーの前日に、私達は王都のクライトン侯爵家に、馬車で到着した。 別邸へ向かった時と違って、タイラー様が、ゆっくりと歩いて馬車から降りると、クライトン侯爵、カーステン様、ハリエットが揃い、その姿を見守るように待ち構えていた。「よく帰ったな。 タイラー。 本当に歩けるようになったんだな。 肌も元通りに綺麗になって本当に良かった。 手紙ではそのことを聞いていたけれど、実際に見ると感極まるよ。」 クライトン侯爵は、目に涙を浮かべている。 彼のその反応には、別邸に移ってからの長い時を感じさせた。 それほどの間、私達は王都に戻らなかったということだ。「タイラー、良くやったな。 おめでとう。 疲れただろうから、応接室に行ってから挨拶をしよう。」「ああ、そうしてくれると助かるよ。」 私とハリエットは、お互いに笑顔を交わすと、クライトン侯爵家の方々と、応接室へと移動した。 それぞれ並んでテーブルを囲んでお茶を飲んでいると、上機嫌のクライトン侯爵が話し出す。「改めて、こうして全員が揃ったのは初めてだな。 息子たち二人が共に婚約中で、未来の義娘達を連れてこの邸に来てくれたことに感謝する。 私は、義娘達とは顔を合わせているが、息子達は初めてだろうから、それぞれ紹介してくれ。」「じゃ、僕から。 僕は、兄のカーステンです。 隣が婚約者で、マリアの妹のハリエットだ。 僕は、マリアとは手紙のやり取りをしていたけど、会ったのは初めてだね。 よろしく。」「次は、僕だね。 僕は、弟のタイラー。 以前は寝たきりだったけれど、マリアのおかげもあって、今はこの通り、ゆっくりなら歩けるようになったんだ。 今はマリアと別邸に住んでいる。 そして、隣にいるのが婚約者のマリア。 マリア達は、姉妹だね。 よろしく。」「それにしても、君達姉妹は全然似ていないんだね。 逆に僕達兄弟は似てるだろ? 眼の色が水色か、紫かの違いだけなんだ。」「そうですわね。 私達姉妹は、母親が違うからあまり似てないんです。 顔も性格も。」「性格なら、僕達も違うよ。 兄さんは昔から何でもできて、僕の憧れなんだ。」 穏やかな会話をしているが、テーブルの下でタイラー様は、私と手を繋いだまま離さなかった。 翌日の夜、王宮では王子のご成婚披露パーティ
楽しい旅から別邸に戻った後、タイラー様の歩行状況はどんどん良くなり、今では走るや踊る以外であれば、ゆっくりだがすべてのことができるようになっていた。 いつものように二人で手を繋いで庭園を散歩していると、これはお世話なのか、ただのカップルの手繋ぎデートなのか、もうわからない。 タイラー様は、顔のブツブツが消えてから、お顔が数段美しくなったので、日増しに私は、彼に見つめられると胸が高鳴り、意識せずにはいられない。 それだけではなく、以前のぎこちない立ち振る舞いが、いつの間にか美しい貴族の所作に変わって、さらに私を夢中にさせる。 でも、それを直接伝えるのは恥ずかしくて、タイラー様には内緒にしていた。 「タイラー様、もう安定して歩けるようになったから、歩く時に手を繋ぐのはやめますか?」 実は彼が、いつまでも私にお世話をされたくないと、内心では思っているかもしれないので、一応確認のために聞いてみた。 すると、「絶対にダメ。 僕の歩行訓練の意欲を奪うようなことを言ってはいけないよ。」 と珍しく強く拒否された。 こんなに否定されたのは、高熱を出している時は近づかないと約束させられた時と、護衛の数の話以来だった。 私は少し驚きながらも、多分タイラー様は、私と手を繋ぐのが好きなんだと思う。 だから、もうこれはカップルの散歩なのでしょう。 そう受け止めて、今日も彼とのデートを続ける。 だって私も、恥ずかしさはあっても、彼から求められる嬉しさは、私が欲しかったものそのもので。 そんなある日、王都のクライトン侯爵から、タイラー様宛に書状が届く。 それを見て、タイラー様はみるみる険しい表情を浮かべる。「マリア、僕達は王都に戻らないといけなくなった。 第一王子がご成婚されるそうだ。 だから、貴族は全員、ご成婚披露パーティーに出席しなければならない。 僕は、療養中だから無理しなくていいとあるが、兄とマリアの妹さんが、父の邸にいる。 君は、彼らと一緒にパーティーに出席しなければならないから、僕も行くよ。 父上にもう歩行は問題ないと伝えているが、まだ信じきれていないのだろう。」「そうですか。 一人では不安なので、タイラー様も一緒に来て頂けるなら心強いです。」「急いで僕達の夜会用の衣装を作ろう。」「はい。」 その日から、半年後のご成婚披露パー
「ディクソン公爵様、初めてお目にかかります。 クライトン侯爵家次男タイラーと申します。」「やっと姿を見せたね、タイラー卿、君はどんな人物なのか、周囲の領主達も知りたがっていたよ。」 村の広場にタイラー様とマリアが立ち、馬車から降り立つディクソン公爵を出迎えると、早速、彼はタイラー様のところへ歩み寄り、握手を求める。 その後、タイラー様の姿を上から下まで鋭い目で観察している。「そう言っていただけるとは光栄ですが、私などただの領主でございます。」「いやいや、謙遜は無用だ。 この領地をクライトン侯爵から引き継ぎ、わずか数年でこのように街を栄えさせて、私の領地との差を見せつけてくれたんだ。 大したものだよ。 姿を見せないと有名だし、まさかこんな美しい女性を連れて現れるとは、大したものだ。」 ディクソン公爵は興味深々の様子で、タイラー様の隣に立つ私をじっとりと見ている。「紹介が遅れましたが、こちらの女性は僕の婚約者であるローレ侯爵令嬢マリアです。」「ローレ侯爵令嬢か…。 美人だけど、社交場に一切姿を見せない深窓の令嬢と噂で聞いたことがある。 なるほど、こんなところに隠していたのか。」「はい、彼女は僕の大切な女性ですので、公の場に出ることはしませんでした。」 私は薄らと貴族令嬢らしい笑みを浮かべる。 本当は妾の子だし、幼い頃から婚約していたから、お父様は私を社交の場に出さないようにしていた。 けれども、幼い頃から美人だと噂だけは広まっていたのだ。 だから、カーステン様と会うこともなく、婚約していたのもその噂が理由だった。 もう、彼とのことは過去だけど。 私は目立ちすぎると、美人だから逆に困ったことが起こるのだ。 高位の好色な貴族男性に妾の子だと知られ、自分の妾にと望まれる恐れがあることだ。 だから、お父様はその事実をなるべく伏せていたし、今はタイラー様が婚約者だと名乗ってくれることで守られている。 もし、タイラー様が私を手放すようなことがあれば、目の前のディクソン公爵は、すぐにでも私を手に入れようと動き出しそうだ。 私は彼のような男性がする女性を値踏みする冷徹な目つきがとても怖い。 女性を狙うハンターのように執拗で、陰険に感じる。 最近はタイラー様と過ごしているから、このような男性に接する機会がなかった。 初めてタイラー
タイラー達が広場で歩行訓練を続けていると、興味深そうに見ていた村の子供達が数人集まって来た。「とっても綺麗なお姉さん、こんにちは。」 子供達は、物おじすることなく、マリアに話しかけて来た。 マリアはどこに行っても、人の目を引くし、子供達にももれなく興味を持たれる。「あら、初めまして、ここの村の子達ね。 私はマリアで、こちらはタイラー様よ。 私達が気になる?」「うん、何してるの?」「この村のことを調べているのよ。 それで、お父さんやお母さん達とお話したいと思っているの。 ご両親はお家にいるのかしら? できれば、連れて来てほしいな。」 マリアは子供達に笑顔で話している。 すると、子供達は顔を見合わせて、すぐに頷いた。「わかった。 僕達が連れて来てあげる。」「ありがとう。」 子供達はそれぞれに家に向かって走り出した。「マリア、ありがとう、これならすぐに村の者達と話せそうだ。」 僕は元々人と接することが得意ではないし、ましてや子供達にはどう話しかけたらいいのかわからない。 ロドルフもいるから、そう言った部分は彼に任せておこうと考えていた。 けれども、僕達が大人と話し合いの場を持つために費やす時間を、マリアは一瞬で終わらせた。 これには、さすがと言うしかない。 何せ、マリアの人を惹きつける人柄を一番知っているのは、紛れもなく僕だから。 初めて出会ったあの日、相手が彼女でなかったらきっと僕は関わることすら、拒んでいただろう。 ボツボツの顔を人に、ましてや令嬢に見せるなんて、絶対に嫌だと思っていた。 でも、拒否したいと思いながらも、素直そうなその瞳と表情についつい引き込まれ、今がある。 だから、マリアと出会えて、本当に良かった。 そして、先ほどディクソン公爵と会う時に、「僕を支える。」と断言してくれた言葉に嬉しさが込み上げる。 歩行時にふらついてしまうかもしれない僕に、あらかじめ支えてくれると言うことで、僕を安心させ、守ってくれようとしている。 とはいえ、僕が本当にふらついてしまったら、いくらマリアが自分がふらついたと庇おうとしても、僕だとわかってしまうだろう。 それでもあえて、自分のせいにすると言ってくれる優しさがマリアらしい。 彼女は常にぶれずに僕を支えてくれようとする。 そんなマリアがいるから僕は、明日デ
「タイラー様、ここから先が例の村です。」 マリア達一行は、ディクソン公爵が譲り渡したいと言われる村に到着した。 実際に訪れてみると、何故ディクソン公爵が手放したいのか、わかる気がする。 道路を挟んで、クライトン領は整備された街が広がり、清潔な印象があるのに対し、反対側にある村は道がガタガタで整備されておらず、建物は古く、どこか寂れた雰囲気が漂っていた。「なるほどな。」「全体的に寂れていると言うことですか?」「うん、そう言うことだね。 おそらくディクソン領からの旅人は、昔は森を出た後、クライトン領に入る前の休憩所として村を利用していたのだろう。 けれども、今は僕達の領地の方が栄えているから、森を抜けた後、わざわざここで休む必要がなくなってしまったんだろう。 すぐにクライトン領に入り、賑やかな街で僕達のように宿をとればいいだけだからね。 わざわざ辺鄙な村に寄って、休む必要がないんだよ。 ディクソン公爵にとっては、広大な森の先にあるこの村に、整備するための資金や人手をかけるのが負担になったのだろう。 そうしているうちに、僕達の領地との格差がどんどん開いてしまったんだ。 それで、僕達にこの村を譲ろうと見切りをつけた。 実際、この村の住人達は、買い物や仕事を、僕達の領地で行っているみたいだから。 すぐ隣に便利な街があるんだ。 森を抜ける危険を犯してまで、ディクソン領の街まで行くとはと思えないからね。」「そうですね、タイラー様。 それで、この村を引き受けるのですか?」「ああ、構わないだろう。 このまま僕達の領地の一部として取り込んでしまおう。」「タイラー様、ディクソン公爵様は調印場所として、今いる広場を指定してきておりますが、何故でしょうか?」 ロドルフは広場を見渡しながら首を傾げている。 周りには特に目立ったものはないが、ただ足元にゴツゴツとした石が積み重なっている。 そして、場所によっては目に見えない高低差もある。 タイラー様は転ばないように慎重に歩いていた。 でもそれは、他人には気づきにくい。 彼は歩行に問題がないように見せるために意識的に隠して歩いている。 あくまで、私が彼のそばにいて、ずっと見守ってきたからわかることだ。「貴族同士の調印であれば、普通は街の応接室で行われるものだ。 だが、わざわざここを指定す