タイラーは朝からベッドの中で、執務をしていた。
腕や指を少しずつ動かして、領地の者から届いた書状に許可するか否かを印を押すことで指示を出すのだ。
こちらに来てから、父上の負担を減らすべく少しずつ領地の執務を始め、今では別邸周辺の領地の分は、僕がするようになっていた。
ここから王都の邸までは遠く、父上の目が届かなくて困っていることを、周りの者達に相談され、少しずつ始めたのがきっかけだった。
以前はロドルフに書状を見せてもらい、口頭で伝え代筆してもらっていたが、今では非常にゆっくりとなら自分で行える。
そのため、執務をする時のロドルフの負担は減らせて来ている。
しかし、僕の体勢を整えたり、車椅子への移動など彼に頼っている状態なのは変わらずで、自分の無力さが嫌になる時も多々ある。
朝、執務を始めてから、そろそろ昼頃だと思われるのに、マリアもロドルフも姿が見当たらない。
いつもなら、マリアは僕が執務している時は、近くのソファに座り、刺繍をしたり、本を読んでいることが多いのに、今日はどうしたのだろう?
ロドルフも僕の執務の準備をした後から、姿を見せない。
僕がベッドの横へ手を伸ばし、呼び鈴を鳴らすと、チャリンチャリンという高い音が邸内に響く。
以前はどうしても呼び鈴が鳴らせず、一人の時はロドルフが来るのをひたすら待つしかなかったから、これができるだけでも僕にはどれほどありがたいか。
「お呼びですか?
タイラー様。」部屋にやって来たのは、新しく僕の護衛になったサエモンだった。
執務を始めると、意に沿わないからと暴力に訴える者もいると、父が懸念して護衛をつけた。
だから、邸の庭園に行くだけなのに、僕には護衛がいる。
「マリアとロドルフの姿がみえないんだが、二人はどうしている?」
「マリア様は買い物に、ロドルフ様はクライトン侯爵に呼ばれて、本邸に行っています。」
「そうか。」
「何かご用では?」
「背中の枕を取ってくれないか?」
「かしこまりました。」
サエモンは僕が座るために背後に置いていた枕を外し、ベッドに横たわれるようにしてくれた。
「ありがとう。」
「後、他に何かありますか?」
「いや、もう大丈夫だ。」
僕はベッドに横たわり、座っていた疲れと、腰の痛みから解放されて、ぼんやりと庭園に目を向けた。
窓から見える青い空と手入れが行き届いた庭園をぼんやりと眺める。
庭園は色とりどりの花が咲き誇り、こんな晴れた天気の日には、マリアと車椅子で散歩がしたいなぁと思う。
普段は、マリアとロドルフがいつもそばにいて、僕の執務が終わったら待っていたと言わんばかりに、誰かしら話し出す。
最近では、そんな日々を送っていた。けれども、今日は珍しく二人ともいなくて、部屋はしんと静まり返り、退屈だ。
こんな時は、以前なら何をして過ごしていたっけ?
マリアが来る前は、ロドルフがいない時はいつも一人きりで過ごしていたし、それが日常だった。
ほとんど体は動かせず、ただぼんやりと過ごす日々。
あの頃は、カーテンさえ閉め切り、心を閉ざしていたな。
ただただ長い空虚な時間。
人生を諦め、何の目標も希望もなく、ベッドに横たわっていた。でも、今はマリアが僕の人生に少しずつ希望を持たせてくれて今がある。
そうだ、こんな時こそ、運動だよな。
体を少しでも動かして、マリアに相応しい自分に近づく。
それが、密やかな僕の目標。まずは、指を握る運動から始め、足は膝を立てるように、集中して頭の中に指を動かすイメージを作り、指を曲げる。
合わせて膝も曲げていく。他人から見たら、僕の遅すぎる動きに嫌気がさすだろう。
けれど、同時に手も足も動かすのは、意識を分散させないといけないので、見た目よりずっと難しい。皮膚はまだ少し突っ張るし、思うように力は入らないのでとてもきついから、これが今の僕の精一杯だった。
でも、諦めない。
マリアが楽しそうに笑う顔を思い浮かべれば、僕はいくらでも頑張れる。
「タイラー様、ただいま。」マリアが部屋に入って来て、僕を見つめて微笑む。
「おかえり。
買い物に出ていたんだってね。」「ええ、そうなの。」
部屋には夕陽が差し込み、かなりの時間が経過していたようだ。
「楽しかったかい?」
「ええ。」
「どんな物を買って来たの?」
「特に何も買わなかったわ。
色々と見てまわっただけよ。」「そうなの?
渡しているお金だけでは足りないかい? いくらでも必要なだけ渡すから好きな物を買うといい。」「ううん、もらっている分だけで充分よ。
たいしてほしいものもないし。」「なのに、こんなに遅い時間まで?
女性は店を見てまわるだけでも楽しいの? 僕にはよくわからないけれど。」「まあ、そんなところね。」
この邸からほとんど出ることがない僕には、わからないことが多い。
本当は一緒に出かけたいと思う気持ちがあるけれど、僕のような者がついて行ったら、周りの目を引いて、マリアの負担になるのは目に見えている。
いつか一緒に行きたい。
それさえも必ず動けるようになると確信できない僕には、まだ言う資格などないのだ。僕は心の奥に根付く、寂しい思いを悟られないように笑顔を見せた。
「タイラー様、寝る前に口をゆすぎましょう。」部屋にロドルフが入って来た。
「あれ?
帰ってたの?」「はい、先ほど戻りました。」
「父上に用事?」
「はい、書状を持って参りました。」
「それ、別にロドルフじゃなくても、良くないか?」
「まぁ、そうですが、別件で個人的に用がありまして。」
「そうか、ならいいんだけど。」
ロドルフは僕を起こし、背中に枕を入れて、ベッドに座らせてくれようと近づいた。
あれ?
ロドルフから今まで嗅いだことのない不思議な匂いがする。 何の匂いなんだろう? どこか、変わった所を通ったのか?今までロドルフからこんな匂いを感じたことはない。
だけど、匂いのことを言ったら、さすがにロドルフも傷つくか。僕はほとんどこの邸にいるせいで、色々な匂いに慣れていない。
本邸からこの別邸に移る時に、久しぶりに外の匂いを嗅いだぐらい僕には経験が乏しい。
少年の頃、普通に動けていた時の記憶は、もうほとんどなくて、色々な匂いもきっともう忘れている。
久しぶりに庭園に出た時、外の清々しい空気の匂いやマリアと一緒に嗅いだ薔薇の一つ一つ違う香りに驚いたくらい外の世界とは疎遠だった。
部屋の中に花束が飾られていても、わざわざロドルフに持って来てもらってまで、嗅いだこともなかったから。
だから、おそらく人よりも匂いに敏感なんだと思う。
口が裂けても言えないが、マリアの傷薬の匂いには、かなり鼻をやられて、しばらく鼻は使いものにならなかった。
でも、そのことは誰にも話していない。僕は、その時まだ、初めて感じる謎の匂いをたいして気にしていなかった。
数日後のある日、タイラーが執務を終えて部屋を見渡すと、今日も一人だった。 僕はなんとなく窓の外に目を向ける。 庭園は花が咲き、空には雲一つない青空が広がっている。 今日も良い天気だな。 そう言えば、最近ではこんな日が時々ある。 良い天気の日に限って、マリアもロドルフもいない。 僕は背中の枕を取ってもらうために、呼び鈴を鳴らす。「お呼びでしょうか?」 今日もサエモンが部屋に入ってくる。「悪いが、背中の枕を取ってくれ。」「承知しました。」 サエモンは慣れた手つきで枕を外すと、僕を横たえさせる。「ありがとう。 ところで、マリアとロドルフは?」「マリア様は買い物へ、ロドルフ様は王都に向かわれました。」「そうか、わかった。 後はいいよ。」「では失礼します。」 僕はマリアの自由を奪いたくないし、いちいち細かく詮索もしたくないけれど、最近買い物に行きすぎじゃないのか? 女性とはこんなものなのか? それとも、もう僕といるのに飽きたとか? まあ、飽きるのも無理はないよな。 結局、僕はほぼベッドの上にいるだけだし。 でも、本当はもっと一緒にいたい。 だけど、いらないことを言って、マリアに気を使わせたり、嫌がられるのは避けたい。 僕はマリアには自由に過ごして欲しいし、彼女が婚約者としてそばにいてくれるだけで、文句なんて言えない立場だしな。 ロドルフだって、マリアが来る前は陰鬱な僕を、ほぼ一人で支えてくれた大切な側近だ。 最近、留守がちであっても、逆に言えばそれだけ僕が離れても心配ない人間になった証拠なんだから、これはいいことなんだ。 僕は少しずつ昼間、留守が多くなる二人に寂しさを感じながらも、なんとか良い方に捉えて、一人運動をすることにする。 指を動かして、膝を立てる。 最近では、二人がいない時間が増えて、退屈だと感じ、その分運動が進む。 僕は今日も無心で体を動かす。 「ただいま、タイラー様。」「おかえり、今日は楽しかった?」「ええ。」 笑顔のマリアが僕の部屋に来て、微笑む。 出かけても帰って来たら、必ず僕の元に来てくれるのが嬉しい。「何か買った?」「何も。」「そうか。」 窓の外から夕陽が差し込み、長い時間を一人で過ごしたと知る。 そして、ついに僕の心にマリアの買い物についての疑問が湧き始める。 こ
「マリア様、二人で出かけるのは今日を最後にしましょう。」 二人で馬車に揺られながら、ロドルフは心配そうに眉をひそめる。「そうね。 今日見つからなかったら、ロドルフの負担が大きいけど、この前の場所にするしかないわね。」「そろそろタイラー様が、おかしいと思い始めていると思うんです。 タイラー様はベッドに長くいたから、人の些細な変化にも気づくんですよ。 だから、僕は不安です。」「そうなの? でも、タイラー様は、気づいたそぶりは何も見せていないから、大丈夫だと思うけれど。 あっ、でも、匂いがどうとか言っていたわ。 その後、勘違いだと言っていたような気がするんだけど。」「そんなことを言っていたんですか? それ、絶対にまずいですって。 特にマリア様のことでタイラー様に恨まれたらと思うと、僕は不安でなりません。」「ふふ、ロドルフって案外小心者ね。」「笑いごとじゃないですよ。」「大丈夫よ。 それよりも見て、あそこなんてどうかしら?」「いいですね。 行ってみましょう。」 二人は領地内にある砂浜沿いの一本道を馬車で進んでいた。 道は馬車が通るギリギリの幅で、走ると砂埃が舞っている。 私がロドルフに示した場所は、馬車を停めるには充分な広さがあり、その先には真っ白い砂浜が広がり、海へと続いている。 ロドルフは馬車の壁を内側から軽くトントンとノックして、御者に停車するよう指示を出す。 すると、馬車は静かにその場所に停車した。 ロドルフは私が馬車から降りるのを手伝ってくれ、地面に降り立つと、二人は砂浜へ向かって歩き出す。 私は目の前に広がる美しい海を見ると心が弾み、我慢できず途中から海へ向かって走り出す。 その後ろを、ロドルフが慎重に歩いてついて行く。「ロドルフ、ここならどうかしら? 今までで一番馬車から砂浜へ行く道の長さが、短い気がするわ。」「はい、とても良さそうですね。」「ここは景色が開けて、海が輝いて見えるし、すごく気に入ったわ。」 私が海を見て喜んでいる間に、ロドルフは足元を確かめるように、一歩ずつゆっくりと歩いて、砂浜への歩数を数えている。「馬車から砂浜までは、約五十歩というところでしょうか。 そして、海へはさらに同じぐらいの距離があります。 このぐらいの距離ならば、タイラー様を背負って歩くことも、何とかできるか
タイラーが目を覚ますと、部屋は明るく今日も良い天気になりそうな予感がしている。 こんな日は、マリアとロドルフはまた僕を一人残して、二人で出かけるのだろう。 僕は二人の間に何かあるのを薄々感じてはいるが、それを口にできないまま、数日が過ぎていた。 マリアは日が経つにつれて、ますます楽しそうにしている。 ロドルフは、積極的に運動をして、その様子を見たマリアは、嬉しそうに応援している。 僕も運動しているけれど、僕の運動はゆっくりで地味だし、周りから見るとやっているように見えないものだから、体を大きく動かすロドルフの運動とは、比べものにもならない。 僕達の関係は、どうしてこうなってしまったんだろう? 僕は心がどんどん沈んでいくけれど、どうすることもできない。 今日はもう、執務さえもしたくないな。 そんなことを考えていると、マリアが部屋に入ってきた。 ここ数日ずっと笑顔だったけれど、その中でも一番の笑顔だ。「タイラー様、おはようございます。 今日は執務をお休みして、一緒にお出かけしましょう。」「えっ、どうして?」「一緒に行きたいところがあるんです。 ねっ、お願いします。」「でも、僕は車椅子がないと、どこにも行けないよ。」「大丈夫です。 ロドルフが背負ってくれますから。」「はい、タイラー様お任せください。」 ロドルフが近づき、笑顔で頷いている。「それなら、いいけど。」 急に何なんだ? 突然の提案に戸惑うが、マリアが望むのなら、僕はできることを精一杯する。 心がふしくれだっていても、僕の信念は健在だった。「そしたら、朝食を食べたら出発ですよ。」「わかった。」 僕は朝食を終え、着替えをロドルフに手伝ってもらい、車椅子に座らされ、玄関ポーチまで行くと今度は馬車に乗せられる。 この別邸に来た時、寝たきりだったから、別邸には僕が寝たまま移動できる特別な馬車が用意されている。「タイラー様、短い距離なら普通の馬車でも大丈夫かもしれませんが、今日は疲れてしまうと思うので、この馬車で行きましょう。」「わかった。」 僕は何がなんだかわからないけれど、ほぼもう投げやりで、言われたままにしている。 もし、心が元気ならば、どこにどのくらいかけて行き、そこで何をするのか、詳しく聞いたかもしれないけれど、もういいや。 考えるのさえ、億劫だ
海で遊んでいた笑顔のマリアが、僕のところに駆け寄ってきた。「タイラー様、とても楽しいわ。 海は遠くで見ると青く見えるのに、足元の水は透明なのよ。」「そうなんだ。 僕も一緒に入りたいな。」「じゃあ、入りましょうよ。 椅子をもう少し海の方へ動かせばいいだけだわ。」「えっ?」「ね、タイラー様、一緒に入りましょ。」「うん。」 僕はマリアに誘われたら、何でもすると決めている。「ロドルフ、タイラー様の靴を脱がせて、椅子を波の来るところまで動かして。」「わかりました。」 ロドルフはマリアの言葉に、何の躊躇もなく従う。 僕の靴を脱がせ、ズボンを捲ると、サエモンと二人で椅子を両側から持ち上げ、波が引いたのを見計らって、僕の座っている椅子を波打ち際に置くと、二人は走って波の届かないところまで戻る。「二人共ありがとう。 タイラー様、波が来るわよ。」 その瞬間、僕の足元に波が触れ、波は引いたり寄せたりを繰り返す。 僕は海に浸かる足元を見つめた。「冷たい、それに確かに水は透明だね。」「そうでしょ。」 僕の横に立つマリアは楽しそうに笑っている。「タイラー様と海で遊べるなんて、本当に嬉しいわ。 見て、お魚が泳いでいるの。」「本当だ。」「こんな浅いところでも見れるのね。 面白いわ。」「そうだね。 泳いでいる魚を初めて見たよ。」「そうね、私も初めて。 タイラー様、足が冷えてしまったんじゃない? そろそろロドルフ達に砂浜まで連れて行ってもらう?」「足は冷たいけれど、まだこうしていたい。 マリア、僕は君と手を繋ぎたい。」 僕はゆっくりと腕を持ち上げて、マリアの方へ手を差し伸ばす。「はい。」 マリアは僕と手を繋ぐと、僕に微笑みながら、海の遠くの方を見つめる。 僕もその視線を追って、海の彼方へと目を向ける。 こうしていると、僕達は恋人同士のようだね。 形式上は婚約者だけど、僕がこんな体でいる限り、マリアを僕に縛りつけることはできない。 それでも僕は全力で、君との結婚を手に入れる。 運動を頑張って、歩けるようになって、マリアを絶対誰にも渡さない。 彼女の手の温もりを感じながら、心の中で誓う。 君のために声には出さないけれど、大好きだよ。 いつか君が僕を選んでくれる。 それを信じて最後まで諦めない。 だから、こうして
「タイラー様、こちらに隣の領主であるディクソン公爵から、珍しい依頼の書状が届いております。」 タイラー様が、執務室で書状の専断をしていると、ロドルフが重要案件と呼ばれる書状を差し出した。 マリアはいつものようにソファに座り、ハンカチに刺繍をしていた。 タイラー様のスミレ色のハンカチに刺繍をしている時は、いつも彼の機嫌がいい。 だから、タイラー様へのハンカチに刺している時は時間をかけて丁寧に行い、他の人へのハンカチは素早くと、時間を振り分けている。 最近タイラー様は、ゆっくりと歩けるようになり、仕事をする時は、ベッドを離れて執務室で行うようになっていた。 そのため、私はタイラー様の希望で、机の前に置かれたソファが定位置になっている。 タイラー様はベッドから出た今でも、私がいつも見える位置にいることを好む。 私もその方が嬉しいので、たとえ別々のことをしていても、ほとんどの時間を共に過ごしている。「どんな内容?」「クライトン領と接するディクソン公爵の領地をクライトン領にしてほしいという依頼です。」「領地を譲り渡すと言ってるのか、確かに珍しい話だね。 どんな村なんだろう、地図を見せて。」 タイラー様がロドルフに指示を出すと、すぐにロドルフは地図を広げて見せる。「ここです。」「なるほど。」 タイラー様の言葉に、私は気になって、一緒に地図を見ようと立ち上がる。「マリア、気になるのかい? おいで、一緒に見よう。」「はい。」 タイラー様は、私が何か関心を示した時は、いつでも話の輪に入れてくれるし、意見も求める。 その姿勢は、初めて出会った時から、ずっと変わらない。「ここだよ。」 タイラー様が地図で示した場所は、ディクソン領の広大な森の先にある小さな村が、クライトン領に接した場所であった。 ディクソン領の人にとって、隣接するクライトン領に入る前の休憩地として適した村のように思える。「どうしてディクソン公爵は、この村を手放したいのでしようか?」「うん、地図だけなら、この村には充分な価値があるように見えるよね。」「はい、よくわかりませんね。」「では、調査役を派遣しますか?」「いや、僕が直接見に行く。 領地は領主にとって貴重だ。 その村を譲り受けるかどうかは、結局、実際に見てみないと判断できないだろう。 父上への報告も必要だ
「タイラー様、ここから先が例の村です。」 マリア達一行は、ディクソン公爵が譲り渡したいと言われる村に到着した。 実際に訪れてみると、何故ディクソン公爵が手放したいのか、わかる気がする。 道路を挟んで、クライトン領は整備された街が広がり、清潔な印象があるのに対し、反対側にある村は道がガタガタで整備されておらず、建物は古く、どこか寂れた雰囲気が漂っていた。「なるほどな。」「全体的に寂れていると言うことですか?」「うん、そう言うことだね。 おそらくディクソン領からの旅人は、昔は森を出た後、クライトン領に入る前の休憩所として村を利用していたのだろう。 けれども、今は僕達の領地の方が栄えているから、森を抜けた後、わざわざここで休む必要がなくなってしまったんだろう。 すぐにクライトン領に入り、賑やかな街で僕達のように宿をとればいいだけだからね。 わざわざ辺鄙な村に寄って、休む必要がないんだよ。 ディクソン公爵にとっては、広大な森の先にあるこの村に、整備するための資金や人手をかけるのが負担になったのだろう。 そうしているうちに、僕達の領地との格差がどんどん開いてしまったんだ。 それで、僕達にこの村を譲ろうと見切りをつけた。 実際、この村の住人達は、買い物や仕事を、僕達の領地で行っているみたいだから。 すぐ隣に便利な街があるんだ。 森を抜ける危険を犯してまで、ディクソン領の街まで行くとはと思えないからね。」「そうですね、タイラー様。 それで、この村を引き受けるのですか?」「ああ、構わないだろう。 このまま僕達の領地の一部として取り込んでしまおう。」「タイラー様、ディクソン公爵様は調印場所として、今いる広場を指定してきておりますが、何故でしょうか?」 ロドルフは広場を見渡しながら首を傾げている。 周りには特に目立ったものはないが、ただ足元にゴツゴツとした石が積み重なっている。 そして、場所によっては目に見えない高低差もある。 タイラー様は転ばないように慎重に歩いていた。 でもそれは、他人には気づきにくい。 彼は歩行に問題がないように見せるために意識的に隠して歩いている。 あくまで、私が彼のそばにいて、ずっと見守ってきたからわかることだ。「貴族同士の調印であれば、普通は街の応接室で行われるものだ。 だが、わざわざここを指定す
タイラー達が広場で歩行訓練を続けていると、興味深そうに見ていた村の子供達が数人集まって来た。「とっても綺麗なお姉さん、こんにちは。」 子供達は、物おじすることなく、マリアに話しかけて来た。 マリアはどこに行っても、人の目を引くし、子供達にももれなく興味を持たれる。「あら、初めまして、ここの村の子達ね。 私はマリアで、こちらはタイラー様よ。 私達が気になる?」「うん、何してるの?」「この村のことを調べているのよ。 それで、お父さんやお母さん達とお話したいと思っているの。 ご両親はお家にいるのかしら? できれば、連れて来てほしいな。」 マリアは子供達に笑顔で話している。 すると、子供達は顔を見合わせて、すぐに頷いた。「わかった。 僕達が連れて来てあげる。」「ありがとう。」 子供達はそれぞれに家に向かって走り出した。「マリア、ありがとう、これならすぐに村の者達と話せそうだ。」 僕は元々人と接することが得意ではないし、ましてや子供達にはどう話しかけたらいいのかわからない。 ロドルフもいるから、そう言った部分は彼に任せておこうと考えていた。 けれども、僕達が大人と話し合いの場を持つために費やす時間を、マリアは一瞬で終わらせた。 これには、さすがと言うしかない。 何せ、マリアの人を惹きつける人柄を一番知っているのは、紛れもなく僕だから。 初めて出会ったあの日、相手が彼女でなかったらきっと僕は関わることすら、拒んでいただろう。 ボツボツの顔を人に、ましてや令嬢に見せるなんて、絶対に嫌だと思っていた。 でも、拒否したいと思いながらも、素直そうなその瞳と表情についつい引き込まれ、今がある。 だから、マリアと出会えて、本当に良かった。 そして、先ほどディクソン公爵と会う時に、「僕を支える。」と断言してくれた言葉に嬉しさが込み上げる。 歩行時にふらついてしまうかもしれない僕に、あらかじめ支えてくれると言うことで、僕を安心させ、守ってくれようとしている。 とはいえ、僕が本当にふらついてしまったら、いくらマリアが自分がふらついたと庇おうとしても、僕だとわかってしまうだろう。 それでもあえて、自分のせいにすると言ってくれる優しさがマリアらしい。 彼女は常にぶれずに僕を支えてくれようとする。 そんなマリアがいるから僕は、明日デ
「ディクソン公爵様、初めてお目にかかります。 クライトン侯爵家次男タイラーと申します。」「やっと姿を見せたね、タイラー卿、君はどんな人物なのか、周囲の領主達も知りたがっていたよ。」 村の広場にタイラー様とマリアが立ち、馬車から降り立つディクソン公爵を出迎えると、早速、彼はタイラー様のところへ歩み寄り、握手を求める。 その後、タイラー様の姿を上から下まで鋭い目で観察している。「そう言っていただけるとは光栄ですが、私などただの領主でございます。」「いやいや、謙遜は無用だ。 この領地をクライトン侯爵から引き継ぎ、わずか数年でこのように街を栄えさせて、私の領地との差を見せつけてくれたんだ。 大したものだよ。 姿を見せないと有名だし、まさかこんな美しい女性を連れて現れるとは、大したものだ。」 ディクソン公爵は興味深々の様子で、タイラー様の隣に立つ私をじっとりと見ている。「紹介が遅れましたが、こちらの女性は僕の婚約者であるローレ侯爵令嬢マリアです。」「ローレ侯爵令嬢か…。 美人だけど、社交場に一切姿を見せない深窓の令嬢と噂で聞いたことがある。 なるほど、こんなところに隠していたのか。」「はい、彼女は僕の大切な女性ですので、公の場に出ることはしませんでした。」 私は薄らと貴族令嬢らしい笑みを浮かべる。 本当は妾の子だし、幼い頃から婚約していたから、お父様は私を社交の場に出さないようにしていた。 けれども、幼い頃から美人だと噂だけは広まっていたのだ。 だから、カーステン様と会うこともなく、婚約していたのもその噂が理由だった。 もう、彼とのことは過去だけど。 私は目立ちすぎると、美人だから逆に困ったことが起こるのだ。 高位の好色な貴族男性に妾の子だと知られ、自分の妾にと望まれる恐れがあることだ。 だから、お父様はその事実をなるべく伏せていたし、今はタイラー様が婚約者だと名乗ってくれることで守られている。 もし、タイラー様が私を手放すようなことがあれば、目の前のディクソン公爵は、すぐにでも私を手に入れようと動き出しそうだ。 私は彼のような男性がする女性を値踏みする冷徹な目つきがとても怖い。 女性を狙うハンターのように執拗で、陰険に感じる。 最近はタイラー様と過ごしているから、このような男性に接する機会がなかった。 初めてタイラー
「タイラー様、お話してもいいですか?」 タイラー様の居室には、タイラー様とロドルフがいて、マリアを迎えた。「どうぞ、座って。」 そう話すタイラー様は、微かに笑みを浮かべているが、瞳は何も映さず、心は見せない。 その姿はいかにも貴族だ。 彼の部屋に入って、今ここにいつもの三人でいるけれど、私の心は一人ぼっちで、タイラー様の気持ちが遠くにあるのがわかった。 そう感じたのは、この部屋で初めて出会ったばかりの時以来だった。 いや、違う。 あの頃ですら、私を受け入れてないのにも関わらず、タイラー様は婚約破棄され、傷ついた私を気遣ってくれた。 今、目の前にいるのは、それよりももっと遠い存在の人。 どう言葉を紡げば、再びいつもの優しいタイラー様の心を取り戻せるのかわからない。 「これからのことを自由に考えて。」と彼は言っていたけれど、もう心の中ではすでに、私との決別を決めてしまったのだろうか? カーステン様との話し合いを終わらせて、タイラー様に伝えたい想いがたくさんあるから、それを胸にこの部屋に来たけれど、もうそれさえもあなたには終わってしまったことなの? 手を伸ばせば届く距離にいるのに、到底彼に近づくことなどできそうにもない。 今ここにいるタイラー様は、ちょっとした知り合いのような心の見えない侯爵令息そのもので、私は彼といるのに切なくて、話すこともできずに泣き出した。「ちょっと待って。 どうしたの? 話を聞くから。」 そう言って、慌ててハンカチを差し出して、私を慰めようとするタイラー様はいつもの優しい彼で、私は涙が止まらなかった。 タイラー様と心が離れるということは、こんなに胸が苦しいのね。 私もタイラー様のように冷静に自分の気持ちを伝えようと思ってここに来たのに、口から出て来るのは、私の心の奥底の一人ぼっちの寂しがりな自分だった。「だって、タイラー様が私と距離を置こうとしているのよ。 私は、タイラー様といつものようにしていたのに。 私を一人にしないで。」 タイラー様は、そんな私を慰めようとしてくれる。「わかった。 わかったから、まずは座ろうか。」 優しく促されてソファに座らせると、タイラー様は、並んで一緒に座ってくれる。 私は、タイラー様の手をぎっちり掴む。 優しい彼と離れるのが、怖くてたまらない。「何があったの?
タイラーが、マリアに想いを告げ、マリアが居室から出て行くと、部屋にはタイラーとロドルフだけが残った。 部屋は静まり返り、沈黙が二人を覆う。 僕はきっといつかこんな日が来ることをわかっていた。 だから僕は無意識に、この邸に戻り兄とマリアを会わせるのを、できるだけ後回しにしていたんだ。 マリアを失うのが、怖かった。「タイラー様、どうしてマリア様に、これからのことを好きに選んでいいって言ったんですか? 今はタイラー様と婚約中なんだから、何も言わなければ、マリア様は、このままタイラー様の婚約者でいてくれたかもしれないのに。」 そう言うと、ロドルフは悲しげに僕を見つめ、目に涙を浮かべる。「どうして、ロドルフが先に泣くの?」「だって、僕ですよ。 タイラー様を、ずっと見てきた僕ですよ。 タイラー様が、マリア様に相応しい男になるために、陰でどれだけ運動も、領地経営も頑張ってきたかを、ずっと見てきた僕ですよ。 こんなにもマリア様を大切にしてきたって、僕ならいくらでも語ることができます。」「そうだったね。 ロドルフ、泣いていい。」「タイラー様~。」 ロドルフは、椅子に腰掛けているタイラーに抱きついて泣きだした。 長い付き合いだけど、ロドルフがこうやって泣く姿を見せるのは初めてだった。 以前は一人で僕を看病し、負担に感じていた時もあっただろう。 その時だって、僕の前でこのように感情を見せることはなかった。 なのに今、僕のために涙するロドルフは僕より僕の心に正直だ。 それに、いつも僕とマリアがうまくいくように、手助けしてくれていた。 そんなロドルフの気持ちを僕は裏切ってしまったのかな。 でも、頑張っても手が届かないこともあるし、変えられないものもある。 それでも、感謝だけは伝えないと。「マリアとのことをいつも応援してくれたね、ロドルフ、ありがとう。」「タイラー様、かっこつけないで、マリアは僕のものだって、言えば良かったじゃないですか。 絶対に誰にも渡さないって。」 泣きつくロドルフの背中を撫でながら、静かに口を開く。「僕は、かっこつけたわけじゃない。 本当にただ、マリアの幸せを優先したかっただけ。 僕は、彼女と知り合ってから、たくさんのものをもらった。 この動くようになった体も、皮膚がボロボロでも、受け入れてくれる女性がい
私は、タイラー様とのことも気がかりだけれど、それと同じぐらいハリエットのことが心配だった。 カーステン様を頼りにして、クライトン家に身を寄せていただろうに、その彼にあんなことを言われて、この侯爵邸で一人、さぞ傷ついて、心細い思いをしているのではないかと思った。 今私は、カーステン様のことは置いておいて、侍女に案内してもらい、ハリエットの部屋を訪れた。 すると、ドアは閉まっているが、中から女性の怒鳴り声が聞こえてきた。 私が慌てて居室に入ると、ハリエットが暴れていて、部屋の調度品を薙ぎ倒し、部屋は無残なありさまだった。 周りにいる侍女達は、彼女の暴力に恐れながらもそれを必死におさめようとしていた。「ハリエット、落ちついて。」「来たわね、私を笑いに。」 ハリエットは、お酒に酔っているらしく、私を見つけると焦点の定まらない目で睨みつけながら、ふらふらと近づいて来る。 とりあえず暴れることはやめたので、ハリエットをソファに侍女達と共に座らせる。「ハリエット、お酒を飲みたくなる気持ちはわかるわ。 でも、侍女達に迷惑をかけたり、物に八つ当たりしてはいけないわ。」 私は、ハリエットが落ち着いて来たようなので、目配せして怯える侍女達を下がらせた。 そして、侍女に託された水の入ったコップをハリエットに手渡す。「相変わらずね。 お姉様は、どんな時でも正しくて、イライラするわ。」「まずは、お水を飲んで落ち着いて。 話ならいくらでも聞くから。」「ねぇ、お姉様の頭の中はいつまでお花畑なの? もしかして、まだ、気づいてないの? どうして、クライトン侯爵に、お姉様が妾の子であるとバレたと思っているの?」「さぁ? わからないけれど、事実だから気にしても仕方ないと思っていたわ。 お父様が話したのかどうかもわからないし、考えても答えが出るとは限らないし。」「もう、お姉様はどうしていつもそうなの? どこまでも聖人で腹が立つわ。 もっと怒ってよ。 どうして婚約者を奪われても、そんなに平然としていられるの?」「声を荒げるのはやめて。 みんなビックリして集まって来てしまうから。 私だって冷静でいられたわけじゃなかったわ。 私はカーステン様のことを想っていたから、あの時は随分ショックを受けたのよ。 私の痛みは見えにくい、ただそれだけだわ。」
次の日、目を覚ますと自分が使っているベッドの中だった。 そのすぐそばにはタイラー様がいて、すでに目を覚まし私を見つめていた。「おはよう、マリア、ぐっすり寝れたようだね。」「おはようございます、タイラー様。 あれっ、私、どうしてここに? ごめんなさい、帰りの馬車で寝てしまって。 それに、どうして今まで起きなかったのでしょうか? きっとタイラー様に、ご迷惑をおかけしましたよね?」「迷惑だなんて思っていないよ。 昨日のパーティーの祝杯で酔ってしまったんだね。」「すみません、口をつける程度にしたつもりですが、お酒は今まで飲んだことがなかったのでこうなるとは、わかりませんでした。 私、お酒にかなり弱いんですね。」「飲み慣れていないから酔いがまわったんだよ。 その後、ダンスも踊ったし、王都に来てからの疲れも溜まっていたのだろう。」「それにしても、私どうやってこのベッドまで来たのですか?」「それは、もちろん僕が運んだんだよ。 僕はマリアを抱いて歩くと、めちゃくちゃ遅いし、力もまだ弱いから、ロドルフに支えられながらだけど、他の誰とも君を抱く役目を代わりたくなかったんだ。」「そうだったんですね。 すみません。 私、その間も全然起きなかったのですね。」「ああ、僕とロドルフが大騒ぎしながら運んでいても、君はスヤスヤと気持ち良さそうに寝ていたんだ。 今思い出すと、ちょっと笑えるよ。 君には、お酒に慣れるまで僕がいない時は、外で飲むのを控えてもらうかな。」 そう言って、タイラー様は笑う。「はい、約束します。」 私は、そんな優しい彼に苦笑いするしかなかった。 なんて恥ずかしいの。 その様子を邸の者達は、微笑ましく見守っていたのだろう。 そう思っただけで、顔が熱くなる。 こちらの邸の人達の前では、令嬢らしく振る舞いたかったのに、早速、失敗してしまったわ。「昨日は色々あったけど、馬車の中でマリアを初めて抱きしめられたし、その後も抱っこして運んだり、寝顔も久しぶりに見れた。 僕にとっては、とても素敵な一日の締めくくりだったよ。 マリアは、以前僕の傷に練り薬を塗ってくれたことがあったけど、僕から君に触れたのは、手を繋ぐことぐらいだからね。 昨日は、君が心配で思わず抱きしめてしまったけれど、嫌じゃなかったかい?」「そんなタイラー様が
王子のご成婚披露パーティーの前日に、私達は王都のクライトン侯爵家に、馬車で到着した。 別邸へ向かった時と違って、タイラー様が、ゆっくりと歩いて馬車から降りると、クライトン侯爵、カーステン様、ハリエットが揃い、その姿を見守るように待ち構えていた。「よく帰ったな。 タイラー。 本当に歩けるようになったんだな。 肌も元通りに綺麗になって本当に良かった。 手紙ではそのことを聞いていたけれど、実際に見ると感極まるよ。」 クライトン侯爵は、目に涙を浮かべている。 彼のその反応には、別邸に移ってからの長い時を感じさせた。 それほどの間、私達は王都に戻らなかったということだ。「タイラー、良くやったな。 おめでとう。 疲れただろうから、応接室に行ってから挨拶をしよう。」「ああ、そうしてくれると助かるよ。」 私とハリエットは、お互いに笑顔を交わすと、クライトン侯爵家の方々と、応接室へと移動した。 それぞれ並んでテーブルを囲んでお茶を飲んでいると、上機嫌のクライトン侯爵が話し出す。「改めて、こうして全員が揃ったのは初めてだな。 息子たち二人が共に婚約中で、未来の義娘達を連れてこの邸に来てくれたことに感謝する。 私は、義娘達とは顔を合わせているが、息子達は初めてだろうから、それぞれ紹介してくれ。」「じゃ、僕から。 僕は、兄のカーステンです。 隣が婚約者で、マリアの妹のハリエットだ。 僕は、マリアとは手紙のやり取りをしていたけど、会ったのは初めてだね。 よろしく。」「次は、僕だね。 僕は、弟のタイラー。 以前は寝たきりだったけれど、マリアのおかげもあって、今はこの通り、ゆっくりなら歩けるようになったんだ。 今はマリアと別邸に住んでいる。 そして、隣にいるのが婚約者のマリア。 マリア達は、姉妹だね。 よろしく。」「それにしても、君達姉妹は全然似ていないんだね。 逆に僕達兄弟は似てるだろ? 眼の色が水色か、紫かの違いだけなんだ。」「そうですわね。 私達姉妹は、母親が違うからあまり似てないんです。 顔も性格も。」「性格なら、僕達も違うよ。 兄さんは昔から何でもできて、僕の憧れなんだ。」 穏やかな会話をしているが、テーブルの下でタイラー様は、私と手を繋いだまま離さなかった。 翌日の夜、王宮では王子のご成婚披露パーティ
楽しい旅から別邸に戻った後、タイラー様の歩行状況はどんどん良くなり、今では走るや踊る以外であれば、ゆっくりだがすべてのことができるようになっていた。 いつものように二人で手を繋いで庭園を散歩していると、これはお世話なのか、ただのカップルの手繋ぎデートなのか、もうわからない。 タイラー様は、顔のブツブツが消えてから、お顔が数段美しくなったので、日増しに私は、彼に見つめられると胸が高鳴り、意識せずにはいられない。 それだけではなく、以前のぎこちない立ち振る舞いが、いつの間にか美しい貴族の所作に変わって、さらに私を夢中にさせる。 でも、それを直接伝えるのは恥ずかしくて、タイラー様には内緒にしていた。 「タイラー様、もう安定して歩けるようになったから、歩く時に手を繋ぐのはやめますか?」 実は彼が、いつまでも私にお世話をされたくないと、内心では思っているかもしれないので、一応確認のために聞いてみた。 すると、「絶対にダメ。 僕の歩行訓練の意欲を奪うようなことを言ってはいけないよ。」 と珍しく強く拒否された。 こんなに否定されたのは、高熱を出している時は近づかないと約束させられた時と、護衛の数の話以来だった。 私は少し驚きながらも、多分タイラー様は、私と手を繋ぐのが好きなんだと思う。 だから、もうこれはカップルの散歩なのでしょう。 そう受け止めて、今日も彼とのデートを続ける。 だって私も、恥ずかしさはあっても、彼から求められる嬉しさは、私が欲しかったものそのもので。 そんなある日、王都のクライトン侯爵から、タイラー様宛に書状が届く。 それを見て、タイラー様はみるみる険しい表情を浮かべる。「マリア、僕達は王都に戻らないといけなくなった。 第一王子がご成婚されるそうだ。 だから、貴族は全員、ご成婚披露パーティーに出席しなければならない。 僕は、療養中だから無理しなくていいとあるが、兄とマリアの妹さんが、父の邸にいる。 君は、彼らと一緒にパーティーに出席しなければならないから、僕も行くよ。 父上にもう歩行は問題ないと伝えているが、まだ信じきれていないのだろう。」「そうですか。 一人では不安なので、タイラー様も一緒に来て頂けるなら心強いです。」「急いで僕達の夜会用の衣装を作ろう。」「はい。」 その日から、半年後のご成婚披露パー
「ディクソン公爵様、初めてお目にかかります。 クライトン侯爵家次男タイラーと申します。」「やっと姿を見せたね、タイラー卿、君はどんな人物なのか、周囲の領主達も知りたがっていたよ。」 村の広場にタイラー様とマリアが立ち、馬車から降り立つディクソン公爵を出迎えると、早速、彼はタイラー様のところへ歩み寄り、握手を求める。 その後、タイラー様の姿を上から下まで鋭い目で観察している。「そう言っていただけるとは光栄ですが、私などただの領主でございます。」「いやいや、謙遜は無用だ。 この領地をクライトン侯爵から引き継ぎ、わずか数年でこのように街を栄えさせて、私の領地との差を見せつけてくれたんだ。 大したものだよ。 姿を見せないと有名だし、まさかこんな美しい女性を連れて現れるとは、大したものだ。」 ディクソン公爵は興味深々の様子で、タイラー様の隣に立つ私をじっとりと見ている。「紹介が遅れましたが、こちらの女性は僕の婚約者であるローレ侯爵令嬢マリアです。」「ローレ侯爵令嬢か…。 美人だけど、社交場に一切姿を見せない深窓の令嬢と噂で聞いたことがある。 なるほど、こんなところに隠していたのか。」「はい、彼女は僕の大切な女性ですので、公の場に出ることはしませんでした。」 私は薄らと貴族令嬢らしい笑みを浮かべる。 本当は妾の子だし、幼い頃から婚約していたから、お父様は私を社交の場に出さないようにしていた。 けれども、幼い頃から美人だと噂だけは広まっていたのだ。 だから、カーステン様と会うこともなく、婚約していたのもその噂が理由だった。 もう、彼とのことは過去だけど。 私は目立ちすぎると、美人だから逆に困ったことが起こるのだ。 高位の好色な貴族男性に妾の子だと知られ、自分の妾にと望まれる恐れがあることだ。 だから、お父様はその事実をなるべく伏せていたし、今はタイラー様が婚約者だと名乗ってくれることで守られている。 もし、タイラー様が私を手放すようなことがあれば、目の前のディクソン公爵は、すぐにでも私を手に入れようと動き出しそうだ。 私は彼のような男性がする女性を値踏みする冷徹な目つきがとても怖い。 女性を狙うハンターのように執拗で、陰険に感じる。 最近はタイラー様と過ごしているから、このような男性に接する機会がなかった。 初めてタイラー
タイラー達が広場で歩行訓練を続けていると、興味深そうに見ていた村の子供達が数人集まって来た。「とっても綺麗なお姉さん、こんにちは。」 子供達は、物おじすることなく、マリアに話しかけて来た。 マリアはどこに行っても、人の目を引くし、子供達にももれなく興味を持たれる。「あら、初めまして、ここの村の子達ね。 私はマリアで、こちらはタイラー様よ。 私達が気になる?」「うん、何してるの?」「この村のことを調べているのよ。 それで、お父さんやお母さん達とお話したいと思っているの。 ご両親はお家にいるのかしら? できれば、連れて来てほしいな。」 マリアは子供達に笑顔で話している。 すると、子供達は顔を見合わせて、すぐに頷いた。「わかった。 僕達が連れて来てあげる。」「ありがとう。」 子供達はそれぞれに家に向かって走り出した。「マリア、ありがとう、これならすぐに村の者達と話せそうだ。」 僕は元々人と接することが得意ではないし、ましてや子供達にはどう話しかけたらいいのかわからない。 ロドルフもいるから、そう言った部分は彼に任せておこうと考えていた。 けれども、僕達が大人と話し合いの場を持つために費やす時間を、マリアは一瞬で終わらせた。 これには、さすがと言うしかない。 何せ、マリアの人を惹きつける人柄を一番知っているのは、紛れもなく僕だから。 初めて出会ったあの日、相手が彼女でなかったらきっと僕は関わることすら、拒んでいただろう。 ボツボツの顔を人に、ましてや令嬢に見せるなんて、絶対に嫌だと思っていた。 でも、拒否したいと思いながらも、素直そうなその瞳と表情についつい引き込まれ、今がある。 だから、マリアと出会えて、本当に良かった。 そして、先ほどディクソン公爵と会う時に、「僕を支える。」と断言してくれた言葉に嬉しさが込み上げる。 歩行時にふらついてしまうかもしれない僕に、あらかじめ支えてくれると言うことで、僕を安心させ、守ってくれようとしている。 とはいえ、僕が本当にふらついてしまったら、いくらマリアが自分がふらついたと庇おうとしても、僕だとわかってしまうだろう。 それでもあえて、自分のせいにすると言ってくれる優しさがマリアらしい。 彼女は常にぶれずに僕を支えてくれようとする。 そんなマリアがいるから僕は、明日デ
「タイラー様、ここから先が例の村です。」 マリア達一行は、ディクソン公爵が譲り渡したいと言われる村に到着した。 実際に訪れてみると、何故ディクソン公爵が手放したいのか、わかる気がする。 道路を挟んで、クライトン領は整備された街が広がり、清潔な印象があるのに対し、反対側にある村は道がガタガタで整備されておらず、建物は古く、どこか寂れた雰囲気が漂っていた。「なるほどな。」「全体的に寂れていると言うことですか?」「うん、そう言うことだね。 おそらくディクソン領からの旅人は、昔は森を出た後、クライトン領に入る前の休憩所として村を利用していたのだろう。 けれども、今は僕達の領地の方が栄えているから、森を抜けた後、わざわざここで休む必要がなくなってしまったんだろう。 すぐにクライトン領に入り、賑やかな街で僕達のように宿をとればいいだけだからね。 わざわざ辺鄙な村に寄って、休む必要がないんだよ。 ディクソン公爵にとっては、広大な森の先にあるこの村に、整備するための資金や人手をかけるのが負担になったのだろう。 そうしているうちに、僕達の領地との格差がどんどん開いてしまったんだ。 それで、僕達にこの村を譲ろうと見切りをつけた。 実際、この村の住人達は、買い物や仕事を、僕達の領地で行っているみたいだから。 すぐ隣に便利な街があるんだ。 森を抜ける危険を犯してまで、ディクソン領の街まで行くとはと思えないからね。」「そうですね、タイラー様。 それで、この村を引き受けるのですか?」「ああ、構わないだろう。 このまま僕達の領地の一部として取り込んでしまおう。」「タイラー様、ディクソン公爵様は調印場所として、今いる広場を指定してきておりますが、何故でしょうか?」 ロドルフは広場を見渡しながら首を傾げている。 周りには特に目立ったものはないが、ただ足元にゴツゴツとした石が積み重なっている。 そして、場所によっては目に見えない高低差もある。 タイラー様は転ばないように慎重に歩いていた。 でもそれは、他人には気づきにくい。 彼は歩行に問題がないように見せるために意識的に隠して歩いている。 あくまで、私が彼のそばにいて、ずっと見守ってきたからわかることだ。「貴族同士の調印であれば、普通は街の応接室で行われるものだ。 だが、わざわざここを指定す