「ええ......学生同士でちょっとしたトラブルがありまして、手に怪我をされたので、病院へ......」学長は言葉を濁し、探るように尋ねた。「黒川社長、こう何度も授業を休まれては困ります。ここは学校ですから......どうお考えでしょうか......」学長は黒川涼のご機嫌を取りたかった。婚約破棄を申し出たのが涼の方だということは、奈津美が彼を怒らせたに違いない。この世界の誰もがそう思っている。学長として、自分の立場を明確にする必要があった。涼がそう言えば、すぐに奈津美を退学処分にするつもりだった。「大学の学生が怪我をしているのに、状況も把握していないのか?」涼の声は冷たかった。学長は、一瞬ポカンとした。なぜ涼が怒っているのか、理解できなかった。奈津美は涼を怒らせたのだ。皆が彼女を見放すのは当然のことではないか!しかし、学長は表面上は「おっしゃる通りです、黒川社長......」と相槌を打った。涼は冷静に、「奈津美はどこの病院にいる?」と尋ねた。「は、はい!市立病院です!大学の者が滝川さんを連れて行きました!」市立病院にいると分かると、涼は田中秘書に電話を切るように合図した。田中秘書は思わず、「社長、病院へ行かれるのですか?」と尋ねた。田中秘書は涼のそばに長年仕えているが、彼がここまで一人の女性を気にかけるのを初めて見た。昔の涼なら、奈津美のことなど見向きもしなかっただろう。ましてや、自分から会いに行くなんて。涼は田中秘書を冷たく睨み、田中秘書は慌てて視線をそらした。涼は冷たく言った。「誰が彼女に会いに行くと言った?」「......失礼しました」田中秘書はそう言ったものの、車を動かせないでいた。最後は涼が、何食わぬ顔で後部座席に深く座り込み、「奈津美みたいな女が、簡単にいじめられるか?女の浅知恵だろ」と言った。女の......浅知恵?田中秘書はきょとんとした。涼の言葉の意味が分からなかった。涼はゆっくりと言った。「よくあることだろう。弱みを見せつけているんだ。なら、その手を取って、病院でどんな芝居をしているのか見てやろう」「......」本当に......そうなのだろうか?田中秘書は、何かが違うように感じていた。もし本当に奈津美が何か企んでいるなら
神崎市の誰もが知っていた。滝川奈津美(たきがわ なつみ)が黒川涼(くろかわ りょう)に一途な想いを寄せていることを。誇りもプライドも捨て去るほどの、狂おしい恋だった。結婚式の日、白石綾乃(しらいし あやの)のたった一言で、涼は花嫁の奈津美を置き去りにし、カーウェディングで空港まで白石を迎えに行ってしまった。 三年もの間、心待ちにしていた結婚式は、奈津美の人生で消えることのない悪夢となった。式当日、彼女は涼の仇敵に誘拐され、涼への報復として三日三晩も責め続けられた。最後には全裸で甲板に縛り付けられ、犯人たちは涼への復讐として、その様子を生配信した。冷たい潮風に全身が震え、奈津美は泣きながら命乞いをした。プライドは地に落ち、踏みにじられた。その時、涼は何の迷いもなく綾乃と入籍していた。「黒川、二千万円の身代金を払えば、お前の婚約者を解放してやる。さもなければ、海に沈めてやるぞ」犯人は侮蔑的な声で最後通牒を突きつけた。しかし返ってきたのは、冷ややかな嘲笑だけだった。「穢れた女なんて、死のうが生きようが、俺には関係ない」その言葉を聞いた奈津美は、凍りついた。穢れた女?まさか涼の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかった。涼の潔癖症は周知の事実で、奈津美はずっと純潔を守り通してきた。この三年間、涼の言うことには絶対服従し、命さえ差し出す覚悟だった。せめて罪悪感くらいは感じているだろうと思っていたのに。でも違った。これが涼の本心だった。電話を切られた犯人たちは激高し、奈津美を海に投げ込むよう命じた。その瞬間、奈津美は自分が滑稽な存在でしかないことを悟った。神崎市の誰もが知っていた。滝川奈津美は白石綾乃の代わりに過ぎないことを。涼と結婚するため、誇りある地位も捨て、世間の噂にも耐え、涼のおばあさまの面倒を見続けた。すべては涼のためだった。三年もの時間をかけて、やっと涼の心を掴めたと思ったが、すべては他人のための土台作りに過ぎなかったと気付いた。奈津美は絶望と共に目を閉じ、後悔の涙を流した。もう一度人生をやり直せるなら、絶対に涼には近づかない――そう心に誓った。「まさか!本当に飛び込むなんて!正気じゃないわ!」「そこまでする必要ある?黒川様の指輪だからって、拾いに飛び込
奈津美が立ち去ると、数人が嘲笑うように言った。「何様のつもりだろう?黒川様と婚約できないとなったら、指輪を拾いに行くのは目に見えてるじゃない」「そうよ。黒川様が白石さんを一番愛してるのは誰でも知ってることでしょ。あの子なんて所詮何なの?黒川会長が気に入ってなかったら、黒川様は見向きもしないはずよ」周りの人々は噂話に花を咲かせていた。......一方、ずぶ濡れになった奈津美は披露宴会場に戻っていた。継母の三浦美香(みうら みか)は慌てて駆け寄ってきた。「どこに行ってたの?なんでこんな姿に?今日は奈津美の婚約パーティーよ!早く服を乾かしなさい!」「それに、そんな地味な服装じゃダメでしょ!男性は色気のある女性の方が好きなのよ」美香は奈津美の襟元を無理やり引っ張り、谷間が少し見えるまで開けて満足げに頷いた。奈津美は美香の言葉など耳に入らず、会場内を見渡していた。招待客で埋め尽くされた会場は薄暗く、多くの人々が一人の男性を取り囲んでいた。黒いスーツに身を包んだ涼の姿があった。彫刻のように整った冷たい表情で、深い瞳には笑みの欠片もない。人を寄せ付けない雰囲気を纏い、高い鼻筋と薄い唇は、まるで神が創り上げた最高傑作のようだった。「男なんてね、下半身で考える生き物なのよ。奈津美は今日から涼の婚約者なんだから、彼を喜ばせることだけ考えなさい。早く子供を授かって、できちゃった婚で黒川家の奥様になれば、一生お金の心配なんてないわよ!」美香は自分が婚約するかのように興奮していた。その言葉を聞いて、奈津美は冷ややかに笑った。贅沢な暮らし?前世で彼女は涼に心も体も捧げた三年間の末に、結婚式当日に誘拐され、三日三晩も拷問を受けた。誘拐された初日、奈津美は涼が助けに来てくれることを祈り続けた。しかし涼は彼女との結婚など最初から考えていなかった。代わりに空港へ白石綾乃を迎えに行き、本来奈津美との結婚式が行われるはずだった会場で、綾乃と指輪を交換し、永遠の愛を誓ったのだ。奈津美は何年も待ち続けたが、結局この結婚式は涼が綾乃のために用意したものだった。二日目、涼は奈津美の生死など気にも留めず、彼女が婚約を一方的に破棄したと公表した。誘拐されたと知りながら、綾乃との甘い時間を過ごすことしか頭にな
奈津美の言葉が終わると同時に、外から涼の秘書が慌てて駆け込んできた。涼という男は、普段なら何が起きても動じない人物だった。先ほどの婚約破棄の話にも平然としていたのに、この時ばかりは瞳孔が縮み、明らかな動揺を隠せないでいた。奈津美にはすぐ分かった。綾乃が自殺を図ったという知らせが届いたのだと。険しい表情で立ち去ろうとする涼の前に、奈津美は立ちはだかった。「涼さん、私たちの話はまだ終わっていません」「邪魔するな」涼の声は冷たく、危険な雰囲気を漂わせていた。目の前のこの女は、会社と祖母を納得させるための道具に過ぎず、彼女に対する感情など一切持ち合わせていなかった。奈津美と結婚することはできる。だが今日、綾乃に何かあれば、簡単には済まないつもりだった。奈津美は一歩も引かず、尋ねた。「そんなにお急ぎなのは、白石さんのところですか?」その言葉に、涼は嘲りを込めて答えた。「そうだが、何か?綾乃はお前たちに追い詰められて自殺未遂まで追い込まれた。言っておくが、黒川家の夫人の座は与えてやるが、それ以上は期待するな」涼の言葉を聞いて、奈津美は虚しさを感じた。彼女は綾乃に何一つ仕掛けていない。誰にも何もしていない。なのに涼と綾乃は、彼女に最も深い傷を負わせた。彼らの愛の生贄にされたのだ。奈津美は声を張り上げた。「涼さん、今日はあなたと私の婚約パーティーです。もしここを出て白石さんのところへ行くなら、私たちの婚約は破棄させていただきます」奈津美の声は大きくなかったが、周りの招待客全員に届くほどだった。報道陣のカメラフラッシュが二人を照らし続けた。涼は危険な目つきで眼を細め、言い放った。「破談をちらつかせて脅すつもり?滝川奈津美、随分と図々しい女だな」そう言い放つと、涼は奈津美の横を素通りして立ち去った。彼は奈津美に黒川家との婚約を破棄する勇気などないと確信していた。涼が去るのを見届けた奈津美は、凛として壇上に上がり、招待客に向かって微笑んで告げた。「本日、涼は白石綾乃さんのために婚約を破棄されました。私、滝川奈津美はそれを受け入れます。これからは涼とはそれぞれの道を歩み、無関係な者となります」その言葉を聞いて、他の奥様方と談笑していた美香の顔色が一変し、手に持って
隣の個室で、月子はビールを3本空けて、カラオケで熱唱していた。奈津美はスマホのトレンドを見ながら違和感を覚え、月子の袖を引っ張って尋ねた。「私、いつ涼さんのEDの話なんてしたっけ?」「あ~それ?私が書いたの!ニュースは衝撃的じゃないと注目されないでしょ」奈津美は顔を曇らせた。「でも、こんなことをした結果について考えなかったの?」酔っ払った月子は、マイクを握りしめたまま大声で言った。「結果?何があるっていうの!まさか黒川が包丁を突きつけてトレンド削除しろって脅しに来るわけないでしょ?」「バン!」突然、個室のドアが蹴り開けられた。カラオケの音楽が急に止まった。奈津美はドアの前に立つ、険しい表情の涼を見て、心臓が一拍飛んだ。涼が来ることは予想していた。だが、こんなに早く来るとは思っていなかった。「記事、お前が流したのか?」涼の声には殺気が含まれていた。月子は怖くなって奈津美の後ろに隠れた。奈津美は落ち着いた様子を装って言った。「私です」「そうか」涼は冷笑し、前に進み出て月子を引っ張り出し、陽翔の腕の中に投げ入れた。「全員出ていけ!」涼を見た瞬間、月子の足はガクガクと震えていた。奈津美を守ろうとしたが、陽翔が彼女を部屋の外へ引っ張り出した。「早く出ろよ、急いで!」ドアが閉まり、部屋の中には奈津美と涼だけが残された。涼が徐々に近づきながら冷たく言った。「昨夜は破談を宣言し、翌日にはもうクラブで遊び歩く。滝川奈津美、今まで随分と見くびっていたようだな」目の前の男を見つめながら、奈津美の脳裏には前世で誘拐犯に押さえつけられた時の忌まわしい記憶が蘇った。胃が激しくむかつき、思わず一歩後ずさりした。「涼さん、婚約パーティーで私を置いて綾乃さんのところへ行ったのはあなたです。私たち滝川家では分不相応でした。この婚約は、お互い穏便に終わらせましょう」穏便に終わらせる?涼は冷笑した。「お前の言う穏便とは、ネットで俺を中傷することか?」「あれは事故です!」「滝川奈津美、俺の気を引くための手段としては面白いと認めよう。だが前にも言っただろう。私の前で策を弄するなと」突然、涼は彼女を壁に押しつけた。涼の目には冷酷な色が宿っていた。
翌朝、涼が階下に降りると、使用人が荷物を片付けているのを見て眉をひそめ、尋ねた。「何をしている?」「旦那様、これは滝川お嬢様のお荷物です。昨日お電話があり、もうお邪魔することはないので、荷物を送ってほしいとのことでした」目の前のスーツケースを見つめながら、涼の脳裏に奈津美の姿が一瞬よぎった。普段なら、この時間には奈津美が朝食を作り終え、期待に満ちた表情で彼を待っているはずだった。椅子を引いてくれたり、他愛もない話をしてくれたりするのが日課だった。今日はその姿が見えず、何かが足りないような気がした。まさか奈津美のことを考えているのかと気づいた涼は、冷たい声で言った「早く片付けろ。目障りだ」「はい、かしこまりました」リビングの椅子に座った涼は、テーブルが空っぽなのを見て不機嫌そうに言った。「朝食はまだか?」「申し訳ありません。いつもはお嬢様が作っていて、新しい家政婦はまだ時間の把握が......」「急げ。仕事に行かなければならない」涼は腕時計を見ながら、急に苛立ちを覚えた。すぐに家政婦がパンと目玉焼き、ソーセージを載せた皿を運んできた。涼はその質素な朝食を見て、冷ややかな目を向けた。「これは何だ?」「朝......朝食でございます」家政婦は怯えた様子で、自分が何を間違えたのか分からない様子だった。涼は冷たく言った。「片面焼きは食べない。朝は肉類も控えている。月給40万も払って、こんなものを出すために雇ったわけではないだろう」 「申し訳ございません!存じ上げませんでした......」「新人でございますので、すぐに作り直させます!」「結構だ」涼は険しい表情で立ち上がった。そこへ黒川会長が寝室から出てきて、テーブルの上を見ただけで孫が怒っている理由を理解した。「普段は奈津美が朝4時から丁寧におかずを作って、蒸籠で蒸して、最低でも16品の栄養たっぷりの朝食を用意してくれていたのに。奈津美がいなくなって、この家は本当に住めたものじゃないわ」その言葉を聞いて、涼は眉をひそめた。破談を切り出したのは彼女だ!行きたければ行けばいい!たかが3ヶ月一緒に暮らしただけの奈津美がいなくなったからって、自分が生きていけないわけがない。「おばあちゃん、仕事に行
譲渡書を見た途端、美香の目つきが変わった。急に声を柔らかくし、取り入るように言った。「奈津美、健一はあなたの弟なのよ。将来会社を継いだら、お姉さんの後ろ盾になれるわ。奈津美も安心して黒川様と結婚できる。一石二鳥じゃない?」美香は急いで健一を引き寄せ、言った。「早くお姉さんに謝りなさい!誰が朝早くからお姉さんの部屋に入っていいって言ったの?」健一は不満げな顔で言った。「どうせこの滝川家はいずれ俺のものだ!婚約を破棄して俺の前途を台無しにしたんだから、説明を求める権利くらいある!」奈津美は冷ややかに見ていた。まさか弟がこんな早くから滝川家の財産を狙っていたとは。こんな若さで、すでに自分が滝川家の将来の主人だと思い込んでいる。これも美香の入念な教育の賜物に違いない。「この子ったら、とんでもないこと言って。奈津美、気にしないで。その譲渡書は私が預かっておくわ」美香の目は譲渡書から離れなかった。譲渡書には、健一が高校卒業後に会社を引き継げると明記されていた。母子でこれほど長く待ってきたのだから、この譲渡書に何かあってはならない。奈津美は美香を見て、軽く笑った。「お母さん、そんなにこれが欲しいんですか?」「ええ......」美香の言葉が終わらないうちに、「ビリッ」という音が響き、奈津美の手の中の譲渡書は真っ二つに引き裂かれていた。美香の顔が一瞬で青ざめ、健一は怒鳴った。「何してるんだ!誰が破れっていった!」健一が慌てて奪おうとしたが、奈津美はあっという間に譲渡書を細かく引き裂き、二人の前にばらまいた。奈津美は淡々と言った。「滝川グループを健一に渡すことは絶対にありません。お母さんも弟も、諦めてください」「何ですって?奈津美!会社を弟に渡さないなら、誰に渡すつもり?滝川家には健一しか男の子がいないのよ!あんた......」奈津美は言った。「健一は結局、父の実子ではありません。会社は私が直接経営することに決めました。それに父が亡くなった時の遺産分配書にも明確に書かれています。会社の経営は私に任せること、そしてお母さんたち母子への遺産は......一億円と、滝川家の二部屋の居住権だけです」「なんだって!父さんがたった一億円しかくれないはずがな
午後、黒川会長から奈津美に電話がかかってきた。会長が綾乃を嫌っているのは、奈津美にはよく分かっていた。綾乃は白石家の一人娘で、性格が高慢すぎるからだ。白石家の全財産を握っているとはいえ、会長は白石家と黒川家の確執から、綾乃を毛嫌いしていた。会長は綾乃のことを見栄っ張りだと思い、孫と付き合うことを許さなかった。一方、自分は従順で分別があり、家柄も申し分なく、品性も容姿も学歴も、黒川家の嫁として最適だった。しかし、会長の好意も所詮は利益のための演技に過ぎなかった。黒川家の専用車で送られた奈津美が玄関に入ると、会長は笑顔で声をかけた。「奈津美、こちらへいらっしゃい」会長は隣のソファを軽く叩いた。奈津美は頷いて会長の傍らに歩み寄り、すぐに会長の向かいに立つ綾乃の姿に気付いた。綾乃は前世と同じく、清楚な美人で、気品のある雰囲気を漂わせていた。人前では常に頑なで冷淡で、高慢な態度を隠そうともしなかった。綾乃は熱いお茶を持ったまま、手が赤くなっているのに、なかなか置こうとしない。奈津美は綾乃の手首に巻かれた包帯に目を留めた。明らかに、綾乃の自傷行為のことが会長の耳に入ったようだ。このことを知っている人は少ないはずだった。奈津美はすぐに美香の仕業だと察した。涼は会長に知られないよう情報を厳重に管理していたのに、美香は会長に告げ口をしに行ったのだ。本当に命が惜しくないらしい。「奈津美、婚約パーティーの日は涼が悪かったの。私も厳しく叱りつけたわ。もう怒らないでちょうだい」会長は慈愛に満ちた表情で、奈津美の手を取って言った。「奈津美は黒川家の未来の奥様よ。それは変わらないわ。まだ怒っているなら、涼に私の前で改めて謝らせましょう」「ご親切にありがとうございます。でも、結構です」「まだ婚約パーティーのことが気になっているのかしら?安心して。今日あなたを呼んだのは、すべてを明らかにするためよ」会長は向かいに立つ綾乃に目を向けた。表情が冷たくなり、声にも冷気を帯びた。「白石さん、あの日が涼と奈津美の婚約パーティーだと知っていながら、わざと自傷行為で涼を引き離したのね。まさか、まだ黒川家の嫁になる野心があるとでも?」「......会長様、誤解です。そんなつもりは」綾乃は顔を蒼白にし、
「ええ......学生同士でちょっとしたトラブルがありまして、手に怪我をされたので、病院へ......」学長は言葉を濁し、探るように尋ねた。「黒川社長、こう何度も授業を休まれては困ります。ここは学校ですから......どうお考えでしょうか......」学長は黒川涼のご機嫌を取りたかった。婚約破棄を申し出たのが涼の方だということは、奈津美が彼を怒らせたに違いない。この世界の誰もがそう思っている。学長として、自分の立場を明確にする必要があった。涼がそう言えば、すぐに奈津美を退学処分にするつもりだった。「大学の学生が怪我をしているのに、状況も把握していないのか?」涼の声は冷たかった。学長は、一瞬ポカンとした。なぜ涼が怒っているのか、理解できなかった。奈津美は涼を怒らせたのだ。皆が彼女を見放すのは当然のことではないか!しかし、学長は表面上は「おっしゃる通りです、黒川社長......」と相槌を打った。涼は冷静に、「奈津美はどこの病院にいる?」と尋ねた。「は、はい!市立病院です!大学の者が滝川さんを連れて行きました!」市立病院にいると分かると、涼は田中秘書に電話を切るように合図した。田中秘書は思わず、「社長、病院へ行かれるのですか?」と尋ねた。田中秘書は涼のそばに長年仕えているが、彼がここまで一人の女性を気にかけるのを初めて見た。昔の涼なら、奈津美のことなど見向きもしなかっただろう。ましてや、自分から会いに行くなんて。涼は田中秘書を冷たく睨み、田中秘書は慌てて視線をそらした。涼は冷たく言った。「誰が彼女に会いに行くと言った?」「......失礼しました」田中秘書はそう言ったものの、車を動かせないでいた。最後は涼が、何食わぬ顔で後部座席に深く座り込み、「奈津美みたいな女が、簡単にいじめられるか?女の浅知恵だろ」と言った。女の......浅知恵?田中秘書はきょとんとした。涼の言葉の意味が分からなかった。涼はゆっくりと言った。「よくあることだろう。弱みを見せつけているんだ。なら、その手を取って、病院でどんな芝居をしているのか見てやろう」「......」本当に......そうなのだろうか?田中秘書は、何かが違うように感じていた。もし本当に奈津美が何か企んでいるなら
「わかったわ。先生、じゃあね!」奈津美は礼二に軽く頭を下げると、大学の外へ歩いて行った。一方、黒川家では。「どういうつもり!誰が許可した!」黒川会長は机を叩いて立ち上がった。ちょっと油断した隙に、涼が記者会見を開き、奈津美との婚約破棄を発表するとは、夢にも思わなかった。涼はリビングで跪き、何も言わない。田中秘書は「会長、今回の件は......」と言いかけたが。「黙りなさい!」黒川会長は冷たく言った。「涼のそばでよく見ておくように言ったはずだ。なのに、好き勝手させるなんて!こんな大事なことを相談もせずに、わしのことを何だと思っている!」「おばあさま、俺はもともと奈津美のこと好きじゃないんだ。婚約解消はあっちから言い出したことだし、願いを叶えてやる」涼は冷たく言い放った。会長は、怒りのあまり、息が詰まりそうになった。田中秘書はすぐに会長を支え、「会長、お体を大切に......」と言った。しばらくして、会長はようやく落ち着きを取り戻し、「奈津美はどこにいる?」と尋ねた。「滝川さんは......恐らく大学でしょう」「大学?」会長は奈津美がまだ経済大学に行っているとは、思ってもみなかった。こんなことがあったのに、大学に行くなんて、人に笑われるだけではないか?「すぐに奈津美を連れて来なさい!」涼は顔を上げて言った。「おばあさま、もう婚約は破棄したんだ。彼女を連れ戻す必要はない」「婚約破棄するかしないかは、君が決めることじゃない!」「俺は黒川グループの社長だ。当然、俺が決める権利がある」涼は無表情で立ち上がり、「おばあさまの体には良くない。こんなことは気にしないでください。田中、車を出せ」と言った。「......かしこまりました、社長」田中秘書はすぐに車を出した。涼は振り返りもせず、黒川家を出て行った。車の中で、田中秘書はバックミラー越しに涼の険しい顔を見て、「社長、本当に滝川さんを連れ戻さなくてよろしいのですか?」と尋ねた。涼は田中秘書を冷たく睨んだ。田中秘書は口をつぐみ、何も言えなくなった。その時、田中秘書の電話が鳴った。表示を見て経済大学の学長だと分かると、田中秘書は迷わず電話に出た。車内に、スピーカーフォンで学長の声が響いた。学長はへつらうよ
礼二は綾乃をほとんど見ようともしなかった。綾乃は言葉を詰まらせた。礼二が彼女に面子を立ててくれないことが分かったのだ。これ以上言い訳をしても、自分が不利になるだけだ。礼二は奈津美の手首を掴み、酷い傷を見て眉をひそめた。「これはひどい。病院へ行こう」「私、そんなに強く踏んでません!」めぐみは自分が巻き込まれるのを恐れ、綾乃に助けを求めるように視線を向けた。綾乃も「めぐみがうっかり滝川さんの手を踏んでしまったんです。治療費はいくらでも払います」と言った。「治療費の問題か?」礼二は冷たく言った。「図書館の監視カメラの映像を確認させる。故意にやったことが証明されれば、警察に通報する。学校は警察の判断に基づいて、相応の処分を下す」「望月先生!本当にわざとじゃありませんでした!私は......」めぐみは恐怖で顔が青ざめた。彼女は多額の寄付金とコネを使って、この経済大学に入学したのだ。退学になったら、両親に殺される!「綾乃!助けて!本当にわざとじゃないの!」めぐみはすべての希望を綾乃に託した。綾乃は唇を噛んだ。監視カメラの映像を見られたら、めぐみは確実に処分される。綾乃は言った。「望月先生、お金で解決させてもらえませんか......」「金持ちなら、この大学にはいくらでもいる。白石さん、これ以上言い訳をしたら、お前も同罪だ」そう言って、礼二は奈津美の手を引き、図書館の外へ歩いて行った。出て行く時、奈津美は三人の方を振り返り、薄く微笑んだ。奈津美の目には、挑発的な光が宿っていた。綾乃は確信した。奈津美はわざとぶつかってきたんだ!図書館の外に出ると、礼二は奈津美の手を放した。奈津美は思わず息を呑んだ。手の甲がズキズキと痛む。「痛っ!もっと優しくできないの?」「今更優しくしろと言うのか?さっきはどうしていた」初めて会った時から、礼二は奈津美をハリネズミのように感じていた。彼女がこんなに大人しくしているのを見るのは初めてだった。さっきは、あんなに踏まれていても、一言も文句を言わなかった。あんなに痛そうなのに、声一つ出さなかった。奈津美は言った。「先生が来るのが見えたから、我慢してたのよ。それに......私が怪我をしなければ、彼女たちに仕返しできないでしょ?」「仕
「あら、誰かしらと思ったら、黒川社長に捨てられた滝川家のお嬢様じゃない」理沙はわざと声を張り上げた。静かな図書館に理沙の声が響き渡り、皆がこちらを見てきた。奈津美は事を荒立てたくなかったので、しゃがみこんで本を拾おうとしたその時、めぐみに足を踏まれた。奈津美の手は白く細く、めぐみはハイヒールを履いている。彼女は奈津美の手を強く踏みつけ、さらに足をぐりぐりと動かした。激痛が全身に走った。奈津美は立ち上がることができず、相手もどこうとはしない。理沙は冷たく笑いながら言った。「社長夫人の肩書きで威張り散らして、何かあるとすぐに黒川家の力に頼っていたのに、婚約破棄された途端、すっかりおとなしくなったわね。」「まだ偉そうにできるの?滝川家が倒産寸前で、会社が危ないって、みんな知ってるのよ。黒川社長が取引を解消して、婚約破棄まで発表したんだから、彼女はもうおしまいね。学費も払えなくなるんじゃない?」めぐみの顔は嘲笑に満ちていた。綾乃は「めぐみ、もういいわ。彼女を立たせてあげて」と言った。「立たせる?綾乃、あなたは優しすぎるのよ!あなたと黒川社長がお似合いだって、誰だって分かってるのに、彼女は図々しくも社長に近づいて......ざまーみろだわ!あなたと黒川社長を不幸にしたんだから、助ける必要ないわ!」そう言って、めぐみはさらに奈津美の手を強く踏みつけた。奈津美の手の甲は、あっという間に青黒く腫れ上がった。「彼女が土下座して謝ってくれたら、許してあげるわよ」「そうよ、あと、私たちの落とした本も拾わせるわ」理沙とめぐみは二人で奈津美を見下ろしていた。涼という後ろ盾を失った奈津美は、もはや彼らにとって脅威ではなかった。周囲の学生たちは、面白そうに見ている。すると、背後から冷たく厳しい声が聞こえた。「何をしている」その一言で、めぐみは慌てて足を引っ込めた。奈津美の手の甲は、青黒く腫れ上がっている。相当ひどいようだ。そして、床には本が散乱している。「望、望月先生......」めぐみの顔は真っ青になった。礼二の表情は険しく、凍りつくような冷たさだった。礼二はいつも穏やかで上品な講師として知られていたが、同時に望月グループの社長であり、涼のライバルでもある。彼の一言で、学生は退学させ
「黒川社長がどう思おうと、勝手でしょ」奈津美は気にしない様子で言った。「どうせ、黒川社長は私のこと、見栄っ張りの女だって思ってるんでしょ?前にもそう言ってたじゃん。私は玉の輿に乗ることしか考えてないって。だったら当然、もっと高いところに登りたいよね。入江社長の方が、あなたよりもずっとふさわしい。少なくとも......入江社長は私のこと心から愛してくれてるし、他の女と不倫関係にあるわけでもない。それに、隠し子もいないしね」神崎市で、涼と綾乃の間に子供がいて、綾乃が涼のために堕ろしたという噂が広まっていたが、涼は一度も否定しなかった。誰もが、その子供は涼の子供だと信じている。前世、多くの人が奈津美のことを、黒川家の子供を作るための道具だと嘲笑った。涼が愛する綾乃と比べれば、奈津美はただの笑い者だった。「誰が俺と綾乃の間に子供がいたなんて言った?奈津美、お前......」涼の言葉が終わらないうちに、田中秘書が慌てて言った。「社長!滝川さんはただ腹いせに言っているだけです!落ち着いてください!」「子供がいるいないは別として、あなたが白石さんを愛しているのは事実でしょ?だったら、私は身を引くわ。だから、黒川社長も、私のことを解放してください」奈津美は思い切って、全てを打ち明けた。涼の婚約者として、滝川家と黒川家の関係を維持するために、奈津美はずっと気を張ってきた。涼が滝川家を盾に脅迫さえしなければ、とっくに婚約破棄していた。未練など、一切残っていない。しかし、涼の態度はどんどんエスカレートしていく。涼は奈津美と冬馬を睨みつけ、冷たく言った。「婚約破棄か?いいだろう、認めてやる」「社長!」田中秘書は顔面蒼白になった。婚約破棄のことを会長が知ったら、大変なことになる。涼は振り返りもせず、レストランを出て行った。全てをぶちまけてしまった奈津美だったが、安堵するどころか、足が震えていた。まだ涼に対抗する力はない。なぜあんなことを言ってしまったんだろう?「俺を盾にするか。奈津美、お前が初めてだ」冬馬の声は冷淡だった。奈津美は冬馬の言葉に耳を貸さず、無理やり笑顔を作って、「社長のおかげで......やっと自由の身になれた」と言った。涼の性格なら、ここまで言われれば......きっと婚約
「言ってみろ」「あなたの犯罪行為には、私は一切関知していない」「ああ」「だから、私を巻き込むなら、それなりの対策を用意すべきでしょ?」「俺が捕まったら、お前も助けてくれってことか?」「私は何も悪いことしてない!」「だったら、何が言いたいんだ?」「もう!」奈津美は冬馬がわざととぼけているのが分かっていた。2000億円でマネーロンダリングをしていることを、彼女が口外しないと踏んでいるのだ。一度口に出せば、共犯になってしまう。そうなったら、言い逃れはできない。顔を赤らめる奈津美を見て、冬馬は面白そうに言った。「さっきは怖いもの知らずだと言っていたのに、もう怖気づいたか?ハイリスクにはハイリターン、それが世の常だ。怖がってばかりいたら、一生人の踏み台にされるだけだぞ。弱肉強食、それは昔から変わらない。滝川さんが婚約を破棄したければ、涼よりもっと強くならなければならない。そうでなければ......大人しく結婚して、専業主婦になるしかない」冬馬の言うことは、奈津美にも理解できた。前世の経験から、彼女はもう二度と涼の添え物にはなりたくなかった。自分を愛せない人間が、人に愛されるはずがない。「入江社長、安心してくださ。どんな犠牲を払っても、私はこの婚約を破棄する。私は、絶対に涼さんの妻にはならない」店の入り口に、涼が部下を連れてやってきた。涼がちょうど店に入ろうとした時、その言葉が彼の耳に届いた。田中秘書の顔色が変わった。まさか、奈津美がそんなことを言うなんて思ってもみなかった。涼は額に青筋を立て、目に暗い影を宿していた。涼の側近として長年仕えてきた田中秘書も、こんな表情の涼を見るのは久しぶりだった。「俺の妻にはならない、だと?」涼が低い声でそう言った瞬間、奈津美は背筋が凍った。振り返ると、涼の冷たい視線が突き刺さった。「そんなに婚約破棄したがっていたのは、そういうことか......」涼は激しい怒りに包まれていた。奈津美はこんな表情の涼を見たことがなかった。涼が近づいてくると、奈津美は思わず後ずさりした。涼は冷たく言った。「黒川家の妻になるのは、そんなに嫌なのか?」嫌なのではない、絶対に受け入れられないのだ!もう二度と、涼と綾乃の恋の犠牲者にならない。
「滝川さん、どうぞ」冬馬は奈津美に手を差し出した。奈津美は、目の前のテーブルに置かれたTボーンステーキを見つめた。したたる血のような肉汁が染み出しており、全く食欲がわかなかった。「社長、お腹空いてないわ」正確に言うと、彼女は夕食を食べる必要がないのだ。たまの付き合いを除けば、夜は何も食べたくない。向かいに座る冬馬は、骨張った指をテーブルに置き、グラスを軽く揺らしながら言った。「俺の考えを探ろうとした奴が、どうなったか知っているか?」奈津美は黙っていた。「俺は自分の考えを読まれるのが嫌いだ。頭のいいつもりでいる奴も嫌いだ。殺さずに協力することにしたんだから、滝川さんは感謝すべきだな」「どうも......ありがとうございます」奈津美は笑えなかった。全く笑えない。せっかく冬馬と綾乃の仲を取り持とうとしたのに、彼は......自分を巻き込んだ。一体なぜ、自分を選んだんだろう?家柄で言えば、綾乃は一人娘とはいえ、白石家には豊富な人脈と資金力がある。白石家と黒川家の関係が悪くなければ、黒川会長は綾乃を気に入っていたかもしれない。容姿についても、彼女は十分すぎるほど美しい。神崎市では誰もが彼女を大切にする、誰もが認める美人だ。前世、冬馬は綾乃に一目惚れしたくらいだ。誠意だって......綾乃は200億円の土地をタダであげようとした。なのに冬馬はそれを断った?転生してから、まるで、美香と健一以外のすべてが。狂ってしまったかのように感じていた。奈津美は眉間を揉み、疲れたように言った。「社長、もう一度考えてくれない......」「契約書はもうサインした。考え直すことはない」冬馬は眉を上げて、「それとも、怖くなったのか?」と尋ねた。「私は......」「本当に怖いなら、最初から俺に近づくな」冬馬の噂を、奈津美が知らないはずがなかった。彼は裏社会の人間で、冷酷非情で、ルールも道理も通じない。こんな人間と関わるのは危険だ。しかし、奈津美には他に選択肢がなかった。冬馬という大物を綾乃に渡して、前世と同じ道を辿り、また命を落とすわけにはいかない。「まさか、社長。こんなに優しい人が、怖いわけないじゃない......」そう言いながら、奈津美は心の中で思いっきり白目を
昨晩、クラブから出た後、彼はそのまま外泊した。奈津美とどう向き合えばいいのか、分からなかった。きっと酔っていたに違いない。だから奈津美に腹筋を触らせるなんて、馬鹿げたことをしてしまったんだ!「社長、今日はお帰りになりますか?」タイミング悪く、田中秘書がオフィスに入ってきた。涼は田中秘書を冷たく見た。田中秘書はすぐに言い直した。「かしこまりました、すぐにホテルの予約を延長します」「待て!」涼は田中秘書を呼び止めた。田中秘書は涼の前に出て、「社長、他に何かご用でしょうか?」と尋ねた。「奈津美は今日、どうしていた?」「滝川さんですか?」奈津美について聞かれた田中秘書は、少し考えてから「今朝早くに外出されましたが、特に変わった様子はありませんでした」と答えた。「俺のことを聞いていなかったか?」「いいえ、何も。ただ、使用人に今晩の夕食は必要ない、遅くなると伝えていました」涼の顔が曇った。夕食はいらない?もう自分との約束を忘れたのか?涼は思わずスマホを取り出そうとしたが、昨晩のクラブでの出来事を思い出し、田中秘書に言った。「奈津美に電話しろ」「......かしこまりました」田中秘書はすぐに奈津美に電話をかけた。電話はコール2回目で繋がった。電話口の奈津美は尋ねた。「田中秘書?何か用?」涼は田中秘書からスマホを受け取り、スピーカーにした。田中秘書は咳払いをして、「滝川さん、授業は終わりましたか?お迎えに行かせましょうか?」と言った。「授業は終わったけど、ちょっと用事があるから、大丈夫よ」「誰からの電話だ?」電話の向こうから、突然、男の声がした。涼の顔色が一変し、田中秘書は思わず息を呑んだ。オフィスは、恐ろしいほどの静けさに包まれた。「ちょっと用があるから、切るわね」そう言うと、奈津美は電話を切った。しばらくの間、オフィスは静まり返っていた。田中秘書は思わず涼の顔色を伺った。さっき電話の声は聞き覚えがあった。冬馬だ!「社長......もしかしたら、ただの勘違いでは......」田中秘書はまだ奈津美をかばおうとした。しかし涼の額に血管が浮き上がり、怒りを抑えながら言った。「調べろ、二人がどこにいるのか、徹底的に調べろ!」「かしこま
しかし、この18億円は奈津美が美香に渡したものだ。つまり、美香は奈津美に18億円を返し、さらに18億円と高額な利息を支払わなければならない。奈津美は絶対に損をしない。奈津美がお金のためにやったわけではない。美香を刑務所送りにするための口実が欲しかっただけだ。そうすれば、美香が毎日毎日、自分の目の前で騒ぎ立てることもなくなる。「とにかく、今回はありがとうね......」奈津美は冬馬の手から契約書を取ろうとしたが、冬馬が少し手を上げただけで、届かなくなってしまった。「この話はタダじゃない。俺がほしいものは?」「......」奈津美はカバンから契約書を取り出し、冬馬に渡しながら言った。「滝川グループが所有する都心部の土地よ。でも、白石家ほど裕福じゃないから、タダであげるわけにはいかないわ」「前に話した通りだろ?2000億円、それ以上でもそれ以下でもない」冬馬の言葉に、奈津美の笑顔が凍りついた。今まで、奈津美は冬馬が冗談を言っているのだと思っていた。前世、冬馬は本当に2000億円で白石家の土地を買い取った。そのおかげで、綾乃は神崎市で大変な注目を集めた。でも、奈津美はそんなことは望んでいない!200億円ならまだしも。いや、20億円でも......しかし、2000億円はありえない!「冬馬......私を巻き込む気?」奈津美は歯を食いしばってそう言った。冬馬がこれほどの金をかけて土地を買うのは、海外の不正資金を土地取引という手段でロンダリングするためだ。もしこれがバレたら、自分も刑務所行きだ。いや、下手したら殺される!「滝川さん、何を言っているのかさっぱり分からないな。君自身は分かっているのか?」冬馬は奈津美をじっと見つめた。今、「マネーロンダリング」なんて言ったら、完全に共犯になってしまう。奈津美は息を呑み、笑顔を作るのが精いっぱいだった。「冗談でしょう、社長。私には分からないわ」「そうか」冬馬は奈津美の手から契約書を受け取り、サインをした。「数日中に君の会社の口座に振り込んでおく」冬馬は笑って言った。「よろしく頼む」「......」奈津美は冬馬のような人間と関わり合いになりたくなかった。前世の記憶では、彼女は冬馬と綾乃を引き合わせるはずだっ