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第2話

作者: 浜崎沙絢
もう、何も考えたくなかった。

背後で聞こえる瑠奈の笑い声が、耳を刺すように響いて、私は自然と歩く速度を速めた。

和樹が家に帰らなくなってから、家の中はがらんとして、私と早乙女さん以外には誰もいない。

私が帰ってきた気配を聞きつけて、家政婦の早乙女さんが嬉しそうに出迎えてくれた。

だけど、私の顔色を見た途端、心配そうに眉をひそめる。

「粟田さん、お顔の色が優れませんが……ずっとお戻りにならなかったのは、どこかご体調でも崩されたのでしょうか?」

――早乙女さんですら、私をこんなに心配してくれるのに。

どうして和樹は、一度も私を気遣ってくれないんだろう。

心の奥が痛んだけど、私は無理に笑みを作った。

「大丈夫だよ、早乙女さん……ちょっとお腹すいちゃっただけだから、何か作って?」

「すぐご用意いたします。粟田さんのお好きなスープ、たっぷりお作りしますね」

早乙女さんはそう言って、慌ただしくキッチンへ向かった。

私はテーブルに、ポケットから取り出したあの瓶をそっと置いた。

星を詰め込んだ瓶を、じっと、じっと見つめる。

――そのとき、玄関のチャイムが鳴った。

私は立ち上がり、ドアを開ける。

そこに立っていたのは――和樹のお母さんだった。

彼女は私の顔を見るなり、驚きの声を上げた。

「まあっ、ありすちゃん!そんなに顔色悪くして……!」

すぐに私の手を取って中へ引っ張り込み、今にも病院へ連れて行こうとする勢いだった。

私は慌てて彼女を制した。

「だって、ありすちゃん、今は大事な身体なんだから。赤ちゃんのこともあるし、無理しちゃダメよ」

彼女は心底心配そうな顔でそう言った。

「……和樹は?あの子、そばにいないの?

最近、あの子会社にも全然顔を出さないから、私たち、てっきりありすちゃんと一緒にいると思ってたのよ。

早乙女さんから連絡なかったら、私、ずっと気づかないままだったわ……ありすちゃん、あなたも隠すつもりだったんでしょう?」

彼のお母さんは、昔から私にとても優しかった。

その温かさに、胸がじんわりとあたたまる。

だけど、何を言えばいいのかわからずにいたら――

タイミングよく、早乙女さんがスープを持って現れた。

「粟田さん、差し出がましいようですが……ずっとご様子が気になっておりまして、心配しておりました」

私は微笑んで首を振った。

「そんなわけないよ、早乙女さん。ありがとう」

そのとき、再び玄関のドアが開く音がした。

顔を上げると、入ってきたのは――和樹だった。

彼は私たちを見て、少し驚いたような顔をする。

「……母さん、なんでここに?」

彼のお母さんはすぐに眉をひそめた。

「よくそんな顔して聞けたわね。あんた、一体どこほっつき歩いてたのよ?ありすちゃんを一人にして」

和樹は気まずそうに視線をそらし、口ごもった。

「……ちょっと、仕事で……」

「仕事より大事なもんがあるでしょ!ありすちゃんは今、赤ちゃんを身ごもってるのよ?自分でなくても任せられる仕事くらいあるでしょうに!」

彼のお母さんの言葉に、私はそっとその手を握った。

「大丈夫だよ。和樹も忙しいんだから……心配しないで。私は平気だよ」

彼は申し訳なさそうに私を見つめた。

「ありがとう……ありす」

その「ありがとう」が、何に対してなのか、私にはわからなかった。

私が助け舟を出したことか、それとも――彼を責めなかったことか。

彼のお母さんは強く言い放つ。

「今夜は絶対に帰らせないから。ありすと一緒に過ごしなさい」

「でも……」

和樹は何か言いかけて、すぐに言葉を詰まらせた。

きっと、自分でもこの状況の後ろめたさをわかっているからだ。

その夜、部屋には壁にかかった小さな明かりだけが灯り、

ぼんやりとした光に照らされる私の顔は、ますます弱々しく見えた。

コンコン――

控えめなノックのあと、和樹がそっと部屋に入ってきた。

ベッドの端に腰掛け、様子をうかがうように口を開く。

「……ありす、瑠奈が、まだ待ってるんだ……あいつ、一人じゃ無理なんだよ」

私は何も言わずに、そっとあの瓶を取り出した。

和樹が、それを見て首をかしげる。

「……それ、何だ?」

「九十九個の星だよ。全部、折り終わったの」

私がそう言うと、和樹は一瞬、目を見開いた。

「もう……九十九回、終わったのか」

私はそっと問いかけた。

祈るような声で、すがるように。

「それでも、行っちゃうの?」

だけど、その小さな願いも、届くことはなかった。

「ありす……瑠奈は記憶を失ってるんだ。今、俺がそばにいてやらなきゃダメなんだよ。

でも、約束する。瑠奈の体が良くなったら、ちゃんとあいつを遠くにやって――それからは、ずっとお前だけを大事にするから……な?」

私は、無理やり笑って頷いた。

だって、わかってたから。

彼の心が、もう私には向いていないってことくらい。

強がるように笑いながら、私は小さなお願いをした。

「……赤ちゃんに、ひとつだけ。ベビー用の足輪が欲しいの。記念に」

和樹は、優しく私の頭を撫でた。

「ああ、いいよ。仕事が片付いたら、一緒にベビー用品も選びに行こうな」

その言葉を最後に、扉の閉まる音が静かに響いた。

――そして、部屋の中に残ったのは、私のすすり泣く声だけだった。

私は震える手で電気をつけ、クローゼットから検査結果の紙束を取り出す。

それは、かつて私を涙ぐませた、幸せの証だった。

このお腹に、小さな命が宿ったことを知った、あのときの喜び。

でも今は違う。

手にしたそれは、私に再び涙を流させるだけだった。

――もう、そこには悲しみしかなかった。

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    ――一週間前。もう、そのとき流産していたんだ。――一週間前……一週間前……和樹は、そのときのことを必死に思い返していた。あの日、私は和樹を探しに行った。でも、彼は――瑠奈と一緒にいた。私は走ってその場を飛び出した。その直後、瑠奈が泣き崩れて意識を失った。そのとき、まわりでは「誰かが外で車に轢かれた」と、ざわめきが起きていた――それでも、彼は一度も私を探そうとはしなかった。振り返ることも、気づくことすらしなかった。――だから、私も病院にいた。――だから、あの日、私はあんなにも弱っていたんだ。それに、和樹はようやく気づき、信じられない思いで首を振った。もしあのとき、ほんの一度でも――振り返ってくれていたら。もしあのとき、私を探してくれていたら――ありすは、あんなことにならなかったかもしれない。だけど――どうして。どうして、ありすは何も言わなかったんだ?どうして、自分に伝えてくれなかったんだ?混乱する和樹のもとに――ドアが開き、両親が怒りの気配を纏って飛び込んできた。和樹の母さんは、和樹の後ろに立っていた瑠奈を見るなり、怒りを爆発させた。ばしん――!思い切り平手打ちが瑠奈の頬を叩く。瑠奈は呆然としながらも、いつものように弱々しく装うことはせず、今度は本気で彼女に反撃しようと手を上げた。だが、その手は――和樹の父さんが無言で掴み、動きを封じた。彼の冷ややかな視線に、瑠奈は怯えたように体を震わせる。その隙を逃さず、和樹の母さんはさらにもう一発、ビンタを叩き込んだ。「恥知らずな女が……!うちの息子に色目を使うなんて、ふざけんじゃないよ!」あまりの勢いに、和樹は慌てて彼女を止めに入ったが――ばしんっ!彼女は今度は和樹の頬を叩いた。「それにあんたもだよ!外でこんな恥ずかしい真似して、天音家の顔に泥を塗る気か!」瑠奈は、自分の大事な「和樹にい」が誰かに叩かれるのを見て、完全に取り乱した。怒り狂ったように、和樹の母さんに向かって拳を振り上げようとした――けれど、すんでのところで和樹に腕を掴まれた。「……おまえ、何してるんだ!」揉み合う中で、ふいに――瑠奈の首にかかっていた小さな足輪が、床に転がり落ちた。和

  • 初恋優先の彼氏に絶望して、私は母になることを諦めた   第3話

    検査結果の束の下に、ふと、色あせた一枚の便箋が挟まっていた。それは――和樹が、初めて私に想いを伝えてくれたとき、自分の手で書いてくれた手紙だった。そっと指でなぞると、あのときの彼の、まっすぐな筆跡が指先に伝わってくる。でも、もう違う。今の和樹の目には、瑠奈しか映っていない。そんなことを考えていたときだった。いきなり扉が開いて、和樹が入ってきた。私の顔を見て、一瞬ぎょっとした表情になる。「――どうした?なんで泣いてるんだ」彼は慌てて私に近づき、涙を拭こうと手を伸ばしてきたけど、私はそっと身を引いた。「大丈夫だよ」涙声になりながらも、私は笑おうとした。「ただ……自分に赤ちゃんができた日のこと、思い出しただけ」和樹の視線が、私の手元に気づいた。私は咄嗟に、便箋を隠すように引き寄せる。「……さっき探し物をしてたら、うっかり出てきちゃっただけだから」和樹は訝しむような目で私を見たけど、それ以上何も言わなかった。「今、お腹に子どもがいるんだから、あんまり泣くなよ」「平気だよ。心配しないで。……それで、なんで戻ってきたんだ?」「着替えを取りに。それと……あの、ベビー用の足輪、どんな模様にするか聞きたくて」思いがけない質問に、私は一瞬言葉を失った。まさか、そんなふうにちゃんと考えてくれているなんて、思わなかったから。「……『すべてがうまくいきますように』って意味の模様で、いいんじゃない?」私は俯き、お腹に視線を落とす。「……あなたが決めたのでいいよ」――それでいい。きっと、これからは、お互いに別々の幸せを目指していくのだから。荷物をまとめ終えた和樹が、もう一度こちらを見る。「本当に……大丈夫か?」その顔を見て、思わず、胸の奥から小さな希望が湧いてしまった。「……もし、私が『平気じゃない』って言ったら――少しは、ここにいてくれる?」思わず漏れたその問いに、和樹は苦笑いした。「ありす……そんなこと言うなよ。瑠奈が待ってるんだ……一人にさせたくないんだよ」私は、かすかに笑った。「冗談だよ。早く行ってあげな」心の中で、自嘲する声がした。――本当に、馬鹿だな。まだ期待してる自分がいるなんて。どうして、まだ和樹に期待してしまうんだろ

  • 初恋優先の彼氏に絶望して、私は母になることを諦めた   第2話

    もう、何も考えたくなかった。背後で聞こえる瑠奈の笑い声が、耳を刺すように響いて、私は自然と歩く速度を速めた。和樹が家に帰らなくなってから、家の中はがらんとして、私と早乙女さん以外には誰もいない。私が帰ってきた気配を聞きつけて、家政婦の早乙女さんが嬉しそうに出迎えてくれた。だけど、私の顔色を見た途端、心配そうに眉をひそめる。「粟田さん、お顔の色が優れませんが……ずっとお戻りにならなかったのは、どこかご体調でも崩されたのでしょうか?」――早乙女さんですら、私をこんなに心配してくれるのに。どうして和樹は、一度も私を気遣ってくれないんだろう。心の奥が痛んだけど、私は無理に笑みを作った。「大丈夫だよ、早乙女さん……ちょっとお腹すいちゃっただけだから、何か作って?」「すぐご用意いたします。粟田さんのお好きなスープ、たっぷりお作りしますね」早乙女さんはそう言って、慌ただしくキッチンへ向かった。私はテーブルに、ポケットから取り出したあの瓶をそっと置いた。星を詰め込んだ瓶を、じっと、じっと見つめる。――そのとき、玄関のチャイムが鳴った。私は立ち上がり、ドアを開ける。そこに立っていたのは――和樹のお母さんだった。彼女は私の顔を見るなり、驚きの声を上げた。「まあっ、ありすちゃん!そんなに顔色悪くして……!」すぐに私の手を取って中へ引っ張り込み、今にも病院へ連れて行こうとする勢いだった。私は慌てて彼女を制した。「だって、ありすちゃん、今は大事な身体なんだから。赤ちゃんのこともあるし、無理しちゃダメよ」彼女は心底心配そうな顔でそう言った。「……和樹は?あの子、そばにいないの?最近、あの子会社にも全然顔を出さないから、私たち、てっきりありすちゃんと一緒にいると思ってたのよ。早乙女さんから連絡なかったら、私、ずっと気づかないままだったわ……ありすちゃん、あなたも隠すつもりだったんでしょう?」彼のお母さんは、昔から私にとても優しかった。その温かさに、胸がじんわりとあたたまる。だけど、何を言えばいいのかわからずにいたら――タイミングよく、早乙女さんがスープを持って現れた。「粟田さん、差し出がましいようですが……ずっとご様子が気になっておりまして、心配しておりました」私は微笑んで

  • 初恋優先の彼氏に絶望して、私は母になることを諦めた   第1話

    退院の手続きを終えた私は、病院の中庭で天音和樹(あまね かずき)とばったり出くわした。如月瑠奈(きさらぎ るな)は彼の胸に甘えるようにもたれかかり、ふたりは耳元でそっと言葉を交わしていた。けれど、私に気づいた瞬間、和樹の顔から笑みはすっと消えた。彼は瑠奈を庇うように背後に隠し、まるで私が何かするんじゃないかとでもいうように、冷たい目で睨んできた。「ここで何してる」その視線があまりにも鋭くて、胸の奥がひやりと凍った。瑠奈が和樹の袖をつまんで、甘えた声で言う。「和樹にい、そんな怖い顔しないで。ありすねえが驚いちゃうよ」私が何か返すより早く、彼女は今にも泣きそうな顔でこちらに向き直った。「ありすねえ、誤解しないで。私、怪我してるから、和樹にいが心配してくれてるだけなの」和樹は彼女を優しく慰めながら、私を見る目にはやっぱりあの、鬱陶しそうな色しかなかった。「用があるなら早く言えよ」唇を開きかけて、けれど言葉が出なかった。結局、私はかすかに首を振っただけだった。「……通りすがっただけ」和樹は、私の様子に何か感じたのか、珍しく少しだけ優しい声をかけてきた。「何もないなら、家に帰れ。おまえ、今お腹に子どもがいるんだから、気をつけろよ」その後ろで、瑠奈はつまらなそうに私を睨んでいた。私は小さく頷く。「……うん」それだけ言って、和樹は瑠奈を連れてさっさと去っていった。ふと見ると、瑠奈の顔には、またしても勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。私は背を向け、自然に両手をお腹へと重ねた。胸の奥から、どうしようもない痛みがこみ上げてくる。今この瞬間、私の夫は――別の女を守り、笑いかけ、寄り添っている。けれど、彼は知らない。彼の背後にいる妻は、すでに、彼との子どもを失っていることを。あの日、ほんの一度だけでも彼が振り返ってくれたら。ほんの一度でも病室に来てくれたら。そしたら、すべてを知ることができたのに。私は、自嘲するように口角を引きつらせた。ふと、ポケットの中の小さなガラス瓶に触れる。ぎゅっと握りしめた瞬間、胸の奥に押し込めた思い出が一気に蘇った。彼が初めて――そして最後に――病院に付き添ってくれた日。そのとき、彼の初恋の人が現れた。それからというもの

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