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第8話

凛は久しぶりに体を動かす感覚を味わった。

海斗と付き合った数年間、彼女は何もかもが与えられる生活をしていたわけではないが、体力を使うような仕事にはほとんど手を出していなかった。

数年前、彼が起業したばかりで経済的に厳しかった時期ですら、毎週の家の掃除はいつも家政婦に頼んでいた。

塗料を一缶塗り終えた凛は、少し痛む腰を支えた。

数年間の贅沢な生活に慣れきってしまい、こうした作業には本当に慣れていない……

彼女は廊下に出て、残りの塗料を運び入れようとした。

だが、少し早く足を踏み出したことで、バケツを倒してしまった。

すぐに対処したものの、隣の家の玄関先に少し塗料がこぼれてしまった。

彼女は急いでモップを取り、掃除を始めたが、その途中で閉まっていたドアが突然開いた。

二人の視線が交わり、彼女は謝ろうとしたが、知り合いに出くわすとは思わなかった。

「君もここに住んでるの?」

「どうして先輩が?」

二人はほぼ同時に口を開いた。

庄司陽一は足元を一瞥し、彼女の背後に視線を移した。

「だから今日引っ越してきたのは君だったのか?」

凛もこんなに偶然だとは思わなかった。「ご覧の通り、今日から私たちは隣人ですね」

陽一の瞳が一瞬光った。

彼がここに住むことを選んだのは、実験室や学校に近く、日常的な授業や実験に便利だからだった。

では、雨宮凛は?彼女はなぜここに?

目に見える限り、この場所は彼女のような若い女性が住むには適していない。特にエレベーターがないことが大きな理由だ。

凛は彼が動かないのを見て、廊下を汚してしまったことを気にしているのだと思った。

「すみません、塗料がこぼれてしまったので、すぐにきれいにします」

彼女は動きを早め、すぐに掃除を終えた。

下に降りる際、凛は彼のそばにあるゴミを指さして言った。

「ちょうど下に降りますから、これもついでに捨ててきますよ」

陽一はそれを拒まず、彼はお返しに家から折りたたみ梯子を持ってきてくれた。「壁を塗るなら、これを使うと便利だよ」

「ありがとうございます」

梯子を使ったおかげで、壁塗りの効率はぐんと上がった。

午前中に、彼女は家の剥がれた壁をすべて塗り直すことができた。

部屋は一気にきれいになり、整然とした空間に生まれ変わった。

その後、家具店でソファやテーブル、椅子を選び、部屋を簡単にレイアウトした。ついに大仕事が終わった。

作業を終えた時には、外はすっかり暗くなっていた。

肩を叩きながら、凛は部屋を見渡した。暖かい黄色の照明が照らし、最初の頃の古びた雰囲気はすっかり消え、家全体が新しく生まれ変わったようだった。

彼女のお気に入りの淡い色の綿100%のベッドカバーがかけられたベッドは、一日中日光に当たって洗剤のほのかな香りを漂わせている。

窓辺には、午後に買った観葉植物が並べられ、かわいらしく生き生きとしていた。

白黒のリラックスチェアには、ちょうどいい大きさのふかふかのクッションが置かれ、読書やくつろぎに最適な空間が整った。

小さいながらも、必要なものはすべて揃っている。

「これが新しい家?すごくいいじゃない!」

ビデオ通話の向こうで、すみれは感心した。

「やっぱり手際がいいね。あの時、一人で私たちの寮を改装してくれた時の凄腕を思い出すよ」

凛は微笑んだ。「自分が住む場所だから、ちゃんとしておきたかったの」

「凛ちゃん、私が思ってたよりもずっと強い人だね。こんなに早く新しい目標を見つけた」

すみれは、彼女が新しい住所を教えてくれたとき、ある程度予想していたが、特に触れなかった。

「また戻れるなんて、嬉しいよ」

通話を切った後、凛の心には少し寂しさが残った。

気づくのが遅かったが、それでもまだ取り戻すことができる。

6時。

一日中忙しかった凛は、まだ食事をとっていなかった。

冷蔵庫にはトーストや新鮮な野菜、それに少しのあわが入っていた。

時間が遅かったので、簡単にお粥を作り、サンドイッチを一つ作った。

梯子を返しに行くついでに、彼女は粥とサンドイッチを一緒に包んで持っていくことにした。

その頃、洋一は論文の実験データを修正するのに忙しかった。

彼はノックの音を聞いて書斎を離れ、ドアを開けた。

「折りたたみ梯子、ありがとうございます。それから、これ、私が作った夕飯なんですけど、よかったら召し上がってください」

灯りの下、彼女の瞳は潤んでいて、明るく輝いていた。

陽一は一瞬驚き、手を伸ばして受け取り、礼を言った。

彼は寝室に戻り、データの調整を再び行い、前回の実験結果を照らし合わせて推算していった。

すべての修正を終えたのは、すでに夜の8時になっていた。

お腹は空っぽで、空腹感が彼を襲っていた。

いつものようにスマホを取り出し、何かを注文しようとした。

しかし、机の上の袋はふと目に入った。

袋を開けてみると、中には保温層があって、サンドイッチとお粥はまだ温かかった。

彼はサンドイッチを手に取り、一口かじった瞬間、思わず固まった。

ベーコンの香ばしさと野菜のさっぱり感、さらに絶妙に焼かれた卵の新鮮で甘い香りが彼の食欲をそそる。

サンドイッチを食べ終わった後、彼はまた一さじのあわ粥をすくって口に含んだ。滑らかで繊細な口当たりは、今までに買ったどの粥よりも美味しく、数口飲むうちに胃が温まっていくのを感じた。

陽一は愉快そうに眉を上げた。彼のことをよく知る人なら、それが彼が楽しんでいる時の表情だとわかるだろう。

うん、なかなかの腕だな……

あっという間に粥と三明治はきれいに完食。

……

夜10時。

洋一が夜のランニングを終え、帰り道で凛に出会った。

彼女はカジュアルなセットアップに着替え、髪をお団子にしていたが、人混みの中でも目立っていた。

「散歩に出てきたのか?」

「夜のランニングですか?」

二人は同時に口を開いた。

凛は頷いた。「はい、散歩しながら、ついでに郵便物を取りに来ました」

彼はペースを落とし、呼吸を整えながら彼女と並んで歩き始めた。

「今夜の夕食、ありがとう。美味しかったよ」

凛は言った。「先輩は二度も私を助けてくれたので、お礼を言うのは私の方です」

二人の道を隔てた先に、子供用の公園があった。

近くで子供たちの騒ぐ声がはっきりと聞こえてきた。

「ここは結構賑やかですね」

海斗の別荘では、いつも不気味なくらい静かだったのに。

陽一は彼女の視線を追った。

彼はここに2ヶ月以上住んでいるが、あまりこうした日常の喧騒には注意を払っていなかった。

外出時に届いたメッセージを思い出し、彼は淡々と話し始めた。

「さっき後輩に聞いたんだけど、大谷先生はこのところ自宅で療養しているらしい。明日の午前10時に訪ねるつもりだけど、大丈夫?」

「明日の10時ですか?」

あまりにも早すぎる……

いざとなると、彼女は6年ぶりに教授に会うことを思い、急に緊張してきた。

「何か問題ある?」

「いいえ、特に」

洋一は彼女の横顔をちらりと見た。彼女の感情の変化を感じたが、深く追及することはなかった。

彼は他人のプライバシーを詮索するのが好きではない。

二人は家の前で別れ、それぞれ自宅に入った。

凛は気もそぞろにシャワーを浴び、ベッドに横たわって眠気を待った。

夜中、小雨が降り始めた。

彼女は何度も寝返りを打ち、一晩中ほとんど眠れなかった。

朝早く起きて、朝食を済ませ、陽一を待った。

10時。

ドアをノックする音が時間通りに響いた。

彼女はすぐにドアを開け、すでに準備が整った様子だった。

陽一は2秒ほど驚いた後、「じゃあ、行こうか」と言った。

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