LOGIN拓司はハッと我に返ると、周囲に漂わせていた険しい気配を瞬時に引っ込め、顔もいつもの穏やかな表情へと戻った。「僕は、彼女がもう二度とわがままを言わせなくなるようにしてやる」声音こそ静かだったが、その言葉には骨の髄まで冷え込むような冷酷さが滲んでいた。万崎は彼を見つめ、ますます理解できなくなっていた。かつて海外の病院で治療を受けていた頃、拓司はあれほど穏やかで、身体が動かなくとも一度も彼女に怒りをぶつけたり、厳しい言葉を投げつけたりしたことはなかった。拓司は生来温厚で、ほとんど怒ることのない人間だと、ずっとそう信じてきたのに。「拓司様、もし昭子さんを本当にお好きでないなら、いっそはっきりとおっしゃって婚約を解消すればいいんです。こんなふうに自分を傷つける必要なんてないし、苦しむこともありません」万崎は少し逡巡したのち、思い切って諭すように言った。――苦しい?拓司は横目で彼女を一瞥し、表情を崩さぬまま、確信を宿した揺るぎない口調で答えた。「僕はいま黒木グループの社長だ。健康な身体を取り戻し、黒木家の命脈を握っている。このどこに苦しみがあるというんだ?」その言葉に含まれた冷ややかな距離感を感じ取り、万崎はうなだれてそれ以上は言葉を継げなかった。彼女が理解していたのはただ一つ――拓司の心を長らく苛んできたものは、常に付きまとっていた病の痛みにほかならない、ということだけだった。「帰ろう」拓司が先に歩き出す。「……はい」万崎は慌ててその背を追った。会社。紗枝のもとに、新しい通知が届いた。昭子との連絡業務を引き続き担当せよという内容だった。しかも、昭子は当面病院で静養が必要であるため、紗枝が随時病院へ赴き、対応にあたるようにと明記されていた。目の利く者なら一目でわかる。これは彼女に面倒を押しつける意図だと。紗枝もそれを感じ取ってはいたが、断ることはできなかった。営業五課の同僚たちは知らせを聞き、思わず心配そうに口を揃えた。「紗枝さん、ご自身も妊娠しているのに、そんなに行ったり来たりしたら身体に障りますよ」「大丈夫。みんなは自分の仕事に集中して」紗枝は微笑んで同僚たちをなだめた。わかっている。今の自分は、これまで以上に努力しなければならないのだ。部下たちへの指示を終えると、紗枝は病院
昭子は人に支えられて事務所から運び出され、その後を拓司が病院へと追った。この騒ぎはすぐに夢美と鈴の耳にも届いた。二人は顔を見合わせ、どこか勝ち誇ったような表情を浮かべた。「やっぱりね。昭子が理由もなく紗枝を連絡役に指名するはずがないと思ってたの。最初から紗枝を潰すつもりだったのよ。ただ、まさかここまで心が冷たいなんて……自分のお腹の子まで駒にするなんて信じられない」夢美の声には軽蔑が滲んでいた。彼女自身、母親として息子の安全を犠牲にすることなど、決して考えられなかった。夢美は、昭子がわざと紗枝に罪を着せたのだと思い込んでいた。先ほど昭子が倒れたのが紗枝の仕返しだとは、夢にも知らなかった。鈴が水を差し出しながら口を開く。「今回は、昭子がどこまで紗枝に負い目を負わせられるかね」「心配しなくてもいいわ。昭子の母親――鈴木青葉は侮れない人よ。娘がこんな仕打ちを受けたら、絶対に黙っていない」夢美は断言した。彼女の記憶には、かつて紗枝が顔を傷つけられたり、息子を誘拐されたりしたとき、背後に鈴木家の影があったことが鮮明に残っていた。鈴はその言葉にようやく胸のつかえを下ろすことができた。夢美は話題を変え、何気なく尋ねる。「ところで、最近啓司さんとはどうなの?」鈴は少し困ったように目を伏せ、言いにくそうに答えた。「まあ……うまくやってるわ」「じゃあ、どうしてもっと一緒にいないの?」「啓司さん、離婚したばかりだから。今はあまり頻繁に会いに行くのは良くないと思って……」鈴は慌てて弁解した。夢美はそれ以上追及しようとはせず、彼女の沈黙を尊重した。病院の中。昭子は全身検査を終え、結果は子どもに大きな問題はないとの診断だった。だが、その知らせを聞いても彼女の胸には不服ばかりが募っていた。「子どもは運が良かっただけよ。大事に至らなくて、本当に良かった……」そう言って昭子は拓司の手を強く握りしめ、悔しさと強がりを滲ませて訴える。「拓司、どうあっても紗枝をクビにしてちょうだい!あの人はひどすぎる。私と子どもを少しも大事にしてないのよ」拓司は胸の奥に渦巻く嫌悪を押し隠し、手を振り払うことなく淡々と答えた。「紗枝は母さんが会社に入れたんだ。クビにするなら、まず母さんの意見を聞かないと」「母さん
ウサギのフィギュアが「パタン」と小さな音を立て、床に転がり落ちた。「あら、ごめんなさい。手が滑っちゃって」昭子は語尾をわざとらしく伸ばして言った。紗枝が素早く前へ出てフィギュアを拾おうとしたその瞬間、昭子は突然足を高く上げ、彼女の手を踏みつけようとした。だが紗枝は咄嗟に反応し、拾いかけた手でそのまま昭子のハイヒールを掴み取った。昭子はバランスを崩し、紗枝が軽く力を込めただけで、ドスンと尻餅をついた。「キャーっ!」昭子は甲高い悲鳴を上げ、慌てて両手で腹を押さえた。紗枝は動じず、床に落ちたウサギのフィギュアを拾い上げ、丁寧に埃を払うと、淡々とした口調で昭子に言った。「すみません、さっき手が当たっちゃって。大丈夫ですか」彼女はフィギュアを元の位置に戻したが、その視線は冷ややかで、昭子を助け起こす素振りなど欠片もなかった。床に座り込んだ昭子の目には、憎悪の色が滲んでいた。「何が『ぶつかった』よ!わざとでしょ!私のお腹には黒木家の子がいるのに!」そう叫ぶと、すぐにスマホを取り出し、拓司に電話をかけた。わざと泣き声を混ぜ、「拓司、早く来て!紗枝に押し倒されて起き上がれないの。怖いよ……」と訴えた。紗枝は冷静なまま、その芝居を見つめていた。瞳には一片の揺らぎもない。挑発した者こそが報いを受けるべきなのだ。さきほども昭子はわざとフィギュアを落とし、さらに手を踏もうとした。それなのに、この場でなお彼女の言いなりになるなど、愚かすぎる。鬱病を乗り越えた紗枝は、ひとつのことを悟っていた。すべての過ちを自分ひとりで背負う必要などない。誰かが自分を害そうとするなら、必ず倍にして返すべきだ、と。「紗枝、覚えてなさいよ!」電話を切った昭子は、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。だがそのとき彼女は、自分の腹の子が拓司のものではないという事実を、すっかり忘れていた。オフィスの外では、多くの社員が戸口から覗き込み、何が起きているのか分からず困惑した顔を見せていた。ほどなくして拓司が駆けつける。万崎はまず社員たちを自席に戻らせ、これ以上見物しないよう促してから、拓司とともにオフィスへ入った。彼女はさりげなく周囲のカーテンを引き下ろし、外からは中の様子が見えないようにした。「拓司、お腹が痛いの……」昭子
「万崎さん、以前、拓司が海外で病気になった時に、あなたがずっと世話をしていたことは知っています。でも、あなたは所詮使用人であり、拓司の将来の妻はこの私だということを忘れないでください」万崎はうつむき、「はい、昭子さん」と答えた。また「昭子さん」だ!もし拓司を怒らせる心配さえなければ、その場で二発、彼女の頬を打ち据えていたかもしれない。だが昭子は理解していた。この平凡な顔立ちで女らしさの欠片もない相手は、敵と呼ぶにも値しない存在だと。本当に警戒すべきは紗枝であり、万崎とこれ以上張り合う必要などなかった。「営業本部の専務に会いたいわ」「かしこまりました。すぐにご案内いたします」万崎の口調は変わらず恭しかったが、その背筋は凛として伸び、卑屈さは微塵もなかった。階下の営業本部に着くと、万崎は専務に連絡を入れた。専務は五十を過ぎ、今では管理も緩み、多くの業務を部長たちに任せていた。しかし、昭子のような大口顧客が訪ねてきたと知るや、すぐさま満面の笑みで迎えに出てきた。その頃、専務はちょうど全部門の部長を集めて会議を開いており、昭子の来訪を知った紗枝が会議室に入った時、すでに彼女は上座に腰を下ろしていた。「こちらは鈴木グループの代表です。今後は昭子さんと緊密に連携し、完璧なサービスを心がけてください」専務が紹介すると、場にいた部長たちは一斉にうなずいた。鈴木グループは今や黒木の最大の取引先であり、逆らえる者など一人もいない。出席者の誰もが、昭子との協力を強く望んでいた。紗枝は胸の内で悟っていた。自分がこんな重要なプロジェクトに関われるはずがない、と。ところが思いがけず、昭子が口を開いた。「専務、ご存じないかもしれませんが、紗枝は私の実の妹なんです。今後は彼女を私との連絡役にしてください」「実の妹ですって?」専務は驚きの表情を浮かべた。記憶では二人の姓は異なっていたはずだ。昭子はその疑念を見透かしたように、さらりと付け加える。「私たちは母が同じで父が違う姉妹なんです」「ああ、そういうことでしたか」専務はようやく腑に落ちたようにうなずいた。傍らにいた夢美は、昭子の真意を測りかねていた。なぜわざわざ紗枝を連絡役に指名するのだろう。会議自体は実質的な議論もなく、大半は専務が紗枝に「昭子との連絡には細心
「お父さん、お金は美希さんに振り込んでおいてください。私はまだ用事があるので、財産公正証書の手続きには付き添えません」昭子の頭の中は、紗枝の離婚のことでいっぱいで、父・世隆の財産分与など気にかける余裕は全くなかった。世隆は思わず訝しむ。「何があったんだ、そんなに急いで」「紗枝と啓司が離婚したの。拓司が彼女に取られやしないか心配で」昭子は慌てて答えた。拓司ほど優秀な婿であれば、当然狙っている者も少なくない。それを聞いた世隆は、即座に昭子に指示した。「それなら早く帰って見張っておけ。しくじるんじゃないぞ」「ええ」昭子は車に乗り込むと、一瞬ためらったが、やはり運転手に黒木グループへ向かわせた。前回黒木に来た際、拓司を怒らせてしまい、二度と勝手に会社に来るなと釘を刺されていた。今回は拓司の怒りを買わぬよう、わざわざ青葉の名を借りてやってきたのだ。昭子は本社ビルの最上階まで進み、社長室の周囲を見回したが、紗枝の姿はない。そこで秘書に尋ねた。「紗枝はどこ?」「紗枝さんはすでに営業部に移動されています」昭子は少し安堵し、手を上げて社長室のドアをノックした。「入れ」聞き慣れた男性の声が中から響く。昭子がドアを開けて中に入ると、拓司はデスクの前で書類を処理していた。顔を上げた彼は、慌ただしい様子で綺麗に着飾った昭子を見て、眉をひそめる。「言っただろう?何か用があるなら家で話せと。どうしてまた会社に来たんだ」「拓司、まあ怒らないで。お母様の代わりに来たの」昭子は急いでスマートフォンを取り出し、事前に準備しておいたチャット履歴を拓司に見せた。「この間、鈴木家と黒木家で共同プロジェクトがあったでしょう?お母様から、鈴木グループの代表として提携の件で打ち合わせに来るように言われたの」このチャット履歴は、昭子が途中で青葉と相談して急遽作ったものだった――拓司と紗枝が内密に接触するのを阻止するため、提携先の担当者という名目で黒木に留まり、ついでに紗枝を「懲らしめる」機会を窺う必要があったのだ。拓司は当然、彼女の下心を見抜いていた。しかし、目下、鈴木家との提携は確かに必要であり、自身の黒木グループにおける社長の地位を固めるためにも青葉の助けが必要だったため、それを指摘することはなかった。「妊娠しているんだか
紗枝の頭の中は、今、ただ一つの考えで埋め尽くされていた――啓司の身に何かあったのではないか、それを確かめなければならない。一方、啓司はすでに入り江別荘に引っ越し、一時的に身を寄せていた。その夜も彼は眠れず、頭の中では昼間の離婚の出来事が繰り返し再生されていた。すると、聞き慣れた着信音が突然鳴り響き、啓司は思わず息を呑む。紗枝には専用の着信音を設定しており、それを聞けばすぐに彼女からの電話だと分かるのだ。啓司はスマホを手に取り、出るべきか出ないべきか躊躇っていた。一方、電話の向こうの紗枝は、心の中でとっくにパニック状態になり、本当に悪い知らせを聞いてしまうのではないかと恐れていた。ついに、着信音が切れそうになる寸前、電話が繋がった。「何の用だ」啓司の、冷たく聞き慣れた声が受話器から響く。紗枝の張り詰めた心は少し緩んだが、それでも平静を装って答えた。「別に用はないんだけど、眠れてるかなって思って電話してみたの」啓司は喉が微かに詰まるのを感じたが、口調は依然としてそっけない。「君が電話してこなければ、よく眠れたはずだがな」その言葉に、紗枝は呆れて思わず笑いそうになり、スマホを握りしめたまま、しばらく声を出さなかった。長い沈黙の後、紗枝は一方的に電話を切り、布団に潜り込んで目を閉じ、無理やり眠ろうとした。啓司が元気そうで、こんなに腹立たしいくらいなら、自分が馬鹿みたいに心配する必要もない。かえって安心して眠れるというものだ。一方、啓司は受話器から聞こえるツー、ツーという音を聞いて、ようやく紗枝が電話を切ったことに気づいた。彼はスマホを握ったまましばらく静かに座っていたが、やがてゆっくりとそれを脇に置いた。翌日、和彦が啓司の健康診断に訪れた際、彼の目の下の隈を一目見るなり問いかけた。「よく眠れませんでしたか」啓司は否定せず、淡々と「ああ」とだけ応えた。「あまり心配しないでください、手術は必ず成功しますから」和彦は人を慰めるのが得意ではなく、気休めの言葉しかかけられなかった。しかし、啓司が眠れなかった原因が手術の心配ではないことは、彼には分からなかった。和彦は手順通りに啓司の術前検査を一通り行い、結果は全ての指標が正常で、完全に手術条件を満たしていた。「今日にでも入院しましょう」







