ログインその頃、桃洲のとある孤児院。院長室では、青葉が興奮を抑えきれず、震える声で叫んでいた。「院長、私の実の娘は、今どこにいるんですか」院長はまず椅子をすすめ、穏やかな口調で答えた。「まあ、落ち着いて。ゆっくり話しましょう」青葉は腰を下ろしたものの、心臓の鼓動はなお激しく鳴り響いていた。何年もの間、青葉は娘を探すことを諦めたことがなかった。そして二十数年の歳月を経た今、ようやく手がかりを掴んだのだ。落ち着けるはずがない。「二、三日前に、うちの職員が聞き込みに来た方から話を聞いたんです。二十八年前にここから引き取られた女の子を探しているそうで、その子の実の両親についても尋ねていたと」院長は言いながら、当時の養子縁組の登録簿を取り出した。紙はすでに黄ばんで文字の多くは掠れていたが、ひとつだけ確かなことが読み取れた――その年の冬に養子に出された女の子は二人しかいなかった。そして、そのうちの一人こそが、青葉が手放した子だった。「おそらく、当時養子になった子が成長して、実の親を探しに戻って来たのでしょう」院長は続けた。「ただし、当時の登録資料の多くが失われているため、あなたの娘である確率は五分五分としか言えません」青葉は何度も頷き、急き込むように尋ねた。「じゃあ、その方は今どこに?会いたいんです」今すぐにでも、この目で娘の姿を確かめたかった。院長は申し訳なさそうに首を振る。「残念ですが、その方は身元が知られるのを恐れているのか、お名前も住所も教えてはくださいませんでした」青葉の胸に灯ったばかりの希望の光は、たちまち揺らぎ、かき消される。「じゃあ、どうやってあの子を探せば……」失望の色を隠せずに声を漏らす。院長は言葉を重ねた。「ただ、その方は約束してくださいました。今日の午後、もう一度来ると。その時には登録を済ませ、血縁関係の情報も残してくださるそうです。後の親子確認をしやすくするために、と」その一言で、青葉の張りつめた心はようやく落ち着きを取り戻した。「はい!ここで待ちます。その子を必ず」彼女の頭の中は、娘と再会する光景でいっぱいだった。娘はどんな顔に成長したのか。この数十年、幸せに暮らしてきたのか。もし不幸な家庭に引き取られて苦労していたのなら……そう思うと胸が締めつけられる。青葉は心
青葉が去ったあと、病室には紗枝と昭子、二人だけが残された。紗枝は無駄なやり取りに時間を割く気はなく、すぐに書類を差し出した。「稲葉社長、こちらが両社の協業に関する報告書です。ご確認ください」しかし昭子は手を伸ばそうともせず、顔を上げて言った。「喉が渇いたわ。まずお水を持ってきてちょうだい」仕方なく紗枝は背を向け、ぬるま湯を一杯汲んで手渡した。昭子はコップを受け取ると一口だけ口をつけ、すぐに眉をひそめた。「お湯が飲みたいのよ」わざと難癖をつけるように吐き捨てると、嘲るような笑みを浮かべて続けた。「紗枝、これが黒木グループ営業部の課長の仕事ぶり?まともに一杯のお湯も用意できないなんて」「お気に召さないなら、ほかの者にご対応いただいても構いません」紗枝はあくまで平静で、微塵も動揺を見せなかった。「代えるものですか。どうするつもり?」昭子はそう言って、手にしたコップを差し出した。「さあ、今すぐお湯を入れ直して!」紗枝が受け取ろうと手を伸ばした瞬間、昭子は突然腕を振り上げた。コップの水が紗枝の全身に浴びせられる。避ける間もなくびしょ濡れになった紗枝の手が、だらりと下げられたまま静かに拳を握った。「悔しいでしょ?」得意げに笑う昭子の声は、ますます傲慢さを帯びていた。「諦めなさいよ。いい身分に生まれなかった自分を呪うことね。もし私みたいにすごい母親がいたら、こんな扱い受けずに済んだんじゃない?」その言葉は確かに紗枝の心を抉った。もし青葉のような母親がいたなら、誰も彼女を虐げず、綾子でさえ遠慮を示しただろう。だが現実には、彼女は自分の実の母親すら知らない。それでも紗枝は心を乱されることなく、毅然とした眼差しで見返した。「それなら祈ることね。青葉さんが一生、あなたを守り続けてくれるって」その一言に昭子は得体の知れぬ不安を覚えたが、唇はなおも強気に動いた。「母が年老いて死ぬことはあっても、母の娘は私ひとりよ。母が亡くなれば財産は全部私のもの。あなたが私を超えるなんて、一生無理だから!」そう言い放つと、紗枝が持ってきた報告書を掴み、びりびりと破り捨てた。「この報告書、めちゃくちゃじゃない!やり直して持ってきなさい!」昭子に散々弄ばれ、ようやく紗枝は病院を後にした。車のシ
拓司はハッと我に返ると、周囲に漂わせていた険しい気配を瞬時に引っ込め、顔もいつもの穏やかな表情へと戻った。「僕は、彼女がもう二度とわがままを言わせなくなるようにしてやる」声音こそ静かだったが、その言葉には骨の髄まで冷え込むような冷酷さが滲んでいた。万崎は彼を見つめ、ますます理解できなくなっていた。かつて海外の病院で治療を受けていた頃、拓司はあれほど穏やかで、身体が動かなくとも一度も彼女に怒りをぶつけたり、厳しい言葉を投げつけたりしたことはなかった。拓司は生来温厚で、ほとんど怒ることのない人間だと、ずっとそう信じてきたのに。「拓司様、もし昭子さんを本当にお好きでないなら、いっそはっきりとおっしゃって婚約を解消すればいいんです。こんなふうに自分を傷つける必要なんてないし、苦しむこともありません」万崎は少し逡巡したのち、思い切って諭すように言った。――苦しい?拓司は横目で彼女を一瞥し、表情を崩さぬまま、確信を宿した揺るぎない口調で答えた。「僕はいま黒木グループの社長だ。健康な身体を取り戻し、黒木家の命脈を握っている。このどこに苦しみがあるというんだ?」その言葉に含まれた冷ややかな距離感を感じ取り、万崎はうなだれてそれ以上は言葉を継げなかった。彼女が理解していたのはただ一つ――拓司の心を長らく苛んできたものは、常に付きまとっていた病の痛みにほかならない、ということだけだった。「帰ろう」拓司が先に歩き出す。「……はい」万崎は慌ててその背を追った。会社。紗枝のもとに、新しい通知が届いた。昭子との連絡業務を引き続き担当せよという内容だった。しかも、昭子は当面病院で静養が必要であるため、紗枝が随時病院へ赴き、対応にあたるようにと明記されていた。目の利く者なら一目でわかる。これは彼女に面倒を押しつける意図だと。紗枝もそれを感じ取ってはいたが、断ることはできなかった。営業五課の同僚たちは知らせを聞き、思わず心配そうに口を揃えた。「紗枝さん、ご自身も妊娠しているのに、そんなに行ったり来たりしたら身体に障りますよ」「大丈夫。みんなは自分の仕事に集中して」紗枝は微笑んで同僚たちをなだめた。わかっている。今の自分は、これまで以上に努力しなければならないのだ。部下たちへの指示を終えると、紗枝は病院
昭子は人に支えられて事務所から運び出され、その後を拓司が病院へと追った。この騒ぎはすぐに夢美と鈴の耳にも届いた。二人は顔を見合わせ、どこか勝ち誇ったような表情を浮かべた。「やっぱりね。昭子が理由もなく紗枝を連絡役に指名するはずがないと思ってたの。最初から紗枝を潰すつもりだったのよ。ただ、まさかここまで心が冷たいなんて……自分のお腹の子まで駒にするなんて信じられない」夢美の声には軽蔑が滲んでいた。彼女自身、母親として息子の安全を犠牲にすることなど、決して考えられなかった。夢美は、昭子がわざと紗枝に罪を着せたのだと思い込んでいた。先ほど昭子が倒れたのが紗枝の仕返しだとは、夢にも知らなかった。鈴が水を差し出しながら口を開く。「今回は、昭子がどこまで紗枝に負い目を負わせられるかね」「心配しなくてもいいわ。昭子の母親――鈴木青葉は侮れない人よ。娘がこんな仕打ちを受けたら、絶対に黙っていない」夢美は断言した。彼女の記憶には、かつて紗枝が顔を傷つけられたり、息子を誘拐されたりしたとき、背後に鈴木家の影があったことが鮮明に残っていた。鈴はその言葉にようやく胸のつかえを下ろすことができた。夢美は話題を変え、何気なく尋ねる。「ところで、最近啓司さんとはどうなの?」鈴は少し困ったように目を伏せ、言いにくそうに答えた。「まあ……うまくやってるわ」「じゃあ、どうしてもっと一緒にいないの?」「啓司さん、離婚したばかりだから。今はあまり頻繁に会いに行くのは良くないと思って……」鈴は慌てて弁解した。夢美はそれ以上追及しようとはせず、彼女の沈黙を尊重した。病院の中。昭子は全身検査を終え、結果は子どもに大きな問題はないとの診断だった。だが、その知らせを聞いても彼女の胸には不服ばかりが募っていた。「子どもは運が良かっただけよ。大事に至らなくて、本当に良かった……」そう言って昭子は拓司の手を強く握りしめ、悔しさと強がりを滲ませて訴える。「拓司、どうあっても紗枝をクビにしてちょうだい!あの人はひどすぎる。私と子どもを少しも大事にしてないのよ」拓司は胸の奥に渦巻く嫌悪を押し隠し、手を振り払うことなく淡々と答えた。「紗枝は母さんが会社に入れたんだ。クビにするなら、まず母さんの意見を聞かないと」「母さん
ウサギのフィギュアが「パタン」と小さな音を立て、床に転がり落ちた。「あら、ごめんなさい。手が滑っちゃって」昭子は語尾をわざとらしく伸ばして言った。紗枝が素早く前へ出てフィギュアを拾おうとしたその瞬間、昭子は突然足を高く上げ、彼女の手を踏みつけようとした。だが紗枝は咄嗟に反応し、拾いかけた手でそのまま昭子のハイヒールを掴み取った。昭子はバランスを崩し、紗枝が軽く力を込めただけで、ドスンと尻餅をついた。「キャーっ!」昭子は甲高い悲鳴を上げ、慌てて両手で腹を押さえた。紗枝は動じず、床に落ちたウサギのフィギュアを拾い上げ、丁寧に埃を払うと、淡々とした口調で昭子に言った。「すみません、さっき手が当たっちゃって。大丈夫ですか」彼女はフィギュアを元の位置に戻したが、その視線は冷ややかで、昭子を助け起こす素振りなど欠片もなかった。床に座り込んだ昭子の目には、憎悪の色が滲んでいた。「何が『ぶつかった』よ!わざとでしょ!私のお腹には黒木家の子がいるのに!」そう叫ぶと、すぐにスマホを取り出し、拓司に電話をかけた。わざと泣き声を混ぜ、「拓司、早く来て!紗枝に押し倒されて起き上がれないの。怖いよ……」と訴えた。紗枝は冷静なまま、その芝居を見つめていた。瞳には一片の揺らぎもない。挑発した者こそが報いを受けるべきなのだ。さきほども昭子はわざとフィギュアを落とし、さらに手を踏もうとした。それなのに、この場でなお彼女の言いなりになるなど、愚かすぎる。鬱病を乗り越えた紗枝は、ひとつのことを悟っていた。すべての過ちを自分ひとりで背負う必要などない。誰かが自分を害そうとするなら、必ず倍にして返すべきだ、と。「紗枝、覚えてなさいよ!」電話を切った昭子は、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。だがそのとき彼女は、自分の腹の子が拓司のものではないという事実を、すっかり忘れていた。オフィスの外では、多くの社員が戸口から覗き込み、何が起きているのか分からず困惑した顔を見せていた。ほどなくして拓司が駆けつける。万崎はまず社員たちを自席に戻らせ、これ以上見物しないよう促してから、拓司とともにオフィスへ入った。彼女はさりげなく周囲のカーテンを引き下ろし、外からは中の様子が見えないようにした。「拓司、お腹が痛いの……」昭子
「万崎さん、以前、拓司が海外で病気になった時に、あなたがずっと世話をしていたことは知っています。でも、あなたは所詮使用人であり、拓司の将来の妻はこの私だということを忘れないでください」万崎はうつむき、「はい、昭子さん」と答えた。また「昭子さん」だ!もし拓司を怒らせる心配さえなければ、その場で二発、彼女の頬を打ち据えていたかもしれない。だが昭子は理解していた。この平凡な顔立ちで女らしさの欠片もない相手は、敵と呼ぶにも値しない存在だと。本当に警戒すべきは紗枝であり、万崎とこれ以上張り合う必要などなかった。「営業本部の専務に会いたいわ」「かしこまりました。すぐにご案内いたします」万崎の口調は変わらず恭しかったが、その背筋は凛として伸び、卑屈さは微塵もなかった。階下の営業本部に着くと、万崎は専務に連絡を入れた。専務は五十を過ぎ、今では管理も緩み、多くの業務を部長たちに任せていた。しかし、昭子のような大口顧客が訪ねてきたと知るや、すぐさま満面の笑みで迎えに出てきた。その頃、専務はちょうど全部門の部長を集めて会議を開いており、昭子の来訪を知った紗枝が会議室に入った時、すでに彼女は上座に腰を下ろしていた。「こちらは鈴木グループの代表です。今後は昭子さんと緊密に連携し、完璧なサービスを心がけてください」専務が紹介すると、場にいた部長たちは一斉にうなずいた。鈴木グループは今や黒木の最大の取引先であり、逆らえる者など一人もいない。出席者の誰もが、昭子との協力を強く望んでいた。紗枝は胸の内で悟っていた。自分がこんな重要なプロジェクトに関われるはずがない、と。ところが思いがけず、昭子が口を開いた。「専務、ご存じないかもしれませんが、紗枝は私の実の妹なんです。今後は彼女を私との連絡役にしてください」「実の妹ですって?」専務は驚きの表情を浮かべた。記憶では二人の姓は異なっていたはずだ。昭子はその疑念を見透かしたように、さらりと付け加える。「私たちは母が同じで父が違う姉妹なんです」「ああ、そういうことでしたか」専務はようやく腑に落ちたようにうなずいた。傍らにいた夢美は、昭子の真意を測りかねていた。なぜわざわざ紗枝を連絡役に指名するのだろう。会議自体は実質的な議論もなく、大半は専務が紗枝に「昭子との連絡には細心