葵の説明を聞かず、綾子が電話を切った。葵が怒って手を握りしめた。 明一のクソガキ、さきに報告したのかよ!葵は真面目に考えて、倒れたのはきっとあの子供たちと何か関係があるに違いなかったと思った。 幼稚園の廊下がどうしてそんなに滑りやすかったのか?そして、彼女が転んだ時、明一がもう一人の子供と、どうして水が入ったバケツを運んできたのか。そして、自分の体に水を掛けるなんて、偶然と言えるだろうか。自分が子供にやられるとは思わなかった。次にあったら、粗末にさせないと思った。彼女が怒っている時に、エージェントから電話が来た。「葵、大変だ。君の新曲「世界に照らす一束の光」が訴えられた。ネットで大炎上だよ」 「すべて解決したじゃないか?」葵は困惑した。 「解決したって?ご自分で見てよ、時先生の曲、4年前に投稿されたの。君が投稿した曲は彼女の曲と99%そっくりだよ」エージェントは熱い鍋にあるアリのようにイライラしていた。「今、盗作だけでなく、権力を使って、相手の弁護士を一日拘束したのも訴えられた。 「この前、助手が時先生の事務所とやり取りしたラインの記録も公開されてた。「みんなに曲を買えないから盗作するしかないと言われた」エージェントからのこれらの話を聞いて、葵は頭がごちゃごちゃになってきた。「今見てみる」彼女は無理に落ち着こうとした。 ネットを見ると、葵が盗作したニュースがトレンドワードのトップとなった。また、自分のウェブサイトに、「清らか者が自ら清し」の所に、ファンなどのコメントがずらりと並べられた。「ひっくり返しだ。盗作じゃないと言ったファン達よ、見たよね」「清らか者が自ら清し?葵、説明して、どうして他人の曲が4年前に投稿されたが君の曲は今発表したのか?しかも4年前の曲と99%そっくりだ?」 [これは盗作と言わないのか?君は裁縫職人とも言えない、君はただのコピーマシンだ]「上の方がおしゃった通りだ。唯一の違いは、彼女が歌詞を入れたことだ。だけど、なんか可笑しいと思ったが、成程、曲と合わなかったのだ。歌詞は良くなかった」…葵はそれらのコメントを一つ一つ読んだ。今になって、気軽に投稿するのをやめた。返事もできなくなった。彼女はエージェントに電話をかけた。「早くPRチームに連絡して」エ
紗枝が唯の家で夕食を食べながら、ゆっくりとおしゃべりした。 遅くなったので。車に乗って牡丹別荘に戻った。 景之に心配かけたくないから、逸之の件と自分が牡丹別荘に住むことを教えないように唯に頼んだ。実際、景之はすでに今日のママが可笑しいと分かった。彼は思いやりがあり、聞かなかった。これから唯おばさんをなだめて聞き出そうとした。牡丹別荘。啓司が5時頃会社から戻ってきた。 リビングルームのソファに座り、コーヒーテーブルの上に繊細なギフトボックスが置かれていた。 「ガン」壁に掛けられた欧風釣鐘が、10の数字に回した。10時なのに、紗枝がまだ戻ってこなかったか? 啓司はこんなに長く人を待ったことがなく、少し眉をひそめながら、イライラしてネクタイを抓った。美しく細い手でギフトボックスを取り、何度も何度もチェックし、中身が女の子を喜ばせると確認してから、再び閉じた。 さらに30分が経ち、啓司はもっとイライラしてきた。 立ち上がってテーブルにあるものを手に取って、紗枝を連れ戻そうと思った。この時、ドアを開ける音がした。 目を向けると、紗枝がベゴニア色のドレスに低めのハイヒールを履いて入ってきた。二人の目が見合わせ、しばらく誰も話さなかった。 紗枝が先に正気に戻り、「まだ寝てないのか?」と聞いた。寝るところか、まだ食事もとってなかった。啓司の頭がごちゃごちゃになり、「どこへ行ったの?どうしてこんなに遅くなったの?」「ああ、友達の家に夕食を食べた」紗枝はスリッパに履き替えて中に入り、啓司の隣を通して二階に上がろうとした。少しおかしいと思った。ずっと尾行をさせたのにどうして聞いたのか?余計な質問だった。 啓司はもう我慢できず、高い体で彼女の前に佇んだ。「僕に聞かないのか?今日はどこに行ったのか?何をしたのかと?」「他にないだろう。仕事だろう?」 今迄啓司は週末も休日も仕事だったので、聞く必要はなかった。紗枝は少し戸惑った。彼はどうかしたのか。 彼女の澄んだ目を見て、啓司はなぜかわからないが、怒ることができなかった。彼は紗枝に近づき、手にしたギフトボックスを彼女に手渡した。 「クライアントからのギフトだ」 彼が持っていたギフトを見て、紗枝はしばらくぼんやりして、それを受け取ら
啓司は唖然とした。宝石とかアクセサリとかが好きと言ったじゃないか?「本当に要らないの?」啓司の表情は徐々に冷たくなってきた。今の彼を見て、前に言った言葉を忘れたに違いなかった。「誰からのギフトもいいが、あなたからは絶対貰わない!」言い終わって、啓司を押しのけて二階に向かった。紗枝の冷たい姿を見て、啓司はギフトボックスを直接ゴミ箱に捨てた。彼は夕食食べてないし、風邪治ってないので、胃が痛み始めた。何のことか彼もわなから無くて、クライアントからの豪華なビーズをみて、紗枝が記憶喪失を装った時の話を思い出した。「はっきり教えるが、私はメイクが好き、美しく明るい服が好き、宝石などのアクセサリがすきだ」本当につまらないことしたな!啓司の顔が暗くなり、怒ってソファに座り込んだ。紗枝が彼の事に気にしなくて、一人で部屋に戻り、洗顔歯磨きをして寝た。病気を再発防止するため、気持ちが穏やかにして、夜更かしをしないようにとお医者さんに言われた。昨日、彼女の耳の症状が悪化した。啓司はソファーに約30分座って、二階の紗枝の部屋が静まりに返って、初めて気づいた。彼女は自分の事に気にしなくなった。紗枝が薬を飲んでベッドに横になり、ゆっくりと眠りに落ちた。暫くして、閉じったドアが鍵で外から開けられ、背の高い人が入り込んだ。男は布団を引っ張り、大きな手で紗枝を腕に引き込み、しっかりと抱きしめた。紗枝の体に馴染みのある匂いを嗅ぐと、啓司の体の不都合が緩めてきた。紗枝が気付くと、目を開けて、暗い部屋で男をはっきりと見えなくて、手で押しのけようとした。啓司は彼女を強く抱きしめた。「動かないで、抱かせて」男の声は低くてかすれており、風邪がひどくなった。「放せ」紗枝が熱くなった彼の体に気づいた。彼女の額を押し付けて、「放さない」と言った。紗枝が彼を押しのけようとしたときに、不本意で手が何かを触ったので弾けたように離れた。啓司が苦しそうに呻いた。「言っただろう、動かないで」啓司は喉仏を上下にさせた。紗枝は彼の力強い心臓の動きを聞いて離れようとしたが、すぐ男の長い腕で、再び彼の懐に引っ込められた。彼女に寄りかかったが、前回と違って、今回は彼がもっと眠れなくなった。彼は決して紳士ではなく
啓司は嘲笑した。「池田辰夫にそれほど愛されてないね。どれぐらいエッチしてないの?」 今回は本当に紗枝を怒らせた。彼女は正気に戻り、手を上げて再び殴ろうとしたが、啓司に手首を掴まれた。 「図星だったね?」紗枝が説明したくなかった。ここ数年、辰夫と普通の友達のようだった。 「相手を選ばない貴方は、葵に愛されてないだろうか?」喧嘩ならだれでもできる。啓司は嘲笑した。「僕は君と違う」彼は葵に触ったことがなかった。 紗枝が微笑んだ。「違うって?お互い様だ。私より上品と思わないでよ?」 「君が情深いと思ったが、今見ると、そうでもなかった」「貴方がしたことを葵に知られたのか?」 啓司はまったく怒っておらず、答えなくて、紗枝を懐にしっかりと抱きしめた。紗枝が彼の肩を強く噛んだ。 啓司は痛みに息を切らしたが、それでも彼女を離さず、頭を下げて彼女にキスをした。ここ数年、彼は夢の中で数え切れないほどこのようなシーンを夢見ていた。 紗枝は唖然とした。今は怒ってはいけないと思って、この機会を利用することにした。彼女は抵抗をやめた。暗い光の下で、啓司は紗枝の表情をはっきりと見えないが、彼女の変化に気づいて、混乱し始めた。 彼はかすれた声で言った。「僕に協力したのか?」紗枝は少し驚いた。次の瞬間、啓司が立ち止まり、ベッドサイドのランプを付けた。 紗枝は無意識に自分の体を隠そうとした。啓司の喉仏が動いた。 「見たことがないわけじゃないし」彼は一息してから再び言い出した。「池田辰夫が君の体の誠実さを知ってるか?」紗枝は唖然とした。怒りと恥ずかしさで、信じられない気持ちで彼を見つめた。自分が彼に馬鹿にされたのか?啓司が正気を取り戻し、紗枝を何度か見て、それ以上何も言わず、立ち上がって浴室に入り、暫くシャワーを浴びていた。その後、ベッドに戻ってきて再び紗枝を抱きしめ、ふらふらと眠りに落ちた。 紗枝はなかなか眠れず、今夜の出来事だけでなく、啓司の言葉を思い浮かべていた。彼女は拳を握りしめて、啓司が寝込んだことを待っていた。どれくらい経ったか分からないが、彼の手がやっと緩めて、彼女はベッドから這い上がった。彼女はどこへ行けばいいのかわからなかったので、冷たい風が吹いているベランダにやってき
啓司は長い足で一歩一歩階段を降りて、紗枝の前に来た。彼女の顔に垂れた涙の粒があり、拳を握りしめて、体を守る形でソファー向いて寝ていた。部屋のエアコンは非常に低温度に設定していた。彼は手を伸ばして紗枝に毛布を掛けた。電話して朝食を持ってきてもらおうとしたときに、外から玄関のドアが開けられた。葵が朝食の袋を手にして、ハイヒールで入ってきた。 「啓司君、朝食を持ってきた。今日は会社の記念日だよね。これから一緒に行こうよ…」 言葉が終える前に、彼女の視線はソファで眠っている紗枝に落ちた。 葵は信じられず、その場で佇んだ。 紗枝はどうしてここに寝たのか?二人が一晩中ここで…啓司は眠そうな目で彼女を見て、不思議に聞いた。「どうやって入ったの?」こっそりと入って、入り口のセキュリティシステムを通すことはできない筈だが、もしかして、指紋認証あるいは顔認証システムを事前に登録したのか。葵は朝食の袋を手に握りしめ、顔が少し青ざめた。「叔母さんがアレンジしてくれて、今後、啓司君の世話をするために」前に、葵に啓司の子供を作るため、綾子が牡丹別荘のセキュリティシステムに葵の情報を入れてもらった。彼女が自由に出入りするために。葵が今日暇があってやってきた。昨日、時先生に連絡する予定だったが、残念なことに、電話が通じなかった。彼女は長い間紗枝から目を離さなかった。声を低くして聞いた。「啓司君、これは?」「外で話そう」 昨夜よく眠れず、補聴器をつけてないので、二人の話は紗枝を起こせなかった。啓司について葵が外に出た。心の悔しい気持ちが頂点に達した。「紗枝はどうしてソファーで寝たの?」啓司はタバコに火をつけた。「僕が戻ってもらった」葵の顔が凍りついた。 「啓司君、彼女と離婚したじゃないか?こうするのは良くないだろう?」「僕たちは結婚もせず、君が勝手に我が家に入るのは良くないじゃないか?」葵は再び息を詰まらせた。 啓司は電話を取り、セキュリティシステム担当者に電話して、葵の顔及び指紋認証を解除してもらった。葵は静かに耳を傾け、心の中では非常に悔しかった。 部屋の外で、葵の場所から窓ガラス越で丁度紗枝を見えた。葵は再び啓司を見て、突然に彼が2日前に言ったことを思い出した。 「啓司君、前に言われ
「戻ってもいい。会社の記念日、夜に出席する」 啓司は苛立って言った。 「わかった」 葵が朝食を残して、紗枝を一瞥してから出た。啓司が振り返ると、紗枝が後ろに立っていた。なんだか心細くなってきた。「いつ目覚めた?」紗枝の顔色は落ち着いた。「ちょうど葵が結婚してやると言った時だった。おめでとう」啓司の心が突然刺された。空気が数秒止まった。 啓司は黒い目で彼女を見つめた。「何か意見があれば、今言って」 彼女の一言で葵との結婚を取りやめにすると思った。紗枝が首を横に振った。そして前と同じことを言った。「おめでとう。いつでも離婚の手続きを付き合うよ。「でも、前提条件として、逸之を返すこと」啓司の心は沈んだ。 紗枝が今、彼のことをまったく気にしなくなった。誰かと一緒にいること、そしてほかの女と結婚すること、全て気にしなくなった。啓司は非常にイライラしたが、どうしてイライラになったか分からなかった。彼は激しく咳き込み、葵が持ってきた朝食を直接ゴミ箱に捨てた。 「食べたいものを自分で注文して」 話してから、彼は紗枝の傍を通り過ぎて、書斎に向かった。彼が本当に世間知らずだと紗枝が思った。葵が持ってきた朝食を食べると思ったのか。彼女は台所に行って、自分で朝食を作った。食べてから、啓司にショートメールを送って出かけた。 啓司は書斎で紗枝の願いを待っていたが、結局ショートメールだった。「会社に行く」とてもシンプルな言葉だった。 それを読んで、彼の顔色は暗くなった。書斎を出て階段を降りて見ると、紗枝はとっくに出かけた。台所に何も残されなかった。彼女は自分の朝食を用意してくれなかった…啓司の腹痛と頭痛がさらにひどくなった。 運転手に朝食を買ってもらった。…紗枝が会社について、携帯を開いて見た。外国の番号に昨夜知らない電話が入ったことを分かった。電話番後の所在地は桃洲市、彼女は折り返し電話しなかった。ただ電話番後の持ち主を調べてもらった。葵だとすぐわかった…昨日、葵の盗作の件、大炎上となり、彼女が自分で連絡してくるのは常識だった。紗枝は彼女からの電話を待っていた。案の定、しばらくして、再び電話がかかってきた。紗枝は外国のIPアドレスを使って、変声シス
アシスタントが慎重に携帯を拾い上げた。「葵、どうなったの?」「時先生に謝罪し、それに盗作を公に認めるって」アシスタントは眉をひそめた。「それはいけない。盗作を認めたら、今までの努力は全て水の泡になっちゃうじゃないか?」葵は暫くこの時先生を無視することにした。時間を無駄にして、お金の為じゃなく、国際裁判を起こすなんて、ありえないと思った。今、彼女にとって最も重要なことは、紗枝の事、そして啓司と結婚することだった。曲はそんなに重要ではなかった。「今夜、会社の設立記念パーティー、私は良く用意しておく。ネットの盗作問題は当分の間お金を使ってどうにか抑えて」葵は、自分の少なめのお金は長持ちしないことを十分承知していた。でも、順調に結婚すれば全てが解決できると思った。会社。暫くして、紗枝が唯からの電話をもらった。「紗枝、今日来るの?」今日は週末で、紗枝と景之を誘ってピクニックに行こうと思った。紗枝は断った。「啓司にしっかりと見張られるの。今、逸之が見つけられたし、景之の身元がばれたらおしまいだ」「数日後にまた会おう」唯が聞いて、納得した。「わかった。頑張って、早く彼の精子を手に入れて、私たちはエストニアに戻ろう」「ええ」紗枝は無意識にお腹に手を当てた。なぜかしならないが、今回戻ってから、啓司が前より警戒するようになってきた。子供を作るには少し難しくなった気がした…丁度その時、ドアがノックされ、ガラスドア越しに、牧野が立っていた。彼女はすぐ電話を切った。「牧野、何か御用?」牧野が入ってきた。「紗枝さん、社長がお呼びです」啓司が今日ここに来ないと紗枝は思ったが。不本意たが、逸之が彼に掴まれたので、紗枝はいかなければならなかった。「わかった」牧野が彼女を待って、一緒に社長室に向かった。途中、牧野が我慢できず話しかけた。「紗枝さん、言っておくが、黒木社長はここ数年ずっと君を探しました。僕から見れば、君のことを気にしています」紗枝が一時立ち止まった。牧野も立ち止まった。紗枝が微笑んで言った。「私の事、気にしてると思う?」牧野は一瞬唖然として、眼鏡の下の真面目な顔は混乱した。紗枝は続けて言った。「牧野、この前、どうやって私を対応したか覚えてる?啓司に電話した時、ほ
紗枝を啓司のオフィスまで送ってから、牧野が離れた。ドアは閉まってないので、紗枝が軽く押しのけて入った。啓司は椅子に座って、書類をじっと見ていた。 イケメンの男が真面目に働いている姿はとても格好よかった。紗枝は、最初に彼の顔に騙されただろうかと思った。 彼女が来るのを知って、彼は頭を上げずに言った。「ここに来て」 紗枝は近寄った。「何か御用?」 「今後、下に行かなくていい」 啓司は書類を置いて彼女を見た。「君もここで仕事する」 紗枝は「なぜ?」と疑問に思った。「理由はない。会社の決定だ」 会社の決定より、彼の決定と言えばいい。低い廊下にいた時、頭を上げないのが常識だった。「わかった」 それでいい、近づく機会が増えた。 紗枝が計算したが、昨夜、妊娠の可能性が低すぎた。 「パソコンを持って来る」紗枝が言った。彼女が出る前に、所持品、パソコンも含め、全ての物が運ばれてきた。デスクも運んできた。啓司が立ち上がって彼女のそばに歩き、彼女の事務用品を見た。 「気になるんだけど、最近会社で何をしていたの?」昔、紗枝はただの主婦だった。 彼の生活の世話をする以外、外に出て仕事をすることはなかった。紗枝は彼を振り返って見た。「知りたいか?見せてやるよ」彼女は、啓司がまだ自分を警戒していると分かった。 そうでなければ、昨日、わざと我慢する必要はなかった。 啓司は本当に興味を湧いてきた。「いいよ」 彼の熱い視線の下で紗枝が椅子に座って、パソコンの電源を入れた。 自分が退屈した時の仕事を見せた。一瞥して啓司が驚いた。紗枝のパソコンにプロジェクトの提案書が少なくなかった。彼女はいつの間にかこんなものを書けるようになったのか?紗枝は顔を上げて、啓司のはっきりとした横顔をみて、深呼吸をしてゆっくりと話しかけた。「昨夜、あなたは楽しくなかっただろう?」啓司の体が硬直し、頭を下げて彼女の視線に合わせると、不意に喉仏が動いた。紗枝が背筋を伸ばして座った。彼の薄い唇に近づいた。「実は、私もとてもつらかった」 啓司の目が不思議に満ちていた。 こんな言葉は彼女の口から出るものじゃなかった。二人が結婚してから、彼女の手が自分を軽く触れると顔がすぐ赤くなった。いまは、
悲鳴を聞きつけた紗枝は作曲を中断し、不審に思いながらホールへと向かった。遠目に見ると、美希が片手で顔を押さえ、もう片方の手で逸之を指差していた。「わざとやったでしょう?」一度や二度なら偶然とも考えられるが——逸之は無邪気で哀れな表情を浮かべたまま、「お婆ちゃま、どうしたの?どうして怒ってるの?」家政婦は逸之の前に立ちはだかった。「奥様、逸之ちゃまがわざとするはずがありません。とても良い子なんですよ」美希は信じられない様子だった。「これは明らかにアルコールよ。ヨードチンキじゃない。顔が火傷したみたいに痛いわ」「まだ幼稚園にも通っていない逸之ちゃまに、ヨードチンキとアルコールの区別なんて分かるはずがありません」家政婦は目の前の若作りの老婦人の非常識さに呆れていた。お婆様だと名乗っているくせに、孫にこんな意地悪な態度を取るなんて。美希も家政婦の言葉に一理あると感じた。確かに目の前の子供はまだ四、五歳にしか見えない。でも自分の顔がこの子に台無しにされたと思うと、どうしても可愛く思えなかった。「もういいわ。紗枝は?」美希は芝居じみた態度を止めた。家政婦が答えようとした時、紗枝が外から冷ややかな視線を向けながら入ってきた。「何の用?」美希は紗枝の姿を見つめた。洗練された顔立ち、右側を包帯で覆った横顔。その立ち振る舞いは、かつての面影はない。本来なら弱みを見せるつもりはなかったが、これからの刑務所暮らしを考えると、態度を軟化せざるを得なかった。「紗枝、誤解しないで。ただ怪我の具合を見に来ただけよ」「大丈夫。死にはしない」紗枝は自分のこの傷が、美希の愛する娘、昭子の仕業だと思うと、表情が凍りついた。「他に用がないなら、帰って」「なっ」美希は言葉に詰まった。「母親に向かってその口の利き方は何!私がいなければ、あなたはこの世に存在すらしていなかったのよ」「せっかく心配して来てやったのに、追い返すつもり?」紗枝は家政婦に逸之を二階に連れて行くよう指示した。人間の醜い一面を見せたくなかった。「何度言えば分かるの?あなたへの命の借りは返したはず。もう何も負い目はない」「あなたが返したって言えば、それで済むと?」美希は紗枝の腕を掴み、上から下まで値踏みするように眺めた。「あの証明書を取り下げれば、私
逸之は美希が差し出したプレゼントを見つめ、興味深そうに首を傾けた。「これ、飛行機のプラモデル?」「そうよ。お婆ちゃまが開けてあげる」「うん」子供はプレゼントで簡単に懐くと思い込んでいた美希は、逸之の企みなど露ほども気付いていなかった。プラモデルを取り出して渡しながら、「お婆ちゃまが遊び方を教えてあげましょうか?」逸之はモデルを受け取るや否や、小さな手を振り上げ、翼を美希の目がけて突き出した。「きゃっ!」美希は避けきれず、思わず悲鳴を上げた。「お婆ちゃま、大丈夫?」逸之は今更気付いたような表情を浮かべた。美希は事故だと思い込み、手を振った。「大丈夫よ」だが逸之はそれで満足するはずもなく、リモコンを手に取ると、ラジコン飛行機を起動させ、美希の頭上をぐるぐると旋回させ始めた。「ブーン」という音に美希は頭痛を覚えた。「逸ちゃん、外で飛ばしてみたら?」「うん」逸之はリモコンを操作しながら、わざとらしく「失敗」して、美希の顔めがけて飛行機を突っ込ませた。美希は慌てて身を翻したが、丹念に結い上げた髪が飛行機に引っかかり、みすぼらしく乱れてしまった。傍らの家政婦は思わず吹き出してしまう。「あっ、ごめんなさい、お婆ちゃま。僕、よく分からなくて……」逸之は哀れっぽく目を潤ませた。美希は顔を引きつらせ、家政婦を睨みつけた。「何を笑っているの?」その迫力に家政婦は一瞬で声を潜めた。美希は逸之に向き直った。「逸之、このおもちゃは広い場所で遊ぶものよ。今は取っておいて、今度お婆ちゃまが外に連れて行ってあげるわ。どう?」「うん」逸之は飛行機の電源を切るふりをしながら、またわざと「失敗」してリモコンに触れ、飛行機を美希の顔めがけて突っ込ませた。美希の瞳孔が一瞬収縮し、咄嗟に手で顔を守ったが、頬と手に引っかき傷ができてしまった。そのはずみで床に転倒し、みっともない姿をさらした。「まあ!この子ったら……」美希が逸之を叱りつけようとした瞬間。「お婆ちゃま、ごめんなさい。初めて使うから、よく分からなくて……」逸之が言葉を遮った。美希は心の中の怒りを抑え込むしかなかった。「薬を持ってきなさい」家政婦に命じる。家政婦は逸之のお婆ちゃまを名乗るこの女性に好感は持てなかったが、黒木家で働く身。言われた通
啓司は部下に厳しい分、決して褒美を惜しまない男でもあった。花城を一階級昇進させ、給与も倍増とした。花城の冷静な表情は一切の感情を見せなかったが、立ち去る際に、思わず啓司に尋ねていた。「社長、清水唯は本当に澤村家に嫁ぐのでしょうか」花城にも噂は聞こえていた。啓司と和彦が親友同士であることも知っていた。啓司も隠さなかった。「ああ、すでに婚約している」花城の瞳に、一瞬異様な色が宿った。「社長、唯は奥様のお友達です。お願いできませんでしょうか。澤村様に一考を促していただき、唯との結婚を……」啓司には花城の言葉の真意が分からなかった。理由は問わず、冷ややかに言い放った。「花城、俺たちは上司と部下の関係だ。他人のプライベートに首を突っ込む趣味はない」「清水と澤村の結婚を止めたいなら、自分で二人と話し合うべきだ」他人の感情沙汰に関わることほど、啓司の嫌うものはなかった。花城は黙って退室するしかなかった。彼が去ると、牧野は思わず口を滑らせた。「社長を恋の仲裁人とでも勘違いしているんでしょうか」「最近暇なようだな?」啓司の声が響く。牧野は即座に口を閉ざし、仕事に戻っていった。啓司も仕事に没頭し、家で機嫌を損ねている若君のことなど知る由もなかった。「ひどい、ひどいよ、ウソつき」逸之は怒り心頭だった。今朝目が覚めた時、家政婦から啓司が早々に出社したと聞かされたのだ。その家政婦は以前、泉の園で逸之の世話をしていた少しぽっちゃりした女性だった。「逸之ちゃま、どうかなさいましたか?」紗枝は作曲に集中していて、家政婦は不思議そうに毛を逆立てている小さな主人を見つめていた。逸之の小さな顔は真っ赤になっていた。「なんでもない。ただある人に騙されただけ」「まあ、誰がそんなひどいことを!おばさんが仕返ししてあげますよ」家政婦は可愛い坊ちゃんの怒った顔を見て、心配でならなかった。逸之は家政婦の顔を見上げた。「おばさん、啓司おじさんに電話できない?」「社長様に……?」家政婦は恥ずかしそうに、「申し訳ありません、社長様の連絡先を持っていないんです」啓司の冷たい表情を見ただけで怖気づいてしまう。たとえ連絡先を知っていても、電話する勇気などなかった。逸之はため息をついた。「そっか」啓司が会社に連れて行ってく
啓司は知っていた。紗枝が海外で腕利きの作曲家として活動していたことを。だが彼女自身が明かそうとしないので、敢えて問うことはしなかった。二度も断られた啓司は、若い男に紗枝を奪われるのではないかという不安が募った。翌日、夜明け前に会社へ向かった啓司は、エイリーという歌手について調べるよう牧野に指示を出した。もちろん、逸之を会社に連れて行く約束のことなど、すっかり忘れていた。「社長、エイリーと申しますと……最近帰国したばかりの歌手ですね。まさに今、当社でオファーを出そうとしているところです」牧野は少し戸惑った様子で答えた。啓司はようやく思い出した。そういえばどこかで聞いた名前だと思ったはずだ。「で、話はどうなっている?」「エイリーは他の男性アーティストとは違いまして」牧野は率直に説明した。「まだ彼の琴線に触れるものを見出せていません。自由を愛し、束縛を嫌うと言って、断られてしまいました」「ただ、すでに調査を開始しております。趣味嗜好が分かれば、そこから攻めていけるはずです」啓司には、エイリーを獲得できるかどうかはどうでもよかった。「そんなに優秀なのか?」牧野は一瞬言葉に詰まり、それからエイリーの現状を畳み掛けるように説明した。「某SNSのフォロワー数だけでも五千万を超えています。海外の某プラットフォームに至っては、もうすぐ一億フォロワーを突破する勢いです」「もちろん、数字の水増しはあるでしょう。ですが、同年代の男性アーティストは、金をかけても彼ほどの動員力は得られないでしょう」啓司は長い指で軽く机を叩きながら考え込んだ。「自社で育てるとして、彼のレベルまで到達するにはどのくらいかかる?」「最低でも二、三年はかかるでしょうね。ただ、それだけの時間と労力を……」牧野は首を傾げた。社長がいつからアーティストの育成に興味を持ち始めたのだろう。啓司は常に効率を重視する男だ。誰かに商業的価値を見出せば、即座にスカウトするのが常だった。「容姿はどうだ?」「群を抜いています。国内のどの男性芸能人と比べても引けを取らないと、個人的には思います」国内の男性芸能人の多くはメイクで魅せているが、ハーフのエイリーは生まれ持った素質が抜群だ。顔立ちは言うまでもなく、体格だけでも他を圧倒している。牧野の説明を聞くにつれ、啓
逸之は少し考え込んでから、啓司の前に立った。「簡単だよ。新しい会社に連れてって」啓司は意外そうに眉を寄せた。「何しに行きたいんだ?」「おじさんの会社がどのくらい大きいのか、見てみたいだけ」このまま行けば、ママはクズ親父を受け入れるかもしれない——逸之はそう踏んでいた。もし一緒に暮らすことになるなら、クズ親父の実力がどの程度なのか、確かめておく必要がある。力不足なら、母さんとの関係は認められない。「分かった。明日連れて行こう。さあ、話してくれ」啓司には逸之の真意が読めていなかった。ようやく逸之は話し始めた。「ママが会ったのはエイリーって人。海外で母さんが見出した普通の歌手だったんだけど、今じゃすっごい有名な国際スターになってるんだ」国際スター?エイリー?啓司は首を傾げた。どこかでその名前を聞いた覚えがある。確か今日、牧野が話していたような気がするが、芸能人の名前なんて普段から覚えていない。「すっごくかっこいいんだよ。ママが言ってたけど、ハーフなんだって。ハーフって分かる?外国人と日本人の間に生まれた子供のことだよ。テレビでは上質な遺伝子を持ってるって言ってたよ」啓司は冷ややかな笑みを浮かべた。「テレビの言うことを鵜呑みにするなよ。ラバって知ってるか?」逸之は首を傾げた。「なんか小さい動物?」「馬とロバを掛け合わせた種だ。ロバより大きくて、馬より従順な性格をしている。だが、致命的な欠点が一つある」「何?」逸之は興味津々だった。「子孫を残せない」逸之は見た目ほど単純ではない。クズ親父がエイリーに子供ができないと当てこすっているのを即座に理解した。こんな毒舌で今まで生きながらえてきたなんて、まさに奇跡だ。立ち去ろうとした啓司は、何か思い出したように振り返った。「エイリーとおじさんと、どっちが見た目がいい?」逸之は一瞬固まった。しばらくして、おどおどしながら延々と話し始めた。「啓司おじさんも、エイリーさんも、それぞれいいところがあるよ。でも、エイリーさんの方が若いかな。ママが言ってたけど、ママより二、三歳下なんだって。出雲おばあちゃんが生きてた時によく言ってたよ。年上女性は金の卵を抱くってね。唯おばさんが言ってたけど、彼女は年下の可愛い系が好きなんだって。たぶんエイリーさんみたいなタイ
「私たちのことは、簡単には説明できないの」紗枝は困ったように言葉を濁した。エイリーもそれ以上は追及しないことにした。「気にするな。話したくないなら、無理して話す必要はない」「うん……」「じゃあ、もう帰るよ。今度は景ちゃんと逸ちゃんも連れてきてくれ」景之も逸之もエイリーのことが大好きで、エイリーも二人の子供たちを可愛がっていた。紗枝は頷いた。「ええ」エイリーを見送った後、車から降りてきた雷七が紗枝に近づき、新しい情報が入ったことを告げた。「私の得た情報が正しければ、景之さまの誘拐事件は、鈴木昭子と深い関わりがあるようです」「鈴木昭子……?」紗枝の瞳が僅かに揺れた。可能性は考えていたものの、やはり血の繋がった相手となると——しかも、自分に対する昭子の恨みと言えば、たかが拓司と数回会っただけのことなのに。「確実なの?」紗枝は問いただした。「景之さまの絵に描かれていた人物は鈴木虎男という者です。青葉の腹心で、現在は国外に逃亡しているとのことです」と雷七は報告した。鈴木青葉……先日の青葉の言葉が紗枝の脳裏をよぎった。「分かったわ。この件は今のところ内密にして」確かに鈴木家には、子供を連れ去った後、澤村家に一晩中探させても見つからないだけの力がある。今の自分には鈴木青葉と渡り合える力はない。たとえ景之と自分を苦しめた張本人だと分かっていても、何もできないのが現状だった。「承知いたしました」雷七も状況を理解している様子で頷いた。表立ってこの件を明らかにするより、しばらくは相手に気付かれないよう様子を見る方が得策だった。......黒木家も澤村家も雷七と同様、間もなく鈴木家の関与を突き止めた。だが、鈴木家と黒木家は姻戚関係にある。今この時期に決裂するわけにはいかない。子供に危害が及んでいない以上、鈴木家に手を出すのは得策ではなかった。黒木お爺さんは啓司に軽率な行動は慎むよう諭し、自ら青葉に連絡を取った。今回は大目に見るが、次があれば容赦しないと警告したのだ。啓司は心中穏やかではなかったが、新会社の基盤がまだ固まっていない今、鈴木青葉と対決する時ではないことも分かっていた。青葉は拓司の未来の義理の母。いつか必ず、二人とも相手にすることになるだろう。家に戻っても、啓司
紗枝は帰国したことを簡単に話したが、詳しくは語らなかった。食事を終えると、エイリーが送ると申し出た。「一人で帰れるわ。もしファンに見られでもしたら大変でしょう?」紗枝はすぐに断った。彼女はスターの影の友人でいたかった。誰もが知る存在になんてなりたくなかった。「心配しないで、こんな風に変装してるから誰も気づかないよ」エイリーは紗枝の住まいを確認したかった。紗枝は何度か断ったものの、結局諦めて「分かったわ」と承諾した。外に出ると、冷たい風が容赦なく吹きすさんでいた。エイリーはすぐさま紗枝の前に立ち、雪混じりの風のほとんどを自分で受け止めた。笑いながら「桃洲市でこんな大雪が降るなんて思わなかったよ。帰国前に海辺にいたんだけど、あっちはすごく暖かかったんだ」エイリーは本当に明るい性格の持ち主だった。紗枝は彼の話を聞きながら、時々相槌を打っていた。二人が前後して車に乗り込む間、吹雪の中に佇む黒のマイバッハに気付かなかった。雷七は車を運転しながら、彼らの後を追っていた。一方、マイバッハの中の啓司の表情は険しかった。「その男は何者だ?」「サングラスとマスクをしていて、顔ははっきり見えませんでしたが、若そうでした」牧野は答えた。社長が明らかに不機嫌なのを感じ取り、すかさず付け加えた。「きっとイケメンじゃないですよ。そうでなければ、なぜサングラスとマスクなんて付けるんですか?」啓司の機嫌は少し良くなった。ほんの少しだけだが。「海外では池田辰夫以外の男性との付き合いはないと言っていたじゃないか」牧野は内心冤罪だと思った。どうやってそこまで詳しく調査できるというのか。社長の意向では、紗枝の周りを通り過ぎる通行人まで調べろということか?密かにため息をつく。「社長、女性に異性の友人が一人や二人いるのは普通だと思います。私の彼女にだって男友達がいますし」その男友達のことを考えると歯がゆい思いがしたが、それでも社長を慰めるために持ち出した。「男友達って?」啓司は首を傾げた。「それは何だ?」牧野は絶句した。社長は金儲け以外、本当に何も分からないのか。今でも料理一つできないし……「女性と仲の良い男性の友人のことです」啓司には純粋な友情なんて世の中にあるはずがないと思っていた。例えば
エイリーは軽く笑って黙っていた。確かに紗枝はとても良い人だった。あの頃、紗枝の励ましと楽曲がなければ、今でも底辺を這いずり回っていただろう。マネージャーを見送った後、すぐに父親に夏目美希の脳腫瘍偽装について問い合わせた。父は伝手を使って夏目美希のカルテを入手したが、明らかに本人のものではないと告げた。「よかった。その証拠を送ってくれないか」とエイリーは言った。「構わないが、そろそろお嫁さんを連れて来る気はないのか?」父が尋ねた。エイリーの表情から活気が消えた。母が料理を運びながら笑顔で言った。「ネットじゃ、うちのエイリーくんと結婚したいって子がいっぱいなのに、一人も彼女を連れて来ないなんて」父はため息をついた。「母さん、芸能人は恋愛しちゃダメなんだよ」エイリーは笑いながら言った。両親は彼にどうしようもないと諦めたように、もう催促するのを止めた。それでも父は約束通り、証拠を全て送ってきた。その夜、エイリーは早速紗枝に証拠を送信した。紗枝は受け取るなり、何度も礼を言った。「口だけの御礼じゃなくて、食事でもご馳走してよ」「いいわ。明日はどう?」「もちろん」紗枝は笑みを浮かべながら電話を切った。啓司は横に座りながら、誰からの電話でこんなに嬉しそうなのかと気になっていた。「唯からか?」と尋ねる。「いいえ、友達よ」紗枝は答えた後、逸之に念を押した。「逸ちゃん、明日ママは用事があるから、家で大人しくしていてね。絶対に外に出ないって約束できる?」逸之は頷いた。「うん」紗枝は証拠を弁護士に送信すると、早めに床についた。しかし啓司は眠れなかった。紗枝と話していた相手が、どうやら女性ではないと聞き取れたからだ。かといって調べるわけにもいかない。紗枝に知られでもしたら、また怒られるだろう。翌朝。紗枝は早々に出かけた。雷七が車で送っていく。会社に向かった啓司は落ち着かない様子だった。「尾行は?」と訊く。「雷七さんが運転していますから、我々の者では追跡は無理です」牧野は申し訳なさそうに答えた。雷七という男は一体どこで見つけてきたのか。あまりに腕が立ちすぎて、今のところ普通のボディガードでは太刀打ちできない。「行き先は分かるか?」啓司は重ねて尋ねた。「楓木通りだと聞
一日後。空港にて。エイリーは飛行機を降りるなり、紗枝に電話をかけた。「紗枝ちゃん、着いたよ。二人の子供と一緒に歓迎会に来てくれてる?」紗枝は思わずため息をつきそうになった。もし子供たちと一緒に空港まで出迎えに行けば、彼のアイドルとしての地位が一瞬で崩壊してしまうだろう。あれだけの女性ファンがいるのだ。きっと自分はボロボロに叩かれることになる。「落ち着いてから、改めて約束を取りましょう」紗枝は電話を切った。......一方、啓司が新しく設立したIM社では。牧野がエイリーの資料を彼に手渡した。「社長、このエイリーという人物はハーフで、海外、国内ともに大きなファン層を抱えています」「男女比に極端な偏りがないため、弊社の新製品の広告塔として最適かと。彼を起用すれば、桃洲市のほとんどの人がIM社を知ることになるでしょう」啓司は同意し、牧野にエイリーとの契約を進めるよう指示した。その後、啓司は牧野に尋ねた。「あの時のDNA鑑定、本当に改ざんされていなかったのか?」牧野はその言葉を聞いて、しばし考え込んだ。「手が加えられる可能性があるとすれば、生体サンプル、つまり逸ちゃんの歯ブラシだけです」「それが取り替えられた可能性は?」「逸ちゃん本人でない限り、あり得ません。家政婦たちは全員素性がしっかりしていますから、歯ブラシを取り替えるようなことはしないはずです」その言葉を口にした瞬間、牧自身も疑念が芽生えた。「社長、ご安心ください。今回採取した生体サンプルは間違いありません。しかも三つの異なる機関で検査を依頼しましたから」啓司は頷いた。牧野が退室すると、早速エイリーを会社の広告塔として招聘する手配に取り掛かった。金で動かせない人間などいないと思っていたが、まさか門前払いを食らうとは思ってもみなかった。「牧野さん、エイリーさんは帰国したばかりで、弊社以外にも多くのオファーがあったそうですが、全て断られたとのことです。自由な身でいたいだけだと。どんな高額な契約金を提示しても、会社との契約は望まないそうです」牧野が最も頭を悩ませるのは、金では動かせない人間だった。かつての雷七のように。社長が自分の給料よりも高い報酬を提示したにもかかわらず、まったく心を動かさなかった。一体何を求めて