塚本悟からLINEがきた。「君の父親が今晩来ていたけど、幸子さんと大喧嘩して、治療費を全部貰っていくとまで言って病院を脅していた」入江紀美子は眉を寄せ、「お母さんは大丈夫ですか?!」と尋ねた。悟「おばさんには私がいるから、心配しないで。彼に3万円を渡したら大人しく帰ってくれた」紀美子は父がどこまで破廉恥だったら悟の金を平気に受け取れるのかと驚いた。悟の勝手な対応に些か不満はあるが、自分の母親の為にそうしてくれたので、それ以上言わなかった。しかし、こんなことは一回目があれば必ず二回目がある。延々と切りがない。そう考えて、紀美子はやはり悟に一言注意することにした。悟にLINEペイで3万円を返してから、紀美子は「塚本先生、今回は母を助けてくれて助かりましたが、今後はもう父にお金をあげないでください」「もし彼がまた来たら、私の所に来るように伝えてください。お願いします」悟は紀美子が人に借りを作りたくない人間だと分かっているので、彼女の頼みを受け入れた。もし彼が受け入れなかったら、彼女は一晩中頼み続けていてもおかしくなかった。「分かった。君は…いつ戻ってくる?」悟は続けて聞いた。紀美子「もう何日か…」まだ文字の入力が終わっていないうちに、浴室のドアが開けられる音がした。黒いバスローブを着ている森川晋太郎が出てきて、手に持っているタオルで短い髪を拭いていた。紀美子は慌てて携帯電話を後ろのクッションに隠し、テレビを見ていると装った。しかしその挙動は晋太郎に見られていた。彼は紀美子の傍まできて、鋭い目つきで彼女を見つめ、「何を隠している?」「クッションが変な形になってたから、ちょっと直しただけ」晋太郎は目を細くして、持っているタオルを捨て、凄い勢いで彼女をソファから引っ張り出した。クッションが倒れ、まだ閉じていないチャットの画面が男の前に晒された。相手のIDの備考欄に「塚本先生」と書いてあるのを見て、晋太郎は一瞬で凍てつくようなオーラを発した。彼は紀美子の携帯電話に覗き込み、最後の2行のメッセージを読むと、俊美な顔に浮かぶ怒りが嵐のように襲い掛かってきた。晋太郎は細長い指で携帯電話を握りしめ、「嘘をついているな?」と陰険な目つきで紀美子を睨んだ。紀美子はその目つきに恐怖を覚えたが、自分
ただ皆の前では、彼女達は大人しいふりをしているだけだった。数時間後、帝都に戻った。今回森川晋太郎は杉本肇に車で入江紀美子をジャルダン・デ・ヴァグに送らせるのではなく、一緒に会社に向かった。久しぶりの事務所に戻ると、紀美子はガラスの壁が撤去されたのを見て驚いた。前までは晋太郎の事務室とはガラスの壁で隔てられていたが、今は同じ空間になっている。会社に戻った紀美子の喜びが、目の前の光景を見て一瞬で消えた。これは彼が自分の一挙一動を監視しようとしているのか?紀美子は頭にきて、テーブルの前に座っている晋太郎に「これは酷すぎませんか?」と問い詰めた。「嫌か?」晋太郎はゆっくりと目線をあげた。嫌かって?!どうしてそんな他人事みたいなことを言えるわけ?彼に監視される身になってもらったら、はたして喜べるのだろうか?「もう仕事しませんから!」紀美子は歯を食いしばった。「帰ります!」「俺がいない間にあの塚本先生といつ会えるかを相談したいのか?」晋太郎の俊美な顔が曇った。「勝手な妄想を言わないでいただけます?」紀美子は目を丸めて聞き返した。晋太郎は怒らずに笑った。最近この女はよく自分の前で感情を晒している。彼女の凍てついた冷たい顔を見るよりは、今の怒りっぽい兎のような姿を見る方がずっと面白い。晋太郎はテーブルの上の書類を紀美子に投げ、「ここで無駄話をするより、自分の仕事を片付けろ」紀美子の腹の怒りはそうやってもみ消された。彼女は目の前の書類を暫く眺めてから、不満そうな顔で自分の席に戻って処理しはじめた。……午後五時。狛村静恵は時間ピッタリに晋太郎の事務室に現れた。紀美子の秘書室が晋太郎の事務室と合体したのを見て、表情が明らかに暗くなった。晋太郎がそこにいないのを見て、静恵は紀美子の方へ歩いてきた。「けっこう頭を使ったじゃない、入江さん」静恵は辛辣に皮肉を言った。紀美子は冷たい目線で彼女を睨み、「そんなことないわ」と返した。「それで晋さんの心を掴もうとしてんの?」静恵の顔が更に曇った。「忘れないで。私が病気の時は、晋さんはずっと傍にいてくださったのよ!」「へえ、そんなに甘えさせてもらっていたなら、なぜ私が攫われた時、社長が真っ先に助けに来てくださったのでしょうね」紀美子は不思議そう
入江紀美子はあざ笑った。「なら彼女をちゃんと管理してね。何かあってすぐ私の所に暴れに来られたら困ります!」言い終わると、紀美子は事務所を飛び出した。残された森川晋太郎は一人で眉を寄せてその場で立ち尽くした。暫くして、晋太郎は杉本肇に電話をかけた。「調べた結果は?」肇「晋様、副院長が亡くなった経緯は調べられませんでしたが、当時の狛村さんの先生が見つかりましたその先生は、狛村さんは学生時代にいじめを受け、心理的な傷が残りましたが、病院にもみ消されたと言っています。」晋太郎は考え込んだ。「あともう一件」肇は続けて言った。「言え」「院長の話によると、当時耳たぶにホクロがある子は『綾子』という名前で、『狛村』は引き取られた後に改名したもののはずです」「彼女の養父母と連絡を取れたか?」晋太郎は眉をきつく寄せた。肇「この前連絡を入れておきましたが、うちに人間がそちらに行ったら、既に引っ越していて音信不通になりました」「調べ続けろ!」トントンーー晋太郎の話が終わったところで、ドアの方からノックの音がした。「社長!早く服装部にお越しください!狛村副部長が急に倒れました!」……退勤の時間になり、紀美子は事務所に誰もいないのを見て、一人で会社を出た。変わったのは、今日は肇も会社の入り口で待機していなかったことだ。紀美子はちょっと嬉しくて、路肩でタクシーをとめて母の見舞いに行こうとした。十分くらい待ってもタクシーは来なかったが、一台のランボルギーニが彼女の前で止まった。窓ガラスが降ろされ、爽やかで少し見覚えのあるハンサムな顔が目に映った。「入江さん?」紀美子は少し驚いて、脳内で素早くその顔の持ち主を検索した。「渡辺さん?」渡辺翔太は笑顔で優しそうな声で「どこかに行こうとしてる?送ってあげるよ」「あ、大丈夫です、自分でタクシーを拾っていきますから」紀美子は軽く断った。翔太「ここからタクシーで行ったら1時間以上はかかるよ。なにせ今は退勤時間のピークだから」紀美子「……」早く病院に着く為に、紀美子は翔太の車に乗ることにした。シートベルトを締めてから、翔太は微笑んで「どこに行く?」と聞かれた。紀美子「ありがとうございます、渡辺さん。帝都私立病院でお願いします。」「礼はいらないよ
母の声はそこで止まった。入江紀美子は入り口の前で立ち止まり、母が言っていた子供は誰のことだろうかと考えた。父と血縁関係がないのは、自分のことではないはずだ。確かに父はここ数年性格が大きく変わった。しかし自分が子供だった頃、彼は責任感の強い親だった。紀美子は軽く頭を振り、憶測してはいけないこともあると思考を止めた。ドアを押し開け中に入ると、母が曇った顔でベッドに座っていた。「母さん、また父さんと喧嘩したの?」紀美子の声を聞いて、入江幸子は振り返り、取り乱した声で「あんた、来るなら先に一言連絡をいれなさいよ」紀美子はベッドの縁に座り、暫く沈黙してから、「母さん、血縁関係って、何のこと?」幸子は娘の目線を避けながら、「父さんの方の親戚の子よ、あんたと関係ないから気にしないで」紀美子は何かが違う気がした。しかし母に聞くにしても、どう聞けばいいかも分からなかった。なにせ父の方の親戚たちとは殆ど会ったことがなく、ただ母からその親戚たちは皆変わり者だと聞いていた。極力会うのを避けるべきだ、とも。紀美子は果物の皮を剥きながら、「母さんも、まだ体が治っていないから、あまり他人のことを構ったりしないで」と注意した。「幸子、私はただお父さんにこれ以上酷いことを続けないでほしいだけ…」……病院から出た頃、既に夜の9時過ぎだった。紀美子はタクシーをとめ、ジャルダン・デ・ヴァグに向かった。妊娠しているせいか、紀美子はタクシーに乗ってすぐうとうとして眠ってしまった。夢の中で、彼女は大きな館を見た。庭には沢山の子供達が走ったり、追いかけっこしたりして遊んでいたが、一人の三つ編みをする女の子だけが寂し気に花壇の横に座っていた。そして、もう一人のポニーテールの女の子がその子の前に走ってきて、「何で毎日そんな暗い顔をしてるの?見ててむかつくんだよ!」三つ編みの子は頭を上げ、「その言い方は酷いよ」ポニーテールの子は手をあげて彼女を花壇の中に押し込み、三つ編みが泥まみれになった。「またそんなことを言ったら、その口を引き裂いてやるから!」ポニーテールの子が警告した。三つ編みの子は痛みを堪えながら、屈強にポニーテールの子に、「何回でも言うよ、酷いことを言わないで、私はあなたと喧嘩になってもどうってことないか
「あんたの上司?」入江幸子は驚いた。「いつも父さんの債権者に追われているから、うちの上司がいい人で、何人かのボディーガードをつけてくれたの」入江幸子は誤魔化した。幸子はほっとして、「大丈夫ならいいけど、今度は携帯電話の電源を切らないで、お母さんが心配するから」紀美子は少し母を慰めてから電話を切った。彼女は窓際に近づき、不安気に下を眺めた。十分もしないうちに、黒色のメルセデス・マイバッハが風を帯びて庭に入り、森川晋太郎が車を降り、曇った顔で別荘に入ってきた。紀美子は疲弊し目を閉じた。これからまた悪戦苦闘になると、彼女は分かっていたからだ。彼女は不安に寝室のドアの前に立った。手がノブに触れた途端、目の前のドアが外から「ドカーン」と蹴り開けられた。ドアが彼女の肩に当たり、鈍器に打たれた痛みで頭のてっぺんまで血が上った。紀美子は無意識に手で肩を押し、眉を寄せながら目の前の曇った顔に青筋がはっきりと浮き上がった男を見つめた。彼の俊美な眉間に疲弊が透けて見え、充血した黒い瞳の奥からどんよりした曇りが見えていた。二人は少し距離が離れていたのにもかかわらず、紀美子は男が発している威圧を帯びた怒気を感じた。紀美子は彼の目つきに圧倒され、思わず一歩下がった。しかし男はいきなり彼女の肩を掴み、思い切り彼女を壁に叩きつけた。「言え!なぜ携帯の電源を切った?!」僅か数文字の質問だが、まるで噛み砕いて歯の隙間から押し出されたかのようだった。紀美子は肩の痛みを堪えながら、「言ったでしょ、携帯が電池切れだったのよ…」パッーー相手は解釈を最後まで聞かずに、彼女の顔に数枚の冷たい写真を叩きつけた。写真が部屋中に飛び散り、彼女は床の写真を見つめた。見慣れたランボルギーニ、そして彼女が車の近くで話している写真が目に映ってきた。「お前、俺がいない間を狙って他の男とつるんでたな?」この時の森川晋太郎はまるで怒り狂えた野獣のようだった。彼の咆哮が彼女の鼓膜を突き破る勢いだった。「入江!よくもここまで俺を裏切ったな!」紀美子の心はどん底まで落ち、これはまたとんでもない濡れ衣を着せられた。しかし自分は渡辺翔太と全くそういう関係ではない!紀美子は深呼吸をして、頭を上げ男のその人を食いちぎりそうな目に目線を合わせた
病院にて。森川晋太郎は徹夜で仕事を片付けてから狛村静恵の見舞いに行った。静恵は晋太郎が来ているのを見て、慌ててベッドから起き上がった。「晋さん、お見舞いに来てくれたの?」晋太郎は頷いて淡々と返事した。「寝たままでいい、無理に座るな」晋太郎が近くまで来てくれていないのを見て、静恵の眼底に一抹の失望が漂った。「大丈夫よ、一晩休んだら大分良くなった。昨日はまたご迷惑をかけちゃいました」静恵は少しため息をついた。晋太郎は眉を寄せ、「これからはもう彼女の所に行くな。何を言われるか分からないから。自分をちゃんと守るんだぞ」「晋さんが、心配をしてくれていると理解していいでしょうか」静恵は恥ずかしそうに確認した。晋太郎は暫く黙ってから、「避けた方がいいこともあるんだ」自分が望んでいた返事ではなく、静恵の表情は少し固まった。しかし彼女はすぐに男の疲弊している顔に気づいた。「昨日はちゃんと寝なかったの?」静恵は心配そうに聞いた。「ああ」晋太郎は適当に答えて、「特に問題もないし、俺は先に帰る」静恵は彼の前では物分かりのいいふりをしなければならないので、彼に残ってもらおうとしなかった。心の中に未練があっても言い出せず、「分かったわ。気をつけて帰って」晋太郎が病室から出たあと、静恵の表情が冷めた。一体どうすればあの男の心を掴めるのだろう。彼女はもう2回も気絶のふりをしたのに、男からは少しも心配してくれる気配を感じられなかった。まるで普通の友達同士の間の関心しかないようだった。そう思っているうちに、携帯電話が鳴った。静恵は着信の電話番号を見た途端、顔が真っ白になった。彼女は素早く布団をめくり、病室の入り口まで走り晋太郎が帰ったのを確認してから電話を出た。「静恵ちゃん、最近どうよ?」電話から男の不良のような笑い声が聞こえてきた。静恵は軽く歯を食いしばり、微笑んで甘えた声で「はいはい、今度電話する前にメッセージを先に送ってきて。さっきは彼にバレそうだったのよ」男はへへっと笑ってごまかし、「どうだ、うまく奴を堕とせたか?」静恵「そんなに簡単にできるわけがないじゃない。一歩ずつ順番に進めなきゃ」男は少し間をおき、「あのさ、俺最近金に困ってんだけど、いくらか貸してくんねえか」「私だって金がな
三日連続して、森川晋太郎が仕事から帰ると、松沢初江から入江紀美子が絶食している話を聞いた。前の数日ならまだ我慢できたが、既に三日が経っていた!彼女はそこまで他の男の為に自分の健康を犠牲にしてまで自由を手に入れたいのか?!晋太郎は曇った顔で階段を登り、ボディーガードたちを追い払ってから紀美子の部屋のドアを開けた。うす暗い寝室の中に、パソコンのモニターだけが光っており、ベッドで体を丸めて寝ている女の姿を照らしていた。晋太郎は紀美子に近づき、ふと横目でパソコンの前に置いている2本の薬のビンに気づいた。その薬の瓶を手に取り、ラベルを読んで、晋太郎は眉をきつく寄せた。胃薬を服用していた彼はよく知っている、その2種類の薬は急性の鎮痛剤だった!ビンの蓋を開けてみると、残りは数錠しかなく、彼の顔色は益々厳しくなった。薬を置いて、晋太郎はベッドの近くまで近づき、手で昏睡中の紀美子をすくいあげた。「起きろ!」飢餓で眩暈がしている紀美子は辛うじて目を覚まし、晋太郎のその俊美な顔を見て、てっきり自分が幻覚をみていると思った。彼女は腕を振り払い、「夢の中でも彼が出てきてるんだ」と呟いて再び目を閉じた。その寝言はしっかりと晋太郎の耳に入った。彼は一瞬動きを止め、まだ思考がついて来ていないようだった。紀美子が言っている「彼」は、自分のことなのか?それを思うと、晋太郎の顔色は若干和らげられた。彼はベッドの縁に座り、低い声で「お前はここを出て母親に会いに行きたいか?」と聞いた。1度だけ男の声を聞けば、幻覚だと思うかもしれない。しかし2度も聞いたため、紀美子はそれが幻覚ではないと気づいた。彼女は急に目が覚め、隣に座っている晋太郎を眺めた。紀美子は無意識に体を起こそうとするが、如何せん三日も食事をとっていないので、力が入らなかった。紀美子は唾を飲んで、隣の男を見て驚いた。「いつからいたの?」晋太郎は冷たい目線で、「あと何日かしたら元旦だ、家に死人が出たら困る」と無理やり言い訳を作った。「死んだら適当に埋めればいい。どうせ自由がないなら死んだ方がずっとましだわ」紀美子は訴えた。早く死んだ方が楽だ。残りの半分の言葉は言い出さなかったが、言わないでおく方がいい言葉もある。脳裏に彼女が言っていることを思い浮
狛村静恵は真顔になり、慌てて体を起こして「分かったわ!」と返事した。八瀬大樹は帰った。静恵はシャワーを浴び終え、バスローブを着てから一通の電話をかけた。相手が電話を出てから、静恵は「電話をその2人に渡して」と指示した。電話からドアが開く音がして、すぐに養父の罵声が聞こえてきた。「死ね!私は電話など出るもんか!」「狛村さん、話してください」監視役の人が口を開いた。「お父さんお母さん、暫く電話をしていない間に随分と怒りっぽくなったんだね」「黙れ!こうなると分かっていたら、あの時あなたを連れ戻さなきゃよかった!」養母が静恵に怒鳴った。静恵「そう怒らないでよ、あんたたちが考えた答えが聞きたいの」養父「私は人生の半分以上を誠実に過ごしてきた!こんな明らかな嘘をつくことはできん!答えは変わらん!私たち二人が死ぬまで監禁するがいい!お前の為になんか嘘をつくものか!」静恵はワインを一口舐め、「じゃあ、お母さんは?やっぱり同じことを思ってるの?」「あなたの質問に吐き気がするわ!」静恵は淡々「あらら、もう随分長い間祖父母に会いに戻っていないけど、お二人元気にしてるかなまだ健在してるか、それとも……」「あんた、何をする気?!」養母の声が震えていた。「何もしないわよ。ただ、あんたたちの意見が聞きたくて。そのご老人の二人に元気に残りの人生を過ごしてもらうか、それとも苦痛を与えられながら死んでもらう?」「勝手な真似はよして!!」静恵「いいわよ、お二人に最後に1日考える時間を与える。でも時間が過ぎても返事がないなら、責任をお二人でとってね」言い終えると静恵は電話を切った。静恵は残りのワインを飲み干し、晋太郎が自分にキスするシーンを思い出して、体が熱くなってきた。……翌日。入江紀美子は会社に出勤した。数日来ていない間に、秘書室に沢山の仕事が溜まっていた。紀美子は午前中ずっと仕事を片付けていて、昼ご飯まで忘れていた。森川晋太郎はほかの秘書に指示し二人分の昼ご飯を買ってきてもらった。それを紀美子に渡したときでも、彼女はパソコンのモニターを見つめながらキーボードを叩いていた。晋太郎はいつも彼女の仕事に対する態度を称賛していているので、彼女の仕事の邪魔はしなかった。しかし、この前見たあの2
車はくねくねとした山道を下っていた。佳世子は真っ暗な周囲を見回しながら言った。「紀美子、この山道街灯ひとつないわよ。怖くない?」紀美子は軽く笑った。「大丈夫よ。ボディーガードも同乗してるんだから、何か出てくるわけないでしょ?」佳世子は自分の腕をさすった。「こういう環境苦手なの。空気は確かに美味しいけど、わざわざこんな高い所まで来て休暇を過ごそうなんて思わないわ」紀美子はカバンから子供たちのために準備していたプリンを取り出し、佳世子に手渡した。「このホテル、評判が結構いいし、有名人もたくさん来る場所だよ。嫌だと思ってるのは多分あなただけ。甘いものでも食べて気分を落ち着けて。生理のせいで気分が悪いんじゃない?」佳世子がそれを受け取り、包装を開けて食べようとした瞬間、目の前に白いヘッドライトが飛び込んできた。次の瞬間、対向車が彼らの車の横を疾走し過ぎ去っていった。佳世子はその車を見送りながら呟いた。「こんな夜中の三時とかに、誰が山に上がるのよ……」紀美子は何気なく言った。「日の出を見に来たんでしょう。ここは撮影スポットとしても有名だし」「私なら睡眠時間削ってまで日の出なんて見ないわ。仕事でクタクタなのに」紀美子が笑いかけたその時、まぶたがぴくっと痙攣した。胸の奥を一瞬、不安がかすめた。儚く消え去ったが、それでもどこか気味の悪さを感じずにはいられなかった。紀美子は他のことを考えることなく、運転手に向かって言った。「少しスピードを落として、カーブが多いし、道も暗いから、安全第一で」「わかりました」速度が緩むと、紀美子はようやく少し落ち着いた。20分後、紀美子と佳世子は山のふもとに到着した。佳世子と一緒に生理用ナプキンを買い終わった後、紀美子は急いで山に戻るつもりはなかった。町の携帯電話店が開店するのを待って、そこで携帯を買ってから戻るつもりだった。そして、せっかくの機会なので、地元の朝食を試してみることにした。朝の6時半。紀美子と佳世子は小さな町をひと回りして、ようやく気に入った朝食店を見つけ、腰を下ろした。食事を終え、紀美子は店主に尋ねた。「すみません、この辺りに早く開く携帯電話店ってありますか?」「携帯を買うのか?」店主はお好み焼きを焼きながら言
大河はしばらく考え込んでから口を開いた。「観光シーズンでもないのに満室だなんて…おそらく宿泊客は全て晋太郎の部下では?」悟が頷き、目を伏せた。「その通りだ。奴は我々を待ち伏せるために部下を配置し、自分たちはすでに移動した」「では、今から彼らを探すには紀美子を追跡するしかないでしょうか?」大河が尋ねた。「無駄だ」悟の声にはかすかな諦めが滲んでいた。「彼女の携帯はもう捨てられたはずだ。あのガキ共の能力を甘く見ていたようだ」「では、次はどうしますか?」悟はしばらく考え込んでから言った。「お前ならどこへ行く?」大河は即答した。「できるだけ遠く、安全な場所を選びますね」悟は車窓の外に広がる連なる山々を眺め、再び思考に沈んだ。大河は悟が無言のまま考え込むのを見て、それ以上口を挟むのをやめた。思考中の邪魔は悟の逆鱗だと、大河は身に染みて知っていたのだ。10分も経たぬうちに、悟は淡々と指示を出した。「この民宿を中心に、山の中で環境や設備が優れたホテルを探せ」大河はすぐに調査を開始し、40分後、あるホテルを特定した。星河ホテル――山頂に位置し、広大な敷地を持つ、古風のリゾートホテルだ。悟にホテルの情報を見せると、即座に命じられた。「このホテルの監視カメラをチェックしろ!」大河は素早く星河ホテルのファイアウォールを突破し、宿泊者名簿に佳世子の名前を発見すると、すぐに悟に報告した。これほど長く悟に仕えてきた大河が、悟の知り合いを把握していないはずがないのだ。「星河ホテルへ向かえ」「はい!」……真夜中、紀美子たちは山頂のリゾートに到着した。雲海に浮かぶ山頂から見下ろす街の夜景は、彼らの不安や焦りを少しずつ洗い流していくかのようだった。美しい景色とは裏腹に、便利なものはほとんどない。佳世子は慌てた様子で紀美子を脇に引き寄せた。「紀美子、生理用品持ってる?」紀美子は驚いたように彼女を見た。「持って来なかったの?私は生理が終わったばかりだから持ってないわ」「最悪……」佳世子は泣きそうな顔になった。「持ってくるの忘れてて、もう来ちゃってるみたい。すごい量なの!」「ちょっと待って、ホテルで売ってないか聞いてくる」そう言うと、紀美子は自分の上着を脱
南埠頭のあちらでは、どれほどの血が流れる命懸けの銃撃戦が繰り広げられたことか……佳世子は言葉を呑み込んで、恐る恐る尋ねた。「あの……森川社長、いったいボディーガードは何人いるんですか?」晋太郎は彼女を一瞥して言った。「MKの従業員がどれくらいいるか、知ってる?」「帝都本社だけですか? それともすべての支社を含みますか?」佳世子が聞き返した。「帝都だけでいい」「会社には三千人以上いて……それに、各工場の従業員を加えて」晋太郎は冷静に言った。「その2倍だ」佳世子と紀美子は顔を見合わせた。これまで知っていたボディーガードはせいぜい100人程度だった。まさかこんなに大規模な数を抱えているとは……晋太郎のボディーガード全体の給料だけでも、彼女たちの会社の年収を超えているかもしれない……一方。もうすぐ瀬南に到達する頃に、大河は携帯を見ながら悟に言った。「悟様、あと2時間で瀬南に着きますが、立ち寄り先を探しますか、それともそのまま向かいますか?」悟は携帯を置き、血走った目をあげて言った。「瀬南に入ったら、その民宿の監視カメラをチェックして、周辺の状況を見ろ。急ぐ必要はない。それと、紀美子の位置情報をもう一度追跡しろ」「悟様、彼女の位置情報はファイアウォールで改竄されています。警戒されているはずです。さらに追跡すれば、逆に足跡がつく危険が……」「やれ」悟は冷たく命じた。「調査時間を最小限に抑えろ。痕跡を残すな」「……」大河は黙り込んだ。人手がもう一人いれば楽なんだが……一人でこなすには、さすがに無理がある……「……わかりました、やってみます」悟は視線を窓の外に向け、暗く沈んだ空を見つめた。最後の力を振り絞ってでも、紀美子を連れ出す。すでに全てを失った自分にとって、紀美子だけが生きる支えだ。彼女さえいれば、他に何もいらない――30分後、大河は民宿の防犯カメラ映像を入手した。紀美子の携帯を追跡した時刻まで巻き戻すと…..映像には何の異常もなく、紀美子たちの姿もなかった。実は紀美子たちが出発した際、佑樹がすでに監視カメラを差し替え、削除すべき部分を消していたのだった。大河は監視カメラのデータをタブレットに移し、悟に手渡した。「悟様、監視カメラ
佑樹の命令が下された直後、晋太郎の指示もすぐに続いた。彼は潜伏しているボディーガードの一部を引き連れ、残りにはこの地域の警戒範囲を拡大させるよう指示した。もし悟やその技術者を見つけたら、どんな手段を使っても包囲し、息だけは残せと命じたのだった。指示を終えると、晋太郎は念江を連れて部屋に戻った。ちょうどその時、晴と佳世子も荷物をまとめ、晋太郎の部屋に到着した。リビングで、佳世子は一通り部屋を見回して尋ねた。「紀美子は?」晋太郎は寝室を一瞥して答えた。「まだ休んでいる。佑樹が起こしに行ったはずだ」晴が口を開いた。「晋太郎、いったい何が起こったんだ?俺の心臓がバクバクしちゃってさ」佳世子は晴を横目で見ると、あからさまに白眼を向けた。「男のくせに、私よりビクビクしてんじゃないのよ!」「お前だって脚震えてるぞ!」晴は佳世子の細くて微かに震えている足を指さした。「……」佳世子は言葉に詰まった。こいつ、余計なことばっかり!!晋太郎が簡単に状況を説明し終えた時、紀美子が寝室から現れた。部屋を行き来するボディーガードや、すでに着替えてスーツケースを持った晴と佳世子を見て、紀美子は晋太郎の頑丈な背中に向かって疑問を投げかけた。「何が起こっているの?」さっき佑樹に急かされるように起こされ、何も聞かずに着替えて出てくるように言われたばかりだった。そのため、今も何が起こったのか分からず、なぜここを離れなければならないのか混乱していた。念江は紀美子のそばへ歩み寄り、小さな手で彼女の冷えた指を握りしめた。「ママ、心配しないで。ただ、別の場所に移るだけだよ」紀美子はますます困惑し、眉を寄せた。夜中にわざわざ引っ越すなんて一体どういうこと?何か緊急の事態でもなければ、晋太郎の性格上、この時間に移動するはずがない。佳世子が我慢できずに口を開いた。「紀美子、悟にあなたの携帯の位置が特定されたの」紀美子ははっとした。そういえば、スマホはベッドの枕元に置いていたはずだった。起きた時に探そうとしたが、すでになくなっていた。ボディーガードが持ち出したに違いない。紀美子は晋太郎に尋ねた。「彼らは南埠頭に行ったんじゃないの?あの辺りの状況は良くないの?」彼女が質問したちょうどその時
携帯の提示を見て、二人とも厳しく眉をひそめた。晋太郎は彼らの異変に気づき、腰をかがめて尋ねた。「何かあったのか?」佑樹は晋太郎に答えず、念江に告げた。「念江、今すぐファイアウォールを再構築して。僕はママの部屋に戻る」「わかった」念江は顔を上げず、携帯を操作しながら答えた。佑樹はポケットに携帯をしまいながら、焦った声で晋太郎に訴えた。「パパ、ルームカードを!誰かにママの携帯をここから移動させないと!それと部下に荷物をまとめてここから離れるよう指示して!晴おじさんとおばさんにも連絡して!」息子の焦りを見て、晋太郎は質問せずにさっとカードを渡した。ざあっという衣擦れの音と共に、佑樹は民宿へ飛び込んだ晋太郎はコードを入力し続ける念江と共に後を追った。念江の作業が一段落した時、晋太郎はようやく尋ねることができた。「何があった?」ちょうどその時、晋太郎の携帯が鳴った。電話に出ると、美月の声が聞こえてきた。「社長、悟のボディーガードは全て始末しました。しかし、資料によると、彼にはまだ技術者が一人残っており、悟の現在地は隠蔽されています」晋太郎の目が冷たく光った。「つまり、また逃したと?」美月は答えた。「都江宴の技術班が全市の監視カメラシステムにアクセスし、追跡を開始しております」静寂に包まれた夜の中、念江は美月の言葉をはっきりと聞き取っていた。念江は晋太郎の服の裾を引っ張った。「パパ、美月おばさんと少し話させてくれる?」晋太郎は俯いて念江を見下ろし、軽く頷くと携帯を渡した。念江は電話に出ると、美月に告げた。「美月おばさん、ママの携帯は悟の部下に位置情報を追跡されています。悟の出発地点から瀬南までの沿道の監視カメラを調査してもらえますか?」美月は一瞬戸惑った。「……わかった。でも彼らは今のあなたたちに危害を加える力はないはずよ」「万が一に備えて、僕たちは全員ここを離れる必要があります」念江は背後の民宿を見上げながら言った。「ママとパパを危険にさらすわけにはいきません。悟のような男は、どんな手を使ってくるかわかりませんからね」「確かに、あなたが言う通りね。そうしましょう、じゃあ切るわね」「はい」電話を切った後、念江は携帯を晋太郎に返した。念江の言
傍らで、拳銃をしまい込んだばかりのボディーガードが悟に焦った声で言った。「悟様!どうか撤退命令をお願いします!」彼もまた、現在の状況では撤退する以外の選択肢がないことを分かっていた。悟の目に、めったに見られない焦りの色が浮かんだ。帝都で晋太郎の車を尾行し始めてから、彼は晋太郎の仕掛けた罠に一步一步はまり、危険な状況に自ら飛び込んでいったのだった。生きて帰れるかどうかどころか、無事にこの場を離れることさえ極めて困難な状況だ。悟が黙ったままなので、ボディーガードは続けた。「悟様!もう考える時間はありません!我々が悟様を援護します!」悟がぱっと彼の方に向き直り、怒りを含んだ声で言った。「俺はまだ命令は出していない!」しかしボディーガードはすでにヘッドセットで仲間に指示を出していた。「全員注意、悟様を援護せよ!スモーク投擲まで3秒!3……2……1……」そう言うと、ボディーガードは悟を担ぎ上げた。「申し訳ありません、悟様!」悟側のボディーガードたちがスモークグレネードを投げるのと同時に、このボディーガードは悟を近くに待機していた車まで運んだ。ドアを開けた瞬間、悟は身を寄せていたボディーガードのうめき声をはっきりと聞いた。聞き返そうとした瞬間、彼は車内に放り込まれ、ドアが重く閉められた。車外では、激しい銃撃戦が再開されていた。悟はドアの外で守っていたボディーガードが数発の銃弾を受けるのをはっきりと目にした。耳には、彼の絶叫が響いた。「悟様を逃がせ!急げ!!」悟の目が大きく見開かれる中、目の前のボディーガードだけでなく、撤退を援護していた残りのボディーガードたちも次々と銃弾に倒れていった。瞬く間に、彼が連れてきた部下たちは全員、晋太郎の部下との戦いで命を落とした。車は放たれた矢のように現場から疾走していった。後部座席の男は、虚ろな表情で一点を見つめたまま、長い間現実を受け入れられない様子だった。彼の名は山田大河(やまだ たいが)で、悟の腹心の一人だった。そしてここに連れてきたボディーガードたちは、彼が育て上げた最後の部下たちだった。残りは、すでにクルーズで全員命を落としていた。今は、ハッキング技術を持つ部下の大河と運転手だけが残っていた。二度の戦いで、圧倒的な実力差
「龍介のを試してみたいのか?!」晋太郎は歯の間から絞り出すようにこの言葉を吐いた。「私が?」紀美子は驚きを隠せなかった。「晋太郎!そんなデタラメを言わないで!」晋太郎は嘲るように言った。「佳世子が言った時、君が頷いてたことを忘れたのか?!」紀美子の怒りも爆発した。「盗み聞きしたあなたの方が失礼でしょ!白を黒だと言いくるめて、ないことをあると言い張るなんて、暇すぎるわよ!それに、龍介の話はともかく、友達と世間話ぐらいしてもいいでしょ?男が女を品評するのはいいのに、女が男を分析しちゃいけないの!?」紀美子が一通り発散したことで、晋太郎は瞬く間に怒りを感じた。「つまり、間接的に俺が役立たずだと言いたいんだな?」「そういう意味じゃない!」紀美子は全身を震わせた。「それに、私まだ何も知らないんだから!」この言葉を口にした瞬間、紀美子は後悔した。この発言は、晋太郎に自分の能力を証明させようとしているのと同じでは?晋太郎の唇に冷笑が浮かんだ。「いいだろう……」そう言うと、彼は紀美子の前の布団を払いのけ、彼女を横抱きにした。そして寝室に大股で歩み入ると、紀美子をベッドに放り投げた。晋太郎がネクタイを外すと、紀美子は我に返って慌てて言った。「晋太郎、落ち着いて」「落ち着け?」晋太郎は冷笑した。「君は俺の女だ。他の男の話をしているとき、俺が冷静でいられるわけがないだろ!」その言葉を聞いた紀美子は呆然とした。今、彼女は確信した――彼は間違いなく記憶を取り戻したんだ!強引に唇を奪われた紀美子は、その行為の意味を悟ると、静かに抵抗をやめた。1時間後。激しい情熱が冷めると、紀美子は晋太郎の腕の中で微動だにできないほどぐったりしていた。晋太郎は紀美子の頬に浮かんだ赤みをじっと見つめ、少しかすれた声で尋ねた。「俺の、ちゃんと分かったか?」紀美子は疲れて返事する気力もなかったため、晋太郎はまだわかっていないと誤解した。彼は身を翻すと再び彼女の上に覆い被さり、不機嫌そうに口を開いた。「まだわからないなら、もう一度教えてやる」「もういい!」紀美子はかすれた声で即座に反論した。「疲れたの……もう放っておいて……」晋太郎の唇端に満足げな笑みが浮かんだ。「
メッセージを送信してから1分も経たないうちに、ゆみから電話がかかってきた。念江が口を開く前に、ゆみは電話で叫んだ。「えっ?A国に行くって?何しに行くの?どうして連絡取れなくなるのよ!?」矢継ぎ早の質問は、まるで機関銃のようで、念江はどれから答えればいいかわからなかった。どれを答えても、ゆみはきっと喜ばないだろうから。佑樹は念江が黙っているのを見て、彼の携帯を取り上げた。「A国に行くのは、先生について研修に行くためだ。君と連絡が取れない間は、パパやママとも連絡できない。これはもう決めたことだ。文句を言っても無駄だ!」念江は眉をひそめた。「佑樹、そんな言い方はやめて」「こう言わないと彼女は聞かないだろう?!」佑樹はイライラして言った。「延々と質問攻めにしてくるに決まってる!」「私そんなんじゃないわ!」ゆみの甲高い叫び声が電話から聞こえた。「どうして決めてから言うのよ!」「君だって決めてから言ったじゃないか!ゆみ、僕たちはあんたの選択を尊重した。君も僕たちを尊重しろ!」ゆみは言葉に詰まった。お互いに言い合いが続き、念江は仕方なく言った。「ゆみ、僕たちがこうするのも自分を強くするためなんだ。君も同じだろ?」ゆみは携帯を握りしめ、鼻の奥がツンとした。「会えなくなるなんて想像できない……海外に行くのはいいけど、連絡できないなんて……私、話したいことがいっぱいあるのに……」ゆみの嗚咽が聞こえると、佑樹の胸のあたりが急にぽっかり空いたような気がした。彼は胸の痛みをこらえて言った。「僕たちだって望んでるわけじゃない!選べないこともあるんだ!」その言葉を聞いて、ゆみは泣き出した。「じゃあいつ帰ってくるの?」「決まってない!」佑樹は答えた。「10年かもしれないし、15年かも!」「それじゃあ私たち16歳と21歳よ!」ゆみは泣き叫んだ。「そんなに長く連絡取れないなんて……次会う時はひげぼうぼうかもしれないわね!」「……」二人は言葉を失った。二人の反応が聞こえなくなったゆみは、恐る恐る尋ねた。「……そんなに長い間、本当に連絡できないの?」佑樹は歯を食いしばりながら言った。「わからないって言っただろ!」「わかったわ!」ゆみは涙を荒々しく拭った。
二人は紀美子と佳世子の後ろに歩み寄ったが、彼女たちは後ろに二人の男が立っていることに気づかなかった。佳世子は相変わらず紀美子をからかっていた。「ねえ紀美子、知ってる?鼻が高い男はあの方面も強いらしいわよ!龍介の鼻がすごく高いじゃない!」晋太郎の黒い瞳が紀美子を鋭く見つめた。「そう?」紀美子は考え込みながら言った。「でも晋太郎の鼻も高いわよ」「じゃあサイズはどうなの!?」佳世子は悪戯っぽく追及した。紀美子は困った様子で言葉に詰まった。「私……知らないわ……」晋太郎の表情が目に見えて暗くなった。傍らで晴は必死に笑いをこらえていた。なんと、紀美子は知らないだって!サイズが気に入らないから答えたくないのか!?晴の笑いを含んだ顔に気付いた晋太郎は、歯を食いしばりながら睨みつけた。「晴なんてたった数秒で終わるよ、チッ……」佳世子がぽろりと漏らした。ふと、晴の笑顔が凍りついた。彼は目を見開いて佳世子を見つめ、言い訳しようとした。晋太郎の鼻から微かな嘲笑の息が聞こえ、晴の言葉は途切れた。仕方なく、晴は喉元まで上がってきた言葉を飲み込んだ。何も気づかない佳世子は調子に乗って続けた「紀美子、やっぱり晋太郎がダメなら龍介を試してみなよ!人生、性的な幸せのために一人の男に縛られる必要ないわよ!」紀美子はもうこの話を続けたくなかったので、適当にうなずいた。しかし、その仕草が晋太郎の目には、自分の欲求を満たすために龍介を選ぶつもりだと映った。……そうか。ならばそれでよい!晋太郎は顔を引き締め、無言でその場を離れた。晴も腹を立てながら後を追い、テントへ戻った。バーベキュー中でさえ、晴は怒りを晴らすように鶏の手羽先を串で激しく刺し続けていた。紀美子と佳世子がテントに戻ってきた時、明らかに空気が張り詰めていることに気付いた。二人の男がほぼ同時に彼女たちを睨みつけ、怒りを露わにしていた。ただ、彼女たちにはなぜだかわからなかった。佳世子は仕方なく、隅に座っている子供たちに視線を落とした。彼女は紀美子を引き寄せて一緒に串焼きを食べながら、念江に尋ねた。「念江、彼らはどうしたの?」佳世子は肉を噛みながら聞いた。佳世子は佑樹が本当のことを言わず、逆にからかって