姉が妹より結城理仁のことを信じているのは、それはまあいいのだ。しかし、彼女が小さい頃にこっそりと荒神様に捧げたお神酒を飲むという醜態を話してしまったのだ。結城理仁は内海唯花を見つめていた。その目線に唯花は穴があったら入りたいくらいだった。「お姉ちゃん、それって何年前のことよ。今それを持ち出して話すなんて」しかもそれを結城理仁の目の前で話された。唯月は笑って言った。「あの日あなたはご飯を食べ終わった後、ベッドに横になって一日中寝ていたわ。お酒に弱いのははっきりしているのに、飲むのが好きなんてね。飲んだらまったく起きやしないんだから。結城さん、覚えておいてね。何かお祝い事のある日以外は、この子にお酒を飲ませちゃだめよ」結城理仁は口を閉じてにやりと笑ってそれに返事した。「義姉さん、しっかり覚えておきますよ」唯月が昔の思い出を話し、三人は笑い合った後、この日に起こった辛いことが一気に流されていった。離婚するなら離婚するまでだ。別に大したことではない。地球は別に誰か一人がいなくなっても、止まらずに周り続ける。佐々木俊介と別れても、唯月は今までどおりしっかりと生きていけるのだから。ホテルを出て、唯月は上を仰ぎ暗い夜空を眺めた。そして後ろを振り返り、妹夫婦に呼びかけた。「行きましょう。今日は私が夜食をおごるわ。いえ、朝食ね。私の独身回帰祝いをフライングでしちゃうわよ」この時すでに明け方の五時をまわっていた。内海唯花と結城理仁はお互いに目を合わせ、姉の誘いを受け入れた。三人は朝食を食べに行き、結城理仁が車で義姉を久光崎のマンションまで送った後、妻を連れて帰宅した。家に着いた頃には、太陽がもう昇っていた。「結城さん」結城理仁が彼女を見た時、内海唯花はとても嬉しそうに言った。「結城さん、今日はどうもありがとう」結城理仁は一歩踏み出し内海唯花の前にやって来ると、手を伸ばし彼女の肩に手を置いた。彼女が彼を見上げた時、彼の懐の中に引き込まれ、ぎゅっと抱きしめられた。手を緩め自分から彼女を少し離すと、彼女のほうへ目線を下に向け、優しい声で言った。「俺たちは夫婦だろ。当然のことをしたまでだよ」内海唯花は暫く彼と見つめ合ってから、突然彼の首に手を回し、自分から彼にキスをした。その時の結城理仁は以前のような俺様的な態度で
暫く彼に見つめられて、内海唯花はようやく何かを悟り、彼に探るように尋ねた。「結城さん、あなた、もしかして私に顔を洗ってもらいたいとか考えてるんじゃないよね?」「俺は君を助けるために、こうやって顔を黒く塗ったんだけどな」それはつまり、これを洗い流すのは彼女の役目だということだ。内海唯花は口をぽかんと開けて、何も言えなくなった。彼女はなんだかこの男が少し恥もなく、だだをこねるようになってきたと思った。「わかった、私が洗ってあげるわよ。まったく何が私を助けるために顔を黒く塗ったよ。むしろもうその顔全部黒に塗りたくって、まっくろくろすけにでもなってしまえばいいのよ」内海唯花はそう言いながら、彼を引っ張ってキッチンのほうへ向かっていった。結城理仁は彼女に合わせて二歩進むと、足を止め、眉間にしわを寄せて唯花に尋ねた。「なんでキッチンに行くの?」「キッチンに水道があるじゃないの。あなたの部屋は立ち入り禁止区域だし、私に入るなって言ってたじゃない。キッチンで洗わないなら、一体どこでその顔を洗ってあげればいいの?それか、ここで待ってて。タオルを濡らしてきて拭いてあげる。それで綺麗に落ちないかやってみてもいいわ」結城理仁「……」彼はどうやら自分で運んできた石が、うっかり自分の足に落ちて痛がっているようだ。足の骨まで見事にポキッと折れてしまった。自業自得だ、身から出た錆。少し黙った後、彼は淡々と言った。「俺の部屋の洗面所には普段使っているメンズ用の洗顔フォームがあるから、それでもインクは落とせるだろう」そう言って、彼は自分の部屋のほうに向かっていった。部屋のドアを開けた後、彼は唯花に顔を向けて指示を出した。「早く来て顔を洗うのを手伝って!」内海唯花は「あら」と一言漏らし、部屋のほうへ向かいながら言った。「結城さん、あなたが入れって言ったんだからね。私が勝手に入っていったんじゃないんだから。今後喧嘩した時に、今日のことを持ち出して私を責めたりしないでよ。私はずっと契約に書かれている通りに、約束を守ってやってるんだからね」結城理仁は顔を曇らせ、彼女の前まで近づくと、堪らず彼女の額にデコピンをお見舞いした。「俺と喧嘩するのを望んでいるのか?」「付き合いが長くなれば、どうしたって喧嘩くらいするでしょ。喧嘩をしない夫婦なんてこの世にい
十月の東京は残暑でまだ汗ばむほど暑く、朝夕だけ秋の気配があり涼しさを感じられた。 内海唯花は朝早く起きると姉家族三人に朝食を作り、戸籍謄本を持ってこっそりと家を出た。 「今日から俺たちは生活費にしろ、家や車のローンにしろ、全部半々で負担することにしよう。出費の全部だからな!お前の妹は俺たちの家に住んでるんだから、彼女にも半分出させろよ。一ヵ月四万なんて雀の涙程度の金じゃ、タダで住んで飲み食いしてるのと同じじゃないか」 これは昨夜姉と義兄が喧嘩している時に、内海唯花が聞こえた義兄の放った言葉だった。 彼女は、姉の家から出ていかなければならなかった。 しかし、姉を安心させるためには結婚するのがただ一つの方法だった。 短期間で結婚しようとしても、男友達すらいない彼女は結城おばあさんの申し出に応えることにした。彼女がなんとなく助けたおばあさんが、なかなか結婚できない自分の孫の結城理仁と結婚してほしいと言ってきたのだった。 二十分後、内海唯花は役所の前で車を降りた。 「内海唯花さん」 車から降りるとすぐ、内海唯花は聞きなれた声が自分を呼ぶのが聞こえた。結城おばあさんだ。 「結城おばあさん」 内海唯花は速足で近づいていき、結城おばあさんのすぐ横に立っている背の高い冷たい雰囲気の男の姿が目に入った。おそらく彼が結婚相手である結城理仁なのだろう。 もっと近づき、内海唯花が結城理仁をよく見てみると、思わず驚いてしまった。 結城おばあさんが言うには孫の結城理仁は、もう三十歳なのに、彼女すら作らないから心配しているらしかった。 だから内海唯花は彼がとても不細工な人なのだと勝手に思い込んでいたのだ。 しかも、聞いたところによると、彼はある大企業の幹部役員で、高給取りらしいのだ。 この時初めて彼に会って、自分が誤解していたことに気づいた。 結城理仁は少し冷たい印象を人に与えたが、とてもハンサムだった。結城おばあさんのそばに立ち、浮かない顔をしていたが、それがかえってクールに見えて、人を近づけない雰囲気を醸し出していた。 目線を少しずらしてみると、近くに駐車してある黒い車はホンダの車で、決して何百万もするような高級車ではなかった。それが内海唯花に結城理仁との距離を近づけされてくれた。 彼女は同級生の友人と一緒に公立星城
「もう決めたことですから、後悔なんてしませんよ」 内海唯花も何日も悩んだうえで決断した。一度決めたからには決して後悔などしないのだ。 結城理仁は彼女のその言葉を聞くと、もう何も言わずに自分が用意してきた書類を出して役所の職員の前に置いた。 内海唯花も同じようにした。 こうして二人は迅速に結婚の手続きを終えた。それは十分にも満たない短い時間だった。 内海唯花が結婚の証明書類を受け取った後、結城理仁はズボンのポケットから準備していた鍵を取り出し唯花に手渡して言った。「俺の家はトキワ・フラワーガーデンにある。祖母から君は星城高校の前に書店を開いていると聞いた。俺の家は君の店からそんなに遠くない。バスで十分ほどで着くだろう」 「車の免許を持っているか?持っているなら車を買おう。頭金は俺が出すから、君は毎月ローンを返せばいい。車があれば通勤に便利だろうからな」 「俺は仕事が忙しい。毎日朝早く夜は遅い。出張に行くこともある。君は自分の事は自分でやってくれ、俺のことは気にしなくていい。必要な金は毎月十日の給料日に君に送金するよ」 「それから、面倒事を避けるために、今は結婚したことは誰にも言わないでくれ」 結城理仁は会社で下に命令するのが習慣になっているのだろう。内海唯花の返事を待たず一連の言葉を吐き捨てていった。 内海唯花は姉が自分のために義兄と喧嘩するのをこれ以上見たくないため喜んでスピード結婚を受け入れた。姉を安心させるために彼女は結婚して姉の家から引っ越す必要があったのだ。これからはルームメイトのような関係でこの男と一緒に過ごすだけでいいのだ。 結城理仁が自分から家の鍵を差し出したので、彼女も遠慮なくそれを受け取った。 「車の免許は持ってますけど、今は車を買う必要はないです。毎日電動バイクで通勤していますし、最近新しいバッテリーに交換したばかりです。乗らないともったいないでしょう」 「あの、結城さん、私たち出費の半分を私も負担する必要がありますか?」 姉夫婦とは情がある関係といえども、義兄は出費の半分を出すように要求してきた。いつも姉のほうが苦労していないのに得をしていると思っているのだろう。 子供の世話をし、買い物に行ってご飯を作り、掃除をするのにどれほど時間がかかるか知りもしないだろう。自分でやったことのない男
「おばあちゃん、頼りにしてるよ」 内海唯花は適当に答えた。 結城理仁は血の繋がった孫で、彼女はただの義理の孫娘だ。結城おばあさんがいくら良い人だといっても、夫婦間で喧嘩した時に結城家が彼女の味方になるだろうか。 内海唯花は絶対に信じなかった。 例えば彼女の姉の義父母を例に挙げればわかりやすい。 結婚前、姉の義父母は姉にとても親切で、彼らの娘も嫉妬してしまうほどだった。 しかし、結婚したとたん豹変したのだ。毎回姉夫婦間でいざこざがあった時、姉の義母は決まって姉を妻としての役目を果たしていないと責めていた。 つまり、自分の息子は永遠に内の者で、嫁は永遠に外の者なのだ。 「仕事に行くのでしょうから、おばあちゃんは邪魔しないことにするわね。今夜理仁くんにあなたを迎えに行かせるわ。一緒に晩ご飯を食べましょう」 「おばあちゃん、うちの店は夜遅くに閉店するの。たぶん夜ご飯を食べに行くのはちょっと都合が悪いわ。週末はどうかな?」 週末は学校が休みだ。本屋というのは学校があるからこそやっていけるもので、休みになると全く商売にならなくなる。店を開ける必要がなくなって彼女はようやく時間がとれるのだ。 「それもいいわね」 結城おばあさんは優しく言った。「じゃあ、週末にまたね。いってらっしゃい」 おばあさんは自分から電話を終わらせた。 内海唯花は今すぐ店に行くのではなく、先に親友の牧野明凛にメッセージを送った。彼女は高校生たちが下校する前に店に戻るつもりだった。 人生の一大イベントを終え、彼女は姉に一言伝えてから引越しなければならなかった。 十数分が経った。 内海唯花は姉の家に戻ってきた。 義兄はすでに仕事に行って家にはおらず、姉がベランダで服を干していた。妹が帰ってきたのを見て、心配して尋ねた。「唯花ちゃん、なんでもう帰ってきたの?今日お店開けないの?」 「ちょっと用事があるから後で行くの、陽ちゃんは起きてないの?」 佐々木陽は内海唯花の二歳になったばかりの甥っ子で、まさにやんちゃな年頃だった。 「まだよ、陽が起きてたらこんなに静かなわけないでしょう」 内海唯花は姉が洗濯物を干すのを一緒に手伝い、昨晩の話になった。 「唯花ちゃん、あの人はあなたを追い出したいわけじゃないのよ。彼ストレスが大きいみたい
「お姉ちゃんもさっき言ったでしょ、あれは彼の結婚前の財産であって、私は一円も出していないのよ。不動産権利書に私の名前を加えるなんて無理な話よ。もう言わないでね」 手続きをして、結城理仁が家の鍵を渡してくれたおかげで、彼女はすぐにでも引越しできるのだ。住む場所の問題が解決しただけでも有難い話だ。 彼女は絶対に結城理仁に自分の名前を権利書に加えてほしいなんて言うつもりはなかった。彼がもし自分からそうすると言ってきたら、彼女はそれを断るつもりもなかった。夫婦である以上、一生覚悟を決めて過ごすのだから。 佐々木唯月もああ言ったものの、妹が自分で努力するタイプでお金に貪欲な人ではないことをわかっていた。それでこの問題に関してはもう悩まなかった。一通り姉の尋問が終わった後、内海唯花はやっと姉の家から引っ越すことに成功した。 姉は彼女をトキワ・ガーデンまで送ろうとしたが、ちょうど甥っ子の佐々木陽が目を覚まし泣いて母親を探した。 「お姉ちゃん、早く陽ちゃんの面倒を見てやって。私の荷物はそんなに多くないから、一人でも大丈夫よ」 佐々木唯月は子供にご飯を食べさせたら、昼ご飯の用意もしなくてはいけなかった。夫が昼休みに帰ってきて食事の用意ができていなかったら、彼女に家で何もしていない、食事の用意すらまともにできないと怒るのだ。 だからこう言うしかなかった。「じゃあ、気をつけて行ってね。昼ご飯あなたの旦那さんも一緒に食べに来る?」 「お姉ちゃん、昼は店に戻らなくちゃいけないから遠慮しとくね。夫は仕事が忙しいの、午後は出張に行くって言ってたし、もうちょっと経ってからまたお姉ちゃんに紹介するわね」 内海唯花はそう嘘をついた。 彼女は結城理仁のことを全く知らなかったが、結城おばあさんは彼が忙しいと言っていた。毎日朝早く出て夜遅くに帰ってくる。時には出張に行かなければならず、半月近く帰ってこないそうだ。彼女は彼がいつ時間があるかわからなかった。だから姉に約束したくてもできないのだ。適当に言って信用を裏切るようなことはしたくなかった。 「今日結婚手続きをしたばかりなのに、出張に行くの?」 佐々木唯月は妹の旦那が妹に優しくないのではと思った。 「ただ手続きしただけ、結婚式もあげてないのよ。彼が出張に行くのは仕方ないことよ。なるだけお金を稼いだほうがい
結城理仁は何事もなかったかのように言った。「会議を続けよう」 彼に一番近いところに座っているのは従弟で、結城家の二番目の坊ちゃんである結城辰巳だった。 結城辰巳は近寄ってきて小声で尋ねた。「兄さん、ばあちゃんが話してる内容が聞こえちゃったんだけどさ、兄さん本当に唯花とかいう人と結婚したのか?」 結城理仁は鋭い視線を彼に向けた。 結城辰巳は鼻をこすり、姿勢を正して座り直した。これ以上は聞けないと判断したようだった。 しかし、兄に対してこの上なく同情した。 彼ら結城家は政略結婚で地位を固める必要は全くないのだが、それにしても兄とその嫁は身分が違いすぎるのだ。ただおばあさんが気に入っているので、内海唯花という女性と結婚させられたのだから、兄が甚だ可哀想だ。 結城辰巳は再び強い同情心を兄に送ってやった。 彼自身は長男でなくてよかった。もし長男に生まれていたらそのおばあさんの命の恩人と結婚させられていただろう。 内海唯花はこの事について何も知らなかった。彼女は新居がどこにあるのかはっきりした後、荷物を持って家に到着した。 玄関のドアを開けて家に入ると、部屋が非常に広いことに気づいた。彼女の姉の家よりも大きく、内装もとても豪華なものだった。 荷物を下ろして内海唯花は家の中を見て回った。これはこれからは彼女のものでもあるのだ。 リビングが二つに部屋が四つ、キッチンと浴室トイレが二つ、ベランダも二箇所あった。そのどれもがとても広々とした空間で、内海唯花はこの家は少なくとも200平方メートル以上あるだろうと見積もった。 ただ家具は少なかった。リビングに大きなソファとテーブル、それからワインセラー。四つある部屋のうち二つだけにベッドとクローゼットが置いてあり、残り二つの部屋には何もなかった。 マスタールームはベッドルームとウォーキングクローゼットルーム、書斎、ユニットバスがそれぞれあるのだが、非常に広かった。リビングと張るくらいの広さだ。 この部屋は結城理仁の部屋だろう。 内海唯花はもう一つのベッドが置いてある部屋を選んだ。ベランダがあり、日当たり良好でマスタールームのすぐ隣にある。部屋が別々であれば、お互いにプライベートな空間を保つことができるだろう。 結婚したとはいえ、内海唯花は結城理仁に対して本物の夫婦関係を求め
内海唯花は笑って言った。「あなたの従兄は彼女がいるじゃない。彼を紹介してどうするのよ?結婚手続きはもう終わったんだから、後悔しても遅いでしょ。ただこのことは秘密にしてちょうだい、お姉ちゃんが本当のことを知ったら悲しむから」 牧野明凛「......」 彼女の親友は、とても勇ましい人だ。 「小説の中の女主人公はいつも大金持ちとスピード婚するけど、唯花、あなたの結婚相手もそうなの?」 そう言い終わると、内海唯花は親友をつつき、笑って言った。「うちの店にある小説、あなた何回読んだのよ?夢なんか見ないでよね。そんな簡単に玉の輿に乗れるわけないでしょ。お金持ちがそこらへんに転がってると思ってる?」 牧野明凛は親友につつかれた場所をさすり、彼女が言っていることはその通りだと思った。彼女はかすかにため息をついた後、また尋ねた。「あなたの旦那さんが買った家はどこにあるの?」 「トキワ・フラワーガーデンよ」 「あら、良い場所じゃないの。あそこの環境は良いし、交通も便利だしさ。この店からもそんなに遠くないし。旦那さんはどの会社で働いてるの?東京で家を買えるくらいだし、トキワ・フラワーガーデンはお金持ちが買えるのよ、旦那さんの収入はきっと高いに決まってるわ。毎月のローンはいくら?あなたもローンのお金を出す必要があるの?」 「唯花、もしあなたもローンを払う必要があるなら、不動産権利書にあなたの名前も付け加えなきゃ。じゃないと損しちゃうでしょ。こう言うのはあまり聞こえがよくないけど、もしあなたたちが喧嘩でもして離婚することになったら、その家は彼のものだし、あなたには家の権利がなくなるのよ」 内海唯花は親友の瞳を見つめ言った。「あなたの考えって私の姉とほぼ一緒よね。家は彼が一括で購入したから、ローンを返済する必要ないのよ。私は一円も出してないわ、不動産権利書に私の名前を加えるなんてできないわよ」 牧野明凛は「夫婦間の仲が良いなら、まあ問題はないんだけど」と言った。 内海唯花はふと思い出した。彼女の姉が住んでいる家は義兄が結婚する前に購入したもので、今も毎月ローンの返済をしていた。内装の費用は姉がお金を出したのだが、不動産権利書には姉の名前は書いていなかった。唯花は義兄がいつも姉に金を使うだけで、能力がないと責めていることを思い、心配になった。 日を
暫く彼に見つめられて、内海唯花はようやく何かを悟り、彼に探るように尋ねた。「結城さん、あなた、もしかして私に顔を洗ってもらいたいとか考えてるんじゃないよね?」「俺は君を助けるために、こうやって顔を黒く塗ったんだけどな」それはつまり、これを洗い流すのは彼女の役目だということだ。内海唯花は口をぽかんと開けて、何も言えなくなった。彼女はなんだかこの男が少し恥もなく、だだをこねるようになってきたと思った。「わかった、私が洗ってあげるわよ。まったく何が私を助けるために顔を黒く塗ったよ。むしろもうその顔全部黒に塗りたくって、まっくろくろすけにでもなってしまえばいいのよ」内海唯花はそう言いながら、彼を引っ張ってキッチンのほうへ向かっていった。結城理仁は彼女に合わせて二歩進むと、足を止め、眉間にしわを寄せて唯花に尋ねた。「なんでキッチンに行くの?」「キッチンに水道があるじゃないの。あなたの部屋は立ち入り禁止区域だし、私に入るなって言ってたじゃない。キッチンで洗わないなら、一体どこでその顔を洗ってあげればいいの?それか、ここで待ってて。タオルを濡らしてきて拭いてあげる。それで綺麗に落ちないかやってみてもいいわ」結城理仁「……」彼はどうやら自分で運んできた石が、うっかり自分の足に落ちて痛がっているようだ。足の骨まで見事にポキッと折れてしまった。自業自得だ、身から出た錆。少し黙った後、彼は淡々と言った。「俺の部屋の洗面所には普段使っているメンズ用の洗顔フォームがあるから、それでもインクは落とせるだろう」そう言って、彼は自分の部屋のほうに向かっていった。部屋のドアを開けた後、彼は唯花に顔を向けて指示を出した。「早く来て顔を洗うのを手伝って!」内海唯花は「あら」と一言漏らし、部屋のほうへ向かいながら言った。「結城さん、あなたが入れって言ったんだからね。私が勝手に入っていったんじゃないんだから。今後喧嘩した時に、今日のことを持ち出して私を責めたりしないでよ。私はずっと契約に書かれている通りに、約束を守ってやってるんだからね」結城理仁は顔を曇らせ、彼女の前まで近づくと、堪らず彼女の額にデコピンをお見舞いした。「俺と喧嘩するのを望んでいるのか?」「付き合いが長くなれば、どうしたって喧嘩くらいするでしょ。喧嘩をしない夫婦なんてこの世にい
姉が妹より結城理仁のことを信じているのは、それはまあいいのだ。しかし、彼女が小さい頃にこっそりと荒神様に捧げたお神酒を飲むという醜態を話してしまったのだ。結城理仁は内海唯花を見つめていた。その目線に唯花は穴があったら入りたいくらいだった。「お姉ちゃん、それって何年前のことよ。今それを持ち出して話すなんて」しかもそれを結城理仁の目の前で話された。唯月は笑って言った。「あの日あなたはご飯を食べ終わった後、ベッドに横になって一日中寝ていたわ。お酒に弱いのははっきりしているのに、飲むのが好きなんてね。飲んだらまったく起きやしないんだから。結城さん、覚えておいてね。何かお祝い事のある日以外は、この子にお酒を飲ませちゃだめよ」結城理仁は口を閉じてにやりと笑ってそれに返事した。「義姉さん、しっかり覚えておきますよ」唯月が昔の思い出を話し、三人は笑い合った後、この日に起こった辛いことが一気に流されていった。離婚するなら離婚するまでだ。別に大したことではない。地球は別に誰か一人がいなくなっても、止まらずに周り続ける。佐々木俊介と別れても、唯月は今までどおりしっかりと生きていけるのだから。ホテルを出て、唯月は上を仰ぎ暗い夜空を眺めた。そして後ろを振り返り、妹夫婦に呼びかけた。「行きましょう。今日は私が夜食をおごるわ。いえ、朝食ね。私の独身回帰祝いをフライングでしちゃうわよ」この時すでに明け方の五時をまわっていた。内海唯花と結城理仁はお互いに目を合わせ、姉の誘いを受け入れた。三人は朝食を食べに行き、結城理仁が車で義姉を久光崎のマンションまで送った後、妻を連れて帰宅した。家に着いた頃には、太陽がもう昇っていた。「結城さん」結城理仁が彼女を見た時、内海唯花はとても嬉しそうに言った。「結城さん、今日はどうもありがとう」結城理仁は一歩踏み出し内海唯花の前にやって来ると、手を伸ばし彼女の肩に手を置いた。彼女が彼を見上げた時、彼の懐の中に引き込まれ、ぎゅっと抱きしめられた。手を緩め自分から彼女を少し離すと、彼女のほうへ目線を下に向け、優しい声で言った。「俺たちは夫婦だろ。当然のことをしたまでだよ」内海唯花は暫く彼と見つめ合ってから、突然彼の首に手を回し、自分から彼にキスをした。その時の結城理仁は以前のような俺様的な態度で
この夜以降、彼女はもう二度と佐々木俊介のせいで傷つき、涙を流すことはなくなるだろう。「陽ちゃん」唯月は息子のことを思い出した。そしてその瞬間、緊張が走った。「お姉ちゃん、ベビーシッターの清水さんにお願いして陽ちゃんを見てもらってるわ。陽ちゃんなら朝までぐっすり眠ってるわよ、きっと」佐々木陽はやんちゃな時は本当にやんちゃで、遊び始めると床が彼のおもちゃで埋め尽くされてしまう。しかし、おとなしい時は本当におとなしい。特に夜寝ている時だ。どこか気持ちが悪いところがない限りは夜が明けるまでぐっすりと眠って目を覚ますことはないのだ。唯月はそれを聞いてようやく安心した。「唯花、結城さん、あなた達はどうやってここがわかったの?」息子の心配をする必要がなくなり、唯月は心に余裕ができて思いつきこう尋ねた。内海唯花は少し姉をとがめるように言った。「お姉ちゃん、私たち姉妹でしょ。お父さんとお母さんがいなくなってから、私たちは十五年も助け合って生きてきたじゃない。何か困ったことがあったら相談してた。でも今日は、私を遠ざけようとするなんて、私が安心できると思う?理仁さんの友達があいつの不倫の証拠を集めてくれたでしょ。彼の情報網はとてもすごくて、彼に聞いたらあっという間に佐々木俊介のいる場所がわかったの。それで、私は理仁さんと一緒に急いでここまで来たのよ。お姉ちゃん、これからはどんなことでも、絶対に私に教えてよ、わかった?一人で突っ込んでいくようなことはしないで。私はもう大人よ、あの頃みたいにお姉ちゃんの陰に隠れて守ってもらうような小さな女の子じゃないんだからね」唯月は暫く沈黙した後、言った。「さっきあなたを止めたのは、あいつらがわざと傷害罪だとか主張して、あなたに医療費を賠償金として渡せって言ってくるのが怖かったからよ。いくらあいつらが私にひどいことをしたとしても、あなたまでその中に入って殴ったりしたら、法的にも言い訳ができなくなってしまうかもしれないわ。私があいつらに手を出すのとは意味が違うの。あいつら二人が私にしてはいけないことをしたんだから、あの二人はきっと後ろめたい気持ちになるはずでしょ。私に殴られようが罵られようが、おとなしく黙ってそれを受け入れるしかないわよ。それで私にお金を請求するなんてことできないでしょう。唯花、お姉ちゃんの
唯月は妹に向けて首を横に振って、その行動を制止させた。唯月と佐々木俊介がどう殴り合いをしても、それは夫婦同士の喧嘩で家庭内でのことだ。佐々木家の人間がこの間と同じように彼を家で静養させるだけの話になる。唯月が成瀬莉奈を殴るのは、妻が浮気相手を懲らしめただけで、世間からは唯月はよくやったと思われるだけだろう。成瀬莉奈のほうは心穏やかでなくても、唯月にどうこうすることはない。しかし、妹が手を出すとなるとまた話は違ってくる。妹が佐々木俊介と成瀬莉奈をボコボコにして姉の仕返しをしようとしたら、あの佐々木家のことだから、妹を訴えて医療費を請求してくるはずだ。成瀬莉奈も同じようにすることだろう。唯月は妹が弱みにつけこまれて脅される姿など見たくなかったのだ。唯月は妹をしっかりと引き留め、小さい声で言った。「お姉ちゃんを信じて、自分で解決できるから」妹夫妻が彼女のために、今の状況を録画しておいてくれるだけで十分なのだ。「俊介」唯月は涙を拭い彼に尋ねた。「あんた、本当に私と離婚するつもり?」俊介は強い口調で言った。「そうだよ、俺はお前と離婚する!」「陽はまだ小さいのに、無情にも私と息子を捨てるってこと?」佐々木俊介の瞳には少しのためらいの色もなく、冷たい声で言った。「唯月、先に帰ってろ。俺たち少し落ち着いて、二日後の土曜日になったら、また離婚について話し合おうじゃないか」唯月は悔しそうに歯を食いしばって、成瀬莉奈を睨みつけていた。そこへ佐々木俊介がまた成瀬莉奈の前に立ちはだかった。唯月がまた発狂して彼女に襲いかかるのを警戒してのことだ。「お姉ちゃん、ここは私が……」「唯花、行きましょう!」佐々木唯月は妹を引き留め、あのクズ人間二人をぎろりと睨みつけて言った。「俊介、土曜日の離婚話、忘れるなよ!」言い終わると、彼女は妹を連れて部屋を出ていった。部屋を出てから結城理仁を見ると彼女は小さな声で「全部録画できた?」と尋ねた。彼女がクズ男とアバズレ女に喧嘩を売っている最中、妹の夫が撮影しているのに気がついていた。結城理仁は頷いた。「行きましょう」佐々木唯月は妹の手を引っ張り先頭に立って歩き出し、結城理仁も黙ってそれに続いた。そして、三人はエレベーターに乗った。すると、唯月のさっきの勇猛な様子は消え去
内海唯花はすぐに部屋の中へ突入した。佐々木俊介はすでに我に返り、矢の如く部屋の中へと飛び込んでいった。そして成瀬莉奈の上に馬乗りになっていた唯月を蹴り飛ばした。部屋の中に突入した内海唯花は相当に怒りを爆発させて、彼女も一発蹴りをお見舞いした。空手を習っていた内海唯花は、あの内海陸の不良たちとやり合った時も優勢に立っていた。そんな彼女が唯月を蹴飛ばした佐々木俊介に力いっぱい蹴りを食らわせたのだから、彼も床に倒れ込んでしまった。「お姉ちゃん」内海唯花は姉のところまで行き、彼女を抱き起した。佐々木俊介も素早く床から起き上がり、急いで成瀬莉奈を支えて起き上がらせ、唯月姉妹二人に怒声を浴びせた。「唯月、てめえら何やってんだ?」唯月は成瀬莉奈に殴りかかって息を切らせながら、夫の怒声を聞いていた。そして彼女の怒りはまたふつふつと沸き上がり、彼女も怒鳴り散らした。「俊介、こんなことして許されるとでも思ってんの?私はあんたのために仕事を辞めて、家庭を守り、子供を産み育ててきたのよ。それなのにあんたは私を裏切って、こんなアバズレの泥棒猫なんかと一緒にいたくせに、私に何をしてるか聞くわけ?私は今最低な人間を懲らしめているのよ!」そう言って、彼女はまた突進していった。佐々木俊介は成瀬莉奈の前に立ちはだかり、成瀬莉奈にもう暴力を振るわせないというばかりに、唯月と揉み合った。そして口で罵った。「唯月、もうやめろ!言っておくがな、俺はかなり前からお前のことなんて愛していなかったんだよ。お前に嫌悪感を抱くようになってかなり経つ。今の自分の姿を見てみろよ。醜い所帯染みたババアになりやがって。大学まで出たってのに教養はねえのか、羞恥心はどこへやった!」唯月は怒りで笑いが込み上げてきた。彼女は成瀬莉奈を殴ることができないので、重たい一発を佐々木俊介の顔面に食らわせた。「私のこのおばさんの姿はあんたのせいでしょ。あんたこそ、大学まで行ったのに、恥も知らないわけ?その女も大学まで行って、倫理観や道徳心は学ばなかったの?なんでもかんでも学があるだのなんだのの責任にしてんじゃないわよ。世界中の教養ある人たちを汚すのはやめな」佐々木俊介はビンタを食らって、そのままお返しの一発を繰り出そうとしたが、内海唯花が急いで姉を引っ張り、彼のその手は虚空を切った。「あんた
「こんな遅くに、一体誰だよ?」佐々木俊介はぶつくさと言いながら、機嫌の悪そうな顔をしてドアを開けに行った。彼がドアを開けると、ドアの前に太った人影が見え、彼は驚いてしまった。少し信じられないといった様子だった。唯月が本当にここまで来た!彼女はどうして彼がここにいると知っているのだ?夫婦二人は目を合わせた。佐々木唯月は上半身裸の彼を見て、頭の中で彼らの過去十数年に渡る付き合いを考えていた。なるほど、男が女性を裏切るのはあっという間で、すごく簡単なことなのだな。佐々木俊介は我に返ると、すぐに顔を暗く曇らせ、唯月に詰問を始めた。「なんでここにいる?陽は?こんな夜遅くに家で陽の面倒も見ずに、こんなとこまでやって来て……」「俊介、誰なの?あんなに力強くドアをノックしちゃって」佐々木俊介が唯月を責めている途中に、成瀬莉奈がゆったりと現れた。彼女はパジャマ姿で、髪は適当におろしていた。二人がさっきまで激しく愛し合っていたのか、彼女は見た感じ艶っぽい色気を出していて、首にはその痕がくっきりと残っていた。この状況を見れば、馬鹿でも何があったのかわかるだろう。「この泥棒猫!」佐々木唯月は彼女のふくよかな体で、ドアを塞いで立っていた佐々木俊介を押しのけ、電光石火の如く部屋の中へ押し入ると、瞬く間に成瀬莉奈の前に立ちはだかった。そして、成瀬莉奈のロングヘアを掴んで引っ張った。手を挙げ――パンパンパンッ立て続けに成瀬莉奈の顔に四回ビンタを食らわせた。その動作は速く、本当に一瞬の出来事だった。その行動には少しの躊躇いもなかった。「きゃあぁぁぁぁ――」成瀬莉奈は大声で叫んだ。「夫の世話をすると言っておきながら、この卑しい女、あなたの言ったお世話ってこういう意味のお世話だったのね。夫には私という妻がいるのよ。あんたなんかの世話がいると思う?このアバズレ、殺してやる!」佐々木唯月は怒鳴り声を上げながら、成瀬莉奈を引っ掻き殴った。成瀬莉奈はそれに抵抗しようとしてみたが、佐々木唯月に先手を取られて、彼女のその抵抗など唯月にとっては微々たるものだった。佐々木唯月の力は強い。彼女は成瀬莉奈を床へ押し倒すと、彼女の上に馬乗りになって、また何度もビンタを繰り返した。その音はまるで爆竹を鳴らすかのように、パンパンパンッ
佐々木俊介は成瀬莉奈の耳元で低い声で何かを囁き、彼女は瞬時に満面の笑みになった。彼が機転が利く人間でよかった。この時、成瀬莉奈は安心した。彼女が彼と結婚したら、絶対に幸せな生活を満喫できる。もちろん彼女は自分を守る必要がある。彼と結婚した後、彼の給与が振り込まれる銀行カードを管理しなければ。彼は結婚後は家の不動産権利書に彼女の名前も加えると約束していた。自分の望みは全て実現させてもらう。とりあえず、彼女は絶対に佐々木唯月のような惨めな境地にはなりたくないのだった。「唯月に財産を渡さずに追い出すことは、実はとても簡単なんだ」「どうするの?」佐々木俊介の貯金は大した金額ではないが、できれば一円たりとも唯月に分けたくなかった。唯月に渡さなければ、そのお金は全部成瀬莉奈のものになるのだ。「彼女に財産の分与か陽の親権か、どちらかを選択させれば、あいつは必ず陽のほうを選ぶから、一円も渡さず追い出せるさ」成瀬莉奈はそれをきいてとてもがっかりして彼に言った。「あなた、息子の親権を放棄できるの?あの子は佐々木家で唯一の内孫でしょう。あなたがそうでも、昔の考え方であるご両親は納得しないと思うわよ」佐々木俊介「……陽は俺の子だ。もちろんあきらめたりしないさ」成瀬莉奈は甘えた声で言った。「だったら、なんでさっきみたいなこと言ったのよ」佐々木俊介は彼女にキスをして言った。「俺たちさ、早く……君が妊娠して男の子だったら、俺の父さんも母さんも喜んであいつに陽を渡すよ」この時、彼と成瀬莉奈はまだ体の関係を持ったばかりだった。成瀬莉奈はその後、ピルを買いに行って飲んでいて、そんなに早く子供を作る気がないのははっきりとしていた。今のところ彼には陽という息子だけで、佐々木俊介は一昔前の男尊女卑的な考え方を持っていた。だから、どうであれ、彼も陽を唯月に手渡す気などなかった。陽は生まれつき容姿もよく、聡明で可愛い。彼と成瀬莉奈が結婚して産んだ子供がどんな子供なのかは誰にもわからない。佐々木俊介もそんな危険を冒そうなどと考えてはいなかった。もし、成瀬莉奈が産んだ子供が女の子だったらどうする?だから、陽は絶対に彼のもとにいなければならない!「私が女の子を産んだら嫌だって言うの?」「そんなんじゃないさ。君が産んだ子なら俺は大好きだよ。でも、うちの
成瀬莉奈は佐々木俊介の胸に寄りかかり、甘えた声で言った。「俊介、ごめんなさい。電話に出るべきじゃなかったわ。彼女が何かあなたに急用があるのかと思って、うっかり出ちゃったの」「いいんだ、どうせいつまでも隠し通せることじゃないし、遅かれ早かれあいつには教えることだったんだ。伝えるタイミングを見定めるより、成り行きに任せたっていいや。あいつが疑ってるってんなら、帰って直接、正直に話してくるよ」佐々木俊介が成瀬莉奈を悲しませるような真似をするはずがない。彼の心はだいぶ前から成瀬莉奈に寄っていて、唯月にはまったく愛情の欠片も残っていなかった。しかし、両親と息子のことを考えて、ずっと我慢していたのだ。そうでなければ、唯月のことなどとっくの昔に追い出していたところだ。「俊介、もしあなた達が離婚するなら、あの女があなたの財産を半分持って行くってことになるの?」成瀬莉奈は佐々木俊介の財産の半分を佐々木唯月に持って行かれるのは嫌だったのだ。彼女は唯月には何一つ渡すことなく、裸同然で去って行かせたかった。佐々木唯月が仕事を辞めてから数年、子供もまだ小さく、2歳過ぎだ。彼女がまた職場復帰したくても、恐らくそれは難しいだろう。離婚して何もかも失った後、成瀬莉奈は唯月のどん底に落ちぶれた様子を拝むことができるのだ。もしかしたら、唯月は子供を背中におぶって、街中で乞食になっているかも。佐々木俊介は冷たく笑って言った。「あいつがよこせと言っても、俺が大人しく渡すと思うか?結婚してから、あいつはこの家のために一円だって稼いでないんだ。家は俺が結婚前に買った財産だし、結婚してからも俺がローンを返してきた。だから、あいつにこの家を分けてやることなんかないよ。あいつは家のリフォーム代をちょっと出しただけだ。どのみち俺はそのリフォーム代もあいつに払ってやる気はない。もし欲しいんだったら、内装の壁紙でも剥がして持ってけばいいんじゃね?俺の貯金は……」彼が部長になったのも、ここ二年のことだった。収入は以前と比べて何倍にもなってはいたが、普段の出費も増えている。それによく成瀬莉奈に高価な物を買ってプレゼントしているので、彼は稼いだ分からそんなに貯金していなかった。ただ三百万前後といったところだろう。しかし、彼の副収入のほうは多かった。その副業で稼いだお金は、会社
結城理仁は玄関の鍵をかけた後、内海唯花の手を引き、歩きながら言った。「友達に調べてもらった。君の義兄はマニフィークホテルという神崎グループ傘下のホテルにいるらしい。俺は結城グループで働いていて、この二つの会社は犬猿の仲だから、神崎グループの社員に俺だとばれては困る。それで黒ペンで書いたんだよ。これなら、俺だって気づかれないだろう」内海唯花は彼の顔に描かれた先天母斑を何度も見た。切迫した状況の中で、彼はこのような細かいところにも考えが回るようだ。このように細かいところまで考えが及ぶ人だから、結城グループという大企業でエリートをやれるわけだ。内海唯花は今おばあさんが言っていたことを信じられた。おばあさんは当初、彼女の前で結城理仁のことをべた褒めする時に言っていた。結城理仁はとても細かいところに気がつく人間だと。当然、彼が心から優しくしようと思った時に、彼のその細かい気配りが至る所でお目見えするのだ。「後で帰ってきたら、水と石鹸でしっかり洗ってね」内海唯花は本屋兼文房具店を営んでいるから、皮膚についたペンのインクの落とし方をよくわかっているのだ。正直に言うと結城理仁は帰ってきたら、内海唯花に顔についているインクを落としてもらいたいと思った。その言葉が口元まで来て、彼はまたそれを吞み込んでしまった。そんなことを言う勇気がなくて、口に出せなかった。そんなことではおばあさんから「あんたその口はなんのために付いているのよ?言いたいことははっきり言いなさい!」と言われることだろう。九条悟なんかは「ボス、怖がらずに堂々と口にするんだ!」と言うはずだ。内海唯花夫婦と清水のほうは急いで行動を開始していた。一方、成瀬莉奈のほうはというと、佐々木唯月からの電話を切った後、浴室のドアをノックしに行った。佐々木俊介がドアを開けると、彼女はその中に入っていった。暫くしてから、二人は浴室から出てきた。彼女は佐々木俊介に抱きかかえられて出てきた。その美しい顔には恥じらいの色がにじみ出ていて、バカでも彼らが浴室の中で何をしたのか想像に難くない。キングサイズベッドに横になり、佐々木俊介の胸に抱かれた成瀬莉奈は突然口を開いた。「俊介、言うのを忘れてたけど、さっき奥さんから電話がかかってきて、さっさと家に戻って来いって怒鳴り散らしていたわよ。私が